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深く深く悟りますと、逆に黙ることでしょう。 それでいい、これでいいということを体験で知るからです。 そして、人の原点へ戻ります。 悟らなくてもよかった、ということに気づきます。 感謝の継続の生活が悟っても悟らなくても在るだけなのです。 つまり、日々の生活で感謝の継続ができればそれで良いのです。 そして、社会の人々との触れ合いを楽しみます。 仕事、学校、家庭へ帰って生きます。 老子や釈尊はそのことを知っていました。 今日も自分のできることを自分のペースで頑張ります。 ありがとうございます。今日も自分のできることを自分のペースで頑張ります
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愛も安心も「もう、いらない」と思うだけでも心が安らぎます。つまり人は母性を求めていたのですね。求めても期待通りにならないことの方が多いです。飽きて次の刺激を求め始めるからです。そうではなくて、自分が母性なのだと気づくこと、すでに宇宙という母性の中にいたことに気づくこと。気づくとは知識でなく体験です。気づくための言葉が愛も安心も「もう、いらない」です。けど、目の前のことを努力することは大切です。その上での「もう、いらない」です。なにか皆様の参考になれば幸いです。ありがとうございます。愛も安心も「もう、いらない」
今日は、親戚一同が自宅に集まっていました。子供の頃から親戚が集まるのが子供時代の私の楽しみ出した。しかし、大人の中ではいろいろあったみたいです。それでも今年もこうやって親戚一同なんとか集まれたことに感謝します。もし、それぞれに都合やなにかありましても一同が会えないものです。家系の深い繋がりを思います。お昼に一緒に食事をしました。いろいろと話で盛り上がりました。食事をいただけるご縁と歓談で笑顔になれる幸運に感謝しました。近代の聖者ラマナマハルシも叔父を自分の住まいに呼んで一緒に生活していたと思います。私の叔父は数年前に亡くなりました。優しい叔父でした。亡くなった叔父は穏やか性格の人でした。大切な叔父であり今でも感謝しています。私は家庭的な愛情は薄いですが人に恵まれてました。今日は書きたいことがあるというより...これからは若い人の時代
釈尊、老子、ラマナマハルシ、マハラジ。 彼らは自己への探究で覚醒しました。 ですから釈尊は自灯明と発言し、マハルシは「私は誰か?」と探究し、マハラジも老子も同じです。 正しい自己への探究は物も他人も必要ありません。 自分一人でできます。 だから私のブログも本来は不要なのです。 けどこれからも書かせてね笑 書かなければいけないような気がするのです。 自己への探究は、自分の家系の先祖に向かうのも正しいです。 日々の先祖供養と感謝の継続が覚醒へ導きます。 物や他人に依存することはないです。 身一つで十分です。 今日も感謝を継続して行きましょう。 ありがとうございます。真我に目覚めるとは自分の身一つで十分です。
人生に答えない。 しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。 この答えは、全ての人に共通することだと思います。 「私」という夢を見ています。 私とは=時間の経過、空間の拡大 です。 私という夢はいつ始まるのか? これを探求してみたいと思います。 大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。 誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。 赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。 母乳(粉ミルク)をいただきました。 オムツを替えていただきました。 入浴をして心身を生活にしていただきました。 泣いたときにはあやしていただきました。 一緒に遊んでいただきました。 数えればまだまだありそうです。 これらをしてくれた大人がいるのです。 赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた...御蔭様のおかげで今まで生きてくることができました。
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私は食事をいただく時には、食前に食材と神様と先祖への感謝が日課です。 今では日課ですが私は忘れっぽいのでいただきますとご馳走様です、が定着するまで数年かかりました。 御蔭様で外食するといただきますとご馳走様をするのは私くらいなものです笑 それだけ無意識にしてしまうくらいに定着していました。 私は継続に神を見ます。 感謝をすると何も起きませんが、「無言」だから良いのです。 もし感謝をして自分と会話する存在があればそれは注意です。 奇異がないのが神がかりです。 ですから私は祈願、占い、霊能にはノータッチです。 この話が皆様の参考になれば幸いです。 ありがとうございます。食事をいただけるご縁に感謝です。
人生を楽しむということを考えてみました。 誰にでもあって、どんな時にも楽しめるもの。 それは感情や、他人を喜ばせるために使っている行動、時間。 人を思い遣っている行動、時間。 などだと思いました。 苦しい時間もあれば安らぎの時間もあります。 心配している時間もあれば不安な時間もあります。 怖がっている時間もあれば安心している時間もあります。 苦しい感情のときもあれば安らぎの感情のときもあります。 心配している感情の時間もあれば不安な感情のときもあります。 怖がっている感情のときもあれば安心しているときの感情のときもあります。 これらの時間を、感情をプレゼントしていただいています。 これを楽しめば良いのだと思います。 怖いときは怖がれば良いのです。 心配しているときは心配すれば良いのです。 楽しいときは楽し...時間を、感情を、それらは人生からのプレゼントだからです。
自分や他人へのイメージというのはコロコロ変わるものです。 自分へのイメージが変わるということは、他人にならなおさらです。 自分が自他にする善悪の評価もコロコロ変わるものです。 だから自分が変わるときは一瞬です。 きっと前触れもなく一瞬で変わることでしょう。 真我への目覚めも同じです。 いつの間にか一瞬で真我に目覚めているものです。 今日は、自分が人から悪い評価をつけられることを必要以上に怖がらなくていいよということを書きたいと思います。 他人は自分への善悪の評価を「その時の気分」で付けて、変えていくものです。 自分が気にしている他人から得た善悪の評価も、他人は評価したことを忘れているものです。 つまり、評価とはそれだけ曖昧なものなのです。 子供の頃に欲しかったおもちゃは欲しいおもちゃですが、大人になってか...自分が変わるときは一瞬です。
自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
明日捨ててしまう生ゴミなのに誰が前日に生ゴミの中身を確認するでしょうか?そう発言する聖者が過去におられました。生ゴミとは自我(エゴ)のことです。つまり、対象の私のことです。私も人類は最後にはみな自我を明け渡して、真我に気づくと信じています。ところで私と言う対象とは誰のことでしょうか?それは真我が私という個性を想像したときに出来上がる「私とは〇〇である」という自分像です。夢の私です。このイメージは簡変わります。子供の頃に思っていた自分というイメージは、大人になった今の自分イメージは違います。今、流行りの自己評価や自己肯定感は変わりやすくあり、自分で変えて良いのです。周りからの評価はコロコロ変わるし、変わっていって良いので自分への評価を肯定して良いのです。つまり、自分を信じるということです。自分は、価値ある評...自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
人生の喜びと苦しみもプレゼントだと私は思っています。これが深くわかりだしますと、人は黙るのではないでしょうか?地獄を見ても人は黙ります。あれ?喜びも苦しみもいただいても地獄を見ても黙るのです。行き着く先は同じだったのです。これでいい、ちょうどいいというのがわかるのです。そんなに人生をあせらなくても今の自分にちょうどよいのです。ならば、この地獄に肩までつかっていればよいのです。地獄まで共に参ります、で良いのです。意外とこの方が早く地獄から抜け出せるかもしれませんよ?喜びにも苦しみにも感謝していましょう。行き着く先はみな感謝です。ありがとうございます。行き着く先は同じだったのです
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ここ数年間ほぼ毎日ある男性の意識に変わります。 良い思いならば良いのですが、嫌な印象が残る意識なのです笑 相手の方は、事情のある方なので相手が死ぬまで続くと思っています。 しかし、よくよく考えてみますと、人類も大自然もせっかく地球が作って残してくれたものです。 生きているから体験できることを思えば感謝ができそうなものです。 「いや、あの人はとんでもない人で私は感謝できないです」 という人もおられると思います。 私は、それでも良いと思います。 感謝をするか、しないかは個人の自由に思うからです。 感謝できなくても良いので相手の悲しい背景、寂しい生活環境を思いやってはどうでしょうか? 物理的な距離は置くけれども心は相手への慈悲を向けます。 私は、勉強をするのも、当たり前の感謝に気づくためだと考えています。 同じ...今日という日常を一緒に頑張りましょう
音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
たまには音楽を聞いてみてもいいね。 動画サイトで無料の音楽があるので、自分に合った音楽もいいね。 私は日常的に音楽を聞きますが、音楽を聞くのが日々の楽しみです。 ショパン、バッハ、モーツァルトを聞きます。 その時の気分に合わせて洋楽、邦楽、アニソンなども聞きます。 特に最近聞くのがライアーとシタールの楽器の曲です。 これは心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます。 本来の静寂を思い出させます。 あわてないあわてない。一休み一休み。 ありがとうございます。音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
