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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

  • 日本列島の黎明 旧石器時代

    日本列島の黎明旧石器時代11万年前旧石器時代図石刃、ナイフ型石器石刃、ナイフ型石器の作り方の違いによる文化圏図旧石器時代の文化圏 図長大な槍の穂先基本的に石塊から打ち割って作り出したもの、原料入手が容易だったことからサイズは大変大きいものが作られた。 4-3万年前新石器時代日本列島では石器造りの高度化が始まり磨製石器が作られる 図環状ブロック群元の図は旧石器とするが、磨製石器が伴っている社会的グループが形成され、環状ブロック群には磨製石器が伴うことから、新石器時代である。 図尖頭器類尖頭器両面加工石器群槍の穂先とされる有茎尖頭器投げ槍の穂先とされるイヌの家畜化土器開発以前に成っていたと考える 16500年前縄文土器の時代超古代文明 土器の開発縄文土器に生業開発の歴史が記録される無文土器は籠の目を無くした容...日本列島の黎明旧石器時代

  • 縄文時代早期からのシュメール、エジプト文明への影響

    引用しますーーーーーーーーエジプトのヒエログリフシュメールで発明された文字は、やがてメソポタミア全域に伝わっていきます。絵文字の段階で伝わったものもありますが、楔形文字として伝わったものもあります。特に注目したいのはエジプトの聖刻文字(ヒエログリフ)※です。エジプトでは王朝時代が始まる前後、シュメールと交流があったことは、シュメールの特産品である円筒印章などがエジプトから出土していることから明らかです。エジプトの聖刻文字は象形文字(絵文字)なのですが、発展段階を経へずいきなり完成された形で表れています。これらのことから、エジプトの聖刻文字はシュメールの影響があった可能性があります。エジプト以外で発見された文字も、それぞれの言語特有の記号が使われていますが、「文字で記録する」ということさえ理解できれば、まね...縄文時代早期からのシュメール、エジプト文明への影響

  • 曜日とは何なのか

    現代のカレンターでは曜日により夜の狩りが何時間できるのかそれは何処まで狩りに行かれるか分らないアマゾン流域の原住民が、訪問者のために一晩中狩りをして、2匹の獲物を獲ってきたと言う番組を見た。ここにイヌはいなかった。図縄文時代のカレンダー 図縄文時代の収穫物図はお借りしました曜日に何の役割があるのか縄文時代のカレンダーならいついつなら何処に、何処まで狩りに行けるかが分る野生の狩りが必要で無い今は、曜日に何の効果があるのか分らないそれは潮干狩りでも同じで、一般的には今、干満は知らなくても済ませられる狩猟採集の縄文時代には曜日は照明の無い夜の狩猟時間を示すものだった新月から満月を挟んで7日から23日まで夜の狩猟に良い月明かりのある時間を示すものだった海辺では新月満月が潮の干満を示すものだった。内陸と海辺でそれぞ...曜日とは何なのか

  • 金生遺跡の日の出 再び

    太陽暦とは太陽と地球の関係から作られているものと思っていたが現代のカレンダーでは立春が2021.3.4と2022.3.3のように日付が変動しています。これはそうかなと思うだけでしょう ところが縄文時代のこよみでは、日付は変動しません金生遺跡で日の出を見たところ茅が岳のピークに立春の日の出位置はありこの位置は縄文時代から変化していませんでした。立秋の日の出位置も、笠無山のピークにあることから、この位置も変化していませんでした。この立春観測により作られるこよみなら縄文時代以来、こよみの日付は変わらないと考えます。立春を年初とするカレンダーを作れば、4500年間カレンダーの日付は変化していないことが分る。とすれば、文明の黎明以来の日付は統一できる可能性があります。金生遺跡の日の出再び

  • 文明の黎明

     図古代文明の年表超古代文明は縄文土器の時代草創期から前期まで縄文土器の時代は文明の黎明文明の基礎が出来たその歴史は土器に記録が遺されていたので先史時代ではないなぞとき土器模様・文様今はまだ読み解かれていない1.新石器と旧石器はどう違うのか先ず草創期の末までの話食料対象とするものの変化大型動物から小型動物へ植物原種マメ類の選択無文土器による採集マメ類は他の文明にある麦やアワ、キビなどの芒の有るものとは異なり莢が爆ぜて細かい種を飛び散らせてしまう、この性質は現在の栽培種でも変わっていない豆粒文土器栽培開始を他の集団に知らせる書類動物小型動物槍から投げ槍有茎尖頭器に進化イヌの家畜化狩りへの活用土器開発メデイアとしての利用丸底土器日本語の形成開始土器は文書、情報を伝えるものシュメール文明でのトークン、粘土板文字...文明の黎明

  • 縄文時代の弓の弦再現テスト

    ブリコラージュとして弓を再現周囲にある蔓植物を色々調べてみたところ藤の弦は切れやすいことアオツヅラフジは少し乾燥すると切れてしまうキンギンカ、スイカズラが使用に耐えそうなことが分った弓とする木は適当な生木を切り出して使用したとりあえずスイカズラの弦で弓を再現して草の茎シュウメイギクの矢で飛ばしてみた矢の出来が悪いので余り距離は出ないものの何回かの発射には耐えることが分った両端は弦にする蔓を他の蔓で巻いて締め付けた弦にする蔓のみでは、切れてしまい上手く弦を張れない縄文時代の弓の弦再現テスト

  • 立夏の日の出を待つ会 案内

    立夏の日の出を待つ会と信玄棒道散歩案内今年は5月5日が立夏となっています5月7日には笠無山ピークからの日の出です観測会は5月5、6、7日と行います朝の5時頃から6時までです 日の出観測後に続いて遺跡の近くにある信玄棒道の木もれ日のベンチを散策したいと思います。日の出後1時間ほどです。時間のある方はどうぞご参加ください。 笠無山と石棒は、縄文時代は立秋観測点でしたこの日の日の出が石棒の観測点に当たることで観測していました。日の出を待ち、日の出を見てオウ体験をしてみましょう。立夏の日の出を待つ会案内

  • 現代のカレンダーは太陽暦ではない

    現代のカレンダーは太陽暦ではないことが縄文時代の暦から証明されるそれは立春と立秋の日付が年により変動している縄文時代の太陽暦観測施設である金生遺跡ではこの二カ所の日の出位置は、それぞれ山のピークに設定されていて、縄文時代以来変化していない。石棒と配石により観測する日の出も、変化していない。今までの天文学でも、縄文時代と現在とで、その変化は0.5度程度で1日にもなるような変化はしていないとしている。現代のカレンダーは、太陽の運動を再現していない。これは表現が間違いで、正確には地球の公転を再現していないことになる。また曜日とは、月例を示すはずなのに、月の朔望周期を再現していない。最優先してベースとすべき地球の公転も月齢も無視して、地球のカレンダーを使い続けている現代文明は、おかしいのでは無いか。シュメール文明...現代のカレンダーは太陽暦ではない

