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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

1件〜100件

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  • 土器の創造の想像

    土器がどのようにして作られるようになったのか、その始まりは今はまだ明確になっていない。そこで土器は先ず容器であることと考える、煮炊きに使えることは、ずっと後から出てきた機能で早期の初めと考える。縄文時代には各種の容器を、植物の蔓などから作っていたことは遺物から見ても分る。その容器は様々な編み方で作り上げていたことも知られている。籠のような容器で、機能的に不足するのは、液体を貯める用途と、米のような細かいものを入れるものとしては、目漏れすることが問題点だったものと考える。マメの種は小さいそのうちでも、特にヤブツルアズキの種は米粒ほどのサイズで、籠での採集は上手く行かなかっただろう。しかしヤブツルアズキの食味は良好なことから、それを何とか上手く集めることを考えた。それで籠に粘土を貼り付けることで、目漏れするこ...土器の創造の想像

  • ヤブマメ 地下のマメ

    エンドウ豆の原種はヤブマメと言われている莢を見ると納得出来るこれ以外に閉鎖花というものが有って、ピーナツのように地中に種を作るそうです。土を掘り返すのは大変ですが、地上に付ける種より大きい実を付けている。縄文時代にこれは利用していたのだろう、野山の知識が豊富だった縄文時代には、当然利用していただろう。地中の種はサイズも大きく、軟らかく食味も良さそうです図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーヤブマメの閉鎖花west2293.jp/Themaflower/Yabumame/Yabumame.htmヤブマメの生き残り作戦夏から秋にかけて地味な花をつけるヤブマメ。人が歩きまわるような場所の隅っこに、ちゃんと自分の居場所を確保しています。この地味な花は人に注目される事は滅多にありません。ところがどっこい...ヤブマメ地下のマメ

  • ダイズ アズキの味

    ダイズは北杜市大泉町の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。中期初頭五領ヶ台式五領ヶ台式土器は、中期初頭、関東~中部地方の土器で、はなやかな勝坂式土器に先行する土器形式である。という五領ヶ台式期から藤内式期の縄文土器片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認された。土器は中期中葉の藤内式、曽利Ⅱ式、勝坂Ⅰ式に属するものが出土している遺跡では磨製石斧と農耕具としての打製石斧が目立っている。ヤブツルアズキの種米粒に近い大きさ小さいアズキの野生種はヤブツルアズキで、むしろ小豆と比べて風味が強く、食味は悪くないようである。ヤブツルアズキの種は大変小さいものなので、籠では目め漏れしてしまいそう、漏れないようにするために籠の目を粘土を付けて潰して漏れないような工夫...ダイズアズキの味

  • 縄文時代中期の数 3 の不思議

    数3を示す土器中期以後の土器を取り上げてみました3は中期以後に現れていた。これは何なのでしょうか数3は何故中期以後なのでしょうか 図はお借りしました縄文時代中期の数3の不思議

  • サケ 鮭の遡上回帰漁 火焔土器

    信濃川の鮭漁は、千曲川から相木村の上流まで遡上回帰が推察できるようだ。また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を持つようなものだった。ともいう遺跡からの出土物を総合して、秋には木の実を採集し、森では動物を狩猟し、四季折々の海での漁労活動などがうまく組み合わされて、豊かな生活を送っていたと考えられる。というこのような生業を組み合わせての巧妙な狩猟、漁労、採集作業は集団として行ったものと考えるので、暦無しに行えるなどということは考えにくい。集団人々の同意の下で行われたはずである。信濃川での鮭漁は遡上回帰の時が存在して、その予測に基づいて行われていたものだったと考える。それを推測させるものは、4波状突起土器だったと考える。半年4分暦が作られ、鮭漁に当たっ...サケ鮭の遡上回帰漁火焔土器

  • あずき 小豆 アズキ

    小豆これはあずきとは元々は読まない。縄文時代以来の呼び名なのだろうかアは赤を意味し、ツキ・ズキが溶けることを意味し、他の豆より調理時間が短いことを意味していた。地方用語でアズ・アヅとは崩れやすいという意味であり、そこから煮崩れしやすいアズキと名付けられた。赤粒木(あかつぶき)からアズキとなった。というダイズの祖先野生種はツルマメですが、ツルマメの証拠は縄文時代草創期から中期、後期、晩期を通して発見されている、しかもその間に、次第に大型化(栽培化症候群)していって、中期前葉に一挙に栽培化が顕在化するそうです。一方、アズキの野生種はヤブツルアズキで、縄文早期前半からの出土が知られていますが、縄文中期中葉の藤内式期以降、大きな個体、栽培型アズキが顕在化してくる。即ち、縄文中期中葉以降の縄文人はダイズもアズキを栽...あずき小豆アズキ

  • カルデラ噴火が世界文明開始の淵源

    朝鮮半島本土では、約12000~7000年前の遺跡が見つからない。この約5000年の間、朝鮮半島は無人だったのである。という韓国・北朝鮮の最古の新石器時代の遺跡は、済州島の高山里遺跡で、約10000年前~7000年前とされている。この済州島の遺跡では、隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっていて、似たものが日本にもある。済州島は対馬の近くであり、ほぼ日本と言っていい。7000年前まで人が住んでいなくて、土器制作の歴史経過も無しに突然、櫛目文土器が発見されているのである。どう考えても、朝鮮の櫛目文土器を作ったのは、朝鮮半島にわたった縄文人が作ったと考えるほうが自然である。という時期も鬼界カルデラ噴火の後からとして整合すると思うこの時が縄文文明縄文時代早期の開発した太陽暦と太陰暦が世界に拡散したものと考えます。図は...カルデラ噴火が世界文明開始の淵源

  • 回転縄文、撚糸文土器は画期では

    1期--隆起線文以前の土器群--から3b期--室谷下層式に代表される多縄文系土器(回転縄文土器)および併行期の土器群を3b期--までの初期土器群の年代幅は、16,000calBP~11,400calBPの年代域を中心として約4600年間と推定される。 土器の出現から縄文文化の確立期と目される早期初頭までの間に、4000年以上の長い時間が経過したことになり、旧石器時代から縄文時代-の移行が従来考えられてきたよりもかなり長いプロセスであったことが分かる。そして室谷下層式の年代値はむしろ縄文時代早期初頭の年代域(谷口2001・02b)に接近している。というこれは弓矢が開発されて、弦と矢柄、石鏃の改良が進められ矢柄と石鏃はそれなりに開発は進んだが弓の弦を強く細くする開発はなかなか進まなかったものと考える。多縄文の...回転縄文、撚糸文土器は画期では

  • 縄文時代とは地球文明の開始

    歴史はシュメール文明からと云われてきているがそれよりも5000年以上前から歴史は記録されていたことが分ってきた縄文時代草創期と早期からである。この時期に記録されていたのは、縄文時代に開発されていた各種の生業の開発記録、縄文時代に開発されていた各種の文化的画期である土器の開発土器の開発で縄文人は、粘土を利用してその記録を残していた土器とは何なのか、土器以外のもの、石器を除いて、時間が経てば朽ちて行ってしまうものである石はしかし、縄文人の思いを伝えるような細工は難しい粘土はどのようなものでも思い通りに作ることが出来るしかも焼けばその形は永遠に残る、割れてしまうことはあるとしても、記念として残せるものである縄文人達はその特性を見て、自分たちの記念すべきものを残すことにしたのでは無いか土器の最初の用途は記念碑であ...縄文時代とは地球文明の開始

  • 土器使用の普及は隆起線文土器から

    隆起線文(隆線文とも)土器段階は土器の使用が普及した段階で、前段階に比べると全国的に出土例が増え、やっと土器の量も増えます。という何故そのようになったのか、その理由この時期には、狩猟方法の画期、弓矢狩猟技術の開発があり、それが全国的に広がっている。そのベースには後期旧石器時代からの物流の全国的広がりが既に存在していた環状ブロックに始まる社会的組織環状ブロック遺跡分布温暖化が始まり、大型動物がいなくなり、小型動物を対象にする尖頭器、有舌尖頭器、投げやり猟へと変りそれでも食糧確保は難しかったのだろうそこに敏捷な動物を捕らえるための新技術の弓矢が開発され、弓の弦、石鏃、矢柄開発が進んだこの時期には既に無文土器作成の技術が存在していた、この用途はまだよく分らなかったので、このセラミックの先端技術が、弓矢の開発の画...土器使用の普及は隆起線文土器から

  • 縄文時代に農耕が存在したはず

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設この観測により二十四節気の暦が作られていたと思う。大配石では石棒により立春と立秋の八節の暦二十四節気の暦の太陽暦の暦日が観測できる365/2182/291/245日45日区切りの立春からの日数計算による暦日立春は冬至日から45日目現代の太陽暦から0.5日早い位置これは現在の太陽暦の暦日に一致していることになる立秋は45*4180日現代の太陽暦より2日早い位置8/7日-2日8/5日が二十四節気の暦の立秋日これは石棒で観測される日にちに一致している。以上のことは今後詳細に観測して確認する必要がある。ところで、縄文中期には3突起の土器や3本指を持つ土偶、3本指を持つ土器の造形浮彫、その他三角の土器や石などがある。この3と言う数字は暦計算の45/315日の計算を示しているものと考...縄文時代に農耕が存在したはず

  • 『緑の世界史(上)』に関して

    (注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.81-82この歴史書では、次のような記載がされていた。1.●前12000年~前3500年のアジア○前12000年~前3500年の東北アジア新石器時代のユーラシア大陸北部の森林地帯には,南ロシアからモンゴル高原,朝鮮半島までの広い範囲に櫛目文(くしめもん)土器が分布しています。ユーラシア大陸を東西に結ぶ交流があったことを物語ります。これは九州におけるカルデラ大噴火が関係すると考えます。約前5300年頃に九州南方の鬼界(きかい)カルデラが爆発的な噴火(大量のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火(注))が起こったとされ、この影響で縄文時代の文化は一旦途絶したともされるほどの影響を日本列島に与えています。ユーラシア大陸で出土...『緑の世界史(上)』に関して

  • 石鏃は何処で開発されたのか

    尖頭器とは、魚の鱗のような小さな剥片を繰り返し剥がして整形し、木の葉形を呈するように作り上げた石槍(の先端部)のことで、サイズは10センチ以下が多い。中部・関東地域においては、ナイフ形石器群が小型化し、細石刃石器群が登場する頃までの、後半期後葉にこのような尖頭器が製作される。両面調整の槍先形尖頭器と共に縄文草創期から登場する長脚鏃・三角鏃などが製作されていた。伴出した鍬形鏃は縄文早期に広く使用され、時代を特定できる史料である。という小型尖頭器が作られるようになり、その技術の延長線上に石鏃が開発されていったのでは無いか今は諏訪湖底にあるが、曽根遺跡は石鏃製作所曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイ...石鏃は何処で開発されたのか