最近に思いますのは、幸福にせよ、不幸にせよ現在の体験が2度と来ないことを私たちは知っているのではないでしょう。 だから幸福には感謝して喜びます。 不幸には因果の精算がこれで済んだと泣いて喜ぶのでしょう。 物質的に恵まれても、心が安心していても、いつも考えているのは地球のことであり他人のことです。 この世には自分一人だけしかいないのが真実です。 しかし、それでも地球や他人のことを考えてしまうのです。 あれほど自分のことばっかりだったのに欲望の対象が変わるだけで人はころっと変わってしまいます。 その人にはその人の人生のテーマがあると思います。 感謝をするテーマだったり、素直になることだったり、謝ることだったり、因果を精算のするテーマだったり。 私はすべてに共通する人生のテーマが感謝の継続だと思っています。 仕...2度とない現在を転げ回って生きてやりましょう。
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喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
どんなことも思い出になります。 苦しみは、渦中は苦しいですがやがて思い出になります。喜びは、最中は嬉しいですがやがて思い出になります。 つまり、現在、苦しいということは、喜んでいるということは、思い出になることが決まっているのです。 喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。 けど、苦しみはすぐには忘れないし、時間の経過と共にただの苦しみに色がついて余計苦しくなることがあります。 けど、いつか思い出になることが決まっています。 ですから、受け取ってしまった苦しみならば、苦しみを体験できることに感謝すれば良いのだと思います。 せっかく受け取ってしまった苦しみが「有る」のですから感謝していただきましょう。 有るものだから体験して行きましょう。 この世は、苦しみと言います。 喜びもやがて苦...喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。 歴史の教科書では、人類の初期はほら穴での生活でした。 寿命で死ぬのも30代頃だと推測されています。 つまり、悲しめるのも苦しめるのも損したり、失っているように感じますが、逆に悲しみも、苦しみも得ているといえないでしょうか? 悲しみも苦しみも逆の感情を知っているからこその悲しみであり苦しみです。 つまり私たちは自分なりの幸福を知っているのです。 あの人のような幸福でなくても自分なりの幸せがあります。 それは悲しみを体験する人生かもしれませんし、苦しみを体験する人生かもしれません。 楽しい人生もあるかもしませんが、楽しみの裏では幸運を使って減らしているかもしません。 今が楽しい人は、感謝の継続です。 これが幸運を減らさない生き方です。 今が不幸だ、苦しい人は、現在に幸...人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。
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逃げられない、、、それならば今日も善意も悪意も受け切ってやりましょう。
渦中の最中は、辛く、苦しくて、余裕もなく感じることもあるものです。渦中を過ぎて、何年も立つとあの時まだまだ頑張れたな、もっと頑張ればよかったな、と思う時があります。これは死後に誰も思うことだと思います。家族のためや、会社のため、友達のため、人類のためにいろいろ頑張るけど結果が良くないこともあります。そんな時は「〜ために」ではなく自分でやりたいからやっているという、自分の行動の見返りを求めない、相手の反応を期待しない心の態度が良いと思います。人は受け取ると心が弱くなります。ですから、与える一方で良いのです。お喜びいただけるだけで十分です。お喜びいただけるとは、相手が笑顔になるだけではないです。中には感情のはけ口として、ひどいことを言われることもあります。けど、それで良いのです。人の嫌な部分も含めてお喜びいた...逃げられない、、、それならば今日も善意も悪意も受け切ってやりましょう。
執着はするな、とは釈尊の御言葉です。 私も同意します。 けど、自分の人生は簡単に諦めてはいけないと思います。 自分とは真我を預かることで人生を生きることが可能であり、真我をお守りすることも大切だからです。 つまり、 ・結果に執着はしないけれど、最高の努力をします・病気で布団から出られない時は布団の中で養生という最高の努力をします と言うことだと思います。 あの人のように努力できないものだし、思うほど成果が上がらないかもしれません。 けど、不自由な世界に生きているのですから、うまくいかないのが自然だからこれで良いのです。 昔の人も、未来の人も、現在の人もうまくいかない中を生きています。 私たちもうまくいかない中を感謝して生きれればそれで良いのです。 この現実を右往左往しながら生き抜いてやりましょう。 うまく...結果に執着はしないけど、最高の努力をします。
・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです
考えてもみましても、自分の体験とは、2度とできない体験なのでしょう。 笑うことも、泣くことも、怒ることも、悲しむことも2度とない体験です。 それを思うと今のうちから、もっと体験してやろうと思えるかもしれません。 老子は、全ては逆であるとします。 ・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです ・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです これが言えると思います。 では、幸運を無くさない、不運を幸運にして貯めるにはどうしたら良いか? 私は感謝の継続だと思います。 気づかない幸運を取りこぼしてしまうこともありますが、ご先祖様への感謝で良いと思います。 ご先祖様への感謝の継続=幸運の継続 が言えると思います。 ならば、もうちょっと苦労して感謝してやりましょう。 ありがとうございます。・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです
たまには私の休日のことを書いてみたいと思います。私は休日になるとコンビニでドリップコーヒーを買いに行き自宅に帰ってからPCをしながらゆっくりと飲みます。以前は、コーヒー豆を買って自分で粉にして飲んでいましたが、今は自宅の設備の都合でコーヒーに使う水を蒸留できないのです。近所にあるスーパーでお茶と良いお水を買わせてもらって飲ませてもらっています。読書が趣味なのでよく本を読みます。愛読書は、「老子」です。この本は好きなので紙、電子書籍共に手元に置いてあります。釈尊の本も好きなので紙、電子書籍共に手元に置いてあります。漫画もたまに読みます。主にギャグ漫画を読みます。ドラえもん、クレヨンしんちゃん、浦安鉄筋家族などです。健康にいられるのも生活に笑いがあるからかもしれません。ギャグを考えて一人で笑ったりもしますね笑...たまには自分のことを。
考えても見ますと、現在の自分はこれっぽっちです。 社会の中で生活させてもらって、服を着せてもらって、食事をさせてもらって、仕事をさせてもらって、勉強させてもらって、家事をさせてもらって、、、 社会の中で、人間関係の中でいろいろな価値をいただいています。 これっぽっちな自分なのにです。 ひどいこともいっぱいしてきたし、人を泣かせてしまったこともある、時には罪を犯し、人の気持ちを裏切り、人からの貰い物を粗末にも扱いました。 そんな自分です。 それを知ってか知らぬか天は悔い改めよ、と諭します。 どんな罪があっても深く深く反省して、感謝を継続して生きれば、もうあの時の私ではない、と言われているようです。 あの時のあの人ごめんね、と謝れるなら謝れば良いと思います。 けど、あの時のあの人はもう会えないし、この世にいな...こんな私でもいいのですか?反省して善行を積んでいきましょう
いつか自分を捨て去る日が来るのだから今は思いっきり苦しみましょう。
最近に思いますことは、成果も大切だけど安らぎの時間も大切だということです。心理学のネットの記事や本を読みますと、心にあせりがあると注意とのことです。仕事では舐めたことはできませんが、個人的な時間では、成果を追わずに安らぎたいものです。つまり、個人的な時間では成果を出そうとしても出せなかったのだから成果を出すことをあきらめるということです。私たちは、いったい何を追って生きて来たのでしょうか?しかし、大きな視点では、そんな心理的な問題もやがて捨て去って行くのです。次の日に出すゴミの中身をいちいち確認はしません。知識は、減らしに減らして自然な状態までになるのが良いです。真我に目覚めた人は、余計な知識がなく自然な自分の知識の状態です。けど、勉強を結果に関わらず励むことは大切です。知識があっても、どこか足りないとこ...いつか自分を捨て去る日が来るのだから今は思いっきり苦しみましょう。
視点を下に置くと幸せを感じやすいです。調子の良いとき、気分の良い時を人生の通常だと思うと今ある幸せを逃しがちな気がします。視点を下に、とは人生がうまくいかないとき、不安なとき、不調な時を人生の通常、基本とするのはどうでしょうか?それならば人生の幸せに気づきやすくなります。人生が不調なときこそ、のちに来る幸運、幸福を貯めている貴重な時期です。人生ちょっとくらい苦しいことがあった方が楽しいよ〜現在のこの苦しみは後年の喜びを使っているものです。しかも気づかないだけで複利で利子も付きます。なんと、天の国に近いのは受難の多い方だったのです。虎視眈々とその時を耐えて待っていましょう。楽しみですね。ありがとうございます。人生は、ちょっとくらい苦しみがあった方が楽しいです
いつか自分も家族も、他人も死んでしまうなら、自分が家族が、他人が生きている間に喜ばれることをしてあげたいね
自分に残りの寿命を考えますと今のうちにやっておきたいことが思いつくかもしれません。 自分の寿命を思いますと、今の幸せはこれから2度とこないのかもしれません。 今の苦しみとは2度とない死後の喜びなのかもしれません。 この世は、あの世との価値観が逆転しているからです。 この世で苦しければ苦しいほど、この世の苦しみは死後の御宝になっていることでしょう。 今を頑張って生きましょう。 話はそれましたが、自分に寿命があるように、家族にも寿命があるし、会社の人、学校の友達にも寿命があります。 いつか自分も家族も、他人も死んでしまうなら、自分が家族が、他人が生きている間に喜ばれることをしてあげたいね。 私もまだまだ頑張りますよ〜 ありがとうございます。いつか自分も家族も、他人も死んでしまうなら、自分が家族が、他人が生きている間に喜ばれることをしてあげたいね
