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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

  • 文明とは何か 定義

    追加しました2023.04.18初稿2022.09.23次のように云われているようだ---文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明さ...文明とは何か定義

  • 有孔鍔付土器と農耕

    縄文前期諸磯式土器の時期に、これまで無かった全く新しい土器形式が生まれたようだ土器の形そのものが変化していた。それを必要とする社会に変わった何が原因なのか狩猟漁労採集社会から農耕社会に変化したこの変化はそれ以外にないのでは その後の歴史で、弥生人が入ってきた際に、アイヌやインディのように土地を奪われずに、縄文人は弥生人と共存して、同化していったような話のようだから、そうだとすれば、農耕を既に行っており、土地所有の観念が成立していたのだろうと考える。有孔鍔付土器とは胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。出土数は極端に少なく、胎土も精選されており出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。小孔が空けられる理由...有孔鍔付土器と農耕

  • 縄文時代の区分方法提案

    初稿2023.03.2縄文時代は現在、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という風に区分されている。これは日本国内では通用しても、世界的にはどうなのか。特に、前期までの区分は、前期として、その中で1、2,3と区分するのが良いのでは無いだろうか。前期は縄文時代の文化の基礎が形成された時代として理解しやすくなる。Early1st狩猟、漁労、植物栽培の開発Early2nd太陽暦、太陰暦などの暦開発Early3rd農耕開始の技術開発土器形式の変化と生業開発弓矢開発と魚釣り、漁撈、栽培開始の経過粘土、土器は記録材として生業開発の経過が記録されていた 暦開発の経過記録土器は記録材として暦開発の過程が土器口縁に造られた突起で数字が記録されていた   農耕栽培種成立までの記録追加2023.04.13図はお借りしました縄文時代の区分方法提案

  • 太陽暦を基準として縄文時代の文化進展を比較する

    太陽暦の開発進展波状突起口縁の土器の数の経緯太陽暦縄文前期石棒が作られる中期石棒が巨大化、形もキノコないし男根型に成形される農耕開始諸磯式土器の頃、模様が縄文からマメ粒文に変化縄文中期勝坂式土器の頃にはマメ類が栽培種に大型化前期末土偶が作られる中期始め立体型土偶が作られる  図はお借りしました太陽暦を基準として縄文時代の文化進展を比較する

  • Validation of Solar Calendar Observation at Kinsei Ruins

    Title:ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuinsAbstractLocatedinHokutoCity,YamanashiPrefecture,Japan.TheKinseisite,aJomon-erasite,hasthe40-metrebigstonearrangment withastonepoleserectedinit,whichhasbeenfoundtobeasolarcalendarobservationfacility.TheobservationpointswerefoundtobeattheeightsolartermsofthecalendardatesofRisshun,RisshuandWinterSolstice...ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuins

  • 日本天文学会投稿原稿 案

    日本天文学会投稿原稿案日本語版図は省略しました概要日本国山梨県北杜市にある縄文時代の遺跡・金生遺跡には、40メートルの大配石遺構があります、その中に石棒が立てられてあり、太陽暦観測施設となっていることが分ってきた。観測点は八節の暦の立春、立秋、冬至であることが判明した。また各観測点にはランドスケープとして対応する山が設定されている。遺跡の立地については、太陽運行を表示するアナレンマ解析によってもシミュレーションされて、同様な結果となっている。遺跡の立地からも遺構からも太陽暦が示されているので、縄文時代後期には太陽暦が確立していたものと推測できる。このことからは、縄文時代のかなり早い時期から太陽暦の開発が進められていたものと推定出来る。立春、立秋の暦日2点が観測されていた理由は、太陽暦と太陰暦をシンクロさせ...日本天文学会投稿原稿案

  • 石棒とは何か

    初稿2023.3.25男根を模したと見なされている石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(約24000年前)のものまで遡れるという。しかしいわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられていて、その後近畿地方以東を中心に広がったとされている。いわゆる石棒とされているものは、縄文時代中期に何らかの画期があったものと考える。それは前期に引き続いての太陽暦の完成であり、その際太陽観測に石棒が使われていたことから、農耕進展と共に、季節の変化を知り、太陽の力を受け取るものと云うことから、石棒の霊力というようなものが想像されて、その後の石棒信仰のようなことが行われるようになったものと推察する。石棒の始まりは最初は自然石で棒状のものが使われていたものから、加工した石棒へと変化発展した...石棒とは何か

  • メソポタミアで何故占星術が発展したのか

    旧暦と立春立春は旧暦1月1日というのは、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められる太陽暦であるため、多くの年は1日にならない。旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。という節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣...メソポタミアで何故占星術が発展したのか

  • 世界のノーモンの発明者は誰か

    追加します2023.03.27最新のAIの説明をついかします。問い1.古代バビロニアやエジプトの天文学による太陽暦が、古代ローマ時代などで、その後季節が狂ってしまったのは何故ですか。ThenewBingpreviewwillbeavailabledirectlyfromtheWindowstaskbarExternalLinkiconLearnMore‘古代ローマの暦季節ずれ’を検索しています回答を生成しています…古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です12。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました1。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365....世界のノーモンの発明者は誰か

  • ソーラー○○

    縄文時代には粘土、土器は記録材料として利用されていた。生業開発の歴史記録土器太陽暦開発の歴史記録土器、波状突起口縁の土器、数の記録土器への数の記録の歴史は2,4,6、8、12、3、5、7となっている。365日/2182日182/291日半年4分割の暦182/306回の朔望91/245日八節の暦45/315日二十四節気の暦15/35日七十二候のカレンダー  記録は現代までペーパーにされてきた。ソーラーパネルは今発電装置として使用されている。縄文時代の石棒はソーラー石棒だった。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、石棒が太陽暦の標識として使用されていた。立春標識は、自然石をそのまま利用していると思われる石棒が使われていた。冬至日の入りも自然石石棒。これが石棒使用の始まりでは無いだろうか。石棒の起源は太陽暦を...ソーラー○○

  • シュメールの暦は春分が元旦である

    2.22.05.25追加補足しました縄文時代早期には太陽暦は二至二分には到達していたものと考えられるのでシュメールの暦はこの春分冬至から91日を暦の起点とするものと考える。その後縄文時代前期には八節の暦に進展、立春を暦の起点としていたと考える暦作りは起点が春分から立春に45日早まったものと考える。金生遺跡・大配石から、立春と立秋を観測していた施設が分かり、半年一年暦の起点として立春、立秋を観測していたのだろうとの推定が可能となった。また太陰暦についても二至に基づく半年6回の月の相の周期の暦が作られていたものと推定できるので、こうした縄文時代早期の暦の知識がシュメールに伝わっていたものと考える。 最新のAIの説明から追加しました2023.03.21ThenewBingpreviewwillbeavailab...シュメールの暦は春分が元旦である

  • 縄文時代の暦と世界暦

    世界暦というものが提案されているブログ--下に引用しています--があるようです。それに対して縄文時代の暦は、縄文時代早期から金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設建造まで、直接太陽観測を基にしていたという記録も残されていたと考えるので、狂うことは無かったはずです。縄文時代の太陽暦を示す、土器に残された記録による数字の列です、2,4、8、3、5、32です3,5,32の数列は縄文中期以後に残されていたものです。石棒とノーモン表による金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設現代の太陽暦とも一致する暦が作れるでしょう。縄文時代には早くからノーモンが利用され、二十四節気の暦の立春、立秋を観測し、月相を観測して太陰暦との並行使用を行い、朔旦立春を観測していたものと考えています。現代の暦の利用活用は、このレベルにまだ至っていない...縄文時代の暦と世界暦

  • 縄文時代は新石器時代である

    初稿2022.12.30縄文時代はこれまでの遺跡発掘調査報告書から1.縄文時代草創期にはマメ類を採集して、食料とするために、籠に代わる容器として土器を開発した無文土器2.マメ類の栽培を始めた、その驚きを粘土で造形して供献土器を造り記録した豆粒文土器3.縄文時代早期には、農耕のための栽培暦を開発した太陽暦を開発したことを4波状突起口縁の土器を造り供献土器として記録した4.縄文前期には、原種ツルマメ類から大豆、ヤブツルアズキ類からアズキ等が栽培種となった栽培種の成立はマメを粘土に加えて土器を造った粘土に練り込まれた大豆が、痕として残る諸磯式土器 このようにして縄文時代草創期には、マメ類の栽培は開始されていたしかし家畜が無いことからシュメール文明に繋がる新石器時代の定義に合わないとされてきたなぜ縄文時代には畜産...縄文時代は新石器時代である

  • 土器 粘土は第三の道具

    これまで縄文人が使った道具は、二種類に分けることができるとされていて一つは、生業生活において直接役立つものです。弓矢、石斧、石皿などが挙げられます。こうした道具を、小林達雄先生(考古学者・國學院大學文学部名誉教授)は「第一の道具」と呼びました。それに対して、生業には直接役立つわけではないが、土偶や石棒など呪術や祭祀に使用されるものを「第二の道具」と呼びました。という第一の道具は直接生産に関わるものです。第二の道具は、基本的には精神文化に関わる祈りの道具です。土偶は、第二の道具の典型例です。石棒も第二の道具の典型例です。この第二の道具を詳しく見ていきましょう。石棒はいわばファロス、男性器の象徴です。対して土偶は、基本的には女性です。関東から中部高地にかけて出てくる中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産...土器粘土は第三の道具

  • 石棒は何のために作られたのか

    初稿2023.03.072023.03.19AIの説明まとめを追加しました。石棒が作られ始めた時期の経緯を纏めてみました。巨大石棒は中期中葉の勝坂期(約5000年前)のものでした。という 後葉の加曾利E3式期(4700~4500年前)の無頭石棒は、巨大石棒(勝坂4式期)から300年程度を経ているこの時期に太陽暦、24節気の暦が完成しているので、太陽暦観測との関係では無いだろうか。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、観測点に石棒が設置されていた。中期後葉の終末期(加曽利E4式期)は約4500年前と判定されています。中期中葉・勝坂期は、縄文海進によって山の幸、海の幸に恵まれた豊かな生活を保証されていました中期後葉・加曾利E3式期になると次第に寒冷化し、次第に海が引いて行って(縄文海退)、自然環境が悪化し、...石棒は何のために作られたのか

