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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

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  • 古代都市文明は、どのようにして発展したのか

    本日ブロクサービス停止に対応するための、記事引っ越しを終えることが完了できました。新規投稿は以下にしています。引っ越し先は、次のブログにですブログのURLoizumikinsei.hatenablog.comよろしくお願いします。古い記事から引っ越しして本日終了しました。ここは休止します。よろしくお願いします。2025.06.09  2025-05-13古代都市文明は、どのようにして発展したのか古代都市文明は、どのようにして発展したのでしょうか、その歴史を概観してみます。古代文明の対比年表1.図世界各地の古代史の年代対比縄文時代とは世界古代史の上でどのような時代だったのでしょうか 縄文年表というもの2.図食料は季節に応じて採取していた縄文人このように自然の中から多様な食料を獲得していたとされていますこれを...古代都市文明は、どのようにして発展したのか

  • 金生遺跡で笠無山からの日の出を見る会 案内

    5月7日金生遺跡で笠無し山からの日の出ダイヤモンド笠無山を見る会です山梨県北杜市大泉町時刻時間:4時45分から1時間程度笠無山からの日の出を見るのと縄文時代遺跡案内です金生遺跡で笠無山からの日の出を見る会案内

  • メソポタミアでの沖積地灌漑農耕の発展はどう考えたら良いのか

    これ以後ブロクサービス停止に対応する、引っ越しのため、新規投稿は以下に移ることにしています。引っ越し先は、次のブログにですブログのURLoizumikinsei.hatenablog.comよろしくお願いします。現在、古い記事から引っ越ししています。2025.04.22以後は最後の新規記事です-------------------------------------------------西アジアで衰退していた新石器時代後期の農耕が、メソポタミア南部での沖積地灌漑農耕の発展となったことはどう考えたら良いのか。 図灌漑農耕の開始従来、農耕は大河のほとりで始まったとされてきました。最近のメソポタミアの研究では、まず北イラクの山麓地帯(ザクロス山脈やレバノン山脈の西側)で雨水天水を利用してはじまり、ジャルモ、ハ...メソポタミアでの沖積地灌漑農耕の発展はどう考えたら良いのか

  • 天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

    天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか、これまでの仮説は余りにも簡単である。それまでは野生ムギ類の野生に準じた農耕PPNBまでここまではほぼ栽培種は成立せず灌漑農耕を始めるために、初めて栽培種の成立への栽培が始まったものではないかそれは栽培暦の成立でもある 図豊潤な三角地帯とにかくここは恵まれすぎていたようだコムギは現在世界中で最も多くの人々が利用している栽培植物である。コムギの歴史は古く、地中海東岸からイランのザグロス山脈に至るいわゆる肥沃な三日月地帯に点在する8000年以上前の遺跡から炭化種子が発見されており、この時期には既に利用されていたことを窺わせる。これまでの研究によると、この地域において豊かな多様性を示す野生植物から人類にとって重要な一群の栽培植物が生まれたことが明らかになっている。...天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

  • 天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

    天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか、これまでの仮説は余りにも簡単である。それまでは野生ムギ類の野生に準じた農耕PPNBまでここまではほぼ栽培種は成立せず灌漑農耕を始めるために、初めて栽培種の成立への栽培が始まったものではないかそれは栽培暦の成立でもある 図豊潤な三角地帯とにかくここは恵まれすぎていたようだコムギは現在世界中で最も多くの人々が利用している栽培植物である。コムギの歴史は古く、地中海東岸からイランのザグロス山脈に至るいわゆる肥沃な三日月地帯に点在する8000年以上前の遺跡から炭化種子が発見されており、この時期には既に利用されていたことを窺わせる。これまでの研究によると、この地域において豊かな多様性を示す野生植物から人類にとって重要な一群の栽培植物が生まれたことが明らかになっている。...天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

  • メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュ

    メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュウバイド期を幻視してみる図文化史現時点までの調査では、遺跡遺物からの追跡では、西アジア文明の流れを明確に出来てはいないものの、幻視すれば筋道がぼんやり見えると思えてきた。 図PPNと土器新石器時代の進展アムーク、サマッラ期に土器製作が始まる。それはここに縄文人が到来していたことで土器制作が始まっていたのではないかその後南北に土器文化が派生した。豊潤な三日月地帯の在来の野生種が良く生える土地では、在来農法で十分良く、太陽暦により作られた栽培暦の効力は発揮できなかったのでは無いか。その後ウバイド期に、沖積地に出て灌漑農耕で発展したのは、沖積地での気候に合わせた栽培に太陽暦を利用することが出来、栽培種の開発と栽培暦を構築することが出来て、灌漑農耕を発展させることが...メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュ

  • ウバイド期の灌漑農業それほど簡単なのか

    ウバイド期の灌漑農業灌漑農耕はそれほど簡単なのかウエブ情報に基づいてまとめています灌漑農業とは、農耕に必要な水を人工的に供給する農業である。前5000年ころからユーラシア・アフリカの各地に波及し、それぞれの地域の風土にあった作物栽培や牧畜へと発展していった。自然に依存する乾地農法にくらべ、収穫量が増えると同時に共同作業が必要となり、共同体が発達して都市が成立する。特にナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、黄河といった乾燥地帯の大河流域では、灌漑農耕の必要から大集落が形成されるようになり、大規模な都市が形成されて、文明発生の条件が整った。 図灌漑農耕の前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤ...ウバイド期の灌漑農業それほど簡単なのか

  • 西アジアの新石器時代 再考

    西アジアの新石器時代は、発掘が進み研究すればするほど、チャイルドなどによりこれまで云われてきたことから、再考すべき時期に来ているようだ。文献記載内容からまとめていますこれまで西アジアの新石器時代は、農耕牧畜が開始された時代とされてきたが、データの蓄積が進むにつれ、実際には先土器新石器時代の前半には、まだその証拠がみられないことが明らかになってきたという。 図年代と文化の年表栽培型のムギ類が出現するのはPPNB中期頃、家畜の飼育が本格化するのはPPNB後期頃というのが、大方の見方であるという。大枠での時代の定義と実際の内容がうまく一致していないということになるが、農耕牧畜の起源を追究するのは簡単なことではなく、また想像以上に長い時間をかけて達成された過程であるとの認識が現在では支配的になっている。縄文時代に...西アジアの新石器時代再考

  • リジェネラティブ・リーダーシップ の指南書はどうなのか

    リジェネラティブ・リーダーシップという本が出ています。リジェネラティブの指南書としてはどうなのか 図 図 図これには現在のカレンダーが、地球と太陽と月の自然の関係を無視している事を知らない文明の基礎にあるこのカレンダーを用いている現代文明が、それでもこのような思考が出来るものなのだろうか。 引用します----ーーーーーーーリジェネラティブ・リーダーシップの指南書「機械」から「生命システム」へ――エコシステム全体の繁栄を目指す新パラダイムのリーダーが世界中で出現している。幅広い事例と学術的知見を統合して生まれた、今最も注目を集める「リジェネレーション」の実践書。「人と自然」「内と外」「男性性と女性性」の分離をつなぎ直し、生命システムを育むリジェネラティブ・リーダーシップのDNAモデル(デザイン×カルチャー×...リジェネラティブ・リーダーシップの指南書はどうなのか

  • 古代人のカレンダー

    古代人のカレンダーは何処で作られていたのか古代人は太陽の365日と月の30日を知れば、カレンダーを作る工夫をしたものと思うではそのためにどうしただろうか現代のようなカレンダーは古代人には難しくてとても作れないと思う古代人でも作れるカレンダーはどんなものだろうか文字も数字も計算も・・・知らなくても簡単に作れて、運用できるカレンダーとはどんなものなのだろうか 図縄文のカレンダー一番簡単なのは365日と30日を同期させるカレンダーであるそれなら何の知識も無くても作れるものであるその方法とは最大公約数を求めることであるこれで作れば運用もとても簡単にできる一年に一度、立春と立秋を観測して、二十四節気の暦を作り、同時にその時の月齢を観測して時計合わせすることだけで正確に保つことができる。古代史上でこのカレンダーを作っ...古代人のカレンダー

  • ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか

    灌漑農耕の発展、都市文明の発展、ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか 図ウバイド期には竪穴住居、貝塚、土器、石鏃、太陽暦が伝播していたと考える証拠がある紀元前5330年に鬼海カルデラ噴火による避難拡散が起こり、九州地域に居た海人族が丸木舟で逃げ出し彼らはメソポタミアにまで到達していた可能性があるのでは無いか。 図この時期の適当な年表が見当たりませんのでPPNB期にはメソポタミアの南地域にはまだ進出できていなかったが、既に灌漑農耕を手にしており、農地を拡大して、太陽暦に基づく播種時期を利用すれば、安定した農耕が可能であった。その後ウルク期、シュメール文明にまで発展することが出来た。さらにその後は歴史推移に見るように、多民族、多言語、多宗教の人々をまとめなければならず、強権的にならざるを得ない...ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか

  • ウバイドからウルクまで

    ウバイドからウルクまでの変化は太陽暦無しには考えられないウルクが都市化して社会が拡大した時カレンダーがあったのではないのかそれ以前は何時からカレンダーがあったのかウバイドでは灌漑農耕の農地を大規模化するのに、労働者を集めて作業するにもカレンダーが必要となる南メソポタミアに灌漑農耕で進出するウバイド期以後には、カレンダーがあったのでは無いかそれ無しには、人を集めて農耕地拡大も、大規模な灌漑農耕も出来無いはずである西アジアでの土器の発生、必要性分らないと云っている西アジアでの土器は、その必要性が分らないという容器は他にいくらでもあった、食事用にも困っていなかったようだ何故それなのに、粘土を成形し、焼成してという面倒な工程のある土器が、作られるようになったのかそれは特に必要は無かったと言うようだ栽培を初めて、農...ウバイドからウルクまで

  • メソポタミアの文明史

    シュメール文明までのメソポタミアの文明史は以下のような推移を示している。図西アジア肥沃な三日月地帯この地域はムギ類が野生で生えていたようだ。 図最古の農耕遺跡 図農耕牧畜西アジアの肥沃な三日月地帯では、何処でも野生ムギなどが生えていた。その中から適当なものを選択すれば良いという、大変恵まれた地域だった。野生のものが生えるのに従って、播きさえすれば栽培として成り立ったのだろう。 図各文化の位置シュメール文明の成立した土地はそれまでとは違い、野生のムギ類が自然に生えている地域とは違い、灌漑農耕が必要とされた。さらに播種時期がそれまでとは違い、太陽暦が必要となったのでは無いか。人を集めて広大な土地を開発して、播種して取り入れるという作業には、太陽暦は欠かせないだろう。それを成立させた遺跡も遺物も無いのはどうして...メソポタミアの文明史

  • メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのか

    メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのかメソポタミアでの各文化の年代はよく分らないところがある。ウバイド、ウルク、シュメール文明の人種はどのようだったのかシュメール人の起源が分らないとされてきた 図メソポタミアでの各地文化の年表ウバイドウルクシュメール各時期の人種がどのようだったのかよく分らないようだ記録が残るのは、ほぼシュメールからなので、それは解明できないようだそれにしても面白い記録がある様だそれはBC4000年ごろ、メソポタミアにおけるウバイド社会はシュメール人によるウルク文化が成立した。エリドゥからはBC4000年ごろの神殿の原型が出土している。それが新たな住民の到来によるものかどうかはまだ明らかではないが、現在はこの頃にシュメール人が東方から到来したという説が有力であるという。ものである人種は...メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのか

  • メソポタミアのウバイド以前の新石器文化の衰退はどのようにして再生したか

    メソポタミアのウバイド期以前の新石器文化は衰退していたウバイド期でどのようにして再生したか 図年表基本ウェブデータの列記です、纏めていません西アジアでは、農業誕生から続いていた農業文化の発展は前7000年紀に下降して衰退するのだが、この原因は人口過剰と気候変動(乾燥化)と天水・焼畑農法の限界であったと思われる。(記事「先史:文化の衰退~PPNB後期と土器新石器時代」)西南アジアの環境は壊れやすいものであり、人間集団がひきおこす一つまたは複数の要因(たとえば人口増加、森林伐採、耕地開発、動物の放牧など)が、さまざまな土地荒廃や植生後退、塩害、土壌侵食などの資源劣化をひきおこす。西南アジアの先土器新石器時代の遺跡が歴史時代まで存続した例はまれである。過去の研究によって土器新石器時代後半(前6千年紀前半)になる...メソポタミアのウバイド以前の新石器文化の衰退はどのようにして再生したか

  • メソポタミアでの栽培種の成立、農耕開始は何時からなのか

    メソポタミアでの栽培種の成立、農耕開始は何時からなのか栽培種はどのような操作で成立するのか太陽暦無しに栽培種の成立はあり得るのか野生種を育てても、カレンダー無しでは播種を何時すれば良いのか分らないはずである野生種が芽を出して育つのを見て、それを幾ら見詰めていても栽培種は成立しないはず栽培種を作るのは、野生種とは別に播種して生育させその中から適切な性質を持つ種を取り出してさらに暦に沿った播種と栽培を継続して初めて栽培種の成立となるはずで。カレンダーの存在下で播種し生育して、採種するこれを繰り返して行くことでは無いのかその経緯はメソポタミアでは明確にされているようには見えない。縄文時代には、7千年以前にカレンダーは手に入れていたここではシュメール文明に関して知識が無いので、専門家の述べている関連する記事を、以...メソポタミアでの栽培種の成立、農耕開始は何時からなのか

  • 縄文土器とは何だったのか

    文様が付けられた縄文土器とは何だったのか 図諸磯式土器前期前期までは特別仕様と日常使用の区別は無かったという話を聞いたそして中期になり粗製土器と精製土器の区別がされて、日用使用と特別な土器が分離したという。中期の火焔土器はその遺跡で出土する全土器の内の2%程度と少なく、大部分は日用の土器だった前期までの土器は量も少なく、ほとんどが特別仕様のものだったということではないか。そうだとすれば、前期までの土器とは、情報伝達と供献が主な用途だったのでは無いかそれはドングリの渋抜きなどに使用されていたはずも無く、煮炊きの鍋としての使用も無かったのでは無いかドングリの渋抜きは水に浸けて置けば簡単に食べられるようになったようだから石皿と磨石はドングリなどの粉砕に使用されて、粉砕したものは水に浸ければ渋抜きは簡単だったよう...縄文土器とは何だったのか

  • 縄文時代前期になぜ大集落? を形成できたのか

    縄文時代前期になぜ大集落が形成できたのか、生業がどのように変わることで、大集落を形成することが可能となったのか、これまでその理由は説明されていないと考える。阿久遺跡は、発掘によって遺跡のほぼ三分の一が調査されたが、全体像を伺い知るまでには至っていない。しかしそれでも、従来の知見を覆すほど前例の無い成果があった。多数の竪穴住居跡の他に、配石を伴う大規模な祭祀場跡が発見されたのである。八ケ岳周辺では縄文時代中期の大規模な遺跡は、井戸尻遺跡や尖石遺跡など幾つかは知られていたが、やや遡って縄文時代前期となると実体はよく分かっていなかったのである。阿久遺跡の調査から今日まで諏訪を中心とするこの地域では、縄文時代前期になると集落規模が大きくなり、塩尻市矢口遺跡では全国に先駆けて環状集落が形成されるなど、かなり発展した...縄文時代前期になぜ大集落?を形成できたのか

  • シュメール文明では何故同期するカレンダーを作らなかったのか

    シュメール文明では、何故簡単な同期するカレンダーを作らなかったのかシュメール文明は数学レベルも天文学も大変な高度知識を持っていたとされている。それなのにカレンダーを、何故簡単な365日と30日の最大公約数を用いた原理で作らなかったのか。 図同期するカレンダー縄文時代にはこのカレンダーを用いて、太陽暦の下で月齢を知り、中里貝塚のような干し貝工場を難なく稼働していた。 シュメール文明では態々難しい太陰暦を主とした太陽太陰暦を毎年作ったのか月の月齢周期は分るものの、一太陽年が365日ということを知らなかったのでは無いか。つまり冬至と夏至の中間の日、春分をカペラで確定するという知識しか持っていなかったため、春分をカペラで観測して、それに近い新月を年初として暦を作ったと云われていることである。これでは暦で毎年、最大...シュメール文明では何故同期するカレンダーを作らなかったのか

  • 曜日とはどのような原理をもとにして決められていたのか

    曜日とはその起源は何なのかどのような原理をもとにして決められていたのか西アジアから西では週は7,8とされていた様子が見えるがその起源は明確で無い何処からか伝え聞いて、それを使用しているというところなのかその原理は何なのか、原理は見えていない365と30の同期という思想は無いようだ貝塚が出来る貝採取という生業が無ければ、それは必要では無いからカレンダーは必要では無い人間の都合に合わせて作れば良いという思想である様だここには原理原則が何も無い、縄文時代のみがそれをクリアーできるそれは金生遺跡の観測施設が解明することになるここ以外世界の何処にも、今の所それを説明できる、原理を説明できる古代遺跡は無いようだ引用します----ーーーーーーー古代の1週間古代メソポタミアの「週」暦として1週7日という規定があったかどう...曜日とはどのような原理をもとにして決められていたのか

  • 138億年の物語 文明の始まり

    「137億年の物語宇宙が始まってからの今日までの全歴史WHATONEARTHHAPPENED?」 クリストファー・ロイド著、この中には古代文明開始までの最も重要な歴史が書かれていません古代文明開始に最も重要な事項、それは数認識の始まりはどのようだったのか、数学がどのようにして始まったのか、カレンダーはどのように太陽と月とを観測して原理が把握されたのか、137億年の物語にはこの肝腎な歴史がすっぽり欠けている。それで古代文明開始直前までの歴史縄文土器の記録から補足します。 図数概念、数学の始まりそれは4万年前から6千年前までの歴史東アジアで土器の発明から歴史記録が始まり月齢の暦、太陽暦が開発され、カレンダー作りの原理が発見されたそれとともに数学が開始された。日本列島にホモサピエンスが来たのは3.8万年前とされ...138億年の物語文明の始まり

  • 稲作または水田稲作の始まり ブリコラージュ

    初稿2025.02.232025.03.04弥生の変化を追加 稲作または水田稲作の始まりについてブリコラージュしてみる。稲作文化の広がり方から見ると、渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人が朝鮮半島を訪れ、水田稲作を知り、九州北部に持ち帰った可能性もある大陸から直接縄文人が持ち帰った可能性もある水田稲作は渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人が朝鮮半島から持ち帰った水田稲作の伝来ルートには、朝鮮半島経由のほかに中国直接ルートがあった弥生時代になっても、遺跡によっては、見渡すかぎりの水田風景が広がっていたわけではない イネには大きく3つの品種があります。温帯ジャポニカ(水稲)日本人が一般的に食べている米。水田で育つ熱帯ジャポニカ(陸稲)乾燥にも強く畑でも水田でも育つ。東南アジアに多いインディカ(タイ米)深い水田...稲作または水田稲作の始まりブリコラージュ

  • 縄文時代と金生遺跡の案内書を作る 2

    縄文時代と金生遺跡の案内書です 1.金生遺跡の立地北杜市全体が金生遺跡天文台の用地である茅が岳、笠無山、甲斐駒ヶ岳それに八ヶ岳と、富士山も借景として見える太陽観測はどうなっているか日の出は茅が岳立春、笠無山立秋日の入りは甲斐駒ヶ岳冬至何れも山のピークにその位置がある冬至は前後20程同じ位置への日の入りで変わらない暦の原点にならない冬至の日が分ることは暦があることの証拠である立春と立秋はその当日一日のみその位置から日の出暦の観測原点ところが現在のカレンダーではこの日付は毎年のように変化しているしかし縄文時代に設定された山のピークからの日の出位置は変化していない縄文時代のカレンダーと現代のカレンダーとではどちらが正しいか現代のカレンダーはカレンダー作りの原理を知らずに作られている2.現地に設置されている看板で...縄文時代と金生遺跡の案内書を作る2

  • 世界史の中の縄文文化

    初稿2023.02.052025.02.26古代文明の数概念の始め、数学の始めは縄文時代からであることを追加縄文時代の文化はこれまで、土器形式の変化を軸として示されてきた。文化内容に関してこの土器形式の変化と対応させて概観することはされてこなかった。しかも東アジアの土器の存在は、西アジアに対して先行する縄文時代の特筆すべき文化であった。縄文時代草創期からの文化と対照することにより、縄文時代を俯瞰して捉えることが出来ると考える。1.新石器時代の生業開発の歴史縄文土器には、旧石器時代後期から新石器時代の生業開発の歴史が記録されていたと考える。画期的な生業が開発される度に、それを記念して供献土器が造られ、生業開発ができたことを祝っていた。土器の開発はマメ類の採集のために編み籠では目漏れしてしまい容器として役に立...世界史の中の縄文文化

  • 鬼海カルデラ噴火で各地の遺跡はどうなったのか

    初稿2025.02.04鬼海カルデラ噴火で遺跡はどうなったのか主な遺跡について分っているもの 図年代鬼海カルデラ噴火の時期は縄文時代早期の末の時期7355年前のことである。 図鬼海カルデラ噴火の降灰想定 図遺跡の位置曽畑貝塚 図地層5860年から遺物が出ているので、この頃から人が住めるようになったてきたのだろうか。7355年前からここまで1500年の間は無人であった。東から新しい人が来ていた、西部開拓が始まった。 図位置東名遺跡の廃絶7355年前の鬼海カルデラ噴火により廃絶して、以後再興されなかった。 図位置鳥浜貝塚の壊滅 図遺物の年代7355年前から6126年前までの1200年の断絶福井県にあるので、鬼海カルデラ噴火より遠くで、噴火での降灰の影響は、九州よりは少なくなっていたはずでそれでもこれほどの影響...鬼海カルデラ噴火で各地の遺跡はどうなったのか