避けようとしても避けられずに起こってしまったことにはどうするか? 起こってしまったことを諦めて、感謝することが大切に思います。 この世は、真我の中の表れなので、この世に無駄はないです。 起こることは天からの慈悲です。 ですから無理に避けようとはせずに、現実を認めて感謝していただきます。 それが自分にとって最善です。 その時の自分というのは、脱力しているものです。 絶対に、なにがなんでもという姿勢では体に力みが入っているものです。 脱力しているとは力みがない状態です。 避けようとしても避けられなかった現実を諦めているのが脱力です。 天におまかせしているのが脱力している状態です。 赤ちゃんを見てもわかるとおり、赤ちゃんは完全に無力でありながら周りの大人へ完全におまかせし切っています。 私たちも赤ちゃんのように...起こったことには諦めて感謝する、これでしょう
自分なりの災害被害への想定、対策を。けど資金面で難しいこともあるから災害被害の想定だけでも
今日は自宅周辺で短時間の停電がありました。 ほんの数時間でしたがいろいろ考えさせられるものがありました。 普段から電源の喪失の対策は考えていたのですが、実際に短時間でも停電を体験すると意識が変わります。 今日は、短時間の停電でしたが、これが長期の停電になるとまず食料がまずダメになります。 真夏の日中ならなおさらです。 今回の短時間の停電を体験して、先日の太陽フレアと合わせて考えてみたのですが、大規模な長期間の停電すれば意外と楽しいかもしれません。 電気が伝えなくなる時はみんな一緒で(地域差はある想定)、電気に依存している仕事がほとんどなので仕事ができなくなります。 電気に依存している仕事は今の世の中ほとんどだと思います。 仕事がしたくても仕事ができないようになります。 案外楽しいかもしれません。 けど、こ...自分なりの災害被害への想定、対策を。けど資金面で難しいこともあるから災害被害の想定だけでも
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人間何が幸いし、何が不幸になるかわかりません。 幸せだったものは突然不幸になるし、不幸だったものは突然幸せになるものです。 そして幸せ、不幸の行き着く先は天にさえもわからず究極は誰にもわかりません。 せっかく目の前に足りないものがあるのだし、足りない現実なのですから、これを活かさない手はないです。 神様がお膳立てしてくれた「足りない=不幸=幸せ」を自分なりで良いので生かしていきましょう。 ・学力が足りないなら勉強をします。・健康に違和感があれば養生します。・生活が不安定であれば質素倹約します。 一度の不幸で全体がダメになるわけではないです。 人生は総合力なのですから一つダメでもあわてないことです。 一つダメなら他でカバーもできますし、ダメなところを自分なりに努力もできるものです。 人生の最期の最後までどう...人間何が幸いし、何が不幸になるかわかりません。
長期で富む人ほど、自分なりの質素倹約を頑張ります。 もし、現状が貧しいならばそれは長期で富んでいる人が日常生活で心掛けている生活をしているのと同じなのです。 富む人は、質素倹約を心がけますが、現状が貧しいならば結果的に質素倹約の道になります。 人情としましては、貧しいより豊かな方が良いと思うものですが、この質素倹約な道のおかげで「今のうちに」幸運や幸福の貯金ができていることもあります。 今は幸運や幸福を貯金しつつチャンスを狙っていましょう。 長期的な視点を持って頑張りましょう。 ありがとうございます。今は幸運や幸福を貯金しつつチャンスを狙っていましょう
「これでいい」が腹に収まるのは、きっとこの言葉だと思います。 ・そうならないほうがよかった つまり強拍的に絶対に、なにがなんでもと固くなっていると逆転の発想に気づきにくいのです。 自分では現実を変えられなかった ・そうならないほうがよかった 思っているような自分ではなかった ・そうならないほうがよかった たいして幸せにならなかった ・そうならないほうがよかった 新規で手に入ることを望むものですが、手に入らないことがあります。 手に入らないことの方がはるかに多いです。 これが実際の現実です。 ・そうならないほうがよかった なのです。 今日はちょっとだけ心のお勉強です。 ありがとうございます。そうならないほうがよかった
努力や頑張りはいくらしてもし足りないです。 けど、それはそういうものなのです。 ですからちょっと足りないくらい、ほどほどで安心することを心がけます。 「これでいい」と自分へ思います。 やるだけのことをやったのだからあとの結果はおまかせで良いのです。 人間の干渉できる、自分の力が及ばないことがあります。 素直に天に降伏します。 負けました、と素直に「これでいい」と自分へ思います。 これでいいとは実際くらいの自分でいいし、実際の現実で良いのです。 実際の自分を拒否したり、現実逃避するから悩みが深まります。 公的なことには自分の言うべきことを言いながら抵抗をやめていきます。 けど、自分の最高の努力は大切です。 努力を続けることが前提です。 その上で、いつかほっとする時間がやってきます。 あせりがない時間なのかも...脱力することが全ての始まり。
力がある、能力がある。 力強い言葉です。 これを子供や家族や、職場の人々、学校の友達に話してみても良いかもしれません。 あなたには「〇〇の力(能力)がある」 言われた人が自信を持っていくのがわかると思います。 人の可能性が開く言葉のように感じます。 では、これを応用して自分にも言ってみてはどうか? 自分には「〇〇の力(能力)がある」 なんだか、やる気と勇気と元気が満ちてきませんか? これが私たちの心の力です。 人へ配慮するように、自分の心にも配慮したいね。 私には、人に喜ばれる力がある! 私には、人のお役にたつ力がある! ありがとうございます。私には、人に喜ばれる力がある!
あるならあるでいいけど、ないならないの隠された幸福や幸運があるのかもしれません。
このような話を作ってみました。ある人が車を買いました。それを見たある人は、車を買ったことを羨ましがります。話はここまでです。何を言いたいのか?それは車を買う動機と方法なのです。車を買った人の動機とは、必要だから買ったのかもしれません、けど、虚栄心かもしれません、あの人を見返してやりたい復讐からかもしれません、または、親に買ってもらったのかもしれません。では、方法とは?車を買った方法とは会社の経費かもしれないし、会社のリストラに怯えながらこつこつ貯金して買ったのかもしれません、親からの遺産や親からお金をもらったのかもしれません、借金したのかもしれません、長期のローンを組んだのかもしれません。目の前には、車がありますが、車の裏にはこんなにもドラマがあるのかもしれません。車でなくても、あの人の持っている物が羨ま...あるならあるでいいけど、ないならないの隠された幸福や幸運があるのかもしれません。
あの人の人生が羨ましい、あの人の持っているもの(金、仕事、異性、健康、物)羨ましいと思うものです。 自分には何も「無い」と思う物です。 けど、それは無い方が自分には幸せなのです。 人生は不公平だから自分が頑張っても持てないものもあるものです。 けど、真我の視点では公平です。 その時は、人生は不公平だと認めるの良いです。 「新規を求める」のではなくて、現状で自分に有るものを感謝して育てる視点が大切に思います。 やはり感謝がないと今有るものも無くす可能性もあるし、新規の芽も出ないと思います。 今有るものに感謝したら愛情をかけて育てます。 今有るものを組み合わせたら無限になるのです。 つまり、この世は不公平だと分かったら、自分に与えられたものを愛情をかけて育てるのです。 しかし、人は赤ちゃんの頃には、お金も異性...今有るものに感謝したら愛情をかけて育てます。
何が幸になり何が不幸に転じるかは未知ですが、幸せなら幸せの方がよかったのだし、不幸から不幸の方がよかったのだと言えます。
自分の望みが叶うことはみな希望するものです。しかし、だいたいの希望は叶うことがありません。その理由は、望みが叶わない方がよかったからです。勝負でも勝つことがいつも良いわけではないです。欲しい持ち物を手に入れることが正しいわけではないです。逆転の視点です。それは望みが叶わない方がいいし、能力がない方がいいし、苦労の方がいいし、ない方がいいと言えます。言い換えますと・欠点があったほうがいい・弱点があった方がいい・嫌いな人がいた方がいい・就職活動をしながら仕事はない方がいい・健康になる努力をしながら病気の方がいい・今は貧乏の方が都合がいいこれが言えると思います。しかし、最終的な終着点は天にもわかりません。何が幸になり何が不幸に転じるかは未知ですが、幸せなら幸せの方がよかったのだし、不幸から不幸の方がよかったのだ...何が幸になり何が不幸に転じるかは未知ですが、幸せなら幸せの方がよかったのだし、不幸から不幸の方がよかったのだと言えます。
心が楽になることの一つとして、この世は ・不公平である ということが深くわかると良いです。 不公平は、この世の全てに貫徹して隅々まで行き渡っています。 これは心の話です。 しかし、真我の視点ではこの世は公平です。 では、この世が不公平だと深く分かったらどうしたらいいのでしょうか? 私は、今有るものを感謝して楽しむことだと思います。 自分の短所、長所、環境、、、 全てにです。 自分の短所、環境は、他の人から見れば羨ましい長所かもしれません。 つまり自分が短所だと思っているのは、自分が短所だと信じているからであり、気分の問題です。 自分の短所に根拠があるように思っているだけで、時代も、国も、性別も変われば変わるものです。 私は、正しくは ・短所=長所 だと思います。 自分の短所、長所のどこを見るかだと思います...マイペースに春を待っていれば良いです。
ボクシングのある選手は、守りがとても上手です。一見、相手を攻めなくいいの?と思う戦法ですがとてもその方は強いです。柔道でも、まず初めに受け身を習います。何を言いたいのかというと、攻めるより守りを固めるということなのです。老子も、老子の思想のある、ある映画俳優も攻めるより何歩でも後退して守ることの大切さを話しています。守り=水になれです。何か一つでも皆様の参考になれば幸いです。ありがとうございます。守りに徹する=水になる
生きているうちに苦労できるとは幸せなことかもしれません。 とは言っても、いざ目の前に受難があると辟易としてしまうのが人情でしょう。 文句を言いつつも明日が来ます。 避けようとしても避けられなかった苦労です。 その苦労が自分にはちょうどいいのです。 今が辛くてもこれから10年先、20年先はどうなるかはわかりませんよ? 今の苦労が数年後、週十年後に花が咲くというのはザラです。 今の苦労の先がわからないために人は絶望するのでしょう。 しかし、先がわかっても絶望すると思います。 少しの希望でも十分なものです。 今日も頑張りますよ〜 ありがとうございます。少しの希望で十分です。ありがとうございます。
