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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

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  • 現代のカレンダーは太陽暦ではない

    現代のカレンダーは太陽暦ではないことが縄文時代の暦から証明されるそれは立春と立秋の日付が年により変動している縄文時代の太陽暦観測施設である金生遺跡ではこの二カ所の日の出位置は、それぞれ山のピークに設定されていて、縄文時代以来変化していない。石棒と配石により観測する日の出も、変化していない。今までの天文学でも、縄文時代と現在とで、その変化は0.5度程度で1日にもなるような変化はしていないとしている。現代のカレンダーは、太陽の運動を再現していない。これは表現が間違いで、正確には地球の公転を再現していないことになる。また曜日とは、月例を示すはずなのに、月の朔望周期を再現していない。最優先してベースとすべき地球の公転も月齢も無視して、地球のカレンダーを使い続けている現代文明は、おかしいのでは無いか。シュメール文明...現代のカレンダーは太陽暦ではない

  • 逸見山台地ルネサンス妄想

    逸見山台地とは八ヶ岳山体崩壊の大地形、それから伸びる七里岩の台地、そのずうっと先に見える富士山富士山手前の山の麓にシミのように見えているのが曽根丘陵、これは山体崩壊の岩屑流が到達した最先端の形成した丘だという。5個くらいの低い丘陵になって微かに見えている、ここまで岩石が流れていったものだという。この丘陵上には後に古墳が作られた。写真は原図をお借りしましたこのような大景観が一目で見えるのは、世界の何処にも無いと思うので、世界遺産になるのでは。   最近の山体崩壊で有名なものはセントへレンズ山の崩壊です、 でも逸見山台地のこのような景観は形成されていないでしょう。写真はお借りしました上が八ヶ岳逸見山台地下は七里岩の楔形 右から富士に向かう緑のうねるような山逸見山から七里岩の楔形うねうねと見えている緑の山脈の台...逸見山台地ルネサンス妄想

  • 360度と24時間の起源

    360度と24時間の起源については、まだ明確にされていないと思う。そこからこの起源に関してこれまでの研究から想像してみることにした。縄文時代早期にには定住が安定したとする想定がされているようである。日の出位置は、以前から知られていたと思う、それまでの冬至と夏至のように止まるもので無いことが知られたことだろう。朝一番に住居の入り口から差し込む日の光は、定住してみると、毎日少しずつ方向が変わることを知って、不思議だったのではないか。毎年同じように移動することを見て、またそれは季節と共に変わることを知り興味を持ったものでは無いか。そのような移動する日の出を、石棒により観測したことから一年の日数が分ったものと考える。一年廻ってほぼ365日であると知ったものと思う石ころでその日数を数えたとすれば、一年の日数を知るこ...360度と24時間の起源

  • 今年の春分の日は何故20日になったのか

    春分の日、なぜ変わる?国立天文台が計算して決めている春分の日、なぜ変わるc毎日新聞提供きょう3月20日は春分の日です。春分の日と秋分の日だけは、普通の祝日とは違う、ある「特徴」があるといいます。どんな特徴で、それはなぜなのでしょうか。Q&Aで解説します。――今年の春分の日は、昨年とは違うんだって?◆今年と来年の春分の日は3月20日ですが、昨年までの2年間は21日でした。春分の日と秋分の日は、普通の祝日とは違い、日にちが法律で決まっているわけではありません。――どうやって決めるの?◆地球と太陽の関係をもとに、国立天文台(こくりつてんもんだい)が計算して決めています。地球は太陽の周りを1年かけて公転(こうてん)しています。一方、地球は公転軸から23・4度傾(かたむ)いて自転(じてん)しています。このため、地球...今年の春分の日は何故20日になったのか

  • ストーンヘンジの意義は何なのか

    ストーンヘンジの意義は何なのかが今も問われている次のような論文が出されています。ストーン・ヘンジは古代の太陽暦ではなかったとする新たな研究結果ティム・ビノール著ストーンヘンジが古代の太陽暦として機能していたという説が、新たな検証によって覆されたようだ。考古学者のティモシー・ダーヴィル氏は、昨年3月、この長年の説を支持する論文を発表し、大きな話題となりました。この研究は、有名なモニュメントの謎を「解決」したとメディアに紹介されましたが、誰もがその結論に納得していたわけではありません。ダルヴィルの研究に対して、古天文学の専門家であるフアン・アントニオ・ベルモンテとジュリオ・マグリは新しい論文を発表し、その中で「モニュメントの天文学的関連性についての一連の強引な解釈と、議論の余地がある数字論や根拠のない類似性に...ストーンヘンジの意義は何なのか

  • 春分の日 観測点探索会

    春分の日観測点探索会のご案内金生遺跡の石棒は八節の暦の観測点を示すことが判明しています。春分点は今の所不明です。これまでもこの時期は曇天が多いので、日の出を見ることはなかなか難しいのですが、春分の日の観測点が配石内に存在するのかを探したいと思います。予報では春分の日は雪が降るとの予想などがあるので、このページでの案内のみで、各会員へのご案内は差し上げません。2024.03.20遺跡現地に5時45分頃にお集まりください。天気が快晴ならです。日の出は6時10分頃です春分の日の出位置は、立春と立秋の中間辺りです 縄文時代は新石器時代であり、新石器時代とは土器に歴史が記録されて遺されているのです。縄文土器には縄文時代、新石器時代の生業開発の歴史が記録されており、太陽暦開発の歴史、弓矢開発の歴史、魚釣り開始の歴史、...春分の日観測点探索会

  • 「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されている!?

    「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されているピタゴラスの話が出ていたので、縄文時代を考えて見ました。 引用します----ーーーーーーーーーーーー「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる1000年以上前の粘土板にも記されているcGIGAZINE提供「2辺(a、b)上の2つの正方形の面積の和は、斜辺(c)上の正方形の面積に等しくなる」という三平方の定理は、「ピタゴラスの定理」とも呼ばれ、古代ギリシャのピタゴラスが発見したとの逸話が残されています。しかし、ピタゴラスが生まれる1000年以上前にバビロニアで作られたとされる粘土板に、三平方の定理について記されていたことが明らかになっています。Pythagoras:Everyoneknowshisfamoustheorem,b...「ピタゴラスの定理」はピタゴラスが生まれる5000年以上前の粘土板にも記されている!?

  • 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

    古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとしたという。表とはノーモンと同じと考えるなぜそのような長さに決めているのか八尺の棒は何処から出てきたのかその根拠は何なのだろうか その根拠は金生遺跡の立地と観測施設にある。立春日の出観測の、太陽の出る山は高く、平地から出る日の出とは異なり観測にはある程度の高さのある棒を使うことが必要である。その棒の長さも、日の出位置の一日毎の変化を、集まった多くの人で確定するためには、観測精度を上げる必要があり、日の出位置の一日の変化に対応するためには、それ相応の長さ、高さが必要となる。観測点の石棒がある太さを持つとすれば、その太さで一日の変化に対応する事が必要となる金生遺跡の観測点と配石の現状と、太陽の出る山の地理的条件から見るとき、観測用の石棒が...古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

  • 日の出位置の観測結果

    日の出位置の観測結果図縄文時代の太陽暦観測点立春の日の出茅が岳から金生遺跡での観測2021年以来の立春観測結果を纏める。日の出の時間に、快晴に恵まれることは希で、日の出が見えた快晴時の日の出位置のデータである。2021.02.04現代カレンダーでは立春の翌日茅が岳の左肩からの日の出2022.02.04現代のカレンダーで立春の日茅が岳のピークから日の出2023.02.04現代のカレンダーで立春茅が岳のピークからの日の出2024.02.03現代のカレンダーで立春の前日茅が岳のピークの右肩から日の出 図2024.02.の日の出位置画像は小寒の日の日の出現代のカレンダーでは、立春の日の日付が、2.4と2.3と日付が変動しているのに縄文時代に設定されていた立春の日の茅が岳からの日の出は、何れもピークからであり変動し...日の出位置の観測結果

  • 立春の日の出 観測会の案内

    立春の日の出観測会を計画しました。 2024.02.07雪の翌日で快晴茅が岳からの日の出 2/3日と2/7日の日の出位置からの2/4日立春の日の出位置の推定 2024.02.06大雪2024.02.05 日の出は見えませんでした。朝焼けが見えて、その後一面灰色の空となってしまいました。 2024.02.04立春曇天雪が降り積りました。 2024.02.03節分の日の出快晴でした、日の出影が石棒の左側にはっきり見えています。明日あさっての天気はどうでしょうか。  縄文遺跡で立春の日の出観測会です北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡の配石は、縄文時代の二十四節気の暦の太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石立春に集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!日の出を見るこ...立春の日の出観測会の案内

  • 魚釣り漁から網による漁の開始まで

    魚釣り漁から網による漁の開始まで 図弓に張る弦から、細く強くと云う弦の開発は、早期初めにはテグスの領域に入ったものと考える。その紐は魚釣り漁をするのに使えるものになった。 図それが撚り糸であり、糸巻きに巻いていたものだろう、それを示すものが撚糸文土器だと考える。その後、網を用いた漁が始まったものと思うものの、それが始まるまでにはかなりの時間が掛かっているものと考える。 図前期になり羽状縄文土器が現れ、網漁の始まりを示すものと考える。魚釣りの糸はそれほど大量に使うものでは無かったでしょう。しかし網を作るためには大量の紐が必要である。それは直ぐには出来なかったでしょう。糸は何から作っていたのか分らないが、大量に作るには、当該植物を畑で栽培することが必要ではなかっただろうか。太陽暦はすでに造られていたものと考え...魚釣り漁から網による漁の開始まで

  • 中部縦貫高速道路 通過位置の変更依頼

    中部横断自動車道(長坂~八千穂間)の説明コーナーを見てきました。2024.01.19ー28日遺跡周辺の道路計画の現状の図を掲載します。遺跡からの景観がどのようになるのか、まだよく分りません。  ----ーーーーーーーーーーーー初稿2022.09.01高速道路計画について、よく分らないので再度山梨県に問いあわせていました、その後山梨県より回答をいただきました。添付図面からは、遺跡直近1㎞を通る計画のようです。もう少し離して貰いたいものです。メールで「今回頂いたご要望については事業予定者である国土交通省関東地方整備局に対して配慮するよう伝えます。」このように言われていましたので、再度金生遺跡・大配石の太陽暦観測施設の重要性をPRするためのメールを出しています。以下の図が金生遺跡付近の計画のようです。遺跡付近の...中部縦貫高速道路通過位置の変更依頼

