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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • まち歩き下1487 京の通り・柳馬場通 NO20 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1486京の通り・柳馬場通NO19町名永原町次回の記事⇒1488下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1487京の通り・柳馬場通NO20民家

  • 京都からの話題005 京都の町名 町の読み方は 「ちょう」か「まち」

    町を「まち」とよむ町名ほとんどは「ちょう」と言われていますが、「まち」もあります。市内から調べてみました大宮玄琢北町おおみやげんたくきたまち北区大宮玄琢南町おおみやげんたくみなみまち北区小松原北町こまつばらきたまち北区小松原南町こまつばらみなみまち北区小山西元町こやまにしもとまち北区小山東元町こやまひがしもとまち北区小山元町こやまもとまち北区紫竹上本町しちくかみほんまち北区紫竹下本町しちくしもほんまち北区紫竹西野山東町しちくにしのやまひがしまち北区大将軍西町たいしょうぐんにしまち北区長乗西町ちょうじょうにしまち北区長乗東町ちょうじょうひがしまち北区等持院北町とうじいんきたまち北区等持院中町とうじいんなかまち北区等持院西町とうじいんにしまち北区等持院東町とうじいんひがしまち北区等持院南町とうじいんみなみまち北区姥...京都からの話題005京都の町名町の読み方は「ちょう」か「まち」

  • まち歩き下1486 京の通り・柳馬場通 NO19 町名 永原町

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1485京の通り・柳馬場通NO18仏光寺通上がる次回の記事⇒1487下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1486京の通り・柳馬場通NO19町名永原町

  • まち歩き下1485 京の通り・柳馬場通 NO18 仏光寺通 上がる

    北方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1484京の通り・柳馬場通NO17店・筆屋さん次回の記事⇒1486下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1485京の通り・柳馬場通NO18仏光寺通上がる

  • まち歩き下1484 京の通り・柳馬場通 NO17 店・筆屋さん

    2019年10月30日撮影松楳園2020年に暖簾が新しくなったようです筆の模型が目を惹きます塗料が剥げてきていますまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1484京の通り・柳馬場通NO17地蔵尊町名・万里小路町次回の記事⇒1485下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1484京の通り・柳馬場通NO17店・筆屋さん

  • まち歩き下1484 京の通り・柳馬場通 NO17 地蔵尊 町名・万里小路町

    掲示板の町名万理小路とあるが万里小路の方が正しいのではなんでやろまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1483京の通り・柳馬場通NO16民家次回の記事⇒1485下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1484京の通り・柳馬場通NO17地蔵尊町名・万里小路町

  • まち歩き下1483 京の通り・柳馬場通 NO16 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1482京の通り・柳馬場通NO15高辻通次回の記事⇒1484下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1483京の通り・柳馬場通NO16民家

  • 京都からの話題004 京都の伝統産業

    きもの・帯京友禅江戸時代に、扇絵師の宮崎友禅斎が創案し、あらゆる華麗な模様をきものや帯に染める技術が特徴。筆などを使用して模様を描き染める「手染友禅」と、型紙を使って染める「型友禅」があります。西陣織5・6世紀頃に、渡来人の秦氏が養蚕・織物の技術を伝え、平安遷都以降、上京区を中心に発展。色糸を使用した華やかで美しいものが多く、帯やきものなどに使われています。結婚式や成人式など、人生の節目の儀式や行事にも密に関わる「きもの」茶道や能・狂言、日本舞踊などの文化にとっても不可欠であり、日本の伝統文化を支えています。西陣織会館⇒西陣織会館の着物ショー蚕の社⇒神社右0001蚕の社(かいこのやしろ)重箱・おわん・盆京漆器木地に漆を塗ったもので、平安時代に、中国から伝わった技法を基に、独自の技術を確立。室町時代には茶道ととも...京都からの話題004京都の伝統産業

  • まち歩き下1482 京の通り・柳馬場通 NO15 高辻通

    2019年10月30日撮影北方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1481京の通り・柳馬場通NO14路地。その奥は家がある次回の記事⇒1483下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1482京の通り・柳馬場通NO15高辻通

  • まち歩き下1481 京の通り・柳馬場通 NO14 路地。その奥は家がある

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1480京の通り・柳馬場通NO13京念珠の店次回の記事⇒1482下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1481京の通り・柳馬場通NO14路地。その奥は家がある

  • まち歩き下1480 京の通り・柳馬場通 NO13 京念珠の店

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1479京の通り・柳馬場通NO12店・製菓原料卸仁丹看板次回の記事⇒1481下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1480京の通り・柳馬場通NO13京念珠の店

  • まち歩き下1479 京の通り・柳馬場通 NO12 店・製菓原料卸 仁丹看板

    樋の後ろに仁丹通り名町名看板が見える画像で気が付いた撮影当日は見逃しているまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1478京の通り・柳馬場通NO11松原通次回の記事⇒1480下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1479京の通り・柳馬場通NO12店・製菓原料卸仁丹看板

  • まち歩き下1478 京の通り・柳馬場通 NO11 松原通

    北方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1477京の通り・柳馬場通NO10地蔵尊は半分家の中にある次回の記事⇒1479下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1478京の通り・柳馬場通NO11松原通

  • まち歩き下1477 京の通り・柳馬場通 NO10 地蔵尊は半分家の中にある

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1476京の通り・柳馬場通NO9提灯卸柳瀬江戸末期創業町名・忠庵次回の記事⇒1478下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1477京の通り・柳馬場通NO10地蔵尊は半分家の中にある

  • まち歩き下1476 京の通り・柳馬場通 NO9 提灯卸 柳瀬 江戸末期創業 町名・忠庵

    初代は、江戸時代末期に美濃の国より京都に移り、松原通柳馬場東入ルにて提灯業を興し、後に現在の地に店を構える。昭和3年、昭和天皇の御大典の際に、京都御所での式典に使用する提灯を献上。ホームページより当社の創業は江戸末期でございます。その当時、提灯は「あかり」として使われており、言わば電気店のような存在でした。現在では神社仏閣や祭礼における装飾品としての色合いが濃くなっております。先人より伝えられた匠の技を持つ職人も減少の一途をたどる今、当社では先代の時代より長年提灯を張り続けている職人の技術を継承すべく、若手の職人の養成にも力を注いでおります。日本の大切な文化の1つであるお祭りを、象徴としてではなく人々の生活の一部として、これからも皆様のお役に立てる企業でありたいと願っております。代表取締役六代目栁瀬憲利昔のこの...まち歩き下1476京の通り・柳馬場通NO9提灯卸柳瀬江戸末期創業町名・忠庵