  • 360度 24時間 の起源は

    追加して現在の最先端のAI技術で、24時間と360度の起源を調べてみました。追加しています。2023.03.19初稿2023.02.16360度24時間の起源は何処にあるのだろうか。 “世の中変えるターニングポイント”対話型AI「チャットGPT」 クリエイティブな仕事も可能とこのようなものが利用できれば、簡単に回答が出てくるようですが、今此処では無理なので、人力でやってみました。シュメール文明としているのが多いようだエジプトとするものも有るようです。年表しかしこれらの文明国を超えて、1000-2000年も古いのは縄文時代のように思う。縄文時代前期には、太陽観測により365日を知り、また一年を24分割して、という数字の起源を再現できる記録を残しているのは、縄文時代である。土器にこのような波状突起口縁の土器を...360度24時間の起源は

  • チャイナの暦の歴史

    2021.06.11初投稿チャイナの暦の歴史引用する---戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の??暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により??暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲...チャイナの暦の歴史

  • シュメールの暦

     エジプトとシュメール文明の暦についてまとめた エジプトの太陽暦とは#calender旅行2021-07-0120:12:14 エジプトの太陽暦とは、シリウスとナイルの氾濫をもとにした暦太陽の運行を見ていたものなのかは疑問いろいろと調べてみましたが、よく分りませんでした。金生遺跡では明確に太陽を観測していたと分りました。太陽の運行の定点観測が基準ですから、毎年観測して暦を作っていたものと考えます。それも八節の暦でこの基本は世界の常識のようですから、その天文台が現存している。引用----エジプトの天文学に関する最も古く、詳細な文献は、中王国時代(前2055-1650)初期の木棺の蓋に描かれた「対角線暦」あるいは「星時計」と呼ばれるものである。同様のものは末期王朝にも見られる。これらの暦では36の行があり、夜...シュメールの暦

  • 世界史の中の縄文文化

    縄文時代の文化はこれまで、土器形式の変化を軸として示されてきた。文化内容に関してこの土器形式の変化と対応させて概観することはされてこなかった。しかも東アジアの土器の存在は、西アジアに対して縄文時代の特筆すべき文化であった。これをすることにより、縄文時代を俯瞰して捉えることが出来ると考える。1.新石器時代の生業開発の歴史縄文土器には、旧石器時代後期から新石器時代の生業開発の歴史が記録されていた画期的な生業が開発される度に、それを記念して供献土器が造られ、生業開発ができたことを祝っていた。土器の開発はマメ類の採集のために籠では役に立たないので、土器を開発したものであるマメ類、ヒエ類などの栽培を開始出来たことを祝って、豆粒文土器が造られた弓矢の開発弦の開発は隆起線文土器、石鏃の開発は爪形文土器、弦の更なる改良は...世界史の中の縄文文化

  • 金生遺跡の立春観測会

    観測会記録2023.02.02日の出前曇って星は見えず日の出も雲で薄日が射すのみ、ノーモンは風が強いので倒れてしまった。02.03      本日も薄曇りで、立春石棒での観測は困難でした、それでも石棒の右手の直近にノーモンの影が差すことは何とか見て取ることが出来ました。明日の快晴を切望。02.04日の出の時曇り、のち快晴02.05快晴石棒の左側に表・ノーモンの影がはっきり出ました。  まとめです太陽暦の一年の始まり冬至で南の限界まで遠離って行っていた太陽は、北に還ってくる。ノーモンの影は冬至で北の配石限界に達していたが、日毎に少しずつ左に移動する。立春前日までは石棒の右外側に日差しが来ていた。立春で石棒に当たり次の日からは影は石棒の左に当たり、日の出と共に影は右回りに移動して、この日以後は、時間変化と共に...金生遺跡の立春観測会

  • 関山、黒浜、諸磯式土器などの模様

    関山、黒浜、諸磯式土器などの模様マメ類やヒエ類などの栽培種が成立していた時期の土器はどのようなものなのか列べてその模様の変化を見てみる 関山式土器 黒浜式土器 諸磯式土器の模様何れも豆粒のような造形が見えている。これらの土器がその時期を代表するものなのかは今一ですが。 時期と土器の関係が整理されていた千葉の例 図はお借りしました関山、黒浜、諸磯式土器などの模様

  • お知らせがあります、立春前々日の朝 彗星

    お知らせがあります、立春の日の出前に彗星が見えるかも「ZTF彗星」最接近5万年ぶり、二度と戻らず2022年に発見された「ZTF(ズィーティーエフ)彗星」が地球に近づいている。国立天文台によると、接近は約5万年ぶりとみられ、最接近するのは2月2日未明。地球から約4200万キロメートルまで近づく。5等級ほどの明るさになり「天の川が見られるよがうな暗い空であれば、肉眼でもぼんやりと観測できる」としている。という縄文時代に文明を開始して、ほぼ15000年の今、それを超えた旧石器時代からの50000年の時間振りに現れたようです。沖縄県国頭村の辺戸岬で見られた「ZTF彗星」=31日午後7時49分から各4秒露光で撮影した15枚を合成これを知ると金生遺跡は低地で湿度が高いので快晴でも肉眼で見るのは難しいかも知れません。日...お知らせがあります、立春前々日の朝彗星

  • 国立天文台など へのメール

    杉本博司氏へのメールEテレ日曜美術館での「江之浦測候所」の日の出を見ました。5000年後に廃虚となったときにこの作品は完成するというようなことを言われていた。縄文時代から残ってきた金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は既に4500年ほど過ぎていて、現代の太陽暦と変わらない二十四節気の暦を正確に観測し続けている。この遺跡はこれからも「江之浦測候所」と同じ時を過ごして、縄文時代の文明の開始からの時を刻んで、9500年の歴史を示すかも知れないものと思う。もしそれ以前に人類が滅びなければということなのであるが。ーーーーーーーーーーーーーー杉本博司様突然のメールで失礼します。当方は一昨年以来、山梨県北杜市の縄文遺跡金生遺跡に於いて、太陽暦の存在を確認したと考えています。それは金生遺跡の大配石で太陽暦が観測されていたこ...国立天文台などへのメール

  • 縄文時代10,000年の新しい時代区分 案

    2023.01.11投稿初稿現在の縄文時代の区切りは、土器の模様の変遷をただ追っているだけで、文化的要素からの区切りで無いので、これを新しく文化的要素による区切りに見直してみる。 1.無文土器が造られた時から羽状縄文土器、諸磯式土器の時期までを「生業開発の時代」とする。文化的内容は、雑穀農耕の成立まで、マメ類の採集からマメ類、ヒエ類の穀類の栽培を始めて、栽培種が成立して農耕が開始するまでの時期狩猟については弓を開発して弓の弦の開発を中心として、魚釣りの開発、網漁の開発など、狩猟、漁撈の生業成立まで。土器には主として縄紋の模様が付けられていた時代また、太陽暦と太陰暦の開発の時代でも有るこれは鮭の遡上回帰漁、海の干満を知ることで巨大な貝塚を造る潮干狩りが出来るようになった。マメ類や雑穀類の栽培のために季節を知...縄文時代10,000年の新しい時代区分案

  • 金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性金生遺跡の立地について、再度まとめてみる。大配石は二十四節気の暦の立春、立秋の日の出の日にちを観測する事が出来る。観測精度は1日程度の正確さで設計されていた。ランドスケープは、通称茅が岳と呼ばれる山の、金が岳のピークに立春の日の出が設定されていた。立秋については笠無山となっていて、立秋の日の出はこの山のピークに設定されていた。冬至の日の入りは甲斐駒ヶ岳のピーク右になる。この日の入りは、配石の石棒により観測できる。 金生遺跡立地の日の出をシミュレーションするアナレンマ解析を適用して、この立地はそれに整合していることが立証されている。日本天文考古学会の樋口元康氏により再現されている。笠無山 冬至甲斐駒ヶ岳のピーク右金生遺跡は台地上にあり、この台地は20万年前とされる...金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性

  • 縄文時代とシュメール文明の文書

    縄文時代とシュメール文明の文書縄文時代には文字は無かったものの、縄文時代草創期から土器が開発されていて、縄文人の生業開発の経過が、土器に造形記録されて残されていた。西アジアでは土器の開発が遅れて、記録が残されたのは紀元前4000年頃からと遅れていた。縄文時代草創期土器開発の歴史と弓矢の開発の記録縄文時代早期太陽暦と太陰暦の成立を数字として記録していた マメ類、ヒエ類の栽培種の成立の記録シュメール文明の文書楔形文字の記録紀元前4000年頃から  縄文時代草創期からの記録  図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーユーラシア大陸世界最古の書類 江上波夫さんの収集品展示横浜の文化館西アジアを中心に発掘調査した考古学者の故・江上波夫さんの収集品を公開する企画展「ユーラシアへのまなざし」が、横浜市中区の横...縄文時代とシュメール文明の文書

  • 縄文時代に農耕が存在したはず

    2022.12.14投稿金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設この観測により二十四節気の暦が作られていたと思う。大配石では石棒により立春と立秋の八節の暦二十四節気の暦の太陽暦の暦日が観測できる365/2182/291/245日45日区切りの立春からの日数計算による暦日立春は冬至日から45日目現代の太陽暦から0.5日早い位置これは現在の太陽暦の暦日に一致していることになる立秋は45*4180日現代の太陽暦より2日早い位置8/7日-2日8/5日が二十四節気の暦の立秋日これは石棒で観測される日にちに一致している。以上のことは今後詳細に観測して確認する必要がある。ところで、縄文中期には3突起の土器や3本指を持つ土偶、3本指を持つ土器の造形浮彫、その他三角の土器や石などがある。この3と言う数字は暦計算の45/315日の...縄文時代に農耕が存在したはず

  • 農耕開始までの縄文時代の歴史

    土器と農耕開始までの縄文時代の歴史土器形式の展開 代表的土器内容項目無文土器マメ類の採集の容器豆粒文土器マメ類、ヒエ類栽培開始縄文土器の時代狩猟時代弓矢の開発魚釣り漁の開始貝殻貝文土器貝塚潮干狩り漁網漁の開始この間栽培技術の画期は無かったずいぶん長い時間が掛かった諸磯式土器栽培種の完成マメ類、ヒエ類など栽培種が成立 マメ類、ヒエ類を示す模様 勝坂式土器農耕開始 3波状突起口縁の土器社会進化二十四節気の暦5日、7日のカレンダー  補修5波状突起口縁の土器中央集権的で無く、分散聚落だったことで、自然に従う生活、太陽暦、太陰暦という暦に素直に従う社会だったのではないだろうか。 年代との対比年表  図はお借りしました農耕開始までの縄文時代の歴史