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同じ条件で落ち込む人がいるかと思えば、元気な人、幸せな人もいることを思えば、自分の気分で決まる。これやな。ありがとうございます。自分の気分しだい。
頑張ろうと思っても頑張れない時があります。それでいいのだと思います。努力しようとしても努力できない時があります。それでいいのだと思います。つまり、慌てなるなということです。自分で変えられることは変える努力をしますが、自分の力で変えられないものはしかたないです。自分の力で変えられないものは諦めます。苦しみの原点とは、自分の力では変えられないものを変えようと無理をすることだと思います。目の前のことは避けようとしても避けられなかったのでこれでいいのです。慌てずに感謝をして体験していきましょう。心が明るければそれで良いのです。ありがとうございます。苦しみは避けられないのならば苦しみの中で生きる覚悟をする。
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結局何かあっても大丈夫なのだと思います。目の前で何かが起こると不安になったりするものですが、それが過ぎたらどうでしょうか?自分なりの日常があるものです。つまり、何かがあって、一時的にはびっくりするけれど、時間の経過でいつもの、自分なりの日常生活が残った。自分なりの日常生活が残る、ここに悟りの本質も見ます。とにかく生きていればなんとかなるということです。波乱万丈でも寿命まで生きれば大したもんです。貧乏でも、病気でも、無職でも、みじめでも良いのです。人に不幸だと思われたくない思いが、自分を不幸にしているだけだと思います。我が子たちよ、生きてさえいればこれでいいのだよ。と地球さんの声が聞こえてきそうです。けど、地球さんも怒っているからごめんなさいと感謝が届きますように。ありがとうございます。なにかあっても時間の経過を見ましょう。
幸運の前触れには、不幸があります。不幸にも幸運にも感謝です。
最近の楽しみは、人生の前触れとは何かな?と考えることです。病気も不幸も幸せも喜びもそれが起こる事前に予兆がある気がしてなりません。いつもと同じことをしているのだけど、何かが起こったといった小さな予兆です。なんでもかんでも不幸の原因に結んで考えるのは疑問ですが、普段以上に慎重になります。幸運の予兆として、事前に小さな不幸や気持ちの落ち込みがあります。この期間があり、後の幸運があります。慌てずに小さな不幸や気持ちの落ち込みを体験していけば良いです。幸運が起こった時にも感謝して楽しむ心が大切です。幸運の前触れの小さな不幸にも感謝はするし、幸運にも感謝です。感謝の有無で今後にまた幸運がやってくることがあるような感じがします。感謝をしないともう2度と幸運がやってこない気がします。不幸に対しても同じです。不幸の被害が...幸運の前触れには、不幸があります。不幸にも幸運にも感謝です。
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悪人を救うためにはどうしたらいいか?・自分が悪意に合ったとしても悪意に染まらないこと、悪意の中でも善意でいること。・自分信じて、真我を心の拠り所とします。他人には期待しません。もし世の中の全ての人が悪人になってしまったら誰が悪人を助かるというのでしょうか?歴史の中で過酷な時代であっても世の中すべての人々が悪意には染まりませんでした。もし、すべての人々が悪意に染まってしまったならば誰が畑を耕すのでしょうか?誰が赤ちゃんを育てるでしょうか?歴史に善意の人々がいたから人類は継続しました。もし悪意一色なら人類はすでに滅びています。ですから自分は悪意に合ったとしても悪意に染まらなず善意でいることが結果的に悪人を救うことになるのです。避けなければならない悪人もおりますので現実問題として物理的な距離を開けるのが理想的で...悪意の中でも善意でいる勇気。
善意の人間もいれば、悪意の人間もいます。今日は悪意の人間の話ついてです。悪意の人間とは、真我が心の奥に閉ざされて悪意で人に対応する人のことです。昔であれば悪意の人にも気づきがあり善意の人間へとなることもありました。しかし、現在は時代の波動から悪意の人は善意に気づきにくいように感じられます。もし善意に気付いたならば反省して感謝の道に行けば良いと思います。しかし、中には人からの善意を当然として環境を破壊する人もいます。私たちも自衛が必要です。そう言う奴は、もう善意の気づきが起きないことを前提に対応した方が良いと思います。気づきのない悪意の人間を諦めます。そう言う奴の死後は地獄でしょう。私たちの生活を守りましょう。なんとか自分の生活を頑張りましょう。ありがとうございます。自分の生活を守りましょう。
本日も記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
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私たちは土の上で生活させてもらっています。土=地球土から作物ができ家が建ち、人が歩きます。土の山があり、土に沿って川が流れ、土の支えに海が成り立ちます。けど、土が崩れると今の人類はひとたまりもないです。これを土の被害を事前に想像して、土=地球に感謝ができる人類なのか?はたまた土が被害があっても反省もしない人類なのか?これを天は見ていると感じます。これからは災害が増え出します。それでも土=地球に感謝して生活したいものです。ありがとうございます。私たちは土の上で生活させてもらっています。
うまくいかない、不調も時間経過とともに変わっていくものです。つまり慌てるなということです。
うまくいっている、順調ということについて考えてみました。私は、うまく行かない不調も含めてうまくいっている、順調なのだと思いました。短期的な視点ですとどうしてもうまくいかない、不調は悪く思えます。しかし、人生は短期的な視点ではなくて、長期的な視点での評価です。つまり、人生を点で見るのでなく、全体で見ます。では、そう考えますとうまくいかない、不調は悪いことなのでしょうか?いいえ、そんなことはないと思います。短期のうまくいかない、不調が後年に良く転じることがあります。また、うまくいっている、順調もいくらでも逆転するものです。ですから、今起こっている顛末は誰にでもわからないのです。天ですらその生きゆく先を未知であるのです。それならば、うまくいかない、不調にも感謝している方がお得なのです。うまくいかない、不調の時の...うまくいかない、不調も時間経過とともに変わっていくものです。つまり慌てるなということです。
本当の自分と向き合うときはどんなときか?私は、自分が辛い時に本当の自分が出てくると思います。余裕のない時に本当の自分が出てくると思います。ギリギリとした綱渡りの時の自分とはどんな自分か?これを観察していきたいと思います。強い自分もいれば弱い自分もいるものです。怒ってしまうこともあるし、悲しむし、引きこもるし、泣いてしまうし、八つ当たりしてしまうかもしれません。人に当たってしまったとしても、また反省して成長していきます。まだまだまだまだな自分がいます。いくらでも成長できる自分がいます。自分だけではなくて生き物全ては成長しているものです。あの嫌な人も、あの全然成長していないと思う人も少しずつ少しずつ成長しています。マイペースに目の前のことに感謝をしてきましょう。ありがとうございます。自分が辛い時に本当の自分が出てくると思います。
人の正しい姿として、最後は病気で死んでいくのだと思います。お金を持っても、異性といても、モノをどれだけ持っていても、最後には捨てていきます。どんなに愛着があっても、愛していてもです。ですから途中で見える景色に執着することはないです。欲しいものもありますが、時間の経過と共にコロコロ変わっていきます。もし、手にれたとしてもやがて飽きてきます。盗まれる心配も出てくるし失くす心配、壊れる心配もあります。ですから、もし幸運にも手に入ったら感謝して楽しんで味わうことが大切です。有るのが当たり前だと、当たり前すら失っていくものです。失ってから「あれ?あれは幸運であり幸福だった」と思っても遅いことがあります。しかし、あれも欲しいけど手に入らないことが大半です。そんな時は、降伏します。現状に参ったします。(降伏します)自分...感謝=幸運=幸福(降伏)
私たちは苦しみの世界に生きているので、何をしても何もなくても苦しみがあるのが当然です。
仕事や家庭や学校での悩みがあったらどうするか。この時期は悩みが出やすいです。大切に思うのは、私たちは苦しみの世界に生きているので、何をしても何もなくても苦しみがあるのが当然です。だから悩みや心配や苦しみがあるのは基本なのです。では、その上でどうするか?・悩みや心配や苦しみに答えはないと諦めること・諦めた上で目の前の残されたものを感謝すること・これを理解したら、それでも生きられることに感謝をすること。感謝の継続をすること現状の苦しみがなくなっても次の展開では新たな苦しみが始まるものです。だから、慌てなくて良いのです。人生には、ダメな時期があるものです。だから、慌てなくて良いのです。自分のことがダメでしかたないと誰もが思うものです。だから、慌てなくて良いのです。苦しくても、ダメでも、それでも生かされているので...私たちは苦しみの世界に生きているので、何をしても何もなくても苦しみがあるのが当然です。
やってみたらダメだったことがあります。うまく行くのが当然だと思っていると、ダメな自分が苦しいです。これと同じように、何事も有るのが当然、できて当たり前と思っていると苦しくなるものです。環境的にできて当然を要求されることもありますが、目の前に集中して心は安静にしていれば良いです。生きていればどうにもならないことがあるのも事実です。どうにもならないときは目の前のことに集中しつつ、ダメでもしかたないと諦めている方がお得です。仕事をするために生まれてきたのではなくて、幸せになるために、真の人間になるために私たちは生まれて来ました。けど、仕事も家事も勉強も頑張りましょう。つまり、気楽で元々なのです。ありがとうございます。人生は気楽で元々です。