  • まち歩き下1475 京の通り・柳馬場通 NO8 おく井 扇子製造

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1474京の通り・柳馬場通NO7仁丹通り名看板次回の記事⇒1476下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1475京の通り・柳馬場通NO8おく井扇子製造

  • まち歩き下1474 京の通り・柳馬場通 NO7 仁丹通り名看板

    関連記事⇒仁丹町名ホーロー看板下京区版まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1473京の通り・柳馬場通NO6万寿寺通次回の記事⇒1475下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1474京の通り・柳馬場通NO7仁丹通り名看板

  • まち歩き下1473 京の通り・柳馬場通 NO6 万寿寺通

    北方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1456京の通り・柳馬場通No5祠・地蔵尊次回の記事⇒1474下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1473京の通り・柳馬場通NO6万寿寺通

  • まち歩き城陽1472 JR奈良線 女性運転士 時速80㎞

    京都方面行発車しましたすぐに時速50㎞時速60㎞時速80㎞関連記事⇒まち歩き滋賀0308頼もしい女性運転手JR西日本まち歩き西0084頼もしい電車の運転手さんまち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1471旧奈良街道奈島付近次回の記事⇒1473下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1472JR奈良線女性運転士時速80㎞

  • 寺院城陽0767 深広寺 浄土宗

    宝池山と号する浄土宗知恩院の末寺、本堂には阿弥陀如来像を本尊とし、境内の大日堂には大日如来像および11面観音立像を安置する。寺伝によれば、当寺は天正17年(1589)広誉上人無公大和尚によって創建されたとつたえる。上人は藤原氏の出身といわれ、寛永18年(1641)7月106歳にて入寂した。現在の建物は嘉永2年(1849)航誉上人によって再建されたもので、寺宝に大般若経600巻を有する。剪定作業のため5基すべては見られなかった石造宝篋印塔東西に並んで5基ある。いずれも最上部の相輪の先端を欠いている。いずれも鎌倉時代の造彫とみられる。寺伝によれば付近にあった惣墓から移したものといわれる。城陽市に現存する石造美術品としては唯一のものです。寺院前回の記事⇒寺院城陽0766常楽寺浄土宗次回の記事⇒0768下の地図のユーザ...寺院城陽0767深広寺浄土宗

  • 神社城陽0246 賀茂神社

    賀茂神社旧奈島村の産土神。社伝によれば、当社は平安末期の寛治6年(1092)上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神を勧請して祀ったのが起こりと伝えられる。毎年5月5日に行われる競馬にさいしては、村からすぐれた馬を参加出場させ、天覧の競馬に加わった。いまなお20番の第13位を奈島庄の御馬と称する。当社は上賀茂神社の神領地でありその御厨を神格化したのが起こり。本殿、拝殿、社務所、末社恵比須神社、稲荷神社があり、例祭は10月16日、八朔祭は9月1日に行われる。境内に神福寺(真言宗)があったが明治維新後に廃寺となり仏像などは同地の深広寺に移された。参道の石灯籠は室町時代のものである。この形の灯籠は精華町の春日神社にあり、重要美術品に指定されている。神社前回の記事⇒神社城陽0245荒見神社御旅所次回の記事⇒0247下の地図のユ...神社城陽0246賀茂神社

  • 京都からの話題003 伝統建築工匠の技 京都市関係

    伝統建築工匠の技のホームページより3.檜皮葺・杮葺(ひわだぶき・こけらぶき)選定年月日:昭和51年5月4日保存団体名:(公社)全国社寺等屋根工事技術保存会概要:檜皮葺(ひわだぶき)及び柿葺(こけらぶき)の技術は,建造物の屋根葺(ぶき)技術として我が国特有のものである。この技術の発祥は詳(つまび)らかでないが,檜皮葺は8世紀の中ごろに既に用いられており,柿葺は古く発生した板葺(いたぶき)を源流とし,中世の末にはその技法が定着し大成したとみられている。現在,多数の檜皮葺・柿葺の建造物が,重要文化財として保護されており,これらの建造物を保存するためには檜皮葺・柿葺の技術は欠くことのできないものである。一般の建築ではほとんど用いられなくなりつつあり,伝承が困難となっていたが,保存会の取組により技術者の数が回復しつつある...京都からの話題003伝統建築工匠の技京都市関係

  • 道標城陽0315 梨間の宿の碑 三宅の石碑

    延元役梨間の宿の碑是北長池十五丁是南玉水三十丁昭和3年10月禀京都三宅安兵衛遺志建立関連記事⇒関連0022三宅安兵衛石碑その2道標前回の記事⇒道標城陽0314八幡近道の碑三宅石碑次回の記事⇒0316下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0315梨間の宿の碑三宅の石碑

  • まち歩き城陽1471 旧奈良街道 奈島付近

    東方向を見る南方向を見る奈良方面からの列車まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1470木津川堤防上の道次回の記事⇒1472下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1471旧奈良街道奈島付近

  • 蔵のある風景城陽0431回 城陽 西畑地区

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0430回城陽垣内付近次回の記事⇒0432回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0431回城陽西畑地区

  • 寺院城陽0766 常楽寺 浄土宗

    常楽寺浄土宗知恩院に属し、本堂には本尊阿弥陀如来像を安置する。当寺の創建年代は明らかでない。寺伝によると寛永2年(1625)僧貞誉霊極が中興開山となって再興したと伝えられる。それより90年を経て僧霊誉よ至って堂舎が大破したので、享保6年(1721)に復旧された。寺院前回の記事⇒寺院城陽0765正行寺浄土宗次回の記事⇒0767下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0766常楽寺浄土宗

  • 石碑城陽0235 忠魂碑

    昭和3年10月建立関連記事⇒まとめ053関連0011慰霊碑戦没碑石碑前回の記事⇒祠城陽062若王子稲荷石碑城陽0234記念碑次回の記事⇒0236下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑城陽0235忠魂碑