  • 水田稲作の始まり

    水田稲作の始まりの状況はまだよく分らないようだ 図貝塚の拡散図水田稲作は、鬼海カルデラ噴火で避難拡散したひとびとが大陸の東や半島の東で生き延びて、それは海に強い人々で、それ以前からの長い大陸との交流経験があり、最初はその人々が水田稲作を大陸から半島に持ち込み始めていたのでは無いかその時はまだ九州には住み着ける状況でなかった。それから3000年以上後になり、朝鮮半島の縄文人の末裔が、九州の縄文人から招かれて縄文人に水田稲作を伝えたのが始まりでは無いだろうか。九州での水田稲作の導入、弥生文化の入り方がどのようであったのかそれはよく分らないその始まりを想定するのに近畿圏の状況が分ってきているので、それとのアナロジーで考えてはどうか。水田稲作が始まったばかりの近畿を語るのが,長原式土器と遠賀川系土器との関係である...水田稲作の始まり

  • 暦開発の世界史

    古代からの暦開発の世界史 図カレンダー開発の歴史縄文時代には7000年以前に、太陽暦と太陰暦は開発されていたことが土器の突起に記録されいていた数により解明できる。1.縄文時代 図一太陽年365日と月の周期30日のシンクロカレンダー作成の原理を発見していたこのカレンダーは貝採取の生業のため開発されていた 図観測点 これはその他の古代文明とは一線を画するものであった。 2.西アジアから西の引用しますーーーーーーー世界ではじめて月と太陽の運行周期を体系化したのは、メソポタミアである。早くも紀元前3000年の時点で、19年を単位とし、そのうち特定の年を12カ月、別の特定の年を13カ月とおくことで、月と太陽の運行のずれを吸収した。一方、エジプトにおいては月と太陽の運行の関係は重視されなかった。これは一定の周期で氾濫...暦開発の世界史

  • 二十四節気の暦は何のために造られたのか

    二十四節気の暦は何のために造られたのか、縄文時代にはその必要性があった。 図縄文時代のカレンダー太陽暦と共に月齢を正確に示すことができる縄文時代には365日と30日の同期するカレンダーを作り潮干狩り、貝採取を正確な季節と正確な潮の満ち引きを知ることをが必要であった、その目的のために作られていた。それには先ず365日から182日の暦を作り月の周期が半年に6回であることを知ったこれにより潮の満ち引きを予測できるようになり、貝採取を村人総出で行えるようになり貝塚が作られるようになった。また182日から45日刻みの4分暦を作りだし、季節と季節の始まりを正確に知ることが出来るようになった。その後数学知識が深まり、45日を1/3とすれば15日となり、見事月の暦との同期が取れる事になった。これによりカレンダーが作られ太...二十四節気の暦は何のために造られたのか

  • 超巨大噴火はどれくらいの頻度で起きてきたのか

    超巨大噴火はどれくらいの頻度で起きてきたのか。ウェブからの情報纏め 図間氷期の年代海面高さは温暖化と相対するを示す超巨大噴火はどれくらいの頻度で起きてきたのか。日本列島では過去10万年の間に北海道の摩周、屈斜路、支笏、洞爺、青森の十和田、九州の阿蘇、加久藤、小林、姶良、阿多北、阿多南で起きたことが分かっている。平均すると1万年に1回ほどで、今後100年間に超巨大噴火が起きる確率は1%という試算もある。数字から受ける印象は人それぞれだろうが、あくまで平均や確率の数字であり、いつ起きてもおかしくないと考えるべきだろう。想定被害があまりに大きいことから、超巨大噴火のメカニズムや前兆の解明が緊急に求められる。霧島火山帯は、九州中南部の霧島を北端として南西に延びており、霧島山、桜島、鬼界カルデラ、口永良部(くちえら...超巨大噴火はどれくらいの頻度で起きてきたのか

  • 月と太陽と人の歴史と物語

    月と太陽と人の歴史と物語「月と人の歴史と物語」から思いついたので投稿した20000年前頃日本列島では月の暦が使われていたと考えるそれは次のことからの推察で。神子柴遺跡では100㎞を超える距離から人々は集って来て会合して様々な産地からの様々な石質の両面加工尖頭器を交易していたのかまた何が行われたものかはまだ明確にされていないものの、素晴らしい尖頭器が残されていた。またこの遺跡近くでは大量の神子柴型石斧が作られて、列島各地に分配されていた。このような会合を行うには太陰暦の存在が欠かせないものと考える。 16500年前頃土器の開発容器として使用すると共に情報伝達に使用されていた土器は思う形に成形できるので、石器などとは違い、縄文人の思う思考を造形していた。情報伝達のメディアとして利用し、生業開発の画期を記録して...月と太陽と人の歴史と物語

  • 縄文時代と世界の古代文明の大まかな年代の対比年表

    2025.02.12年表補足更新初稿投稿2022.02.01補足追加しました2022.06.182023.06.11年表を追加しました。2024.11.25年表ついかしました。 縄文時代早期、前期とシュメール文明とはどのような関係にあるのか適当な年表が無かったので各種年表を集めて適当に組み合わせてみた小さくてよく見えないので拡大縄文時代早期から前期までの時期は7500年前くらいになる世界文明の発生は縄文時代中期から後期初め頃に当たりそうということから、縄文時代早期に太陽暦と太陰暦が開発されていれば、シュメール文明初めまで2000年ほどの時間があるので、どうなるのでしょうか。2023.10.13追加しました2024.11.25文化史年表を追加しています。 2023.08.20お借りしました縄文時代の時期がよ...縄文時代と世界の古代文明の大まかな年代の対比年表

  • テスラ “20世紀を発明した男”

    テスラは多くの人から、“20世紀を発明した男”と呼ばれているそうです発明王エジソンと並んでニコラ・テスラという物理学者をご存知ですか?イーロン・マスクが経営する自動車会社「テスラ」は、ニコラ・テスラの名前にちなんだものだといいます。これまで、発明家というと、白熱電球や映画を生み出したエジソン、電話を作ったベルなどのほうが圧倒的に知名度が高かったが、近年、ニコラ・テスラへの注目度が急激に高まっているそうです。テスラがマンハッタンのニューヨーカー・ホテルで孤独に世を去ってから、およそ80年という時間が流れて初めて、誰がいちばんすごい発明家だったかようやくわかる時代となったようです。発明王エジソンの最大のライバルでしたが、時代をあまりにも先取りしすぎたため、周りから理解を得られず異端視された物理学者だったという...テスラ“20世紀を発明した男”

  • 千葉県の歴史 縄文時代早期末に突然遺跡数が増えたのは

    縄文時代早期末に千葉で、突然遺跡数が増えたのはなぜなのか 図遺跡数の推移京葉地域における遺跡数の推移は早期末に異常なほど増加しているその数は中期に相当するような増加であるこの理由は何か何か特別な理由があるかも知れないこともありうる 図ところでこの時期に起きたイベントとして鬼海カルデラ噴火があるこの噴火で西日本はほぼ壊滅しているこの図に現れたような、これほどの異常な遺跡などの増加は通常のイベントとしては考えられないと思う現在まで西日本の前期以降の遺跡の状況について整理されているものは目にしていないのであるがここで初めてそれに関係すると思うものが見つかった図はお借りしましたhttps://imoduru.blogspot.com/2018/01/blog-post.html芋づる式読書のメモブログ花見川流域を...千葉県の歴史縄文時代早期末に突然遺跡数が増えたのは

  • カレンダーの作り方をもういちど

    カレンダーの作り方を知っていますか、もういちど考えてみましょう立春を年初、一月一日として、月齢は曜日としている 引用しますーーーーーーーファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。一番大きな障害は、新石器時代には文字がなかったことです。文字(記号)がないと、100以上の数の概念が生まれません。ピタゴラスの定理には掛け算か、あ...カレンダーの作り方をもういちど

  • 金生遺跡 立春の日の出

    金生遺跡での日の出は立春当日2025.02.03は曇天で日の出は一切見えませんでした。残念でしたが、翌日2.04は快晴となり、この冬一番の寒さでしたが日の出撮影が出来ました。 日の出前の甲斐駒ヶ岳鋸岳 富士山 日の出前の茅が岳 日の出茅が岳ピークの左側からということで一日前の立春はピークからとなっていたはずです。一日遅れでしたが、素晴らしい日の出を見ることが出来ました。オウ体験でした。 立春を一月一日としてカレンダーを作れば、現代のカレンダーのように日付が年ごとに変動することは無いはずです。縄文時代のカレンダーなら10000年前から日付は変わっていないはずとなります。カレンダーは極簡単になります。太陽と地球の関係は変化していないことが照明できるのでは無いでしょうか。現代のカレンダーは太陽暦としては間違って...金生遺跡立春の日の出

  • 水田稲作の導入の遅れは何故なのか

    農耕の進展については、草創期には西日本では無文土器に続いて豆粒文土器が作られていた鳥浜貝塚は早期初めから存在してそこにはいくつかの栽培種が存在していた特に鳥浜貝塚他にもヒョウタンなどがあり、それは西アフリカからもたらされたもので、草創期を通じて交流が行われていたのでは無いか。7355年前の鬼海カルデラ噴火により早期末に、一旦廃絶した鳥浜貝塚では原種アズキが見付かっていた縄文土器の起源は無文土器に始まり、豆粒文土器であった東日本では、マメ類が土器に練り込まれていたことから、前期にはマメ類の栽培種が現れていたことが分っている。これは鬼海カルデラ噴火により西日本からの避難拡散による伝来では無かったのか。 図年表縄文時代晩期までの水田稲作の導入の遅れは、鬼海カルデラ噴火で西日本が壊滅することにより、西アフリカまで...水田稲作の導入の遅れは何故なのか

  • 節分の日 金生遺跡 雪

    節分の日立春前日金生遺跡には雪が降っていて、山は白く霞んでしまい、日の出は見えなかった。 西から東を見る東から西を見る1.雪の日の配石2.住居跡住居跡を示す石組は、正方形をしていて、建物は壁立ち家屋であるという。正方形からは、直角三角形を持っていたと考える。計算は石ころでとすれば、アルキメデスの3平方の定理は、簡単にできるので、知っていたものと考える。関係を示す土版も出ている。節分の日金生遺跡雪

  • 数概念の発生

    古代文明史上において、数概念の発生は何処なのか数認識の初めは縄文時代からでは無いか 図突起土器縄文時代には、突起土器という特殊な土器が発生していて、数認識が始まっていたことを示しているこれは世界のどの古代文明よりも早いと考える 図古代文明の対比年表古代文明との対比3突起土器が縄文時代中期にならないと造られないということは突起土器の数列は特殊な数の暗号を示していると考える数学は古代文明史上において、日本列島から始まっていたものと考える図はお借りして補足しています数の日本史伊達宗行数概念の発生

