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生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
生きるとは苦しみであるby釈尊 幸福になっても幸福が消えていく苦しみがあります。 物を手に入れても失くしたり盗られる苦しみがつきまといます。 異性と付き合えてもけんか別れや死別の苦しみがあります。 つまり、いいことがあったとしてもいいことがなくなっていく苦しみがあるのです。 では、必ず苦しみが来るいいこととは本当にいいことだろうか? 初めから持っていないとは幸福かもしれない。 それならば、プラスとマイナスの相殺の上である日常とはありがたいではないですか。 喜怒哀楽があり、それでも生活できること。 究極の下から目線の生かされている上で起こる喜怒哀楽。 生かされている原点への感謝とは、それだけでOKということです。 罪があるけど生かされている、これが答えです。 自分が罪を犯したとしても、生きている限り、罪を償...生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
いつの世でもあるのは男女の恋愛関係の問題です。 男女の問題も根っ子を見て行けば性欲というサガ(性)です。 では、なぜ性欲が起こるのか? ラマナマハルシはこれを、お互いの形(性器など)の形が違うから性欲が起こると話しています。 なんということでしょう。 性欲とはお互いの体の形の違いから起こっていたのでした。 しかし、これは厳密にいえば性欲はあっても良いのです。 理由は、性欲がないと子孫が残らないからです。 子孫が残るから人類は存続してきました。 男女の恋愛問題からなにをいいたのかと言うと、性欲もほどほどで良いのです。 極端になりすぎるから問題が起こるものです。 人は極端になりやすいサガ(性)なのです。 いつの時代も男女の問題はあるものです。 問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょ...問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
最近は、若者言葉で「すぐにキレる」人が多いです。 生活する上では「すぐにキレる人」を想定していることが大切です。 同じように自分も怒ったり、すぐにイライラしないことがより大切です。 イライラが怒りの火種になることはよくあることです。 では、釈尊は怒りについてどう話しているか? 怒りを制する者は輪廻転生を終わらせることができると話しています。 怒りの根っこの部分とは自分の妄想である可能性です。 修行をして悟らなくても怒りを制するだけでもよかったのです。 やはり釈尊の言葉には、大自然に溶け込むような気持ちになるものばかりです。 自分の怒りを水に流して行きましょう。 ありがとうございます。自分の怒りを水に流して行きましょう
長所も短所も良いもの悪いも時代や国や立場が変わっていけばその内容も変わっていきます。そんな時は淡々と自分のやるべきことをしていけば良いです。仕事に合わせながら真我をお守りすれば良いです。大切は自分の真我の思いです。真面目に生きていれば大丈夫になります。生きるという期間だけではなく、長い死後の世界もあります。死後を忘れない、いつか自分他人も死んでしまう存在なのを忘れなければ大きな罪は起こしにくいものです。恐れるは真我です。死後に公平な視点から見られるのが真我です。ダメダメでも失敗ばかりでも大丈夫です。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です。今日も感謝して努力を続けて行きましょう。ありがとうございます。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です
仕事をしていればうまくいかないことがあります。いえ、仕事でなくても家庭でも勉強でもうまくいかないことがあります。つまり、仕事も家庭も勉強もうまくいかないのが自然な姿なのです。だから、慌てずに努力をすれば良いと思います。努力してうまくいくわけではないです。けど、努力を続けます。脱力しながら結果はおまかせで良いです。死ぬときに全てを置いてこの世を去るのですから、うまくいったことうまくいかないことも捨てて逝きます。だからうまくいってもうまくいかなくても問題はないです。最後には捨てていくことだからです。大切は、努力していることです。病気で布団の上にいても感謝できることを探したり療養する努力をする。治療努力する。これならば布団の上で動けなくても努力できます。うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう...うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう
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真我をお守りするのは? 日々の生活への注意。 食事への配慮。 防犯への注意です。 ところで近年は凶悪犯罪もありますから、女性の一人暮らしには注意です。 いろんな趣向の人がいますから、女性の一人暮らしは監視されていると思っても間違いではないと思います。 けど、心配過多になってはいけないです。 おおいに心配したら防犯を意識しながら自分の生活を楽しめば良いです。 帰宅時にドアを開けて、そのまま不審者に突進されてそのまま〇イプもある話なので注意です。 帰宅のときは、周囲に人がいないかの確認が良いです。 日中でもです。 これからは自分の身は自分で守ることが大切だと思います。 真我をお守りしましょう。 女性は男性以上に警戒心が大切です。 ありがとうございます。女性は男性以上に警戒心が大切です
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苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
人生も河の流れのようです。 上流では水は清いが生き物が少ないです。 中流になり河の曲がり角が多く、水は角にぶつかりながら、緩急つけて、時には停滞して母性の海を目指します。 下流の海になるといろいろな多くの生物がおり、魚(人)豊富です。 もし、社会から、家庭から、逃げようと思えばそれは海にいる豊富な魚がいるところから逃げるということです。 海があるから幸運があります。 海があるから幸福がります。 どこに逃げても同じような苦しみが来るものです。 それならば今いる場所の苦しみの真ん中で安心して楽しめば良いです。 けど暴力や逃げなければいけない場合もあるから臨機応変に対応です。 苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか。 いっそ苦しいならば、苦しみのど真ん中で安心して居よう、楽しんで居よう。...苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
押してダメなら引いてみな。人生にもこれくらいのゆとりがあるといいものです。しかし、渦中ではどうしても押す一方になりがちです。そんな時は、それが「必要な期間」だったと言えそうです。では、押しても引いてもダメな場合はどうしたらいいのか?自分が出来る努力を継続しながら、忘れていることです。無駄に力が入っているよりも脱力している方が、無意識の力も働きやすいです。押してダメなら引いてみな、心に力を入れてダメなら脱力してみな、にも言えそうです。これならば努力にも言えそうです。努力してもダメなら脱力してみな。今日も最高の努力を真我に見せていきましょう。ありがとうございます。努力してもダメなら脱力してみな
幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
下から目線で生きる、つまり生かされているだけでもありがたいという視点です。 生かされている=幸福だから=幸運だから嫌なことも不運なことも苦しいこともある。 だから今のままの自分で幸福であり幸運であった。 では、なぜ自分はもっと満たされないのか?なぜ不幸なのか?と思うのか。 それは今ある幸福と幸運に感謝をせずに「もっともっと」と求めているからだと思います。 けど、確かに生き地獄もあるのが事実です。 では、幸福、幸運を感じるにはどうしたら良いのか? ・それでも生活できることを感謝すること。 ・感謝の先祖供養をすること。 ・月に一度でいいから感謝のみの奉納する神社参拝をすること。 以上を参考にされてください。 幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます。 あわてないあわてない。 一...幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
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義務でやっていると息が詰まるものです。やらされているよりも「やっている」「楽しんでいる」視点があれば最高です。せっかく生きているのですから、仕事も勉強も家事も楽しめたら良いですね。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです。一度きりの人生を楽しんで行きましょう。ありがとうございます。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです
下から目線でいれば、人生は感謝することばかりです。生かされているから心配、苦しみ、不安も体験できるのです。そう思うと心配も苦しみも不安も人生の一部であり、人生からのプレゼントだと思えませんか?うまくいかないことも不幸も不運も人生の一部です。生かされているから体験できることです。これも人生の一部なんだと明るく諦めたら良いです。人生に苦しいこともありますが、苦しみを深くしているのは、もっともっとと言う欲心です。なにがなんでも手に入れようとか、絶対になくてはならないと思うと苦しいものです。仕事では厳しく言われるかもしれませんが、厳しく言われるのも仕事の内だと思い、自分なりに努力をすれば良いです。明るく諦めて脱力している方がいい仕事ができるものです。もっともっとと欲しいときも体に余計な力が入っているものです。軽く...日常での感謝の継続は最強です
最近は、肌や体内の常在菌が気になります。 腸内細菌=免疫 これが気になります。 肌や体内の菌を育てることに私は興味があります。 南方熊楠も粘菌への積極的な姿勢がありました。 熊楠は粘菌を守る=日本の森林を守るという活動をされていました。 つまり神社を守る活動をされていました。 肌や体内の常在菌とは宇宙とも言えそうです。 少し前には脳内フローラと言って脳内にも善玉菌のフローラ=菌のお花畑のような絨毯があるとも言われていました。 話はそれましたがこれからは腸内細菌が重要だと思います。 乳酸菌のサプリもありますから臨機応変に飲んでいけたら良いと思います。 食品から摂る乳酸菌も参考にしたいものです。 寝る前の乳酸菌の歯磨き粉も参考にしちあものです。 つまり、今日の言いたいことは、寝ても覚めても菌だ~~ と言うこと...これからは腸内細菌が重要だと思います
努力すること、頑張ることは大切です。しかし、苦しむほどしなくて良いと思います。そうではなくて、脱力していれば良いです。結果だけにこだわらずに、最高の努力をしたら結果は自然な流れにまかせれば良いです。そんなにすごいことをしなくて良いよ。今のままの自分の努力や頑張りを認めてあげたら自然と肩の力が抜けるものです。すごい人にならなくても、今のままですごい私です。私は、今のままですごい、と思って良いよ。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです。自分にはあると思って良いですよ。外側でなく内側のあるからです。ありがとうございます。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです
過去の自分や未来の自分に、「もう大丈夫だよ。安心していいよ」と心中で思うことは大切です。今を起点として、自分が過去と未来の自分に大丈夫だよ、安心していいよと心中で思うことにより、過去から未来から今の自分に安心の思いが届きます。「今は苦しいかもしれないけど、未来はああなってこうなって今は安心だよ」と心中で過去の自分に声をかけます。これを何度かしますと、過去の不安だった自分が癒やされて嫌な過去を思い出さなくなることもあります。過去=今=未来だとも言えます。ありがとうございます。過去=今=未来
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人生の途中の川の流れは急でも、川に繋がっている海は穏やかに私たちも迎え入れてくれています