  • 寺院城陽0765 正行寺 浄土宗

    浄土宗知恩院の末寺天文8年(1539)僧向誉正行によって創建されたと伝えられる。明治初年付近の東光寺・西光寺を合併した。本堂には本尊阿弥陀如来立像を安置する。寺院前回の記事⇒寺院城陽0764極楽寺本尊は重要文化財次回の記事⇒0766下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0765正行寺浄土宗

  • 神社城陽0245 荒見神社 御旅所

    神社前回の記事⇒神社城陽0244天満宮社石碑城陽0233記念碑次回の記事⇒0246下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社城陽0245荒見神社御旅所

  • まち歩き城陽1470 木津川堤防上の道

    北方向を見る東方向を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1469近鉄電車富野庄駅近く次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1470木津川堤防上の道

  • まとめ040 重要文化財 ・仏像等

    65十三重塔寺院笠置0727笠置寺十三重石塔・重要文化財五輪石塔4阿弥陀三尊像まち歩き下1445京の通り・富小路通No98寺院下0748長講堂3石棺が重要文化財古墳城陽28久津川車塚古墳2寺院城陽0763浄土宗阿弥陀寺薬師如来像は重要文化財1京都から話題045勝林寺彫刻が重要文化財になる。まとめ040重要文化財・仏像等

  • 寺院城陽0764 極楽寺 本尊は重要文化財

    極楽寺浄土宗慶長15年(1610)僧空円によって再建されたが、正徳2年(1712)9月の木津川堤防決壊によって被害をこうむり、記録を失った。本堂には阿弥陀如来立像を安置し、他に地蔵堂・弁天堂・土蔵・庄屋文次郎碑などがある。阿弥陀如来立像極楽寺の阿弥陀如来立像は、像内から見つかった文書から、阿弥陀如来立像の像内から4種類の古文書が発見された事により、この像が鎌倉時代の代表的な仏師「快慶」が製作にかかわった最後の作品であると推測されます。「法華三十講経御名帳」の「十二日分別功徳品」の項に「過去法眼快慶」と記されており、生没年が不明である快慶の没年を推定する貴重な発見です。鎌倉時代を代表する仏師である快慶が制作を始め、快慶の死後に弟子の行快が1227年に完成させたと考えられています。重要文化財(仏像など)⇒まとめ04...寺院城陽0764極楽寺本尊は重要文化財

  • 京の昔の話題0038 天皇の杜古墳

    2019天皇の杜古墳「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録され、古墳への注目度が上がっていますが、京都市西京区にも同じ時期(4世紀後半)の巨大な前方後円墳が残されています。国の史跡に指定されている「天皇の杜古墳」です。かつては文徳天皇陵との言い伝えがあり、名前の由来となっています。全長83㍍あり、発掘調査によって墳丘の斜面には石が葺かれ、周囲は埴輪列が巡っていたことがわかりました。地域を治めていた豪族のお墓と推定されています。関連記事⇒史跡天皇の杜古墳話題一覧⇒京都からの話題一覧京の昔の話題一覧京の昔の話題0038天皇の杜古墳

  • 祠城陽062 若王子稲荷 石碑城陽0234 記念碑

    記念碑木津川堤防補修本殿遷座昭和37年石碑前回の記事⇒神社城陽0244天満宮社石碑城陽0233記念碑次回の記事⇒0235祠前回の記事⇒祠左061北白川薬師瑠璃光如来次回の記事⇒063下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます祠城陽062若王子稲荷石碑城陽0234記念碑

  • まち歩き城陽1469 近鉄電車 富野庄駅 近く

    左は富野庄駅右は木津川まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1468城陽市の名木枇杷庄のクスノキ次回の記事⇒1471下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1469近鉄電車富野庄駅近く

  • 寺院城陽0763 浄土宗 阿弥陀寺 薬師如来像は重要文化財

    阿弥陀寺本願山と号する浄土宗の寺で知恩院末である。もと地蔵院と号し、専順和尚の開創による真言宗の寺であったが、寛永4年(1627)浄土宗にあらためた。明治12年(1879)付近の光明寺、養松寺、来迎寺と合併し、阿弥陀寺となった。本堂には本尊阿弥陀如来像を安置し、他に地蔵堂がある。木造阿弥陀如来坐像鎌倉時代前期像高86㌢本尊木造薬師如来立像奈良時代~平安時代前期像高95㌢重要文化財もとは枇杷庄天満宮社の神宮寺薬師院の本尊として祀られていたが、明治の神仏分離に際し薬師院は廃寺となり、のち阿弥陀寺へ移された。寺院前回の記事⇒寺院城陽0762仏城山法念寺次回の記事⇒0764下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0763浄土宗阿弥陀寺薬師如来像は重要文化財

  • 神社城陽0244 天満宮社

    天満宮社本殿(江戸時代初期)この天満宮社は旧枇杷庄村の産土神であり、祭神は天満天神(菅原道真公)である。明治6年(1873)村社に列せられ今日に至っている。境内には拝殿、御供所、みこし蔵などがある。現存する棟札によると、本殿は寛永4年(1627)に近村の大工により造営された。近年では昭和35年の木津川の堤防改修で、南の旧地から約30㍍北に移築され、翌年の第二室戸台風による損壊のため、昭和37年に屋根を鉄板葺きに改めるなどの修復が行われた。本殿は側面を二間とする三間社流造で、三間の向拝をもち、木鼻・蟇股・繋海老虹梁など装飾性もある。近世初期における山城地方の神社建築を知る上で、建築年代の明らかな貴重な遺構の1つである。記念碑維持昭和34年9月26日伊勢湾台風により当区頭上木津川堤防決潰寸前の危険に瀕し直に水害対策...神社城陽0244天満宮社

  • まち歩き城陽1468 城陽市の名木 枇杷庄のクスノキ

    富野村江戸時代の寛保2年(1742)5月に、淀藩が木津川の河原で砲術訓練を行った際に藩の人達の宿泊所となり、多くの村人たちが接待に動員されました。淀藩藩主は稲葉正益(まさよし)城陽市の名木枇杷庄のクスノキ関連記事⇒まとめ058城陽市の古木・名木一覧まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1467稲刈り後の田次回の記事⇒1469下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1468城陽市の名木枇杷庄のクスノキ