  • 古代文明の起源

    古代文明起源のイメージ古代文明はいかにして始まったのかを整理してみる。1.20000年前頃月齢の暦は神子柴遺跡の時期までには始まっていた数概念の把握2.11000年前頃石棒と山のピークで一太陽年の観測金生遺跡太陽暦は縄文時代早期に成立2突起土器サケの遡上回帰漁365の数学の始まり3.半年6回の月の暦6突起土器貝採取の始まり、貝塚形成4.半年4分割の太陽暦4突起土器立春、春分、立夏、夏至立秋、秋分、立冬、冬至半年一年暦、2倍年暦 5.7355年前世界最大のカルデラ噴火鬼海カルデラ噴火、西日本の縄文文化消滅、滅亡西日本から避難拡散する東日本、朝鮮半島、大陸東、世界各地へ朝鮮半島東、大陸東に貝塚出現 6.7000年前頃から世界各地の古代文明が始まる東日本の縄文文明縄文時代前期から農耕開始シュメール文明カペラと春...古代文明の起源

  • 鬼海カルデラ噴火による滅亡

    鬼海カルデラ噴火による西日本の滅亡 西日本は7355年前の鬼海カルデラ噴火により西日本の貝塚などが壊滅していた、生態系も壊滅していたのではないか 図年表 図鳥浜貝塚の壊滅 図東名遺跡の廃絶 図曽畑貝塚噴火後 図人口推移 図縄文の国々西日本は照葉樹林ではあるがこの低迷は降灰による自然破壊の影響があると考える西日本の土器様式の発展の少なさが際立つこれは鬼海カルデラ噴火により西日本が30センチ前後の火山灰に覆われた事による自然破壊で住環境が失われていたことが原因では無いか 図貝殻造形の土器内陸ではこのような貝殻文の土器がでいる、諏訪、群馬、埼玉など各地から。これらの出来は、西日本から避難移住した人々により作られたものでは無いか。鬼海カルデラ噴火による滅亡

  • 金生遺跡と縄文時代のご紹介

    金生遺跡においての縄文時代のご紹介です改訂版金生遺跡はこの立地が大切でこの立地に立てば縄文時代が理解出来るのです遺跡の入り口に立てば太陽暦の起点が分る立春日の出茅が岳のピークから、立秋笠無山のピークからの日の出冬至日の入り甲斐駒ヶ岳のピークへこれは現在のカレンダーで日付が変わってもここで見るそれぞれの山のピークからの日の出は位置は変わらない現代のカレンダーは太陽暦では無いことを明らかにしている 図金生遺跡村復元図金生遺跡の村は建物が壁立ち建物です。このような建物が周囲に38棟あったようです。建物はほぼ正方形をしているので、直角三角形を知っていたものと考えます。 図竪穴住居の村普通縄文遺跡では竪穴式住居という地面に穴を掘って屋根を掛けた円錐のようなものでこことは全く違っています。この村は特殊な村だったようで...金生遺跡と縄文時代のご紹介

  • 立春 縄文時代の太陽観測の暦の原点

    図日の出とカレンダー観測点 立春縄文時代の太陽観測の暦の原点でそれは立春は茅が岳のピークからの日の出で、この位置は縄文時代以来10000年前から変化していないと信じうる太陽暦の365日と月の周期30日の最大公約数は15日これをベースに作られたカレンダーは太陽と地球の関係が変化しない限り変化しない縄文時代のカレンダーは、現代のカレンダーのように日付は変動しない。曜日は月齢を正確に反映している。 現代のカレンダーは太陽暦では無い太陽が星の間を移動することを精密に観測して作られている何という無駄をしているのか、この計算にどれだけのエネルギーの無駄を費やしていることか二十四節気(にじゅうしせっき)は、今でも立春、春分、夏至など、季節を表す言葉として用いられています。1太陽年を日数あるいは太陽の黄道上の視位置によっ...立春縄文時代の太陽観測の暦の原点

  • 縄文遺跡で立春の日の出を見る会のご案内

    山梨県立文学館講堂にて縄文文化発信会議設立記念シンポジウムがあり代表理事長澤宏昌様にご案内いたしました縄文遺跡で立春の日の出を見る会のご案内縄文時代の立春2025年2月3日には、茅が岳のピークからの日の出が見えます。金生遺跡を中心として、北杜市全域の地形茅が岳、笠無山、甲斐駒ヶ岳などが太陽観測天文台を形成していて、金生遺跡は二十四節気の暦太陽こよみ観測施設であることが分ってきました。「4500年前の金生配石祭りに集まった縄文人のように日の出を迎え」日の出を見ることでオウ体験をしましょうという祭り!!朝活は縄文時代の立春は二十四節気の暦通りで2月3日6時40分頃から7時30分頃まで遺跡現地です。主催金生遺跡を世界遺産にしよう会ここでのこれまでの観測記録の内容は、ブログにありますhttps://blog.go...縄文遺跡で立春の日の出を見る会のご案内

  • 日本列島への水田稲作の伝来の遅れは何故か

    日本列島への水田稲作の伝来の遅れは何故か 図日本列島への稲作の遅れ安田喜憲によれば、日本列島への農耕の伝来が世界標準から見て遅れたのは西日本の人口が少なかったことが原因とされているようだ 図水田稲作の開始河姆渡文化(河姆渡遺跡)中国浙江省の河姆渡遺跡から水稲の籾が大量に発掘されており、最古級の水稲稲作と推定されています。この遺跡は、紀元前4500年頃の時期に該当します。更に遡って、紀元前7500~5000年頃の時代の稲作の遺跡が、彭頭山遺跡から見つかっています。 図水田稲作の伝来このように古くからの稲作がなぜ日本列島に伝来するのが遅れたのか鬼海カルデラ噴火による西日本の壊滅それも海を渡る人々の移住壊滅東日本への移住西日本ではそれまでの大陸への渡航人口が無くなり交流が途絶えたのではないかその後東日本では、縄...日本列島への水田稲作の伝来の遅れは何故か

  • 鬼海カルデラ噴火で起きていたことの真相

    鬼海カルデラ噴火で起きていたこと、その真相はほぼ5000年間の空白と言うことになるそれほどまでの災害であったのに、 図年表この噴火は7355年前に発生してこの10000年前からでは世界最大であったというように西日本は弥生開始まで縄文文化は失われていた縄文時代と云うのは東日本のことで西日本には数えるほどのキャンプしか無かった 図ケツジョウ耳飾りこれから分るように現在の認識は何故西日本に無いのか疑問と言うだけで考古関係者は鬼海カルデラ噴火による西日本の壊滅を認識できていない 図縄文時代の遺跡西日本には数えるほどしか無い 図土偶土偶は前期から作られるようになったもので西日本には存在しなかったということは、西日本は前期以後に発展していないことを示している 図土偶の全国分布西日本は存在しないので端折られている。 図...鬼海カルデラ噴火で起きていたことの真相

  • 西日本と東日本の縄文時代前期以後に生じた格差の原因は何か

    西日本と東日本の縄文時代前期以後に生じた格差の原因と稲作など農耕の遅れは何でか 図降灰範囲7300年前頃に鬼海カルデラ噴火があった正確には1995年を基準として7325年前とされている今年2025年からは7355年前となる。引用しますーーーーーーー7300年前の鬼界カルデラ噴火、過去1万年で世界最大と判明、鹿児島沖海底の堆積物の調査などから噴出量を高精度で推定、火砕流は40キロ以上広がる2024.04.10https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/040400191/この降灰により西日本は壊滅的打撃を受けることになった。住民の多くは避難したのか、それまでの居住地はほぼ滅亡していた主な遺跡としては東名遺跡の廃絶、鳥浜貝塚の壊滅、その他この廃絶は鳥浜などからでは、1...西日本と東日本の縄文時代前期以後に生じた格差の原因は何か

  • 東アジアの貝塚発生

    東アジアの貝塚発生は何故始まったのか図東名遺跡この中に次の東アジアでの貝塚発生について纏められていて、年代記載がありました。 図東アジアの貝塚ここには7000年前頃から形成されていたという。縄文時代の貝塚は、早期に6突起土器が造られ、半年6回の朔望周期が分るように成って干満が予測できるようになってからである 図東名遺跡変遷図この変遷図は100年のような年代精度があるものとして記載されているが、この精度はとても信じられない。東名遺跡の廃絶は7300年前の鬼海カルデラ噴火による滅亡ないしは逃避によるものではないかと考える。鳥浜貝塚も7300年頃のこの時期滅亡していた。このような状況から、東アジアの朝鮮半島から大陸側の貝塚発生は、この噴火により九州や日本列島からの逃避、鳥浜貝塚などからの人々により始められたもの...東アジアの貝塚発生

  • 鳥浜貝塚と鬼海カルデラ噴火について

    鳥浜貝塚と鬼海カルデラ噴火について7300年前頃とされていますその根拠となるデータはよく知りませんでした鳥浜貝塚は縄文時代早期から前期までの遺跡であるという。鳥浜貝塚は鬼海カルデラ噴火の影響により人が住めなくなったのでは無かったかこれまでこのデータは管見の限り、何処からも出ていなかったと思います図計算方法 図測定結果対象部分を取り出し補足しました。「鳥浜貝塚」小島秀彰から 鳥浜貝塚の分析結果を見ると7300年前頃から6200年前頃まで断絶があるほぼ1000年間と云う長期であるこの断絶はサンプル選定による異常なのかここの遺跡では層別の年代分析が出来る事が特長ですから1000年間なので、サンプル異常では無いのでは無いかそうだとすれば鬼海カルデラ噴火の影響によりこの間の遺物が無かったと云うことになる、人の住まな...鳥浜貝塚と鬼海カルデラ噴火について

  • カレンダー、太陽暦などの始まり

    カレンダー、太陽暦などの始まりと数学の始まり数概念の発生について数概念と数学の始まり数概念について次のように言われています引用しますーーーーーーー一番大きな障害は、新石器時代には文字がなかったことです。文字(記号)がないと、100以上の数の概念が生まれません。ピタゴラスの定理には掛け算か、あるいは面積といった概念が必要となりますが、はたして新石器時代の人はこういった概念を必要としたのでしょうか。必要のないところに発明や発見は生まれないと思われます。ーーーーーーー終わり縄文時代には大方の見方として、文字はありませんでした。しかし突起土器に見えるように、数概念があったことは推測できます。 図突起土器この突起土器の示す数列を見ると不思議なことに縄文中期まで3、5、7、が欠けていますこれから見てこの突起土器の示す...カレンダー、太陽暦などの始まり