目の前の景色は、流れて変わっていきます。現在、自分が欲しいものも状況や立場が変われば欲しくなくなるものです。こんなに欲しいものすらコロコロ変わっていきます。3歳頃に欲しかったおもちゃは80歳のご年配の方は今も欲しいでしょうか?欲しくないはずです。必ず変わっていくことなので慌てないで良いのです。長くても寿命までの数十年くらいです。欲しいもの以外にも、他にも楽しみがあります。せっかくの一度きりの人生ですからコロコロ変わるものに執着せずに水のように生きていきましょう。人生の途中の川の流れは急でも、川に繋がっている海は穏やかに私たちも迎え入れてくれています。あわてないあわてない。一休み一休み。と言うことです。ありがとうございます。人生の途中の川の流れは急でも、川に繋がっている海は穏やかに私たちも迎え入れてくれています
悩み、心配、苦しみ。喜怒哀楽。幸福、不幸。幸運、不運。これらは形と名前の組み合わせです。形と名前の組み合わせによって「実態」があると錯覚しています。つまり、そんなものは無いのです。形と名前の組み合わせに実態が「有る」と勘違いしています。実態があると勘違いしているのは自我(エゴ)です。だから、そんなに悩まなくていいし、心配しなくていい、苦しまなくていいよ。けど、悩みも心配も苦しみも人生からのプレゼントです。無いとは言っても有るものはある。これが正しい感覚です。喜怒哀楽できることに感謝していきましょう。ありがとうございます。無いとは言っても有るものはある
必ず変わっていく目の前の景色や執着せずに、淡々と人生に感謝して楽しんでやりましょう
喜怒哀楽や苦しみ心配などは人生からのプレゼントであった。因果から見ても人生のプレゼントを受け取るとはなにかの善悪含めて因果が昇華した。つまり、霊的な借金が軽くなり解脱に近づいた。わーいわーいと喜んでよかった。日常生活での幸運とは、善と悪の両方の因果の相殺の結果だから悪の因果を新規で作らなければ善の因果が悪の因果より勝り幸運が来るようになる。その幸運も不運も必ず変わっていくことだから慌てずに執着せずに生きていけばよかった。幸運も不安も必ず変化するのだから、幸運にも不運にもいつまでも執着するのではなくて、幸運にも不運にも感謝して楽しめばよかった。人生を感謝して楽しめばよかった。そう響いてきます。必ず変わっていく目の前の景色や執着せずに、淡々と人生に感謝して楽しんでやりましょう。ありがとうございます。必ず変わっていく目の前の景色や執着せずに、淡々と人生に感謝して楽しんでやりましょう
生きる本質とは、もう二度と生まれ変わらないようにするためです。 寿命という期間限定の中を感謝に気づくために生きます。 悟る=心からの感謝をする回数、心からの感謝の回数 悟ったという自覚がなくても、心からの感謝をしている瞬間とは悟りの最中です。 感謝をしている最中も、小さな悟りの最中だと言えます。 小さな感謝は数知れず、大きな感謝は数えるくらい。 白隠さんでしょうか? この言葉が私の記憶に残っています。 今日も心中で感謝で満たしていきましょう。 感謝の継続が心からの感謝へと自分を導きます。 ありがとうございます。感謝の継続が心からの感謝へと自分を導きます
人生が順調にいっているときほど、逆に慎重になります。まるで薄い氷の上を歩いているように四方八方に注意を向けます。いつでも幸せがなくなることを知っているからです。幸せに感謝はするけど、冷静に幸せを楽しみます。幸せがすぐに変わってしまうことを知っているからです。これから起こる被害を想定して自分なりに対策をすればあとは忘れて幸せを楽しみながら手を動かします。具体的に対策ができなくても被害を想像して、事前に気持ちの上で備えているだけでも十分です。その上で幸せに感謝して幸せを楽しみます。どれも幸せは一瞬なのを知っているからです。何か皆さんの参考になれることがあれば、幸いです。ありがとうございます。幸せは一瞬なのを知っているからです
できることは少ない自分だけど、死ぬまでに誰かの、何かのお役に立ちたい。与えられるものはなにもないけどそれでも思っている。真我の思いとは、与える思いです。人は自分が真我に目覚めている自覚がなくても与える思いがあれば、その瞬間は真我が発露しています。そして感謝ができる継続を思いますと、そこに真我の思いがあります。それでも感謝が出来る生活の継続=真我の思い感謝をしている最中は誰もが真我が発露しています。今日も人に思いだけでもいいので与えてあげられたらいいね。人に直接言えなくても、心中でこの言葉を思ってあげたいね。ありがとうございます。今日も人に思いだけでもいいので与えてあげられたらいいね
仏典を読んでいて思うのは、いくら真理を体験したとしても日常生活から離れたものはダメだということです。自分が悟ったとして人を他人に言うようではダメだということです。深く悟れば逆に無言で黙って静かに微笑んで自分の生活態度に現れて行きます。その時に他人など主張するより自分なりに他人に与える人へとなって行きます。10キロ先の他人ではなくて家族、職場、学校の友達、ご近所さんから与えることを始まります。遠くの他人ではないのです。身近な人から始まります。まずは母性の海への感謝からです。安心している自分に気づくことからです。ありがとうございます。まずは母性の海への感謝からです
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神の言葉とは、旧約聖書にあります。 人生の知恵は、老子にあります。 生活の知恵は、仏典にあります。 これらを勉強することは大切です。 しかし、一番に大切なのは自分の真我を発露することです。 知識を勉強するとは予備知識であり、真我を発露するための予備の知識です。 しかし、社会では知識も必要ですから楽しんで勉強していけたらいいね。 旧約聖書、老子、仏典も楽しめたらいいね。 今はネットにあるから無料でも良いです。 気になることが自分には最善だった。 これが言えると思います。 ありがとうございます。気になることが自分には最善だった
今日の気になったことは状況は必ず変わると言うことでした。今がダメだと思えば逆にダメな中にいる覚悟を持てば良いです。本当にダメならば、すっとやめられるものです。まだその場所でやることが残っているから気になるのかも知れません。暴力からは逃げた方がいいです。常識から判断しましょう。話はそれましたが、私は目の前に困難があれば、困難を避ける努力をした上で、避けられない困難は体験した方が良いと考えています。なにかの深い因縁の昇華かもしれません。雨が降ってもいいし、風が吹いても良いの心境でOKです。人生にはトラブルや問題があるのが自然だから、目の前の困難を避けたとしても別の困難がやってくるだけです。どっちに進んでも困難が体験しなければならないのなら逃げない覚悟を決めて逆の困難の中に入れば良いです。一緒に困難と地獄まで行...状況は必ず変わるから逆に安心なのです
これからは犯罪が横行する想定です。ですから無理は不要ですが、最近に家族にあった話です。私の母は、心のバランスがすぐに崩れて暴れる人なのですが、口頭でそれはよくないと説明、注意しても謝らなかったし反省もしなかったのですが、最近は母が落ち込むまで反省するようになりました。みんながみんなそうではないですが、まさに悪人正機だと思いました。罪を犯しても深く反省して、善行を積めばその人は救われます。これは身内の例ですが、社会には悪意を想定して、わざわざ苦労する必要はありません。勉強をして苦労を避ければ良いです。それでも体験する苦労は何かの昇華だと思い、感謝をしながら体験すれば良いです。今日の言いたかったことは人の成長を待つことでした。ありがとうございます。なんとかなる
もし現代に釈尊がいたならば釈尊も老子と同じように先祖供養を絶賛していたと思います
私は先祖供養をすると良いと思います。 仏壇や供養の一式を持てない方は、心中でのご先祖様への自分なりの感謝のことを捧げれば良いです。 これはカネもかからずに自分の思いやり、困っている先祖を慰めてあげたい気持ちから継続できるものです。 無理に先祖供養をする必要はないです。 自分から困っている先祖を慰めてあげたい気持ちのある方のみがすれば良いことです。 他人の視線を意識しても続かないものです。 これはご縁ですから無理は不要です。 ところで老子は先祖供養をどう話しているか? 家庭見るときは先祖供養の有無を見るんだよ。 地域を見るときはその地域全体の先祖供養の有無を見るんだよ。 国を見るときはその国全体の先祖供養の有無を見るんだよ。 と先祖供養を絶賛しています。 もし現代に釈尊がいたならば釈尊も老子と同じように先祖...もし現代に釈尊がいたならば釈尊も老子と同じように先祖供養を絶賛していたと思います
心とは向き、方向なのだと思います。悪事に心が向けば悪事に行き。愛情に心が向けば愛情に行く。感謝も同じでなにに感謝をするかを自分との真剣勝負なのだと思います。生かされている原点への感謝なのか?太陽さんへの感謝なのか?地球さんへの感謝なのか?大自然さんへの感謝なのか?真我への感謝なのか?ご先祖様への感謝なのか?これを日々に自分との真剣勝負です。他人に見せるものではなくて、自分の心中で継続していくことです。幸せなとき、楽しいとき、心配なとき、不安なとき、苦しいときに感謝できるか?これを24時間、365日。憎しみの気持ちがあっても感謝を向けられるか?心を感謝の方向に向けられるか?これが本当の自分(真我)に問われていると思えてなりません。今日も感謝をしてやりましょう。ありがとうございます。なにに心を向けるのか?
欲がないときは、静かなものです。 もし自分が不調を感じれば、不調に抵抗するのでなく、それもしかたないと受け入れることです。 そして、日常を淡々を過ごして行けば良いです。 楽しいなら楽しみに感謝して幸せなら感謝して苦痛があれば流れをみて心配があれば大いに心配してあとは忘れていましょう。 生きている期間限定のことだから安心していて良いです。 けど体は動かしていましょう。 自分にあれがないこれがないというのは最善かもしれません。 有ったら有ったでトラブルの元ですし、余裕があると犯罪を犯してしまうかもしれません。 ないことや有ることを悲観せずに、ないも有るも感謝して淡々と生きていましょう。 それを持たされた理由、もたされなかった理由がそのうちにわかることでしょう。 人生は長いから希望を持って生きていけたらいいね。...いつか死ぬから安心していていいんだよ
これからは愛情が大切に思います。 愛情=思いやり=優しさ=慈悲 とも言えそうです。 戦争のとき、戦地にいる兵隊さんは、明日死ぬ自分の命の心配よりも家族だけは、子どもだけは、と思っていたかもしれません。 愛情からの思いだったと思います。 自分の残りの寿命は考えれば誰かに何かに愛情をあげたいものです。 カネでしてあげられることもありますが、カネがなくても言葉で行動でできるものです。 言葉も行動もできないときは、心中で愛のある言葉を思ってあげるだけでも良いです。 相手の先行きを心配してあげるだけでも良いです。 それでもできないときは愛の眼差しでも良いです。 これで相手の未来が変わっていくかもしれません。 なにか皆様の参考になれれば、幸いです。 ありがとうございます。そこに、愛はあるんか?
そんなに体と心に力を入れるなよ。力みすぎてもよくないよ。脱力脱力。体は動かして体は力を抜いていればいいさ。どんなこともやがてこの世に捨てて逝くのだからなにを慌てる必要がある?気楽で元々だよ。生活用品を大切に責任を持って所有することは大切だけど、過剰なものまで所有すると苦しみも増え出すものさ。まあ、肩の力を抜いて脱力してみようよ。あわてないあわてない。一休み一休み。と大自然から伝わってきそうです。ありがとうございます。あわてないあわてない。一休み一休み
自分が犯罪に巻き込まれる想定もして、愛情を与えて行きましょう
カネも、仕事も、家族も、健康も、自分の肉体もいつかはこの世に置いて逝きます。 今回の生において、持たされているものです。 他人の持たされているものを見て、自分と比べて悲観したります。 自分が持っていないものを、他人の持っているものとを比べて悲しんだり、嫉妬したりします。 これは自分から愛情や感謝、慈悲を出すことで将来に現実が変わります。 だから「現在」持っていないからと言ってあわてることはないです。 順番が逆で、まず自分から他人に出して、「時間差」で自分が受け取るだけのことだったのです。 持たされている人を観れば、その人は過去に自分から愛情を出した過去があるのです。 ですから、自分の愛情を他人に向けて出せば良いのです。 自分が出した愛情を受け取るには「時間差」があるので淡々と愛情を出すことです。 個人への...自分が犯罪に巻き込まれる想定もして、愛情を与えて行きましょう
幼くして死んだ子どもは、誰もが仏様の蓮の花の花弁一枚一枚になります
人生は生かされている上での出来事。 これは悩みも、苦しみも、心配も、苦労も生かされている上での幸せなことだったと言えます。 もっと大きな悩みや苦しみや心配や苦労があったかもしませんが、今はそのくらいで済んでいます。 10代20代の身を削るほどの悩みも80代90代の頃にはできません。 祈るような日も、楽しい日も、すべてが一瞬の出来事であり、すべては変化して行きます。 救い=変化 生かされているだけでも救いです。 もちろん、地獄のような出来事もあることでしょう。 けど寿命までのほんの数十年です。 親も子どもが死ぬという生き地獄を体験している方もおられるものです。 けど、親は死んではダメです。 寿命まで生き切って死後に子どもと面会しましょう。 幼くして死んだ子どもは、誰もが仏様の蓮の花の花弁一枚一枚になります。...幼くして死んだ子どもは、誰もが仏様の蓮の花の花弁一枚一枚になります
感謝をしている最中とは人は宇宙と解け合っていると思えば夢がありませんか?
