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金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
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2021/11/13

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  • メソポタミアでの沖積地灌漑農耕の発展はどう考えたら良いのか

    これ以後ブロクサービス停止に対応する、引っ越しのため、新規投稿は以下に移ることにしています。引っ越し先は、次のブログにですブログのURLoizumikinsei.hatenablog.comよろしくお願いします。現在、古い記事から引っ越ししています。2025.04.22以後は最後の新規記事です-------------------------------------------------西アジアで衰退していた新石器時代後期の農耕が、メソポタミア南部での沖積地灌漑農耕の発展となったことはどう考えたら良いのか。 図灌漑農耕の開始従来、農耕は大河のほとりで始まったとされてきました。最近のメソポタミアの研究では、まず北イラクの山麓地帯(ザクロス山脈やレバノン山脈の西側)で雨水天水を利用してはじまり、ジャルモ、ハ...メソポタミアでの沖積地灌漑農耕の発展はどう考えたら良いのか

  • 天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

    天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか、これまでの仮説は余りにも簡単である。それまでは野生ムギ類の野生に準じた農耕PPNBまでここまではほぼ栽培種は成立せず灌漑農耕を始めるために、初めて栽培種の成立への栽培が始まったものではないかそれは栽培暦の成立でもある 図豊潤な三角地帯とにかくここは恵まれすぎていたようだコムギは現在世界中で最も多くの人々が利用している栽培植物である。コムギの歴史は古く、地中海東岸からイランのザグロス山脈に至るいわゆる肥沃な三日月地帯に点在する8000年以上前の遺跡から炭化種子が発見されており、この時期には既に利用されていたことを窺わせる。これまでの研究によると、この地域において豊かな多様性を示す野生植物から人類にとって重要な一群の栽培植物が生まれたことが明らかになっている。...天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

  • 天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

    天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか、これまでの仮説は余りにも簡単である。それまでは野生ムギ類の野生に準じた農耕PPNBまでここまではほぼ栽培種は成立せず灌漑農耕を始めるために、初めて栽培種の成立への栽培が始まったものではないかそれは栽培暦の成立でもある 図豊潤な三角地帯とにかくここは恵まれすぎていたようだコムギは現在世界中で最も多くの人々が利用している栽培植物である。コムギの歴史は古く、地中海東岸からイランのザグロス山脈に至るいわゆる肥沃な三日月地帯に点在する8000年以上前の遺跡から炭化種子が発見されており、この時期には既に利用されていたことを窺わせる。これまでの研究によると、この地域において豊かな多様性を示す野生植物から人類にとって重要な一群の栽培植物が生まれたことが明らかになっている。...天水農耕から灌漑農耕へはどのように展開されたのか

  • メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュ

    メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュウバイド期を幻視してみる図文化史現時点までの調査では、遺跡遺物からの追跡では、西アジア文明の流れを明確に出来てはいないものの、幻視すれば筋道がぼんやり見えると思えてきた。 図PPNと土器新石器時代の進展アムーク、サマッラ期に土器製作が始まる。それはここに縄文人が到来していたことで土器制作が始まっていたのではないかその後南北に土器文化が派生した。豊潤な三日月地帯の在来の野生種が良く生える土地では、在来農法で十分良く、太陽暦により作られた栽培暦の効力は発揮できなかったのでは無いか。その後ウバイド期に、沖積地に出て灌漑農耕で発展したのは、沖積地での気候に合わせた栽培に太陽暦を利用することが出来、栽培種の開発と栽培暦を構築することが出来て、灌漑農耕を発展させることが...メソポタミアでの土器と太陽暦展開のブリコラージュ

  • ウバイド期の灌漑農業それほど簡単なのか

    ウバイド期の灌漑農業灌漑農耕はそれほど簡単なのかウエブ情報に基づいてまとめています灌漑農業とは、農耕に必要な水を人工的に供給する農業である。前5000年ころからユーラシア・アフリカの各地に波及し、それぞれの地域の風土にあった作物栽培や牧畜へと発展していった。自然に依存する乾地農法にくらべ、収穫量が増えると同時に共同作業が必要となり、共同体が発達して都市が成立する。特にナイル川、ティグリス・ユーフラテス両河、インダス川、黄河といった乾燥地帯の大河流域では、灌漑農耕の必要から大集落が形成されるようになり、大規模な都市が形成されて、文明発生の条件が整った。 図灌漑農耕の前段階はウバイド期の後期から始められる。ウバイド3期に南メソポタミアでは灌漑農耕による農産物の大量生産が実現した。家畜については従来のヒツジ・ヤ...ウバイド期の灌漑農業それほど簡単なのか

  • 西アジアの新石器時代 再考

    西アジアの新石器時代は、発掘が進み研究すればするほど、チャイルドなどによりこれまで云われてきたことから、再考すべき時期に来ているようだ。文献記載内容からまとめていますこれまで西アジアの新石器時代は、農耕牧畜が開始された時代とされてきたが、データの蓄積が進むにつれ、実際には先土器新石器時代の前半には、まだその証拠がみられないことが明らかになってきたという。 図年代と文化の年表栽培型のムギ類が出現するのはPPNB中期頃、家畜の飼育が本格化するのはPPNB後期頃というのが、大方の見方であるという。大枠での時代の定義と実際の内容がうまく一致していないということになるが、農耕牧畜の起源を追究するのは簡単なことではなく、また想像以上に長い時間をかけて達成された過程であるとの認識が現在では支配的になっている。縄文時代に...西アジアの新石器時代再考