  • 神社城陽0243 枇杷庄 庚申堂

    枇杷庄庚申堂の由来この庚申堂は、300年余にわたる長い歴史を持つ、元禄2年(1689)、富士山を信仰する当地の修験者が建てた行屋(ぎょうや・ぎょうのための施設)がその起源である。この行屋がいつしか庚申堂と呼ばれるようになり、天満宮社・阿弥陀寺とともに当地域住民の心のよりどころとして厚く信仰されるようになった。庚申とは、60日または60年に一度回ってくる干支のことである。「庚申の日の夜に眠ると三しの虫が体内から抜け出して天に昇り、天帝にその人の日頃の罪過を告げる、すると天帝はその人を殺してしまうので、長生きを願うなら眠らずに起きていよ」という中国の道教の教えがわが国の諸信仰と習合し、その夜は身を慎んで庚申をまつる庚申信仰となった。お堂内には、密教の中心本尊の大日如来像、庚申信仰の本尊である青面金剛尊のほか6体の仏...神社城陽0243枇杷庄庚申堂

  • 蔵のある風景城陽0430回 城陽 垣内 付近

    向こうに見えるのは木津川の土手蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0429回城陽垣内付近次回の記事⇒0431下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0430回城陽垣内付近

  • 寺院城陽0762 仏城山 法念寺

    浄土宗知恩院の直末寺法念寺創建年代は明らかでない。寺伝によると、造東大寺大勧進職、重源上人が、居住したとつたえられる。明治初年、念仏寺、法城寺の焼失により、両寺を合併し、仏城山法念寺と、寺号を改め現在に至っている。本堂には、阿弥陀三尊を安置する。寺院前回の記事⇒寺院城陽0761長光寺次回の記事⇒0763下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0762仏城山法念寺

  • 蔵のある風景城陽0429回 城陽 垣内 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景0428回水主付近次回の記事⇒0430下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0429回城陽垣内付近

  • まち歩き城陽1467 稲刈り後の田

    2019年11月4日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1466新名神高速道路工事中次回の記事⇒1468下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1467稲刈り後の田

  • 神社城陽0242 水主神社 樺井神社 城陽市の名木

    水主神社樺井月神社府社が消されています宮馬場鎮座明治36年11月大正13年2月下馬樺井月神社由緒水主神社の末社の1つとして本殿のそばにある。もと木津川の樺井の渡の守護神として創祀された神社、祭神は月読命または天月神命ともいわれる。延喜の制には大社に列せられ、4度の官幣・祈雨祭の幣にあずかった。また承和12年(845)綴喜・相楽両郡に蟲虫が発生し、牛馬が害せられて病死するものが多かったので、神に占ったところ、樺井月神のたたりであることがわかった。よって朝廷は当社に勅使を派遣して平癒を祈らしめられたところ、悪疫はたちまちやんだという。これにちなんで当社は牛馬の守護神としてあかめられ、毎年2月20日の例祭には牛馬攘疫祭が行われる。当社はもと綴喜郡樺井の地にあったが、木津川の氾濫によって社地をうしない、寛文12年(16...神社城陽0242水主神社樺井神社城陽市の名木

  • 花城陽058 城陽の水主 あぜ道で

    2019年11月4日撮影花前回の記事⇒花城陽057城陽花の名は?次回の記事⇒059下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます花城陽058城陽の水主あぜ道で

  • 蔵のある風景0428回 水主 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0427回長光寺付近の蔵城陽の名木次回の記事⇒0429回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景0428回水主付近

  • まち歩き城陽1466 新名神高速道路 工事中

    2019年11月4日撮影まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1465水度神社御旅所次回の記事⇒1467下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1466新名神高速道路工事中

  • 京都の昔の話題0025 京都所司代の屋敷跡 庭池の遺構

    00252020年6月京都所司代屋敷跡・二条城北庭池遺構に木製地下水路江戸幕府が二条城北側に置いた京都所司代の屋敷跡で、木製の水路「木樋」を備えた庭池の遺構が発見された。池底より深部の地下に、水面の高低差を生かして水を流す「逆サイホンの原理」で導水するように埋め込まれている。江戸時代の京都所司代は関ケ原の戦い(1600年)後、実質的な初代に板倉勝重が任じられ、幕末の1867年に廃止された。朝廷の監視や上方の訴訟処理の役割りを担い、幕府老中に次ぐ格式とされた。庭池の遺構は政庁があった上屋敷跡にあり、17世紀後半以降にでき、明治時代に埋まったとみられる。今回の遺構は、所司代を描いた絵図によると、池を意味する「泉水」の南端に当たる。他に、上屋敷の「塀中門」や馬をつなぐ「馬立所」、弓道場の「射場」も絵図通りに見つかり、...京都の昔の話題0025京都所司代の屋敷跡庭池の遺構

  • まち歩き城陽1465 水度神社 御旅所

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1464JRみやこ路快速奈良行き次回の記事⇒1466下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1465水度神社御旅所

  • 蔵のある風景城陽0427回 長光寺付近の蔵 城陽の名木

    城陽市の名木⇒まとめ058城陽市の古木・名木一覧蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0426回寺田地区の蔵次回の記事⇒0428回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0427回長光寺付近の蔵城陽の名木

  • 寺院城陽0761 長光寺

    木造天部形立像平安時代中期・10世紀一木像彫眼像高127.5㌢穏やかで丸顔の相好をもつ像で、寺では「観音さん」と呼ばれています。吉祥天に似た天部像ですが、左手には吉祥天のもつ宝珠ではなく、未敷蓮華(蓮の花の蕾)を持っています。吉祥天は奈良時代、福徳をつかさどる女神として厚く信仰され、五穀豊穣・天下安穏を祈る吉祥悔過会の本尊としてまつられていました。この像は桧材で作られ、頭には宝冠を戴き、法衣は深くはありませんが、鎬立った彫りの様子がうかがれます。また、内ぐり(乾燥によるひび割れを防いだり、重さを減らすために内部をけずる事)のない一木造で、下半身の奥行きは深く、重厚な感じがあります。また、天保6年の文書の中に、この像は享保年間の木津川大洪水で隣村の富野村領の堤が切れた時、寺田村山川堤に流れ着いた像であると記されて...寺院城陽0761長光寺