  • 弓矢の使用開始は何時か

    細石器文化(1万6,000~1万4,000年前):周辺大陸から新しい石器文化「細石刃石器群」の流入(北海道と北九州地方に)によって、今まで列島内で盛行していた「ナイフ形石器文化」が消失した。という細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。という細石器の広がり方は北と南からなのに、弓矢は列島中心に広がり、北と南を残すという逆な広がり方をした様子、何故このようなことになっていたのか土器の発生は細石器の時期からと見られ1.細石器・土器、2.細石器・石鏃・土器、3.石鏃・土器 という3通りの組み合わせが見られるようだ旧石器時代細石器から縄文時代へと緩やかに移行していったことが確認できるとされ、細石器と土器の出現はほとんど同時期なので、外来の可能性...弓矢の使用開始は何時か

  • 縄文文化の世界文明への貢献

    旧石器時代の最後の時期、細石器の時期に列島では土器が造られ始めていた次には石鏃も作られたそして細石器は無くなり石鏃と土器の時期になったここが新石器時代の始まりである。土器の時代には生産用具の開発が進み弓矢の使用、弦・紐の開発、石鏃の開発、テグスの開発、漁網の開発このような生産用具の進化の画期を土器に記録して残していた最後は文明の始まりの評価基準となる暦の開発である太陽暦と太陰暦の開発を記録していた暦開発により、見えない四季の季節の動きを捉えることが出来るようになり今から先の未来を予測できる技術を獲得したそして歴史的思考が出来るレベルに到達したこれにより過去、現在、未来を考えることが出来るようになったこれこそが文明の始まりを明確に示すものである。そして、暦の開発は農耕実施の必要性から生じたものと考えるので、...縄文文化の世界文明への貢献

  • 縄文時代の記念碑

    縄文時代の記念碑は土器で造られていた土器はまだ煮炊きには使える強度はない縄文時代の画期的発明弓矢による狩猟の開発小型ですばしっこい動物を狩りするためには槍では追いかけられない、投げ槍でも逃げられてしまうそのために弓矢を開発した弓の威力は弦にある、キイテクノロジーは、如何に細く強い紐を作れるか5メートル先のウサギが捕れるか15メートル先のイノシシが狙えるか50メートル先の鹿を狙えるようになるそれが出来たとき記念碑を作るのではないか集落全員が完成を祝っていたはずであるその記念碑が隆起線文土器と考える、碑ではなく供献土器だもちろん矢の先に付ける石鏃も見た通りのハイテク製品で、黒曜石、水晶、サヌカイトなど材料を選び、様々な形を試して、爪形文土器として記録し、集落全員でお祝いしていたはず釣りが出来るようになったとき...縄文時代の記念碑

  • 縄文時代の画期となる歴史は、土器に書いてある

    シュメール文明では、歴史は粘土板に文字で書き残されていた。 それより5000年以上前の縄文文明では、文字の発明は出来なかったものの、縄文時代草創期から、歴史を粘土で土器として造形することで残していた。 土器使用の初めは、煮炊きなどの実用を主とするものでは無く、祭祀用ないしは記録用として、供献土器として造られたと考える。栽培するための種を湿気から守り、乾燥して安全に残すための豆粒文土器を造り狩猟には弓矢を開発したことを隆起線文土器に造形、こうした土器が初期に造られていたと云うことを考えると、大変に手の込んだ丁寧に造られた作品と思う。 強い弓の弦を改良していった経過を細隆起線文土器や微隆起線文土器にまで造形矢の先に付ける石鏃の高度化開発は、その様々な形を爪形文土器として記録弓の弦用の紐は、更に高度化して、遂に...縄文時代の画期となる歴史は、土器に書いてある

  • 弓の弦の開発

    弓による狩猟と共に、隆起線文土器は全国的に広がっていたようです。隆起線文の太さは、時代が新しくなるほど細くなる傾向がある。と言われていて隆起線文→細隆起線文→微隆起線文と順次線文が細かくなり、新しい段階に移っていくと考えられている。弓矢の開発は縄文時代草創期の話です。隆起線文土器も草創期です。とされているので、弓の弦の紐の改良が進んで、より細く強い紐が開発されたものと推定する。土器の示す線文の太さが変るのは、それを正確に表そうとしているのではないだろうか。  写真では細隆起線文なのか微隆起線文土器なのかはよく分りません。かなり苦労して造っていたように思えます。これらの土器は供献土器なのでしょう。放射性炭素年代測定法によれば、長崎県佐世保市吉井町の福井洞穴出土の隆起線文土器はBP1万2700±500年、愛媛...弓の弦の開発

  • 立冬の日の出を観察しよう会 直近のご案内

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設で立冬の日の出を観察しよう会ご案内です2022.11.07,08,09日の3日間です。現地集合は早朝日の出前6時北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!朝活は立冬11月7日、8日、9日6時頃から7時まで遺跡現地です縄文時代の石棒で、冬の季節の始まりの日にちは何時なのか確認することです。寒さが厳しくなるので、温かく着込んで参加してください主催金生遺跡を世界遺産にしよう会内容はブログにありますjohmonkinsestarとして検索していただけば、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。 2022.02.04立春翌日の日の出立...立冬の日の出を観察しよう会直近のご案内

  • 土器開発の経緯にある背景の推定

    土器開発は無文土器から土器模様整理年表土器の用途籠などに代わる容器として、煮炊きの用途の鍋として、祭祀用途など供献土器として日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。というまず最初の第1段階は無文土器[6]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器[7]と隆起線文土器群[8]であり、第3段階は爪形文土器群[9]であり、第4段階は多縄文土器群[10]である。そうです土器の爆発的増加はその後で、煮炊きに本格的に使用されるようになる尖底土器からのようです。撚糸文土器と押型文土器はほぼ同時に発生した狩猟用の打製石器は大きな尖頭器から小ぶりの有舌尖頭器になり石鏃が作られている大型獣の狩猟には尖頭器、小型動物の投げ槍猟の有舌尖頭器になり、弓矢の開発により弦と石鏃が開発対象となった。ここから道具の開発は、弦と石鏃の...土器開発の経緯にある背景の推定

  • 縄文時代早期 温暖化の効果

    異常な気候変動と温暖化した今年、鮭の遡上回帰は異常であるという記事を見た。大型動物を集団で狩りしていた旧石器時代に比べて、弓矢の開発で、小型動物が取りやすくなり、生業がより安全に行えることになった。隆起線文土器撚糸文土器の時代は釣り糸と釣り針が開発されて、魚釣り漁が可能となり、縄文土器時代の開始となった。釣り糸のテグスのない時代に、縄文人はどのような植物を利用してテグス以上の強い糸を造っていたのだろうか。それを吹き飛ばすような出来事が、温暖化による鮭の遡上回帰だった。しかしその時期は限られていて、その時期を予測するには、季節を知ることが必要だった。その時期に何処かに狩りに出掛けていると、折角回帰してきた鮭を捕まえることが出来ず、集落の冬越しの食料が得られないため大変なことになってしまった。それを解決したの...縄文時代早期温暖化の効果

  • 早期中葉が貝塚利用の始まりなのか

    縄文海進前からの撚糸文土器の時期は夏島第一貝塚から出土した遺物からは、貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラ、クロダイ、スズキ、ハモ、コチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、銛やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。特に釣り針による魚釣りの開発は、撚糸文土器に表されていたものと思う。またマグロやカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。撚糸文土器貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、それまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。この時期が縄文海進の時期と考える。たとえば函館市中野B遺跡の貝殻沈線文系土器の出土量は1...早期中葉が貝塚利用の始まりなのか

  • 三角岩版と環状列石 時計合わせ

    引用しますーーーーーーーーーーーーーー特に三角形岩版は、小牧野遺跡の代表的な遺物であり、これまでに400点をこえる数が確認されています。このような岩版は、青森県の津軽地域を中心に製作されていると考えられています。また、三角形岩版が出土する遺跡は環状列石などの大型配石遺構を有する場合が多く、祭祀などで人が多く集まる場所で使用されたものと思われます。ーーーーーーーーーーーーーー引用終わり岩版小牧野環状列石このようなことが書かれているこれは暦計算をしていた証拠では無いのか、特に大型配石遺構のある遺跡であることは。東北から北海道までこのような文化が広がりを見せていたようだから。暦計算には365日のカウントが必要なので三角形岩版が400点を超えていることは、年間の日数を超えている。周辺住民が年に一度大配石の下に集ま...三角岩版と環状列石時計合わせ

  • 隆起線文土器の製作 弓の弦・矢・石鏃の完成

    この土器に関して今まで付けられている模様まではっきり見たことが無かった。細かく付けられた模様を見て、この土器も供献土器では無いか、それも弓矢の完成を記録しているものと考える。弓矢のハイテクは、弓に張るための弦と、矢の石鏃の開発では無いだろうか。それまで狩猟に使ってきた大きな槍の穂先から小さな鏃を作ること、この製作は相当な細工の腕前を必要としていて、これほどの小さなものを作ることの出来るのは、限られた人だったのでは無いか。 さらに弓に張るための弦はどのような繊維とか動物の腱など何が使われていたのだろうか、これも相当なハイテク製品であったのだろう。弦と石鏃、この完成は誰の目にも大変な驚異だったのでは無いか。それまで捕らえることが難しかった遠くに居て、すばしこく逃げる動物を難なく倒すことが出来る飛び道具は食糧確...隆起線文土器の製作弓の弦・矢・石鏃の完成

  • 夏島貝塚とは その意義

    夏島貝塚について、尖底土器や貝塚、その他多数の遺物についてもう一度調査してみた。縄文土器と縄文時代は夏島貝塚の時期がその始まりと考えて良いのでは無いか。ここからそれまでの狩猟採集の生業に加えて、縄文時代の文化的要素が整って行くことになった。撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器その中には農耕の開始と太陽暦の開発、太陰暦の開発もある。供献土器の始まり縄文時代前期はそれが継承されて文化が花開いて行ったものと考えることができる。早期(1万~6,,000年前):気候の温暖化により海面が上昇して「東京湾」が形成され、漁撈活動が活発になり沿岸部に「貝塚」(神奈川県夏島貝塚、世界最古の土器年代、9,500年前)が多数残された。府中市武蔵台遺跡では、野川に面した国分寺崖線上に、撚糸文土器期の「大規模集落跡」(2...夏島貝塚とはその意義