  • “量子もつれ”その存在が証明され、ノーベル賞に輝いたのは2022年のことだった。

    “量子もつれ”その存在が証明され、ノーベル賞に輝いたのは2022年のことだった。天才・アインシュタインが「オカルトだ」と否定し、現在も数多の数学者・物理学者たちが「なぜ起きるのか、理解が難しい」と話す“量子もつれ”。いかなる遠隔地でも繋がる量子の奇妙な性質「量子もつれ(Entanglement)お借りしました歴史経過歴史経過についてウェブ情報を集めて、それをお借りして纏めてみました“量子もつれ”その存在が証明されるまでの困難な道のり。アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス-Wikipedia量子力学が一応の完成を見たとされる1930年からわずか5年後の1935年、「EPR論文」とよばれる有名な論文が発表されている。それは、「量子もつれ」を用いて、量子力学が「不完全な理論」であると指摘するも...“量子もつれ”その存在が証明され、ノーベル賞に輝いたのは2022年のことだった。

  • 数学の必要性は何だったのか

    古代に於いて数学の必要性は何だったのか1.数概念の初め図小林達雄の「縄文土器の研究」からお借りしました数認識は指で差すことから始まったとされる。 図環状ブロック群の石器めぼしいものは片手でも余りそうな数の石器と少ないようだ。2.この日常レベルの数を超えるものは何か 図神子柴遺跡の石器の集散と会合図神子柴型石斧の全国配布神子柴遺跡のような遠距離からの集散や会合を示す遺跡は全国に幾つもある集散や会合を行うには、集合日を共通認識する事が必要。何を以て期日を決めていたのだろうか。それには月齢の暦が必要で、それがあったと想定するほかないのではないかこの時期には月齢の暦30という数の認識が有ったのでは無いかこれ以外に遠距離からの会合を可能とする方法はあるのだろうか。3.直角三角形 図3,5,4の土版これは数を単に示し...数学の必要性は何だったのか

  • 国民の富を増やすためにやってほしい

    2024.07.11追加しています。 公共財を増やすこと、教育から医療・・・高速道路、各種安全施設増税では国富は増やせない今人口が一番多いとき、今仕事が一番出来るとき、毎日今日が一番人口が多い日。今やっておくべき事、今の時間を逃したら、これから人口減少するので・・・そこに赤字国債発行 赤字国債のみが国民の富を増やすもの国富は貨幣量で決まる赤字国債とは貨幣発行、貨幣発行は国しか出来ない赤字国債により、子供や孫に生産手段のベースとなる全ての社会資産を残すことが出来る税金は国民を貧困化するもの『石破茂首相「まさか次世代に借金送りするわけじゃないですよね?」103万円の壁議論に「バナナの叩き売りじゃない」石破茂首相が28日、日本テレビ「ウェークアップ」に出演。国民民主党が主張する「103万円の壁を178万円まで引...国民の富を増やすためにやってほしい

  • 数の概念はどのようにして生まれてきたのか

    数学の進化過程を遡るホモサピエンス4万年の数学歴史数の概念はどのようにして生まれてきたのかシュメールまでの数認識始まりの歴史は未だに霧の中にある図数認識の始まりについて「文明の始まり=数学の歴史の始まり」数学史―数学5000年の歩み―単行本?2014/11/22中村滋(著),室井和男(著)この本の書評を見たことから後期旧石器時代、この時代こそ、私たちの祖先ホモ・サピエンスが海を越え日本列島に到来・定着した時代とされている。ホモ・サピエンスは30万年~20万年前にアフリカで誕生し、8万年~5万年前にアフリカから世界中へ拡散を開始します。約4万5千年前にはヨーロッパや中央アジア・オーストラリアへ到達し、約3万8千年前に朝鮮半島から海を越えて日本列島へ到来したとされている。日本列島の数学の始まりはどのようだった...数の概念はどのようにして生まれてきたのか

  • 現代のカレンダーが何故月齢を無視しているのか

    現代のカレンダーが何故月齢を無視しているのか、不思議なので少し考えて見た。カレンダーがありながら、実際に月を観測しなくては月齢が分らない、この状況、カレンダーは何故月齢を無視しているのかそれは暦で月齢表示して、それを基に生業を行う必要性が無くなってから作られたと理解するしか無いのでは無いか。月齢が社会的に重要で無くなった時期に作られたからだと考える。つまり太陽暦が社会的に重要となり、それに基づいて生業がされるようになってから作られたと言うこと農耕開始してそれが生業として重要になってからであるということになるそれは狩猟採集からかなりの時間が経過してからとなるのでは無いか西アジアで考えれば、農耕が10000年前以降に開始されて、シュメールで作られたとすれば、3000年以上経過していることから、納得出来るのでは...現代のカレンダーが何故月齢を無視しているのか

  • 暦作成の原理

    暦作成の原理どうもこれまで提示されていないようなので、提案してみた太陽と月の周期を基にして、カレンダーを作るにはどうすれば良いのか一太陽年365日一ヶ月30日カレンダーを作るには太陽と月の周期、この数字の最大公約数を求めれば良い365/1524.333333333333333333333333333333333333333329.5/151.96666667これからほぼ24と2の数値が得られることから近似値として、15として良いのでは無いか。15日刻みの暦で、太陽と月の暦はシンクロできることになる。これは二十四節気の暦である、これで月の周期と同期できることになる誤差は観測で時計合わせする古代人の暦はこうして作られていた。現在のカレンダーは月の周期も地球の公転も無視している、太陽の動く星の空間をベースにして...暦作成の原理

  • 神子柴以来20000年の日本列島の暦開発の歴史まとめ

    神子柴以来20000年の日本列島の暦開発の歴史をまとめてみましたこれは世界古代文明史の中で日本列島で初めてカレンダーが開発されたことを示すものです。神子柴以来20000年の日本列島の暦開発の歴史まとめ

  • 金生遺跡で「冬至の日の出と日の入り」を見よう会 ご案内

    金生遺跡で「冬至の日の出と日の入り」を見よう会のご案内です幸11月7日は天候に恵まれ、ダイヤモンド茅が岳を見ることができました。冬至は甲斐駒ヶ岳の峰に日没するとき、ダイヤモンド甲斐駒ヶ岳となるのが見えます。今年は天気が曇りや雨が多く、日の出を期日に見ることがなかなか出来ませんでしたが、快晴でしたらお出かけください。 冬至日の入り 縄文遺跡で「冬至の日の出と日の入り」を見よう会ご案内金生遺跡は北杜市全域を太陽観測の天文台としており、金生遺跡の配石はカレンダー作成のための施設であることが分ってきました。朝活は冬至日の出12月21日6時30分頃から7時30分まで遺跡現地です夕活は冬至日没12月21日15時半ころから16時半ころまで遺跡現地主催金生遺跡を世界遺産にしよう会これまでの観測記録の内容は、ブログにありま...金生遺跡で「冬至の日の出と日の入り」を見よう会ご案内

  • 新石器時代の日本列島で開発した文化

    丸木舟による日本列島広域交通図黒曜石の拡散 図翡翠の拡散図オオツタノハ貝輪から見える南海からの舟運九州の東名遺跡から北海道まで分布する図神子柴型石斧の日本列島内配布図神子柴遺跡への石斧と両面加工尖頭器の集散。100キロメートルを越えての会合には、太陰暦の存在があったはず。 図古代文化史年表弓矢と石鏃の拡散、日本列島発祥らしい、開発経緯が記録されている。西アジアより西ではマドレーヌ期に現れていて、石鏃の製作技術から考えても、日本列島から遅れていたようだ。 図撚糸文土器から見える魚釣り技術の拡散、関東の海辺が中心である。 図数字の造形世界古代文明で初めて突起土器で数を表す。数概念の始まりと図数字の造形世界古代文明で初めて突起土器で数を表していた。数の概念と数の認識は世界古代文明で最も早いのではないか。新石器時代の日本列島で開発した文化

  • 日本列島とギョベクリテペ、ストーンヘンジの比較

    日本列島とギョベクリテペ、ストーンヘンジの比較図神子柴遺跡との歴史年代の比較です 1.神子柴遺跡から知ること図神子柴遺跡での遠距離からの会合と集散神子柴型石斧と両面加工尖頭器などの列島内移動これだけの石器の100キロメートルを越えての集散と移動、集合には月齢の暦の存在無しに可能になるとは思えない。刃部磨製石斧の存在があり、丸木舟による海外への進出と、帰還も想定できる2.ギョベクリテペは1万2,000年前に作られた人類最古の神殿とされている現時点で、ギョベクリテペ遺跡は、「人類最古の神殿」だとか「人類最古の聖地」だと言われている。紀元前8,000~9,000年前に建てられたと推定され、つまりは約1万2,000年前に作られた神殿であるとの想定される。ギョベクリテペ遺跡には、T型のトンカチのような巨大な石柱が円...日本列島とギョベクリテペ、ストーンヘンジの比較

  • 新石器時代の海外進出

    新石器時代の海外進出1.神津島日本列島では旧石器時代から石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていた。石槍や石鏃などの利器にとって最も優れた石材で、かつ原産地が限定される黒曜石やサヌカイトは、既に広域に亘る物流網が敷かれていた。旧石器時代から遥か東海の海上にある神津島・恩馳島から、長野県の八ヶ岳東麓の野辺山で営まれていた矢出川遺跡にまで運ばれていた。上水内郡信濃町の野尻湖遺跡群の後期旧石器時代(約3.5万~1.2万年前)を通して、和田峠産のみならず、青森・秋田産や神津島産の黒曜石が、持ち込まれていた事実が明らかになった。長野県埋蔵文化財センターが発掘した石器1点が、神津島産であることが沼津工業高等専門学校の望月明彦教授の分析によって判明した。実に300kmの遠隔地である。また野川最上流部の武蔵台遺跡から...新石器時代の海外進出

  • 数学はどのようにして始まったのか

    古代史の中で、数学はどのようにして始まったのか各種資料から寄せ集めてブリコラージュしています。図初期からの年表 図縄文時代の年表1.上部旧石器時代前半期」(EUP) 図環状ブロック群通常遺跡から出土する石器は、ある程度のまとまりをもって分布することが知られており、そのまとまりを「ブロック」と呼ぶ。このブロック同士は、石器の素材である石材の共有などを通じて有機的なつながりを持つ場合がある。これをユニット**またはブロック群という。群馬県赤城山麓の下触牛伏遺跡では、ブロックが径約50mの円形上の環状ブロック群であることが初めて確認された。その後、環状ブロック群は関東地方を中心に日本各地で発見されている。北海道、琉球列島を除く日本列島のほぼ全域に認められている。このようなものは西アジア以西ではこの時期現れていな...数学はどのようにして始まったのか

  • 今までの縄文観をアンラーニングする

    中里貝塚の最後にはこのような文が付けられていた。これは2004.01.に記載されていた。既に20年前である。哲学や指針は必要ないと考える。足らないのは世界の古代史の中で、日本列島に残されてきた歴史が、どのような位置にあるのかを知りたい。 欠けているのは、これだけの先行する日本列島の古代史が、世界の古代文明史の中で、どんな意味を持つものなのか。日本列島の新石器時代が、縄文時代が、メソポタミア文明から10,000年以前から先行していながら、古代文明の発展にどんな影響を与えていたのか、縄文時代の発明品は何なのか。欠けているのは、日本列島の歴史と世界の歴史が結びつけられていないこと。神子柴遺跡の石斧と両面加工尖頭器の長距離の移動と会合には月齢の暦の存在があったのでは無いか。しかもそれはギョベクリテペ遺跡より100...今までの縄文観をアンラーニングする