最近に自分は最期の最後にどう思うかを想像してみました。 私は最後には感謝していると思います。 感謝の継続が私の修行であると考えます。 生涯にストーンと落ちるような感謝は数回ですが、日常の感謝は無限です。 この宇宙にストーンと落ちる体験を私は小学生の頃に体験しています。 私は荒れた家庭環境から人の情けを知らずに、同級生の情けをもらってから宇宙に落ちました。 不良になりつつある人生だったのが一瞬で変わりました。 宇宙=感謝の継続 今ならばこう思います。 感謝をするとはその場にいながら、仕事をしながら、家事をしながら、勉強しながら宇宙と解け合うことです。 宇宙の本質は感謝です。 感謝をしている最中とは人は宇宙と解け合っていると思えば夢がありませんか? 自分とは宇宙だったのです。 ありがとうございます。感謝をしている最中とは人は宇宙と解け合っていると思えば夢がありませんか?
本日の記事の投稿は、お休みです。 楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
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春は、気温の高低差で心身の不調があるものです。 高低差の激しい気温の変化で体のホルモンバランスが崩れます。 そんなときは、無理をしなくて良いのです。 自分の心が弱い、強いの問題ではなくてホルモンバランスによる自然現象だからです。 眠くなれば寝るように、ホルモンバランスが崩れて不調を感じれば心を休めて良いのです。 自分は人から不要に思われてないか? 自分はここにいてはいけないのではないか? そう思えば、逆にそこにいて欲しいです。 自分は不要なのだと思い込んで、最悪の結末を迎えて人の心に傷の残さないようにそこにいて欲しく思います。 自分はその場に、不要なのではないかと思うのもホルモンバランスからかもしれません。 一時的なことだからゆっくりで大丈夫です。 ありがとうございます。春はホルモンバランスからの不調に注意です
今日は、自分の死について考えています。 生まれた以上いつかは肉体や持っているもの(仕事、家族、異性、カネ、肩書きなど)をこの世に置いて死んでいきます。 私も遅かれ早かれです。 生まれてくる奇跡。 それでも生活できる感謝。 これを思えば、まだ死にたくないです。 一休も良寛も最後に「まだ死にたくない」と遺しています。 これはこの世への賛辞です。 心の道を修めたから出る言葉です。 自分も人もいつか死ぬことを思えば悪いことはできないものです。 死を意識するだけでも道が正されて、正気に戻るものです。 だから、自分の正気に戻してくれる人は、いい男でありいい女です。 幸運=正気になること これも言えると思います。 幸運=自他の死を意識して正気に戻ること。 だと私は思います。 ありがとうございます。幸運=自他の死を意識して正気に戻ること
自分なりの個性的な想像で良いので体験しなくてもよい危険を創造して避けていましょう
事前に被害を想定して「想像」すること。 想像で体験せずとも避けられる危険があります。 浮気を続けていればどうなるのか? 無謀な金銭の使い方をしていれば生活はどうなるのか? 食べ物に選ばずに暴飲暴食していれば今は良いが数年後はどうなるか? 怒ってばかりだと心身の健康はどうなるであろうか? このように被害を想定していますと、その後の顛末が分かり出します。 事前に想像力してわかるとは知恵であると釈尊も遺しています。 自分なりの個性的な想像で良いので体験しなくてもよい危険を創造して避けていましょう。 ありがとうございます。自分なりの個性的な想像で良いので体験しなくてもよい危険を創造して避けていましょう
女性の一人旅の時に暴漢に襲われるかもしれない被害の想定と対策をする場合、と暴漢に襲われる被害の想定と対策の無い頭がお花畑の場合とはではどちらが安全であり結果が違うか?
自分から見える景色とは 「形」 と 「名前」 であっただけ。 形と名前の組み合わせで無限に出来上がる、世の中で私たちは喜怒哀楽していただけだった。 この流れの中を泳いでいるだけなので、なにもあわてることはなかった。 この宇宙の中の流れの中にいて、息ができるだけでもありがたい、生かされているだけでもありがたいと下から目線であればすべてはありがたいことだった。 苦労も、失敗も、病気も、借金も、仕事も、家庭も、勉強も、カネも、異性も、形と名前の組み合わせに喜怒哀楽していただけだった。 だから真我の視点では、初めから何も起こってはいなかった。 自我(エゴ)があったから形と名前の組み合わせの内容が本当にあるように錯覚しただけだった。 しかし、そうはいっても実際の生活、社会の中では危険があるものです。 事前に危険の被...女性の一人旅の時に暴漢に襲われるかもしれない被害の想定と対策をする場合、と暴漢に襲われる被害の想定と対策の無い頭がお花畑の場合とはではどちらが安全であり結果が違うか?
人のために何か出来ないかと考えていきます、謙虚な方は、自分は、人になにもしてあげられないと思うものです。 しかし、それで良いのです。 今は善意を利用されて犯罪もありますから、具体的に与えられなくても、与えてあげたいという「思い」でも十分です。 仕事や、家庭や、勉強をしていますと思うように人に与えることができないものです。 時間がないこともあり、助けたくても助けられないことが多々あります。 そんな個人の背景もありますし、相手の苦しみを取り除いてあげたい、楽しい思いをさせてあげたいという「思い」だけでも価値があるものです。 ニュースを見ていても、可哀そうと思える自分なのか? 被害に遭った人を笑う自分か? これが個人によりわかれそうです。 これからの社会を冷静に見て行きましょう。 ありがとうございます。ニュースを見ていても、可哀そうと思える自分なのか?
何もできない自分だけど、お役にたちたいという思いだけでも十分なのです
心の喜びとは、究極を言えば誰かの、何かのために与えてあげることだと思います。 自分一人だけ悟ってもつまらないし、自分一人だけで幸せになってどうするのでしょうか。 人生の目的の一つの真我の探求はおおいにすれば良いです。 しかし、真我に目覚めたあとの生活があるわけです。 真我に目覚めるのがゴールではなくて、通過点です。 その後の生活があるわけです。 家賃もかかるし、食費もかかるし、仕事もあるし、家庭もあるし、勉強もあります。 それならば人のお役にたちたいと思うのが自然ではないでしょうか? 理由は、日常生活のもったいなさに気づくからです。 もったいなさに感謝せずにはいられないです。 死ぬまでに誰かの何かのお役にたちたいと思うのも自然な気持ちだと思います。 真我に目覚めなくとも誰かのなにかのお役にたちたい思いとは...何もできない自分だけど、お役にたちたいという思いだけでも十分なのです
そんなものは無い。 初めからかなにも無い。 何も無いから心が歓喜であり、至福であり、静寂なんだ。 汚れたと思うのはエゴ(自我)があるからなんだ。 けどそのエゴですら真我の作り出したものなんだ。 だから初めからなにも無い。 有ると思っているだけなんだ。 無とは、歓喜なんだ。 心の歓喜なんだ。 心が歓喜していればそれは悟りなんだ。 始めから悟る必要なんてなかったんだ。 悟っている自覚の有無だけで人は元々悟っていたんだ。 日常に溶け込むから静かな歓喜になっているだけなんだ。 私たちの本性は無であり歓喜なんだ。 ありがとうございます。私たちの本性は無であり歓喜なんだ
防御に徹するのは心を安静にして楽しんで人生を生きることが目的です
自然界のもっとも弱いと言われる水がなぜ最強なのか? それは自然界にそって自分の姿を変化させることができるからです。 ダムのように水を溜めれば、ダムが決壊すれば一つの街を破壊するほどの攻撃力です。 しかし、私のいいたのは攻撃ではないです。 水の本質は攻撃ではないです。 ここが注意です。 水が最強なのは、その防御にあります。 老子はこれをなんと言っているか? 1歩や2歩攻めるよりも何歩でも良いので後退して防御に徹すること。 だと記憶しています。 ですから老子は、水の防御を絶賛しています。 仕事や家庭や仕事で何か問題があれば、相手を見てへりくだり防御に徹することも参考にされてください。 相手にへりくだるのもただ無難に済ませたいだけです。 まだカネの問題で済めば良い方です。 これが心身の健康や命などが犠牲になって...防御に徹するのは心を安静にして楽しんで人生を生きることが目的です
つまり自分で 自信がある=価値がある と思えるか思えないかだけだったのです
自信の有無とは自分に価値があると思えるか、思えないか。 価値=自分は素晴らしい=自分はすごい=自分は存在するだけでも価値がある と思えるかどうか。 これを思えたならば、現実の現象は別にして、今の感じ方が自信があるということです。 これを理屈で見ていきますと ・自分は本当に自信がないのか? ・自分はそれくらいで価値がなくなる=自信が無くなる存在か(いいや、それだけで価値=自信がなくなる存在ではない) ・では、私は自信=価値がないと思い込んでいるだけだ と現在の感じ方に疑問を持って、本当に自分は自信がない=価値がない存在か? と解いて行くことです。 するとわかるのが ・私は自信がないと思い込んでいたが、そもそも自信があった ・「理由のない自信」が自分にはあった ・これでいいのだ、これが自分だ とわかりだします...つまり自分で自信がある=価値があると思えるか思えないかだけだったのです
出来て当然、わかって当然、これくらい当たり前と社会では言われることがありますが、そんなの関係ないです。 社会人生活では、はいはい、そうですね~とうなずきながら心中ではイマニミテオレ~でOK。 だから周りの人はこのくらい出来て当然、これくらいわかって当然という態度をとるものですが挨拶みたいなものです。 ですから、給料が支払われているのであれば虎視眈々と頑張れば良いです。 下から目線というのは、出来なくて当然、わからないのが当然ということです。 成功するよりも、ダメダメでもいいので挑戦することが大切です。 ですからダメダメで良いのです。 それでも自分がヘナチョコパンチの一撃を出せるかです。 負けて続けても良いのです。 それよりも自分がヘナチョコパンチを出せるかです。 ダメダメな自分だから可愛いのです。 ありが...ダメダメな自分だから可愛いのです
憎しみを植え付けて不幸にするのが目的なので、その逆をするのです。つまりもっともっと幸せになるのです
済んだことを終わりとして、新規に前を向くとは簡単なようで簡単ではないことでしょう。 これを難しくしているのは、当時のまま今の自分が固定されている思いと過去への執着ではないでしょうか。 子どもをみてみるとわかりますが、年齢の低い子どもほど友だちとトラブルがあっても泣いたあとは次の瞬間には気にしていません。 これは所有感と記憶が関係することでしょう。 では、所有欲もある、記憶もある大人はどうしたらいいでしょうか。 冷静に損得で考えることだと思います。 犯罪に遭えば、犯人は憎しみをばらまく動機を静観します。 次に犯人の自分勝手な動機にいつまでも苦しんでいるのはまんまと犯人の思惑にハマっているということです。 憎しみに囚われずにもっともっと幸せになる。 忘れはしないが恨まない。 これだと思います。 憎しみに囚われ...憎しみを植え付けて不幸にするのが目的なので、その逆をするのです。つまりもっともっと幸せになるのです
幸運、不運には感謝して受け取りますが、過剰に喜んだり悲しんだりはしません
幸運が来ますと嬉しいものです。 不運が来ますと悲しいものです。 幸運も不運も両方セットでやって来ます。 幸運の裏には不運があります。 不運の裏には幸運があります。 ですから幸運、不運には感謝して受け取りますが、過剰に喜んだり悲しんだりはしません。 嬉しい、悲しいの高低差の波があるから落ちた時が苦しいです。 けど覚醒には、この高低差の波が美味しいのです。 それは落差体験が自分を覚醒へと導くからです。 覚醒したどの聖者も落差体験をしているはずです。 覚醒初期の死ぬほどの悩み。 悩み抜いて働く母性からの施しから宇宙に溶け込むこと。 飛ぶ鳥が落ちて覚醒する人。 きっかけは様々ですが、みな同様に落差体験をしています。 ですから今の生活を諦めないことです。 落差体験が自分を覚醒へと導くことでしょう。 ありがとうござい幸運、不運には感謝して受け取りますが、過剰に喜んだり悲しんだりはしません