  • 土偶とテルテル坊主

    現代では明日の天気を祈るのにはてるてる坊主季節は太陽のカレンダーで間違いなく廻ってくる。それは地球の公転によるもので、太陽との関係で決まるから、ここに不思議は少ない。しかしそれでも明日の天気は分らない。 図縄文時代の土偶縄文時代も同じで、今よりも分らないことが多かったから、土偶で祈ることは多かったのではないか。それは土偶を見れば分る。得体の知れないような造形のものが多い。何を考えて作っていたのか、何をそれに見れば良いのか、想像も付かない。現代のてるてる坊主は土偶のようなものでは、顔はへのへのもへじと描いてある。不条理、理不尽は、現代の方が縄文時代よりも多いのではないか。土偶とテルテル坊主

  • 縄文土器はなぜ造られたのか

    縄文土器はなぜ造られたのかをもう一度整理してみる西アジアのシュメール文明の地域では、土器が造られたのは、農耕が始まるよりもずっと遅れていたようだ。この地域の生業である牧畜や麦作では、必要は発明の母であるとするならば、土器は必要でなかったと考えるしかない。時期的には縄文時代前期にあたる頃、やっと土器が造られるようになったという、大変に遅れた時期である。この地域の作物の形態から見て土器を必要とするものでは無かったと思う。それは主作物の麦類には、種には芒があり、編み籠でも目漏れすることは少なく採集するのに問題は無かったと考える。それに対して東アジアの日本列島では、新石器時代の初めから土器が造られることから始まった。なぜなのか、それは食料とできる植物の形態からと考える。縄文人には麦類のような植物種子でなく植生の特...縄文土器はなぜ造られたのか

  • 土器がメディアとなったのは何時か

    土器がメディアとなったのは何時からなのか旧石器時代後期土器開発以前イヌの家畜化土器にその記録は遺されていないようだ引用します----ーーーーーーーーーーーー犬は最初に家畜化された動物であり、少なくとも15,000年前から人間と密接な関係を築いてきました。----ーーーーーーーーーーーー引用終わりこのことから土器は17000年以前から造られているので、イヌの家畜化はそれ以前ではないかと考える。狩猟の道具として、槍から投げ槍が作られていた槍の尖頭器から、有茎尖頭器の投げ槍に変わっていたころ植物性食料の採集に、編み籠が作られて使われていた縄文土器の時代各種生業の獲得時代大型動物の狩りが減少して、小型動物に狩りの対象は変化したが小型動物は動きがすばしこく、投げ槍では狩猟は難しくなっていたそれまで使われてきた編み籠...土器がメディアとなったのは何時か

  • 太陽暦作成の原理

    太陽暦作成の原理を再掲365日のカウント365日/2182日、182日/291日、91日/245日月の周期30日、182日/30日6月+2日30日/215日月の暦に太陽の暦をシンクロさせるには3がキイとなる45日/315日図縄文時代の太陽暦15日刻みの暦で太陽の暦と月の暦はシンクロさせることが出来る太陽暦15日刻みの暦とは二十四節気の暦であるその後のカレンダーの進化は太陽は15日/35日刻みの暦となり、これは七十二候の暦となって365日/573区分、一年の暦が完成する。閏は4年に一回となり、12月に1日増やして調整すれば良い。月の暦は15日/27日、半月が7+7+1となるので、これで月の暦は7日の曜日と、新月と満月で一ヶ月の月齢は表現できる。図月齢と合わせた太陽暦のカレンダー立春を新年初日として曜日を決め...太陽暦作成の原理

  • 今までの縄文観をアンラーニングする

    最近の書籍で、「万物の黎明」ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』これらの書籍では、先史時代に最重要と思う太陽暦開発の歴史について、何も触れられていない。農耕をするのにも、サケの遡上回帰漁、貝塚を形成するのにも、必要とされる知的技術であり、その暦の開発に関して何ら触れられていないというのは不思議である。これは西アジア以降の歴史記録の中にまともな太陽暦開発の歴史が存在しないのが、その根本的原因では無いだろうかと思う。図世界文明史と縄文文明の歴史経過を対比してみると、縄文早期までの歴史は、世界文明史を遙かに凌駕して古くから発展してきたことが分る。太陽暦開発などは縄文時代早期には確立していたと推測できる。それは世界各地の文明開始より遙かに古かったことが分る。縄文時代は新石器時代のなのか、先史時代なのか縄文時代...今までの縄文観をアンラーニングする

  • 縄文時代の豊かな文化

    新石器時代とは粘土から土器が造られた時代である図文明の比較年表土器は草創期の始から造られていた縄文時代は土器の特性を生かして、初めからその歴史記録が残された、それが縄文土器と呼ばれるものである土器とは、・想念通りに造形できるもの、・造形したものが永遠に残せるもの、・それは情報伝達のメディアである。縄文時代10000年間に造られていた火焔土器、突起付き土器、マメ類練り込み土器などはその典型的姿を示している。縄文模様を持つ土器は新石器時代の始まりを示すものである。図弓の弦の開発からの始まり土器には弓の弦の開発から、鏃の開発、魚釣り漁の開始、網による漁撈の開始などの一連の生業開発の画期的歴史が記録されていた。図マメ類の栽培化の記録縄文時代草創期のマメ類の採取を始め、栽培開始、前期半ばの栽培種の成立が記録されてい...縄文時代の豊かな文化

  • 縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会

    縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会案内北杜市全域の地形が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生遺跡の冬至祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」という祭り!!朝活は冬至日の出12月22日6時半頃から7時半ころまで遺跡現地です夕活は冬至日没12月22日15時半ころから16時半ころまで遺跡現地縄文時代の配石と石棒で、日の出を観測して、日の入りを観測しましょう。同時に月齢観測も行う予定です。主催金生遺跡を世界遺産にしよう会これまでの観測記録の内容は、ブログにありますhttps://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。縄文時代には、太陽が変らず出ることはこ...縄文遺跡で冬至の日の出、日の入り観測会

  • 月齢観測の方法を考えてみます

    月齢観測は簡単でした。ビングに原始時代の月齢観測方法を聞いてみましたが、はかばかしい返答は得られませんでした。AIが調べ回ってもその方法はなかったようです。仕方がないので、月齢の例から縄文時代の月齢の観測方法を考えて見ました。こんな方法で出来るのではないでしょう。現代人には毎日月の出を見るのは面倒ですが、必要性のあった縄文時代には何でもないことだったのではないでしょうか。日の出を見て、夕日を見て眠る、縄文人には普通のことだったでしょう。現代人はこれをしていません。 図月齢の例示上弦の時期と下弦の時期は知っていたものとします。それは、新月から満月に向かう時期が上弦で、満月から新月に向かう時期が下弦ですから、縄文時代は、日が出たら起き出して、日が沈めば寝る。闇夜にはたき火しかライトはないので、毎日月を見ていた...月齢観測の方法を考えてみます

  • 原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。

    原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。結果は以下のようで、全く役に立ちませんでした。聞くべき天文台も、天文クラブもない情況で、縄文人はどのようにして月齢を観測していたのか、考えるしかないようです。 月齢の観測方法はどうするのか知りたいのでビングに聞いてみました。----ーーーーーーーーーーーー月齢を観測する方法は、天体望遠鏡を使って月の表面の形状を観察し、その形状から月齢を推定する方法が一般的です1。また、国立天文台のウェブサイトでは、正午月齢を計算することができます13。正午月齢とは、その日の正午における月齢であり、直前の朔からその日の正午までに何日経過したかを小数第一位まで示しています?。このページ1には、月齢の計算方法や、月齢を求めるための暦の情報が掲載されています。また、同じく国立天文...原始時代の月齢観測の方法をビングに聞いてみました。

  • 今からは人類、ホモサピエンスの新時代

    今からは人類、ホモサピエンスの新時代にアンラーニングできるでしょうか現代の暦カレンダーは、過去の歴史経緯により、支配者に小突き回された結果、とんでもないものになっている。太陽暦とは似ても似つかないものに変形されてしまっている。今、地球環境の危機にあって、これまでの人類の歴史を一旦切り離して、新しい人類史を考えるときではないだろうか。そのベースとなるのは太陽暦の基本に戻り、カレンダーから考えてみるときではないでしょうか。図縄文時代の太陽暦二十四節気の暦から七十二候の暦に読み替えることが出来る 図立春と立秋を起点としたカレンダー立春を年初1月1日としたカレンダーと年の後半は立秋の月齢を起点とするカレンダー満月と新月が日曜日、土曜日の後に海曜日、海王星の海から仮にしている。今のカレンダーは長く使われてきたが、歴...今からは人類、ホモサピエンスの新時代

  • 現代の暦 カレンダーは疑問点バカリ

    現代の暦カレンダーの疑問点は図立秋観測日の出位置は同じなのに日付が違っている。縄文時代の立秋観測点は、日の出が山のピークに設定されていて、その日の出をノーモンと石棒で正確に観測している。1.太陽と地球の関係位置は、4500年間変化していないのに、現代の暦は日付が年ごとに変動することである。2.曜日とは元々月齢と関係づけるために作られたはずなのに、現代のカレンダーでは、月齢との関係を無視して、曜日は勝手に振られている。それにより月の満月と新月、月齢が分らなくなっている。3.一ヶ月とは、月の周期30日の筈なのに、28、29,30、31日などと勝手な日数にしている。年の始めの1月1日も適当に決められているだけで、これらのことには2000年以上の歴史が関係しているのだが。30日/215日15/27+7+1となるか...現代の暦カレンダーは疑問点バカリ

  • 金生遺跡 配石と石棒の成立経緯の仮説

    金生遺跡配石と石棒の成立経緯の仮説観測開始の順次1.先ず冬至の日の出と日の入り観測点がデザインされた冬至の日の出を先端に置き、ノーモンの影を基本ラインとした次に日の入りのノーモンの影をそのラインに交差させた交差位置が基準となった。2.立春観測二至365日182日+1日二分182日/291日半年四分91日/245日+1日サケ遡上回帰漁と種蒔きを早く知るため、立春観測を行う冬至の日の出ライン上にノーモン位置を置いて立春観測石棒を前後から一日の違いを判別するために石棒の太さと、ノーモンまでの距離を取り、ノーモンの高さを決めた 3.その後の観測二十四節気の暦が造られ、月の暦とのシンクロが完成したそのため一年に立春日の月齢と、半年後、立秋日の月齢を観測することになった。そのため立秋観測の石棒を立てた。観測には立春石...金生遺跡配石と石棒の成立経緯の仮説

