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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

    中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

    このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉新仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただければ・・・ さて鎌倉新仏教は、既存の仏教に対するアンチテーゼとして生まれた宗派である。平安末期よりまず武士が、遅れて庶民らが台頭してくるわけだが、既存の寺社勢力は広大な荘園を抱え、皇族や有力貴族らの子弟が座主に就任する貴族仏教であったため、必然的にその教えも体制を補強するものとして利用されていた。新興勢力であった、彼ら武士や庶民らを対象とするものではなかった…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

    根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

    前記事で紹介したように、紀州・根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との間で派閥争いが表面化してくるのだ。 客僧はあくまでもゲストであって、根来寺においては重要な職に就くことはできなかった。いずれは地元に帰っていく者たちが多く、その数も少なかったから、当初はそれでもよかったのだ。だが時代が下るにつれ、客僧の数が増大してくる。日本全国から集まってきた客僧には、また極めて優秀な者たちが多かったのだ。 根来の座主は、京にいる院家出身の僧…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

    根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

    覚鑁派の本流であった大伝法院が高野山から退去し、根来の地に合流したことによって、ようやく本格的な根来寺の興隆がはじまった。軌を一にして、大伝法院伽藍群の建設が本格的にスタートする。金堂大伝法院・鐘楼堂・大塔・阿弥陀仏堂・不動堂など全ての堂塔群の完成を見るのは、それから実に300年後のことになるのだが。 根来がここまで大きくなれたのは、何といっても先の記事で紹介した、頼瑜の功績が大きい。彼によって構築されたテキスト群が全国に広がったことにより、地方の真言学侶僧が最先端の根来教学を学びに、来山するようになったのだ。このテキストは特に東国において普及したようで、多くの僧が関東以北から訪れている。 最…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

    根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

    高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺…

  • 根来寺と新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

    根来寺と新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

    覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、カリスマであった覚鑁が不在でも、一朝一夕になくなるものではなかった。彼の教えは、引き続きこの大伝法院において引き継がれていくことになる。 この時期の大伝法院を率いていたのは、先に記事で少しだけ触れた隆海であるが、彼が大伝法院座主の座に就いたのは、なんと19歳の時である。彼は覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子であった。 数多いる直弟子を差し置いて、孫弟子に過…

  • 根来寺と新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

    根来寺と新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

    高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自分は密厳院にて趣味?である無言行に入ってしまっている。 ではなぜ彼は、そこまでして金剛峯寺座主の座を求めたのだろうか? そもそも高野山のトップである金剛峯寺座主の座は、これまでずっと京にある東寺のトップ、東寺一長者が兼帯してきた。「本末制度」により、高野山は東寺の末寺化してしまっていたことは過去の記事で述べたが、覚鑁はこれを問題視していたのである。1134年、…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海の十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。 覚鑁は高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。 記録によると、このとき建てられた…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして…

  • 根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないので、そもそも日本における仏教とは~という話から始めざるを得なく、予想以上に長くなってしまった。途中からやむなく前半部分を「日本中世に至るまでの仏教について」というシリーズとして独立させた次第である。 信心深い性質ではないので、信仰としての仏教にはそこまで心を惹かれない。しかしそのロジックや思想の変遷などは面白く、全14回と長めのシリーズになってしまった。番外…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    円珍は円載との出会いを「行歴抄」という書物に書き残している。2人の出会いはどんなものであったのだろうか?当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい―― 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。 彼らは天台宗…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。 要するに、仏陀が法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経由で入ってきたものだからだ。日本ならではの宗派が独自に確立し、発展するのは鎌倉期に入ってからである。平安期までの仏教――南都六宗・密教・天台宗などはインドが源流ではあるが、すべて中国で発展・解釈され直したものなので、中華風に味付けされた仏教だといえる。 この中国仏教に最も影響を与えた名僧は、4世紀後半から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什(クマラージュ)である。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。 正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。 この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国に…

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