  • 逸見山台地ルネサンス妄想

    逸見山台地とは八ヶ岳山体崩壊の大地形、それから伸びる七里岩の台地、そのずうっと先に見える富士山富士山手前の山の麓にシミのように見えているのが曽根丘陵、これは山体崩壊の岩屑流が到達した最先端の形成した丘だという。5個くらいの低い丘陵になって微かに見えている、ここまで岩石が流れていったものだという。この丘陵上には後に古墳が作られた。写真は原図をお借りしましたこのような大景観が一目で見えるのは、世界の何処にも無いと思うので、世界遺産になるのでは。   最近の山体崩壊で有名なものはセントへレンズ山の崩壊です、 でも逸見山台地のこのような景観は形成されていないでしょう。写真はお借りしました上が八ヶ岳逸見山台地下は七里岩の楔形 右から富士に向かう緑のうねるような山逸見山から七里岩の楔形うねうねと見えている緑の山脈の台...逸見山台地ルネサンス妄想

  • 360度と24時間の起源

    360度と24時間の起源については、まだ明確にされていないと思う。そこからこの起源に関してこれまでの研究から想像してみることにした。縄文時代早期にには定住が安定したとする想定がされているようである。日の出位置は、以前から知られていたと思う、それまでの冬至と夏至のように止まるもので無いことが知られたことだろう。朝一番に住居の入り口から差し込む日の光は、定住してみると、毎日少しずつ方向が変わることを知って、不思議だったのではないか。毎年同じように移動することを見て、またそれは季節と共に変わることを知り興味を持ったものでは無いか。そのような移動する日の出を、石棒により観測したことから一年の日数が分ったものと考える。一年廻ってほぼ365日であると知ったものと思う石ころでその日数を数えたとすれば、一年の日数を知るこ...360度と24時間の起源

  • 今年の春分の日は何故20日になったのか

    春分の日、なぜ変わる?国立天文台が計算して決めている春分の日、なぜ変わるc毎日新聞提供きょう3月20日は春分の日です。春分の日と秋分の日だけは、普通の祝日とは違う、ある「特徴」があるといいます。どんな特徴で、それはなぜなのでしょうか。Q&Aで解説します。――今年の春分の日は、昨年とは違うんだって?◆今年と来年の春分の日は3月20日ですが、昨年までの2年間は21日でした。春分の日と秋分の日は、普通の祝日とは違い、日にちが法律で決まっているわけではありません。――どうやって決めるの?◆地球と太陽の関係をもとに、国立天文台(こくりつてんもんだい)が計算して決めています。地球は太陽の周りを1年かけて公転(こうてん)しています。一方、地球は公転軸から23・4度傾(かたむ)いて自転(じてん)しています。このため、地球...今年の春分の日は何故20日になったのか

  • ストーンヘンジの意義は何なのか

    ストーンヘンジの意義は何なのかが今も問われている次のような論文が出されています。ストーン・ヘンジは古代の太陽暦ではなかったとする新たな研究結果ティム・ビノール著ストーンヘンジが古代の太陽暦として機能していたという説が、新たな検証によって覆されたようだ。考古学者のティモシー・ダーヴィル氏は、昨年3月、この長年の説を支持する論文を発表し、大きな話題となりました。この研究は、有名なモニュメントの謎を「解決」したとメディアに紹介されましたが、誰もがその結論に納得していたわけではありません。ダルヴィルの研究に対して、古天文学の専門家であるフアン・アントニオ・ベルモンテとジュリオ・マグリは新しい論文を発表し、その中で「モニュメントの天文学的関連性についての一連の強引な解釈と、議論の余地がある数字論や根拠のない類似性に...ストーンヘンジの意義は何なのか

  • 春分の日 観測点探索会

    春分の日観測点探索会のご案内金生遺跡の石棒は八節の暦の観測点を示すことが判明しています。春分点は今の所不明です。これまでもこの時期は曇天が多いので、日の出を見ることはなかなか難しいのですが、春分の日の観測点が配石内に存在するのかを探したいと思います。予報では春分の日は雪が降るとの予想などがあるので、このページでの案内のみで、各会員へのご案内は差し上げません。2024.03.20遺跡現地に5時45分頃にお集まりください。天気が快晴ならです。日の出は6時10分頃です春分の日の出位置は、立春と立秋の中間辺りです 縄文時代は新石器時代であり、新石器時代とは土器に歴史が記録されて遺されているのです。縄文土器には縄文時代、新石器時代の生業開発の歴史が記録されており、太陽暦開発の歴史、弓矢開発の歴史、魚釣り開始の歴史、...春分の日観測点探索会

  • 「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されている!?

    「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されているピタゴラスの話が出ていたので、縄文時代を考えて見ました。 引用します----ーーーーーーーーーーーー「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる1000年以上前の粘土板にも記されているcGIGAZINE提供「2辺(a、b)上の2つの正方形の面積の和は、斜辺(c)上の正方形の面積に等しくなる」という三平方の定理は、「ピタゴラスの定理」とも呼ばれ、古代ギリシャのピタゴラスが発見したとの逸話が残されています。しかし、ピタゴラスが生まれる1000年以上前にバビロニアで作られたとされる粘土板に、三平方の定理について記されていたことが明らかになっています。Pythagoras:Everyoneknowshisfamoustheorem,b...「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されている!?

  • 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

    古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとしたという。表とはノーモンと同じと考えるなぜそのような長さに決めているのか八尺の棒は何処から出てきたのかその根拠は何なのだろうか その根拠は金生遺跡の立地と観測施設にある。立春日の出観測の、太陽の出る山は高く、平地から出る日の出とは異なり観測にはある程度の高さのある棒を使うことが必要である。その棒の長さも、日の出位置の一日毎の変化を、集まった多くの人で確定するためには、観測精度を上げる必要があり、日の出位置の一日の変化に対応するためには、それ相応の長さ、高さが必要となる。観測点の石棒がある太さを持つとすれば、その太さで一日の変化に対応する事が必要となる金生遺跡の観測点と配石の現状と、太陽の出る山の地理的条件から見るとき、観測用の石棒が...古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

  • 日の出位置の観測結果

    日の出位置の観測結果図縄文時代の太陽暦観測点立春の日の出茅が岳から金生遺跡での観測2021年以来の立春観測結果を纏める。日の出の時間に、快晴に恵まれることは希で、日の出が見えた快晴時の日の出位置のデータである。2021.02.04現代カレンダーでは立春の翌日茅が岳の左肩からの日の出2022.02.04現代のカレンダーで立春の日茅が岳のピークから日の出2023.02.04現代のカレンダーで立春茅が岳のピークからの日の出2024.02.03現代のカレンダーで立春の前日茅が岳のピークの右肩から日の出 図2024.02.の日の出位置画像は小寒の日の日の出現代のカレンダーでは、立春の日の日付が、2.4と2.3と日付が変動しているのに縄文時代に設定されていた立春の日の茅が岳からの日の出は、何れもピークからであり変動し...日の出位置の観測結果