  • 土器の時代

    土器の時代新石器時代とは土器の時代であるホモサピエンスにとって土器とは新石器時代の画期である。図狩猟方法の発達旧石器時代と隔絶させるものは、土器以外にない。その事を明確に示しているのは、その代表的な土器が火焔土器である。 図火焔土器火焔土器とは何なのか1.土器とは、容器としてまた煮炊きの鍋として使用する道具である。それだけであるならば、旧石器時代に使用した道具の石器などと何も変わらない。2.火焔土器は容器としての用途のために造られていたのだろうか容器として使用するには、付けられた突起は邪魔になるだけである。3.火焔土器は容器として使うために造られたものとは思えない第三の用途を明確に示している。情報伝達、メディアとして以外には考えられない 図火焔土器の元祖4.火焔は何を示しているのか、何を表現しているのか火...土器の時代

  • 縄文土器は歴史の記録メディア

    縄文時代は土器に記録が残されている縄文土器は歴史の記録メディア旧石器時代については、残されている石器や遺物から生業の変化を推察していた。それは何かを記録して残すことが出来るものがなかった時代だから。新石器時代になると粘土から造られた土器が現れた。縄文時代草創期からである。土器は石器などとは異なり、それなりに思い通りの形が作れることから、縄文土器は記録メディアとして利用されるようになった。シュメール文明の粘土板それはシュメールが粘土板に文字を記録するようになったときから、10000年以上前のことになる。縄文土器は縄文時代の集落の人々の情報を共有するためのもの集落から集落に情報を伝えるもの供献土器、祝うもの、祭の中心に有るもの新石器時の生業開発の画期を伝えるもの、瓦版だった。縄文人の土器から生業の進展を進めた...縄文土器は歴史の記録メディア

  • 国民の富を増やすためにやってほしい

    公共財を増やすこと、教育から医療・・・高速道路、各種安全施設増税では国富は増やせない今人口が一番多いとき、今仕事が一番出来るとき今やっておくべき事、今の時間を逃したら、これから人口減少するので・・・そこに赤字国債発行 赤字国債のみが国民の富を増やすもの国富は貨幣量で決まる赤字国債とは貨幣発行、貨幣発行は国しか出来ない赤字国債により、子供や孫に生産手段のベースとなる全ての社会資産を残すことが出来る税金は国民を貧困化するもの 図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーまあ、まず間違いなく、総理は、「誰かの所得は誰かが支出(財やサービスを買う)しないかぎり創出されない」という経済の基本すら理解していないでしょう。野党にしても、なぜ総理の給与アップ自体を批判するのか。批判するべきは、カネを使わないこと...国民の富を増やすためにやってほしい

  • 縄文時代の太陽暦と祭祀 2

    縄文時代の太陽暦と祭祀22023.11.12改訂2022.07.10初稿縄文時代前期遺跡阿久遺跡の場合環状列石があり、蓼科山を指す列石があるという現物も写真も見たことは無いのだが、そのように云われていたので列石は太陽暦に関係ない蓼科山を何故指すのかストーンサークルは何のためのものなのかそれはどちらも祭祀のため、目には見えない何かの存在に対して、祈りを捧げるものだったのだろうと考える。これまで発掘されてきた縄文時代の遺跡を通じて縄文早期から太陽暦は既に存在していると記録されていると考えられることから、それをベースに祭の期日を定めて祭祀を行っていたものと思う。太陽は暦祭祀の対象ではあったとしても縄文人社会の集団祭祀の対象とは少し異なるものだったのでは無いのだろうか太陽による季節から始まる生業などに関係する精霊...縄文時代の太陽暦と祭祀2

  • 金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのか

    初稿2021.06.27金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのかそれも時代が下ると共に広がりを見せていったようだ。土偶静岡、関東、北陸、東北さらに西日本からのものが見られるという石器なども同様な様子が見えるようだ。金生遺跡が標準時天文台であれば、列島各地からその情報を求めて、各地の部族からの代表者が、特産品を持って集まって来ていたかも知れない、との想像もしたくなる。チャイナの鬲かも知れない土器なども、出てもおかしくはないだろう八節の暦はここが発信元であれば。金生遺跡はこの地域では石堂、長坂上条などの遺跡などよりも更に長期に存続していたようだという。その理由も八節の暦の発信元であればそうなるかも知れない。東北地方でストーンサークルが、晩期に作られ広がっていったのも、金生遺跡の八節の暦情報がそれを支え...金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのか

  • 現代の暦の改暦提案

    現代の暦は太陽暦ではないので、二十四節気の暦が太陽運動に従う正しい暦と思う縄文時代の暦に戻すべきではないでしょうか年初の決め方は太陽と関係ないもののようです縄文時代から4500年とすれば、たったの4500回の公転縄文時代が農耕開始の基を支えて、文明の発展する温暖な環境を作り出したようなので今の温暖化は行き過ぎでしょうがそれを考えるためにも、太陽運動に正確に従う暦は必要ではないでしょうか現代は太陽暦の基本を忘れすぎています太陽運行と関係なく勝手に作りだした太陽暦のようです現在太陽暦とされているカレンダーは、地球と太陽の関係から造られた暦でなく、太陽と星座の関係から造られているため、年ごとに日付が異なっている。立春の日付がなぜ変わるのか、立秋の日付がなぜ変わるのか、こうしたことは占星術の世界から決めているため...現代の暦の改暦提案

  • 縄文遺跡で立冬の日の出観測会 朝活

    縄文遺跡で立冬の日の出観測会2023.11.08立冬天気快晴日の出観測が出来ました日の出立春標識の石棒には見やすいように白い布を掛けています。この写真は余りはっきりしていないので、次に参加いただいたY.H.氏の撮られた写真を掲載します。 次はノーモンの影です、写真が良くないでが石棒にノーモンの影が掛かっている 影が左に外れて行きます金生遺跡の観測点、立春と立秋観測により、二十四節気の暦は計算通り合うことが確認できたので、縄文時代には次のような暦が造られていたと考えています。この暦を使えば、現代の太陽暦のように、毎年のように日付がヅレることは有りません。縄文時代から立春、立秋の日の出位置は変化していないようですから。4500年間日の出位置は変わっていないとして良いのではないかと思います。公転周期で見ると、た...縄文遺跡で立冬の日の出観測会朝活

  • センメルヴェイスとは

    センメルヴェイス反射センメルヴェイス反射(Semmelweisreflex)それに対するキャズム  図はお借りしました引用します----ーーーーーーーーーーーー事実として、過去の少子化対策と称する子育て支援は、少子化に歯止めをかけることができませんでした。 何しろ、デフレが継続し、若い男性の雇用・所得状況が改善されず、東京一極集中がひたすら続いたわけです。非婚化と少子化が進んで当然です。 上記の「事実」を認めると、自分たちの過去のやり方が「間違っていた」ことを認めることになる(間違っていましたが)。 かつて、自分たちが産褥熱を広め、お母さんたちを殺していたという残酷な事実を認めたくない医者たちは、「カルキで手を洗えば、大丈夫」と正しい対策を主張したセンメルヴェイスを弾圧し、死に追い込んだ。特に、自民党の政...センメルヴェイスとは

  • 縄文時代草創期の始まり

    先に紹介していましたが、ほぼ同一内容ですが、ここで改めて紹介します。日本列島で縄文時代草創期に、周囲の雑草の中で見つけ、初めて食料として有用な種として、採集していた可能性がある原種マメ類を紹介します。道端にあるマメ類の原種を確認できました。マメ類の特性も分ってきた。2023.10.18今日の収穫これで一応終了、その後は霜が降りて枯れてきていた。莢が爆ぜたもの青い莢ツルマメの莢 2023.10.13今日の収穫ヤブツルアズキの莢は虫食いがけっこう多く見える上はツルマメ2023.10.11ヤブツルアズキの莢収穫20本莢を弓形の柄で差し出している2023.10.08ダイズの原種ツルマメ上とヤブツルアズキ下の比較。ヤブツルアズキはこんな長い柄の先に莢を幾つか付ける。  2023.010.06ヤブツルアズキの特性、弓...縄文時代草創期の始まり

  • 有舌尖頭器、有茎尖頭器とイヌの関係

    最近のDNA検討から、イヌは日本列島から生まれたとする説が出ているようだ旧石器時代後期から土器発生までの時期尖頭器から石鏃開発以前、それは有舌尖頭器の時期に当たる有舌尖頭器投げ槍有茎石鏃大型動物が絶えて、狩りの形が変わり、小動物の狩りに変わる前この時期にイヌが家畜として飼われることになり、イヌとの共同の狩りで槍とされる大型尖頭器よりも投げ槍とされる有舌尖頭器の全盛期となるのでは無いか旧石器後期から縄文時代に入る前、イヌがすでに家畜として飼われるようになり狩りが効果的に行えるようになっていたのではないか 有舌尖頭器、有茎尖頭器と呼ばれている15センチほどこれが早くから行えたのは日本列島の植生など特性であるのでは定住に近い生業も可能となって来ていたのでは無いか、そして土器の発生となるのでは引用します----ー...有舌尖頭器、有茎尖頭器とイヌの関係

  • Ancient civilizations began with the solar calendar during the Jomon period

    AncientcivilizationsaroundtheworldbeganwiththespreadofknowledgeofthedevelopmentofthesolarcalendarduringtheJomonperiodThereasonfortheemergenceofearthenwareinancientcivilizationsaroundtheworldwasTheplant-basedstaplefoodsadoptedbyancientcivilizationsaroundtheworldWhatwasthevegetationlikeineachregionduringthelatePaleolithicperiod?InWesternAsia,wheatwasaneffec...AncientcivilizationsbeganwiththesolarcalendarduringtheJomonperiod

  • 金生遺跡の珍しい蔓草

    金生遺跡の生け垣に、被さるように生えていた雑草、変わった蔓草二つ。なんだか分るでしょうか。  美しい青い玉は、見たことの有るものですが、何という植物なのか、知らないものだったので調べてみたらアオツヅラフジ下のもの蔓が強いことから、縄文時代から葛籠つづらを造るための蔓草だったようです。蔓は左巻きで上へ。ブドウのように美しい果実は有毒アルカロイドがある。こうした編み籠を作ったようです、ヤブツルアズキの種は漏れてしまいます。粘土を貼り付ければ、漏れ止めが出来そうです。 すずめうり上のものカラスウリよりも小さいので、すずめうりというようです。果実は小さいので食べても美味しくもなんともないようです。蔓は右巻き。 図は一部お借りしました金生遺跡の珍しい蔓草