悟りの先にあるものとは、静寂だった。深く悟り、あまりのもったいなさに気づくと黙るしかない。黙って無言で生活するようになる。それは、あまりのもったいなさにどんな言葉も不要になるから。直感的に、体験してわかってしまうから。これで良い、これでいいのだが腹に静まります。そして、純朴な赤子に戻っていくのだ。だから初めから純朴な子どもであれば、純朴さをなくさない育て方、生き方が大切です。人生を良く収めた者は純朴な赤子へと戻っていくのだ。だから純朴な子どもとは人の到達点でもあるんだよ。ありがとうございます。そして、純朴な赤子に戻っていくのだ
一度キリの人生ですから失敗をしても諦めずに挑戦して行きましょう
もう4月も中旬に入っています。 昨日までお正月だったと思ったのが、もう4月です。 時間の流れが加速しているみたいです。 時間というのは必ずしも一定方向に流れているわけではないです。 私の感覚的には今生きているということは、現在に過去も、今も、未来も同時に存在してると感じます。 つまり生かされているのが答えなので、これからいくらでも幸せになりようがあるということです。 生きる=チャンスがある=悟れる 一度キリの人生ですから失敗をしても諦めずに挑戦して行きましょう。 歩みを止めなければ最後は大往生です。 ありがとうございます。一度キリの人生ですから失敗をしても諦めずに挑戦して行きましょう
因果では起こることに不幸はなく、因果という原因と結果による昇華作用だった。起こる現象に良い悪いと色をつけていたのは私たちだった。だから、起こる現状とは因果の昇華なのだから感謝している方がお得で最善だった。つまり、これでいいのだということ。因果とは感謝の法則だった。これが言えると思います。ありがとうございます。因果とは感謝の法則だった
生まれた時は体一つでした。子どもになり、思春期を迎えて、大人になり、この間にもいろいろな物を所有します。その後に壮年になり老人になり地へと帰ります。なんということでしょう。初めから自分の物など一つもなく、生きている間に物を持ったとしても、いっさいをこの世に捨ててあの世への帰ります。つまり、今あれがないこれがないと思いましても、何もないのが人の自然な姿だったのです。なにも所有しない、所有できない、あるのは所有感という感じ方だけだったのです。この所有感を満たすために人は喜怒哀楽を繰り返しています。みな、いい思いがしたいのです。自分が何も持っていないように感じていても大丈夫です。現状への感謝の継続が、結果的に待たされるようになります。感謝とは時差がありますが、現状を改善する力があります。ありがとうございます。自分が何も持っていないように感じていても大丈夫です
社会に陰が深まって、陽に転じる準備をしているので忍耐強くいましょう
今日に感じますのは、陰が極まれば陽に転じるということです。 最近落ち込んでいたのですが、これ以上ないくらいに落ち込むと(陰)急に気持ちが明るくなります(陽)。 この陰陽を今の世の中にもあると想定します。 つまり社会にもうダメだ、もうお終いだ、と思うような出来事が起こると反転するということです。 今は社会に陰が深まって、陽に転じる準備をしているので忍耐強くいましょう。 未来は天国だと私は信じきっています。 心が落ち込み陰から陽に転じるのは健康な心を持っている場合ですので、日常的に心に不調を感じている方は医師の診断、診察が大切です。 ありがとうございます。社会に陰が深まって、陽に転じる準備をしているので忍耐強くいましょう
人を愛するとは真剣なものです。 親子関係をみまして真剣に怒りながら泣く親のことは生涯忘れることはできませんし、子どもの頃に真剣に怒ってくれた人のことを生涯に思い出すものです。 それだけ人を愛するとは真剣なことです。 命がけです。 みな、母親が命がけで産んでくれた元子どもたちです。 地球が、母がお腹を痛めてくれました。 よくある話が私は愛されてこなかったと思い込んでいることがあります。 しかし、よくよく考えてみますと赤ちゃんのなにもできない頃におむつや食事の用意をしてくれた人がいたわけです。 泣けばあやしてくれて、一緒に遊んでくれた人がいるから今の私たちがいます。 それ以前に母が必死に赤子が宿るお腹を守り、死ぬ可能性がある中出産して命がけで産んでくれました。 これだけの愛をいただいているわけです。 不満がで...人を愛するとは真剣そのもの
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祝福の言葉とは?〇〇さんありがとうございます。です。感謝の言葉は最強です。呪いを反射します。逆に相手を攻撃する思いは弱くて継続がないです。人を恨む思いよりも愛や感謝が強かったのです。だから笑って感謝をして生活をしていれば呪いは相手に跳ね返ります。アホでいきましょう。ありがとうございます。アホでいきましょう
よくよく思い返してみますと人生とはいい意味で諦めの連続だと思います。諦める経験を積んできたから今の幸福や幸運があるのでしょう。もちろん、諦める前には自分なりの最高の努力が必要です。仕事も家庭も勉強も簡単に諦めてはダメです。諦める前の自分なりの努力が必要です。その上での今の幸福であり幸運だと思います。新規で得るよりも手放す時の方が苦しいものです。手に入ったら新しい苦労の始まりです。盗られないか?失くさないか?壊れないか?などの苦労です。ないならないで気楽なものです。けどなくしてから気づくより、今日を最高の努力をしてなくなさないように頑張りましょう。努力できる期間とは限られているものです。きっと人生もあっという間です。ありがとうございます。きっと人生もあっという間です
最近も自信について考えています。 ・私は素晴らしい、と思ってもいい ・私はすごい、と思ってもいい ・私は価値がある、と思ってもいい これを無条件で思えるか思えないかが自信をわけるようです。 つまり「今のままの自分」をそのままでいいんだよ、ということです。 不幸なまま、惨めなまま、苦労があるまま、劣等感があるまま思って良いということです。 自分が感じている不快な感じ方は果たして自分か? 本当の自分はそんな不快な感じ方をするのか? ここでも真我の探求の 私は不快な感じ方をするような人間か? いいえ、私はそんな人間ではない。 ということです。 私は素晴らしいと思えなくても、「私は誰か?」「これは私ではない」と真我の探求で静寂の海を体験します。 自信のない私は私か? いいや、それは私ではない。 これは本物です。 ...自信のない私は私か?いいや、それは私ではない。
黙っていても責められ、 長く話しても責められ、 少ししか話さなくても責められます。 つまりこの世に責められない者はいないということです。 人から責められることを特別なことではなくて、人から責められることを当然、このくらい当たり前と思ってやっていけばたいていのことは大丈夫です。 自分のことを嫌う人はなにやっても嫌うものです。 聖人の釈尊もキリストも命を狙われました。 聖人でもです。 一般人の私たちならば人から責められるのは当然であり、このくらい当たり前です。 そんな中を生きてやりましょう。 生き抜いてやりましょう。 生きる勇気になれれば幸いです。 ありがとうございます。自分のことを嫌う人はなにやっても嫌うものです
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日々に思いますのは食事への感謝です。 特にお米と水への感謝です。 これを食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください。 なんとか生きて行きましょう。 空腹でも痛くても生かされるときは生かされます。 ありがとうございます。食事をする「毎回に感謝」をすることを参考にされてください
日々に生活していますと、人生とはプレゼントであったと感じます。嫌なことも悲しいことも辛いことも生かされている上でのことです。逆に美味しい味も楽しいことも幸せも幸運も生かされているから感じられることです。当たり前、有って当然だ、そんな視点だと見逃してしまう人生のプレゼントです。なんとなく過ごしてしまう日もありますし、祈るような日もあります。これも人生のプレゼントです。これでいいのだ、と認めて感謝をするのが日々の感謝です。人生は長くても数十年ですからあわてずに生きていきましょう。こんな本があります。まいにちがプレゼントhttps://amzn.asia/d/ijSW2Wxありがとうございます。毎日がプレゼントだった
先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です
自分が被害を感じましたら心中にて被害を最小限にしていただいてありがとうございます。と感謝をするのが良いです。被害を最小限に抑えてくれたのはご先祖様のお蔭だからです。私たちはたくさんのお蔭様で生活をさせていただいているにすぎません。その都度の感謝が無いと二度目の幸運は無いです。苦しくても、辛くても、みじめでも、悲しくても、苦労をしていても良いので感謝が大切です。心中での日頃のご先祖様への感謝の継続も幸運を呼ぶ秘訣です。ただし感謝一辺倒の先祖供養です。ご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です。老子も弱者を忘れた強い者勝ちの社会はいずれ崩壊すると指摘しています。また老子は先祖供養を絶賛しています。いろいろある社会ですが自分の家系の先祖は自分で供養する責任を待つことが大切です。自分ただ先祖の先頭...先祖供養とはご先祖様という忘れられた弱者を思い出してあげる心の行為です
最近は自信について考えます。 心理系の本でも自信の有無の話は良く出てきます。 人生でも最後は自信の有無が大切に感じます。 では、自信の無いと思っている人はどうしたらいいか? ・完璧な自分、完璧な自信で無くていい ・他人と自分と比べる自信でなくていい ・今のままの自分をダメなんだと思い込まなくていい これだと思います。 つまり、今のままの自分でOKであるということです。 今のままの自分でだから愛される価値がある。 今のままの自分だから素晴らしい。 今のままの自分だから許されている。 これだと思います。 心理系の本に良く出てくるのは「自分だからOK」という自信です。 自信を失くときは理由もなく自信が無いような「感じ方」をしますが、自信があるという「感じ方」も理由がないものです。 理由のない自信が「自分だからO...今のままの自分でOKです
真我を思い出しても日常生活は続きます。 自分の日常生活を送れているとは、真我の究極の姿です。 それは日常生活の中での感謝の継続があるからです。 真我に目覚めてもすぐにしらふに戻ります。 真我に常駐すると、もったいないくらいの感謝に気づき始めます。 それが自分の日常を送れることです。 他人の人生を進んでもいいことはないです。 自分の人生とは真我の探求です。 景色には色々な誘惑がありますがそれでも真我を探求できるか? これが問われています。 自分を探求する言葉は 「私は誰か?」 「それは私ではない」 です。 雑多な困難な日常だから価値があります。 ありがとうございます。雑多な困難な日常だから価値があります
今日に胸に響いてくるのは「忘れるくらいでちょうどいい」です。無意識の力から言っても、軽く希望を思い、その後は「忘れて」目の前のことに集中すると良いと思います。老子の指摘にもあります。余計なことを忘れて忘れて忘れたときに最後に残るもの。こう指摘されています。では、仏であった宮沢賢治はどう遺しているか?よく見聞きし分かりそして忘れずあれ?老子と言っていることが逆です。しかし、世の覚者がいうことは道理がありそうです。つまり、老子は個人と社会全体の最善を指摘し、宮沢賢治は社会全体と個人の最善を指摘したと想定します。老子は、ここに書かずとも人智を超えているので王様でも個人でも全体でも当てはまります。宮沢賢治は、慈悲で話されたと私は考えます。彼の発言にも悲しみ=慈悲があるからです。けっきょく何を言いたいのか?思い出し...思い出しても忘れても、これでいいんだよ