  • 京都の昔の話題 まとめ

    4321法金剛院の木造阿弥陀如来坐像国宝になる京都の昔の話題まとめ

  • 京都からの話題002 法金剛院の木造阿弥陀如来坐像 国宝になる

    2020年3月この本尊は創建時から西御堂に安置されていた。像高2.3㍍、寄木造り、漆箔、定印をむすび、透かし彫りの飛天光背を負い、八角九重の蓮華座上に結跏趺坐する。円満な顔容は、定朝様の流れをくむ格調高い藤原仏。衣文は形式的にやや硬い。その面相姿から鎌倉に近い様式は、承安元年(1171)供養の東御堂の阿弥陀像とする説の生まれる所以である。台座の蓮弁以下の各部には精巧な宝相華文がきざまれ、浄土の花の夢幻的な気分をよく表している。法金剛院の記事⇒寺院右0021法金剛院律宗花の寺京都の昔の話題⇒京都からの話題002法金剛院の木造阿弥陀如来坐像国宝になる

  • 蔵のある風景城陽0426回 寺田地区の蔵

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0425回寺田小学校付近次回の記事⇒0427回蔵のある風景城陽0426回寺田地区の蔵

  • まち歩き城陽1464 JR みやこ路快速 奈良行き

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1463寺田小学校の二宮尊徳像次回の記事⇒1465下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1464JRみやこ路快速奈良行き

  • 蔵のある風景城陽0425回 寺田小学校 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0424回水度神社表参道付近次回の記事⇒0426回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0425回寺田小学校付近

  • まち歩き城陽1463 寺田小学校の二宮尊徳像

    関連記事⇒まとめ030二宮尊徳像まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1462城陽市の名木寺田小学校のクスノキ次回の記事⇒1464下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1463寺田小学校の二宮尊徳像

  • 京都から昔の話題 まとめ

    54321勝林寺彫刻が重要文化財になる。京都から昔の話題まとめ

  • 京都から話題045 勝林寺 彫刻が重要文化財になる。

    平成20年3月彫刻木造観音菩薩立像重要文化財に平安前期のカヤ材を用いた一木造の優品、頬の締まった顔立ちや衣のひだの鋭い彫は、9世紀前半の特色を示す。抑揚に富んだ肉付けと腰を強くひねった構えにはこの時期ならではのインド風が濃厚に漂う。勝林寺の記事へ⇒寺院下0282勝光寺日蓮宗京都から話題045勝林寺彫刻が重要文化財になる。

  • まとめ058 城陽市の古木・名木 一覧

    城陽市のホームページより城陽市の名木・古木一覧認定番号樹木の名称樹種樹高幹周樹木の所在地樹木の解説1上津屋(コウヅヤ)渡し場のエノキエノキ16m3.5m※1上津屋野上3-2(北村邸の宅地内)木津川に橋が架かっていなかった頃、上津屋の渡し場の目印とされていた木。2御拝茶屋(オガミチャヤ)八幡宮のエノキエノキ20m2.2m平川茶屋裏46(御拝茶屋八幡宮の境内)旧街道の要衝の地にあり、往時は京都から奈良への旅人が、石清水八幡宮をここから遥拝したとされる御拝茶屋八幡宮に成育する大木。4平井神社のケヤキケヤキ20m2.2m平川東垣外78-1(平井神社の境内)近鉄久津川駅の玄関口に成育し、ケヤキ特有の樹姿をしており、容姿端麗な木。8大谷の千本立ちエノキエノキ15m4.7m※2寺田大谷123-920(東城陽ふれあいスポーツ広...まとめ058城陽市の古木・名木一覧

  • まち歩き城陽1462 城陽市の名木 寺田小学校のクスノキ

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1461城陽市内足元案内プレート板次回の記事⇒1463下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1462城陽市の名木寺田小学校のクスノキ

  • 蔵のある風景城陽0424回 水度神社表参道 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0423回城陽寺田付近次回の記事⇒0425回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0424回水度神社表参道付近

  • 神社城陽0241 水度神社 第1鳥居 寺田村・道路元標

    府社水度神社道路元標の形をしています。寺田村道路元標と書かれていました長い表参道の始まり明治40年8月建立神社前回の記事⇒神社城陽0240平井神社次回の記事⇒0242道路元標⇒まとめ048関連0005道路元標下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます神社城陽0241水度神社第1鳥居寺田村・道路元標

  • 石仏城陽046 石仏 たくさん集められています

    石仏前回の記事⇒石仏長岡京045江戸時代末期の信仰の様子六地蔵と十王像次回の記事⇒047下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石仏城陽046石仏たくさん集められています

  • 寺院城陽0760 要乗寺 本門佛立宗

    寺院前回の記事⇒寺院城陽0759高岳寺浄土宗鎮西派報恩寺次回の記事⇒0761下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0760要乗寺本門佛立宗

  • 石碑城陽0232 忠魂碑 その他

    忠魂碑大正8年3月建立何と書いてあるのでしょう昭和29年建立寺田忠魂碑再・・維新開国50年・・と書いてある大正8年3月建立忠魂碑と同じ時に建立されている。まとめ⇒まとめ053関連0011慰霊碑戦没碑石碑前回の記事⇒石碑左0231天皇皇后両陛下行幸啓記念碑次回の記事⇒20233下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます石碑城陽0232忠魂碑その他

  • 道標城陽0314 八幡近道の碑 三宅石碑

    八幡近道木津川渡船場是西二十五丁昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立石清水八幡宮三里関連記事⇒関連0022三宅安兵衛石碑その2道標前回の記事⇒道標城陽0313左うじみち次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標城陽0314八幡近道の碑三宅石碑

  • 蔵のある風景城陽0423回 城陽 寺田付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0422回三縁寺付近次回の記事⇒蔵のある風景城陽0423回城陽寺田付近

  • 寺院城陽0759 高岳寺 浄土宗鎮西派報恩寺

    高岳寺歓喜院顕照山と号する。浄土宗鎮西派報恩寺末の寺で、天正12年(1584)天誉誓念上人が豊臣家臣堀吉田之助なるものの帰依によって再興したといわれ、古くは歓喜院と号した。現在の本堂は明治44年(1911)中興大誉音徹上人によって再建されたもので、堂内には本尊阿弥陀如来像を安置する。他に地蔵堂や庫裡がある。京都府下最古の学校建築物顕照山高岳寺元本堂跡高岳寺元本堂は、明治42年(1909)10月4日、京都市の旧成徳小学校講堂を移築されたものです。この講堂は、明治8年(1875)12月に建築された、現存する京都府最古の学校建築物であり、また、本堂向拝(学校玄関)は、明治初期の「擬洋風」の建築様式を今に伝える貴重な建築物です。平成18年(2006)12月、本堂改築に当たり、光背が京都市学校歴史博物館玄関として移築保存...寺院城陽0759高岳寺浄土宗鎮西派報恩寺