  • 狩猟の弓矢 鏃の地域の違い

    三内丸山遺跡の鏃 狩猟の弓矢鏃の時代変化について草創期の鏃は早期の鏃はとしていたところ、地域による違いがある様子が見えました。三内丸山遺跡では、縄文前期からのようですが、鏃は上のようなものが出ていたようです。 八ヶ岳周辺からの鏃は東北地方には流通していなかったのでしょうか。縄文時代の土器の模様では、利根川の東西というか、南北というか、この辺りを境にして、西側は押型文土器文化圏で、東側から北は撚糸文、貝殻文の文化圏となり、二大文化圏となり違いが見えていたようです。土器の模様弥生から古墳時代では、関ヶ原辺りを分岐線としていたのとは、縄文時代には様子が大分違うのでしょうか。図はお借りしました狩猟の弓矢鏃の地域の違い

  • 縄文時代の植物栽培

    縄文時代の遺跡で、これまで見付かったとされている栽培植物をリストアップしてみました。☆前期の栽培植物福井県の鳥浜貝塚の、前期の層から、栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウ等)が、早期の層からも、ヒョウタンが検出されています。大石遺跡栽培されたとおもわれるエゴマの炭化種子も検出された福井県の鳥浜貝塚からは、縄文前期の地層から「エゴマ」と大麻(おおあさ)の種実が出土した。縄文前期には、既に漆塗の技法があり、エゴマの油もウルシ塗りのときに使われていたと考えられる三内丸山遺跡(青森市)からは、栗栽培、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培跡が見出された。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、この時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるも...縄文時代の植物栽培

  • 縄文土器は夏島貝塚が始で尖底土器

    神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。夏島式と呼ばれる。釣りの始まりを示す撚糸で、尖底土器に縄文が付けられている夏島貝塚は最古の貝塚と云われているので、縄文時代早期はここから始まったものでは無いか。縄文時代早期の模様は、撚糸文系土器,沈線文系土器,押型文系土器など、時代順になっている。図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。夏島式と呼ばれる。重要文化財、夏島貝塚は1950年に発掘された現存する数少ない早期貝塚の一つ。日本で二例目の放射性炭素年代測定が行われ、約9500年前に遡る夏島式土器期の年代測定値は、縄文時代の古さをめぐる論争を引き起こした。本資料は底が尖った「尖底土器」で、60%程度残った破片から復元され...縄文土器は夏島貝塚が始で尖底土器

  • 土器が本格的に煮炊きに使われるようになったのは何時からか

    土器の始は、籠などの保存機能を上げることから始まったものと考える煮炊きに使われるようになったのは何時からなのかその評価基準はどうなのか尖底土器が開発されて、煮炊きが出来るようになったのが早期の特色縄文時代早期になり、この時期の大きな特徴として土器の底が尖っている通称尖底土器が作られるこれが土器が煮炊きに使われるようになったことを示すものでは無いのかこれにより食料と出来るものの範囲が広がり、食糧確保に大きく貢献したことで、集落での大集団での定住が出来るようになったのだろう 土器が煮炊きに本格的に使用されるものと成り、縄文時代早期となったのでは無いかそれまでの土器の製作量と数段違うはず土器量が違うはず 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー 8000年―早期doki撚糸文系土器様式が現れる。押型文...土器が本格的に煮炊きに使われるようになったのは何時からか

  • 土器の発生理由

    草創期の土器の模様は無文→豆粒文→隆起線文→爪形文→多縄文の順で登場しています。形は丸底の土器で、籠などの容器を真似たもののように見える。最初の縄文時代草創期の土器は丸底で無文のものが多く早期には尖底土器や撚糸で施文した土器が現れる。前期になると深鉢形土器は平底が一般的になりる 尖底土器は早期に作られるようになっているので土器が本格的に煮炊きに使用されるようになったのは早期なのでは無いのかそれまでの土器の利用は、保存用では無いのかそれは籠に変る高機能なものとしてつくられるようになったのでは無いか。煮炊きのために作られるようになるにはかなり長期間の土器作りの工夫が重ねられたものと考える。煮炊きに使用する土器は簡単にできるようなものでは無く、かなりのハイテク製品では無いかと思う。図はお借りしました引用ーーーー...土器の発生理由

  • これまでの縄文時代の認識の訂正

    引用しますーーーーー日本列島の豊かな自然環境に適応した縄文文化は、世界史的にも珍しい本格的な農耕を長く採用しなかった先史文化である。次第に原初的な農耕段階へ進みつつも採集狩猟を中心に自然と共存し、戦争などの社会的ストレスも少ない安定した社会をもたらし、交易などのネットワークを持ちつつ関東・東北・中部・西日本など地域ごとの土器文化を発達させた。縄文文化は日本列島に暮らす人々の歴史的特色の背景となっており、その端緒となった土器出現は歴史の一大画期といえるのである。ーーーー引用終わりこのように書かれていたが、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の発見により、このような認識は質す必要がある。 土器の発生についても、最初から煮炊きのためというのはどうなのだろうか、煮炊きなど経験していないのに、そんなことを初めから考え...これまでの縄文時代の認識の訂正

  • 貝塚と太陰暦

    引用ーーーー沖縄諸島では,前4600年頃に九州方面から移住した縄文人によって,貝塚文化が栄えました。貝塚文化の栄えた時代を貝塚時代,または縄文時代と呼びます。ーーーー引用終わり 沖縄諸島で、海があったのに、それまで何故貝塚が造られていないのか。縄文海進で縄文時代には貝塚が造られるようになっていたのに、沖縄諸島では何故それが出来なかったのか。定住して集落が出来るレベルまで達していなかったことが原因の一つだったかも知れない。それなら定住して集落の存在するナトゥーフ文化で何故貝塚が造られなかったのだろうか。貝塚を造れることは文明の評価指標と出来る、一つの指標と出来るのではと思う。その理由は、貝塚の存在とは、ほぼ太陰暦の存在を示していることになるものと考える農耕と太陽暦は直接の関係は無いかも知れない、しかし四季の...貝塚と太陰暦

  • 狩猟の弓矢 鏃の時代変化

    草創期の鏃は早期の鏃は このように早期に鏃の抉りが付けられるようになったのはどう考えたら良いか矢の棒の先端に取り付けた石鏃が、一ノ矢を放って当たり、動物が倒れたとき矢を抜いて、次の動物を撃つため、鏃をその矢の先端に嵌め込み、再度使用しやすいように工夫したのだろうか。中茎がある場合は不都合が有るのでは無いか。中茎のある形は、図から見るように、旧石器以来の槍の先端の形状によく似て、それを小型化したような形になっている。鏃に返しがある場合は、鏃が動物の体内に残り、外れて矢の棒を取りやすく、抜き取った矢に鏃を再度セットしやすいのでは無いか。二の矢のための石鏃を多数持参して、矢は再使用していたのだろう。次の弥生時代には中茎のある鏃が使われるようになり、それは人間を対象にするものとなった。鏃は大きくなり重くなり、戦場...狩猟の弓矢鏃の時代変化

  • 二倍年暦、半年一年暦 その3

    記事からリストアップします周代『列子』荘子は戦国時代末期の人物で、孟子と同時代の人物とされる。『曾子』は十篇よりなっており、その年齢表記記事に二倍年暦が使用されている『論語』為政第二の記事、「而立(三十歳)」「不惑(四十歳)」「知天命(五十歳)」「不踰矩(七十歳)」孔子の言葉『荀子』の二倍年暦アイヌの二倍年暦菅江真澄『えぞのてぶり』の二倍年暦ギリシアの哲学者、ローマの執政官の高齢も二倍年暦年エジプトセメルケト王(前三〇〇〇年頃)の在位年数を一八年間、しかし早期の碑文、バレルモ石(前二四九八~二三四五頃作成)には九年間ラメセスニ世の二倍年暦ラメセス二世は六七年間在位し、九二歳(異説もある)で没当時としては驚異的なこの長寿も二倍年暦による表記五〇歳で没したとされるトトメス一世(在位、前一五二四~一五一八)のミ...二倍年暦、半年一年暦その3

  • 農耕 打製石斧 蛇、イノシシの模様

    打製石斧は縄文中期、中部高地で爆発的に作られて行く。と言われている。石斧の製作地と使用地が異なることが分るほど、それほど多量に使われていた石器である、これは農耕以外無い。農耕がそのように発展していたのなら、それまでの農耕開発の長い期間の努力があった筈である。その経緯を明確に証明する遺物の存在は、植物と言う痕跡が残りにくいものであることから、難しいかも知れない。しかし進化した結果があるとすれば、それはその前史があることは疑えない。それまでの長い期間、農耕は主な生業とはならないとしても、細々ながら継続して来ていた筈である。それがベースとなり中期には、栽培技術や雑穀作物の品種が向上して気候的に良くなることもあり発展したのでは無いかそれが見えるのは最後の到達した結果となる、打製石斧の増加では無いか。それが打製石斧...農耕打製石斧蛇、イノシシの模様

  • 金生遺跡と二十四節気の暦

    金生遺跡は「立春」を観測して、甲斐駒に連なる山稜で日没のカレンダーが見えることから暦が作られていたものと考える。このことは他の縄文遺跡と比較したときどうなのか、縄文時代のその他の遺跡は暦についてどのようなレベルに有ったものなのか再度考えてみました。縄文人の暦は金生遺跡の暦まで進化発展してきたと考えることが必要となり、縄文時代の暦の進化発展の推移との関係を知るため現状を眺めてみた。天文観測に関係する遺跡は次が知られているようです。金山巨石岐阜県の金山巨石群(岩屋岩蔭遺跡)は太陽観測施設秋田県の大湯環状列石(万座環状列石)などは経度測定施設広島の宮島や筑波山などの頂上にある巨石群は天球図このように高度な天文観測をしていたとする遺跡があるようです。これらの遺跡は、暦との関係はよく分らないのでこれについては意見留...金生遺跡と二十四節気の暦

  • 縄文時代早期の農耕

    草創期の土器の必要性は湿気からの保存用と考えた。そのようにしてまで保存していたものは、翌年の種の保存だろうと考える。 大型哺乳動物の狩具の投槍器と投げ槍から、鹿・猪など中小形の動物用の弓矢の石鏃へと変化し、その次の段階になると、採集された堅果類や根茎類などを、すり潰す用具としての磨石・石皿を中心とした植物性食料の加工具が飛躍的に増加した。それに伴い根茎類や穀物栽培用の掘削具打製石斧が重用される。こうした重量のある石器類に頼らざるを得ない生業の変化は頻繁な移動を困難にさせた。縄文草創期の1万年以上前の鹿児島県志布志町内之倉の東黒土田遺跡(ひがしくろつちだ)で、シラス層に掘り込まれたドングリが入った貯蔵穴が発掘された。縄文人は冬季の食料不足に備えて、堅果類を貯蔵穴にたくわえた。このような変化が考えられている。...縄文時代早期の農耕