悟った後に人はどうなるか? 瞑想を続けることでもなく、人里を離れることでもなく、逆に人の中に、社会の中に居ます。 悟った後でも食費も家賃もかかります。 悟ったとしても子育てはできません。 ところで釈尊は、どうだったか? 社会の中にいました。 これを禅を広めた鈴木大拙はなんと言ったか? 逆に苦しみの中に入っていく。 そうです。 喜怒哀楽をして苦しみながら社会で自分の仕事や家事や勉強をする人こそ、悟りの到達点だったのです。 意外でしたか? 自分なんか悟れないと思っても、自覚がないだけで悟っていた。 悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった。 これが言えそうです。 ありがとうございます。悟りのど真ん中に居たから悟っていることに気づけなかった
今日は音楽を 胎動(NewBirth)https://youtu.be/btqHrVYO3KI?si=7-umzZUB802Dm8A- 参道で思い出すのは、神社参拝の参道です。 参道=産道 これを思います。 神社参拝を計画するときから、すでに神社参拝は始まっています。 神社に参り、参道を歩きます。(礼は省いて書いています) 本殿への参拝を終えて、また参道に参り、帰宅します。 参道の行き帰り(生き返り=ヨミガエリ)で新しい自分を生み出します。 生み出す力=母性の海=真我 自然現象も同じで、早朝に太陽が昇り、夕方から夜にかけて太陽は沈黙します。 そう思いますと神社の参拝とは、理に叶った科学と言えるのかもしれません。 まだ化学が追い付ていないだけかもしれません。 昨日の夜に寝まして、早朝に起きる。 新しい自分の...参道(産道)を通って胎動を成す
罪を犯して許されるとは幸運です。 一回罪を犯して、それですべてが終わりでないです。 命ある限り人生は続きます。 残された人生で、自分が犯した罪を深く深く泣くほど反省したならば、罪以上の善行を積めば良いのです。 それでも生かされている、これが答えです。 残りの人生をなにに、誰のために使うのか? 感謝を忘れていたころのようにまた罪を犯すのか? それとも感謝を継続して、新しい自分になって善行を積むのか? 一度や二度の善行ではなくて、善行の継続をしていきましょう。 善人とは善行を継続するから善人なのです。 心中で感謝を継続して善行をする人は神から、天から、本当の自分から許されていきます。 ありがとうございます。善人とは善行を継続するから善人なのです
他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています
犯罪や危険を想定して避ける努力は大切です。 犯罪に遭ってしまった場合は淡々と法的な対応をしていけば良いです。 心中では慈悲を持つのが良いです。 罪人も病人も弱者も将来の自分の姿です。 罪人には、これを思えば再犯に注意しながら、物理的に距離を持って、相手を注意することができます。 病人も弱者も将来の自分の姿だと言えます。 たまたま病人や弱者という役を相手がしてくれているだけです。 カネ持ちなったかと思えば貧乏になる可能性もあります。 安定した生活かと思えばいつでも不安定な生活になります。 その逆に 貧乏ではカネ持ちになることはざらにあります。 不安定な生活でも努力で安定した生活を維持することができます。 ですから、現状だけを見て自分の人生の結論を急がずに、虎視眈々と挑戦すれば良いのです。 他人が自分の人生を...他人の人生を生きているのではなくて、自分は自分の人生を生きています
なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい
現在に良いことがないと思い込んでいる人には、これからの人生生きていればいいことがあると言います。これから先良いことがないと思い込んでいる人には人生は短いから挑戦して行こうと言います。人により言い方や答えが逆なのは、待機説法だからです。人により伝え方や答えが逆に見えましても、自分を生かす生き方には違いはありません。目に見える、耳に聞こえることは違いがありましても長期の視点ではその人が生きます。生かされます。それで良い、これで良いと釈尊のほほ笑みと笑い声が聞こえてきそうです。「なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい」と。予算内で美味しいものを食べて明日の英気をやらないましょう。ありがとうございます。なにをクヨクヨする必要があるのか。人生は一度からだから挑戦しなさい。進みなさい
心は永遠ですが目に見える景色は変わって行きます。一時的に目に見える景色にこの世の全てはないのです。景色を発現させている心を含めて真我です。景色も真我ですが、真我を探求するときは、自分の心を見詰めます。心を見詰めた結果、真我=全=禅=allだと直感的に気づく時が来ます。全体で一つで生きていたということです。知識として知っているだけでも真我を意識できると思います。真我は体の中央右胸3cmに在ります。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。知識だけでも知っておくと良いこと
苦しいとき、辛いときは、自分の心を見詰めるチャンスです。 景色という変わってしまうものではなくて、心という永遠を見詰めます。 ・私を見詰める、私を見ます。 つまり真我を見詰めます。 誰の胸に体の中央の右側3cmに真我が在ります。 真我の発露具合が人により様々なだけです。 意外と近所のあのおじさん、おばさんが。。。ということもあります。 実は自分の真我の発露に気づかないだけで。。。夢があります。 とにかく、今日の言いたいかったことは苦しいとき、辛いときこそ自分の心を見詰めるチャンスなのです。 悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった。 これを覚えておいていただければ幸いです。 ありがとうございます。悟りとは遠くにあるのではなくて、自分の右胸にあった
天が人を助けるときは、本人に気づかれずに、圧勝ではなくギリギリで、紙一重で助けます。 助かるときは痛かったり、空腹ではあるけれども、紙一重で助けられて行く。 もし被害があったとしても助けられたならば感謝をすることが大切です。 幸運を授けてくれるのはご先祖様です。 ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です。 神社でも同じです。 参拝のたびに「いつもありがとうございます」など自分の言葉で良いので感謝がしていくのが大切です。 神仏がご先祖様が陰からくれた幸運への感謝がないと二度目はないからです。 忘れてしまいやすい感謝ですから良いのです。 ありがとうございます。ご先祖様が陰からくれた幸運に感謝をしていくことが大切です
今日はこの曲から 「home」https://youtu.be/XbCsY4-HV8M?si=3wO86Y0PId-ENhNA 思ってもみれば真我に目覚める、達成する、思い出す、自分を忘れるとは ・本当の自分に帰ること これだと思います。 神社参拝も真我への参拝です。 本当の自分に帰ること、とは ・本当の自分=太陽=母性 ・本当の自分=地球全体=母性 ・本当に自分=無=真我 知識を知っているだけでもいつか思い出すかもしれません。 そのままの自分はすでに母性だった。 自分におかえりなさいと言いたいね。 ありがとうございます。そのままの自分はすでに母性だった
・人生とは苦であるby釈尊 釈尊はこのように一言で人生を表しています。 禅を広めた鈴木大拙も苦しみを ・人は苦しむことができる と遺しています。 なんということでしょう。 人は苦しいのが自然の姿だったのです。 仕事が苦しい、家庭が苦しい、勉強が苦しいとは人間の自然な姿だったのです。 だから、これでいいのです。 もし仕事や家庭や勉強に悩みがなければ人は向上するでしょうか? 仕事=家庭=勉強、悩み=自分がいるから新規の発展があります。 老子も新規を生み出すのは第三の視点だ、と話しています。 仕事=家庭=勉強と自分という二つの間の第三の視点とはなんでしょうか? 負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです。 自分の生活の中で虎視眈々とチャンスをうかがっていましょう。 ありがとうございます。負けない戦い方とは負けるパターンを知っているということです
肩の力の抜いても良いですよ。 あせってもいいことないし、深刻になっても物事は良くならないです。 肩に力が入っているときはお笑いです。 ネットで無料の動画や漫画や小説や漫才がありますの参考にされてください。 体が緊張してるとなと思えば、無理のない軽めのストレッチです。 血流の良さが心身のストレスを軽減すると想定します。 冷静になれば目の前のことで起こっていないことを過度に心配しても事態は好転しないことがわかります。 予算内で美味しい食べ物や飲み物をいただいてリラックスした方が良いです。 仕事も家庭も勉強も幸せになるためにあります。 仕事も家庭も幸せも人生の一部です。 一部だけを見て絶望するのでなく、全体を見れば良いです。 これはダメだけどあれは良い、と。 全体で自分や人をみてあげられたらいいね。 肩の力を抜...全体で自分や人をみてあげられたらいいね
ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね
人に何かをあげたくても、カネもない、物もない、かける言葉見つからない。そんな人生の時期が誰にでもあるものです。カネも物も言葉もないならば、相手を慈悲の目で見てあげましょうかける言葉見つからなければ、心中で褒めてあげましょう。できることの少ない自分ですが感謝ができます。現状を認めて、感謝をします。私たちの心から慈悲という仏様をお出しします。仏様とは、他人がいることを期待するのではなくて、自分の心から慈悲の仏様をお出しするのです。慈悲のときの自分は、仏様です。相手を慈悲の目で見てあげている時は、仏様だったのです。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね。これでいいのです。ありがとうございます。ダメダメな自分もそれもしかたないよな、と慈悲の目を向けてあげられたらいいですね
手強いと思える現実はやってきます。 そこで自分の次のパンチが弱小でも、何もしないよりも弱小パンチを打つことが大事です。 理由は、人生は時間限定だからです。 今という困難もやがて姿を変えていきます。 あとであの時もっと頑張れた、頼む!もう一回やらせてくれ!と言っても二度体験できない貴重な困難です。 他人にみじめでも、憐れでも、可哀そうに見えても良いのです。 自分の人生なのだから、他人の評価で自分の人生は決まりません。 だからヨワヨワな自分で良いのです。 ヨワヨワながらも挑戦できるかです。 つまり挑戦したという事実が大切なのです。 どんなにダメダメでも挑戦したことを真我は見ていてくれます。 自分なりの弱小アンパンチを打ちましょう。 ありがとうございます。挑戦した事実が大切
感謝の継続とは、感謝を真我、ご先祖様、大自然に奉納するということです。 一人だけ悟ってもなにか面白いのだろうか? 一人だけが悟ってもしかたないです。 悟っても、子育てはできませんし、家賃はかかるし、食費もかかります。 釈尊は真ん中の中道が一番美味しいと言いました。 老子も中道と遺しています。 過去の偉人たち、大自然の言葉に、メトテース、中庸、中今とあります。 つまり、喜怒哀楽しながら未来と過去の真ん中の「今」を生きることが一番美味しかったのです。 汗をかいて、泣いて、苦しんで、笑って、感謝する日々。 感謝して日常を送るという究極です。 頑張ること、努力することは大切ですが、これでいいのです。 現状を受け入れて、感謝する。 人生はこの一言です。 ありがとうございます。感謝して日常を送るという究極です
感謝を継続するとはどういうことか?生かされていることがありがたいから感謝をする。これだけだと思います。自分の命の起源とはご先祖様であり、大自然です。ご先祖様と大自然への感謝しますが真我にも感謝をします。心という真我。肉体という家系の先祖の代表。心と肉体を生かしめる大自然。この3点への感謝があれば最高です。感謝や先祖供養が継続するとは、そこに神が宿るからです。継続と生活態度にその人が表れます。継続には嘘がつけません。理由は、継続が本心だからです。始まりは欲心でも10年も続けば本心です。今日も感謝を継続していきましょう。ありがとうございます。継続には嘘がつけません