  • 蔵のある風景城陽0422回 三縁寺 付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0421回城陽寺田付近次回の記事⇒0423回蔵のある風景城陽0422回三縁寺付近

  • 寺院城陽0758 三縁寺 浄土宗

    三縁寺は仏光山と号し、浄土宗百万遍知恩寺派の寺で、室町時代中期の明応6年(1497)顕誉上人の創建と伝える。本堂の南正面にあるこの門は、明治18年(1884)に京都建仁寺の護国院(開山堂・霊屋ともいう)の表門を明治になって移築したもので享和元年(1801)の棟札がある。当初の建造時期は安土桃山時代と推定される。この大門の様式は一間一戸向唐門で、旧杮葺きでふったのが現在桟瓦葺に改められている以外は、大きな改造を加えることなく元の形式を伝えている。この向唐門は本格的な造りになるもので、唐風のゆるやかな勾配をもつ屋根の曲線はのびやかで美しく、城陽市における貴重な遺構の1つである。本堂(江戸時代)五間六面、入母屋造り、桟瓦葺、元禄15年(1702)の失火後、享和元年に再建したと伝え、本尊阿弥陀如来像(室町時代)を安置す...寺院城陽0758三縁寺浄土宗

  • 京都からの話題0039 新型コロナウィルスの感染拡大での初詣

    2021.1.4新型コロナウィルスの感染拡大での初詣。平安神宮では、参拝者の数は少なかった。話題一覧⇒京都からの話題一覧京の昔の話題一覧京都からの話題0039新型コロナウィルスの感染拡大での初詣

  • 蔵のある風景城陽0421回 城陽 寺田付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0420回次回の記事⇒0422蔵のある風景城陽0421回城陽寺田付近

  • 寺院城陽0757 阿弥陀寺 地蔵堂

    念仏寺功徳院と号し、天文21年(1552)然誉知覚上人によって再興されたといい、浄土宗平等院に属する。本堂に安置する本尊阿弥陀如来像は三縁寺の阿弥陀像と同じ形のもので、高さ80㎝、白木造り、来迎印で衣文の彫りも鮮明な像です。鎌倉時代後期の作とみられる。本堂と表門は文政12年(1829)頃の再建とみられ、華やかな蟇股や彫り物が多く、凝った造りをしている。地蔵堂には、地蔵菩薩坐像があり、高さ1.38m、寄木造り、彫眼、右手に錫杖、左手に宝珠をささげて結跏趺坐する。定朝様に属する特色がある。平安時代末期の半丈六の地蔵像。寺院前回の記事⇒寺院城陽40756弘願寺次回の記事⇒0758下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0757阿弥陀寺地蔵堂

  • 寺院城陽40756 弘願寺

    弘願寺浄土宗鎮西派報恩寺に属する。寺伝によれば、天正5年(1577)僧天誉誓念によって再興されたとつたえられる。今の建物は寛政13年(1801)の火災後、文化11年(1814)の再建によるもので、本堂内には本尊阿弥陀如来像を安置する。他に地蔵堂・庫裡・薬医門などがある。寺院前回の記事⇒寺院城陽0755来迎寺次回の記事⇒0757下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽40756弘願寺

  • 蔵のある風景城陽0420回

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0419回城陽市役所近く次回の記事⇒421回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0420回

  • 蔵のある風景城陽0419回 城陽市役所 近く

    蔵のある風景城陽前回の記事⇒蔵のある風景城陽0417回城陽万福寺付近次回の記事⇒0420回下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景城陽0419回城陽市役所近く

  • 寺院城陽0755 来迎寺

    浄土宗知恩院に属する。阿弥陀如来を本尊とする。寺伝によると江戸初期の慶安2年(1649)女二宮昭子内親皇の寄進によって再建されたといい、由緒は明らかでない。寺院前回の記事⇒寺院城陽0755万福寺西山浄土宗次回の記事⇒0756下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0755来迎寺

  • 蔵のある風景城陽0417回 城陽 万福寺付近

    蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景城陽0416回城陽平川地区次回の記事⇒0418回蔵のある風景城陽0417回城陽万福寺付近

  • 臨時

    【京博トラりん公式】「トラりんチャンネル展覧会14」特別展「聖地をたずねて」を見に行くリン♪-YouTube臨時

  • 寺院城陽0755 万福寺 西山浄土宗

    万福寺宝国山と号し、西山浄土宗の寺。創建年代は明らかでない。寺伝によると禅僧殊峰上人の開祖、心徹和尚の再興と伝え、元禄年間(1688~1704)の火災後に再建された本堂には、本尊阿弥陀如来像を安置する。伝毘沙門店半跏像(平安時代)本堂内にあり、もと久世神社の神宮寺(若王子)の遺仏と伝わる。高さ71㎝、一木彫成の白木造りで、檀像風の像である。頭部に3面の宝冠をいただき、身に冑を着て岩座(後補)の上に半跏座に座し、左手に矛、右手はひじを曲げ、両眼を大きく見開き、異様な口元をした忿怒相である。平安時代後期の作とみとめられ、寺伝では毘沙門天像といわれるが、神像と見られる。11面観音坐像(鎌倉時代)久世神社の神宮寺の遺仏とつたえる。木像、高さ59㎝、右手に数珠、左手に蓮華を入れた水瓶をもち、岩座上に座す白木の像で、顔容は...寺院城陽0755万福寺西山浄土宗