  • ヒエは主作物だったのか

    ヒエと諸磯式土器ヒエが何時栽培種の成立があったのか、これまで調べていなかったので、諸磯式土器の模様と関係するのでは無いかと思い調べてみたところ、時期的には整合することが分った。土器形式年表ダイズ、アズキ土器 ダイズ、アズキも同じ時期なので、こうした作物が土器模様に反映したのだろうと思う。土器縄文が無くなった土器まめかひえかマメ類ヒエるいなのか 畑に害をするイノシシ 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー本論文では遺跡から出土したダイズ,アズキ,ヒエ属の種子サイズデータを集成し,縄文時代における形態上のドメスティケーション(種子の大型化)の過程を検討した.ダイズとアズキは6,000年前頃から4,000年前頃にかけて中部高地と関東地方西部地域(諸磯・勝坂式土器文化圏)において出土数が増加し,現在の...ヒエは主作物だったのか

  • 弓矢による狩猟は何時から、何処から始まったのか

    弓矢猟に関して、今の段階で分っていることは弓矢猟は何処で始まったのかヨーロッパ最古の弓の考古学的証拠は、アーレンスブルギアン期(c.12,900-11,700calBP)の遺跡であるドイツのシュテルモーア遺跡で見つかっている(Rust,1943)。という日本においては、石鏃が増加するのは13,500calBP頃である。日本で有溝砥石が増えるのもこの時期であり、直線的な溝を持つ有溝砥石は矢柄研磨器として機能したと考えられる(佐野他2018)。しかし、隆起線文土器に伴って出土する両面加工有舌尖頭器の計量測定学的分析により、その多くは鏃として機能したと考えられるようになってきた(橋詰2015;御堂島2015)。両面加工有舌尖頭器が出現するのは、晩氷期が始まる15,000calBP頃であり、晩氷期の急激な温暖化に...弓矢による狩猟は何時から、何処から始まったのか

  • 大寒の日の出

    2023.01.20大寒日の出観測ノーモンによる日の出時刻は7:15分快晴に恵まれて日の出はバッチリ、配石内にターゲットは見えません、ありませんでした。 布をかぶせて白く見えるものが立春ターゲットの石棒です。ロープは冬至のノーモンラインの心算。冬至から30日でここまで移動した。あと15日で立春。 2021.06.18投稿以下金生遺跡で冬至から太陽観測日の出を見て3日ほどは天候が良く観測できたが4日目には曇天となり日の出を見ることは出来なかった。こうしている間に、晴天に恵まれ日の出を見ることが出来ると言うことはかなり幸運なことと分ってきた。冬至から観測を始めて次に初日の出を見ることができた。その後は春分に日の出を見る会をやろうと言うことにしたが、途中タイミング良くたまたま大寒の日は天気良く日の出を見ることが...大寒の日の出

  • 撚糸文土器とは釣り糸、魚釣り漁技術の完成祝いの象徴

    撚糸文の施された土器、撚糸文模様を付けたのは、土器そのものの機能性を上げるためのものとは思えない。土器にそのような模様を付けるためを目的にして、特別にそのような細い糸と糸巻きを作ったものとは考えにくい。この時期は生業開発の工夫が様々に継続されていたものだろう。そして釣り針や釣り糸が完成して、魚釣り漁が開始した時期に当たるようだ撚糸文とは、テグスが開発され釣り糸での漁業開始を示すものでは無いかと思う釣り糸、テグスは当時のハイテク製品、釣りによる生業はハイテク技術その生業は先端産業魚を釣り上げるという技術は、集落の人々を驚かせ、大いに喜ばせたものと考える。新しい生業が開発された瞬間であり、定住がそれにより更に安定して、それは供献土器に作り祝い記録して、祈る対象としていたのでは無いか。図はお借りしました引用ーー...撚糸文土器とは釣り糸、魚釣り漁技術の完成祝いの象徴

  • ヘビ 蛇の由来

    諸磯式土器の時期に土器の口縁にイノシシとヘビの像が付けられていたこれまでは狩猟で食料となるイノシシだったが農耕開始で害獣となるイノシシヘビは恐れの対象だったが畑や収穫した穀物保存の害獣となるねずみを取る益虫となるヘビしかしイノシシとヘビの把手は次に伝わらなかったという勝坂式土器の時代には、土器の模様そのものが、これまでの縄目の模様から大変革を起こし、縄目を排して、浮彫のような造形の土器となる。中期以降のヘビの造形は、外来の思想と技術が渡来して変化したのだろうか土偶のヘビの思想 髪型なのでは無いのか 年表図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーーそして、びっくりしたのは長野県諏訪郡富士見町藤内遺跡から出土した縄文中期の「蛇を戴く土偶」でした。「藤森栄一は『縄文の八ヶ岳』という本の中で、縄文中期...ヘビ蛇の由来

  • ヒエとはどんな作物なのか 再認識

    5000年前までに日本で発見された栽培植物の数の多さ、主なものでもアサ、ウルシ、エゴマ、アブラナ、ゴボウ、アカザ、ヒエ、ダイズ、アズキ・・・。ニホンヒエは、野生のヒエを日本で栽培化したもので、縄文中期の三内丸山遺跡(青森県)からは、当時すでに大量のイヌビエを栽培していたことが推測されているという。アイヌ民族は、ヒエを「ピヤパ」と呼び、お粥などにして食べていて、ヒエは祖先神が直接もたらした聖なる穀物という説話が語り伝えられています。というこのようなことから見て、縄文時代にはヒエは主要な穀物とされていた可能性があるのでは無いか。土偶ヒエの土偶なのだろうか在来種ヒエというヒエは日本人の重要な主食として食べ継がれてきていて、昭和30年代までは多くの山間地でヒエが食べられてきました。その理由は、寒冷地ではイネを栽培...ヒエとはどんな作物なのか再認識

  • 縄文時代とチャイナの文化

    新石器時代の文化比較縄文土器の編年表縄文時代の文化事項チャイナの文化事項縄文時代早期末に世界に文化が拡散した。九州のカルデラ噴火により縄文人が世界各地に避難していたのだろう。新石器時代の文化の進化する歴史が見えない 引用しますーーーーーーーーーーーーーー縄文早期と縄文前期の間には、鬼界カルデラ噴火があります。アカホヤ火山灰層と言って、マダラのように赤っぽい面が混じる地層です。層の上と下では時期が異なるのです。日本人の海洋的資質は巨大火山「喜界カルデラ」によって拡散した。列島の縄文文化に先駆けた南九州の縄文文化は、7300年前の鬼界カルデラのアカホヤ噴火で壊滅した。そこに住んでいた縄文人は生き延びて他の地域に移り住んだようである。遡って、約7300年前に起こった薩摩半島沖の鬼界カルデラの噴火では、四国以西の...縄文時代とチャイナの文化

  • 縄文土器時代の天文文化史年表

    縄文時代はこれまで土器模様の変遷による編年がされていた。それでは年表としては理解しにくいので土器に縄文模様が付けられていた時期は、農耕開始までの各種生業などが開発されていた時期なので文化事項から年表を作ってみる年代順に整列している天文文化史的項目採集など暦開発に関係するもの  狩猟・漁撈などの生業土器の発生無文土器マメ類のような細かい種を採集するために土器は造られた豆粒文土器マメ類の栽培を始めた  隆起線文土器弓の開発矢の開発石鏃開発弓の弦を更に細く強くする開発多縄文、押圧縄文、回転縄文魚釣り漁の開始テグス開発撚糸文土器鮭の遡上回帰漁開始遡上時期季節を知るための太陽暦の開発2波状突起口縁の土器潮干狩りの開始潮の干満を知る太陰暦開発貝塚の形成6波状突起口縁の土器貝殻条痕文土器、沈線文土器魚網による漁撈開始羽...縄文土器時代の天文文化史年表

  • 節分に何故マメを使って鬼を追うのか

    節分に何故マメを使って鬼を追うのだろうか何かでそんなことを見たものだから、そういえば不思議なことですウェブでサーチしてみたが、適切な説明がありません、今一納得出来る解説が無い。チャイナからの伝来なら、チャイナでマメを投げていたのだろうかそんな話は聞いたことが無いそれなら縄文以来の伝統なのか立春は暦開発の縄文時代以来であり、マメ類は縄文時代草創期10,000年以来のツルマメ類から栽培種が成立したものなので、同じ出自なのだろうか。節分は晦日であり、立春からが農事暦では新年になる。立春起点の暦は88夜、210日、220日など雑節とされているものがある。マメ類を食用の中心にした縄文時代に、種蒔きの前に、マメを撒くことで、土地の悪霊をはらい、豊作を祈念する祭が行われていたのだろうか。マメ類の栽培は縄文時代草創期から...節分に何故マメを使って鬼を追うのか

  • 土偶は何のために造られたのか

    農耕開始のシグナル土器の発生は縄文時代草創期と西アジアでは5000年以上の差がある。 小さい粒のマメ類採集の容器には土器が必要とされたものと考える。穂と芒のある麦類の採集には編み籠で十分だった。土偶の造形は何を示すのか造形の変化中期に多く造られた諸磯式期から勝坂式土器の時代には、マメ類の供献土器から、ダイズやアズキ、ヒエの栽培種が成立していたので、農耕が始まっていたと考える。前期までの土偶は板状で、自立できるものでは無かったようだ。それが縄文時代中期初頭の時期には、立像土偶の出現です(今福1998)という。立像土偶とは、それ自体で自立することが可能な土偶の総称で、それまでの板状土偶と対比される土偶の構造を示す用語です。つまり、住居の壁などに立て掛けたり、また平面に安置して祭祀に供した土偶と異なり、あくまで...土偶は何のために造られたのか

  • 雑穀栽培、混作の理由

    縄文時代には単一作物、大量生産に向かわなかった、それは何故なのかダイズの土器縄文時代早期以降,全国でツルマメ型の検出が増加するが,縄文時代中期になると,明らかに野生ツルマメよりも大型の種子が目立つようになる。中期計測すると野生種より粒の幅が広く、現在の栽培ヒエに近いものが50%以上占めていたという後期旧石器時代の末に植物からの食料を探して、イヌビエ、マメ類採取を始めた。穀類、マメ類の栽培を始めて、諸磯式土器の時期に栽培種が成立した年表穀類、マメ類の栽培種が成立するまでには、草創期から中期まで、10000年近く掛かっていたのだろうか。野生の植物は、同一株でもいっせいには出穂しない。時期をずらして、つぎつぎに出穂する。いっせいに穂を出せば、運悪く風水害などに遭遇したり鳥害を受けたりしたときに、すべての種子が壊...雑穀栽培、混作の理由

