熊野で出会った、饒速日命(にぎはやひ・のみこと)の息子、高倉下(たかくらじ)が、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行に説明を続けていた。 高倉下(たかくらじ)「あの・・・天磐盾(あまのいわたて)の岩についても、説明がありまして・・・。」 サノ
前回は三毛入野命(みけいりの・のみこと)のエピソードを紹介させてもらった。 今回から、再び狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行の物語に戻ろうと思う。 一行は、熊野の神による試練を乗り越え、天照大神(あまてらすおおみかみ)や武甕雷神(たけみかづ
狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行と別れた三毛入野命(みけいりの・のみこと)(以下、ミケ)は、比古麻(ひこま)を供連れにして、高千穂(たかちほ)に戻ることになった。 途中、これまで出会った人々との再会を楽しみながら、旅を進めたと思う。 槁根津
紀元前663年、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、熊野の海で嵐に遭遇した。 そして、この状況に耐え切れず、二人の兄は海に飛び込んでしまったのであった。 稲飯命(いなひ・のみこと)は常世(とこよ)の国に行き、鋤持神(さいもちのかみ)となったが・・
熊野の神の試練を乗り越えた狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)の元に、高倉下(たかくらじ)という男が現れ、更には武甕雷神(たけみかづち・のかみ)(以下、タケミー)と天照大神(あまてらすおおみかみ)(以下、アマ)が現れた。 神々の説明は続く。 ア
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三重県熊野市の英虞崎(あごさき)の先端にある千畳敷(せんじょうじき)という、荒波に洗われる奇岩地帯に漂着した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 丹敷浦(にしき・のうら)の豪族、丹敷戸畔(にしきとべ)を討ち取ったところで、突然、熊野の
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三重県熊野市の英虞崎(あごさき)の先端にある千畳敷(せんじょうじき)という、荒波に洗われる奇岩地帯に漂着した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 解説は続くのであった。 まず、サノの息子、手研耳命(たぎしみみ・のみこと)(以下、タギシ
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嵐に遭遇した狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 二人の兄も海に身を投げて死亡してしまう。 もみくちゃにされる船団。 そして・・・。 サノ「というわけで、助かったようじゃな?」 いきなりの主君の質問に小柄な剣根(つるぎね)が答える。 剣根
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和歌山県(わかやまけん)新宮市(しんぐうし)の神倉山(かみくらさん)と言われている天磐盾(あまのいわたて)に登った、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 登山の理由を巡り、一行が語り合っていると、地元の民が突然、現れた。 地元の民「この
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名草戸畔(なくさとべ)を討ち果たし、名草の地を平定した狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 ここで、博学の天種子命(あまのたね・のみこと)と味日命(うましひ・のみこと)が補足説明を始めた。 天種子(あまのたね)「和歌山県海南市のガイドブックに
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天道根命(あまのみちね・のみこと)(以下、ミチネ)が言う、同じ場所に二柱(ふたはしら)の神を祀るとは、一体どういうことなのか? ミチネの説明は続く。 ミチネ「同じ場所に、二つの神社があるということですな。」 質問をした大久米命(おおくめ・のみこと)
長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)を失った、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 悲しみに暮れる中、二つの鏡を鎮座する候補地を目指していた。 サノ「兄上がいない・・・。まだ実感が湧かぬ・・・。」 そこに、おじいちゃんキャラの天道根命(あ
前回、和歌山県は紀の川河口近くにある、水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)を紹介させてもらった。 この地でも、彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)(以下、イツセ)は雄叫びを上げていたのであるが、まだ息を引き取る気配はないのであった。 この状況に、
長髄彦(ながすねひこ)の追撃から逃れ、茅渟(ちぬ)の男水門(おのみなと)に辿り着いた、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 この地で、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)(以下、イツセ)は息を引き取ったのであった。 ここで次兄の稲飯命(
孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで、中(なか)つ国(くに)の軍勢に敗北を喫した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、盾津(たてつ)まで撤退した。 現在の東大阪市にある日下(くさか)周辺のことである。 矢傷を負った、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・
狭野尊(さの・のみこと)一行が敗北を喫した孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いより、数日前か数か月前にさかのぼり、ここで、いったん、中(なか)つ国(くに)の方で何が起こっていたのかを紹介したいと思う。 中つ国を治めていたのは、饒速日命(にぎはやひ・のみこ
河内国(かわち・のくに)の草香村(くさかむら)にある青雲(あおくも)の白肩津(しらかたつ)に上陸した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 中(なか)つ国(くに)に入るため、斥候(せっこう:探索部隊のこと)を出して、いろいろ地形を調べるこ
紀元前663年2月11日、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、大阪湾を経由し、難波(なにわ)に辿り着いた。 ここで、味日命(うましひ・のみこと)とサノの息子、手研耳命(たぎしみみ・のみこと)(以下、タギシ)が、難波についての解説を始めた。
播磨灘(はりまなだ)の中央に位置する家島諸島(いえしましょとう)に到着した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 そこで、四代目先導こと槁根津日子(さおねつひこ)(以下、サオネツ)と出会ったのであった。 前回は椎根津彦(しいねつひこ)(
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播磨灘(はりまなだ)の中央に位置する家島諸島(いえしましょとう)に到着した、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行。 小柄な剣根(つるぎね)が解説していた時、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)が、島内の大岩について、自慢気に語ってきた。
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狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、播磨灘(はりまなだ)の中央に位置する家島諸島(いえしましょとう)に到着した。 ここで、本編の主人公、サノが口を開いた。 サノ「前回の予告通り、家島(いえしま)に着いたぞ! 兵庫県姫路市に編入されている
地域タグ:姫路市
七つ目と八つ目の候補地、無人島の高島(たかしま)と高島山(たかしまやま)の一帯に滞在中の狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行に基づく伝承が他にもあるので、ここで紹介したい。 ここで、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと)(以下、イツセ)が噛み
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興世姫(おきよひめ)と別れた狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、嵐に遭遇した。 そんな危機的状況の中、一行を先導する者が現れた。 二代目(一号)「ンア~。」 サノ「おおっ! 二代目っ! 助かったぞ!」 二代目(一号)は、一行を荒波の
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高島宮(たかしま・のみや)の候補地の説明もあと二つという状況であるが、ここで、少し話を中断したい。 というのも、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)が、側室の興世姫(おきよひめ)と別れることを決断したからである。 サノは、本拠地の対岸の地に姫を移し
吉備(きび:今の広島県東部と岡山県)に入った狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)一行は、高島宮(たかしま・のみや)の八つの候補地について解説をおこなっていた。 前回は五つまで紹介したので、今回は六つ目以降の紹介である。 ここで水先案内人の宇津彦(
宇津彦命(うつひこ・のみこと)を水先案内人に迎えた、狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)一行は、海の難所である芸予海峡(げいよかいきょう)を突破し、吉備国(きび・のくに:今の広島県東部と岡山県)に辿り着いた。 この地で、サノたちは、地元の人々へ、稲作と
ウクライナとロシアの戦争が続いている。NATO(北大西洋条約機構)は、ウクライナに武器を提供しているが、それ以外の応援はしていない・・・というマスコミ報道が成されている。ところが、アメリカ軍は、ポーランド、ルーマニアなどに6000人派兵していた。ドイツ軍もポーラ
宇津彦命(うつひこ・のみこと)を水先案内人に迎えた、狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)一行は、海の難所である芸予海峡(げいよかいきょう)を進んでいた。 目指すは、吉備国(きび・のくに:今の広島県東部と岡山県)である。 そんな時、狭野尊(さの・のみこ