  • デフレを何とかして欲しい

    1200年前からの思想これからの思想【主要国の2021年名目GDP・政府支出対2001年比(倍)】政府が支出しないと国民の富は増えない民間はお金の取り合いをして、利子を銀行に返さなくてはならない利子分だけ民間のお金は減ってしまう。インフレで投資が次々に出来てパイが大きくなるときなら良いが、デフレでは投資しないから・・・政府が発行しない限り国富であるお金は増えない、政府の赤字は民間の黒字国がお金を出さなければ、お金は消えて、国富が減ってしまう金融と財政生産投資は出来ないが、金融商品への投資はいくらでもお金が余っている、金融緩和。開発投資は儲からないから出来ない。これからは環境対策投資、それは儲かる目処はあるのか。結婚しない人の増加貧困化で子供は増えない図はお借りしましたデフレを何とかして欲しい

  • 金生遺跡立地のアナレンマ解析結果

    日本天文考古学会の樋口元康様が天文シミュレーション「ステラトーク」のプログラムにより金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の立地環境に関して太陽の見かけの動きと月の動きについて解析してくださいました。アナレンマ図は、(C)樋口元康による注記facebookの「日本天文考古学会情報交流グループ」に投稿されたもの。アナレンマ図の作成には、AstroArts社の「ステラナビゲータ」と「ステラトーク」を使っています。組み込んだパノラマ風景は、DAN杉本さんの「カシミール3D」と「カシバード」で出力した画像を処理しています。これにより金生遺跡の立地は、太陽観測に大変適合した地理環境であることが、改めて証明されたと思います。ランドスケープとしての目立った山との関係も正確に適合しています。このような解析の結果が他遺跡でされて...金生遺跡立地のアナレンマ解析結果

  • 縄文時代草創期の土器は何のために作られたのか

    土器の必要性は何か土器の作られた理由編み籠の形に似たものが始まりのようだ引用ーーーー近東では土器新石器時代にいたる前から、技術的には土器製作が可能な状態にあった。しかし実際には、土器新石器時代になるまで土器はほとんどつくられず、少なくとも遺物の中で大きな部分を占めることはない。おそらく、人々は土器を特に必要としなかったから製作しなかったのであろう。逆にいえば、土器新石器時代には土器を必要とする要因が現われたに違いない。ーーーー引用終わり近東では乾燥地帯で日干しレンガが使用できるような気候の地域であることから、湿気を防ぐなどの用途で特に土器を使う必要は無かったのでは無いか。それに対して日本列島では湿度が高く、籠では湿り気で駄目になることがあり、湿気を防ぐためには土器の容器を必要としたのでは無いのか。草創期の...縄文時代草創期の土器は何のために作られたのか

  • 土偶の初発はトルソ形のもの

    何故なのかこの場合の土偶に託していた思いは乳飲み子の求める母乳の出を望んでいたのでは無いか母乳は乳房の表現から間違えることは無いそのことは貝塚などから出ている飢餓を示す遺物など、当時の厳しい生活を示すものが有るから分る母乳の出を良くしてくれるものは何なのか、その背後にあるものは何なのか分らない何か最初に土偶が作られたとき、それをどのように造形したら良いのか分らなかった対象物の背後に居るものを示すためなので、顔も手足も付けられなかった目的とするものを示して、それ以上にどう造形したら良いのか分らないその後の精霊の表現法が無かったのでは、その場合はトルソにするしか無かった。トルソ これ以後土偶を作り願いを託すものは、人の形には似ているように見えるものの、人間をそのまま表現するものでは無い精霊、背後に有るものなの...土偶の初発はトルソ形のもの

  • 縄文時代草創期から早期の食糧確保

    旧石器時代には大型動物を狩り尽くしてしまい狩りをしていた集団は、次の食糧確保をどうすれば良いかその必要性から生まれた発明が弓矢である。その次に食料の対象として拡げたのがドングリなどそれは九州から始まり、温暖化による植生の変化と共に東北に向かって住む範囲を拡げていった。この時期に土器が発明されて押型文系土器が作られていた。ドングリなどの食糧確保は時期が限られているので、集落全員の集団作業で効果的に収穫することが必要とされ、その時期を予測することは集落の運命を決める重要な技術のため、秋の時期を見極めるために太陽暦が発明された。それを記録したものが2波状突起口縁の土器である。その後釣り糸方式の魚釣りを発明して、そのハイテクの釣り糸を象徴する撚糸文土器が作られた 更に温暖化が進み海進が始まり、鮭の回帰が始まると、...縄文時代草創期から早期の食糧確保

  • 冬至、大寒、立春の日の出

    冬至の日の出位置は、計算による他ないと思うが、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の位置からは、太刀岡山の左脇から出てくるように見える。太刀岡山が瘤のようになっていて、この位置で止まる太陽が、更に南に向かって転げ落ちて寒くなってしまわないようにしているかのように、まるで輪留めのようになっていた。 縄文人のように、日の出を毎日見るのでは無く、現代の暦の暦日に従い、日の出を見に行っていたので、大寒は冬至から30日目に見た。 この日の出の位置から見て冬至から30日でここまで来ているので、あと立春まで15日だからその半分の位置、ピークとの中間かせいぜいもう少しピーク寄りの辺りが、日の出位置なのだろうと、遅考もせず即断してしまった。その上更にこの年の立春は、現代天文学からはこれまでの2月4日から2月3日24時頃という...冬至、大寒、立春の日の出

  • 撚糸文系土器も供献土器

    鮭取りはどうしていたのだろうかこれは鮭釣りの糸なのか、釣り上げていたのか撚り糸とは引用ーーーー一方縄文早期の西日本では、この写真のような押型文系土器がさかんに作られた。押型文とは硬いものを押し付けてつくる模様のことである。このほかに、普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけた撚糸文系土器と呼ばれるものが主に東日本で作られた。このように、縄文時代の早い時期から、土器には地域差があったわけである。ーーーー引用終わりこのように云われているから、東北地方とすれば、鮭取りが思い浮かぶので、関係あるものとしたいけれど、どうなのか、その他の只の魚釣りなのか。また撚糸文(よりいともん)は植物繊維を撚(よ)り合わせた細縄を丸棒の軸に巻きつけた原体(絡条体)を回転して施した文様。関東地方の早期前半には,土器面を撚糸文あるいは...撚糸文系土器も供献土器

  • 縄文人と鮭と暦

    鮭の遡上回帰性鮭について理解するために、ウェブ上の情報で鮭について纏めてみました。かつて東京大学の山内清男(やまのうちすがお)は、東日本の縄文文化が栄えたのは、サケが豊富にとれたために人口が増え、豊かな狩猟採集文化が花開いたとするサケ・マス論を提唱しました。遺跡からサケ科魚類の遺存体がほとんど出土しなかったため批判にさらされましたが、近年では証拠も増えつつあり、その生業上の重要性は認められつつあると言うそうです。 もしそうだとすると、鮭の捕獲を効果的に行うには、何時鮭が戻ってくるのか、正確に知るためには、太陽暦が必要とされたと考えます。日本最古のサケ・マス漁の証拠は、縄文時代草創期初めにあたる約15,500年前の東京都前田耕地遺跡から得られています。哺乳動物の骨のほかに数千点のサケ科魚類の歯が出土しました...縄文人と鮭と暦

  • 金生遺跡を世界標準時天文台にしよう会

    縄文時代早期には貝塚が造られるようになった。それまで出来なかった貝塚が何故造られたのか。それは太陰暦が造られて、定住している集落の人々が、一丸となって貝拾いに出掛ける日取りを決めることが出来るようになり、集団作業を効果的に行えるようになったからだろう。前提には二至の暦があって、半年の182日と言う知識があり、月の朔望が30日と分かり、半年6朔望、潮の満ち引きの時期を知ることが出来るようになり、作業を計画的に進めることが可能となったからと考える。農耕作業については、証拠となる遺物が残りにくく、遺跡なり遺物ではその実情は、把握しがたいものなので、縄文人が考えて作り出していたものから、推察することになる。供献土器には2突起と4突起口縁の土器が作られていたことから、2は二至の暦の開発がされていたことを示すものであ...金生遺跡を世界標準時天文台にしよう会

  • 宇宙天文考古学

    宇宙考古学現在の目で見える宇宙が生まれたときは何時なのかビッグバンから生まれた原始宇宙が、現在の姿に目で見えるようになったのは何時なのか 人類の夜明けは何時なのか天文考古学それは太陽系にある地球にとっては太陽暦を開発したときでは無かろうかここが人類誕生となるでは太陽暦を開発した文明は何処なのかシュメール文明、エジプト文明、・・・・これまでに分っているのは、四大文明などと言われているあまたの文明で太陽暦を開発出来た文明は無いと思う。人類史でそれを確定するのが文明開始となるのでは無いだろうか。定住して貝塚を作り栽培を始めた。それに必要なのは太陽暦と太陰暦では無いのか。人類が宇宙を知り始めたのは何時からなのか夜は星もあったしかし、縄文時代の宇宙はやはり第一には、太陽と月だったのでは無いかそれを知ることから1年3...宇宙天文考古学

  • 貝塚はどのようにして造られるようになったのか

    縄文時代草創期には造られなかった貝塚が縄文時代早期になって何故造られるようになったのか、そして定住出来るようになったのか、その理由の説明は早期関係の遺跡の報告書を調べた限りでは、縄文海進でうみが広がったからとしか書かれていないようだ。縄文海進が始まれば自動的に貝塚が造れるものなのだろうか。海で魚を捕る作業では、潮の干満について余り考慮しなくても良いかも知れない。しかし潮が引いて潮干狩りをするとすれば、潮が引いたその時にしなくては大漁は難しいと思う。それは現在と同じだろうと考える。そうだとすれば、集落全員で作業に掛かり、収穫を上げることにより定住生活をするとすれば、太陰暦無しには出来ないはずである。狩猟もし、木のみ草のみの採集もし、農耕もしと様々な作業を計画的に行いながら、潮の満ち引きに合わせて、集落の全員...貝塚はどのようにして造られるようになったのか

  • ロングテール戦略

    縄文時代に関心を持つ人は少なくは無いもののそれほど多くも無いようだという。まして金生遺跡に関心を持つ人は多くは無いだろう。見に来ようという人も多くは無いと思うので、もっと多くの人に訪れて貰うには、どうすれば良いだろうか。今流行になっている、アマゾンとかノキアとかの例を参考にして縦軸を「訪問者数販売数」として棒グラフを作成し、訪問者数販売数の多い商品から順に右へ向かって並べていくと、グラフの右側がまるで「しっぽ」(=テール)のような形になります。という実店舗においては、商品の陳列スペースに限りがあるので、ニッチな商品を多くしすぎると売上が減ってしまうのが普通です。これは、売れ筋商品の上位20%が売上の80%を占めるという「パレートの法則」によるものです。しかしECサイトなどでは、パレートの法則が当てはまりま...ロングテール戦略