  • 立春の日の出 観測会の案内

    立春の日の出観測会を計画しました。 2024.02.07雪の翌日で快晴茅が岳からの日の出 2/3日と2/7日の日の出位置からの2/4日立春の日の出位置の推定 2024.02.06大雪2024.02.05 日の出は見えませんでした。朝焼けが見えて、その後一面灰色の空となってしまいました。 2024.02.04立春曇天雪が降り積りました。 2024.02.03節分の日の出快晴でした、日の出影が石棒の左側にはっきり見えています。明日あさっての天気はどうでしょうか。  縄文遺跡で立春の日の出観測会です北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡の配石は、縄文時代の二十四節気の暦の太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石立春に集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!日の出を見るこ...立春の日の出観測会の案内

  • 魚釣り漁から網による漁の開始まで

    魚釣り漁から網による漁の開始まで 図弓に張る弦から、細く強くと云う弦の開発は、早期初めにはテグスの領域に入ったものと考える。その紐は魚釣り漁をするのに使えるものになった。 図それが撚り糸であり、糸巻きに巻いていたものだろう、それを示すものが撚糸文土器だと考える。その後、網を用いた漁が始まったものと思うものの、それが始まるまでにはかなりの時間が掛かっているものと考える。 図前期になり羽状縄文土器が現れ、網漁の始まりを示すものと考える。魚釣りの糸はそれほど大量に使うものでは無かったでしょう。しかし網を作るためには大量の紐が必要である。それは直ぐには出来なかったでしょう。糸は何から作っていたのか分らないが、大量に作るには、当該植物を畑で栽培することが必要ではなかっただろうか。太陽暦はすでに造られていたものと考え...魚釣り漁から網による漁の開始まで

  • 中部縦貫高速道路 通過位置の変更依頼

    中部横断自動車道(長坂~八千穂間)の説明コーナーを見てきました。2024.01.19ー28日遺跡周辺の道路計画の現状の図を掲載します。遺跡からの景観がどのようになるのか、まだよく分りません。  ----ーーーーーーーーーーーー初稿2022.09.01高速道路計画について、よく分らないので再度山梨県に問いあわせていました、その後山梨県より回答をいただきました。添付図面からは、遺跡直近1㎞を通る計画のようです。もう少し離して貰いたいものです。メールで「今回頂いたご要望については事業予定者である国土交通省関東地方整備局に対して配慮するよう伝えます。」このように言われていましたので、再度金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の重要性をPRするためのメールを出しています。以下の図が金生遺跡付近の計画のようです。遺跡付近の...中部縦貫高速道路通過位置の変更依頼

  • 土偶とテルテル坊主

    現代では明日の天気を祈るのにはてるてる坊主季節は太陽のカレンダーで間違いなく廻ってくる。それは地球の公転によるもので、太陽との関係で決まるから、ここに不思議は少ない。しかしそれでも明日の天気は分らない。 図縄文時代の土偶縄文時代も同じで、今よりも分らないことが多かったから、土偶で祈ることは多かったのではないか。それは土偶を見れば分る。得体の知れないような造形のものが多い。何を考えて作っていたのか、何をそれに見れば良いのか、想像も付かない。現代のてるてる坊主は土偶のようなものでは、顔はへのへのもへじと描いてある。不条理、理不尽は、現代の方が縄文時代よりも多いのではないか。土偶とテルテル坊主

  • 縄文土器はなぜ造られたのか

    縄文土器はなぜ造られたのかをもう一度整理してみる西アジアのシュメール文明の地域では、土器が造られたのは、農耕が始まるよりもずっと遅れていたようだ。この地域の生業である牧畜や麦作では、必要は発明の母であるとするならば、土器は必要でなかったと考えるしかない。時期的には縄文時代前期にあたる頃、やっと土器が造られるようになったという、大変に遅れた時期である。この地域の作物の形態から見て土器を必要とするものでは無かったと思う。それは主作物の麦類には、種には芒があり、編み籠でも目漏れすることは少なく採集するのに問題は無かったと考える。それに対して東アジアの日本列島では、新石器時代の初めから土器が造られることから始まった。なぜなのか、それは食料とできる植物の形態からと考える。縄文人には麦類のような植物種子でなく植生の特...縄文土器はなぜ造られたのか

  • 土器がメディアとなったのは何時か

    土器がメディアとなったのは何時からなのか旧石器時代後期土器開発以前イヌの家畜化土器にその記録は遺されていないようだ引用します----ーーーーーーーーーーーー犬は最初に家畜化された動物であり、少なくとも15,000年前から人間と密接な関係を築いてきました。----ーーーーーーーーーーーー引用終わりこのことから土器は17000年以前から造られているので、イヌの家畜化はそれ以前ではないかと考える。狩猟の道具として、槍から投げ槍が作られていた槍の尖頭器から、有茎尖頭器の投げ槍に変わっていたころ植物性食料の採集に、編み籠が作られて使われていた縄文土器の時代各種生業の獲得時代大型動物の狩りが減少して、小型動物に狩りの対象は変化したが小型動物は動きがすばしこく、投げ槍では狩猟は難しくなっていたそれまで使われてきた編み籠...土器がメディアとなったのは何時か

  • 太陽暦作成の原理

    太陽暦作成の原理を再掲365日のカウント365日/2182日、182日/291日、91日/245日月の周期30日、182日/30日6月+2日30日/215日月の暦に太陽の暦をシンクロさせるには3がキイとなる45日/315日図縄文時代の太陽暦15日刻みの暦で太陽の暦と月の暦はシンクロさせることが出来る太陽暦15日刻みの暦とは二十四節気の暦であるその後のカレンダーの進化は太陽は15日/35日刻みの暦となり、これは七十二候の暦となって365日/573区分、一年の暦が完成する。閏は4年に一回となり、12月に1日増やして調整すれば良い。月の暦は15日/27日、半月が7+7+1となるので、これで月の暦は7日の曜日と、新月と満月で一ヶ月の月齢は表現できる。図月齢と合わせた太陽暦のカレンダー立春を新年初日として曜日を決め...太陽暦作成の原理

  • 縄文時代の豊かな文化

    新石器時代とは粘土から土器が造られた時代である図文明の比較年表土器は草創期の始から造られていた縄文時代は土器の特性を生かして、初めからその歴史記録が残された、それが縄文土器と呼ばれるものである土器とは、・想念通りに造形できるもの、・造形したものが永遠に残せるもの、・それは情報伝達のメディアである。縄文時代10000年間に造られていた火焔土器、突起付き土器、マメ類練り込み土器などはその典型的姿を示している。縄文模様を持つ土器は新石器時代の始まりを示すものである。図弓の弦の開発からの始まり土器には弓の弦の開発から、鏃の開発、魚釣り漁の開始、網による漁撈の開始などの一連の生業開発の画期的歴史が記録されていた。図マメ類の栽培化の記録縄文時代草創期のマメ類の採取を始め、栽培開始、前期半ばの栽培種の成立が記録されてい...縄文時代の豊かな文化