  • 縄文時代が文明を開いた

    縄文時代が地球上の持続文明を開いた 縄文人の太陽暦の開発により古代文明が農耕を開始することが出来た。そのお陰でCO2が増加することになり、本来は寒冷化に向かうトレンドが防止されて温暖な気候が維持されてきた。と言うことになっていたようだ。古代史上では、太陽暦をまともに造ったという記録も、遺跡も遺物も無いようだ。ただ一つ縄文時代のみがその遺跡と遺物を持っている。縄文時代の太陽暦の存在を示す遺跡と遺物、そして太陽暦により農耕を開始したことを示すダイズとアズキを含む遺物土器が存在する。遺物からの推測で無く、それを記録する土器が存在する。土器はメディアとして利用されていた。土器に記録として残されていた。 さらに、太陰暦を示す遺物と遺跡太陰暦が造られたことにより初めて貝塚造られるようになった。貝塚が存在する。そして太...縄文時代が文明を開いた

  • 道端にある旧石器時代後期、土器の始め

    道端にあるマメ類の原種を確認できました。 ヤブツルアズキはこのようなもののようです 2023.09.03縄文時代のマメ類の原種、自然混栽を確認4平米ほどの範囲内で元気に生育していましたヤブツルアズキ花と莢 ツルマメ花が小さい紫色 ヤブマメ筒状で大きく先に紫の花くずに近い葉薮で一番元気よく育つようだ葉はそれぞれ異なるようです。次は稔りの収穫です。 2023.08.29道端で育っていたヤブツルアズキに花が咲きました。花の下にアズキのような長い曲がった棒のような莢が出来ています。 これまで観察していたものはヤブマメでしょうか紫色の花が咲いていました。豆の莢がどのようなものになるのか注目です。莢はエンドウ豆と同じような平べったい莢が付きました、間違いなくエンドウ豆の原種のようです。その他の花道端で一応ヤブツルアズ...道端にある旧石器時代後期、土器の始め

  • アワの原種がエノコログサ

    アワ(Setariaitalica)は,エノコログサ(Setariaviridis)と容易に交雑し,アワの原種がエノコログサであることはよく知られている。というアワの原種がエノコログサエノコログサも住居の周辺で探せば、いくらでも見つけることが出来る。種は結構大きいので、縄文時代も・・・ 中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専らアワ(粟米、谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている[注釈2]。というまた、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物[注釈3]を納付する「租」はアワで納付されるのが原則(本色)であった[6]。先史時代から歴史時代まで、チャイナではアワが重要植物で主食と言うことだったようだ。それに対して縄文時代以来マメ類は列島においての主要作物として...アワの原種がエノコログサ

  • 中期後葉からの土器集団の分布状況

    中期後葉からの土器集団の分布状況伊那谷から北陸、そして宮城までのワラビ文土器の広がりがあるという広域の交流が想定できる 火焔土器もこの範囲にあたる それに対しての曽利式と加曽利式土器の分布は境界は八ヶ岳山麓富士見、蛇込遺跡と井戸尻遺跡であるという その後寒冷化で中部と関西/関東・南東北との二分ワラビ文曽利式、加曽利式 西日本へのマメ類栽培の移動ワラビ文土器が出ているのだろうか 北へはストーンサークル、ヒエ、ソバ耕作が広がったのだろうか 八ヶ岳周辺ではマメ類栽培は消えたようだこの時期中期から後期の土器分布について、整理された地図はあるのだろうか。 図はお借りしました中期後葉からの土器集団の分布状況

  • 環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのか

    環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのかその理由は、これまでの生業の拡大では無く新しい生業のイノベーションにより生産力が上がったということにあるその背景としてそれまでの狩猟や魚釣りという最終的には主として個人技が中心になるような生業から集団作業に変わってきた漁網による漁漁網を集団で作り、集団作業で漁をする焼き畑マメ作り集団で野焼きし、集団で焼き畑耕作の各種作業をするそれまでの個人技が光る生業から、全員が関わる集団作業での収穫が中心になり集団での祭なども成立有孔鍔付き土器太鼓または酒造り土器の模様も集団の結束力を上げるような強い印象を与えるもの何か意味を感じさせるような盛り上がったような造形など諸磯式土器や勝坂式土器集落の結束力を示すようなもの 図はお借りしました環状集落という巨大な集落がなぜ成立したのか

  • 縄文前期の環状集落

    縄文時代前期になぜ環状集落のような巨大集落が出来るようになったのか草創期から前期初めまでに、狩猟・漁労と採集などの生業がほぼ完成狩猟・漁労早期には半年四分暦の太陽暦も完成していた前期までの突起口縁の土器の推移残るのは農耕開始の栽培種の成立だったマメの土器諸磯式土器の時期にマメの栽培種が完成したこうした生業の完成によりそれまでの小さい集落から、環状集落という巨大集落を作ることが出来るようになった。この変化は農耕を始めていた証拠であると考える。野焼きによる黒ボク土の形成もそれを支持している、焼き畑農耕 太陽暦が成立して既に数千年が過ぎ、暦は当たり前のものになっていた。それで環状集落などには特に太陽暦の方位を示すようなデザインは作られていない祭祀のために列石などにより、聖山の方向を示していたという。阿久遺跡など...縄文前期の環状集落

  • 縄文文明はマメの文明

    縄文文明はマメを中心にした文明を形成したと想定1.土器は編み籠からのマメの目漏れを防ぐための改善から生まれた。大型動物がいなくなり、小型動物を捕らえるための弓矢猟が開発される以前、旧石器時代後期の食糧確保のため、先ず周囲の様々な植物を採集して、食料とする探索を行っていたところ、マメ類の種が選択された。マメ類は道路脇の目に付くところで力強く繁茂していた。しかしマメ類の種は極小さく、採集が難しかったが、食味は良く、他に代わる適切な穀類が見当たらなかったことから、編み籠での採集は目漏れすることから難航したが、籠の目を粘土で潰すことで採集可能な容器となり、その後それが土器の開発に繋がった。2.マメ類の栽培開始は豆粒文土器の頃からと考える。マメの栽培種の成立までには4000年近くの時間を要した。栽培種の成立は縄文前...縄文文明はマメの文明

  • 縄文時代の暦

    縄文時代の暦の推測縄文時代の太陽暦は立春を起点にして造られていた。365日/2182日182日/291日春分91日/245日立春立秋は立春+45日+45日+45日+45日春分夏至立秋立春から180日が立秋となる。 立秋は笠無山からの日の出立春は茅が岳からの日の出となっていて金生遺跡でこの事は現在も大配石のノーモンと石棒で観測できる。4500年以上これは変わっていない。4500年と言っても公転はたったの4500回である。現代の太陽暦の日付は立春からの日付でないので、変化している。2022年は立秋は縄文時代の暦では8/5日だった2023年は8/6日同じ位置からの日の出であるのに現代の暦は違っていた。縄文時代の太陽暦の方が優れていたのでは無いか。縄文時代の暦

  • 金生遺跡は世界標準時天文台

    2022年には、現代の太陽暦の立秋は8月7日金生遺跡にある縄文時代の石棒による観測施設も笠無山からの日の出と一致して8月5日だった。今年2023年は現代の太陽暦では立秋は8月8日 今年2023年の現代の太陽暦による立秋は8月8日だった。金生遺跡での観測結果も8月8日だった。Phot.byA.Y.石棒とデジタル時計 これを昨年と同じ図にすると 笠無山Phot.byA.Y.  ここで疑問なのは、縄文時代の太陽暦観測施設による立秋が、日の出は同じ位置なのに、なぜ日の呼称が昨年は8月7日なのに、今年は8月8日なのか。現代の天文学は太陽暦を太陽観測で決めていないのだろうか。金生遺跡は少なくとも4500年前から観測施設があり、観測していたものと考えている。立春から数える縄文時代の日付は、移動していないはずである。なぜ...金生遺跡は世界標準時天文台

  • 縄文遺跡で立秋の日の出観測会

    縄文遺跡で立秋の日の出の観測会 2023.08.04曇りで日の出は見えずその後日中は天気回復8.05笠無山の峰は雲、左は雲が輝くも日の出は見えずその後雨模様   案内北杜市全域が太陽観測天文台であること、金生遺跡は太陽暦観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石祭りに集まった縄文人のように日の出を迎えよう」祭り!!日の出を見ることに集中することは今流行のマインドフルネスにもなるでしょう。特に特別な縄文時代の金生遺跡でですから。縄文時代に何故立秋観測をしていたのか、現地で見てみましょう朝活は立秋8月5、6、7、8日縄文時代の暦の日は6日4時30分頃から5時30分まで場所集合は遺跡現地です縄文時代には笠無山の頂上から出る朝日を、配石と石棒で日の出を観測して、秋の始まりを確認していたものと思い...縄文遺跡で立秋の日の出観測会

  • 「縄文」とは何なのか

    「縄文」とは何なのか「縄文土器」とは、縄文時代とは縄文時代とは旧石器時代後期に土器が作られた初めー16500年前---から紀元前1000年頃までの、新石器時代を示す。「縄文土器」とは縄文時代に造られた土器を全体的に総称している。しかしこの間に主要な模様として、縄文模様が付けられていた時期は、隆起線文土器から羽状縄文土器までの期間である。この期間の縄紋模様は、新石器時代の弓矢の開発から始まり、弓の弦を開発して、羽状縄文の漁網開発までの期間に当たる。それ以後の土器には縄紋模様は主要な模様では無くなる。つまり、新石器時代の主要な生業である小動物の狩猟と漁業の開発の経過を文字では無いが、模様または造形として、記録していたことになると考える。新石器時代の狩猟に中心的道具として使用された弓の開発は、先ず弓の弦を開発す...「縄文」とは何なのか

  • 土器は細かい種を採集するため造られた

    初稿2023.02.07AIの説明追加2023.03.19マメ類と麦の採集性の比較縄文時代草創期西アジア金生遺跡大配石太陽暦観測施設肥沃な三日月地帯では農耕は始まる前から野生のイネ科のムギを採集していたという、野生のムギは種子をなるべく広い範囲に散らすため種子を含んだ小穂が脱落する性質を持っていた。 ところが突然変異で非脱落種のムギが現れると、それは人が播種しなければ次の世代を残せない。栽培種のムギは、この脱落性を有する野生種の遺伝子に突然変異が起きて非脱落性の遺伝子をもつ一粒のムギの個体に遡る。という突然変異が起こり、性質が固定するまでには数千年間かかったと云うようだ。マメ類の場合も同様で有ると思うが、最初の採集の時点でこの細かい種は手編みの籠では採集できない。マメ類の場合ヤブツルアズキマメ類では編み籠...土器は細かい種を採集するため造られた