  • 剥離尖頭器と両面加工尖頭器の優劣

    剥離尖頭器と両面加工尖頭器の優劣はどうだったのか図年表ホモサピエンスの歴史西南アジア、メソポタミアでは10,000年前でも剥離型尖頭器を使い続けていた日本列島では20000年前頃には剥離型尖頭器の次の進化、両面加工尖頭器を作っていたそれはサケ漁という、遡上回帰漁という特殊な短期間、期間限定の漁のために作られたものと考える高度な加工法である石器であるものの、汎用性があるものでは無いようだ剥離型尖頭器は加工の手数が少なく、効率的に作れるものであるそれに対して、両面加工尖頭器は加工手数が膨大で、石材ロスも膨大なものであるメソポタミアは石材は輸入に頼り、石材ロスは極力抑えたいところだったサケ漁のような短期間に高頻度で使っても耐久性が高いものとして、両面加工尖頭器は優れていたものと思うしかし普通の猟ではこんな高頻度...剥離尖頭器と両面加工尖頭器の優劣

  • 北海道・北東北の縄文人が季節ごとに変化する資源に対応してどのような行動をとっていたか

    北海道・北東北の縄文人が季節ごとに変化する資源に対応してどのような行動をとっていたか、それを説明している論説に出会った。陸奥湾内で冬に行われたマダラ漁に注目したいと思う北海道・北東北の縄文人が季節ごとに変化する資源に対応してどのような行動をとっていたか、構成資産の遺跡群では生業の季節性を復元する研究が進められている(樋泉2006、三谷2017、御所野縄文博物館編2021)。これについて纏めてみます。山菜や堅果類といった旬の時期が定まっているものは、一定程度集中的な採集活動を行い、余剰分は保存加工したうえで厳しい冬の季節にもそれらを消費していたことが推定されている。また、哺乳類や鳥類、魚類については、対象種それぞれが行う越冬や繁殖行動、産卵のための接岸など固有の生態や習性を的確に捉えて、捕獲に適した時季に狙...北海道・北東北の縄文人が季節ごとに変化する資源に対応してどのような行動をとっていたか

  • 新石器時代の数学の歴史

    新石器時代の数学の歴史が見えてきた1.神子柴遺跡から見える数学の始まり神子柴型石斧の生産はどのようなものか図100キロメートルを越える移動と集散神子柴遺跡付近では全国に拡散するほどの多量の石斧を、石材産地で作っていたと思われる 図神子柴遺跡の石器類図尖頭器の集合神子柴遺跡は石斧、両面加工尖頭器などの各地の石材産地で作られた石器類の集散地では無いか、このような集散地は列島各地にもあったようである。こうした100キロメートルを越える会合を可能にするためには月齢のこよみが使われていたのでは無いだろうか月齢のこよみ無しにそのようなことが可能であるとは思えない、月齢のこよみが存在したのではないかと思うそうであれば少なくとも月の満ち欠け、月齢を数えるだけの知識があったと考えるそれには30と言う数を扱えたと成るのでは無...新石器時代の数学の歴史

  • 新石器、土器新石器時代の進展

    新石器、土器新石器時代の進展はどのように行われたのか1.新石器時代とは図両面加工尖頭器両面加工尖頭器を作る技術が開発され石材産地での専門加工業者による生産が始まった。図神子柴型石斧神子柴近くで生産された定型は、石器の集散地成立、石斧は列島内に拡散図尖頭器の移動30までの数学があり、月齢、月のこよみを持つので100キロメートルを超えて移動集合が出来る図磨製石斧神津島の黒曜石が日本列島にもたらされていた丸木舟を持ち、月齢こよみがあるので、日本列島から海外に移動集合できるようになった図オオツタノハ貝輪オオツタノハ貝輪が南海方面から移動して、関東を中心に富山にも、また北海道まで拡散していた2.土器新石器時代・生業開発の歴史が、土器をメディアとしていわゆる縄文模様として表され、生業開発の画期を土器に記録して残した図...新石器、土器新石器時代の進展

  • 中期から後期にかけた、貝塚の大発展

    中期から後期にかけた、貝塚の大発展は何故起きたのか図縄文海進東京湾を中心にして東側では後期に貝塚が爆発的に増加していた図一例市川の貝塚の分布これにだけ大きく増加したことは、何らかの技術革新があったのでは無いか 図中里貝塚東京湾西側では巨大貝塚が作られていたカキ、ハマグリの採取と処理の大工場が成立その廃棄された貝である貝は貝採取の最適時期に採取して、それも大きなものだけだった。この採取時期は現代の貝採取時期と変わらないことを示しているそして採取して処理していた量は、地域や自家消費を遙かに超える大量なものだったことから、製品は内陸と交易が行われていたとされているここからも何らかの技術革新があったと考えなくては成らないではそれは何だったのかこの時期は中期寒冷化の時期だった内陸に住む人々が海辺に降りてきた時期では...中期から後期にかけた、貝塚の大発展

  • 貝塚は早期に始まり、後期頃大発展したのは何故か

    貝塚は早期に始まり、後期頃大発展したのは何故か1.月のこよみによるもの神子柴遺跡の時期には100キロメートルを越える距離でも、移動と会合が可能となっていて、月齢30日のこよみを扱えるようになっていた。しかしこのこよみは、人の移動や会合には役だったものの、潮の干満を予測して、集団で貝を採取して、貝塚を作るまでの知識には成らなかっただろう。2.定住が安定して、一太陽年が365日と分かり、太陽暦の糸口が得られた。 図6突起土器数学のレベルから365日という大きな数は、そのままでは扱えなかったので、365/2182日をベースに半年の月の周期が6回で有ることが分かる。それにより海の干満を予測出来るようになり、干潮に合わせて集団で貝採取を行うことで貝塚が形成できるようになった。太陽暦半年182日から半年四分暦を簡単に...貝塚は早期に始まり、後期頃大発展したのは何故か

  • カレンダーの存在を示すハマ貝塚・中里貝塚の衝撃

    カレンダーの存在を示すハマ貝塚・中里貝塚貝採取はカキとハマグリでサイズも時期も決まっていたという衝撃の事実 図中里貝塚「ハマ貝塚」とは何か?「ハマ貝塚」のハマとは浜のこと。そして「ハマ貝塚」の特徴はその規模が極端に大きいこと。ちなみにその極端に大きいその規模とは、代表的なのは東京都北区上中里にある『中里貝塚(なかざとかいづか)縄文時代中期中ごろ~後期初め』ですが、なんと長さが1km以上、幅が70~100m、そして貝層の厚さは最大で4.5mもあるんです そしてほとんど貝殻だけで出来た中里貝塚、貝採取は時期と大きさが決まっていること、「ムラ貝塚」加曽利貝塚などではサイズも貝類も雑多であるが、それとは遺物内容も異なり生活ゴミが殆ど出ていない。またそれを裏付けるかのように「ハマ貝塚」の周囲には竪穴住居跡もみつかっ...カレンダーの存在を示すハマ貝塚・中里貝塚の衝撃

  • 関東、千葉の貝塚は後期に大発展している

    関東、千葉の貝塚は後期に大発展しているのは何故なのか中里貝塚も同時期で、季節を知り貝の時期に採取していた北海道までこの時期貝塚が到達していたこれはカレンダーが存在していたものと考える。 加曽利貝塚とはウェブ情報からまとめているアブストラクト 千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れている北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)、円形の北貝塚(直径140メートル)南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)で、だ円形の南貝塚(長径190メートル)が連結し、8字形をした国内唯一の貝塚とされる。中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居にゴミ捨て場の貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成されさた。(例:加曽利貝塚)加曽利貝塚の貝塚文化の最盛期には南貝塚と呼ばれる長軸約19...関東、千葉の貝塚は後期に大発展している

  • 新石器時代とは

    新石器時代とはどのような時代か再度整理してみた3.1道具の進化図両面加工尖頭器技術開発から石鏃、石匙などまで図隆起線文土器、爪形文土器弓矢開発の歴史は土器から見える記録が残されている図道具箱の道具の分化道具分化の歴史石匙など3.2社会進化分業の開始石材産地での石器製作両面加工尖頭器石器製作八風山神子柴型石斧石鏃製作3.3移動、集散会合月のこよみが出来た月齢、満ち欠け、30までの数学海外進出が可能となった磨製石斧丸木舟両面加工尖頭器アメリカチャンネル諸島クーパーズフェリー、インドネシアティンカユ、オーストラリア3.4貝塚の成立 二至こよみと月齢潮干狩り採取ゴミ捨場貝塚加曽利貝塚四分暦季節の把握サケの遡上回帰漁信濃川流域など火焔土器カレンダー農耕開始、ハマ貝塚成立中田貝塚3.5土器記録メディアとして利用図はお...新石器時代とは

  • ハマ貝塚、中里貝塚の干し貝は時期限定、内陸と交易していた

    ハマ貝塚、中里貝塚の干し貝は時期限定の生産、製品は内陸と交易していた以下貝塚の情報を纏めています。中里貝塚は、縄文時代の海岸線近くにあり、長さ約1km、幅約100m、最も厚い所で厚さ約5mもある貝塚。東京湾岸の大型貝塚は、内陸部との交易で、干し貝と食料・石器などとを交換するために、貝を干し貝に加工した跡とも考えられている。ハマ貝塚は貝殻のみでできている貝塚だ。中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定されている。集落から離れた場所に集団で泊まり込んで、貝を採取し煮込んで干し貝を作る作業を行った。規模からいって採取加工には、複数の集落の人々が係わっていたと考えられる。中里貝塚の場合はほとんどのハマグリが5月から7月に採られているのがわかりました。現代の潮干狩り...ハマ貝塚、中里貝塚の干し貝は時期限定、内陸と交易していた

  • 小竹貝塚とは 縄文時代の交流

    小竹貝塚とは、ウェブ掲載記事から纏めています小竹貝塚は縄文前期中葉から後葉にわたる日本海側最大級の貝塚で、貝層の範囲は東西約50m・南北約150mの弧状に拡がっている。 図富山県のほぼ中央に位置する呉羽(くれは)丘陵と、その北に広がる射水(いみず)平野との接点に位置し、墓域・住居域・生産加工域などをもつ通年定住型の集落であることが分かりました。存在時期としては、小竹貝塚は縄文前期中葉から後葉にわたる日本海側最大級の貝塚である。日本海側の前期貝塚は数少なく、福井県鳥浜貝塚が代表的な貝塚遺跡である。小竹貝塚は、鳥浜貝塚ほど大きくはないが、内容的には鳥浜貝塚以上のものが期待される。特に、貝塚・集落(竪穴住居群)・墓などが明瞭に残っており、村の構造を把握できる例として重要である。また、犬の骨が多く出土していること...小竹貝塚とは縄文時代の交流