  • 縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会

    縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会案内北杜市全域の地形が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生遺跡の冬至祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」という祭り!!朝活は冬至日の出12月22日6時半頃から7時半ころまで遺跡現地です夕活は冬至日没12月22日15時半ころから16時半ころまで遺跡現地縄文時代の配石と石棒で、日の出を観測して、日の入りを観測しましょう。同時に月齢観測も行う予定です。主催金生遺跡を世界遺産にしよう会これまでの観測記録の内容は、ブログにありますhttps://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。縄文時代には、太陽が変らず出ることはこ...縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会

  • 月齢観測の方法を考えてみます

    月齢観測は簡単でした。ビングに原始時代の月齢観測方法を聞いてみましたが、はかばかしい返答は得られませんでした。AIが調べ回ってもその方法はなかったようです。仕方がないので、月齢の例から縄文時代の月齢の観測方法を考えて見ました。こんな方法で出来るのではないでしょう。現代人には毎日月の出を見るのは面倒ですが、必要性のあった縄文時代には何でもないことだったのではないでしょうか。日の出を見て、夕日を見て眠る、縄文人には普通のことだったでしょう。現代人はこれをしていません。 図月齢の例示上弦の時期と下弦の時期は知っていたものとします。それは、新月から満月に向かう時期が上弦で、満月から新月に向かう時期が下弦ですから、縄文時代は、日が出たら起き出して、日が沈めば寝る。闇夜にはたき火しかライトはないので、毎日月を見ていた...月齢観測の方法を考えてみます

  • 原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。

    原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。結果は以下のようで、全く役に立ちませんでした。聞くべき天文台も、天文クラブもない情況で、縄文人はどのようにして月齢を観測していたのか、考えるしかないようです。 月齢の観測方法はどうするのか知りたいのでビングに聞いてみました。----ーーーーーーーーーーーー月齢を観測する方法は、天体望遠鏡を使って月の表面の形状を観察し、その形状から月齢を推定する方法が一般的です1。また、国立天文台のウェブサイトでは、正午月齢を計算することができます13。正午月齢とは、その日の正午における月齢であり、直前の朔からその日の正午までに何日経過したかを小数第一位まで示しています?。このページ1には、月齢の計算方法や、月齢を求めるための暦の情報が掲載されています。また、同じく国立天文...原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。

  • 今からは人類、ホモサピエンスの新時代

    今からは人類、ホモサピエンスの新時代にアンラーニングできるでしょうか現代の暦カレンダーは、過去の歴史経緯により、支配者に小突き回された結果、とんでもないものになっている。太陽暦とは似ても似つかないものに変形されてしまっている。今、地球環境の危機にあって、これまでの人類の歴史を一旦切り離して、新しい人類史を考えるときではないだろうか。そのベースとなるのは太陽暦の基本に戻り、カレンダーから考えてみるときではないでしょうか。図縄文時代の太陽暦二十四節気の暦から七十二候の暦に読み替えることが出来る 図立春と立秋を起点としたカレンダー立春を年初1月1日としたカレンダーと年の後半は立秋の月齢を起点とするカレンダー満月と新月が日曜日、土曜日の後に海曜日、海王星の海から仮にしている。今のカレンダーは長く使われてきたが、歴...今からは人類、ホモサピエンスの新時代

  • 現代の暦 カレンダーは疑問点バカリ

    現代の暦カレンダーの疑問点は図立秋観測日の出位置は同じなのに日付が違っている。縄文時代の立秋観測点は、日の出が山のピークに設定されていて、その日の出をノーモンと石棒で正確に観測している。1.太陽と地球の関係位置は、4500年間変化していないのに、現代の暦は日付が年ごとに変動することである。2.曜日とは元々月齢と関係づけるために作られたはずなのに、現代のカレンダーでは、月齢との関係を無視して、曜日は勝手に振られている。それにより月の満月と新月、月齢が分らなくなっている。3.一ヶ月とは、月の周期30日の筈なのに、28、29,30、31日などと勝手な日数にしている。年の始めの1月1日も適当に決められているだけで、これらのことには2000年以上の歴史が関係しているのだが。30日/215日15/27+7+1となるか...現代の暦カレンダーは疑問点バカリ

  • 金生遺跡 配石と石棒の成立経緯の仮説

    金生遺跡配石と石棒の成立経緯の仮説観測開始の順次1.先ず冬至の日の出と日の入り観測点がデザインされた冬至の日の出を先端に置き、ノーモンの影を基本ラインとした次に日の入りのノーモンの影をそのラインに交差させた交差位置が基準となった。2.立春観測二至365日182日+1日二分182日/291日半年四分91日/245日+1日サケ遡上回帰漁と種蒔きを早く知るため、立春観測を行う冬至の日の出ライン上にノーモン位置を置いて立春観測石棒を前後から一日の違いを判別するために石棒の太さと、ノーモンまでの距離を取り、ノーモンの高さを決めた 3.その後の観測二十四節気の暦が造られ、月の暦とのシンクロが完成したそのため一年に立春日の月齢と、半年後、立秋日の月齢を観測することになった。そのため立秋観測の石棒を立てた。観測には立春石...金生遺跡配石と石棒の成立経緯の仮説

  • 土器の時代

    土器の時代新石器時代とは土器の時代であるホモサピエンスにとって土器とは新石器時代の画期である。図狩猟方法の発達旧石器時代と隔絶させるものは、土器以外にない。その事を明確に示しているのは、その代表的な土器が火焔土器である。 図火焔土器火焔土器とは何なのか1.土器とは、容器としてまた煮炊きの鍋として使用する道具である。それだけであるならば、旧石器時代に使用した道具の石器などと何も変わらない。2.火焔土器は容器としての用途のために造られていたのだろうか容器として使用するには、付けられた突起は邪魔になるだけである。3.火焔土器は容器として使うために造られたものとは思えない第三の用途を明確に示している。情報伝達、メディアとして以外には考えられない 図火焔土器の元祖4.火焔は何を示しているのか、何を表現しているのか火...土器の時代