  • 縄文と縄紋表記の違い 「縄文」が本質を示す

    縄文時代の序説縄の模様は表意模様「縄文」と「縄紋」の違いは何か。縄文時代10000年間の文明を調べて鳥瞰するとき、じょうもんじだいは土器を情報伝達のメディアとして使用していたことが想定できるので、土器の模様は単なるデザインとしての模様では無く、またデザインの変化を示すものでは無く、文字以前、表意文字以前の「意思」の表現であると我々は考えるので、模様としての紋では無く、文字に代替する表意するデザインとして、「縄文」が適切であることを改め認識するに至った。ビングの回答(Answer)「CordmarkedPottery」の訳の違い。当初は「縄紋」であったが、現在は「縄文」が多数を占めている。用字の転換の経緯については、「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(里見絢子)が詳しい。ということから用字の転換の経緯に...縄文と縄紋表記の違い「縄文」が本質を示す

  • 縄文時代は16000年前から始まっていて

    引用します----ーーーーーーーーーーーー今年3月、映画『Winny』が全国で公開された。この作品は、今から19年前の2004年、P2P技術を利用したファイル共有交換ソフト「Winny」を開発した東京大学大学院特任教授(当時)の金子勇氏が、著作権法違反幇助の疑いにより京都府警に逮捕、起訴された事件を題材にしたものである。ご記憶の方も多いかと思うが、改めてこの事件をおさらいしておく。このWinnyが利用しているP2P技術は「Peer-to-Peer」技術の略称で、不特定多数の端末同士がインターネットを通じてデータファイルを直接やり取りできる通信技術である。金子氏はWinnyを2001年に開発し、匿名掲示板サイト「2ちゃんねる」で公開したのだが、その翌年、Winnyを利用して他人の著作物をネット上にアップにし...縄文時代は16000年前から始まっていて

  • 縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか

    年表を追加しました。2022.02.25内容を改訂2022.03.15初稿投稿2021.07.18現在の歴史学が“世界最古”とする文明はシュメール文明です。そしてこれは三内丸山遺跡と同時期になるようです。しかし、これに先行するのは縄文前期のストーンサークルを持つ阿久遺跡です。ここでは蓼科山に向けての祭祀が行われていたとされており、それには太陽暦の存在が前提になるものと考えます。また、日本の縄文前期の遺跡からは12000年前の稲作の痕跡であるプラントオパールが発見されていますから、日本にあった古代文明の方が遥かに古い可能性があると云われる。 そうなると、シュメール文明と縄文人の関係はどうなるのでしょうか。というのはシュメール人たちは、数多くの謎を持っていたから。シュメール人はどこから来たのか分かっていない、...縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか

  • 前期末に農耕開始の準備は出来ていた

    初稿投稿2023.6.22縄文時代に土壌改良を行っていたのでは無いかマメ類の細かい種子を採集するため縄文人は土器を開発していたそれに続いてマメ類を栽培して豆粒文土器以後、マメ類の栽培種まで改良していたツルマメ作りからダイズ、ヤブツルアズキからアズキ、などこの過程は数千年掛かっていて、それでマメ類の土地改良の効能についても、気が付いていたのでは無いだろうか科学的合成以前の窒素は根粒菌、マメ類の根に付いた根粒菌に依るところが大きかったのでは無いか。根粒菌はRNAから生命が発生して生命圏が成立するまでのキイファクターなのでは無いか近代科学によるアンモニア合成が出来るまで、土壌中のアンモニアは根粒菌によるものが主要生産源だったのでは無いかビングAIの回答根粒菌は、マメ科植物の根に共生し、根粒を形成する細菌です。根...前期末に農耕開始の準備は出来ていた

  • 持続可能な地球文明の発見と解明

    持続可能な地球文明の発見と解明縄文文明の発見持続可能な農耕、正確な太陽暦を持ち10000年間継続していたようなので、地球文明の持続可能性を示す年表持続可能な農耕エジプト、シュメール文明など古代文明はほとんど自然を食い尽くして砂漠を残し滅亡している持続可能な農耕を開発したのは、縄文文明のみでは無いかマメ類との共存する雑穀混栽農耕窒素固定の再生縄文文明の衰退は気候の寒冷化による農耕衰退による後期から晩期の寒冷化により東で栄えていた縄文文明の人口は、日本列島内を東から西に流れて、文化も西に流れたようだしかし気候の寒冷化には縄文時代の農耕では逆らえなかったマメ類を主とする農耕では、温暖化は問題はなく、寒冷化が問題だった。縄文農耕では国を成立させられるほどの富の蓄積は出来なかったしたがって巨大な社会組織は成立しなか...持続可能な地球文明の発見と解明

  • エデンの園とはシュメール文明

    初稿投稿2021.07.27シュメールという場合、ウバイド文化以降、紀元前4,000年頃にはじまった「ウルク期」から、「ウル第三王朝時代」が滅びた紀元前2,000年直前までをいいます。日本の三内丸山遺跡がちょうどこの頃で、6,500年~6,000年前くらいの縄文時代前期中頃にはじまり、縄文中期末の2,500年前くらいまで続きました。このような縄文時代に、好戦的なシュメールの痕跡がひとつでも残っているかというと、まったくの正反対です。ということのようですがどうでしょうか。シュメール文明SUMERIAN石川源晃著よりお借りしました引用ーーーーーー この古代シュメール人のジャルモ遺跡から西へ約1600キロ離れたエレサレムのエリコ遺跡には、約一万年前の戦争の痕跡を残す焼けだだれた二重の城壁の遺跡が発見されています...エデンの園とはシュメール文明

  • 西アジアの土器文化の開始と縄文土器時代の関係

    西アジアの土器文化の開始先土器新石器時代土器の無い時代紀元前8300年から紀元前6000年ごろ、穀物の栽培と牧畜が開始されていました。大麦や麦類を主とする栽培では、容器は編み籠で問題なく、土器は必要無かったと考える。年表土器新石器時代紀元前6000年から紀元前5500年ごろ、ハッスーナ期北部メソポタミア最古の農耕集落が登場します。紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろ、サーマッラー期紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろ、ハラフ期初期の農耕集落はさらに発展し、彩文土器なども見られるようになります。年表土器の始まりは縄文時代と同じ野焼きによる方法だったが、その後西アジアでは窯により焼く方法に変化していたようだ。これまで土器が必要なかったのに、ここに来て何故土器が必要とされたのか、伝来以外には考え...西アジアの土器文化の開始と縄文土器時代の関係

  • 縄文時代の宇宙へようこそ

    ようこそ縄文時代の宇宙へ縄文時代の宇宙は、太陽と月だった。太陽と月が空を移動して、季節が変わり、海辺では潮の満ち引きが起こっていた。この関係を知ることから、縄文時代の宇宙への認識が始まった。それから約10000年後の2023年の今も、それでも人類の行動範囲は、縄文時代のにんしき範囲から、おおきくは違っていない。つまり人類社会の基礎には、太陽暦と太陰暦があるけれど、星占いは・・・銀河暦は無くて、縄文時代と変わっていない。しかし、縄文時代から大きく変わったのは、CO2は化石燃料から出し、自然界の処理能力を越えた。さらに、窒素固定はマメ類などの根粒菌利用から、化学合成の生産量が自然界の窒素固定と同じレベルにまで達した。 抗して人類の活動により地球の自然環境をきき的状況に至るげんかいまで買えてきたことである。今の...縄文時代の宇宙へようこそ

  • 古代文明の発生 土地の性格

    古代文明の発生土地の性格の違い縄文人台地に住む土地は痩せていたマメ類の利用シュメール下流の沖積堆積地肥沃な土地を利用小麦エジプトナイルの沖積堆積地肥沃な土地を利用小麦マメ類を利用することにより根粒菌を利用でき痩せた土地でも農耕が出来たのでは無いか  図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーー連作障害・コンパニオンプランツトウモロコシは連作障害が出にくいため、同じ場所での連作が可能です。コンパニオンプランツとして、マメ科の野菜(インゲン、エダマメ)を混植することで、トウモロコシの天敵「アワノメイガ」が寄り付かなくなる効果があります。また、マメ科植物の根に付く根粒菌が空気中の窒素を固定して土壌を肥沃にし、菌根菌がリン酸分などの養分を吸収しやすくするため、生育も良くなります。ーーーーーーーーーーー...古代文明の発生土地の性格

  • 夏至の日の出観測会

    2023.06.21夏至の日の出は見えなかった。日の出から暫くたってから太陽が顔を出したので、夏至の日の出観測装置は日の出位置から見て次の石組みに依るように思う冬至日の出ライン上の石組みノーモン位置は残る石棒の位置は石棒は郷土館に移動しているこの想定が成り立つのかどうか、謎はまだ残る。 2023.06.17このところ雨と曇りが続き今日やっと日の出が見えました。日の出方向写真の左端付近が日の出の位置で、夏至の日の出方位には大木と遺跡周囲の巨木の存在により全くの陰になっていました。現状では日の出観測は出来ないことが分りました。これまで遺跡内で夏至の日の出は見ることができなかったので、初めて分りました。以前の遺跡外での夏至の日の出の写真は以下です。遺跡は真ん中付近です。日の出が左位置になります。笠無山は遺跡と重...夏至の日の出観測会

  • 縄文時代の再生

    縄文時代が文明の扉を開いた文明とは太陽暦と太陰暦の開発がその始であったその後、現代の文明に繋がる古代文明が、支配者が自然を支配するための暦を開発して、自然破壊を開始した今、その文明はたった5000年ほどで行き詰まりを見せ始めているついに縄文時代10000年の持続性を見直すときとなった縄文文明の破壊は、現代文明に繋がる古代文明の破壊力の前に破壊されたものであり力による破壊、現代の自然破壊は同じ力による地球環境の破壊である。その根源は、太陽暦と太陰暦を共存させない、計算による暦支配から始まるものである。今も太陽暦は計算により決められており、太陽暦地球の公転と自転に正確に従っているものでは無い。自然との共存を図るためには、真っ先に地球と月の運動に適っている暦に従う生活を取り戻し、何も特別考えなくても、自然を認識...縄文時代の再生

  • 縄文時代と世界の文明の大まかな年代の対比年表

    初稿投稿2022.02.01補足追加しました2022.06.182023.06.11年表を追加しました。縄文時代早期、前期とシュメール文明とはどのような関係にあるのか適当な年表が無かったので各種年表を集めて適当に組み合わせてみた小さくてよく見えないので拡大縄文時代早期から前期までの時期は7500年前くらいになる世界文明の発生は縄文時代中期から後期初め頃に当たりそうということから、縄文時代早期に太陽暦と太陰暦が開発されていれば、シュメール文明初めまで2000年ほどの時間があるので、どうなるのでしょうか。2023.06.11最近分ったシュメール文明と縄文時代の関係年表を追加掲載しました。縄文土器の発生は西アジアメソポタミアよりもほぼ10000年以上前からになります。縄文人の太陽暦の開発もシュメール文明より20...縄文時代と世界の文明の大まかな年代の対比年表