太陽は、私たちに与え尽くしてくれています。地球は、私たちに与え尽くしてくれています。不思議なものでもっている↓頂いている↓与え尽くされていると考えますと心が静かになるものです。「私はまだまだ不満です」と言う方もおられることでしょう。不満も不足、苦しみも、悩みも与え尽くされています。短期の視点で見ると不幸に思えるものでも、長期の視点ではあの時の短期の不幸が幸福になっていた、と言うのはよくある話です。慌てずに目の前のことをこなしましょう。以上のことから与え尽くされているのはわかりました。では、あとは何をしたらいいのか?・もう、十分だよいう感謝の心が幸運と幸福を呼びます。・自他へのこれでいい、これでもういいよというか感謝の心が目の前のことをちょうど良くする。・自分の今くらいの頑張りを認めてあげる。自分によく頑張...非常によく頑張っているよと感謝を思う。
人生はゆっくりゆっくりで良いのだと思います。急展開や次の展開が次々ときたり、時には退屈だったりするものです。家庭でもあるものですが社会での出来事もあります。ですから、心は安静にしてマイペースにゆっくりゆっくりが良いのだと感じます。先の先を見たくなるものですが未来が未知なのはお楽しみです。この世は、飢餓も戦争も犯罪も交通事故もなんでもあります。慌てない慌てない一休み一休み。生きる努力はしますが、執着はしないです。死ねば安心の世界に行く可能性があります。どんなに頑張っても努力しても区切りなどなくて途中で捨てていくのがこの世です。だからマイペースで良いのですよ。生と死の区切りもなく、心は永遠です。だから、今日を頑張れます。一緒に頑張りましょう。ありがとうございます。今日を一緒に頑張ろうね。
人生には、寿命というこの世での肉体の終わりがあります。その時には、裸一つで物を捨てお金を捨て人を捨ててあの世へ旅立ちます。0歳から100歳までフルで自分の時間をフルで使えるわけではないです。怪我や病気で布団の上にいる時間もあることでしょう。後年には、肉体の制限から施設にお世話になるかもしれません。そう考えると「健康で元気なうちに」出来ることは限られてきます。無理は不要ですが、後悔なく日々を過ごしたいものです。ところで今年は桜を見ましたか?「桜を見れた」もあれば「今年もなんとか桜が見れた」もあります。無事に過ごせる日々にありがとうございます。今年もなんとか桜が見れました。ありがとうございます。
人が素直になるとは、ごめんなさいとありがとうが言えることなのだと思いました。地球さんごめんね。お父さんさんごめんね。お母さんごめんね。太陽さんありがとう。この言葉を読むだけでも気持ちがすーっとしませんか?それは、私たちの本質は、素直だから誰もが心中で言いたいけど言えずにいるのだと思います。生きている間くらいありがとうと言いたいものです。素直に謝りたいものです。けど、誰が死んで本当のことを知ると「もう良いよ。がんばっているんだね」と思ってくれるのかもしれません。亡くした方は今頃、あの時の私たちの心の中での謝罪と感謝をわかっていてくれるでしょう。あの時はごめんね。あの時はありがとう。あの時はごめんね。あの時はありがとう。
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
質素倹約するともったいないことに気づき、感謝の継続ができるようになります
この二日間(8日、9日)で心身がとても軽くなっている感じを受けます。体が浄化された印象を受けます。やはり、日々に大切なのは感謝の継続です。自分なりの言葉で良いので感謝の継続が将来の運勢を作ります。私は占いや霊感などの占いはしませんし興味はありませんが自分の運勢は自分で作っていると考えています。私は私を信じています。日々の生活態度、生活習慣が自分の運勢に大きく影響を与えていると思えてなりません。運勢を改善する必須条件は、自分なりの質素倹約です。栄養バランスの良い多種目を食べて、食を8分目、できれば7分目を心がけます。これだけでも運勢の改善が見られると想定します。一回や二回ではなくて「生活態度」「生活習慣」のように質素倹約の継続です。しかし、質素倹約の本心の部分は運勢改善ではなくて、もったいないくらいの日常の...質素倹約するともったいないことに気づき、感謝の継続ができるようになります
神様、今日も食事をいただくことができます。ありがとうございます。
最近に、気になることは食前、食後の挨拶です。いただきます、とご馳走様が言えるかどうかという話です。近年は、食事の場でのこの言葉を話すことが少なくなりました。外食する時はなおさらで、近年のマスク事情にしましても、この文化はかなり減ったような気がします。いただきますとご馳走様は人の目もあり言えずとも心中では、自分なりの感謝の言葉で良いので食材の命に感謝を捧げたいものです。お米と水への感謝が特に大切に思います。太陽と地球をそのままいただいている印象です。私は、食事とは、太陽と地球との同化現象だと考えています。理由は、食事とは、太陽と地球が生み出してくれたものだからです。また、感謝しながら食べるのと感謝をせずに食べるのとでは栄養吸収の意味で違う印象を受けます。ならば自分なりの言葉で良いので食材に感謝する方を私は選...神様、今日も食事をいただくことができます。ありがとうございます。
自分の不幸を認めていいよ。自分が感じている憎しみを認めていいよ。
人が認めたくないこと。人が目を逸らしたくなること。それは自分の不幸だと思います。人を憎んでいる自分を認められないし、無価値観を感じている自分を認められないし、無力感を感じている自分を認められないものです。しかし、心の問題とは、認めたくない自分の不幸を認めればたいがいは問題は解決するはずです。つまり自分のオリジナルの感じ方ではない、作られた感じ方をしている可能性があります。〇〇であるべき、〇〇するべきと自分を縛っているのです。これは真我とは違う話ですが、私が虐待から立ち直るのに参考になりました。不幸とは環境ではなく、不幸とは自分の心が作り出していたのです。もちろん、悲惨な事件や不幸なことはあります。そうではなくて、人間としての心が幸せになる心理的な話です。これからも書いていきたいと思っています。ありがとうご...自分の不幸を認めていいよ。自分が感じている憎しみを認めていいよ。
太陽の紫外線への対策。それへの対策はするが心には太陽の感謝の歌があります。
これから太陽光が強まる季節に入ります。私は、太陽からも感謝の歌が聞こえてくる気がします。宇宙からも感謝の歌が聞こえてきます。人の呼吸からも感謝の歌が聞こえてきます。太陽の歌も、またポカポカしてて気持ち良いものです。しかし、太陽光の紫外線による皮膚ガンの影響は懸念点です。背の低い子供の太陽の紫外線からの後年の目の病気のためにも、サングラスが必要になってくると思います。やはり今年の夏も大人も子供も紫外線対策が必須のように思えてなりません。けど、心には太陽の歌があります。私たちもまた太陽です。ありがとうございます。太陽の紫外線への対策。それへの対策はするが心には太陽の感謝の歌があります。
避けようとしても避けらなれないものから逃げない覚悟。不安の中で逆に安心します
この世で幸福になるとはどう言うことか?私なりに感じたことは ・目の前のことに慌てて逃げないこと・生きている間だけの喜怒哀楽ならば、逆に不安の中で安心して目の前のことから逃げない覚悟をすること・つまり、この世にどっぷり肩まで浸かること これで良いのではないかと思います。嫌な人も、嫌な出来事を避けても何も生まれないものです。確かに避けなければいない人や物事はありますが、避けようとしても避けられないなら一緒に生きる道もあると思います。共存共生です。仮に目の前の嫌な人や嫌な出来事を避けたとしても別のことで嫌な思いをするものです。ならば自分にできることは?この世に肩までどっぷり浸かり逆に安心します。大切なのは目の前のことから逃げない覚悟だけです。今日も自分なりに感謝をして頑張りましょう。ありがとうございます。避けようとしても避けらなれないものから逃げない覚悟。不安の中で逆に安心します
感謝が継続できていれば、もういいよ〜、それでいいよ〜、これでいいよ〜
心中での感謝を忘れてしまいがちですが、安心して食事をいただけたり、最後まで食事をいただけたり、安心して睡眠がとれたりするのは見逃してしまいがちです。 この感謝を深めていきますと、今日を生かされていることがありがたいのです。 つまり宇宙のビッグバーンから始まり命の継続がありがたいのです。 ありがたいとは宇宙の始まりに対していっているのかもしれません。 もっと前は、全てを生み出した神様への感謝だとも思います。 日常生活への感謝=もういいよ〜、それでいいよ〜、これでいいよ〜 と聞こえてきそうです。 今日も自分の日常生活ができることに感謝です。 ありがとうございます。感謝が継続できていれば、もういいよ〜、それでいいよ〜、これでいいよ〜
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
海の底の高低差は様々ですが、海の水面はどこも均等です。つまり、悪いことをしてその時は、得したような気分になっても、人生のどこかで均等になれされるのです。心が辛いと罪を犯してしまいがちですが、罪を犯した次の展開があります。罪を犯して、それだけでは終わりません。心が辛い時こそ、自分の心の強さが試されています。天から試されています。どんな時も真我が自分を見ていてくれています。今の心の辛さも10年後、20年後から今を見たら笑い話です。欲しい物が手に入らなくても、10年後、20年後も過ぎれば欲しい物がコロコロと変わっています。子供の頃欲しかったおもちゃが成人した今も欲しいわけではないです。そんな欲しい物がコロコロ変わることに、一時的な衝動で罪を犯すのは割りに合いません。では、どうしたらいいのか?赤塚不二夫さんという...人類、負けるな〜〜
大小の罪を犯したら終わりではなく。深く反省して、悪の道から離れます
神様の気持ち、地球の気持ち、太陽の気持ち、全ての生き物の気持ち。そう思いやってゆくとわかることがあります。生かされてありがたいという気持ちに行き着きます。苦しい人生の人も他界すれば「よく生き切った。また挑戦したいな」と生きる努力をした魂は誰もが思うことを想像します。それだけこの世で生きるとは奇跡なのです。けど、人は弱いところもあります。生活や心が苦しいとつまらぬことをしてしまいますし、魔が刺すこともあります。もし、行為で罪を犯してしまったならば、・自分の罪を「反省」します。・自分の残された時間は、犯した罪以上に他の人や物へ善意の継続をします。神様の気持ち、太陽の気持ち、地球の気持ちとは、罪を犯したとしても、反省して、悪の道から離れる思いだと思います。私も悪の道から離れる人類を信じています。ありがとうござい...大小の罪を犯したら終わりではなく。深く反省して、悪の道から離れます
もういいよ、これでいいよ。生かされていることに感謝の継続ができればそれでいいんだよ