  • 縄文土器は歴史の記録メディア

    縄文時代は土器に記録が残されている縄文土器は歴史の記録メディア旧石器時代については、残されている石器や遺物から生業の変化を推察していた。それは何かを記録して残すことが出来るものがなかった時代だから。新石器時代になると粘土から造られた土器が現れた。縄文時代草創期からである。土器は石器などとは異なり、それなりに思い通りの形が作れることから、縄文土器は記録メディアとして利用されるようになった。シュメール文明の粘土板それはシュメールが粘土板に文字を記録するようになったときから、10000年以上前のことになる。縄文土器は縄文時代の集落の人々の情報を共有するためのもの集落から集落に情報を伝えるもの供献土器、祝うもの、祭の中心に有るもの新石器時の生業開発の画期を伝えるもの、瓦版だった。縄文人の土器から生業の進展を進めた...縄文土器は歴史の記録メディア

  • 縄文時代の太陽暦と祭祀 2

    縄文時代の太陽暦と祭祀22023.11.12改訂2022.07.10初稿縄文時代前期遺跡阿久遺跡の場合環状列石があり、蓼科山を指す列石があるという現物も写真も見たことは無いのだが、そのように云われていたので列石は太陽暦に関係ない蓼科山を何故指すのかストーンサークルは何のためのものなのかそれはどちらも祭祀のため、目には見えない何かの存在に対して、祈りを捧げるものだったのだろうと考える。これまで発掘されてきた縄文時代の遺跡を通じて縄文早期から太陽暦は既に存在していると記録されていると考えられることから、それをベースに祭の期日を定めて祭祀を行っていたものと思う。太陽は暦祭祀の対象ではあったとしても縄文人社会の集団祭祀の対象とは少し異なるものだったのでは無いのだろうか太陽による季節から始まる生業などに関係する精霊...縄文時代の太陽暦と祭祀2

  • 金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのか

    初稿2021.06.27金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのかそれも時代が下ると共に広がりを見せていったようだ。土偶静岡、関東、北陸、東北さらに西日本からのものが見られるという石器なども同様な様子が見えるようだ。金生遺跡が標準時天文台であれば、列島各地からその情報を求めて、各地の部族からの代表者が、特産品を持って集まって来ていたかも知れない、との想像もしたくなる。チャイナの鬲かも知れない土器なども、出てもおかしくはないだろう八節の暦はここが発信元であれば。金生遺跡はこの地域では石堂、長坂上条などの遺跡などよりも更に長期に存続していたようだという。その理由も八節の暦の発信元であればそうなるかも知れない。東北地方でストーンサークルが、晩期に作られ広がっていったのも、金生遺跡の八節の暦情報がそれを支え...金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのか

  • 現代の暦の改暦提案

    現代の暦は太陽暦ではないので、二十四節気の暦が太陽運動に従う正しい暦と思う縄文時代の暦に戻すべきではないでしょうか年初の決め方は太陽と関係ないもののようです縄文時代から4500年とすれば、たったの4500回の公転縄文時代が農耕開始の基を支えて、文明の発展する温暖な環境を作り出したようなので今の温暖化は行き過ぎでしょうがそれを考えるためにも、太陽運動に正確に従う暦は必要ではないでしょうか現代は太陽暦の基本を忘れすぎています太陽運行と関係なく勝手に作りだした太陽暦のようです現在太陽暦とされているカレンダーは、地球と太陽の関係から造られた暦でなく、太陽と星座の関係から造られているため、年ごとに日付が異なっている。立春の日付がなぜ変わるのか、立秋の日付がなぜ変わるのか、こうしたことは占星術の世界から決めているため...現代の暦の改暦提案

  • 縄文遺跡で立冬の日の出観測会 朝活

    縄文遺跡で立冬の日の出観測会2023.11.08立冬天気快晴日の出観測が出来ました日の出立春標識の石棒には見やすいように白い布を掛けています。この写真は余りはっきりしていないので、次に参加いただいたY.H.氏の撮られた写真を掲載します。 次はノーモンの影です、写真が良くないでが石棒にノーモンの影が掛かっている 影が左に外れて行きます金生遺跡の観測点、立春と立秋観測により、二十四節気の暦は計算通り合うことが確認できたので、縄文時代には次のような暦が造られていたと考えています。この暦を使えば、現代の太陽暦のように、毎年のように日付がヅレることは有りません。縄文時代から立春、立秋の日の出位置は変化していないようですから。4500年間日の出位置は変わっていないとして良いのではないかと思います。公転周期で見ると、た...縄文遺跡で立冬の日の出観測会朝活

  • センメルヴェイスとは

    センメルヴェイス反射センメルヴェイス反射(Semmelweisreflex)それに対するキャズム  図はお借りしました引用します----ーーーーーーーーーーーー事実として、過去の少子化対策と称する子育て支援は、少子化に歯止めをかけることができませんでした。 何しろ、デフレが継続し、若い男性の雇用・所得状況が改善されず、東京一極集中がひたすら続いたわけです。非婚化と少子化が進んで当然です。 上記の「事実」を認めると、自分たちの過去のやり方が「間違っていた」ことを認めることになる(間違っていましたが)。 かつて、自分たちが産褥熱を広め、お母さんたちを殺していたという残酷な事実を認めたくない医者たちは、「カルキで手を洗えば、大丈夫」と正しい対策を主張したセンメルヴェイスを弾圧し、死に追い込んだ。特に、自民党の政...センメルヴェイスとは

  • 縄文時代草創期の始まり

    先に紹介していましたが、ほぼ同一内容ですが、ここで改めて紹介します。日本列島で縄文時代草創期に、周囲の雑草の中で見つけ、初めて食料として有用な種として、採集していた可能性がある原種マメ類を紹介します。道端にあるマメ類の原種を確認できました。マメ類の特性も分ってきた。2023.10.18今日の収穫これで一応終了、その後は霜が降りて枯れてきていた。莢が爆ぜたもの青い莢ツルマメの莢 2023.10.13今日の収穫ヤブツルアズキの莢は虫食いがけっこう多く見える上はツルマメ2023.10.11ヤブツルアズキの莢収穫20本莢を弓形の柄で差し出している2023.10.08ダイズの原種ツルマメ上とヤブツルアズキ下の比較。ヤブツルアズキはこんな長い柄の先に莢を幾つか付ける。  2023.010.06ヤブツルアズキの特性、弓...縄文時代草創期の始まり

  • 有舌尖頭器、有茎尖頭器とイヌの関係

    最近のDNA検討から、イヌは日本列島から生まれたとする説が出ているようだ旧石器時代後期から土器発生までの時期尖頭器から石鏃開発以前、それは有舌尖頭器の時期に当たる有舌尖頭器投げ槍有茎石鏃大型動物が絶えて、狩りの形が変わり、小動物の狩りに変わる前この時期にイヌが家畜として飼われることになり、イヌとの共同の狩りで槍とされる大型尖頭器よりも投げ槍とされる有舌尖頭器の全盛期となるのでは無いか旧石器後期から縄文時代に入る前、イヌがすでに家畜として飼われるようになり狩りが効果的に行えるようになっていたのではないか 有舌尖頭器、有茎尖頭器と呼ばれている15センチほどこれが早くから行えたのは日本列島の植生など特性であるのでは定住に近い生業も可能となって来ていたのでは無いか、そして土器の発生となるのでは引用します----ー...有舌尖頭器、有茎尖頭器とイヌの関係