  • ビッグヒストリー 新石器時代

    初稿2023.05.07新石器時代の始まりは縄文時代から始まったその生業開発の歴史経過は土器に書かれていた縄文時代10000年の歴史は世界文明の始まりを示すもので過去現在未来の時間軸を、はっきりと人間の意識と思考に上らせたものは太陽暦である。その太陽暦開発の歴史は縄文時代の土器に書かれていた世界の文明は7000年前頃から始まっていたそれを開始させたものは本格的農耕の開始で、縄文時代早期までに造られていた太陽暦の知識であったのではないか西アジアでの家内消費的な粗製土器は、垂直焔式窯が成立した後も、ピット窯ないしは野焼きで製作され続けていたことも判明した。ということで、これまで西アジアの土器製法が、窯で初めから造られていたとして、不思議とされていたが、縄文土器と同じ野焼き製法がベースに有ったことが分かり、これ...ビッグヒストリー新石器時代

  • 立夏の日の出観測会

    観測会の結果を記載します。2023.05.08大雨2023.05.07雨天で観測できず暇があるので、K.M.氏と方位磁石により、配石内の石棒と大きな石などで、南北方位と東西方位、さらに3,4,5の直角形の存在を構想してみました。今後の検討が楽しみです。その他にも縄文人達は配石と石棒を組み合わせて、思いも寄らない様々な宝を隠しているかも知れませんので、ご興味ある方は妄想を凝らして、縄文人の残している謎に挑戦してみてください。2023.05.06曇天で日の出観測できず日の出の時のタイムラプス映像について、協力くださる方があり、検討できそうです。ーーーーーーーーーーーーーー立夏の日の出観測会のご案内2023.05月06、07、08日時間4:30~5:30頃まで日の出は5時過ぎです1.現代の太陽暦の計算365日閏...立夏の日の出観測会

  • 各古代文明の暦のレベル

    各古代文明の暦のレベルこれまでの情報から纏めてみると知識レベル暦のレベル古代文明二至冬至、夏至ストーンヘンジ、エジプトシリウスと洪水二分点春分、秋分アステカ、シュメールカペラと春分太陽太陰暦四分点立春チャイナ太陰太陽暦{現代文明}1月1日太陽暦太陰暦は日陰もの八分点立春、立秋縄文時代二十四分の暦15進法の暦で太陽暦と太陰暦をシンクロさせる  立春2/4立秋8/6縄文時代の暦は直接太陽観測をしているので、太陰太陽暦、太陽太陰暦のように季節が移動してしまうような不都合が生じることはありませんでした。図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーー世界最初の暦は、紀元前3500年前後のメソポタミア文明で、シュメール人によって作成された。この暦では、冬至から太陽は次第に高くなり、日が長くなっていくことから...各古代文明の暦のレベル

  • 中国チャイナの太陽暦

    縄文時代の太陽暦縄文時代には太陽観測が石棒を立てて標識点として、ノーモンにより立春が観測されていた。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設がそれを示している。金生遺跡での日の出観測には、茅が岳の嶺から出る太陽を観測するため、立春を一日の精度で観測するには22メートル程の距離と高さ2.4メートル程のノーモンが必要である。これはチャイナのノーモン表の高さ8尺に一致するものである。暦は縄文早期には開発されていたようだ、それは世界の何処の文明にも無い突起土器により数字が記録されていた。突起土器に記録されていた数字は、時代を経るに従い次のように変化していた。縄文時代早期2,4、6前期8、12中期3後期以後5、7土器の年表年表 図はお借りしました引用しますーーーーーーーーーーーーーー二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では...中国チャイナの太陽暦

  • ソーラーカレンダーと農耕の世界史

    ソーラーカレンダーと農耕の世界史1.月の満ち欠けは、そこの地形にかかわらず、何処でも簡単にその周期をしることができた。2.太陽の冬至~夏至まで、または夏至~冬至までの日数を数えることは、日の出位置を知ることの出来る適切な地形の無い平地では難しい仕事だった。エジプトではナイル川の洪水からシリウスの出に合うことを知り、それが夏至に当たることを知ったようだ。シュメール文明では春分をカペラから知ったとされるが、そのことを何時どのようにして知ったのか明らかになっていない。チャイナでは立春を知っていたとされるものの、それをどのようにして知ったのか詳らかになっていない。マヤ・チチェンイッツアーの春分の知識も、それをどのような方法で見出していたのか知られていない。このようにこれまで知られている文明は何れも二至、夏至、冬至...ソーラーカレンダーと農耕の世界史

  • デフレを何とかして欲しい

    1200年前からの思想これからの思想【主要国の2021年名目GDP・政府支出対2001年比(倍)】政府が支出しないと国民の富は増えない民間はお金の取り合いをして、利子を銀行に返さなくてはならない利子分だけ民間のお金は減ってしまう。インフレで投資が次々に出来てパイが大きくなるときなら良いが、デフレでは投資しないから・・・政府が発行しない限り国富であるお金は増えない、政府の赤字は民間の黒字国がお金を出さなければ、お金は消えて、国富が減ってしまう。お金を作り出せるのは国だけ。 このグラフは立て横軸が逆なので、軸を変えてみます。同じデータではありませんが、これが正しい変数関係です。 政府支出無しにデフレは解消しない。金融と財政生産投資は出来ないが、金融商品への投資はいくらでもお金が余っている、金融緩和。開発投資は...デフレを何とかして欲しい

  • 縄文時代の特筆出来るもの

    縄文時代の特筆出来るもの1.縄文土器は旧石器時代後期のまだ寒冷な時期に早くから造られ新石器時代の生業開発の歴史を土器に記録として残していた。土器の起源は最初の土器がマメ粒文土器なので、マメ類の採集や栽培のために造られたものと考える。西アジアの麦類の農耕地域では土器の出現は縄文時代より数千年遅れて造られるようになっていた。2.土器の記録から縄文時代Earlyには太陽暦は完成していたこの時期にはマメ類やヒエなどの栽培種が出来ているので太陽暦を必要とする農耕開始の時期に合っている石棒がこの時期から造られていることと、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設で石棒が太陽暦観測点の標識となっていることから、石棒の起源がこれまで分っていなかったが、それは太陽観測の標識として使用されたことから始まったものと考える。同時にノー...縄文時代の特筆出来るもの

  • 縄文時代に開発された太陽暦はどのように各地の文明を生んだか

    縄文時代の太陽暦開発の経過は 各地の文明と縄文時代の対比エジプトの太陽暦の起源についてAIビングに聞きました。エジプトの太陽暦開発の歴史経過を教えてください回答エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです3。このような太陽暦は、エジプト人がナイル川の定期的な氾濫を利用して灌漑農業を営むようになったことから、紀元前5000年頃に移行したとされています2。詳しい情報が必要でしたら、お知らせください。ソース:Bingとの会話202...縄文時代に開発された太陽暦はどのように各地の文明を生んだか

  • 文明とは何か 定義

    追加しました2023.04.18初稿2022.09.23次のように云われているようだ---文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明さ...文明とは何か定義

  • 有孔鍔付土器と農耕

    縄文前期諸磯式土器の時期に、これまで無かった全く新しい土器形式が生まれたようだ土器の形そのものが変化していた。それを必要とする社会に変わった何が原因なのか狩猟漁労採集社会から農耕社会に変化したこの変化はそれ以外にないのでは その後の歴史で、弥生人が入ってきた際に、アイヌやインディのように土地を奪われずに、縄文人は弥生人と共存して、同化していったような話のようだから、そうだとすれば、農耕を既に行っており、土地所有の観念が成立していたのだろうと考える。有孔鍔付土器とは胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。出土数は極端に少なく、胎土も精選されており出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。小孔が空けられる理由...有孔鍔付土器と農耕

  • 縄文時代の区分方法提案

    初稿2023.03.2縄文時代は現在、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という風に区分されている。これは日本国内では通用しても、世界的にはどうなのか。特に、前期までの区分は、前期として、その中で1、2,3と区分するのが良いのでは無いだろうか。前期は縄文時代の文化の基礎が形成された時代として理解しやすくなる。Early1st狩猟、漁労、植物栽培の開発Early2nd太陽暦、太陰暦などの暦開発Early3rd農耕開始の技術開発土器形式の変化と生業開発弓矢開発と魚釣り、漁撈、栽培開始の経過粘土、土器は記録材として生業開発の経過が記録されていた 暦開発の経過記録土器は記録材として暦開発の過程が土器口縁に造られた突起で数字が記録されていた   農耕栽培種成立までの記録追加2023.04.13図はお借りしました縄文時代の区分方法提案

  • 太陽暦を基準として縄文時代の文化進展を比較する

    太陽暦の開発進展波状突起口縁の土器の数の経緯太陽暦縄文前期石棒が作られる中期石棒が巨大化、形もキノコないし男根型に成形される農耕開始諸磯式土器の頃、模様が縄文からマメ粒文に変化縄文中期勝坂式土器の頃にはマメ類が栽培種に大型化前期末土偶が作られる中期始め立体型土偶が作られる  図はお借りしました太陽暦を基準として縄文時代の文化進展を比較する

  • Validation of Solar Calendar Observation at Kinsei Ruins

    Title:ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuinsAbstractLocatedinHokutoCity,YamanashiPrefecture,Japan.TheKinseisite,aJomon-erasite,hasthe40-metrebigstonearrangment withastonepoleserectedinit,whichhasbeenfoundtobeasolarcalendarobservationfacility.TheobservationpointswerefoundtobeattheeightsolartermsofthecalendardatesofRisshun,RisshuandWinterSolstice...ValidationofSolarCalendarObservationatKinseiRuins

  • 日本天文学会投稿原稿 案

    日本天文学会投稿原稿案日本語版図は省略しました概要日本国山梨県北杜市にある縄文時代の遺跡・金生遺跡には、40メートルの大配石遺構があります、その中に石棒が立てられてあり、太陽暦観測施設となっていることが分ってきた。観測点は八節の暦の立春、立秋、冬至であることが判明した。また各観測点にはランドスケープとして対応する山が設定されている。遺跡の立地については、太陽運行を表示するアナレンマ解析によってもシミュレーションされて、同様な結果となっている。遺跡の立地からも遺構からも太陽暦が示されているので、縄文時代後期には太陽暦が確立していたものと推測できる。このことからは、縄文時代のかなり早い時期から太陽暦の開発が進められていたものと推定出来る。立春、立秋の暦日2点が観測されていた理由は、太陽暦と太陰暦をシンクロさせ...日本天文学会投稿原稿案