  • 縄文時代の暦文化

    金生遺跡・大配石は、太陽暦観測施設であることが分ってきました。しかしそれと共にもう一つ不思議なことが分ってきました。太陽暦の日数を数えて作ることが出来る、最も簡単な二十四節気の暦を作るためには、立春観測をすることにより、太陽暦は完成させることが出来ます。また立春の日の出に、太陽観測を常に続けていれば、暦がずれてしまうことも防ぐことが出来ます。面倒な計算を要する、閏年のような暦の変動も全く問題ありません。そのような変化にも、観測すればよいので、精密な計算文化が無い縄文時代でも、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では簡単に続けて行くことが出来ます。現在でも全く変化無く観測できることが分ってきました。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、それなのに立秋観測点が設けられていました。これが不思議、何故なのかと言う...縄文時代の暦文化

  • 沈潜文と押型文は生業の違いがあるのでは

    引用文書から早期の土器模様の変化を纏めると早期前半、関東地方で撚糸文(よりいともん)土器が作られます。西日本で押型文(おしがたもん)土器が作られます。その押型文土器が日本海側ルートで東北地方にやってきて、日計式(ひばかりしき)押型文土器が作られます。八戸市の日計遺跡にちなみ名付けられました。その後、文様を施すのに貝殻が使われるようになり、貝殻沈線文土器が作られるようになりました。この沈線文様式の土器は広く影響を及ぼし、関東地方の撚糸文土器に取って変わり、東日本の沈線文土器、西日本の押型文土器と、東西を二分する文化圏となりました。このように理解したので、この変化が何を示しているのか暦開発との関係を考えてみます太陰暦は二至太陽暦の後から開発されたものと考えるので温暖化により西から雑穀農耕がまず広がる二至暦によ...沈潜文と押型文は生業の違いがあるのでは

  • 早期の貝塚の成立と貝殻沈線文土器様式の展開

    縄文時代早期の貝殻沈線文土器様式の展開関東地方から東北地方への土器形式の広がりからは、海辺の生業が革新され、貝塚が成立したものと考える。関東地方では集落遺跡が漸次増加し、その生活残滓の集積地として巨大な貝塚が出現する。それまでは海辺の生業は当たり外れの大きいものだったのが、潮の干満が予測できることになり、作業が計画的に出来ることになった。それは太陰暦が造られたことであり、生産力が大幅に増大したことによるものだろうと思う。東北地方ではそれにより、定住生活は安定したものとなり、その廃棄物として巨大な貝塚が造られるようになった。その影響力は縄文土器の模様を、貝殻沈線文土器様式が押型文土器様式に対して、列島を二分するほどの強力なものと成った様子からも分るのでは。何よりも貝殻沈線文というのは、紛れもない海辺の生業の...早期の貝塚の成立と貝殻沈線文土器様式の展開

  • メソポタミアでの土器使用開始

    北の《ハラフ/ハラフィアン文化》から南の《ウバイド文化》へ土器・陶器が発達した北メソポタミアの《ハラフ文化》先史時代紀元前6,000年~紀元前5,400年頃に北東シリアのテル・ハラフを中心に北メソポタミア、シリア、アナトリア、現トルコとシリアの国境周辺の「肥沃な三日月地帯」北部で始まり広がった有土器新石器時代です。と言われている。メソポタミアでの土器使用開始はハラフ文化からとされていたが、それ以前にハッスーナ文化が存在していたようだ。プレ・ハッスーナ期の遺跡の住居は、粘土を乾燥させて作ったレンガではなく、ピセと呼ばれる粘土の塊そのものを積み重ねて作ったものである。プレ・ハッスーナ段階に続く狭義のハッスーナ文化の段階で特筆すべき点は、焼成の良好な彩文土器が多数生産されるようになることである。ヤルム・テペIか...メソポタミアでの土器使用開始

  • 縄文時代とメソポタミアでの土器使用開始

    日本列島の石器時代旧石器時代~約1万6000年前縄文時代(新石器時代)約1万6000年~紀元前10世紀頃(約3000年前)土器と磨製石器縄文時代草創期土器新石器時代のナトゥーフ文化からヤンガードリアスの期間 メソポタミア北部には前6千年紀前半からハッスーナ文化が芽生えており、その後サマラ文化、ハラフ文化土器の存在するへと移り変わっていきます。しかし、やがてこのウバイド文化に飲み込まれていきます。その後がシュメール文明となる。 縄文土器は16000年前から使用されていてメソポタミアでの土器使用開始は縄文時代前期頃に当たる縄文早期土器は数2,4,6を示す波状突起口縁の土器が作られていて、この数字は特別な意味を持つものと考える。これらの土器は日常使用されるものでは無く、特別なものと思うので、供献土器として祭祀が...縄文時代とメソポタミアでの土器使用開始

  • 農耕開始文明の判別は太陽暦の存在なのか

    農耕には季節を見ることが必要であり、太陽暦が基準となることから、太陽暦の存在がそれを判定する基準となる。しかし各文明の置かれていた気候条件を見ると以下のような違いがあったようだ。ナトゥーフ文化とそれに続くヤンガードリアスの寒冷化後の農耕開始の文化では、太陽暦の存在は観測装置が無いことから、明確で無いし記録も残されていないようだ。先史時代紀元前6,000年~紀元前5,400年頃に北東シリアのテル・ハラフを中心に北メソポタミア、シリア、アナトリア、現トルコとシリアの国境周辺の「肥沃な三日月地帯」北部で始まり広がった有土器新石器時代です。というシュメールに繋がる北メソポタミアでは、天水農耕可能な地域から始まったが、雨期の存在があることで、暦無しでも雨期を基にして、農耕はそれなりに出来たのだろう。エジプトなどは、...農耕開始文明の判別は太陽暦の存在なのか

  • 土偶と貝塚

    土偶は労働集約的生業が発展すると、集団統合の祭祀のため造られている、と言われていることから、貝塚が一番多く存在する千葉の貝塚で発見されてきた土偶を中心に眺めてみた。一番多く採取されていた貝はイボキサゴのようなので、ミミズク土偶とはイボキサゴの精霊を形象しているのだろうとして見ました。 イボタガキという見方もある様ですが、それは大きいものなので、一つ乃至二つほどで表現できるように思う。イボキサゴは小さい貝なので口も目も耳もと、これでもかというように、沢山のイボキサゴで表されているように見えるのだけれどどうでしょう。手足はデザイン化されているようなので、これは何かを具象化している感じはしないので、これは土偶とするための定型的表現にしているように思える。ハート型土偶のようなものに類似する形態と近いのでは。山型土...土偶と貝塚

  • 日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性…

    引用します---日本列島ではヤンガー・ドリアス気候寒冷化は、それほど深刻な打撃を縄文人の生活に与えなかった。太平洋沿岸のヤンガー・ドリアスの証拠は、大西洋沿岸ほど顕著にはみられない。このため縄文人の生活も危機に直面することなく、狩猟・漁労・採集生活を基本においた縄文文化が、その後も長らく続くことになった。---引用終わり この期間が幸いして、寒冷化の影響を受けた縄文時代早期は、地理的利点から太陽暦開発の期間となった、太陽暦と太陰暦開発の記録は供献土器に突起として記録し残された。そのお陰で縄文時代早期後半には、大集団の定住が可能となり、それは縄文時代前期に引き継がれて阿久遺跡などが営まれている。ここでは縄文時代の精神生活の高度化と考える、蓼科山に向かっての祭祀が行われたと思われる配石の列が見付かっていた。縄...日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性…

  • 2020年の新型コロナ発生で

    引き籠もりとなり家から車で遺跡に出掛け日の出を見る時間も日の出のみの限られた時間ですそしてその時間に、家から外に出ている人との会話この程度の限られた空間で生活することになりました遺跡で日の出に会った人は本当に限られた数人ですこれが行動できる空間移動の唯一の道となりました 空間移動ではこのように限られた空間ですがこれによりタイムマシンを手に入れることになりました4、500年前から12、000年前、30、000年前、200、000までこのように広大な時間の旅行をすることが出来ました特に4、500年前までの時間旅行は、ほんの数年前までは2,000年前までの歴史を知る程度でした最大の到達時間旅行は、12,000年前ですタイムマシンで知ることが出来た先史時代の文化は文明の発祥です、現代文明に辿り着いた先史時代文明の...2020年の新型コロナ発生で

  • 12000年前 ナトゥーフ文化と縄文文化の比較

    ナトゥーフ文化(ナトゥフィアン文化)?Y染色体ハプログループE1b1b?2022.07.22ナトゥーフ文化(英語:Natufianculture)は、紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化。 人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、定住あるいは定住に近い生活が行われていた点に特徴がある。 おそらく世界最古の都市であるとされるイェリコは、この時期に建設された。 いくつかの考古学的証拠は、穀物、特にライ麦の計画的な栽培が、ナトゥーフ文化期後半にテル・アブ・フレイラにおいて行われていたことを示しており、これは人類史における最初の農耕の証拠である[1]。とされていて、土器の存在が無いこと、貝塚の形成も見えていないようだ。他方縄文時代草創期、早期は定住が始まる前、または...12000年前ナトゥーフ文化と縄文文化の比較

  • 農耕開始、文明開始

    ナトゥーフ文化時代の石器ナトゥーフ文化時代の遺物 引用します---温暖化によって広まった森林地帯に適応し、定住的で植物を中心とした新しい暮らしをはじめた西アジアに住む人々は、この急激な環境変化に対応することを迫られました。かつて行っていたように、環境が悪化した土地は見捨てて、獲物の多い場所を求めて、狩猟を中心とした移動生活をはじめた集団もいたようでした。一方で、植物を加工するための石皿や磨石(すりいし)など、重たい家財道具を捨て去ることをせずに、なんとか植物を確保しようとした集団もいたようです。そのような集団によって、野生の植物が管理されるようになり、いわゆる農耕が開始されたと考えられています。---引用ここまで最終氷期から現在まで続く間氷期へ移行する途中の1万3000年前ごろに起こった、急激な寒冷化現象...農耕開始、文明開始

  • 文明とは何か 定義

    次のように云われているようだ---文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明された。なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するように...文明とは何か定義

  • 纏向石塚古墳の示すもの

    纏向遺跡の古墳は三輪山方位を向き、立春方位の古墳で有ること立春は金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の示す茅が岳の日の出観測に一致するこれは何故なのか実は橿原から亀ヶ岡式土器などが大量に出土したことは、東西の人々の交流が盛んだったこと、奈良盆地が当時も重要な土地だったことを物語っているのです。という東日本の当時の最先端の文化が橿原まで来ているということから、橿原は東日本と西日本の接点でもあったといえるのではないでしょうか。と言われていた。これ以外にも奈良では道祖神などに供えられている丸石の存在する地域があり、山梨や長野などにある道祖神に供えられる丸石と同様な文化の存在が推測される。纏向遺跡の古墳時代前後の発展はこの地が、東と西の接点として、縄文時代以来の歴史を持つ重要な地点であるということを示しているようだ...纏向石塚古墳の示すもの