  • Ancient civilizations began with the solar calendar during the Jomon period

    AncientcivilizationsaroundtheworldbeganwiththespreadofknowledgeofthedevelopmentofthesolarcalendarduringtheJomonperiodThereasonfortheemergenceofearthenwareinancientcivilizationsaroundtheworldwasTheplant-basedstaplefoodsadoptedbyancientcivilizationsaroundtheworldWhatwasthevegetationlikeineachregionduringthelatePaleolithicperiod?InWesternAsia,wheatwasaneffec...AncientcivilizationsbeganwiththesolarcalendarduringtheJomonperiod

  • 金生遺跡の珍しい蔓草

    金生遺跡の生け垣に、被さるように生えていた雑草、変わった蔓草二つ。なんだか分るでしょうか。  美しい青い玉は、見たことの有るものですが、何という植物なのか、知らないものだったので調べてみたらアオツヅラフジ下のもの蔓が強いことから、縄文時代から葛籠つづらを造るための蔓草だったようです。蔓は左巻きで上へ。ブドウのように美しい果実は有毒アルカロイドがある。こうした編み籠を作ったようです、ヤブツルアズキの種は漏れてしまいます。粘土を貼り付ければ、漏れ止めが出来そうです。 すずめうり上のものカラスウリよりも小さいので、すずめうりというようです。果実は小さいので食べても美味しくもなんともないようです。蔓は右巻き。 図は一部お借りしました金生遺跡の珍しい蔓草

  • 縄文時代が文明を開いた

    縄文時代が地球上の持続文明を開いた 縄文人の太陽暦の開発により古代文明が農耕を開始することが出来た。そのお陰でCO2が増加することになり、本来は寒冷化に向かうトレンドが防止されて温暖な気候が維持されてきた。と言うことになっていたようだ。古代史上では、太陽暦をまともに造ったという記録も、遺跡も遺物も無いようだ。ただ一つ縄文時代のみがその遺跡と遺物を持っている。縄文時代の太陽暦の存在を示す遺跡と遺物、そして太陽暦により農耕を開始したことを示すダイズとアズキを含む遺物土器が存在する。遺物からの推測で無く、それを記録する土器が存在する。土器はメディアとして利用されていた。土器に記録として残されていた。 さらに、太陰暦を示す遺物と遺跡太陰暦が造られたことにより初めて貝塚造られるようになった。貝塚が存在する。そして太...縄文時代が文明を開いた

  • アワの原種がエノコログサ

    アワ(Setariaitalica)は,エノコログサ(Setariaviridis)と容易に交雑し,アワの原種がエノコログサであることはよく知られている。というアワの原種がエノコログサエノコログサも住居の周辺で探せば、いくらでも見つけることが出来る。種は結構大きいので、縄文時代も・・・ 中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専らアワ(粟米、谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている[注釈2]。というまた、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物[注釈3]を納付する「租」はアワで納付されるのが原則(本色)であった[6]。先史時代から歴史時代まで、チャイナではアワが重要植物で主食と言うことだったようだ。それに対して縄文時代以来マメ類は列島においての主要作物として...アワの原種がエノコログサ

  • 中期後葉からの土器集団の分布状況

    中期後葉からの土器集団の分布状況伊那谷から北陸、そして宮城までのワラビ文土器の広がりがあるという広域の交流が想定できる 火焔土器もこの範囲にあたる それに対しての曽利式と加曽利式土器の分布は境界は八ヶ岳山麓富士見、蛇込遺跡と井戸尻遺跡であるという その後寒冷化で中部と関西/関東・南東北との二分ワラビ文曽利式、加曽利式 西日本へのマメ類栽培の移動ワラビ文土器が出ているのだろうか 北へはストーンサークル、ヒエ、ソバ耕作が広がったのだろうか 八ヶ岳周辺ではマメ類栽培は消えたようだこの時期中期から後期の土器分布について、整理された地図はあるのだろうか。 図はお借りしました中期後葉からの土器集団の分布状況

  • 環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのか

    環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのかその理由は、これまでの生業の拡大では無く新しい生業のイノベーションにより生産力が上がったということにあるその背景としてそれまでの狩猟や魚釣りという最終的には主として個人技が中心になるような生業から集団作業に変わってきた漁網による漁漁網を集団で作り、集団作業で漁をする焼き畑マメ作り集団で野焼きし、集団で焼き畑耕作の各種作業をするそれまでの個人技が光る生業から、全員が関わる集団作業での収穫が中心になり集団での祭なども成立有孔鍔付き土器太鼓または酒造り土器の模様も集団の結束力を上げるような強い印象を与えるもの何か意味を感じさせるような盛り上がったような造形など諸磯式土器や勝坂式土器集落の結束力を示すようなもの 図はお借りしました環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのか

  • 縄文前期の環状集落

    縄文時代前期になぜ環状集落のような巨大集落が出来るようになったのか草創期から前期初めまでに、狩猟・漁労と採集などの生業がほぼ完成狩猟・漁労早期には半年四分暦の太陽暦も完成していた前期までの突起口縁の土器の推移残るのは農耕開始の栽培種の成立だったマメの土器諸磯式土器の時期にマメの栽培種が完成したこうした生業の完成によりそれまでの小さい集落から、環状集落という巨大集落を作ることが出来るようになった。この変化は農耕を始めていた証拠であると考える。野焼きによる黒ボク土の形成もそれを支持している、焼き畑農耕 太陽暦が成立して既に数千年が過ぎ、暦は当たり前のものになっていた。それで環状集落などには特に太陽暦の方位を示すようなデザインは作られていない祭祀のために列石などにより、聖山の方向を示していたという。阿久遺跡など...縄文前期の環状集落

  • 縄文文明はマメの文明

    縄文文明はマメを中心にした文明を形成したと想定1.土器は編み籠からのマメの目漏れを防ぐための改善から生まれた。大型動物がいなくなり、小型動物を捕らえるための弓矢猟が開発される以前、旧石器時代後期の食糧確保のため、先ず周囲の様々な植物を採集して、食料とする探索を行っていたところ、マメ類の種が選択された。マメ類は道路脇の目に付くところで力強く繁茂していた。しかしマメ類の種は極小さく、採集が難しかったが、食味は良く、他に代わる適切な穀類が見当たらなかったことから、編み籠での採集は目漏れすることから難航したが、籠の目を粘土で潰すことで採集可能な容器となり、その後それが土器の開発に繋がった。2.マメ類の栽培開始は豆粒文土器の頃からと考える。マメの栽培種の成立までには4000年近くの時間を要した。栽培種の成立は縄文前...縄文文明はマメの文明