  • 石棒とは何か

    初稿2023.3.25男根を模したと見なされている石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(約24000年前)のものまで遡れるという。しかしいわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられていて、その後近畿地方以東を中心に広がったとされている。いわゆる石棒とされているものは、縄文時代中期に何らかの画期があったものと考える。それは前期に引き続いての太陽暦の完成であり、その際太陽観測に石棒が使われていたことから、農耕進展と共に、季節の変化を知り、太陽の力を受け取るものと云うことから、石棒の霊力というようなものが想像されて、その後の石棒信仰のようなことが行われるようになったものと推察する。石棒の始まりは最初は自然石で棒状のものが使われていたものから、加工した石棒へと変化発展した...石棒とは何か

  • メソポタミアで何故占星術が発展したのか

    旧暦と立春立春は旧暦1月1日というのは、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められる太陽暦であるため、多くの年は1日にならない。旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。という節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣...メソポタミアで何故占星術が発展したのか

  • 世界のノーモンの発明者は誰か

    追加します2023.03.27最新のAIの説明をついかします。問い1.古代バビロニアやエジプトの天文学による太陽暦が、古代ローマ時代などで、その後季節が狂ってしまったのは何故ですか。ThenewBingpreviewwillbeavailabledirectlyfromtheWindowstaskbarExternalLinkiconLearnMore‘古代ローマの暦季節ずれ’を検索しています回答を生成しています…古代ローマ時代に、季節が狂ってしまったのは、ローマ暦の不備が原因です12。最初のローマ暦は、10か月で304日しかなく、太陽年と大きくずれていました1。その後、ユリウス・カエサルがエジプト暦を参考にして、4年に一度閏日を入れるユリウス暦を作りましたが、それでも平均365.25日と太陽年の365....世界のノーモンの発明者は誰か

  • ソーラー○○

    縄文時代には粘土、土器は記録材料として利用されていた。生業開発の歴史記録土器太陽暦開発の歴史記録土器、波状突起口縁の土器、数の記録土器への数の記録の歴史は2,4,6、8、12、3、5、7となっている。365日/2182日182/291日半年4分割の暦182/306回の朔望91/245日八節の暦45/315日二十四節気の暦15/35日七十二候のカレンダー  記録は現代までペーパーにされてきた。ソーラーパネルは今発電装置として使用されている。縄文時代の石棒はソーラー石棒だった。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、石棒が太陽暦の標識として使用されていた。立春標識は、自然石をそのまま利用していると思われる石棒が使われていた。冬至日の入りも自然石石棒。これが石棒使用の始まりでは無いだろうか。石棒の起源は太陽暦を...ソーラー○○

  • シュメールの暦は春分が元旦である

    2.22.05.25追加補足しました縄文時代早期には太陽暦は二至二分には到達していたものと考えられるのでシュメールの暦はこの春分冬至から91日を暦の起点とするものと考える。その後縄文時代前期には八節の暦に進展、立春を暦の起点としていたと考える暦作りは起点が春分から立春に45日早まったものと考える。金生遺跡・大配石から、立春と立秋を観測していた施設が分かり、半年一年暦の起点として立春、立秋を観測していたのだろうとの推定が可能となった。また太陰暦についても二至に基づく半年6回の月の相の周期の暦が作られていたものと推定できるので、こうした縄文時代早期の暦の知識がシュメールに伝わっていたものと考える。 最新のAIの説明から追加しました2023.03.21ThenewBingpreviewwillbeavailab...シュメールの暦は春分が元旦である

  • 縄文時代の暦と世界暦

    世界暦というものが提案されているブログ--下に引用しています--があるようです。それに対して縄文時代の暦は、縄文時代早期から金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設建造まで、直接太陽観測を基にしていたという記録も残されていたと考えるので、狂うことは無かったはずです。縄文時代の太陽暦を示す、土器に残された記録による数字の列です、2,4、8、3、5、32です3,5,32の数列は縄文中期以後に残されていたものです。石棒とノーモン表による金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設現代の太陽暦とも一致する暦が作れるでしょう。縄文時代には早くからノーモンが利用され、二十四節気の暦の立春、立秋を観測し、月相を観測して太陰暦との並行使用を行い、朔旦立春を観測していたものと考えています。現代の暦の利用活用は、このレベルにまだ至っていない...縄文時代の暦と世界暦

  • 縄文時代は新石器時代である

    初稿2022.12.30縄文時代はこれまでの遺跡発掘調査報告書から1.縄文時代草創期にはマメ類を採集して、食料とするために、籠に代わる容器として土器を開発した無文土器2.マメ類の栽培を始めた、その驚きを粘土で造形して供献土器を造り記録した豆粒文土器3.縄文時代早期には、農耕のための栽培暦を開発した太陽暦を開発したことを4波状突起口縁の土器を造り供献土器として記録した4.縄文前期には、原種ツルマメ類から大豆、ヤブツルアズキ類からアズキ等が栽培種となった栽培種の成立はマメを粘土に加えて土器を造った粘土に練り込まれた大豆が、痕として残る諸磯式土器 このようにして縄文時代草創期には、マメ類の栽培は開始されていたしかし家畜が無いことからシュメール文明に繋がる新石器時代の定義に合わないとされてきたなぜ縄文時代には畜産...縄文時代は新石器時代である

  • 土器 粘土は第三の道具

    これまで縄文人が使った道具は、二種類に分けることができるとされていて一つは、生業生活において直接役立つものです。弓矢、石斧、石皿などが挙げられます。こうした道具を、小林達雄先生(考古学者・國學院大學文学部名誉教授)は「第一の道具」と呼びました。それに対して、生業には直接役立つわけではないが、土偶や石棒など呪術や祭祀に使用されるものを「第二の道具」と呼びました。という第一の道具は直接生産に関わるものです。第二の道具は、基本的には精神文化に関わる祈りの道具です。土偶は、第二の道具の典型例です。石棒も第二の道具の典型例です。この第二の道具を詳しく見ていきましょう。石棒はいわばファロス、男性器の象徴です。対して土偶は、基本的には女性です。関東から中部高地にかけて出てくる中期の土偶の多くは基本的にお腹が大きく、妊産...土器粘土は第三の道具

  • 石棒は何のために作られたのか

    初稿2023.03.072023.03.19AIの説明まとめを追加しました。石棒が作られ始めた時期の経緯を纏めてみました。巨大石棒は中期中葉の勝坂期(約5000年前)のものでした。という 後葉の加曾利E3式期(4700~4500年前)の無頭石棒は、巨大石棒(勝坂4式期)から300年程度を経ているこの時期に太陽暦、24節気の暦が完成しているので、太陽暦観測との関係では無いだろうか。金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設では、観測点に石棒が設置されていた。中期後葉の終末期(加曽利E4式期)は約4500年前と判定されています。中期中葉・勝坂期は、縄文海進によって山の幸、海の幸に恵まれた豊かな生活を保証されていました中期後葉・加曾利E3式期になると次第に寒冷化し、次第に海が引いて行って(縄文海退)、自然環境が悪化し、...石棒は何のために作られたのか

  • 360度 24時間 の起源は

    追加して現在の最先端のAI技術で、24時間と360度の起源を調べてみました。追加しています。2023.03.19初稿2023.02.16360度24時間の起源は何処にあるのだろうか。 “世の中変えるターニングポイント”対話型AI「チャットGPT」 クリエイティブな仕事も可能とこのようなものが利用できれば、簡単に回答が出てくるようですが、今此処では無理なので、人力でやってみました。シュメール文明としているのが多いようだエジプトとするものも有るようです。年表しかしこれらの文明国を超えて、1000-2000年も古いのは縄文時代のように思う。縄文時代前期には、太陽観測により365日を知り、また一年を24分割して、という数字の起源を再現できる記録を残しているのは、縄文時代である。土器にこのような波状突起口縁の土器を...360度24時間の起源は

  • チャイナの暦の歴史

    2021.06.11初投稿チャイナの暦の歴史引用する---戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の??暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により??暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲...チャイナの暦の歴史

  • シュメールの暦

     エジプトとシュメール文明の暦についてまとめた エジプトの太陽暦とは#calender旅行2021-07-0120:12:14 エジプトの太陽暦とは、シリウスとナイルの氾濫をもとにした暦太陽の運行を見ていたものなのかは疑問いろいろと調べてみましたが、よく分りませんでした。金生遺跡では明確に太陽を観測していたと分りました。太陽の運行の定点観測が基準ですから、毎年観測して暦を作っていたものと考えます。それも八節の暦でこの基本は世界の常識のようですから、その天文台が現存している。引用----エジプトの天文学に関する最も古く、詳細な文献は、中王国時代(前2055-1650)初期の木棺の蓋に描かれた「対角線暦」あるいは「星時計」と呼ばれるものである。同様のものは末期王朝にも見られる。これらの暦では36の行があり、夜...シュメールの暦

  • 世界史の中の縄文文化

    縄文時代の文化はこれまで、土器形式の変化を軸として示されてきた。文化内容に関してこの土器形式の変化と対応させて概観することはされてこなかった。しかも東アジアの土器の存在は、西アジアに対して縄文時代の特筆すべき文化であった。これをすることにより、縄文時代を俯瞰して捉えることが出来ると考える。1.新石器時代の生業開発の歴史縄文土器には、旧石器時代後期から新石器時代の生業開発の歴史が記録されていた画期的な生業が開発される度に、それを記念して供献土器が造られ、生業開発ができたことを祝っていた。土器の開発はマメ類の採集のために籠では役に立たないので、土器を開発したものであるマメ類、ヒエ類などの栽培を開始出来たことを祝って、豆粒文土器が造られた弓矢の開発弦の開発は隆起線文土器、石鏃の開発は爪形文土器、弦の更なる改良は...世界史の中の縄文文化

  • 金生遺跡の立春観測会

    観測会記録2023.02.02日の出前曇って星は見えず日の出も雲で薄日が射すのみ、ノーモンは風が強いので倒れてしまった。02.03      本日も薄曇りで、立春石棒での観測は困難でした、それでも石棒の右手の直近にノーモンの影が差すことは何とか見て取ることが出来ました。明日の快晴を切望。02.04日の出の時曇り、のち快晴02.05快晴石棒の左側に表・ノーモンの影がはっきり出ました。  まとめです太陽暦の一年の始まり冬至で南の限界まで遠離って行っていた太陽は、北に還ってくる。ノーモンの影は冬至で北の配石限界に達していたが、日毎に少しずつ左に移動する。立春前日までは石棒の右外側に日差しが来ていた。立春で石棒に当たり次の日からは影は石棒の左に当たり、日の出と共に影は右回りに移動して、この日以後は、時間変化と共に...金生遺跡の立春観測会