  • 4突起土器の始まりは何時からか

    4突起土器が造られるようになったのは、始まりは何時からか 図表裏縄文土器4突起土器4波状口縁とも縄文時代早期初めの表裏縄文の時期に栃原岩陰遺跡長野北相木町(縄文早期)で4突起土器が出ていた11000年前という測定結果がでている 図土器形式年表この時期に既に一太陽年が知られて数学知識レベルはまだ低いため365日を扱うことは出来ず182日ベースで暦を造っていたと考える。四季と季節の始まりを知るためのこよみとして半年四分暦冬至から45日の春の初め立春夏至から45日秋の初め立秋これを既に知っていたのでは無いだろうか 図突起土器の年表 図文明開始までの年表図はお借りして補足しています出典栃原岩陰遺跡@長野北相木町(縄文早期)https://ameblo.jp/20190831-0925/entry-12827694...4突起土器の始まりは何時からか

  • 無土器時代の神子柴遺跡と月のこよみ

    無土器時代の神子柴遺跡から見えるもの図神子柴型石斧神子柴遺跡は神子柴型石斧の石材産地の近くに立地している。石斧や両面加工尖頭器は石材産地で加工されて分業製作されていたようだ。 図神子柴型石斧の日本列島内への普及神子柴型石斧は日本列島全域に伝わっていた 図会合神子柴遺跡には各地の石材産地から両面加工尖頭器が集合していた。 図このような石材産地での石器製作場所と製品集積場所は、全国各地で見付かっている。こうした分業生産と、100キロメートルを超えるような会合には月のこよみなしでは不可能では無いか。それには30日の数詞とか月齢、曜日などが生まれていたのでは無いだろうか。 図文化史年表無土器時代の神子柴遺跡と月のこよみ

  • シュメール文明以降のカレンダーと、縄文時代のカレンダーの批評

    シュメール文明以降のカレンダーと、縄文時代のカレンダーの批評による成立時期推測シュメール文明で作られたカレンダーは現代のカレンダーと同質のものであったと考える。星を見て一年の暦を作り、月の周期は無視した曜日を用いるというものである。シュメール文明でカレンダーが作られたときには、狩猟採集の時代は既に数千年の過去のものと成り農耕が主な社会だったものと考える。そこでは旧石器時代から狩猟採集まで使用されてきた月のこよみ、月齢を曜日で知るという暦は必要なものでは無くなっていて、農耕と社会生活維持の道具で有れば良いとなっていたことから、月齢と曜日の相関は必須のものでは無くなっていた。七曜という名目のみあれば良かった。つまり現代のカレンダーと同等のものであったと考える。一方狩猟漁労採集を生業として残しながら、農耕も生業...シュメール文明以降のカレンダーと、縄文時代のカレンダーの批評

  • 3,4,5 の直角三角形の発見

    3,4,5の直角三角形の発見はどのようにしてできたのか直角三角形の発見は小石での遊びからでは無いか 図小石同じ大きさの小石指の数の10個で遊んでいるとして4個の小石を列べて、この長さで円を描いて十字を書いてその中で小石を様々に列べているうちに出来たのか または小石を指の数10個で形を作り遊んでいたとすると様々な形が造れる10個全てを使って形を作るとすると難しいが図○○○●●●3、3,として次に斜めの円円円で三角形が出来る一余りそれが3、4,5の直角三角形となるこんな遊びからでは無かったのだろうか 図土版を見ると小石を列べているかのようにも見える3,4,5の直角三角形の発見

  • 数学は何時からどのように始まったのか

    数学は何時からどのように始まったのか。現在まだ定説は無いようだから、ブリコラージュ1.1から10・・・レベルの数詞の発生日本列島では20000年前頃図神子柴遺跡の集合石器このレベルは既に云われているように用途に向いた道具が工夫されるようになり持ち物が増えたこと、また貴重な道具が増えて所有物把握のため必要となりくふうされたものでは無いだろうか。2.石器製作の分業が進み石材産地での石器加工と広域の石斧、両面加工尖頭器などの交易が始まり図特に100キロメートルを超えるような広域の石器移動が始まり広域での会合には、月のこよみ30日の月数と月齢を共通認識して知ることが必要となり月の朔望周期から30レベルの数詞が発生したのではないかもちろん扱う石器類の数量も増えて、数量把握にも必要となったのでだろう3.数百という数詞...数学は何時からどのように始まったのか

  • 爪形文土器とは何か

    爪形文土器とは何か、現状からのブリコラージュ 図両面加工尖頭器からの展開石刃技法からの展開、弓矢の開発は縄文時代草創期に行われた 図土器、爪形文土器の年表年代は疑問はありますが土器の発生年代は別として、順番はこのようで良いでしょう 図両面加工技術の展開石鏃への展開は弓矢が開発され、矢の先に付けるポイントの改良が行われた時期である。爪形文土器の爪形文といっても、その形状は様々に変化を見せている。図矢の先には最初は矢出川技法の細石器が鏃として付けられていたのでは無いか爪形文土器には先ず最初にそれが現れていたようだ。弓の弦の完成前で、隆起線文に先行していたのだろうか。 図細石器と見える爪形文土器がある、これには隆起線文があり、弓の弦の開発が完成した14000年 図三角形の鏃が現れた 図石鏃と見える爪形文土器、こ...爪形文土器とは何か

  • 数詞の発生は何時からなのだろか

    数詞の発生は何時からと考えることが出来るのだろか持ち物を数えるOvermannは2013年の研究11で、現代の世界各地に分布する33の狩猟採集社会に関する人類学的データを分析した。その結果、上限が「4」程度の単純な記数法を持つ社会では、武器や道具や宝飾品などの所有物がほとんどないことが多いことが分かった。これに対して、上限が「4」よりもはるかに大きい精密な記数法を持つ社会は、常に所有物が多かった。このことから彼女は、社会が精密な記数法を発展させるためにはさまざまな物を所有している必要があるのではないかと考えるようになった。複雑な記数法を持つ社会には、記数法の発達過程を解き明かすのに役立つ手掛かりがあった。Overmannは、そうした社会の多くが、5進法、10進法、20進法のいずれかを用いていることに気付い...数詞の発生は何時からなのだろか

  • 「計算する」という意味 は小石から

    「計算する」という意味の英語calculateは、小石を意味するラテン語calculusから来ているという  図縄文遺跡からは小石のようなものが出ています。これは何に使われたものなのか不明とされています。 図ところで、シュメールでは、大きさは3~5センチメールで、形は球、円盤、円柱、三角錐、円錐などいろいろなものが出ていて、形の違いは数える対象が違うからだと考えられていた。現在ではシュメール地方の遺跡の研究が進み、出土したシュメールの小石が実際に計算に使われていたことが明らかにされています。また、「計算する」という意味の英語calculateは小石を意味するラテン語calculusから来ているそうです。この類推から縄文時代に見付かる小石も、同様に計算に使われたものでは無いでしょうか。縄文時代にはカレンダー...「計算する」という意味は小石から

  • 「偉大な発明・発見は一回きりだ」という

    「偉大な発明・発見は一回きりだ」という説がありますここで、古代の人々が「数」をどのように捉えていたかを考えてみましょう。ストーン・サークルにはピタゴラスの定理※が隠されている、という説があります。これは、ファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。一番大きな障害は、新石器時代には文字がなかったことです。文字(記号)がないと、...「偉大な発明・発見は一回きりだ」という

  • 「立冬の日の出」を見よう会

    今年は天気が曇りや雨が多く、日の出を期日に見ることがなかなか出来ませんでした。快晴でしたらお出かけください。縄文遺跡で「立冬の日の出」を見よう会ご案内金生遺跡は北杜市全域を太陽観測の天文台として、金生遺跡の配石は太陽暦観測施設であることが分ってきました。朝活は立冬11月7日6時頃から7時まで遺跡現地です主催金生遺跡を世界遺産にしよう会これまでの観測記録の内容は、ブログにありますjohmonkinseistarとして検索していただけば、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。縄文人達は定住して、太陽が出る位置を毎日変えることを知り6000年ほど掛けて数を理解して、カレンダーを作り出したものと思います。縄文人と同じ立地に立ち、茅が岳の峰からの日の出をワクワクしながら待ちたいと思います。...「立冬の日の出」を見よう会

  • 両面加工尖頭器、両面加工技術の進展

    両面加工石器技術の進展については図1.石材のロスが大きいので原産地で作ることが必要だったのでは無いか、大きな原石から利用するのは石材の中心部のみ2.両面加工尖頭器製作には粗く形を作ってから細かく削るような作業が続き、手が掛かり、時間が掛かる製作だったので、製作には専業者がいたものでは無いか。3.それまでの旧石器時代の石刃法に比べて、槍先がバランスが取れているので、耐久性が大幅に向上したものと考える。4.石刃技法の槍と比べて、両面加工尖頭器は機能的には大差なかった。サケ漁では繰り返し使用するので、耐久性の高い両面加工尖頭器は効果大だったと考える。図5.両面加工石器技術の進展で、各種の道具の分化に効果的だったものと考える。細石器から石鏃への進化、各種の道具の分化に機能していた。石匙と呼ばれるものでは、用途に応...両面加工尖頭器、両面加工技術の進展

  • 数認識の始まりはどこからなのか

    数認識の始まり数認識の必要性とは何だったのか原始時代の数認識に関しては次のような話がされている。図「縄文土器の研究」に述べられた小林達雄などに依れば原始からの数認識は1~3まで程度、せいぜい5までなどのレベルとされている。指は1-5まで、両手で10それに足指を加えて10+1020その他にも色々加えてと言う考え方もあるが50とか100にはとても達し得ない。月が変化する日数は30となるから、30まで数えることは必要性がある。この30と言う数は必要となる目安となるのでは無いか。しかしこのレベルでは数の必要性はそれなりに止まってしまう。それ以上の大きな数が必要とされることは、一年の日数である。 図30を遙かに超えて、大きな数を必要とする数認識の目安は一年の日数だったのでは無いかとはいっても、一度で365日を数え上...数認識の始まりはどこからなのか

  • 栽培種の成立

    栽培種成立までの各地域比較栽培種成立までの要した時間はこよみの存在が影響を与えていたのでは無いか「500万年のオデッセイ」からの情報を元に考えて見た縄文時代は無文土器から始まった無文土器は原種マメ類の採集のため目漏れしない容器を必要としたことから17000年前頃から土器が作られることになったものと推定しているその後マメ類を栽培する方法を自然観察から会得して原種マメ類の栽培を始めたものと思うこれは画期的な事柄であり、栽培がある程度分かりその事を豆粒文土器として記録していたこの時期が15000年前頃の事ではないかと考える。図土器の記録から早期にはカレンダーが成立していて栽培種は縄文前期には成立することで集団居住の拡大や土器文化が変化したその間早期末には鬼海カルデラ噴火などが起こり列島は大変動が起こった図そして...栽培種の成立