  • 古墳城陽29 丸塚古墳

    丸塚古墳丸塚古墳は、前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳で、周囲には周濠がめぐります。墳丘の長さは80mで、周濠を含めた全長は104mあります。後円部の直径は63mあり、高さは東側で8.3m、西側で9.6mあります。後円部は2段に築かれていると考えられており、墳丘斜面には葺石が施され、1段目平坦面には埴輪列がめぐっています。前方部の長さは17mあり、幅は前端で32m、クビレ部で26.5mあり、高さは約2mあります。前方部は1段に築かれ、墳丘斜面には葺石が施されています。周濠は墳丘と相似形で、幅が16mあります。また、周濠の上縁から1.8m外側には約6.6m間隔で円筒埴輪が据えられています。この埴輪列にわり、古墳の範囲(墓域)を区画していると考えられます。埋葬施設については未調査のため明らかではありません。墳丘か...古墳城陽29丸塚古墳

  • 京都からの話題0038 北野天満宮で2日、新春の書初め「天満書」

    2021.1.4北野天満宮で2日、新春の書初め「天満書」があった。天満書は学問と書道の神様として祭られる菅原道真にあやかろうと毎年催される。例年は無制限だった時間を一人15分に設定。枚数も最大3枚までとした。天満書きは4日まで、奉納された書初めは絵馬所で20~30日の間展示される。北野天満宮⇒石碑上0153松永伍作碑明治時代の蚕業教育家話題一覧⇒京都からの話題一覧京の昔の話題一覧京都からの話題0038北野天満宮で2日、新春の書初め「天満書」

  • 古墳城陽28 久津川 車塚古墳

    国指定史跡久津川車塚古墳久津川車塚古墳は南北に主軸をもつ前方後円墳で、3段に築かれた墳丘の長さは約180mあります。周囲には盾形の周濠が二重にめぐらされており、周濠を含めた全長は272mあり、最大幅は約209mあります。久津川車塚古墳は、大谷川により形成された扇状地のほぼ中央に築造されています。久津川車塚古墳、梶塚古墳、芭蕉塚古墳、青塚古墳、箱塚古墳、指月塚古墳、丸塚古墳がそれにあたります。現在は、国指定史跡の久津川車塚古墳と丸塚古墳、城陽市指定文化財の芭蕉塚古墳の他に、青塚古墳の一部が現存しています。宇治市南部から城陽市北半部にかけての丘陵上や平地には、多くの古墳が築造されており、これらの古墳を総称して久津川古墳群と呼んでいます。久津川古墳群は、広い範囲に古墳時代前期から後期にかけて築造された多くの古墳があり...古墳城陽28久津川車塚古墳

  • 花城陽057 城陽 花の名は?

    野草です野草前回の記事⇒花左056植物園アキノキリンソウ次回の記事⇒058花城陽057城陽花の名は?

  • まち歩き城陽1461 城陽市内 足元案内プレート板

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1460近鉄電車久津川駅踏切橿原神宮駅行急行次回の記事⇒1461まち歩き城陽1461城陽市内足元案内プレート板

  • まち歩き城陽1460 近鉄電車 久津川駅踏切 橿原神宮駅行 急行

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き城陽1459近都・久津川駅前城陽散策案内図次回の記事⇒1461下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1460近鉄電車久津川駅踏切橿原神宮駅行急行

  • まち歩き城陽1459 近都・久津川駅前 城陽散策案内図

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き宇治1458道にはみ出していない自販機次回の記事⇒1560下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き城陽1459近都・久津川駅前城陽散策案内図

  • 寺院城陽0754 蓮開寺

    蓮開寺境内の一画にある宮寺、蓮開寺には大般若経六百巻がおさめられている。城陽市内で唯一の神宮寺です。2月15日の春祭りでは江戸時代に寄進された大般若経全6百巻を転読し、村の安全を祈願する行事がおこなわれています。この寺の創建年代は明らかではありませんが、享保18年(1733)には既に存在しており、長い歴史をもつことが伺えます。蓮開寺は江戸時代には氏神社に付属した真言宗の寺で、宮寺とも呼ばれ、平川村の祈願所でもありました。この寺の僧侶が、氏神社の管理人的役割も果たしていたようです。当時は、神と仏を厳密に区別しない神仏習合という考え方が一般的でした。明治維新にともなう神仏分離により、全国各神社の宮寺は廃止され僧侶も不在となりました。しかし、ここ平川ではいまなお地区全体でこの蓮開寺を守り続けています。蓮開寺春まつり【...寺院城陽0754蓮開寺

  • 京の昔の話題0024 平安前期 藤原良相邸跡 発掘調査

    2020.6.24平安時代前期の貴族・藤原良相(よしみ)の邸宅「西三条第」の発掘調査で、9世紀後半の池跡や遺跡が見つかった。池跡は天皇離宮の園地に次ぐ広さを誇り、池につながる遺跡は浄水機能を備え、眺めを楽しむ遣水(やりみず)の原初形態を示している。「寝殿造」につながる重要な遺構。池跡東西7㍍、南北15㍍、深さ40㌢。岸には幅2.7㍍に礫を敷き詰めた洲浜を設けている。溝跡長さ20㍍、幅1.2㍍は水路の幅を1.6㍍に広げた上、土手のような盛り上がりを通過させることで汚泥を沈め、上澄みの水のみを流すよう工夫されていた。ほかにも掘立柱建物が1棟ずつあった。池は10世紀中頃に廃絶し、ほかは先んじて埋められていた。良相は藤原氏による摂関政治の基礎を築いた摂政・良房の弟で、自らも右大臣になった。邸宅の西三条第は866年に清和...京の昔の話題0024平安前期藤原良相邸跡発掘調査

  • 京の昔の話題0023 火焔太鼓の状態は 各宗派

    2020.6.26下京区の仏光寺(真宗仏光寺派本山)に明治時代から伝わる鼉太鼓(だだいこ・火焔太鼓)が解体され収蔵庫に収められたままの状態が続いている。1911年(明治44)の宗祖650回忌の際に舞楽台とともに新調された。高さ約8m、幅3m、奥行き3mの巨大な太鼓で刻まれた文様から火焔太鼓とも呼ばれる。真宗大谷派では上部の飾りを外した状態で東本願寺視聴覚ホールに常設展示している。浄土宗総本山・知恩院では解体されたまま保管されている。浄土真宗本願寺派では東京の築地本願寺に譲渡された後、行方知れず。仏光寺派では2011年の宗祖750回忌遠忌法要で御影堂前に舞楽台を設置した時に鼉太鼓も組み立てられた。現在は修理が必要な状態。3年後の立教開宗800年を前に展示を計画中。関連記事⇒寺院下0024仏光寺街中にあっても静か画...京の昔の話題0023火焔太鼓の状態は各宗派