  • 関山、黒浜、諸磯式土器などの模様

    関山、黒浜、諸磯式土器などの模様マメ類やヒエ類などの栽培種が成立していた時期の土器はどのようなものなのか列べてその模様の変化を見てみる 関山式土器 黒浜式土器 諸磯式土器の模様何れも豆粒のような造形が見えている。これらの土器がその時期を代表するものなのかは今一ですが。 時期と土器の関係が整理されていた千葉の例 図はお借りしました関山、黒浜、諸磯式土器などの模様

  • お知らせがあります、立春前々日の朝 彗星

    お知らせがあります、立春の日の出前に彗星が見えるかも「ZTF彗星」最接近5万年ぶり、二度と戻らず2022年に発見された「ZTF(ズィーティーエフ)彗星」が地球に近づいている。国立天文台によると、接近は約5万年ぶりとみられ、最接近するのは2月2日未明。地球から約4200万キロメートルまで近づく。5等級ほどの明るさになり「天の川が見られるよがうな暗い空であれば、肉眼でもぼんやりと観測できる」としている。という縄文時代に文明を開始して、ほぼ15000年の今、それを超えた旧石器時代からの50000年の時間振りに現れたようです。沖縄県国頭村の辺戸岬で見られた「ZTF彗星」=31日午後7時49分から各4秒露光で撮影した15枚を合成これを知ると金生遺跡は低地で湿度が高いので快晴でも肉眼で見るのは難しいかも知れません。日...お知らせがあります、立春前々日の朝彗星

  • 国立天文台など へのメール

    杉本博司氏へのメールEテレ日曜美術館での「江之浦測候所」の日の出を見ました。5000年後に廃虚となったときにこの作品は完成するというようなことを言われていた。縄文時代から残ってきた金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は既に4500年ほど過ぎていて、現代の太陽暦と変わらない二十四節気の暦を正確に観測し続けている。この遺跡はこれからも「江之浦測候所」と同じ時を過ごして、縄文時代の文明の開始からの時を刻んで、9500年の歴史を示すかも知れないものと思う。もしそれ以前に人類が滅びなければということなのであるが。ーーーーーーーーーーーーーー杉本博司様突然のメールで失礼します。当方は一昨年以来、山梨県北杜市の縄文遺跡金生遺跡に於いて、太陽暦の存在を確認したと考えています。それは金生遺跡の大配石で太陽暦が観測されていたこ...国立天文台などへのメール

  • 縄文時代10,000年の新しい時代区分 案

    2023.01.11投稿初稿現在の縄文時代の区切りは、土器の模様の変遷をただ追っているだけで、文化的要素からの区切りで無いので、これを新しく文化的要素による区切りに見直してみる。 1.無文土器が造られた時から羽状縄文土器、諸磯式土器の時期までを「生業開発の時代」とする。文化的内容は、雑穀農耕の成立まで、マメ類の採集からマメ類、ヒエ類の穀類の栽培を始めて、栽培種が成立して農耕が開始するまでの時期狩猟については弓を開発して弓の弦の開発を中心として、魚釣りの開発、網漁の開発など、狩猟、漁撈の生業成立まで。土器には主として縄紋の模様が付けられていた時代また、太陽暦と太陰暦の開発の時代でも有るこれは鮭の遡上回帰漁、海の干満を知ることで巨大な貝塚を造る潮干狩りが出来るようになった。マメ類や雑穀類の栽培のために季節を知...縄文時代10,000年の新しい時代区分案

  • 金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性

    金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性金生遺跡の立地について、再度まとめてみる。大配石は二十四節気の暦の立春、立秋の日の出の日にちを観測する事が出来る。観測精度は1日程度の正確さで設計されていた。ランドスケープは、通称茅が岳と呼ばれる山の、金が岳のピークに立春の日の出が設定されていた。立秋については笠無山となっていて、立秋の日の出はこの山のピークに設定されていた。冬至の日の入りは甲斐駒ヶ岳のピーク右になる。この日の入りは、配石の石棒により観測できる。 金生遺跡立地の日の出をシミュレーションするアナレンマ解析を適用して、この立地はそれに整合していることが立証されている。日本天文考古学会の樋口元康氏により再現されている。笠無山 冬至甲斐駒ヶ岳のピーク右金生遺跡は台地上にあり、この台地は20万年前とされる...金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設と立地特性

  • 縄文時代とシュメール文明の文書

    縄文時代とシュメール文明の文書縄文時代には文字は無かったものの、縄文時代草創期から土器が開発されていて、縄文人の生業開発の経過が、土器に造形記録されて残されていた。西アジアでは土器の開発が遅れて、記録が残されたのは紀元前4000年頃からと遅れていた。縄文時代草創期土器開発の歴史と弓矢の開発の記録縄文時代早期太陽暦と太陰暦の成立を数字として記録していた マメ類、ヒエ類の栽培種の成立の記録シュメール文明の文書楔形文字の記録紀元前4000年頃から  縄文時代草創期からの記録  図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーーユーラシア大陸世界最古の書類 江上波夫さんの収集品展示横浜の文化館西アジアを中心に発掘調査した考古学者の故・江上波夫さんの収集品を公開する企画展「ユーラシアへのまなざし」が、横浜市中区の横...縄文時代とシュメール文明の文書

  • 縄文時代に農耕が存在したはず

    2022.12.14投稿金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設この観測により二十四節気の暦が作られていたと思う。大配石では石棒により立春と立秋の八節の暦二十四節気の暦の太陽暦の暦日が観測できる365/2182/291/245日45日区切りの立春からの日数計算による暦日立春は冬至日から45日目現代の太陽暦から0.5日早い位置これは現在の太陽暦の暦日に一致していることになる立秋は45*4180日現代の太陽暦より2日早い位置8/7日-2日8/5日が二十四節気の暦の立秋日これは石棒で観測される日にちに一致している。以上のことは今後詳細に観測して確認する必要がある。ところで、縄文中期には3突起の土器や3本指を持つ土偶、3本指を持つ土器の造形浮彫、その他三角の土器や石などがある。この3と言う数字は暦計算の45/315日の...縄文時代に農耕が存在したはず

  • 農耕開始までの縄文時代の歴史

    土器と農耕開始までの縄文時代の歴史土器形式の展開 代表的土器内容項目無文土器マメ類の採集の容器豆粒文土器マメ類、ヒエ類栽培開始縄文土器の時代狩猟時代弓矢の開発魚釣り漁の開始貝殻貝文土器貝塚潮干狩り漁網漁の開始この間栽培技術の画期は無かったずいぶん長い時間が掛かった諸磯式土器栽培種の完成マメ類、ヒエ類など栽培種が成立 マメ類、ヒエ類を示す模様 勝坂式土器農耕開始 3波状突起口縁の土器社会進化二十四節気の暦5日、7日のカレンダー  補修5波状突起口縁の土器中央集権的で無く、分散聚落だったことで、自然に従う生活、太陽暦、太陰暦という暦に素直に従う社会だったのではないだろうか。 年代との対比年表  図はお借りしました農耕開始までの縄文時代の歴史

  • ヒエは主作物だったのか

    ヒエと諸磯式土器ヒエが何時栽培種の成立があったのか、これまで調べていなかったので、諸磯式土器の模様と関係するのでは無いかと思い調べてみたところ、時期的には整合することが分った。土器形式年表ダイズ、アズキ土器 ダイズ、アズキも同じ時期なので、こうした作物が土器模様に反映したのだろうと思う。土器縄文が無くなった土器まめかひえかマメ類ヒエるいなのか 畑に害をするイノシシ 図はお借りしました引用ーーーーーーーーーーーーーー本論文では遺跡から出土したダイズ,アズキ,ヒエ属の種子サイズデータを集成し,縄文時代における形態上のドメスティケーション(種子の大型化)の過程を検討した.ダイズとアズキは6,000年前頃から4,000年前頃にかけて中部高地と関東地方西部地域(諸磯・勝坂式土器文化圏)において出土数が増加し,現在の...ヒエは主作物だったのか

  • 弓矢による狩猟は何時から、何処から始まったのか

    弓矢猟に関して、今の段階で分っていることは弓矢猟は何処で始まったのかヨーロッパ最古の弓の考古学的証拠は、アーレンスブルギアン期(c.12,900-11,700calBP)の遺跡であるドイツのシュテルモーア遺跡で見つかっている(Rust,1943)。という日本においては、石鏃が増加するのは13,500calBP頃である。日本で有溝砥石が増えるのもこの時期であり、直線的な溝を持つ有溝砥石は矢柄研磨器として機能したと考えられる(佐野他2018)。しかし、隆起線文土器に伴って出土する両面加工有舌尖頭器の計量測定学的分析により、その多くは鏃として機能したと考えられるようになってきた(橋詰2015;御堂島2015)。両面加工有舌尖頭器が出現するのは、晩氷期が始まる15,000calBP頃であり、晩氷期の急激な温暖化に...弓矢による狩猟は何時から、何処から始まったのか

  • 大寒の日の出

    2023.01.20大寒日の出観測ノーモンによる日の出時刻は7:15分快晴に恵まれて日の出はバッチリ、配石内にターゲットは見えません、ありませんでした。 布をかぶせて白く見えるものが立春ターゲットの石棒です。ロープは冬至のノーモンラインの心算。冬至から30日でここまで移動した。あと15日で立春。 2021.06.18投稿以下金生遺跡で冬至から太陽観測日の出を見て3日ほどは天候が良く観測できたが4日目には曇天となり日の出を見ることは出来なかった。こうしている間に、晴天に恵まれ日の出を見ることが出来ると言うことはかなり幸運なことと分ってきた。冬至から観測を始めて次に初日の出を見ることができた。その後は春分に日の出を見る会をやろうと言うことにしたが、途中タイミング良くたまたま大寒の日は天気良く日の出を見ることが...大寒の日の出

  • 撚糸文土器とは釣り糸、魚釣り漁技術の完成祝いの象徴

    撚糸文の施された土器、撚糸文模様を付けたのは、土器そのものの機能性を上げるためのものとは思えない。土器にそのような模様を付けるためを目的にして、特別にそのような細い糸と糸巻きを作ったものとは考えにくい。この時期は生業開発の工夫が様々に継続されていたものだろう。そして釣り針や釣り糸が完成して、魚釣り漁が開始した時期に当たるようだ撚糸文とは、テグスが開発され釣り糸での漁業開始を示すものでは無いかと思う釣り糸、テグスは当時のハイテク製品、釣りによる生業はハイテク技術その生業は先端産業魚を釣り上げるという技術は、集落の人々を驚かせ、大いに喜ばせたものと考える。新しい生業が開発された瞬間であり、定住がそれにより更に安定して、それは供献土器に作り祝い記録して、祈る対象としていたのでは無いか。図はお借りしました引用ーー...撚糸文土器とは釣り糸、魚釣り漁技術の完成祝いの象徴

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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
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