  • 縄文時代 1万年の括りをやり直す

    縄文時代1万年の括りは大きすぎるので、生業開発の進行は土器に書かれているので、括り方を考えてみる。狩猟時代後期旧石器まで細石器、細石刃有舌尖頭器 狩猟採集時代土器の開発無文土器、豆粒文土器マメ類、ヒエ類の原種栽培開始弓矢による狩猟隆起線文土器系爪形文多縄文回転縄文の時期鮭の遡上回帰漁太陽暦開発2波状突起口縁の土器魚釣りによる漁撈釣り糸撚り糸の開発撚糸文土器貝塚の時代太陰暦の成立貝殻条痕文土器、沈線文土器漁網漁の時代羽状縄文土器 農耕時代諸磯式土器、勝坂式土器マメ類、ヒエ類の栽培種成立までマメ類、ヒエ類穀類栽培種成立以後土器の多様化 農耕開始マメ類、ヒエ類の栽培種成立マメ類、ヒエ類穀類栽培種成立以後ダイズ栽培種の成立により必須栄養面から、狩猟、牧畜を不要とする文明が成立した。太陽暦の完成 文明の歴史「縄文時...縄文時代1万年の括りをやり直す

  • 文明開発の歴史

    細石器、細石刃の時期有舌尖頭器投げ槍固定式弓植物食料の開発無文土器マメ類の採集の容器 豆粒文土器マメ類栽培を開始 隆起線文系土器の時期隆線文土器可搬式弓猟、弓の弦開発 爪形文土器矢柄の石鏃開発  強力な弓の弦開発多縄文土器撚糸文土器魚釣りの開始テグスの開発貝殻条痕文土器貝塚の形成太陰暦の成立沈線文土器羽状縄文土器漁網による漁の開始縄文時代とは、弓矢猟の開始と主に弓の弦紐を細く強くする開発を続けて、釣り糸撚り糸を開発していた時代である。人類初の生業開発をしてきて、マメ類など穀物の栽培種が成立して、ここでほぼ完成した、縄文土器の時代はここで終わる。ハイウェイでも無い道路にブルーハイウェイと名称を付けていたが、名称変更した。以後の時代は火焔土器の時代とか、八ヶ岳時代、浮彫土器の時代、畑時代、ダイズ時代、何でも良...文明開発の歴史

  • 縄文時代の生業開発

    旧石器時代後期に狩猟での食糧確保が難しくなり、植物性食糧の確保を始めた。その一つとしてマメ類の採集を始めて、細かいマメ類の種を漏らすこと無く集めるために、容器として編み籠から無文土器を開発した。野原からマメ類の種を採集するだけでなく、種を播いて、上手く収穫することが出来ることがわかり、豆粒文土器に記録した。栽培は季節に合わせて行うために太陽暦を開発したマメ類の栽培から、ダイズ、アズキ、ヒエなどの大きな種を作る栽培種が成立して農耕を確立したこの時期から土器の模様は大きく変化して縄文模様の無いものになった諸磯式、勝坂式土器の時期。それは狩猟により得る食べ物が、ダイズなど豆類の農耕が確立することで、必須食料としなくても良くなったことである。 その後太陽暦は二十四節気の暦を造り、太陰暦とシンクロさせ、暦の正確さを...縄文時代の生業開発

  • マメ類の痕の有る土器

    アズキ栽培種伴野原遺跡出土深鉢片伴野原遺跡33号住居址埋甕破片展開会田進他土器の外側と内側あわせて160個のアズキが混入していたのですから、いたるところ穴だらけです。製作する段階からすでに日用品としての実用性は低かったと考えられます。という土器であるダイズも混じっているという出土状況タイズ栽培種山梨県北杜市酒呑場遺跡の181号土坑から出土した縄文中期の蛇体把手付土器[3]の把手部分から栽培ダイズの圧痕が発見され、レプリカ・セム法による観察で栽培植物であると確認された。また、同様の手法で山梨県都留市の中谷遺跡から出土した縄文晩期前半の土器からは穀物害虫であるコクゾウムシが検出されている。図は探せませんでした  縄文時代の太陽暦と作物の進化原種からのヒエ、マメ類の栽培種成立図を参照小麦やヒエ類は採取に編み籠の...マメ類の痕の有る土器

  • 縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会 ご案内

    冬至と配石の関係2023.01.01初日の出の観測配石の東端先端から黄色の観測用ロープを引くことで、配石の北側限界を出して、日の出を観測しました。冬至前後10日では日の出位置は変わらないので、快晴に恵まれて、日の出と配石限界の関係を、観測により、妨害するために設置されているモニュメント石棒と電柱などをものともせず、観測できました。 日の出7.12分ノーモンの影7.13分7.14分 予測通りであることが確認できました。2020.12.21以来の結果です。配石の北限は冬至の日の出ラインになっていること。冬至日の入りは冬至石棒の陰がノーモン台を射すこと。   縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会案内北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配...縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会ご案内

  • 西アジアの歴史と縄文時代

    西アジアでは1万2500年前ころから定住をした竪穴住居のようなものが見つかっている。生活の基本は旧石器時代以来の採集狩猟だから、そのような人々は定住的採集狩猟民ということになる。かれらの文化をナトゥーフ文化という。家屋は円形の竪穴住居で、石の壁や貯蔵穴をもっていた。遺跡から出土する遺物は、後の新石器時代を彷彿とさせるものが多い。たとえば、穀物収穫用の石鎌や、製粉具である石皿、石鉢、石杵が大量に見つかる。というしかし土器は出ていない。土器が造られるようになったのは…西アジア最古の土器は、イラク国境に近いイランのガンジ・ダレ(英語版)出土の土器が放射性炭素年代測定で約1万年前と報告されている[5]。この土器についての研究者の見解は、9000年前ないし8000年前とするものが主流であるという。この時期は縄文時代...西アジアの歴史と縄文時代

  • 農耕の開始時期

    縄文時代草創期に土器が造られ、マメ類を食用とするマメ類の栽培開始家畜や牧畜は不要の文化縄文時代・草創期(16000年?)日本列島・定住生活が始まる・土器が作られる・土偶や線刻礫が出現する・弓矢の使用が始まる土器の特色生業開発の画期を土器に記録して残した・丸底深鉢土器(底が丸い)無文、マメ類の採集の容器豆粒文などの特色。マメ類の栽培開始隆起線文、弓矢による狩猟の開始爪形文(つめがたもん)、矢の先端に付ける石鏃開発開始多縄文土器、押型文、回転縄文、などに弓の弦の改良進展を記録撚糸文土器釣り糸漁のテグス開発尖底土器煮炊きの開発※隆起線文(りゅうきせんもん)細い隆起状の帯の文様※豆粒文(とうりゅうもん)豆粒状の突起があるマメ類を食用とするため、動物性の食糧確保は必ずしも必要では無いその後の縄文時代早期には暦が開発...農耕の開始時期

  • ナトゥーフ、サマッラ、ハラフと縄文 石皿の違い

    メソポタミア地域のシュメール文明に先行する小麦栽培を始めた、ナトゥーフの小麦を主食とする文化とドングリやマメ類を食用とする文化の差違はどうなのか 縄文時代には、少し潰せば良いという程度の処理あく抜きのため砕く石皿は少しへこんでいる程度それ程固くは無いものを砕いていた 小麦などの種は固く、ゴリゴリと磨り潰して粉にする文化すりこぎ棒と深く抉れたボール、容器として使えそうなほど凹んでいる。もちろんここには土器はまだ無かったから容器として使ったのだろう。小麦の穂の採取にも、編み籠が使われていた。小さい種で籠から漏れてしまうため土器を必要としたマメ類と違い、麦には容器としては編み籠それで十分だった。 小麦を粉にすることは大変な重労働であったというそうだ。図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーシリアにある...ナトゥーフ、サマッラ、ハラフと縄文石皿の違い

  • 農耕が生業の主要構成要素となる

    縄文から諸磯、勝坂式土器への変化の時期縄文時代の集落は中央高地や関東地方の広域的な集落変革が見られ、諸磯b式期にはじまり環状集落の五領ヶ台式期から井戸尻式期を経て曽利式期に至る3つの時期があり、以降は拠点集落が長坂上条遺跡へ移る。 諸磯式期から勝坂式土器の時期に栽培ダイズが確認されているというこの時期の土器の変化は、それまでの縄文から大きく変わり、次のようなものになっていた諸磯式、 勝坂式 これまでの撚り糸文や縄文という、いかにも縄文縄目という模様から離れて、勝坂式の土器となる農耕の収穫が向上して、いよいよ食料獲得の主要構成要素となり、集落の安定した生活が、狩猟から農耕の収穫へ変化したことが推察できるのでは無いか。土偶も同じ時期に大きく変化していた土偶は矢張り世界の古代文化と同様に、植物や農耕の豊穣に関係...農耕が生業の主要構成要素となる

  • 土器の模様は何を考えて付けたのか

    土偶から見て草創期早期は具象的表現前期に入ると土偶は、得体の知れないものになり、抽象的な何か見えないものを造形したように見える縄文時代草創期から前期初めまでは、生業開発の時期で、道具開発が主となり同様に土器の模様は、それを表現するために造形表現していたのだろう撚糸文、羽状縄文土器までは具体的なものを模様で表現していたものと思う太陽暦開発などは表現しようが無く、象徴的な数字を波状突起口縁の土器で表現していた 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー土器の模様は何を考えて付けたのか

  • 縄文時代 文明の画期

    文明の画期はどのように推移したか、幻視してみる後期旧石器の細石器、細石刃文化の後の時期に開発された文化は次のように行われた。☆生業開発の時代1.土器は編み籠の目が粗いマメ類が漏れてしまう欠点を無くすための工夫から始まった無文土器農耕開始は豆粒文土器の時期からで、マメ類の栽培が始められた2.弓矢の開発による狩猟開始は隆起線文系土器の時期である、弓矢の猟は列島に広がり、土器造りも広がり造る量も増加した土器に付けられた隆起線文は弓の弦を開発した画期を示す 石鏃の開発は爪形文土器により示されていた3.魚釣り漁の開始は魚釣り漁のための撚り糸が作られてからで、撚糸文土器の時期であるこの時期に土器が煮炊きに本格的に利用されて、尖底土器が大幅に増加した。 ☆ソフトウェア開発の時代4.初めに太陽暦が作られたのは鮭の遡上回帰...縄文時代文明の画期