心理学の本を読んでいますと共通して出てくるのが ・自分は今のままで素晴らしい ・自分は今のままで価値がある つまり、今のままの自分、現状のままの自分を受け入れて認めるということです。 仏教にもあります通り ・現状を受け入れて、感謝する に心理学も近づいています。 あとは現状への感謝の有無の違いだけです。 しかし、現状のままの自分を認めることが困難な方もおられることでしょう。 その場合、現状への感謝をすることが良いと思います。 私は思いがふつふつと湧いて来るのですが、感謝の継続が最善だという思いが湧いてきます。 最高は、現状を認めて、現状への感謝です。 次は、感謝の継続です。 その次が、現状を認めることです。 現状を認めて、現状へ感謝をすることを挑戦していきましょう。 これは病気や怪我で布団の上にいてもでき...病気や怪我で布団の上にいてもできること
消えていくのは肉体という思考の癖です。 だから真我を信じて行けば大丈夫になります。 現状が地獄だとしても、地獄の中で喜びを見つければ良いです。 仏典に釈尊はある人物を聖者だと言いました。 その人物とは、過酷な環境で生まれ育ちました。 地獄で生きてきたから、その場所で喜びを見つけて聖者と成れました。 一般的にいえば、誰もが地獄から逃げ出したいものです。 釈尊繋がりで手塚治虫の書いたブッダという漫画の中に、釈尊が自分の息子が釈尊に付いていきたいとはなす場面があります。 しかし、釈尊は息子の願いを拒絶します。 その場面は、私には、逃げずにその地獄の中で喜びを見つけるんだよ、と言っているように聞こえます。 しかし、現実問題、避けなければいけない人がいるのも事実です。 誰もがブッダ=慈悲なのだから被害に遭えば相手を...あえて心配しながらこれからの世を生きて行きましょう
因果の昇華のために善悪が生じます。つまり何かが起こるということは、それで良いということです。起こったなら起こったで良いので現状を受け入れて、感謝をします。これでいいのだ。何かが起こって、あとは自分が自分の都合で、勝手に考えて、感じたのです。起こったことを苦しむように「受け取りました」。しかし、苦しんでいる私はいないのです。確かに、痛みや苦しみはありますが、元々そんな私はいません。苦しんでいる私がいる、という想念に実態があると信じています。因果の昇華が起こった時点で、「0」です。執着の深さ具合で苦しみが起こります。けど、痛いものは痛いね。苦しんでいる私はいない。何か皆様の参考になれれば幸いです。ありがとうございます。苦しんでいる私はいない
誰にでも小なり大なりの罪があります。 気づけない罪がありますだろうし、忘れてしまった罪もあると思います。 償っている罪もあるし、現在に罪を犯してしまったかもしれません。 若い頃のご年配の方への罪を犯してしまうというのは、自分が罪を反省できる年ごろになりますと、もうその頃には罪を犯してしまったご年配の方への謝罪がしたくてもできないものです。 ご年配の方が死んでいるからできないこともあります。 同じように、自分も死んでいきます。 自分が死ぬというのは、この世でのカネ、仕事、家族、異性、肩書き、物をこの世に捨てていきます。 生活に必要なものを所有することは大切ですが、あれほど欲しかったカネも異性も肩書も仕事もやがて捨てていくのです。 今は欲しくとも、やがて捨てていくもののために罪を犯すのは割に合いません。 自殺...辛い時、不幸な時、苦労の時も真我は一緒にいてくれます
もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?
すべての生き物の幸福とは?今日もお日様が登ること。確か、バカボンのセリフだったと思います。人が夢を待つときに自分の個人だけでの夢で終わるのか?それとも家族や社会、人類全体、地球、太陽などの全体への夢を持つことができるのか?もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?太陽さんの幸福。地球さんの幸福。それは太陽さんありがとうございます。地球さんありがとうございます。の感謝の言葉です。自分なりの感謝を言葉を継続しましょう。ありがとうございます。もし、自分が夢を応援するとすれば個人だけの夢か?それとも全体を幸福にする夢か?
最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです
物が有る。人が居る。カネが有る。確かに目の前にこれらのものがあります。これだけ見ると、良いものだから私も欲しい、と思ってしまうものです。しかし、有るとは良い面だけでなくトラブルや苦労や心配が尽きない面もあります。所有したらしたで苦労の連続です。生活するための必要なものは揃えれば良いですが、わざわざ不要なものを所有してトラブルを新たに得るのかは個人で分かれることでしょう。ないならないでないの気楽さを楽しめば良いです。あるならあるであるものを生かせば良いです。所有しても良いが、責任を持ってあるものを生かします。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです。今あるものを生かしていきましょう。ありがとうございます。最後には所有しているものを捨てていくのですから所有できなくてもあわてないことです
なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです
自信とは子どもにもわかるように考えてみました。 今のままの自分でOK 自分だからOK ということだと思いました。 自意識過剰やナルシストになるという意味ではなくて、今のままの自分でそれでいいんだよ、と自分を認めてあげるということです。 仏教に待機説法というものがあります。 人により言い方も説法も違うということです。 だから、今のままの自分でOKも自分だからOKも人によっては誤解が生まれるということです。 しかし、私は本質の自信というのはこれで良いと思います。 では、これを深めていくとどうなることでしょうか。 私は存在しているだけでOK ということだと思います。 病気や怪我で布団から出られないことも人生にはあります。 心細くて心が消え入りそうな時がありますし貧乏でみじめで自分なんかたいしたことないと思うとき...なにもない自分でも、なにもできない自分で良いので自信を持っても良いのです
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異質な世界の色と自分という異質な色が交わる真ん中、つまり、心に愛が生まれます
世界の色が一色のときは、自分は別の色でいれば良いのです。 長い物には巻かれながら自分は愛を忘れません。 大自然も同じではないでしょうか? 異なる山と異なる山の隣接するところから枯れぬ湧き水が出ます。 異質なるものと異質なるものとが重なり合うから新規が生まれます。 異質な世界の色と自分という異質な色が交わる真ん中、つまり、心に愛が生まれます。 第三の視点です。 これは何にでも応用が利きます。 愛を忘れずにいましょう。 ありがとうございます。異質な世界の色と自分という異質な色が交わる真ん中、つまり、心に愛が生まれます
ダメなままの自分を好きになっていいし、ダメなままで自信を持って良いです
愛を思い出すとは?これを子どもの目線で言うとどうなるでしょうか?友達になるだと思いました。地球さんと友達になる、大自然と友達になる、水と友達になる、今いる場所と友達になる、自分と友達になる。自分と友達になるについて思うところがあります。自分と友達になるとは、嫌な自分にも、悪い自分にも、嫌いな自分にも、嫌でも悪くても嫌いでも今のままで好きになってあげるということです。つまり、自分を否定するのをやめて自分に嫌なところがあってもいいし、自分に悪いところがあってもいいし、嫌いなところがあってもいいと自分で自分を否定してダメだと思っているところをそう言うところがあってもいいんだよ、と認めて受け入れることです。自分の嫌なところも、悪いところも、嫌いなところも自分の一部であり、否定したからといって好きに変わるわけでもな...ダメなままの自分を好きになっていいし、ダメなままで自信を持って良いです
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せっかく生きているのだからなにか一つはできるように努力したいです。 それが場所や時間やカネのかからないものならば趣味にもなり良いと思います。 ガンディー、スティーブジョブズの言葉にあります通り私も同意です。 「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」byガンディー 「今日が人生最後だとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか」byジョブズ 過去記事にありますように、私ならば知識=勉強を趣味にしたいと思います。 ある日本の進学校では、読書量=学力と言われていました。 単純に文字を読むのであれば、ネットの無料の文章でも良いと思います。 各個人の情報との縁です。 読書だけでなく人生の勉強、お笑いの勉強、人間関係の勉強、仕事の勉強、家族の勉強、自己探求。。。 これならば場所も、時間も、...自分の人生をあきらめずに虎視眈々と頑張りましょう
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生きるとは苦しみであるby釈尊 幸福になっても幸福が消えていく苦しみがあります。 物を手に入れても失くしたり盗られる苦しみがつきまといます。 異性と付き合えてもけんか別れや死別の苦しみがあります。 つまり、いいことがあったとしてもいいことがなくなっていく苦しみがあるのです。 では、必ず苦しみが来るいいこととは本当にいいことだろうか? 初めから持っていないとは幸福かもしれない。 それならば、プラスとマイナスの相殺の上である日常とはありがたいではないですか。 喜怒哀楽があり、それでも生活できること。 究極の下から目線の生かされている上で起こる喜怒哀楽。 生かされている原点への感謝とは、それだけでOKということです。 罪があるけど生かされている、これが答えです。 自分が罪を犯したとしても、生きている限り、罪を償...生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
いつの世でもあるのは男女の恋愛関係の問題です。 男女の問題も根っ子を見て行けば性欲というサガ(性)です。 では、なぜ性欲が起こるのか? ラマナマハルシはこれを、お互いの形(性器など)の形が違うから性欲が起こると話しています。 なんということでしょう。 性欲とはお互いの体の形の違いから起こっていたのでした。 しかし、これは厳密にいえば性欲はあっても良いのです。 理由は、性欲がないと子孫が残らないからです。 子孫が残るから人類は存続してきました。 男女の恋愛問題からなにをいいたのかと言うと、性欲もほどほどで良いのです。 極端になりすぎるから問題が起こるものです。 人は極端になりやすいサガ(性)なのです。 いつの時代も男女の問題はあるものです。 問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょ...問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
最近は、若者言葉で「すぐにキレる」人が多いです。 生活する上では「すぐにキレる人」を想定していることが大切です。 同じように自分も怒ったり、すぐにイライラしないことがより大切です。 イライラが怒りの火種になることはよくあることです。 では、釈尊は怒りについてどう話しているか? 怒りを制する者は輪廻転生を終わらせることができると話しています。 怒りの根っこの部分とは自分の妄想である可能性です。 修行をして悟らなくても怒りを制するだけでもよかったのです。 やはり釈尊の言葉には、大自然に溶け込むような気持ちになるものばかりです。 自分の怒りを水に流して行きましょう。 ありがとうございます。自分の怒りを水に流して行きましょう
長所も短所も良いもの悪いも時代や国や立場が変わっていけばその内容も変わっていきます。そんな時は淡々と自分のやるべきことをしていけば良いです。仕事に合わせながら真我をお守りすれば良いです。大切は自分の真我の思いです。真面目に生きていれば大丈夫になります。生きるという期間だけではなく、長い死後の世界もあります。死後を忘れない、いつか自分他人も死んでしまう存在なのを忘れなければ大きな罪は起こしにくいものです。恐れるは真我です。死後に公平な視点から見られるのが真我です。ダメダメでも失敗ばかりでも大丈夫です。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です。今日も感謝して努力を続けて行きましょう。ありがとうございます。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です