悟り、目覚め、覚醒とは、その後があります。目覚めの継続です。つまり感謝の継続です。目覚めとは、生かされている奇跡に気づいて感謝することだと私は思います。そして感謝の継続です。感謝の日常生活の継続です。それでいい、これでいいと直感でわかると言うことです。つまり、生かされていることに感謝を継続できていればもう良いのです。悟りとか目覚めとか覚醒とか、名前の上ではない奇跡を生きることになります。感謝が継続しますと、そこには救われている自分が在ります。今日もありがとうございます。もういいよ、これでいいよ。生かされていることに感謝の継続ができればそれでいいんだよ
不安だし心配だし苦しみがありますね。しかし、不安や心配や苦しみの中に安心も存在します。この限定された中で、心の安心を見つけます。元気がない時は、残されたものを見ます。不幸な時は、残されたものを見ます。苦しい時は、その中の残された安心を見ます。つまり一時的な変化で全てを決めてしまわないこと。この世とは苦しみなのだから、慌てないことです。苦しみ、悩みがあるとは、まだまだ成長できるということです。足りないから不足分が満たされることを楽しめます。一緒に成長していきましょう。ありがとうございます。不安の中で安心すること
自分の方が他人よりもすごいとすぐにいい気になってしまう自分だけど、人は死ねば皆仏様です
過去に嫌ってきた人が誰にでもおられると思います。今有るものを見ずに無いもの数えて悲観したこともあると思います。人や物を嫌っても、残ったものの可能性ではなく物悲しく悲観に暮れてもそれっきりです。人や物も常に変化し続けて、いつかはこの世から消えます(死にます)。悲観しても悲しい気持ちになるばっかりで明るい気持ちになりません。笑えません。嫌いな人、物はそれはそれとして一緒に仲良く暮らしていけたらいいなと思います。嫌いな人、物とは仏様の化身かもしれません。地球が産んだ子供達です。死ねば皆、仏様です。いちいち気にしていたたら生きている短い間の楽しい人生が台無しです。けど、現実問題として、避けなければいけない人もいるのも事実です。避けようとしても避けられなかった人のことです。悲観も同じです。無いなら無いで良いです。不...自分の方が他人よりもすごいとすぐにいい気になってしまう自分だけど、人は死ねば皆仏様です
誰もがいい人、優しい人でいたい。けど、それができないこともあります
人の悪意に遭った(合った)ときどうするか?昔は、悪事を反省する人もおられましたが今の時代は悪事を反省「できない」人が多い気がします。年齢を重ねてもやはり難しい人はいます。けど、私は、物理的な距離を持って、相手を慰めてあげたいです。悪意のある人の悪意をさせられている家庭環境、社会の厳しさ、孤独、寂しさ。。。私も悪意のある人たちに囲まれていた過去があります。昔の話ですが、悪意のある人たちは人が困るのを喜んでいました。まるで何かのうさ晴らしをするように。。。今ではその人たちのことを許していますが、当時を思い出すとその人たちを気の毒に思います。人には役割があります。自分が今の役割を演じられることに感謝します。悪意のある人もそういう役割を演じているだけです。状況や立場が変われば正気に戻るでしょう。けど、避けなければ...誰もがいい人、優しい人でいたい。けど、それができないこともあります
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神様。私は降参します。自分の力で変えられないことは諦めます。
生きていれば悩みも不安も苦しみもあるものです。楽だったこともやがて苦しみに変わります。逆に悩みも解決するし苦しみも楽になるものです。不幸が幸福になり、幸福が不幸になることもあることでしょう。つまり、目先のことで人生を結論づけないことが大切です。心を安静にすることとして悩みも不安も苦しみも諦めることだと思います。悩みも不安も苦しみは生きているから、ずっと続くのです。これはそういうものなのです。人生の仕組みだと思った方が、自分では変えられないものを変えようとする努力をしないで済むと思います。何を言いたいのかというと、自分の力では変えられないものを変えようとすることが苦しみなのです。これを諦めます。神様に降参します。心がホロリと楽になる音が聞こえた気がします。ありがとうございます。神様。私は降参します。自分の力で変えられないことは諦めます。
できることは少ないけれど優しい目線で見てあげる。心中では相手に感謝をする
生かされてありがたい。ふと、そう思いました。この感謝の思いは森羅万象に貫徹していると想像します。宇宙もありがとうございます。太陽もありがとうございます。地球もありがとうございます。ありがとうございますというビッグバーンにより私たちは生きています。生きていますと細いことはいろいろありますが、生死の視点に立てば、細かいいろいろとはありがたい笑い話です。私たちもいつか死んでしまいます。いつか死んでしまう自分なら誰かの、何かに喜んでいただきたいです。特別なことはできないかもしれませんが、見ているだけ、何もできなくても、心中では相手に感謝をしてあげたいです。心中での感謝がビッグバーンとなり相手を応援するような気がします。無関心ではなく優しい眼差しをあげる、心の目での視点です。ありがとうございます。できることは少ないけれど優しい目線で見てあげる。心中では相手に感謝をする
楽しい、嬉しい、ありがたいは心の余裕があるときに感じることかもしれません。心の余裕が無くなってくると顔の表情から微笑みが消えるようです。顔の表情から微笑みが消えると険しい表情になることと想像します。そんな時私ならばどうするか?自分の心の余裕のなさに気づくのが前提ですが、一般論として軽いストレッチや笑いを意識します。ストレッチは怪我や事故に注意をしてスローな動きを意識します。笑いは、ネットにはさまざまな笑いが無料でありますのでこれを見て「楽しみます」。笑いをくだらないと思うかもしれませんが、そんな時こそ注意です。微笑みが無い=余裕が無いこれが言えます。ですから、くだらない笑いを見て笑いましょう。くす、うふふ、えへへ。と笑いが出ればしめたものです。今が辛くても生きていればなんとかなります。なんとかなるとは笑い...心の余裕を取り戻しましょう。それには笑いです
最近に感じますことは、太陽、地球への感謝を忘れていないか?ということです。人の心に余裕がなくなってきてはいないでしょうか?感謝はすぐに忘れてしまいますが、無心で感謝をすることが大切に思います。一回や二回の感謝ではなくて、日常での感謝の継続です。これを太陽、地球へ奉納します。自分なりの感謝の言葉で良いです。太陽への感謝とは自分の真我への感謝にも通じると感じます。もちろん、神様、家系の先祖への感謝の継続も大切です。私たちの呼吸とは感謝です。吐いて吸ってとは感謝です。地球さんは今どんな気持ちだろう?と思っても地球に通じます。太陽さん、地球さんありがとうございます。太陽さん、地球さんありがとうございます
幸福になると不足するものです。満たされても同じです。幸福と思われる条件が揃ったとしても不足するものです。理由は、幸福=不足と言えて、幸福になっても何かが足りないような気がするのです。しかし、これが人の本来の姿です。足りないから足らせる余裕ができるのです。満腹まで食べ続けたら病気になって早死にするようなものです。ですから不足とは神の恩寵であり、別の何かが入ってから余裕であり、楽しみなのです。ですから、何かが不足していると感じればその人なりの幸福が目の前にあるのです。この不足に感謝できるかどうかです。感謝できる時点でいろんなものが満たされていることでしょう。本当に不足であれば感謝する気持ちは遠いものです。それはお腹を空かした子供に、食事を食べて満腹な大人が「ほら、ごらん笑顔はこんなに素晴らしいんだよ」というよ...不足という余裕に新しく入ってきます
求める気持ちとは、他人も所有しているから自分も欲しいと思う欲求のことを言うのでしょう。私には、欲しいものはあります。誰にでも欲しいものがあると思います。食事が欲しい、睡眠がしたい、トイレに行きたい、遊びたい、お金が欲しい。。。真我に目覚めましても食事もしますし睡眠もします。借家に住んでいれば家賃も払うことでしょう。真我に目覚めても欲しいものがあります。私が言いたいのは求めることは生きていく上であるけれども、際限なくもっともっと求めることは地獄だと言いたのです。初めは1000円で満足していたのが、やがて5000円、1万円となるように人の欲求は放っておくと底なしです。この欲求は、異性でも、物でも、仕事でも、家族でも、健康でも、お金でも、称賛でも、チヤホヤされたい、などがあります。ですからほどほどで良いのです。...一回の少量で心は満足です
御蔭様という言葉があります。誰もがこの御蔭様で生かされています。昔の日本人は、この言葉通りで生きていたと思います。それもそうです。食事一つとっても菌や虫や命を数えきれないほど命を殺生しているわけです。私は、男性ですが精子も殺生しているわけです。これも御蔭様です。食事という命を殺して、命と自分が同化して共に生きることをしていますね。私とは、動物であり、虫であり、魚であり、です。私が動物であり、虫であり、魚であるなら、それらを生み出した地球も自分です。地球さんの悲鳴が聞こえてなりません。地球さんの御蔭様で生かされていることを忘れてはいけないと思います。地球さんの子供の人類に母性の地球が殺されようとしています。できることは少ない自分だけど、心の中だけでも地球さんに感謝を奉納したいです。私たちも地球なのです。我が...地球から御蔭様をいただいています
忙しい現代人には、人生の問題は山積みです。生死、仕事、家族、健康、お金、異性、所有、家、近所付き合い、学校の人間関係、勉強、家事、借金、、、しかし、これだけ問題があるということは、人生の問題は無くならないと思った方が良さそうです。人生の面白いところで、人生の問題が一つ解決すると、次の問題が次々とやってくることです。このことからも問題は無くならないと思った方が良さそうです。何を言いたいのか?人生の問題があるなら、それを無理に解決にせずに人生の問題と一緒に生きる視点、人生の問題と共存していく生き方が良いと思います。人生の問題がある=生きている=目の前の問題が今の自分にはちょうどいいこれも言えそうです。つまり、生きることを無理するなということです。目の前のことに感謝して楽しんで脱力していましょう〜ありがとうござ...人生の問題を無理に解決しない、人生の問題と共存する