ロシア軍がウクライナの首都キエフのテレビ塔をミサイル攻撃したとか・・・侵攻六日目で、情報の遮断?初日にやってなかったことに驚愕!ロシアは本気で戦争をするつもりでは、なかったのかもしれない。脅し程度に考えていたのかも・・・。補給が厳しい状況になっているのも
安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)にて、船団を整え、武具や食料などを調達した狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)一行は、再び海路を進んだ。 ここで、筋肉隆々の日臣命(ひのおみ・のみこと)と息子の味日命(うましひ・のみこと)、そして、サノの妃、興世
安芸国(あき・のくに)に滞在中の狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)たち天孫一行は、水稲耕作教育と灌漑事業を続けていた。 そんな中、椎根津彦(しいねつひこ)(以下、シイネツ)がサノの元に報告にやってきた。 シイネツ「我(わ)が君(きみ)。ついに新
芸北地方(げいほくちほう:広島県北部)を訪れた狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)たち天孫一行。 その理由は、出雲との接触および交渉にあったと推理してみた。 今回は、出雲の君主、伊佐我(いさが)も交えて、更に推論を進めていきたいと思う。 とい
安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)に滞在中の狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)一行は、各地に稲作技術教育や灌漑工事をおこなっていた。 そんな中、長兄の彦五瀬命(ひこいつせ・のみこと) (以下、イツセ)の陣所という地を紹介させてもらった。
狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)たち天孫一行は、安芸国(あき・のくに:今の広島県西部)に到着した。 「古事記」においては、七年も滞在したと記録されており、これは水稲耕作(すいとうこうさく)の伝播と灌漑工事のためだと考えられる。 サノ「じゃが(
狭野尊(さの・のみこと。以下、サノ)ら天孫一行は安芸国(あき・のくに)に辿り着いた。 現在の広島県西部である。 ここで一行は空高く昇る煙を見た。 黒い煙が幾筋にも分かれ、空を覆い尽くさんばかりである。 その光景を訝(いぶか)しく眺めながら、
さて、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)たち天孫一行は、竹島(山口県周南市平野)の丘陵に行宮(あんぐう)(仮の御所)を設(もう)けて滞在していた。 「記紀(きき)」には書かれていないが、この地に立ち寄った一行は、半年ほど滞在したと伝わっ
紀元前667年11月9日、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)ら天孫一行は、筑紫(つくし)の国の岡水門(おかのみなと)に到着した。 ちなみに、筑紫とは、今の九州のことである。 台本の一つ「日本書紀(にほんしょき)」では、滞在が二か月余りとなっている
菟狭(うさ)(現在の大分県宇佐市)を訪れた、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)一行は、菟狭の民が建造した、足一騰宮(あしひとつあがり・のみや)にて歓待(かんたい)された。 歓待・・・すなわち宴(うたげ)が催されたのである。 「記紀」では、これ
前回は、狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)らの旅立つ前の伝承を紹介させてもらった。 今回から、再び旅の物語を綴っていこうと思う。 激しい潮流の豊予海峡(ほうよかいきょう)こと、速吸之門(はやすいなと)を椎根津彦(しいねつひこ) (以下、シイネツ
ここで、旅立つ前の狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)のことを説明したいと思う。 と言うのも、旅立つ前にも伝承がいろいろ存在するからである。 まず、台本・・・もとい「記紀(きき)」に書かれているのは、二つの出来事だけである。 15歳で「日嗣(ひつ)
大分市(おおいたし)佐賀関(さがのせき)は、関鯖(せきさば)、関鯵(せきあじ)の水揚げで知られる港町である。 小さく突き出た半島の先端に位置し、四国の佐田岬(さだみさき)との間に、豊予海峡(ほうよかいきょう)を成している。 古代の人々は、この海
八朔(はっさく)(旧暦の8月1日)の朝早く、子供たちの声が響き渡る。 子供たち「起きよ。起きよ。」 時刻は午前四時過ぎ。 ここは宮崎県(みやざきけん)日向市(ひゅうがし)美々津(みみつ)。 狭野尊(さの・のみこと) (以下、サノ)ら天孫一行が出航した
手研耳命(たぎしみみ・のみこと)の説明が終わったところで、狭野尊(さの・みこと) (以下、サノ)は、末席に坐(すわ)る白髪の老人に声をかけた。 サノ「天道根(あまのみちね)よ。汝(いまし)には、別の命を与えたいと思うておる。」 唐突に声をかけられ
今は昔の物語。 地上世界を治めるため、高天原(たかまのはら)より天孫が降り立った。 神の名は、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ・のみこと) (以下、ニニギ尊)。 降り立った地は、吾田(あた)の長屋の笠狭崎(かささのみさき)という。 今の宮崎県
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