  • 超巨大天文台

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は先史時代の世界で唯一無二の現代の暦に一致する太陽暦観測天文台名だたる古代文明は巨大な建造物の廃虚を残していたものの、現代でも生きて働くものは造っていない。ストーンヘンジの祭縄文文明のみが北杜市全域の景観を太陽観測天文台として造ると伴に、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設という現代にも通用する超巨大建造物を造っていた。図はお借りしました超巨大天文台

  • シュメール文明の春分と 6

    春分の知識も60進法の6の知識も縄文早期に伝えられたものだろう6はどのようにして知られたのか分っていないというから 円と内接する60度の正三角形6から30日*6月180度180/630度半年で約182日一年では一月30度円と内接する60度の正三角形6一年が円とすれば60度/230度約一月ということからでは無いだろうかその後数学の力が付いて一年の数字が扱えるようになり30日*12月360日360日/1230度の計算が出来るようになったここからでは6という数字が関係しない図はお借りしましたシュメール文明の春分と6

  • 縄文時代早期 縄文文明の開始

    縄文時代早期とはどのような時代だったのか、その指標から見えるものインターネットに出されている情報から見て、草創期から早期へは、どのような変化があったものと考古学は見ているのだろうか。前期にどのように連続しているのか。定住が始まった巨大集団で定住を始めた土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期とする遺跡が急増し竪穴住居祉が増え土器出土量も増加する。環状集落が出来てきた石器構成に打製石斧、敲石、磨石、石皿などの植物質食料と関係する器種が増加する多数出土した打製石斧農耕道具農耕が始まったダイズやアズキは、縄文時代早創期~早期には利用が始まっている穀物としてヒエ、ダイズ、アズキが耕作されていたシソ・エゴマは、早期から耕作していた貝塚が形成されている海、川、陸に生息する多様な植物、動物を食料源とする縄文文化の...縄文時代早期縄文文明の開始

  • 大貧民ゲーム・逆転ゲーム

    地球文明は今、グレートリセットに辿り着いた。といわれるコロナ蔓延によりその時はずっと早く来てしまった。現代文明のレベルにまで辿り着いた、いわゆる古代文明により、凡そ3000年前に滅びた縄文文明。その縄文文明を解明して、現代文明の参考にすることは、この時までには、間に合わせることが出来なかった。しかしまだグレートリセットは始まっていない。ようだ現在の地球環境問題という温暖化問題、温暖化の時代とは、縄文文明の始まりの時と同じ環境になることなのかも。いわゆる古代の大文明の子孫にナル現代文明は、縄文時代の文明を滅ぼして、3000年間営々と発展し続けてきて、今縄文時代と同じような環境を、環境問題を造り出してしまったのだろうか。縄文時代は1000年単位の発展を続けてきたような文明だった。縄文海進により大都市は無くなる...大貧民ゲーム・逆転ゲーム

  • 古代文明の始まり

    縄文時代早期に太陽暦と太陰暦が開発された、それは10000年前頃と思う。縄文時代早期より農耕が開始されていた、しかし耕作は始められていたものの、栽培暦が無いため大した収穫は得られなかった。そこに太陽暦が開発されたことにより、各種生業からの収穫は巨大集団を維持できるものとなった。海辺では大集団により太陰暦が利用されて採集作業が大規模に効率化され、大貝塚が作られた。これが大集団での定住が可能になった8000年前頃のことであると思う。世界有数の古代文明はこれに遅れること2000年後に始まった。縄文時代に開発された暦の知識がその間に伝えられて利用が開始され、文明が各地で始まった。しかしそれは伝達された時期により、暦の技術レベルが違うため、各地の文明毎にそれぞれ異なるレベルで始まることになった。エジプトは太陽暦が最...古代文明の始まり

  • 縄文時代の年表

    縄文時代をもう一度イメージしてみましょうバランス年表縄文時代早期はこのように5000年ほどの期間でした。縄文文明はこの時期に始まっていると考えています。特別な山を起点に365日がカウントされいち早く四季が認識されて、冬至-春分-夏至-秋分-冬至・・と季節が巡り四季の始まりが求められ、半年が冬至--立春--春分--立夏--夏至とされて、半年4区分された45日単位の暦が工夫されて、立春が農耕作業の起点とされて、栽培暦が作られることにより、巨大集団が維持できる社会が生まれた。関東平野は縄文海進で広大な海辺が生まれ海辺の生業の為には、半年15日区切りの12弦の暦が作られて海辺の大集団の維持が出来ることで、大貝塚が残されることになったこれはそれぞれ太陽暦と太陰暦による縄文文明の始まりであるこの経緯は供献土器に造形さ...縄文時代の年表

  • 金生遺跡・大配石・太陽暦観測施設のランドスケープ

    金生遺跡3Dモデルのデザインイメージ模型シート配石を中心に置いて、日の出方位にある山のシルエットの写真を配置してみました。60メートルの配石と日の出方位の山などを、立体模型で配置すれば、見栄えしないでしょうか。縄文時代の構想による北杜市金生遺跡太陽暦天文台は、岡本太郎の「太陽の塔」に匹敵するモニュメントとならないでしょうか。金生遺跡・大配石・太陽暦観測施設のランドスケープ

  • 縄文時代早期の貝塚は世界の先史時代史上最早では無いか

    縄文時代早期に太陰暦が成立してこれを利用することによりあの巨大な貝塚が作られ、海辺での生業が巨大集団により行われるようになり大人数での集住が可能となった証拠ではないでしょうか先史世界でそのような例はあるのでしょうか太陰暦の象徴突起が6から12へと進化する 大規模な貝塚は縄文時代早期から爆発的に形成されている引用しますーーー早期末から前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模なゴミ捨て場が形成される。中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。ーーー引用終わり このように巨大な貝塚を作るような海辺の生業には太陰暦が欠かせない特に巨大集団で住み続け、巨大な貝塚を形成するには太陰暦の知識は欠かせない 図はお借りしました縄文時代早期の貝塚は世界の先史時代史上最早では無いか

  • 土偶は何故変化したか

    初期土偶は造形が具象的人体そのまま存在するものそのものを造形していたこれらのものは縄文時代早期までであるようだ列島全域的に同じ様子が見える何時から変化するのか農耕により巨大集団社会が成立して縄文時代早期半ばから前期までには、太陽暦を利用する農耕により食料が増産できて、巨大集団社会が出来てからでは無いだろうか。その後具象性土偶は、巨大集団社会が出来て、抽象心理的精霊的なものに変化社会集団の成立と食糧事情の変化対象とするそのものの、またその後ろにいる精霊の象徴として農耕を開始してからなのではないのか突起土器の発生も同様な時期であるので、巨大集団が形成されて、祭祀が始まったのでは、 具象的造形土偶はその後も動物などでは作られ続けていた何故か農耕牧畜でなかったからなのでは農耕作物と海産物は土偶としては精霊として扱...土偶は何故変化したか

  • 先史時代人の太陽暦作成方法

    縄文時代に行われていたと見える暦作成手法は、先ず一年の日数365日を数えて、365日/2/2/245日という区分方法以外に、太陽暦を作る方法はあるのだろうか数を扱うのに慣れていない先史時代人にとってその時手の内に扱える数にまで縮減するという手法、それは1/2にするという簡単なこの方法以外には無いのでは無いか。もしそれ以外の方法があるなら、是非教えて貰いたい。45日以後の区分法としては、45日/2/2/25日一週間を作る、という方法も有ると思うが、これでは月の暦とのシンクロをさせることは出来ない。5*315日に戻すことからシンクロさせるということは無いだろう。 唯一3分割することで、二十四節気の暦としてのみ簡単に太陰暦とシンクロさせることができる。太陰暦とシンクロさせることが必要だった縄文時代には、二十四節...先史時代人の太陽暦作成方法

  • 地球の文明の始原は縄文時代にある

    金生遺跡の太陽暦の意味するもの金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が縄文時代後期にこれだけの緻密さで出来ていたということは、それ以前に太陽暦開発がされて技術が蓄積されていなくては出来ないことである。太陽暦が存在することは、何故開発されたのかを考えれば、必然的に農耕の成功のためであり、それまでに農耕で失敗を重ねていたことから、それを成功させるための暦の開発である。つまり縄文時代には農耕が存在したことの証拠であると考えざるを得ない。では何時から農耕が始まっていたのか、それは縄文時代草創期から縄文時代早期にかけてと云うことだろうと考える。縄文時代早期半ばに集団の巨大化があったようなので、ここが太陽暦利用による生産力増大の始まりで、大集団を養うことが出来る食糧確保が可能となったからだろうと考える。縄文時代前期より前...地球の文明の始原は縄文時代にある

  • 太陽暦の形成プロセス

    冬至と夏至の間の日数をカウントする数の扱いに慣れていない先史時代人は、扱える範囲の石ころを並べて、夏至までの往復と冬至までの往復、観測点間の日数のように部分で観測して、何とか半年の日数を182個の石ころの一組を作り上げたのでは無いか。その後その個数を半分にして、91個の一組とし、更に半分の45個として何とか数えられる範囲の個数の一組を作り上げたのでは無いだろうか。こうして45個の石ころ、45日を一組として、カレンダーを作ることが出来たものと考える。この作業により四季を知ること、四季の始まりを知ることが出来たのだろうと思う。ここまで来るのもなかなか大変なことだったのでは無かろうか。このようにして雑穀栽培の種蒔きの時期を知り、農耕が成立するようになったものと考える。こうした一年に関する知識栽培暦を拡げたことを...太陽暦の形成プロセス

  • 縄文文明

    縄文時代は16000年前から始まったようだが、縄文時代早期半ば頃から太陽暦が存在していたそれは供献土器での2、4、6の波状突起口縁の土器の存在が示していた。太陽暦の開発が必要だったのは、耕作のためだった。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は文字、数字の無い世界と見られる先史時代において、太陽暦の完成形を示しているこれ以外に正確な太陽暦を作ることができた文明は何処にも無い。理由は地形が無かったことが大きいと考える。世界の有数の文明は、広大な平地にあったため、特殊な形状の山を利用して一年の日数を数えることが出来なかった。そんなところでは月や星を眺めて、何とかそれらしいシリウスやカペラなどを見つけては、太陽の代わりとして、暦らしきものを作り上げていた。日数がカウントできない限り太陽暦を作ることは困難と考える。縄文文明