人生は、人間の計画通りにはいきにくいです。大きな流れでは、計画通りなのでしょう。計画を壊してしまうので自殺だと思います。生きましょう。では、どう生きるか?自分なりに努力をして、結果はお任せします、天に委ねます、という態度で良いと思います。努力することは大切ですが、結果には執着しません。結果という決まったものはなく、流れていきます。努力するのであれば病気で布団の上にしても努力することができます。病気であっても養生する努力ができます。もし、それが難しくても、心の中で努力「しよう」と気持ちがあれば十分です。今日も目の前のことを努力しましょう。ありがとうございます。目の前のことに努力しましょう
自分の嫌いなところを受け入れる、自分を好きになる、自分を愛情を持って育てる
何事も愛情を持って育てる視点が大切です。人も、草花も、動物も、何より自分をです。自分の都合の悪いところを拒否しても仕方がないです。自分の都合の悪いところも含めて自分です。人の都合の悪いところも含めてその人です。このような時は、そのままを受け入れてあげる、欠点を含めてそのままを愛してあげる。自他ともにです。自分を好きになっても良いです。自分とは自分に、人に好かれる価値があります。その価値を信じて良いです。けど、人に好かれても仕方ないこともあります。自分で自分を好きでいることだと思います。自分を嫌いになったら一体誰が自分を愛するのでしょうか?こんな自分でちょうど良いのです。他人と比べてこんな自分で良いのです。この自分が好きであり、大好きなのです。欠点を受け入れることも大切ですが、社会生活があります。欠点を改善...自分の嫌いなところを受け入れる、自分を好きになる、自分を愛情を持って育てる
人に思うことは自分に思っていることだった。他人=自分以上でも言えることですが心理学の用語では、これを投影と呼ぶみたいです。つまり人を責めているのは、実は自分を責めていた人に求めていたのは、自分に求めていた人に不満だったのは、自分に満足できずに自分に不満を感じていたこれが言えると思います。心理学では、自分の自然な感じ方を抑圧していると人に投影しやすいとのことです。つまり、自分の価値を信じていいのです。自分は、人生を喜んで生きる価値があると信じていいし自分は、喜んで生活していい価値があると信じていいし自分は、愛される価値があると信じていいのです何かに変化するのではなく、何かに成るのではなく、何かを達成するのではなくて今の感じ方のまま、今の自分をそのままを信じて良いのです。上から目線でいると「もっともっと」と思...そんなに自分を責めるなよ〜、誰も自分を責めていないよ
人を見るときには思いやりが大切です。好きな人には思いやりを持ちやすいものですが、苦手な人、嫌いな人には思いやりは持ちにくく感じられます。嫌いな相手。ここに人生の希望が隠されているように思えてなりません。嫌いな人がいる=自分の思いやりが足りない。自分の思いやりが足りないから、嫌いな人がいるとも考えられそうです。しかし、そんなに単純でもないですから避けなければならない人もいるのも事実です。その場合は、距離をとって不干渉です。では、嫌いな人にはどうするか?この場合も距離をとって不干渉ですが、思いやりの視点でみてあげたら良いと思います。思いやりを持つというのは情緒で考えるということです。相手のそうなるまでの背景を想像します。日常のストレスでいっぱいなのかもしれません。借金の有無、家族に病人がいる、自身の健康、仕事...人を思いやりで観る
神様は、どのようにして私たちの生活に現れるでしょうか?全ては神様の手の内で起こっていることですが、私は紙一重のように偶然に、自然に、そうなるように、たまたまそうなったこのようになっていくのが神様の現れだと思います。つまり、自然な流れになっていくのです。自然な流れ=大自然一見無駄に見えるけど、それぞれがバランスを取り合っていたのです。これを私たちは普段から目にしています。ありがたいです。今日も目の前のことに集中しましょう。ありがとうございます。神は、自然な流れとなって現れる
生きていると心が辛い時があります。誰かにわかって欲しいけど、言葉にして話ては心の辛さが陳腐に感じます。そして、黙ります。黙って目の前のことをします。そこには大自然が無言で在りました。心をが辛いとき、心が大自然に溶け込む瞬間があります。私は、それが人の本来の姿だと思います。今の社会はそれだけ大自然から離れた生活なのです。心が辛いとき、大自然を思い出して、大自然に感謝です。地球、太陽、宇宙。。。それらは皆私なのです。私とは大自然です。今日も目の前のことを頑張りましょう。ありがとうございます。心が辛いとき、大自然に溶け込みます
心が萎縮していると、魔がしてしてまうことがあります。そんな時には笑いです。今は、娯楽がありますのでネットでも無料の動画やテレビでも映画でも書籍でも、ラジオでも、とにかく何にでも笑いがあります。最近、笑顔が少ないと思ったらとにかく笑いましょう。くすっでも良いし、ガハハでも良いし、えへへでも良いです。心をほぐしてあげましょう。つまり、心が硬いから魔が刺して、普段ならしないようなつまらないことをしてしまうのです。笑いで心を休ませてあげましょう。お腹が減ったら食事をいただくように、心が硬くなっているなら柔らかくします。え?このブログが面白すぎるし、心に残るし、何度も記事の内容を考えてします?人生が変わった?病気が治った?彼女ができた?仕事が見つかった?それは言い過ぎ〜嘘のつけない素直な方ですね〜笑ありがとうござい...心が硬い時は、笑いです
自分もいい。相手もいい。これが良いです。自分も喜んでいいし、相手も喜んでいいのです。相手がOKで自分がダメなことはないです。相手がOKなら自分もOKです。犯罪はダメですが喜びながら生きることをです。いい、ダメを決めているのは他人や環境ではないです。自分の心です。ですから限られた中でも喜びを見つけられたらいいね。生かされているとは歓喜なのです。あれも手に入らなくていいし、これもいらないです。心が感謝して喜んでいれば人生はそれで良いのです。貧乏でも心を喜ばすことは可能です。ありがとうございます。生かされているとは歓喜、貧乏な生活でも心までは貧乏にしない
喜びとは、自分がどれだけ喜びを自分に許可しているかだと思います。つまり、自分は喜んで「いい」という許可です。よくある言い方をすると自分が喜びを受け取るのです。ここでは喜んで「いい」の方が私にはしっくりくるのでこの表記で記事を書きたいと思います。喜んで「いい」とは、自分とは喜ぶ価値があると認めること。喜んで「いい」とは、自分とは今のままで喜んで「いい」と認めること。喜んで「いい」とは、当たり前とは当たり前ではなく当たり前の感謝をすること。喜んで「いい」とは、上から目線で考えるのではなく、下から目線で心を喜ばせること。これらを総合すると心理的な不安がなくなると喜ぶ時間が増えるのです。心の不安とは、自分が認めたくないことを認めずに心の無意識に追いやっているから起こる不安なのです。ですから、自分の否認している現実...自分は喜んで「いい」
私は、子供の頃から親の教育でお金持ちになれと教えられてきました。子供の頃からお金持ちにならなければいけないと思っていたし、お金持ちになるのが当然だと思っていました。しかし、家庭の家計は火の車でした。父が日々にギャンブルに依存し、母が買い物依存だったのです。そういう家庭でしたから自分をお金持ちに見せるような言動や行動をしていました。勘違いしてはいけないのは私がこうは書いても、自分の意思でやっていたのです。親に責任はないのです。しかし、今の生活を考えてみるとお金がなくともそれなりに生活ができるものです。お金持ちでなければいけないと思うのは「お金持ちが良い」という理想、期待があるからです。つまり、お金が有無ではなく、自分のお金に対する期待感が今の生活を苦しめているのです。もちろん、年収をあげるための勉強や仕事は...お金がなくとも、それなりの生活になっていく
最近に感じるのは大自然へと帰りたい欲求です。生活があるのでかんたんにはいきませんが大自然に溶け込む懐かしさを思い出します。子供の頃、初めて靴を履いて草を踏んだときの足裏に感じる草のくしゃっとした感覚を今でも思い出します。子供の頃から私は大自然だったのです。私たちは子供から大人になりました。その間には遊びを覚え、仕事をし、たくさん言葉を覚えてたくさん考えます。大自然から遠く離れてしまいました。今更、ガスも上下水道も電気もインターネットもない生活は難しいと思います。けど、心の、大自然に溶け込む感覚は忘れたくありません。私たちも大自然の一部だからです。大自然さんありがとうございます。大自然に溶け込む
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日々に、ニュースを見ておりますとニュース内容で心身が緊張するものです。 事前に危険を知って、危険の被害を想定しているので緊張が悪いものだとは思いません。 大いに懸念点を心配したら、あとは脱力していればいいのです。 具体的な行動ができなくても懸念点に気持ちを向けるだけでも良いです。 仕事や家庭や勉強があるとなかなか具体的な行動には移せないものです。 そんな時は、事前に懸念点を想像して想定するだけでも良いです。 懸念点を知らなかったが一番に危ないと思います。 思いっきり心配したら肩の力の抜いて楽にしていいよ。 こんな歌もありますから、脱力していましょう~~ 植木等「スーダラ節」https://youtu.be/NEVLmeFQ_JQ?si=IfLn-BxHj-6kK5ez ありがとうございます。思いっきり心配したら肩の力の抜いて楽にしていいよ
いつか死んでしまうものです。誰もが死にます。嫌なあいつも好きなあの人も家族も自分も。いつか終わることのために罪を犯すのは割に合いません。異性を巡るトラブルも、一時的に預からせてもらっている関係だと思えば冷静な視点に帰れます。いい異性とは自分を狂わせる異性ではなくて、自分を冷静に帰らせてくれる異性のことを言います。幸運とは冷静になれることを言います。幸福とは冷静になって目の前の現状に感謝できることを言います。何を言いたいのかというと一人で孤独を感じて冷静なときは、幸運で幸福なのです。異性とは、人生のオマケ、オプションです。目の前のことに慌てずに、異性にアタックして行きましょう。挑戦してダメならば新しい恋をするだけです。ありがとうございます。挑戦してダメならば新しい恋をするだけです
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人生の法則として、自分がしたことが自分に帰ることです。よく言われるのが因果の法則です。自分がした良いことも悪いことも自分に返るということです。今日は、これを応用します。生活するときも勝ちを相手に譲ってあげたら、やがて自分が勝つ縁を作っていた。自分が真剣に戦って負けてあげたとき、やがて自分が祝福される縁を作っていた。自分が他人を褒めたからいつかの世で自分が祝福を受ける縁を作っていた。自分から愛したから将来に自分が愛される縁、豊かになる縁を作っていた。この全ての共通点は、求める前に、自分から提供したことです。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。負けても良いよ。勝ちを譲ってあげても良いよ