  • 農耕開始の記録は何処にあるのか

    農耕開始の記録について1.縄文土器の年表2.豆粒文土器とは何なのかこの土器は豆粒を表現していることは間違いないと考える草創期、早期には土偶が造られていて、それは極めて芸術的な具象造形の表現であった豆粒文土器以前に造られていたのは、無文土器である。無文土器が土器作りの開始であった。この土器は細かい粒子であるマメ類の採集を目的として、籠に代わる豆粒が漏れ落ちない容器として造られたと考えるので、容器としての機能第一の土器であったと思う。だとすれば、次に造られた豆粒文土器は豆粒の採集が容易に出来るという、それ以上の思いをそれに託したものと考える。それは豆粒の採集から、マメを播いて芽が出て、栽培して育て収穫するという知識を得たという画期を示しているものと考える。つまり豆粒文土器は、縄文時代の草創期に農耕を開始したと...農耕開始の記録は何処にあるのか

  • 麦類とマメ類の採集容器の違い

    ●弓矢の発明15000年前頃・化石資料や洞窟壁画等から判断して、弓矢の発明はおそらく16000~14000年前頃。とされている●農耕・牧畜の開始12000年前頃・農耕:西アジア、東南アジア、中央アメリカ、西アフリカ起源の農耕があるが、最も古いと言われているのは、中東の麦栽培。北シリアから栽培種の小麦が発見されている。しかし(野生種と異なり、穂が実っても種籾が落ちにくく、収穫→種まきを前提とした品種に改良されている)このように云われているが、これを見ても分るように、原種は元々は種が穂から落ち易いものだったが、小麦は既に種籾が落ちにくく、品種改良されていたという。この情況であれば弓矢の開発に先んじて、小麦栽培が始められて、ここまで改良されていたと考える方が正解では無いだろうか。この時期の情況を土器に記録して残...麦類とマメ類の採集容器の違い

  • 列島周囲の歴史を概観 年表

    列島周囲の歴史を概観するのに良い年表がありましたのでお借りしました 年代の比較は難しいですが、縄文時代草創期、早期は10,000年より前の時代となるようです。図はお借りしました元は以下の引用にあります引用ーーーーーーーーーーーーーー 日本人の源流を探して(敬称は全て省略しています) 第1部最初の日本人の系譜11.大陸文化の縦断路-日本海文化圏-  縄文人の ファッションを彩った玦(ケツ)状耳飾 長江中・下流域に、「黄河文明」に先行する「長江文明」があったことが、近年認知されてきた。その長江文明で、最も繁栄した良渚遺跡(5,500~4,000年前)から実に4,000に上る多数の、且つ精緻で優美な玉器が出土した。次の写真はそのうちの優品である。これらの高度な玉製品の数々から、現代に続く中国人の玉信仰は、長江流...列島周囲の歴史を概観年表

  • 縄文時代の生業開発

    2025年大阪万博モニュメントの提案を行いました。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設のランドスケープアナレンマ解析結果日の出 日の入り 太陽運行のシミュレーションの結果から、金生遺跡の立地は太陽暦観測が出来る立地であることが明確に示されました。 大配石太陽暦観測装置石棒の配置位置で正確に観測している 縄文時代に、何故このような立地を探して太陽暦観測施設を建造していたのか、調査の結果、現代の太陽暦と変わりない正確な太陽暦二十四節気の暦を観測していることが分りました。このような太陽暦を作る必要性は農耕以外に考えられ無いと考えます。その起源を考えるとき、始まりは鮭の遡上回帰漁にあるのだろうと思います。それを示すものは2波状突起口縁の土器と考えます。その後4波状突起口縁の土器が作られていたことから、半年4文節の暦...縄文時代の生業開発

  • 天動説と地動説

    縄文時代の二つの味方1.縄文時代には10,000年間農耕は無かった、太陽暦も太陰暦も無かったストーンサークル 2.縄文時代草創期から農耕は始まっていた太陽暦はあり太陰暦もあった農耕開始時期に土器が発明され、その後弓矢猟が、魚釣り漁が開始されたこの時期から土器は煮炊きにも使われるようになったこの歴史は土器に造形して記録され残された。歴史はここから始まった火炎土器、火焔式土器、尖底土器  3.弥生時代に縄文文化は消えていたアズキは弥生時代に伝わった、大豆も伝わったとされていたことから見てこの時期に縄文文化は消えていた焼き畑、祭として縄文文化は内陸高地に残されてあるかも知れない ヤブツルアズキアズキの原種 ツルマメ類大豆の原種 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーその一...天動説と地動説

  • 縄文土器の「縄」はいったい何を表しているのか?

    草創期は定住を安定させるため生業開発に集中していたと考える。先ずは手近にある植物の実を利用することから始めて、マメ類を選択したのでは無いか。その過程で小さなマメを集めるために、籠に代わる容器として土器を造ることを発明した。まもなくマメ類の栽培に着手して、収穫することが出来るようになったものと思う。そして生業としてある程度上手く育てて、成果を得ることが出来るようになったのでは無いか。それは集落にとって大きな成果で、それは豆粒文土器を造って祝っていたことから想定できるものと考える。 その内に弓矢猟が出来るようになり、それは先ず弓に張る強い弦となる材料を見つけることが出来たのではないか。同時に矢柄と石鏃も開発して始まったものと思う。その後も弦の強化開発は進められ、弓の弦はより細くより強いものが開発されていった。...縄文土器の「縄」はいったい何を表しているのか?

  • 勝坂遺跡出土のマメ痕土器

    50を超えるツルマメを主体としたマメ科植物の種子を意図的に練り込んで焼き上げた土器と云われ、写真が小さくて模様もマメもよく分らないが、模様も丁寧に造られている様子が見え、これは矢張り祭のための特別な供献土器では無いかと思う。  それは縄文時代早創期~早期にはマメ類の利用が始まっていたことが分ってきており、縄文時代中期には中部高地と関東西部の諸磯・勝坂式土器文化圏において種子の大型化がみられるという。このようにマメ類が食料としての重要性が、大きく高まってきたので、それを祝って、特別な土器、供献土器として造られていたのだろう。縄文時代草創期最初に造られていた、豆粒文土器に相当するものとして見て良いと思う。  図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー58.勝坂遺跡D区出土のマメ圧痕土器(かっさかいせき...勝坂遺跡出土のマメ痕土器

  • 金生遺跡ドローン写真

    ドローンで上空から見た金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設を公開します。今朝たまたまドローン操作の方に出会い、思わず遺跡を紹介して、撮影を依頼お願いしてしまいました。 Phot  by K.K. Tkk 撮影有り難うございました。金生遺跡ドローン写真

  • 貝塚の開始時期

    時期表記のある貝塚を見ると秋田県と宮城県にあるものに限られていたこれ以外には時期の表記がないので層別整理できなかった。草創期は少ないので、確実なのは早期から始まったと考えて良いのでは無いか貝塚の始まりとしては夏島貝塚など神奈川や千葉などとされている。ここから北に広まっていったようだ。鮭の遡上回帰漁を開始するには二至の暦が必要とされていたはず、それの利用により月の朔望が分かり、潮の動きを正確に捉えられることになり、貝拾いが生業として成立させられたものと思う。生業の一つに貝が加えられたものの、食料の獲得は厳しく生活は大変だった様子が見えているという。貝塚の開始は年表適当な記載ある年表は見付からなかった。貝塚が暦作りの母の一つなのに、重視されているようでは無い。海は近くにあったはずなのに、マメ類のように採集する...貝塚の開始時期

  • 魚釣り テグスの始まり

    「室谷下層式」と称されるこれらの土器は多縄文系(押圧縄文、回転縄文など複数の種類の縄文をほどこす)である。とされる、記載されている内容を整理すると下層出土の土器は平底の深鉢形で、底面は隅丸方形に形成される。作り方は輪積法ではなく、板状の粘土を繋ぎ合わせて作っている。下層出土の土器をさらに細分すると、10層から13層で出土する古段階押圧縄文主体である6層から9層で出土する新段階押圧縄文は減って回転縄文主体になっている下層から出土する草創期の石器は、小瀬ヶ沢洞窟でみられた尖頭器は姿を消し、小型で茎(なかご)のない石鏃、掻器などの限られた種類になる。上層の石器は、磨製と打製の石斧、磨皿、砥石、石錐、石垂、石匙などが加わる[6]。特に石錘が加わる釣り漁の始まりでは室谷上層でテグスが出来たのではそれは押圧縄文から回...魚釣りテグスの始まり

  • 石錘は何に使われたのか

    縄文時代の石錘は出てくれば、漁網の錘としているが、漁網はあったのか。その証拠は何なのでしょうか。テグスが出来て釣針が出来て、釣りをするとすれば、現在と同じように、釣り糸を水中に沈めるため、石錘を付けるのでは無いだろうか。石錘は釣りの錘では無いだろうか。釣り糸が開発されて釣りが始まったとき、撚糸文土器の時代の石錘は、釣りの錘だろうと思う。撚糸文土器早期末から前期の羽状縄文土器の時代になれば、漁網があったと考えても良いと思う。この時期の石錘は漁網の錘として良いと思う。羽状縄文土器 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー早期前半の、南関東や南九州の遺跡では、植物質食料調理器具である、石皿、磨石、敲石が出土し、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加しました。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰した...石錘は何に使われたのか

  • 縄文時代の記録

    縄文時代草創期に縄文人は弓矢を発明して、石鏃を開発、テグスを開発して、釣り漁を開始した。ここまでは草創期の発明、ものの開発である、その経緯は隆起線文土器、爪形文土器、多縄文土器、回転縄文土器、撚糸文土器に記録していたものと思う。しかし後期旧石器以後、小型動物を獲るための、弓矢の発明までには、長い期間が掛り、そのため植物から食料を得ることを始めた。それまでの籠では漏れてしまうような細かい種であるマメ類の採集を可能とする土器を発明して、マメ類を採集した。さらにそれを播いて栽培を始めていた、それは豆粒文土器に記録していた。この供献土器は農耕開始の記録では無いでしょうかそれを作物の性質に応じて時期を決め種蒔きをし収穫するために太陽暦を開発したこれは縄文時代早期であり、ここから動物と違う世界、過去現在未来を見ること...縄文時代の記録