  • 世界史上での立春観測の遺跡

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は、チャイナで発見された陶寺遺跡の天文台遺跡と同時期のものと推定出来る。太陽観測としての陶寺遺跡は、金生遺跡の太陽観測とは比較にならない。チャイナで行われた陶寺遺跡の天文台遺構で観測されている太陽暦観測は、どのようにされているのか皆目分らない。特にノーモンを使用して観測していた様子は有りそうでは無い。 縄文時代の長い時間を掛けて探求されてきた太陽観測は、現代の太陽暦と肩を並べられる精度を持つものになっていた。さらには後のチャイナに於いて暦の起点とされていた立春、立秋が、太陽観測に於いて実現されていたことである。ここで気が付いたのは、縄文時代中期とは、これ以前の縄文時代の文化、縄文文明であったことである。図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー2015年06月22...世界史上での立春観測の遺跡

  • 縄文文明の成立

    縄文時代早期には、縄文文明が成立していたのでは無いだろうか。縄文時代草創期には土器が作られていたものの、突起を持つ土器は作られていない。定住が始まっていたようだから、植物栽培は始められていただろう、しかしこの時期は太陽暦を持たないため、多種類の雑穀を上手く育てて収穫することは困難だったと思う。縄文時代早期半ばになると、突起土器が作られるようになったという。太陽暦が作られたとすれば、4突起土器がそれを示しているものと考える。太陽暦が出来れば耕作することが容易となり収穫も容易になったと考える。12000年前ごろより縄文早期となる。草創期では小規模だった縄文集落が巨大化してきた。縄文時代の生産力はすでに早期には高い水準に達していたとみる人も居るということが云われている。またーーーー縄文早期になると遺跡は諏訪全域...縄文文明の成立

  • 数の組み合わせ突起の土器

    次のような天神山式土器供献土器は何を示しているのだろうか3,68,63,4これらの数字は何れも太陽暦と太陰暦のキイとなる数字である暦について何か重要な情報を示しているものと考える天神山式土器は火焔式土器と同時期とされているようで、内陸と海辺のように、地域が異なるようだ貝塚などがあるこの地域では、何のために作られたものだろうか図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー■火炎土器の特徴~突起と渦模様の謎~manabu_about01_fig03.jpg中期の土器は、火炎土器以外にも、「円筒土器上層、北筒式、中期大木式、阿玉台式、狢沢式、勝坂式、加曽利E式、曽利式、唐草文系、北関東加曽利E式、五領ヶ台式、新保・新崎式、串田新、大杉谷式、上山田・天神山式、咲畑・醍醐式、舩元・里木式、阿高式」と数多くの形式...数の組み合わせ突起の土器

  • ノーモンは縄文時代に開発されたのか

    世界のノーモンの発明者は誰かノーモンの機能と発明者については世界的に明らかにされていないようだ金生遺跡では太陽暦二十四節気の暦の存在は間違いない様子なので縄文時代には金生遺跡以前からノーモンが使われてきた可能性があるが、その存在を示す遺跡としては、今の所ノーモンの使用は、金生遺跡からと考えても良いのでは。金生遺跡の立春と立秋の観測施設は正確に作られていたこれを造り上げる方法としては、ノーモンを利用する方法に違いないものと考える。ノーモンの先駆けは金生遺跡の大配石だったのか茅が岳のピークからの日の出には、山の高さがあるので、ポイントとなる石棒まで影が届くには、2.4メートル程の柱を立てることが必要。この長さは約8尺になる、これは漢籍に記載があるものに相当する。立秋の日の出はそれほどの高さで無い飯盛山からなの...ノーモンは縄文時代に開発されたのか

  • 古代文明の発展と太陽暦の関与

    エジプト初めは365日を知らなかったようだシュメール春分と半年の月の周期6は知っていたようだシュメールの農耕は、神話によると何処かから来た人により農耕収穫の大幅な増加が出来たとされているようだ。世界の文明の歴史を見渡すと、太陽暦の発祥は日本列島からであると思われる。現代の暦までの2000年ほどの歴史展開を見ると、農耕の発祥も発展も季節を正確に捉える太陽暦からではないのか古代文明の発祥は、農耕の生産性を劇的に変えた、太陽暦採用にあるのではないのか引用しますーーーーー農業に関しては、ひとつの疑問が指摘されている。近東、中国、アフリカなど、少なくとも世界の7カ所で、それぞれまったく無関係に、それにもかかわらずほぼ「同時」に始まったことである。それを説明するのが「気候」だ。1万2000年前に、世界は氷河時代(更新...古代文明の発展と太陽暦の関与

  • 冬至の祭礼

    金生遺跡で初めて冬至の日の出を見たとき、配石で見えたものは配石の右側に石が置かれていない空間、芝生の部分があることから、縄文人達はここに座って冬至の日の出を待ったものだろうと思った。冬至の日の出右にある瘤の手前これは太刀岡山付近になる縄文人の整列紅いマークで示す冬至は配石で限界を示している大配石のデザインの基軸冬至の日の出立春は石棒で標示している冬至の祭礼

  • 纏向石塚古墳の立春観測と金生遺跡・大配石での太陽観測

    立春と冬至の日の出位置を対比する纏向石塚古墳の立春、冬至の日の出観測纏向石塚古墳の中心線とされる方位 巻向駅からの三輪山このような記載が見付かりましたが、纏向石塚古墳では正確な日の出観測が、ノーモンにより観測された記録はまだ無いようで、目見当でそうなのだろうとしているだけで、これは本当のところどうなっているのか分らない、というレベルの話です。金生遺跡の立春、冬至の日の出位置山容と日の出位置の設定はよく似ている弥生末から古墳時代に掛けての時期とされる纏向石塚古墳は、縄文時代の太陽観測の姿を良く残しているように見える。また、ノーモンに当たると思われる柱が出ているようであることも、観測施設として見るのが適当と思う。引用ーーーーーーーーーーーーーー石塚の発掘調査責任者の石野博信は、「纏向遺跡の検討」の座談会で、「...纏向石塚古墳の立春観測と金生遺跡・大配石での太陽観測

  • 縄文時代の暦進化

    縄文時代草創期には、土器に突起を付けることは行われていない。縄文時代早期になると、2,4,6の突起を持つ供献土器が現れてくる。縄文時代前期には、8,12突起の土器が現れる。さらに24突起の土器もこの時期には現れていたようだ。縄文時代中期になると3突起の土器が現れている。縄文時代後期以後には5,7突起の土器も作られていた。縄文時代後期には金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が、立春を観測していたことが分っている。これは太陽暦の存在に基づく観測点であり、太陽暦が存在することを明白に示す証拠である。それが分ることにより、縄文時代早期からの供献土器の突起に描かれて、変化してきた理由を解明することが出来る。先ず、太陰暦は182日/30日=6回の周期となる。海の潮の干満の動きから、30日/2=15日ということはすぐ気が...縄文時代の暦進化

  • 何故立春観測なのか

    それは縄文時代には、半年365日/2182.5日/291日/245.5日四季を知り、季節の始を知ったと思う、必要は発明の母という、それは縄文時代草創、早期から既に存在していた様々な雑穀の栽培暦の為だったのでは無いでしょうか。 これにより暦が春分の91日後からは45日も早く作ることが出来るようになり栽培暦が早く作れるようになって、栽培生業に大変有利になった。これは後にチャイナで四立八節の暦と呼ばれるようになったものです。しかしこれでは太陽暦地域と太陰暦地域の人々が交流するには、暦が違っているため大変困難だった。約2000年後の縄文時代中期になって、3波状突起口縁の土器が作られ、それ以外にも沢山の土器や土偶にも3が模様として象徴的に作られていた。何故これほど3という数字が示され、縄文社会で大盛り上がりとなって...何故立春観測なのか

  • 立春観測の意義

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の観測点は何故立春だったのか立春観測の意義は何だったのか。それは朔旦立春で太陽暦と太陰暦をシンクロさせ社会的交流を容易にするためだった暦の起点を春分から45日も早く作れる栽培暦においての利便性だったこれが世界の古代文明の中で、抜きん出て優れていた縄文時代を象徴するものである。 海辺の地域では干満を知り海の生業を操業しやすくするため、太陰暦が作られて利用されていた。これは182日/30日月の朔望から半年6回と知られていた。海の潮の動きを捉えるためには、これを更に30日/215日として潮の満ち引きの動きを捉えて、12弦の暦として利用していたものと思う。シュメールでは海辺に近い地域だったことから、太陰暦が最初に作られたとされている。これに対してエジプトでは、内陸に国があり太陽暦...立春観測の意義

  • 太陽暦と太陰暦の統一

    縄文時代前期に内陸では太陽暦後にチャイナでは「八節の暦」と記載されたが利用されていた。縄文海進の海が広がる関東平野の海辺では、太陰暦12月の暦が利用されていた。前期以来2000年近くに亘り、地域による生業による違いにより、異なる暦が使われているという、この状況が続いていたものと思う。しかし、内陸と海端の人々の交流の上で、このように暦が異なることは大変不便だったものと考える。必要は発明の母ということで、努力が続けられていたものとは思うが、文字の無い世界で、記録もままならないことから、このように2000年程の時間が過ぎていった。縄文時代中期になって遂にその不便が解消されるときが訪れた。太陽暦の刻み、半年182日/2/245日この刻みと太陰暦半年12弦30日/215日この刻みを更に1/2とすることではどうにも解...太陽暦と太陰暦の統一

  • 縄文時代早期にどのようにして太陽と月の暦が作られたのか、もう一度考えてみる

    エジプトは他の文明に先がけて、太陽暦を発明できたのか?神官と恒星シリウスのおかげ・・・古代エジプトには、読み書きソロバンに長けた知的エリート「神官」がいた。彼らは、夜空にひときわ明るく輝くシリウスが、日の出直前に初めて見えた日から数日後に、ナイル川の洪水が始まることに気づいた。1年周期(季節の周期)の”端”を見つけたのである。端さえ見つければ、「1年365日」はカンタンにわかる。端と端の間の、日の出、または日没の数を数えればいいのだから。エジプトについては、このように云われているから、日本列島では縄文時代には、同様に年の端初めを特徴のある山からの日の出で早々と確認出来ていたものと考える。この場合には、同じ山の位置に太陽が夏と冬の2回昇ることになる。こうして夏至と冬至がセットとなり、それぞれ夏至までと冬至ま...縄文時代早期にどのようにして太陽と月の暦が作られたのか、もう一度考えてみる

  • メトン周期と縄文時代

    金生遺跡では立春観測が行われていた。3突起の土器の存在から月の暦との関係が観測されていたものと推察する。それはギリシャを遡る2000年ほどになるもので、メトン周期を見つけていたギリシャよりも優るものと思う。  文字が無いと思われることから、精度の高い計算は縄文時代には出来なかったものと思うが、それでも直接観測していれば、ギリシャ以上の精度で毎年の暦は維持できたものと考える。縄文時代の方が太陽の直接観測と合わせて正確な暦が長期に亘り確保されていたと考える。図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー●これぞ基本メトン周期はギリシア時代に「19太陽年は235朔望月(新月から次の新月まで)にほぼ等しい」とメトンさんが発見しましたのですね。上記の235/19を使ったのですね。(1)19太陽年365.2421...メトン周期と縄文時代