仕事をしていればうまくいかないことがあります。いえ、仕事でなくても家庭でも勉強でもうまくいかないことがあります。つまり、仕事も家庭も勉強もうまくいかないのが自然な姿なのです。だから、慌てずに努力をすれば良いと思います。努力してうまくいくわけではないです。けど、努力を続けます。脱力しながら結果はおまかせで良いです。死ぬときに全てを置いてこの世を去るのですから、うまくいったことうまくいかないことも捨てて逝きます。だからうまくいってもうまくいかなくても問題はないです。最後には捨てていくことだからです。大切は、努力していることです。病気で布団の上にいても感謝できることを探したり療養する努力をする。治療努力する。これならば布団の上で動けなくても努力できます。うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう...うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう
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真我をお守りするのは? 日々の生活への注意。 食事への配慮。 防犯への注意です。 ところで近年は凶悪犯罪もありますから、女性の一人暮らしには注意です。 いろんな趣向の人がいますから、女性の一人暮らしは監視されていると思っても間違いではないと思います。 けど、心配過多になってはいけないです。 おおいに心配したら防犯を意識しながら自分の生活を楽しめば良いです。 帰宅時にドアを開けて、そのまま不審者に突進されてそのまま〇イプもある話なので注意です。 帰宅のときは、周囲に人がいないかの確認が良いです。 日中でもです。 これからは自分の身は自分で守ることが大切だと思います。 真我をお守りしましょう。 女性は男性以上に警戒心が大切です。 ありがとうございます。女性は男性以上に警戒心が大切です
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人生も河の流れのようです。 上流では水は清いが生き物が少ないです。 中流になり河の曲がり角が多く、水は角にぶつかりながら、緩急つけて、時には停滞して母性の海を目指します。 下流の海になるといろいろな多くの生物がおり、魚(人)豊富です。 もし、社会から、家庭から、逃げようと思えばそれは海にいる豊富な魚がいるところから逃げるということです。 海があるから幸運があります。 海があるから幸福がります。 どこに逃げても同じような苦しみが来るものです。 それならば今いる場所の苦しみの真ん中で安心して楽しめば良いです。 けど暴力や逃げなければいけない場合もあるから臨機応変に対応です。 苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか。 いっそ苦しいならば、苦しみのど真ん中で安心して居よう、楽しんで居よう。...苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
押してダメなら引いてみな。人生にもこれくらいのゆとりがあるといいものです。しかし、渦中ではどうしても押す一方になりがちです。そんな時は、それが「必要な期間」だったと言えそうです。では、押しても引いてもダメな場合はどうしたらいいのか?自分が出来る努力を継続しながら、忘れていることです。無駄に力が入っているよりも脱力している方が、無意識の力も働きやすいです。押してダメなら引いてみな、心に力を入れてダメなら脱力してみな、にも言えそうです。これならば努力にも言えそうです。努力してもダメなら脱力してみな。今日も最高の努力を真我に見せていきましょう。ありがとうございます。努力してもダメなら脱力してみな
下から目線で生きる、つまり生かされているだけでもありがたいという視点です。 生かされている=幸福だから=幸運だから嫌なことも不運なことも苦しいこともある。 だから今のままの自分で幸福であり幸運であった。 では、なぜ自分はもっと満たされないのか?なぜ不幸なのか?と思うのか。 それは今ある幸福と幸運に感謝をせずに「もっともっと」と求めているからだと思います。 けど、確かに生き地獄もあるのが事実です。 では、幸福、幸運を感じるにはどうしたら良いのか? ・それでも生活できることを感謝すること。 ・感謝の先祖供養をすること。 ・月に一度でいいから感謝のみの奉納する神社参拝をすること。 以上を参考にされてください。 幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます。 あわてないあわてない。 一...幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
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義務でやっていると息が詰まるものです。やらされているよりも「やっている」「楽しんでいる」視点があれば最高です。せっかく生きているのですから、仕事も勉強も家事も楽しめたら良いですね。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです。一度きりの人生を楽しんで行きましょう。ありがとうございます。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです
下から目線でいれば、人生は感謝することばかりです。生かされているから心配、苦しみ、不安も体験できるのです。そう思うと心配も苦しみも不安も人生の一部であり、人生からのプレゼントだと思えませんか?うまくいかないことも不幸も不運も人生の一部です。生かされているから体験できることです。これも人生の一部なんだと明るく諦めたら良いです。人生に苦しいこともありますが、苦しみを深くしているのは、もっともっとと言う欲心です。なにがなんでも手に入れようとか、絶対になくてはならないと思うと苦しいものです。仕事では厳しく言われるかもしれませんが、厳しく言われるのも仕事の内だと思い、自分なりに努力をすれば良いです。明るく諦めて脱力している方がいい仕事ができるものです。もっともっとと欲しいときも体に余計な力が入っているものです。軽く...日常での感謝の継続は最強です
最近は、肌や体内の常在菌が気になります。 腸内細菌=免疫 これが気になります。 肌や体内の菌を育てることに私は興味があります。 南方熊楠も粘菌への積極的な姿勢がありました。 熊楠は粘菌を守る=日本の森林を守るという活動をされていました。 つまり神社を守る活動をされていました。 肌や体内の常在菌とは宇宙とも言えそうです。 少し前には脳内フローラと言って脳内にも善玉菌のフローラ=菌のお花畑のような絨毯があるとも言われていました。 話はそれましたがこれからは腸内細菌が重要だと思います。 乳酸菌のサプリもありますから臨機応変に飲んでいけたら良いと思います。 食品から摂る乳酸菌も参考にしたいものです。 寝る前の乳酸菌の歯磨き粉も参考にしちあものです。 つまり、今日の言いたいことは、寝ても覚めても菌だ~~ と言うこと...これからは腸内細菌が重要だと思います
努力すること、頑張ることは大切です。しかし、苦しむほどしなくて良いと思います。そうではなくて、脱力していれば良いです。結果だけにこだわらずに、最高の努力をしたら結果は自然な流れにまかせれば良いです。そんなにすごいことをしなくて良いよ。今のままの自分の努力や頑張りを認めてあげたら自然と肩の力が抜けるものです。すごい人にならなくても、今のままですごい私です。私は、今のままですごい、と思って良いよ。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです。自分にはあると思って良いですよ。外側でなく内側のあるからです。ありがとうございます。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです
過去の自分や未来の自分に、「もう大丈夫だよ。安心していいよ」と心中で思うことは大切です。今を起点として、自分が過去と未来の自分に大丈夫だよ、安心していいよと心中で思うことにより、過去から未来から今の自分に安心の思いが届きます。「今は苦しいかもしれないけど、未来はああなってこうなって今は安心だよ」と心中で過去の自分に声をかけます。これを何度かしますと、過去の不安だった自分が癒やされて嫌な過去を思い出さなくなることもあります。過去=今=未来だとも言えます。ありがとうございます。過去=今=未来
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目の前の景色は、流れて変わっていきます。現在、自分が欲しいものも状況や立場が変われば欲しくなくなるものです。こんなに欲しいものすらコロコロ変わっていきます。3歳頃に欲しかったおもちゃは80歳のご年配の方は今も欲しいでしょうか?欲しくないはずです。必ず変わっていくことなので慌てないで良いのです。長くても寿命までの数十年くらいです。欲しいもの以外にも、他にも楽しみがあります。せっかくの一度きりの人生ですからコロコロ変わるものに執着せずに水のように生きていきましょう。人生の途中の川の流れは急でも、川に繋がっている海は穏やかに私たちも迎え入れてくれています。あわてないあわてない。一休み一休み。と言うことです。ありがとうございます。人生の途中の川の流れは急でも、川に繋がっている海は穏やかに私たちも迎え入れてくれています
人生に答えない。 しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。 この答えは、全ての人に共通することだと思います。 「私」という夢を見ています。 私とは=時間の経過、空間の拡大 です。 私という夢はいつ始まるのか? これを探求してみたいと思います。 大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。 誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。 赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。 母乳(粉ミルク)をいただきました。 オムツを替えていただきました。 入浴をして心身を生活にしていただきました。 泣いたときにはあやしていただきました。 一緒に遊んでいただきました。 数えればまだまだありそうです。 これらをしてくれた大人がいるのです。 赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた...御蔭様のおかげで今まで生きてくることができました。
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私は食事をいただく時には、食前に食材と神様と先祖への感謝が日課です。 今では日課ですが私は忘れっぽいのでいただきますとご馳走様です、が定着するまで数年かかりました。 御蔭様で外食するといただきますとご馳走様をするのは私くらいなものです笑 それだけ無意識にしてしまうくらいに定着していました。 私は継続に神を見ます。 感謝をすると何も起きませんが、「無言」だから良いのです。 もし感謝をして自分と会話する存在があればそれは注意です。 奇異がないのが神がかりです。 ですから私は祈願、占い、霊能にはノータッチです。 この話が皆様の参考になれば幸いです。 ありがとうございます。食事をいただけるご縁に感謝です。