  • 環太平洋の両面調整尖頭器

    環太平洋の両面調整尖頭器の存在を俯瞰する図石刃から両面加工尖頭器への変遷日本列島に於いては新潟県の信濃川流域において両面加工尖頭器はその加工法の変遷経過が見えていて25000年前後に開発されていたようだ図石器の変遷両面加工技法は尖頭器が先ず作られて次に有茎尖頭器、投げ槍の穂先とされている続いて石鏃が作られるようになる石鏃が作られるようになるまでには土器の開発が行われていた図オーストラリアからの出土オーストラリアでは両面加工尖頭器が出ているようなのであるが単独にそれだけが出ているので、周りにもそれに類する石器は出ていないので何故これがあるのか理解出来ないようである年代的にも議論がされていて、確定していないようである図ティンカユの両面加工石器またマレーシアのティンカユで図のような両面加工尖頭器が出ているこれも...環太平洋の両面調整尖頭器

  • 農耕の起源は何処か

    農耕の起源は何処か、これは今でも問題である1.エジプトは栽培植物の起源地では無い図500万年のオデツセイから引用2.エジプトへはメソポタミアから伝わったというのが現在の共通認識である様だ。3.メソポタミアは栽培植物の原種の存在から見て起源地の一つであるとされる。4.農耕に必要なメソポタミアのカレンダーは春分を基準として、それをカペラの出を観測することにより知っていた。太陽観測をしていた根拠は無い。5.この時期にカレンダーを持っていたのは、縄文文化のみ太陽観測は石棒と山により、その記録は土器に突起として遺されていた図縄文土器から見える生業開発とこよみ開発の歴史経過 6.縄文時代後期には二十四節気の暦を完成していたと推定出来るそれを観測する天文台として、金生遺跡の太陽暦観測施設が現存してある図太陽暦観測点 7...農耕の起源は何処か

  • アンラーン

    アンラーンの必要性これまでの縄文文化観のアンラーンが必要では無いか土器は情報記録のメディアであり、土器が作られると共に歴史が記録され残されていた。 図土器に記録されている狩猟、漁労の技術開発の記録 図土器に記録されている農耕開始までの記録 図土器に記録されている数字観念の記録 図カレンダー開発の年表1.古代から数観念はどのようにして認識してきたのか縄文時代が古代文明の中で最も早くから数の認識を示していたのでは無いか 図突起土器の歴史年表縄文時代の突起土器の歴史は、数観念の歴史を示しているのでは無いのかこれは世界的に、最も早くからの数観念の歴史記録である。数字としては1,2、6、4、12,8、5、7と言う数列が見えこれは太陽暦、太陰暦、カレンダーに繋がるものでは無いか。アンラーニングは後期旧石器時代から始め...アンラーン

  • 新石器時代の社会とはどんなものか

    新石器時代の社会とはどんなものかそれは磨製石斧、両面調整尖頭器、石鏃のある社会となるのではないか石鏃や両面調整尖頭器は、製作には大変な時間が掛かるため、石刃技法の槍と比べて、両面調整尖頭器が狩猟効果を特別高めるとは考えにくく、狩猟者がそんな石器を作っていたとは考えにくく専門技術者が作っていたものと推定するそして刃部磨製石斧は、磨く作業にそれほど時間を要するとは思えないが、大きさに規格があった様子から、これも専門製作者の存在が想定できるこのような石器を必要とする社会は、専門製作の分業が始まり、それまでの原始社会とは一線を画する社会になっていたと判断できるので、ここから新石器時代に入ったとして良いのでは無いか。 図諏訪湖の曽根湖底遺跡ここでは石鏃が大量に発見されていて、組成から見て専門製作工房で、石鏃は原石の...新石器時代の社会とはどんなものか

  • 石鏃は何処で何時 開発されたのか

    細石器から石鏃への進化 図石鏃開発時期の年表図はお借りして補足しています弓矢猟は20000年前頃から15000年前頃までに開発されたのでは無いか。年代は資料により異なるので正確では無い。 図両面調整尖頭器と細石器信濃川流域では、ナイフ型尖頭器から両面調整尖頭器が開発されてサケ漁が効率的に行われるようになった。信濃川より北の地域にはサケ漁のためにこの両面調整尖頭器が広がったものと思う。この地域ではその後、有茎尖頭器が作られるようになり、さらに小型の有茎尖頭器が作られていて、投げ槍さらには投げ槍具が使われるようになったのでは無いか。  信濃川より南の地域では、サケ漁とは異なる小型動物の狩猟が主に行われ弓矢の開発が始まっていたものではないか。初めは矢の先には、矢出川技法の細石器の鏃が付けられていたのでは無いか。...石鏃は何処で何時開発されたのか

  • 道端にある旧石器時代後期、土器の始め

    道端にあるマメ類の原種を確認できました。 2024.09今年のヤブツルアズキとツルマメ ヤブツルアズキ 遺跡付近のヤブツルアズキ 下ツルマメ上ヤブマメ   初稿2023.09.03投稿ヤブツルアズキはこのようなもののようです  2023.09.09原種の莢ヤブツルアズキアズキの原種 ツルマメダイズの原種 2023.09.08ヤブマメの莢を摘んでみました、エンドウ豆の原種ということでそっくりな莢です。早速茹でて食べてみましたが、小さすぎて幾つ口に入れても味が分りません。花が咲いて少し時間が過ぎたものは、筋張っていて食べられません。ということでサヤエンドウとして食べることは難しそうです。残念!!2023.09.05同一区画でツルマメが莢を付けていました。ダイズか枝豆にそっくりな莢です。ヤブツルアズキは益々元気...道端にある旧石器時代後期、土器の始め

  • カレンダーとは月齢と季節を知るためのものである

    カレンダーとは何なのでしょうか月齢と季節を知るためのものではないか以下引用しますーーーーーー出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』カレンダーとは、日付・曜日などを表形式などで表示し、容易に確認できるものを指す。七曜表(しちようひょう)とも言う。腕時計に内蔵される事もある。なお、英語の「calendar」は、毎月の最初の日を意味するラテン語の「kalendae」に由来し、日本語のカレンダーはこの英語からの借用語である。ただし英語のcalendarは「暦」や「暦法」と上記の「カレンダー」とは区別されない。概要カレンダーの起源は古代バビロニアとされる。カレンダーには日付のほか曜日や祝祭日などが表示される。日本で売られているものは、普通、国民の祝日が、またしばしば六曜が記されている。コパイロ...カレンダーとは月齢と季節を知るためのものである

  • 両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まり3

    両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まりではないか 図両面調整尖頭器がなぜ新石器時代の始まりなのかそれは旧石器時代の石刃、ナイフ型石器、細石刃などの打製石器とは異なりデザインを想定した上で作り出されたものであるからですこれまでの製作方法は、石の塊から打ち欠くことで出来た破片を元に加工して成形してそれぞれの用途に利用していました。両面調整尖頭器はそれとは全く逆で打ち欠いて出来た破片は目的物では無く芯に残るものを想定した形に成形して行くものですそれは木材から鑿で削り、その中に想定する形を彫りだして行くことと同様な加工に相当するものと考えます。   図石刃と打製尖頭器と両面調整尖頭器デザインが最初にあり、それに合うものに成形して行くと言うことですそれは大変な知識と時間が掛かる加工方法ですこのようなものの製作は専...両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まり3

  • 両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まり

    両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まりと成るのでは無いか旧石器時代からの日本列島の歴史 図デニソワ人の道具1.デニソワ人は野尻湖まで来て旧石器を遺していた 図2.クロマニヨン人は石刃技術を持って東の端まで来ていた 図日本列島の北と南から入ってきた 図両面調整尖頭器その後信濃川流域の北と南で大きく分かれて発展した 図三内丸山の有茎石鏃・北ではサケの遡上回帰漁が中心となり、両面調整尖頭器が開発された石刃やナイフ型尖頭器ではサケ漁に対して、不都合があり、繰り返し使用に耐えるバランスの取れた両面調整尖頭器が開発され、それは有茎尖頭器まで進化した 図石鏃・信濃川より南では小型動物が狩猟の対象となり弓矢の開発が主となった弓の弦の開発は早くに出来たが、矢の先に付ける鏃の開発には時間を要した石刃から細石器に変り、初めは...両面調整尖頭器の開発は新石器時代の始まり

  • 東アジアと南西アジアの尖頭器

    東アジアと南西アジアの尖頭器の製作技法には大変な格差があった 東アジアの尖頭器の歴史経過石刃ナイフ型 両面加工35000年前頃からなのか津南岩宿神子柴 南西アジアの尖頭器ヘルワン尖頭器紀元前8000年前頃エジプトからメソポタミアに存在何故これほどの違いが生じていたのか。食料源の違いでは無いだろうか。東アジアと南西アジアの尖頭器

  • 両面加工尖頭器の開発は新石器時代の始まり 石刃、ナイフ型から尖頭器への進化過程

    両面加工尖頭器の開発は新石器時代の始まり石刃、ナイフ型から尖頭器への進化過程 図神子柴型石槍図岩宿の石槍 図道下遺跡これらの石槍の開発が始まったのは新潟津南町の尖頭器開発から始まっていたのではないか 信濃川と火焔土器の分布この地域ではサケ漁のための石刃、ナイフ型石槍の改良が進められていたようだそれは両面加工尖頭器開発の歴史過程を示す始めの遺跡が、サケの猟場である信濃川流域の河岸段丘上に数千年以上展開してきた、ここで両面加工尖頭器が開発されたすぐね、道下、貝坂、越那などの遺跡の時期である図石刃 図ナイフ型 図両面加工尖頭器類  日本列島には、西ヨーロッパでクロマニヨン人が開発した石刃技法が、北と南の二方面から入り込んで石刃、ナイフ型からの変遷がサケ漁を主な生業とする信濃川流域で行われたのでは無いか石刃技法の...両面加工尖頭器の開発は新石器時代の始まり石刃、ナイフ型から尖頭器への進化過程

  • シュメールの暦は春分近くの新月が元旦 曜日とは何か

    カレンダーの曜日とは何か#縄文時代 #カレンダー #メソポタミア旅行2024-07-0807:09:20 曜日とは何かの疑問現代のカレンダーが何故今の形になっているのかその起源は明らかにされているのだろうか現代のカレンダーは7曜表になっている何故この七曜表は月齢に合わせていないのかそれ以上に一年は12月であるものの、一ヶ月の日数が朔望周期をなぜ再現していないのかこの疑問に体当たりで切り込んでみる月の朔望周期30日からは半月の日数30/2が15日である、これから15+15が一ヶ月の日数15日は朔から望または望から朔に対応する15日は15/2から7+7+1と表現できる一ヶ月日数は7+7+1+7+7+1となるこれを曜日に当てはめれば、新月と満月を特別な1日として7は七曜にできるそれは曜日として例えば月火水木金土...シュメールの暦は春分近くの新月が元旦曜日とは何か

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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
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