  • 中部縦貫高速道路 通過位置の変更依頼

    高速道路計画について、よく分らないので再度山梨県に問いあわせていました、その後山梨県より回答をいただきました。添付図面からは、遺跡直近1㎞を通る計画のようです。もう少し離して貰いたいものです。メールで「今回頂いたご要望については事業予定者である国土交通省関東地方整備局に対して配慮するよう伝えます。」このように言われていましたので、再度金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の重要性をPRするためのメールを出しています。以下の図が金生遺跡付近の計画のようです。遺跡付近のみ切り取りました。図はお借りしましたーーーーーーーーーーーーーー題名:Re:[山梨県]お問い合わせに対するご回答差出人:kosokudoro-sn+pref.yamanashi.lg.jp添付ファイル:環境影響評価方法書(抜粋).pdf,現地調査通知...中部縦貫高速道路通過位置の変更依頼

  • 2025年の大阪万博のモニュメント 提案

    1970年の大阪万博では岡本太郎による太陽の塔がモニュメントとして造られた。2025年の大阪万博ではどのようなモニュメントを考えているのでしょうか  それについて、今太陽暦と太陰暦の始原が分ってきた7000年以上前から縄文土器の特異な歴史波状突起口縁の土器供献土器数字を示すものそれを解明出来る遺跡が分ってきています。山梨県北杜市全域の地形が、太陽観測の天文台であることその中心位置にあるのが、金生遺跡・大配石で、それは太陽暦観測施設となります縄文時代の植物資源活用の根底にあるもの縄文社会の活動の根底にあるもの世界文明の始原を示すものそれは太陽暦の完成からそれは縄文時代早期からにあること大阪万博は世界に向けてPRする絶好の機会と思うことから次のようなモニュメントを造ることはどうでしょうかモニュメントは北杜市全...2025年の大阪万博のモニュメント提案

  • 鼎の軽重を問う

    縄文土器に神秘数3は、波状突起口縁の土器以外にも土器の文様として描かれ-浮彫造形-されたり、土偶に手の形に造形されたり、と様々に表現されていた。 ところで鼎とは何でしょうか鬲は3突起を持つ土器-3足の土器-のことのようです。殷の鼎は4の足を持つ青銅器が主流のように思っていました后母戊大方鼎 しかし調べてみたところ鼎とは3足の鍋ということが元々の意味であるようです。何故それが3足の鼎となって、帝位を示すものとなったのか下に引用したその説明は、とても理解出来るものではありません。元々は縄文時代の神秘数3がその発祥であると言うことでは無いでしょうか。元々の意味は太陽と月という二つの天体の運動を繋ぐことの出来る神秘数3からだったのでは無いか。しかしその意味が伝聞となって変化し、本質は不明となり、とにかく貴重なもの...鼎の軽重を問う

  • 各文明と太陽暦との関係

    各文明と太陽暦との関係エジプト夏至から始まるシリウス暦シュメール春分を暦の始まりとしていた太陽暦365日/2182日冬至~夏至までの半年日数182日/291日夏と冬の中間春と秋春分と秋分91日/245日四季の区分立春、立夏、立秋、立冬暦作りの起点として春分では91日間待つことになる立春では冬至から45日と早い時点から暦作りを始めることが出来る。無駄な待ち時間を半分に出来るそれなのにシュメールでは春分からとしていた。何故なのか、おそらく太陽暦の作り方を知らなかったか、春分の知識を何処からか手に入れていたから、それ以上の暦の改良が進められなかった。エジプトの太陽暦の知識は夏チャイナでは四季の区分四立の成立は春秋戦国時代ころと記録されているようなので、夏の時代からと云うのも歴史の遡及であり、天文台としても太陽暦...各文明と太陽暦との関係

  • 大阪万博と縄文文化そして未来

    2025年大阪万博テーマ事業の第一いのちを知る生命系全体の中にある私たちの「いのち」のあり方を確認する。としているので地球にとっての太陽は中心テーマ1970年の大阪万博では岡本太郎による太陽の塔がモニュメントとして造られた。今太陽暦と太陰暦の始原が分ってきた7000年以上前から縄文土器の歴史波状突起口縁の土器供献土器数字を示す北杜市全域が太陽観測の天文台その中心位置にあるのが、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設縄文時代の植物資源活用の根底にあるもの縄文社会の活動の根底にあるもの世界文明の始原を示すもの太陽暦の完成からそれは縄文時代早期からにある世界に向けてPRする絶好の機会からモニュメントは北杜市全域の立体地図とその中心にある金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設実物大復元模型60メートルのもの縄文時代の数字資...大阪万博と縄文文化そして未来

  • 日本天文考古学会 研究会 原案

    日本天文考古学会研究会原案1.1金生遺跡全景 1.2大配石1号配石 1.3大配石全景写真 1.4.配石とノーモンノーモンは一年に一度使うだけなので、邪魔にならないように、また観測方法の秘密を守るため、取り外していたものだろう 2.1立春石棒ノーモン茅が岳2.1.1初光の影ノーモンから石棒へ立春観測には観測精度を上げるため、ノーモンの影を40メートル程の距離まで拡大して観測している。 2.2立秋石棒ノーモン飯盛山2.2.1初光の影 2.3冬至日の入りノーモン甲斐駒ヶ岳 2.4配石と太陽暦 3.1ランドスケープ東日の出山脈飯盛山茅が岳冬至の日の出 3.2日の入り甲斐駒ヶ岳 4.1北杜市全図 4.2北杜市天文台の全景中心位置に金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設がある 5.1金生遺跡出土土器暦作りの試行錯誤の跡暦...日本天文考古学会研究会原案

  • 発掘から67年、正体不明の化石

    発掘から67年、正体不明の化石は9千万年前の魚だった。発見の突破口は1枚の紙片 各地の博物館に埋もれる大量の標本、まだ見ぬ「宝物」もこのような記事が目に付きました。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設も、41年前に発掘されて、公開されていたものの、大配石の意味は解明されずに放置されていた。甲斐駒ヶ岳に冬至の日没があることのみが注目されて来て、大配石は周囲が生け垣や大木で囲われ、日の出は見えないようにされて、遺跡の狭い範囲に限定されていたが、立地の観察から日の出との関係が分かり、大配石の謎が解けてきた。観測点と甲斐駒ヶ岳ピーク遠望ここでは一片の記録では無く、現地にそのままの形で保存されてきたことが大事な点だった。発掘とその後の保存が正確に行われていたことで、古代世界の中でも、縄文時代の文化レベルの飛び抜けて高...発掘から67年、正体不明の化石

  • 中部横断自動車道(長坂~八千穂)のルートを検討する範囲

    中部横断自動車道(長坂~八千穂)のルートに関する記事が目に入ったので、計画ルートと金生遺跡の関係が気になったので、問い合わせてみました。遺跡直近を通るのかどうか、はっきりしないので再度問い合わせています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー題名:[山梨県]お問い合わせに対するご回答差出人:kosokudoro-sn+pref.yamanashi.lg.jp アドレスブックに登録する宛先: 全ヘッダー表示▼いただいた「縄文遺跡金生遺跡」の件につきまして、高速道路推進課からお答えします。担当者が新型コロナウイルス感染症に罹患していたため、回答が遅くなってしまいました。申し訳ありませんでした。事業者の国土交通省が公表中である、中部横断自動車道(長坂~八千穂)のルートを検討する範囲を示す、1kmルートは金生遺...中部横断自動車道(長坂~八千穂)のルートを検討する範囲

  • 金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設での日の出観測

    北杜市の立地、地理山体崩壊地形                            岩屑流は甲府盆地の反対側曽根丘陵まで達していた。 北杜市全域は縄文時代の太陽観測天文台です、それは茅が岳立春の日の出、飯盛山立秋の日の出、甲斐駒ヶ岳冬至の日の入りこれが二十四節気の暦を示しているのです。 その地形の中心にある金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設大配石の北端冬至の日の出初光ライン、南側北側立春観測の石棒、立秋観測の男根型石棒、冬至の日の入りを観測する石棒 この地形の中で縄文時代の人々と、時間は隔てても同じ空間で、太陽観測をしよう北杜市中心にある金生遺跡は縄文時代の太陽暦観測施設です。このような何でも無いような配石が、正確に太陽暦を示してくれるのです。 現在も変らず正確に太陽暦が観測できます縄文時代の人々と同じ...金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設での日の出観測

  • 冬至の日没と配石の関係

    冬至の日没と配石の関係この関係はこれまで誰も見ていなかったと思うのですが配石が冬至の日の出ラインでデザインされていることから冬至の日没と石棒の関係が推測可能となった冬至の日の出ラインと、飯盛山からの立秋の日の出と男根型石棒との交点から冬至の日の入りラインの上に石棒が載っていることが推定出来る。 冬至の日の出ライン上で、立春のノーモン台は先端に決まっているから、同じく立秋のノーモン台は冬至の日の出ラインの上に、立秋の日の出の飯盛山と、立秋の石棒から決められている。茅が岳から立春の日の出があり、飯盛山から立秋の日の出があるという立地に、同時に甲斐駒ヶ岳への冬至の日没があるなどという位置に合わせることが出来たのか。地形の不思議と云うほか無い。この金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の立地は奇蹟の立地であると思う。...冬至の日没と配石の関係

  • 渡辺真知子 「現在 過去 未来」

    渡辺真知子「現在過去未来」この歌を聞いて思ったこと核戦争なき平等化はありえるか?疫病が抑えられてきた今、核戦争が現実化してくるように見える。私たちが生きるこの地球の「地質年代」はいま、1万年以上続いた「完新世」に次いで、「人新世」という新たな段階に突入している。そして文明が生み出したこの「人新世」によって、いまや私たち自身がつくり変えられようとしている―。という今から地球史に残される地層は、核爆弾による汚染が残されるというのが人新世の地層の特徴となるのだろうか。動物の縄張り争いでは、其処の個体どうしだけの局地戦なのに、人類の場合は全地球の総力が其処に集中する。お金も人命も生産物も何もかも。それで儲ける人が居るから止められない、お金は力なり。ウクライナでのロシアとウクライナ縄張り争い今未来は見えてこない時間...渡辺真知子「現在過去未来」

  • 縄文遺跡は現代の地図がおかしいことを指摘

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設での日の出、日の入りを観測した結果は、現代の地図がおかしいことを指摘している。現地の配石で飯盛山と甲斐駒ヶ岳冬至の日の出線との交点飯盛山と甲斐駒ヶ岳を結んだ線 遺跡はその線より西にある筈なのに現代の地図では、東にあると出ている 国土地理院は、地図がおかしいので調べて直して欲しい縄文遺跡は現代の地図がおかしいことを指摘

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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
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