  • マメ類の原種

    遺跡から遠からぬ道端の薮のところで見つけたマメ類の原種もう冬となりツルは枯れています。ヤブツルアズキのつると莢とアズキ種アズキの原種とされる黒く小さい種 ヤブマメのエンドウの原種とされる斑入りの種マメ類の原種

  • 金生遺跡立地のアナレンマ解析結果

    補足して再掲しています 日本天文考古学会の樋口元康様が天文シミュレーション「ステラトーク」のプログラムにより金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の立地環境に関して太陽の見かけの動きと月の動きについて解析してくださいました。笠無山-立夏・立秋茅が岳-立春・立冬 甲斐駒ヶ岳-冬至の日の入りアナレンマ図は、(C)樋口元康による注記facebookの「日本天文考古学会情報交流グループ」に投稿されたもの。アナレンマ図の作成には、AstroArts社の「ステラナビゲータ」と「ステラトーク」を使っています。組み込んだパノラマ風景は、DAN杉本さんの「カシミール3D」と「カシバード」で出力した画像を処理しています。今回の冬至の日の入り観測で、配石の石棒とノーモン台の観測施設が明確に出来るものと推定しています。これにより金生遺...金生遺跡立地のアナレンマ解析結果

  • 小麦とアズキ

    小麦栽培の始まり野生のヒトツブコムギの穀粒は肥沃な三日月地帯の亜旧石器時代の遺跡から見つかっている。ヒトツブコムギが最初に栽培されたのはおよそ9,000年前(紀元前約7,050年)、からの時代だった。ヒトツブコムギが栽培化された地域は、先土器新石器B時代の農耕集落の遺跡が多数発見されているトルコ南東部の付近であると。というトルコ南東部現在栽培されている小麦は、もともと野生種であったものを、品種改良しています。品種改良される前の小麦を古代小麦と呼んでおり、大きく3つに分けることができます。・一粒系ゲノム形式はAA例)ヒトツブコムギ(アインコーンEinkorn)・二粒系ゲノム形式はAABB例)フタツブコムギ(エンマーEmmer)・普通系ゲノム形式はAABBDD例)スペルト小麦もっとも原始的な小麦は、一対の遺伝...小麦とアズキ

  • イノシシと冬至の祭

    遺跡発掘時点で、金生遺跡の配石と冬至の関係は知られていなかったのだろうか、または知っていたが隠していたのだろうか。遺跡の公園整備で、巨大石棒のモニュメントと樹木で、冬至の日の出が完全に見えないようにしたのはどうしてなのか。冬至の日の出方位それは遺跡で観測する冬至の日の出は、入り口に立つ巨大モニュメントの石棒で、正確に見えないように隠されていた。その理由は、日の出を山裾に置いているということから、金生遺跡の住人は、冬至の日の出に関心が無かったと判断していたからなのだろうか。冬至も知らないような低レベルの金生遺跡の縄文人だとしていたからなのか。茅が岳からの日の出位置  しかし配石は冬至の日の出と日の入りをデザインの基本としていたようだ。イノシシの祭が関係していた様子なのに、何故このように公園整備で日の出を隠し...イノシシと冬至の祭

  • 土偶の示すものは何だろうか

    土偶の歴史年表土偶、土製品具象的土製品抽象的土製品乳房のトルソ土偶見えない何かを表現精霊・・に手足を付けた抽象的な土偶が造られるのは、生業が早期に完成して、それを引き継いだ前期からになる。前期の土偶は、見えない何かを表現するために、具象からどのように表現するのか、形成できていないようだ。前期土偶なんだか分らないもの 見る限り土偶とは人間の女性を表していたものでは無い土偶と石棒が遺跡から一緒に出土するならば、一緒に用いられたと考えることができます。しかし、実際にはともに出土することはあまりありません。土偶は土偶だけ、石棒は石棒だけで発見されるのです。石棒は「土器埋設遺構」と呼ばれるものの中で土器とワンセットで出てくることがよくあります。という中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産婦の特性なり機能を表現...土偶の示すものは何だろうか

  • 象形文字以前 土偶は造形文字なのか

    土偶の歴史経過年表 土偶の画像を見ていてふと考えた土偶と土器の把手、そして生まれるところなのか土器から出た顔何故おんなじ顔をしているのだろうか文字が無いから、それも象形文字以前だから、この顔これは生まれるという造形文字だろうか。この顔は生まれてくることを意味する造形文字と見たらどうなのだろうか安産祈願生まれる顔目と口だけの頭この顔の土偶は例えばトチの実とすれば豊作祈願そして鼻が出来る安産の精霊が顔を持ったシュメール文明にも似た顔のものがある 顔が無く抽象的な乳房と正中線妊娠頭には何かを挿すための穴が何カ所かある穀物の穂を挿したのだろうか豊作祈願下の土偶 トチの実の豊作を祈るのか丸々とした身体乳房無し豊作祈願右端巨大な乳房良く育つことを意味するのか豊作祈願左から2番目 座る土偶安産を祈るのか見えない安産の精...象形文字以前土偶は造形文字なのか

  • 爪形文土器を集めてみた

    縄文時代草創期の土器として、無文土器、豆粒文土器、隆起線文土器系、爪形文土器、押圧縄文土器、多縄文土器などがある。その一つとして、爪形文土器というものが有るのだが、この時期の土器は、出土数が少ないようで、これまで良く見ることができていなかった。探して見つけ出してみた。 爪形という模様を良くて見ると、石鏃を押しつけて出来た跡のような雰囲気が感じられる。豆粒文土器は探してみたが、更に少ないようで、これまで引用してきたもの以外には、見つけることが出来なかった。草創期の土器はそういった状況にある。図はお借りしました爪形文土器を集めてみた

  • 後期以後の 5,7 波状突起口縁の土器

    後期以後の5,7波状突起口縁の土器は何なのか土器の経緯最初に現れていた時期を示す5,7波状突起口縁の土器  こうした土器は補修してまで使われていたこのような供献土器が、3波状突起口縁の土器のあと、後期以後に現れたのは何故か図はお借りしました後期以後の5,7波状突起口縁の土器

  • 縄文時代の農耕開始

    大型動物がいなくなり、中小の動物を狩りの対象にすることになっても、そうした動物を狩りの対象に出来る道具が開発できていなかった。その間の食料獲得に努力したのは植物からの食料獲得だったのでは無いか。その一つとして、マメ類の採集も始まったのだろう。食料として豆類を集めようとすると、それまでのように、籠に集めてもそのサイズが小さいため、籠では目漏れしてしまい効率が悪くて仕事にならない。籠からの目漏れを防止するための工夫として、籠に粘土を貼り付けることにしたのだろう。そうこうしている間に、それを焼くことで固く出来ることに気が付いて土器を造ることを始めた。マメ集めの土器は無文土器だったすると土器の容器は籠に比べて保存性が良く翌年の種蒔きは上手く出来るようになったマメ栽培の初めであったそれを記念して豆粒文土器が供献土器...縄文時代の農耕開始

  • 縄文時代の開発進展 年表

     道具開発宇宙開発生業開発暦開発草創期から早期早期から前期狩猟石器尖頭器ナイフ型石器細石器土器無文土器種の保存と栽培開始豆粒文土器有舌尖頭器投げ槍隆起線文系土器固定弓石鏃弓猟開始隆起線文土器爪形文土器弦多縄文、回転縄文土器テグス魚釣り漁撚糸文土器二至の暦鮭の遡上回帰漁2波状突起口縁の土器太陰暦貝塚形成6、12波状突起口縁の土器太陽暦農耕開始4、8波状突起口縁の土器漁網羽状縄文土器  金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設はこの歴史的発展の完成形として建設されたものと考える。               飯盛山という表記は間違いでした笠無山です図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーウエブ上の多数の情報縄文時代の開発進展年表

  • ヤブマメ 地中のマメ利用

    マメの利用が始まったことを示す豆粒文土器が作られた草創期無文土器の次が豆粒文土器それから隆起線文土器系とされている 弓矢が開発されて、弓矢利用が始まる前までは、縄文時代は手に入りやすいマメ食文化では無いだろうかヤブツルアズキ種が小さいので集めても籠では目漏れしてしまう籠の目に粘土を付けて、目漏れを防いだ、ここから土器の始まりが開始された小さいマメの種を集められるようになり、これで籠容器よりも、湿気や虫の害、ネズミの害などから守られ、保存性の改善が出来た煮れば簡単に柔らかくなるようで、食味も良く名前の通り柔らかいマメである。豆粒文土器は、マメ栽培の始まりを示すものでは無いだろうか。マメ農耕の始まりを示すものでは無いだろうか。一方ヤブマメは、地上の茎に付くマメは、その後の調査からそれほど利用されていたようでも...ヤブマメ地中のマメ利用

  • 土器の創造の想像

    土器がどのようにして作られるようになったのか、その始まりは今はまだ明確になっていない。そこで土器は先ず容器であることと考える、煮炊きに使えることは、ずっと後から出てきた機能で早期の初めと考える。縄文時代には各種の容器を、植物の蔓などから作っていたことは遺物から見ても分る。その容器は様々な編み方で作り上げていたことも知られている。籠のような容器で、機能的に不足するのは、液体を貯める用途と、米のような細かいものを入れるものとしては、目漏れすることが問題点だったものと考える。マメの種は小さいそのうちでも、特にヤブツルアズキの種は米粒ほどのサイズで、籠での採集は上手く行かなかっただろう。しかしヤブツルアズキの食味は良好なことから、それを何とか上手く集めることを考えた。それで籠に粘土を貼り付けることで、目漏れするこ...土器の創造の想像

  • ヤブマメ 地下のマメ

    エンドウ豆の原種はヤブマメと言われている莢を見ると納得出来るこれ以外に閉鎖花というものが有って、ピーナツのように地中に種を作るそうです。土を掘り返すのは大変ですが、地上に付ける種より大きい実を付けている。縄文時代にこれは利用していたのだろう、野山の知識が豊富だった縄文時代には、当然利用していただろう。地中の種はサイズも大きく、軟らかく食味も良さそうです図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーヤブマメの閉鎖花west2293.jp/Themaflower/Yabumame/Yabumame.htmヤブマメの生き残り作戦夏から秋にかけて地味な花をつけるヤブマメ。人が歩きまわるような場所の隅っこに、ちゃんと自分の居場所を確保しています。この地味な花は人に注目される事は滅多にありません。ところがどっこい...ヤブマメ地下のマメ