  • 昔の京の話題0022 1949年に開業した宝ヶ池競輪場に反対の声が上がる。

    1950.12.11949年に開業した宝ヶ池競輪場に反対の声が上がる。やがて当時の高山義三市長が「競輪は家庭生活を破壊する」と表明し、1958年に閉鎖。後に宝ヶ池公園の「子どもの楽園」に生まれ変わった。園内に長らく観覧席が残され、休憩スペースとして親しまれていたが、半世紀後の再整備で取り壊された。関連記事⇒京の昔の話題一覧京都からの話題一覧昔の京の話題00221949年に開業した宝ヶ池競輪場に反対の声が上がる。

  • 神社城陽0240 平井神社

    平井神社京都府登録文化財旧平川村の産土神、当初は、牛頭天王社と称したが、明治2年(1869)に平井神社と改められた。また、当社は以前古宮(平川廃寺跡)にあったが、火災で焼失後、現在地に移されたと伝えられている。境内南面の鳥居は、その当時のものといわれる。境内の一画にある宮寺、蓮開寺には大般若経六百巻がおさめられている。拝殿、社務所がある。例祭は毎年10月9日におこなわれる。境内北方に接するところを室城といい、当社は式内室城神社にあてる説があるがあきらかでない。1月1日元旦祭2月15日春祭り(蓮開寺で)10月おいで祭10月例祭12月15日お火焚祭平井神社石造明神鳥居この鳥居の右側の柱には、「牛頭天王鳥居奉再興山城久世郡平川郷」と刻まれ、左側の柱には、貞享2年(1685)造立の銘が刻まれている。時代の明らかに古い明...神社城陽0240平井神社

  • 京の昔の話題0020 与謝野・加悦加悦SL広場3月閉園

    2020.7.1与謝野・加悦加悦SL広場3月閉園京都府与謝野町は、3月末で閉園した加悦SL広場の展示車両27両のうち、国の重要文化財「123号蒸気機関車」なと3両を加悦鉄道資料館で保存することを決めた。ほか2両は、明治時代に製造・輸入された客車「ハ4995」と「ハブ3」。また、旧加悦鉄道を走った気動車「キハ101」など3両はNPO法人「加悦鐵道保存会」が譲り受け、与謝野駅裏の町有地での動態保存を目指す。関連記事⇒京の昔の話題一覧京都からの話題一覧京の昔の話題0020与謝野・加悦加悦SL広場3月閉園

  • 京の昔の話題0021 城陽梅酒づくり 6月22日に始まる

    2020年の話題城陽梅酒づくりピーク城陽市特産品種の梅「城州白」を使った梅酒造りが、城陽市奈島の城陽酒造でピークを迎えている。黄色や紅色に熟した実を漬け込む作業が進み、蔵は甘酸っぱい香りに包まれている。漬け込み作業は6月22日に始まった。今年は(2020年)は大粒で香り高く、品質は良い。10トンの実を使って、約2万5千リットルの梅酒を作る見込み。完熟した実を400キログラムずつネットに詰め、液糖と醸造アルコールで満たした仕込みタンクに漬けていく。この作業は7月上旬まで続き、来年春に梅を取り出し、3年以上かけて熟成させて出荷する。関連記事⇒まち歩き城陽1124JR山城青谷駅昔の話題検索⇒京の昔の話題一覧京都からの話題一覧京の昔の話題0021城陽梅酒づくり6月22日に始まる

  • 京都からの話題0037 京の年越しの風物詩「おけら詣り」が31日八坂神社であった

    2020.12.31京の年越しの風物詩「おけら詣り」が31日八坂神社であった。御神火から縄に移した火を持ち帰り、新年の疫病退散を願った。薬草のオケラを燃やして邪気を払う伝統行事。参拝者は持ち帰った火で雑煮を炊いたり、縄を神棚に供えたりして、新年の無病息災や心願成就を祈る。今年は、参拝者がすれ違わないように一方通行とし、露天の営業も取りやめた。人出は例年の10分の1程度。午後7時過ぎ、神職が境内3ケ所に設けられた灯籠に火をともすと、くべられた木札が炎を上げた。関連記事⇒まち歩き東0539二軒茶屋中村楼昔の風景関連記事⇒京都からの話題一覧京の昔の話題一覧京都からの話題0037京の年越しの風物詩「おけら詣り」が31日八坂神社であった

  • 京都からの話題0035 雪化粧した金閣寺 12月31日

    2020.12.3131日午後6時現在、京都市中京区で積雪1センチを記録した。話題一覧⇒京都からの話題一覧京都からの話題0035雪化粧した金閣寺12月31日

  • 京都からの話題0035 弥生時代の京都の歩み 考古資料館で

    2020.12.31考古資料館弥生時代の京都の歩み祭祀具や武具、玉などの出土品などを通じて都が置かれる前の京都の様相に迫る展示。本格的な稲作が始まった紀元前4~5世紀から前方後円墳が出てくる3世紀後半ごろまでの乙訓や山城を含めた京都盆地の考古成果を紹介している。1月24日まで開催。関連記事⇒京都からの話題一覧京都からの話題0035弥生時代の京都の歩み考古資料館で

  • 京都からの話題0034 年末の「京の台所」錦市場

    2020.12.31「京の台所」錦市場は正月用の食材の買い物客、例年の半分ほど。136店舗が軒を連ねる。棒だら、クワイ、黒豆など話題検索⇒京都からの話題一覧京都からの話題0034年末の「京の台所」錦市場

  • 寺院城陽0753 安養寺 浄土宗知恩院派

    安養寺受楽山と号する浄土宗知恩院派の寺。本堂には本尊阿弥陀如来を安置。地蔵堂や庫裡がある。はじめ安養院といい、真言宗であった。鎌倉時代の弘長2年(1262)、沙弥仏阿法阿の寄進により、平河郷安養院の鐘楼を修理したとき、その修理料として、久世郡の馬耳田の里一坪のうちをあてがったことをしるしたことが「山城名勝志」に記されている。その後、天正年間(1573~92)信誉上人によって再興され、安養寺と改められたと伝わる。寺院前回の記事⇒寺院城陽0752浄円寺浄土真宗次回の記事⇒0754下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院城陽0753安養寺浄土宗知恩院派

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