人生を楽しむということを考えてみました。 誰にでもあって、どんな時にも楽しめるもの。 それは感情や、他人を喜ばせるために使っている行動、時間。 人を思い遣っている行動、時間。 などだと思いました。 苦しい時間もあれば安らぎの時間もあります。 心配している時間もあれば不安な時間もあります。 怖がっている時間もあれば安心している時間もあります。 苦しい感情のときもあれば安らぎの感情のときもあります。 心配している感情の時間もあれば不安な感情のときもあります。 怖がっている感情のときもあれば安心しているときの感情のときもあります。 これらの時間を、感情をプレゼントしていただいています。 これを楽しめば良いのだと思います。 怖いときは怖がれば良いのです。 心配しているときは心配すれば良いのです。 楽しいときは楽し...時間を、感情を、それらは人生からのプレゼントだからです。
自分や他人へのイメージというのはコロコロ変わるものです。 自分へのイメージが変わるということは、他人にならなおさらです。 自分が自他にする善悪の評価もコロコロ変わるものです。 だから自分が変わるときは一瞬です。 きっと前触れもなく一瞬で変わることでしょう。 真我への目覚めも同じです。 いつの間にか一瞬で真我に目覚めているものです。 今日は、自分が人から悪い評価をつけられることを必要以上に怖がらなくていいよということを書きたいと思います。 他人は自分への善悪の評価を「その時の気分」で付けて、変えていくものです。 自分が気にしている他人から得た善悪の評価も、他人は評価したことを忘れているものです。 つまり、評価とはそれだけ曖昧なものなのです。 子供の頃に欲しかったおもちゃは欲しいおもちゃですが、大人になってか...自分が変わるときは一瞬です。
明日捨ててしまう生ゴミなのに誰が前日に生ゴミの中身を確認するでしょうか?そう発言する聖者が過去におられました。生ゴミとは自我(エゴ)のことです。つまり、対象の私のことです。私も人類は最後にはみな自我を明け渡して、真我に気づくと信じています。ところで私と言う対象とは誰のことでしょうか?それは真我が私という個性を想像したときに出来上がる「私とは〇〇である」という自分像です。夢の私です。このイメージは簡変わります。子供の頃に思っていた自分というイメージは、大人になった今の自分イメージは違います。今、流行りの自己評価や自己肯定感は変わりやすくあり、自分で変えて良いのです。周りからの評価はコロコロ変わるし、変わっていって良いので自分への評価を肯定して良いのです。つまり、自分を信じるということです。自分は、価値ある評...自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
人生の喜びと苦しみもプレゼントだと私は思っています。これが深くわかりだしますと、人は黙るのではないでしょうか?地獄を見ても人は黙ります。あれ?喜びも苦しみもいただいても地獄を見ても黙るのです。行き着く先は同じだったのです。これでいい、ちょうどいいというのがわかるのです。そんなに人生をあせらなくても今の自分にちょうどよいのです。ならば、この地獄に肩までつかっていればよいのです。地獄まで共に参ります、で良いのです。意外とこの方が早く地獄から抜け出せるかもしれませんよ?喜びにも苦しみにも感謝していましょう。行き着く先はみな感謝です。ありがとうございます。行き着く先は同じだったのです
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ここ数年間ほぼ毎日ある男性の意識に変わります。 良い思いならば良いのですが、嫌な印象が残る意識なのです笑 相手の方は、事情のある方なので相手が死ぬまで続くと思っています。 しかし、よくよく考えてみますと、人類も大自然もせっかく地球が作って残してくれたものです。 生きているから体験できることを思えば感謝ができそうなものです。 「いや、あの人はとんでもない人で私は感謝できないです」 という人もおられると思います。 私は、それでも良いと思います。 感謝をするか、しないかは個人の自由に思うからです。 感謝できなくても良いので相手の悲しい背景、寂しい生活環境を思いやってはどうでしょうか? 物理的な距離は置くけれども心は相手への慈悲を向けます。 私は、勉強をするのも、当たり前の感謝に気づくためだと考えています。 同じ...今日という日常を一緒に頑張りましょう
たまには音楽を聞いてみてもいいね。 動画サイトで無料の音楽があるので、自分に合った音楽もいいね。 私は日常的に音楽を聞きますが、音楽を聞くのが日々の楽しみです。 ショパン、バッハ、モーツァルトを聞きます。 その時の気分に合わせて洋楽、邦楽、アニソンなども聞きます。 特に最近聞くのがライアーとシタールの楽器の曲です。 これは心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます。 本来の静寂を思い出させます。 あわてないあわてない。一休み一休み。 ありがとうございます。音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
最近に思いますのは、幸福にせよ、不幸にせよ現在の体験が2度と来ないことを私たちは知っているのではないでしょう。 だから幸福には感謝して喜びます。 不幸には因果の精算がこれで済んだと泣いて喜ぶのでしょう。 物質的に恵まれても、心が安心していても、いつも考えているのは地球のことであり他人のことです。 この世には自分一人だけしかいないのが真実です。 しかし、それでも地球や他人のことを考えてしまうのです。 あれほど自分のことばっかりだったのに欲望の対象が変わるだけで人はころっと変わってしまいます。 その人にはその人の人生のテーマがあると思います。 感謝をするテーマだったり、素直になることだったり、謝ることだったり、因果を精算のするテーマだったり。 私はすべてに共通する人生のテーマが感謝の継続だと思っています。 仕...2度とない現在を転げ回って生きてやりましょう。
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どんなことも思い出になります。 苦しみは、渦中は苦しいですがやがて思い出になります。喜びは、最中は嬉しいですがやがて思い出になります。 つまり、現在、苦しいということは、喜んでいるということは、思い出になることが決まっているのです。 喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。 けど、苦しみはすぐには忘れないし、時間の経過と共にただの苦しみに色がついて余計苦しくなることがあります。 けど、いつか思い出になることが決まっています。 ですから、受け取ってしまった苦しみならば、苦しみを体験できることに感謝すれば良いのだと思います。 せっかく受け取ってしまった苦しみが「有る」のですから感謝していただきましょう。 有るものだから体験して行きましょう。 この世は、苦しみと言います。 喜びもやがて苦...喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。 歴史の教科書では、人類の初期はほら穴での生活でした。 寿命で死ぬのも30代頃だと推測されています。 つまり、悲しめるのも苦しめるのも損したり、失っているように感じますが、逆に悲しみも、苦しみも得ているといえないでしょうか? 悲しみも苦しみも逆の感情を知っているからこその悲しみであり苦しみです。 つまり私たちは自分なりの幸福を知っているのです。 あの人のような幸福でなくても自分なりの幸せがあります。 それは悲しみを体験する人生かもしれませんし、苦しみを体験する人生かもしれません。 楽しい人生もあるかもしませんが、楽しみの裏では幸運を使って減らしているかもしません。 今が楽しい人は、感謝の継続です。 これが幸運を減らさない生き方です。 今が不幸だ、苦しい人は、現在に幸...人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。
本日の記事の更新はお休みです。楽しまにされていた方申し訳です。お休み
渦中の最中は、辛く、苦しくて、余裕もなく感じることもあるものです。渦中を過ぎて、何年も立つとあの時まだまだ頑張れたな、もっと頑張ればよかったな、と思う時があります。これは死後に誰も思うことだと思います。家族のためや、会社のため、友達のため、人類のためにいろいろ頑張るけど結果が良くないこともあります。そんな時は「〜ために」ではなく自分でやりたいからやっているという、自分の行動の見返りを求めない、相手の反応を期待しない心の態度が良いと思います。人は受け取ると心が弱くなります。ですから、与える一方で良いのです。お喜びいただけるだけで十分です。お喜びいただけるとは、相手が笑顔になるだけではないです。中には感情のはけ口として、ひどいことを言われることもあります。けど、それで良いのです。人の嫌な部分も含めてお喜びいた...逃げられない、、、それならば今日も善意も悪意も受け切ってやりましょう。
執着はするな、とは釈尊の御言葉です。 私も同意します。 けど、自分の人生は簡単に諦めてはいけないと思います。 自分とは真我を預かることで人生を生きることが可能であり、真我をお守りすることも大切だからです。 つまり、 ・結果に執着はしないけれど、最高の努力をします・病気で布団から出られない時は布団の中で養生という最高の努力をします と言うことだと思います。 あの人のように努力できないものだし、思うほど成果が上がらないかもしれません。 けど、不自由な世界に生きているのですから、うまくいかないのが自然だからこれで良いのです。 昔の人も、未来の人も、現在の人もうまくいかない中を生きています。 私たちもうまくいかない中を感謝して生きれればそれで良いのです。 この現実を右往左往しながら生き抜いてやりましょう。 うまく...結果に執着はしないけど、最高の努力をします。
考えてもみましても、自分の体験とは、2度とできない体験なのでしょう。 笑うことも、泣くことも、怒ることも、悲しむことも2度とない体験です。 それを思うと今のうちから、もっと体験してやろうと思えるかもしれません。 老子は、全ては逆であるとします。 ・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです ・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです これが言えると思います。 では、幸運を無くさない、不運を幸運にして貯めるにはどうしたら良いか? 私は感謝の継続だと思います。 気づかない幸運を取りこぼしてしまうこともありますが、ご先祖様への感謝で良いと思います。 ご先祖様への感謝の継続=幸運の継続 が言えると思います。 ならば、もうちょっと苦労して感謝してやりましょう。 ありがとうございます。・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです
たまには私の休日のことを書いてみたいと思います。私は休日になるとコンビニでドリップコーヒーを買いに行き自宅に帰ってからPCをしながらゆっくりと飲みます。以前は、コーヒー豆を買って自分で粉にして飲んでいましたが、今は自宅の設備の都合でコーヒーに使う水を蒸留できないのです。近所にあるスーパーでお茶と良いお水を買わせてもらって飲ませてもらっています。読書が趣味なのでよく本を読みます。愛読書は、「老子」です。この本は好きなので紙、電子書籍共に手元に置いてあります。釈尊の本も好きなので紙、電子書籍共に手元に置いてあります。漫画もたまに読みます。主にギャグ漫画を読みます。ドラえもん、クレヨンしんちゃん、浦安鉄筋家族などです。健康にいられるのも生活に笑いがあるからかもしれません。ギャグを考えて一人で笑ったりもしますね笑...たまには自分のことを。
考えても見ますと、現在の自分はこれっぽっちです。 社会の中で生活させてもらって、服を着せてもらって、食事をさせてもらって、仕事をさせてもらって、勉強させてもらって、家事をさせてもらって、、、 社会の中で、人間関係の中でいろいろな価値をいただいています。 これっぽっちな自分なのにです。 ひどいこともいっぱいしてきたし、人を泣かせてしまったこともある、時には罪を犯し、人の気持ちを裏切り、人からの貰い物を粗末にも扱いました。 そんな自分です。 それを知ってか知らぬか天は悔い改めよ、と諭します。 どんな罪があっても深く深く反省して、感謝を継続して生きれば、もうあの時の私ではない、と言われているようです。 あの時のあの人ごめんね、と謝れるなら謝れば良いと思います。 けど、あの時のあの人はもう会えないし、この世にいな...こんな私でもいいのですか?反省して善行を積んでいきましょう