  • ダイズ アズキの味

    ダイズは北杜市大泉町の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。中期初頭五領ヶ台式五領ヶ台式土器は、中期初頭、関東~中部地方の土器で、はなやかな勝坂式土器に先行する土器形式である。という五領ヶ台式期から藤内式期の縄文土器片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認された。土器は中期中葉の藤内式、曽利Ⅱ式、勝坂Ⅰ式に属するものが出土している遺跡では磨製石斧と農耕具としての打製石斧が目立っている。ヤブツルアズキの種米粒に近い大きさ小さいアズキの野生種はヤブツルアズキで、むしろ小豆と比べて風味が強く、食味は悪くないようである。ヤブツルアズキの種は大変小さいものなので、籠では目め漏れしてしまいそう、漏れないようにするために籠の目を粘土を付けて潰して漏れないような工夫...ダイズアズキの味

  • 縄文時代中期の数 3 の不思議

    数3を示す土器中期以後の土器を取り上げてみました3は中期以後に現れていた。これは何なのでしょうか数3は何故中期以後なのでしょうか 図はお借りしました縄文時代中期の数3の不思議

  • サケ 鮭の遡上回帰漁 火焔土器

    信濃川の鮭漁は、千曲川から相木村の上流まで遡上回帰が推察できるようだ。また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を持つようなものだった。ともいう遺跡からの出土物を総合して、秋には木の実を採集し、森では動物を狩猟し、四季折々の海での漁労活動などがうまく組み合わされて、豊かな生活を送っていたと考えられる。というこのような生業を組み合わせての巧妙な狩猟、漁労、採集作業は集団として行ったものと考えるので、暦無しに行えるなどということは考えにくい。集団人々の同意の下で行われたはずである。信濃川での鮭漁は遡上回帰の時が存在して、その予測に基づいて行われていたものだったと考える。それを推測させるものは、4波状突起土器だったと考える。半年4分暦が作られ、鮭漁に当たっ...サケ鮭の遡上回帰漁火焔土器

  • あずき 小豆 アズキ

    小豆これはあずきとは元々は読まない。縄文時代以来の呼び名なのだろうかアは赤を意味し、ツキ・ズキが溶けることを意味し、他の豆より調理時間が短いことを意味していた。地方用語でアズ・アヅとは崩れやすいという意味であり、そこから煮崩れしやすいアズキと名付けられた。赤粒木(あかつぶき)からアズキとなった。というダイズの祖先野生種はツルマメですが、ツルマメの証拠は縄文時代草創期から中期、後期、晩期を通して発見されている、しかもその間に、次第に大型化(栽培化症候群)していって、中期前葉に一挙に栽培化が顕在化するそうです。一方、アズキの野生種はヤブツルアズキで、縄文早期前半からの出土が知られていますが、縄文中期中葉の藤内式期以降、大きな個体、栽培型アズキが顕在化してくる。即ち、縄文中期中葉以降の縄文人はダイズもアズキを栽...あずき小豆アズキ

  • カルデラ噴火が世界文明開始の淵源

    朝鮮半島本土では、約12000~7000年前の遺跡が見つからない。この約5000年の間、朝鮮半島は無人だったのである。という韓国・北朝鮮の最古の新石器時代の遺跡は、済州島の高山里遺跡で、約10000年前~7000年前とされている。この済州島の遺跡では、隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっていて、似たものが日本にもある。済州島は対馬の近くであり、ほぼ日本と言っていい。7000年前まで人が住んでいなくて、土器制作の歴史経過も無しに突然、櫛目文土器が発見されているのである。どう考えても、朝鮮の櫛目文土器を作ったのは、朝鮮半島にわたった縄文人が作ったと考えるほうが自然である。という時期も鬼界カルデラ噴火の後からとして整合すると思うこの時が縄文文明縄文時代早期の開発した太陽暦と太陰暦が世界に拡散したものと考えます。図は...カルデラ噴火が世界文明開始の淵源

  • 回転縄文、撚糸文土器は画期では

    1期--隆起線文以前の土器群--から3b期--室谷下層式に代表される多縄文系土器(回転縄文土器)および併行期の土器群を3b期--までの初期土器群の年代幅は、16,000calBP~11,400calBPの年代域を中心として約4600年間と推定される。 土器の出現から縄文文化の確立期と目される早期初頭までの間に、4000年以上の長い時間が経過したことになり、旧石器時代から縄文時代-の移行が従来考えられてきたよりもかなり長いプロセスであったことが分かる。そして室谷下層式の年代値はむしろ縄文時代早期初頭の年代域(谷口2001・02b)に接近している。というこれは弓矢が開発されて、弦と矢柄、石鏃の改良が進められ矢柄と石鏃はそれなりに開発は進んだが弓の弦を強く細くする開発はなかなか進まなかったものと考える。多縄文の...回転縄文、撚糸文土器は画期では

  • 縄文時代とは地球文明の開始

    歴史はシュメール文明からと云われてきているがそれよりも5000年以上前から歴史は記録されていたことが分ってきた縄文時代草創期と早期からである。この時期に記録されていたのは、縄文時代に開発されていた各種の生業の開発記録、縄文時代に開発されていた各種の文化的画期である土器の開発土器の開発で縄文人は、粘土を利用してその記録を残していた土器とは何なのか、土器以外のもの、石器を除いて、時間が経てば朽ちて行ってしまうものである石はしかし、縄文人の思いを伝えるような細工は難しい粘土はどのようなものでも思い通りに作ることが出来るしかも焼けばその形は永遠に残る、割れてしまうことはあるとしても、記念として残せるものである縄文人達はその特性を見て、自分たちの記念すべきものを残すことにしたのでは無いか土器の最初の用途は記念碑であ...縄文時代とは地球文明の開始

  • 土器使用の普及は隆起線文土器から

    隆起線文(隆線文とも)土器段階は土器の使用が普及した段階で、前段階に比べると全国的に出土例が増え、やっと土器の量も増えます。という何故そのようになったのか、その理由この時期には、狩猟方法の画期、弓矢狩猟技術の開発があり、それが全国的に広がっている。そのベースには後期旧石器時代からの物流の全国的広がりが既に存在していた環状ブロックに始まる社会的組織環状ブロック遺跡分布温暖化が始まり、大型動物がいなくなり、小型動物を対象にする尖頭器、有舌尖頭器、投げやり猟へと変りそれでも食糧確保は難しかったのだろうそこに敏捷な動物を捕らえるための新技術の弓矢が開発され、弓の弦、石鏃、矢柄開発が進んだこの時期には既に無文土器作成の技術が存在していた、この用途はまだよく分らなかったので、このセラミックの先端技術が、弓矢の開発の画...土器使用の普及は隆起線文土器から

  • 『緑の世界史(上)』に関して

    (注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.81-82この歴史書では、次のような記載がされていた。1.●前12000年~前3500年のアジア○前12000年~前3500年の東北アジア新石器時代のユーラシア大陸北部の森林地帯には,南ロシアからモンゴル高原,朝鮮半島までの広い範囲に櫛目文(くしめもん)土器が分布しています。ユーラシア大陸を東西に結ぶ交流があったことを物語ります。これは九州におけるカルデラ大噴火が関係すると考えます。約前5300年頃に九州南方の鬼界(きかい)カルデラが爆発的な噴火(大量のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火(注))が起こったとされ、この影響で縄文時代の文化は一旦途絶したともされるほどの影響を日本列島に与えています。ユーラシア大陸で出土...『緑の世界史(上)』に関して

  • 石鏃は何処で開発されたのか

    尖頭器とは、魚の鱗のような小さな剥片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10センチ以下が多い。中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。両面調整の槍先形尖頭器と共に縄文草創期から登場する長脚鏃・三角鏃などが製作されていた。伴出した鍬形鏃は縄文早期に広く使用され、時代を特定できる史料である。という小型尖頭器が作られるようになり、その技術の延長線上に石鏃が開発されていったのでは無いか今は諏訪湖底にあるが、曽根遺跡は石鏃製作所曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイ...石鏃は何処で開発されたのか

  • 弓矢の使用開始は何時か

    細石器文化(1万6,000~1万4,000年前):周辺大陸から新しい石器文化「細石刃石器群」の流入(北海道と北九州地方に)によって、今まで列島内で盛行していた「ナイフ形石器文化」が消失した。という細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。という細石器の広がり方は北と南からなのに、弓矢は列島中心に広がり、北と南を残すという逆な広がり方をした様子、何故このようなことになっていたのか土器の発生は細石器の時期からと見られ1.細石器・土器、2.細石器・石鏃・土器、3.石鏃・土器 という3通りの組み合わせが見られるようだ旧石器時代細石器から縄文時代へと緩やかに移行していったことが確認できるとされ、細石器と土器の出現はほとんど同時期なので、外来の可能性...弓矢の使用開始は何時か

  • 縄文文化の世界文明への貢献

    旧石器時代の最後の時期、細石器の時期に列島では土器が造られ始めていた次には石鏃も作られたそして細石器は無くなり石鏃と土器の時期になったここが新石器時代の始まりである。土器の時代には生産用具の開発が進み弓矢の使用、弦・紐の開発、石鏃の開発、テグスの開発、漁網の開発このような生産用具の進化の画期を土器に記録して残していた最後は文明の始まりの評価基準となる暦の開発である太陽暦と太陰暦の開発を記録していた暦開発により、見えない四季の季節の動きを捉えることが出来るようになり今から先の未来を予測できる技術を獲得したそして歴史的思考が出来るレベルに到達したこれにより過去、現在、未来を考えることが出来るようになったこれこそが文明の始まりを明確に示すものである。そして、暦の開発は農耕実施の必要性から生じたものと考えるので、...縄文文化の世界文明への貢献

  • 縄文時代の記念碑

    縄文時代の記念碑は土器で造られていた土器はまだ煮炊きには使える強度はない縄文時代の画期的発明弓矢による狩猟の開発小型ですばしっこい動物を狩りするためには槍では追いかけられない、投げ槍でも逃げられてしまうそのために弓矢を開発した弓の威力は弦にある、キイテクノロジーは、如何に細く強い紐を作れるか5メートル先のウサギが捕れるか15メートル先のイノシシが狙えるか50メートル先の鹿を狙えるようになるそれが出来たとき記念碑を作るのではないか集落全員が完成を祝っていたはずであるその記念碑が隆起線文土器と考える、碑ではなく供献土器だもちろん矢の先に付ける石鏃も見た通りのハイテク製品で、黒曜石、水晶、サヌカイトなど材料を選び、様々な形を試して、爪形文土器として記録し、集落全員でお祝いしていたはず釣りが出来るようになったとき...縄文時代の記念碑