  • リジェネラティブ・リーダーシップ の指南書はどうなのか

    リジェネラティブ・リーダーシップという本が出ています。リジェネラティブの指南書としてはどうなのか 図 図 図これには現在のカレンダーが、地球と太陽と月の自然の関係を無視している事を知らない文明の基礎にあるこのカレンダーを用いている現代文明が、それでもこのような思考が出来るものなのだろうか。 引用します----ーーーーーーーリジェネラティブ・リーダーシップの指南書「機械」から「生命システム」へ――エコシステム全体の繁栄を目指す新パラダイムのリーダーが世界中で出現している。幅広い事例と学術的知見を統合して生まれた、今最も注目を集める「リジェネレーション」の実践書。「人と自然」「内と外」「男性性と女性性」の分離をつなぎ直し、生命システムを育むリジェネラティブ・リーダーシップのDNAモデル(デザイン×カルチャー×...リジェネラティブ・リーダーシップの指南書はどうなのか

  • 古代人のカレンダー

    古代人のカレンダーは何処で作られていたのか古代人は太陽の365日と月の30日を知れば、カレンダーを作る工夫をしたものと思うではそのためにどうしただろうか現代のようなカレンダーは古代人には難しくてとても作れないと思う古代人でも作れるカレンダーはどんなものだろうか文字も数字も計算も・・・知らなくても簡単に作れて、運用できるカレンダーとはどんなものなのだろうか 図縄文のカレンダー一番簡単なのは365日と30日を同期させるカレンダーであるそれなら何の知識も無くても作れるものであるその方法とは最大公約数を求めることであるこれで作れば運用もとても簡単にできる一年に一度、立春と立秋を観測して、二十四節気の暦を作り、同時にその時の月齢を観測して時計合わせすることだけで正確に保つことができる。古代史上でこのカレンダーを作っ...古代人のカレンダー

  • ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか

    灌漑農耕の発展、都市文明の発展、ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか 図ウバイド期には竪穴住居、貝塚、土器、石鏃、太陽暦が伝播していたと考える証拠がある紀元前5330年に鬼海カルデラ噴火による避難拡散が起こり、九州地域に居た海人族が丸木舟で逃げ出し彼らはメソポタミアにまで到達していた可能性があるのでは無いか。 図この時期の適当な年表が見当たりませんのでPPNB期にはメソポタミアの南地域にはまだ進出できていなかったが、既に灌漑農耕を手にしており、農地を拡大して、太陽暦に基づく播種時期を利用すれば、安定した農耕が可能であった。その後ウルク期、シュメール文明にまで発展することが出来た。さらにその後は歴史推移に見るように、多民族、多言語、多宗教の人々をまとめなければならず、強権的にならざるを得ない...ウバイド期、ウルク期、シュメール文明とは何だったのか

  • ウバイドからウルクまで

    ウバイドからウルクまでの変化は太陽暦無しには考えられないウルクが都市化して社会が拡大した時カレンダーがあったのではないのかそれ以前は何時からカレンダーがあったのかウバイドでは灌漑農耕の農地を大規模化するのに、労働者を集めて作業するにもカレンダーが必要となる南メソポタミアに灌漑農耕で進出するウバイド期以後には、カレンダーがあったのでは無いかそれ無しには、人を集めて農耕地拡大も、大規模な灌漑農耕も出来無いはずである西アジアでの土器の発生、必要性分らないと云っている西アジアでの土器は、その必要性が分らないという容器は他にいくらでもあった、食事用にも困っていなかったようだ何故それなのに、粘土を成形し、焼成してという面倒な工程のある土器が、作られるようになったのかそれは特に必要は無かったと言うようだ栽培を初めて、農...ウバイドからウルクまで

  • メソポタミアの文明史

    シュメール文明までのメソポタミアの文明史は以下のような推移を示している。図西アジア肥沃な三日月地帯この地域はムギ類が野生で生えていたようだ。 図最古の農耕遺跡 図農耕牧畜西アジアの肥沃な三日月地帯では、何処でも野生ムギなどが生えていた。その中から適当なものを選択すれば良いという、大変恵まれた地域だった。野生のものが生えるのに従って、播きさえすれば栽培として成り立ったのだろう。 図各文化の位置シュメール文明の成立した土地はそれまでとは違い、野生のムギ類が自然に生えている地域とは違い、灌漑農耕が必要とされた。さらに播種時期がそれまでとは違い、太陽暦が必要となったのでは無いか。人を集めて広大な土地を開発して、播種して取り入れるという作業には、太陽暦は欠かせないだろう。それを成立させた遺跡も遺物も無いのはどうして...メソポタミアの文明史

  • メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのか

    メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのかメソポタミアでの各文化の年代はよく分らないところがある。ウバイド、ウルク、シュメール文明の人種はどのようだったのかシュメール人の起源が分らないとされてきた 図メソポタミアでの各地文化の年表ウバイドウルクシュメール各時期の人種がどのようだったのかよく分らないようだ記録が残るのは、ほぼシュメールからなので、それは解明できないようだそれにしても面白い記録がある様だそれはBC4000年ごろ、メソポタミアにおけるウバイド社会はシュメール人によるウルク文化が成立した。エリドゥからはBC4000年ごろの神殿の原型が出土している。それが新たな住民の到来によるものかどうかはまだ明らかではないが、現在はこの頃にシュメール人が東方から到来したという説が有力であるという。ものである人種は...メソポタミアの文明史の起源はどこにあるのか

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