  • 縄文時代の暦

    縄文時代の暦の推測縄文時代の太陽暦は立春を起点にして造られていた。365日/2182日182日/291日春分91日/245日立春立秋は立春+45日+45日+45日+45日春分夏至立秋立春から180日が立秋となる。 立秋は笠無山からの日の出立春は茅が岳からの日の出となっていて金生遺跡でこの事は現在も大配石のノーモンと石棒で観測できる。4500年以上これは変わっていない。4500年と言っても公転はたったの4500回である。現代の太陽暦の日付は立春からの日付でないので、変化している。2022年は立秋は縄文時代の暦では8/5日だった2023年は8/6日同じ位置からの日の出であるのに現代の暦は違っていた。縄文時代の太陽暦の方が優れていたのでは無いか。縄文時代の暦

  • 金生遺跡は世界標準時天文台

    2022年には、現代の太陽暦の立秋は8月7日金生遺跡にある縄文時代の石棒による観測施設も笠無山からの日の出と一致して8月5日だった。今年2023年は現代の太陽暦では立秋は8月8日 今年2023年の現代の太陽暦による立秋は8月8日だった。金生遺跡での観測結果も8月8日だった。Phot.byA.Y.石棒とデジタル時計 これを昨年と同じ図にすると 笠無山Phot.byA.Y.  ここで疑問なのは、縄文時代の太陽暦観測施設による立秋が、日の出は同じ位置なのに、なぜ日の呼称が昨年は8月7日なのに、今年は8月8日なのか。現代の天文学は太陽暦を太陽観測で決めていないのだろうか。金生遺跡は少なくとも4500年前から観測施設があり、観測していたものと考えている。立春から数える縄文時代の日付は、移動していないはずである。なぜ...金生遺跡は世界標準時天文台

  • 縄文遺跡で立秋の日の出観測会

    縄文遺跡で立秋の日の出の観測会 2023.08.04曇りで日の出は見えずその後日中は天気回復8.05笠無山の峰は雲、左は雲が輝くも日の出は見えずその後雨模様   案内北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!日の出を見ることに集中することは今流行のマインドフルネスにもなるでしょう。特に特別な縄文時代の金生遺跡でですから。縄文時代に何故立秋観測をしていたのか、現地で見てみましょう朝活は立秋8月5、6、7、8日縄文時代の暦の日は6日4時30分頃から5時30分まで場所集合は遺跡現地です縄文時代には笠無山の頂上から出る朝日を、配石と石棒で日の出を観測して、秋の始まりを確認していたものと思い...縄文遺跡で立秋の日の出観測会

  • 「縄文」とは何なのか

    「縄文」とは何なのか「縄文土器」とは、縄文時代とは縄文時代とは旧石器時代後期に土器が作られた初めー16500年前---から紀元前1000年頃までの、新石器時代を示す。「縄文土器」とは縄文時代に造られた土器を全体的に総称している。しかしこの間に主要な模様として、縄文模様が付けられていた時期は、隆起線文土器から羽状縄文土器までの期間である。この期間の縄紋模様は、新石器時代の弓矢の開発から始まり、弓の弦を開発して、羽状縄文の漁網開発までの期間に当たる。それ以後の土器には縄紋模様は主要な模様では無くなる。つまり、新石器時代の主要な生業である小動物の狩猟と漁業の開発の経過を文字では無いが、模様または造形として、記録していたことになると考える。新石器時代の狩猟に中心的道具として使用された弓の開発は、先ず弓の弦を開発す...「縄文」とは何なのか

  • 土器は細かい種を採集するため造られた

    初稿2023.02.07AIの説明追加2023.03.19マメ類と麦の採集性の比較縄文時代草創期西アジア金生遺跡大配石太陽暦観測施設肥沃な三日月地帯では農耕は始まる前から野生のイネ科のムギを採集していたという、野生のムギは種子をなるべく広い範囲に散らすため種子を含んだ小穂が脱落する性質を持っていた。 ところが突然変異で非脱落種のムギが現れると、それは人が播種しなければ次の世代を残せない。栽培種のムギは、この脱落性を有する野生種の遺伝子に突然変異が起きて非脱落性の遺伝子をもつ一粒のムギの個体に遡る。という突然変異が起こり、性質が固定するまでには数千年間かかったと云うようだ。マメ類の場合も同様で有ると思うが、最初の採集の時点でこの細かい種は手編みの籠では採集できない。マメ類の場合ヤブツルアズキマメ類では編み籠...土器は細かい種を採集するため造られた

  • 縄文と縄紋表記の違い 「縄文」が本質を示す

    縄文時代の序説縄の模様は表意模様「縄文」と「縄紋」の違いは何か。縄文時代10000年間の文明を調べて鳥瞰するとき、じょうもんじだいは土器を情報伝達のメディアとして使用していたことが想定できるので、土器の模様は単なるデザインとしての模様では無く、またデザインの変化を示すものでは無く、文字以前、表意文字以前の「意思」の表現であると我々は考えるので、模様としての紋では無く、文字に代替する表意するデザインとして、「縄文」が適切であることを改め認識するに至った。ビングの回答(Answer)「CordmarkedPottery」の訳の違い。当初は「縄紋」であったが、現在は「縄文」が多数を占めている。用字の転換の経緯については、「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(里見絢子)が詳しい。ということから用字の転換の経緯に...縄文と縄紋表記の違い「縄文」が本質を示す

  • 縄文時代は16000年前から始まっていて

    引用します----ーーーーーーーーーーーー今年3月、映画『Winny』が全国で公開された。この作品は、今から19年前の2004年、P2P技術を利用したファイル共有交換ソフト「Winny」を開発した東京大学大学院特任教授(当時)の金子勇氏が、著作権法違反幇助の疑いにより京都府警に逮捕、起訴された事件を題材にしたものである。ご記憶の方も多いかと思うが、改めてこの事件をおさらいしておく。このWinnyが利用しているP2P技術は「Peer-to-Peer」技術の略称で、不特定多数の端末同士がインターネットを通じてデータファイルを直接やり取りできる通信技術である。金子氏はWinnyを2001年に開発し、匿名掲示板サイト「2ちゃんねる」で公開したのだが、その翌年、Winnyを利用して他人の著作物をネット上にアップにし...縄文時代は16000年前から始まっていて

  • 縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか

    年表を追加しました。2022.02.25内容を改訂2022.03.15初稿投稿2021.07.18現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明です。そしてこれは三内丸山遺跡と同時期になるようです。しかし、これに先行するのは縄文前期のストーンサークルを持つ阿久遺跡です。ここでは蓼科山に向けての祭祀が行われていたとされており、それには太陽暦の存在が前提になるものと考えます。また、日本の縄文前期の遺跡からは12000年前の稲作の痕跡であるプラントオパールが発見されていますから、日本にあった古代文明の方が遥かに古い可能性があると云われる。 そうなると、シュメール文明と縄文人の関係はどうなるのでしょうか。というのはシュメール人たちは、数多くの謎を持っていたから。シュメール人はどこから来たのか分かっていない、...縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか

  • 前期末に農耕開始の準備は出来ていた

    初稿投稿2023.6.22縄文時代に土壌改良を行っていたのでは無いかマメ類の細かい種子を採集するため縄文人は土器を開発していたそれに続いてマメ類を栽培して豆粒文土器以後、マメ類の栽培種まで改良していたツルマメ作りからダイズ、ヤブツルアズキからアズキ、などこの過程は数千年掛かっていて、それでマメ類の土地改良の効能についても、気が付いていたのでは無いだろうか科学的合成以前の窒素は根粒菌、マメ類の根に付いた根粒菌に依るところが大きかったのでは無いか。根粒菌はRNAから生命が発生して生命圏が成立するまでのキイファクターなのでは無いか近代科学によるアンモニア合成が出来るまで、土壌中のアンモニアは根粒菌によるものが主要生産源だったのでは無いかビングAIの回答根粒菌は、マメ科植物の根に共生し、根粒を形成する細菌です。根...前期末に農耕開始の準備は出来ていた

  • 持続可能な地球文明の発見と解明

    持続可能な地球文明の発見と解明縄文文明の発見持続可能な農耕、正確な太陽暦を持ち10000年間継続していたようなので、地球文明の持続可能性を示す年表持続可能な農耕エジプト、シュメール文明など古代文明はほとんど自然を食い尽くして砂漠を残し滅亡している持続可能な農耕を開発したのは、縄文文明のみでは無いかマメ類との共存する雑穀混栽農耕窒素固定の再生縄文文明の衰退は気候の寒冷化による農耕衰退による後期から晩期の寒冷化により東で栄えていた縄文文明の人口は、日本列島内を東から西に流れて、文化も西に流れたようだしかし気候の寒冷化には縄文時代の農耕では逆らえなかったマメ類を主とする農耕では、温暖化は問題はなく、寒冷化が問題だった。縄文農耕では国を成立させられるほどの富の蓄積は出来なかったしたがって巨大な社会組織は成立しなか...持続可能な地球文明の発見と解明

  • エデンの園とはシュメール文明

    初稿投稿2021.07.27シュメールという場合、ウバイド文化以降、紀元前4,000年頃にはじまった「ウルク期」から、「ウル第三王朝時代」が滅びた紀元前2,000年直前までをいいます。日本の三内丸山遺跡がちょうどこの頃で、6,500年~6,000年前くらいの縄文時代前期中頃にはじまり、縄文中期末の2,500年前くらいまで続きました。このような縄文時代に、好戦的なシュメールの痕跡がひとつでも残っているかというと、まったくの正反対です。ということのようですがどうでしょうか。シュメール文明SUMERIAN石川源晃著よりお借りしました引用ーーーーーー この古代シュメール人のジャルモ遺跡から西へ約1600キロ離れたエレサレムのエリコ遺跡には、約一万年前の戦争の痕跡を残す焼けだだれた二重の城壁の遺跡が発見されています...エデンの園とはシュメール文明

  • 西アジアの土器文化の開始と縄文土器時代の関係

    西アジアの土器文化の開始先土器新石器時代土器の無い時代紀元前8300年から紀元前6000年ごろ、穀物の栽培と牧畜が開始されていました。大麦や麦類を主とする栽培では、容器は編み籠で問題なく、土器は必要無かったと考える。年表土器新石器時代紀元前6000年から紀元前5500年ごろ、ハッスーナ期北部メソポタミア最古の農耕集落が登場します。紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろ、サーマッラー期紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろ、ハラフ期初期の農耕集落はさらに発展し、彩文土器なども見られるようになります。年表土器の始まりは縄文時代と同じ野焼きによる方法だったが、その後西アジアでは窯により焼く方法に変化していたようだ。これまで土器が必要なかったのに、ここに来て何故土器が必要とされたのか、伝来以外には考え...西アジアの土器文化の開始と縄文土器時代の関係

  • 縄文時代の宇宙へようこそ

    ようこそ縄文時代の宇宙へ縄文時代の宇宙は、太陽と月だった。太陽と月が空を移動して、季節が変わり、海辺では潮の満ち引きが起こっていた。この関係を知ることから、縄文時代の宇宙への認識が始まった。それから約10000年後の2023年の今も、それでも人類の行動範囲は、縄文時代のにんしき範囲から、おおきくは違っていない。つまり人類社会の基礎には、太陽暦と太陰暦があるけれど、星占いは・・・銀河暦は無くて、縄文時代と変わっていない。しかし、縄文時代から大きく変わったのは、CO2は化石燃料から出し、自然界の処理能力を越えた。さらに、窒素固定はマメ類などの根粒菌利用から、化学合成の生産量が自然界の窒素固定と同じレベルにまで達した。 抗して人類の活動により地球の自然環境をきき的状況に至るげんかいまで買えてきたことである。今の...縄文時代の宇宙へようこそ

  • 古代文明の発生 土地の性格

    古代文明の発生土地の性格の違い縄文人台地に住む土地は痩せていたマメ類の利用シュメール下流の沖積堆積地肥沃な土地を利用小麦エジプトナイルの沖積堆積地肥沃な土地を利用小麦マメ類を利用することにより根粒菌を利用でき痩せた土地でも農耕が出来たのでは無いか  図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーー連作障害・コンパニオンプランツトウモロコシは連作障害が出にくいため、同じ場所での連作が可能です。コンパニオンプランツとして、マメ科の野菜(インゲン、エダマメ)を混植することで、トウモロコシの天敵「アワノメイガ」が寄り付かなくなる効果があります。また、マメ科植物の根に付く根粒菌が空気中の窒素を固定して土壌を肥沃にし、菌根菌がリン酸分などの養分を吸収しやすくするため、生育も良くなります。ーーーーーーーーーーー...古代文明の発生土地の性格

  • 夏至の日の出観測会

    2023.06.21夏至の日の出は見えなかった。日の出から暫くたってから太陽が顔を出したので、夏至の日の出観測装置は日の出位置から見て次の石組みに依るように思う冬至日の出ライン上の石組みノーモン位置は残る石棒の位置は石棒は郷土館に移動しているこの想定が成り立つのかどうか、謎はまだ残る。 2023.06.17このところ雨と曇りが続き今日やっと日の出が見えました。日の出方向写真の左端付近が日の出の位置で、夏至の日の出方位には大木と遺跡周囲の巨木の存在により全くの陰になっていました。現状では日の出観測は出来ないことが分りました。これまで遺跡内で夏至の日の出は見ることができなかったので、初めて分りました。以前の遺跡外での夏至の日の出の写真は以下です。遺跡は真ん中付近です。日の出が左位置になります。笠無山は遺跡と重...夏至の日の出観測会

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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
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