  • 縄文時代の画期となる歴史は、土器に書いてある

    シュメール文明では、歴史は粘土板に文字で書き残されていた。 それより5000年以上前の縄文文明では、文字の発明は出来なかったものの、縄文時代草創期から、歴史を粘土で土器として造形することで残していた。 土器使用の初めは、煮炊きなどの実用を主とするものでは無く、祭祀用ないしは記録用として、供献土器として造られたと考える。栽培するための種を湿気から守り、乾燥して安全に残すための豆粒文土器を造り狩猟には弓矢を開発したことを隆起線文土器に造形、こうした土器が初期に造られていたと云うことを考えると、大変に手の込んだ丁寧に造られた作品と思う。 強い弓の弦を改良していった経過を細隆起線文土器や微隆起線文土器にまで造形矢の先に付ける石鏃の高度化開発は、その様々な形を爪形文土器として記録弓の弦用の紐は、更に高度化して、遂に...縄文時代の画期となる歴史は、土器に書いてある

  • 弓の弦の開発

    弓による狩猟と共に、隆起線文土器は全国的に広がっていたようです。隆起線文の太さは、時代が新しくなるほど細くなる傾向がある。と言われていて隆起線文→細隆起線文→微隆起線文と順次線文が細かくなり、新しい段階に移っていくと考えられている。弓矢の開発は縄文時代草創期の話です。隆起線文土器も草創期です。とされているので、弓の弦の紐の改良が進んで、より細く強い紐が開発されたものと推定する。土器の示す線文の太さが変るのは、それを正確に表そうとしているのではないだろうか。  写真では細隆起線文なのか微隆起線文土器なのかはよく分りません。かなり苦労して造っていたように思えます。これらの土器は供献土器なのでしょう。放射性炭素年代測定法によれば、長崎県佐世保市吉井町の福井洞穴出土の隆起線文土器はBP1万2700±500年、愛媛...弓の弦の開発

  • 立冬の日の出を観察しよう会 直近のご案内

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設で立冬の日の出を観察しよう会ご案内です2022.11.07,08,09日の3日間です。現地集合は早朝日の出前6時北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!朝活は立冬11月7日、8日、9日6時頃から7時まで遺跡現地です縄文時代の石棒で、冬の季節の始まりの日にちは何時なのか確認することです。寒さが厳しくなるので、温かく着込んで参加してください主催金生遺跡を世界遺産にしよう会内容はブログにありますjohmonkinsestarとして検索していただけば、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。 2022.02.04立春翌日の日の出立...立冬の日の出を観察しよう会直近のご案内

  • 土器開発の経緯にある背景の推定

    土器開発は無文土器から土器模様整理年表土器の用途籠などに代わる容器として、煮炊きの用途の鍋として、祭祀用途など供献土器として日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。というまず最初の第1段階は無文土器[6]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器[7]と隆起線文土器群[8]であり、第3段階は爪形文土器群[9]であり、第4段階は多縄文土器群[10]である。そうです土器の爆発的増加はその後で、煮炊きに本格的に使用されるようになる尖底土器からのようです。撚糸文土器と押型文土器はほぼ同時に発生した狩猟用の打製石器は大きな尖頭器から小ぶりの有舌尖頭器になり石鏃が作られている大型獣の狩猟には尖頭器、小型動物の投げ槍猟の有舌尖頭器になり、弓矢の開発により弦と石鏃が開発対象となった。ここから道具の開発は、弦と石鏃の...土器開発の経緯にある背景の推定

  • 縄文時代早期 温暖化の効果

    異常な気候変動と温暖化した今年、鮭の遡上回帰は異常であるという記事を見た。大型動物を集団で狩りしていた旧石器時代に比べて、弓矢の開発で、小型動物が取りやすくなり、生業がより安全に行えることになった。隆起線文土器撚糸文土器の時代は釣り糸と釣り針が開発されて、魚釣り漁が可能となり、縄文土器時代の開始となった。釣り糸のテグスのない時代に、縄文人はどのような植物を利用してテグス以上の強い糸を造っていたのだろうか。それを吹き飛ばすような出来事が、温暖化による鮭の遡上回帰だった。しかしその時期は限られていて、その時期を予測するには、季節を知ることが必要だった。その時期に何処かに狩りに出掛けていると、折角回帰してきた鮭を捕まえることが出来ず、集落の冬越しの食料が得られないため大変なことになってしまった。それを解決したの...縄文時代早期温暖化の効果

  • 早期中葉が貝塚利用の始まりなのか

    縄文海進前からの撚糸文土器の時期は夏島第一貝塚から出土した遺物からは、貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、銛やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。特に釣り針による魚釣りの開発は、撚糸文土器に表されていたものと思う。またマグロやカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。撚糸文土器貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、それまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。この時期が縄文海進の時期と考える。たとえば函館市中野B遺跡の貝殻沈線文系土器の出土量は1...早期中葉が貝塚利用の始まりなのか

  • 三角岩版と環状列石 時計合わせ

    引用しますーーーーーーーーーーーーーー特に三角形岩版は、小牧野遺跡の代表的な遺物であり、これまでに400点をこえる数が確認されています。このような岩版は、青森県の津軽地域を中心に製作されていると考えられています。また、三角形岩版が出土する遺跡は環状列石などの大型配石遺構を有する場合が多く、祭祀などで人が多く集まる場所で使用されたものと思われます。ーーーーーーーーーーーーーー引用終わり岩版小牧野環状列石このようなことが書かれているこれは暦計算をしていた証拠では無いのか、特に大型配石遺構のある遺跡であることは。東北から北海道までこのような文化が広がりを見せていたようだから。暦計算には365日のカウントが必要なので三角形岩版が400点を超えていることは、年間の日数を超えている。周辺住民が年に一度大配石の下に集ま...三角岩版と環状列石時計合わせ

  • 隆起線文土器の製作 弓の弦・矢・石鏃の完成

    この土器に関して今まで付けられている模様まではっきり見たことが無かった。細かく付けられた模様を見て、この土器も供献土器では無いか、それも弓矢の完成を記録しているものと考える。弓矢のハイテクは、弓に張るための弦と、矢の石鏃の開発では無いだろうか。それまで狩猟に使ってきた大きな槍の穂先から小さな鏃を作ること、この製作は相当な細工の腕前を必要としていて、これほどの小さなものを作ることの出来るのは、限られた人だったのでは無いか。 さらに弓に張るための弦はどのような繊維とか動物の腱など何が使われていたのだろうか、これも相当なハイテク製品であったのだろう。弦と石鏃、この完成は誰の目にも大変な驚異だったのでは無いか。それまで捕らえることが難しかった遠くに居て、すばしこく逃げる動物を難なく倒すことが出来る飛び道具は食糧確...隆起線文土器の製作弓の弦・矢・石鏃の完成

  • 夏島貝塚とは その意義

    夏島貝塚について、尖底土器や貝塚、その他多数の遺物についてもう一度調査してみた。縄文土器と縄文時代は夏島貝塚の時期がその始まりと考えて良いのでは無いか。ここからそれまでの狩猟採集の生業に加えて、縄文時代の文化的要素が整って行くことになった。撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器その中には農耕の開始と太陽暦の開発、太陰暦の開発もある。供献土器の始まり縄文時代前期はそれが継承されて文化が花開いて行ったものと考えることができる。早期(1万~6,,000年前):気候の温暖化により海面が上昇して「東京湾」が形成され、漁撈活動が活発になり沿岸部に「貝塚」(神奈川県夏島貝塚、世界最古の土器年代、9,500年前)が多数残された。府中市武蔵台遺跡では、野川に面した国分寺崖線上に、撚糸文土器期の「大規模集落跡」(2...夏島貝塚とはその意義

  • 狩猟の弓矢 鏃の地域の違い

    三内丸山遺跡の鏃 狩猟の弓矢鏃の時代変化について草創期の鏃は早期の鏃はとしていたところ、地域による違いがある様子が見えました。三内丸山遺跡では、縄文前期からのようですが、鏃は上のようなものが出ていたようです。 八ヶ岳周辺からの鏃は東北地方には流通していなかったのでしょうか。縄文時代の土器の模様では、利根川の東西というか、南北というか、この辺りを境にして、西側は押型文土器文化圏で、東側から北は撚糸文、貝殻文の文化圏となり、二大文化圏となり違いが見えていたようです。土器の模様弥生から古墳時代では、関ヶ原辺りを分岐線としていたのとは、縄文時代には様子が大分違うのでしょうか。図はお借りしました狩猟の弓矢鏃の地域の違い

  • 縄文時代の植物栽培

    縄文時代の遺跡で、これまで見付かったとされている栽培植物をリストアップしてみました。☆前期の栽培植物福井県の鳥浜貝塚の、前期の層から、栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウ等)が、早期の層からも、ヒョウタンが検出されています。大石遺跡栽培されたとおもわれるエゴマの炭化種子も検出された福井県の鳥浜貝塚からは、縄文前期の地層から「エゴマ」と大麻(おおあさ)の種実が出土した。縄文前期には、既に漆塗の技法があり、エゴマの油もウルシ塗りのときに使われていたと考えられる三内丸山遺跡(青森市)からは、栗栽培、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培跡が見出された。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、この時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるも...縄文時代の植物栽培

  • 縄文土器は夏島貝塚が始で尖底土器

    神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。夏島式と呼ばれる。釣りの始まりを示す撚糸で、尖底土器に縄文が付けられている夏島貝塚は最古の貝塚と云われているので、縄文時代早期はここから始まったものでは無いか。縄文時代早期の模様は、撚糸文系土器,沈線文系土器,押型文系土器など、時代順になっている。図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。夏島式と呼ばれる。重要文化財、夏島貝塚は1950年に発掘された現存する数少ない早期貝塚の一つ。日本で二例目の放射性炭素年代測定が行われ、約9500年前に遡る夏島式土器期の年代測定値は、縄文時代の古さをめぐる論争を引き起こした。本資料は底が尖った「尖底土器」で、60%程度残った破片から復元され...縄文土器は夏島貝塚が始で尖底土器

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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
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