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生きるとは苦しみであるby釈尊 幸福になっても幸福が消えていく苦しみがあります。 物を手に入れても失くしたり盗られる苦しみがつきまといます。 異性と付き合えてもけんか別れや死別の苦しみがあります。 つまり、いいことがあったとしてもいいことがなくなっていく苦しみがあるのです。 では、必ず苦しみが来るいいこととは本当にいいことだろうか? 初めから持っていないとは幸福かもしれない。 それならば、プラスとマイナスの相殺の上である日常とはありがたいではないですか。 喜怒哀楽があり、それでも生活できること。 究極の下から目線の生かされている上で起こる喜怒哀楽。 生かされている原点への感謝とは、それだけでOKということです。 罪があるけど生かされている、これが答えです。 自分が罪を犯したとしても、生きている限り、罪を償...生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
いつの世でもあるのは男女の恋愛関係の問題です。 男女の問題も根っ子を見て行けば性欲というサガ(性)です。 では、なぜ性欲が起こるのか? ラマナマハルシはこれを、お互いの形(性器など)の形が違うから性欲が起こると話しています。 なんということでしょう。 性欲とはお互いの体の形の違いから起こっていたのでした。 しかし、これは厳密にいえば性欲はあっても良いのです。 理由は、性欲がないと子孫が残らないからです。 子孫が残るから人類は存続してきました。 男女の恋愛問題からなにをいいたのかと言うと、性欲もほどほどで良いのです。 極端になりすぎるから問題が起こるものです。 人は極端になりやすいサガ(性)なのです。 いつの時代も男女の問題はあるものです。 問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょ...問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
最近は、若者言葉で「すぐにキレる」人が多いです。 生活する上では「すぐにキレる人」を想定していることが大切です。 同じように自分も怒ったり、すぐにイライラしないことがより大切です。 イライラが怒りの火種になることはよくあることです。 では、釈尊は怒りについてどう話しているか? 怒りを制する者は輪廻転生を終わらせることができると話しています。 怒りの根っこの部分とは自分の妄想である可能性です。 修行をして悟らなくても怒りを制するだけでもよかったのです。 やはり釈尊の言葉には、大自然に溶け込むような気持ちになるものばかりです。 自分の怒りを水に流して行きましょう。 ありがとうございます。自分の怒りを水に流して行きましょう
長所も短所も良いもの悪いも時代や国や立場が変わっていけばその内容も変わっていきます。そんな時は淡々と自分のやるべきことをしていけば良いです。仕事に合わせながら真我をお守りすれば良いです。大切は自分の真我の思いです。真面目に生きていれば大丈夫になります。生きるという期間だけではなく、長い死後の世界もあります。死後を忘れない、いつか自分他人も死んでしまう存在なのを忘れなければ大きな罪は起こしにくいものです。恐れるは真我です。死後に公平な視点から見られるのが真我です。ダメダメでも失敗ばかりでも大丈夫です。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です。今日も感謝して努力を続けて行きましょう。ありがとうございます。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です
仕事をしていればうまくいかないことがあります。いえ、仕事でなくても家庭でも勉強でもうまくいかないことがあります。つまり、仕事も家庭も勉強もうまくいかないのが自然な姿なのです。だから、慌てずに努力をすれば良いと思います。努力してうまくいくわけではないです。けど、努力を続けます。脱力しながら結果はおまかせで良いです。死ぬときに全てを置いてこの世を去るのですから、うまくいったことうまくいかないことも捨てて逝きます。だからうまくいってもうまくいかなくても問題はないです。最後には捨てていくことだからです。大切は、努力していることです。病気で布団の上にいても感謝できることを探したり療養する努力をする。治療努力する。これならば布団の上で動けなくても努力できます。うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう...うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう
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真我をお守りするのは? 日々の生活への注意。 食事への配慮。 防犯への注意です。 ところで近年は凶悪犯罪もありますから、女性の一人暮らしには注意です。 いろんな趣向の人がいますから、女性の一人暮らしは監視されていると思っても間違いではないと思います。 けど、心配過多になってはいけないです。 おおいに心配したら防犯を意識しながら自分の生活を楽しめば良いです。 帰宅時にドアを開けて、そのまま不審者に突進されてそのまま〇イプもある話なので注意です。 帰宅のときは、周囲に人がいないかの確認が良いです。 日中でもです。 これからは自分の身は自分で守ることが大切だと思います。 真我をお守りしましょう。 女性は男性以上に警戒心が大切です。 ありがとうございます。女性は男性以上に警戒心が大切です
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人生も河の流れのようです。 上流では水は清いが生き物が少ないです。 中流になり河の曲がり角が多く、水は角にぶつかりながら、緩急つけて、時には停滞して母性の海を目指します。 下流の海になるといろいろな多くの生物がおり、魚(人)豊富です。 もし、社会から、家庭から、逃げようと思えばそれは海にいる豊富な魚がいるところから逃げるということです。 海があるから幸運があります。 海があるから幸福がります。 どこに逃げても同じような苦しみが来るものです。 それならば今いる場所の苦しみの真ん中で安心して楽しめば良いです。 けど暴力や逃げなければいけない場合もあるから臨機応変に対応です。 苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか。 いっそ苦しいならば、苦しみのど真ん中で安心して居よう、楽しんで居よう。...苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
押してダメなら引いてみな。人生にもこれくらいのゆとりがあるといいものです。しかし、渦中ではどうしても押す一方になりがちです。そんな時は、それが「必要な期間」だったと言えそうです。では、押しても引いてもダメな場合はどうしたらいいのか?自分が出来る努力を継続しながら、忘れていることです。無駄に力が入っているよりも脱力している方が、無意識の力も働きやすいです。押してダメなら引いてみな、心に力を入れてダメなら脱力してみな、にも言えそうです。これならば努力にも言えそうです。努力してもダメなら脱力してみな。今日も最高の努力を真我に見せていきましょう。ありがとうございます。努力してもダメなら脱力してみな
下から目線で生きる、つまり生かされているだけでもありがたいという視点です。 生かされている=幸福だから=幸運だから嫌なことも不運なことも苦しいこともある。 だから今のままの自分で幸福であり幸運であった。 では、なぜ自分はもっと満たされないのか?なぜ不幸なのか?と思うのか。 それは今ある幸福と幸運に感謝をせずに「もっともっと」と求めているからだと思います。 けど、確かに生き地獄もあるのが事実です。 では、幸福、幸運を感じるにはどうしたら良いのか? ・それでも生活できることを感謝すること。 ・感謝の先祖供養をすること。 ・月に一度でいいから感謝のみの奉納する神社参拝をすること。 以上を参考にされてください。 幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます。 あわてないあわてない。 一...幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
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義務でやっていると息が詰まるものです。やらされているよりも「やっている」「楽しんでいる」視点があれば最高です。せっかく生きているのですから、仕事も勉強も家事も楽しめたら良いですね。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです。一度きりの人生を楽しんで行きましょう。ありがとうございます。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです
深く深く悟りますと、逆に黙ることでしょう。 それでいい、これでいいということを体験で知るからです。 そして、人の原点へ戻ります。 悟らなくてもよかった、ということに気づきます。 感謝の継続の生活が悟っても悟らなくても在るだけなのです。 つまり、日々の生活で感謝の継続ができればそれで良いのです。 そして、社会の人々との触れ合いを楽しみます。 仕事、学校、家庭へ帰って生きます。 老子や釈尊はそのことを知っていました。 今日も自分のできることを自分のペースで頑張ります。 ありがとうございます。今日も自分のできることを自分のペースで頑張ります
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愛も安心も「もう、いらない」と思うだけでも心が安らぎます。つまり人は母性を求めていたのですね。求めても期待通りにならないことの方が多いです。飽きて次の刺激を求め始めるからです。そうではなくて、自分が母性なのだと気づくこと、すでに宇宙という母性の中にいたことに気づくこと。気づくとは知識でなく体験です。気づくための言葉が愛も安心も「もう、いらない」です。けど、目の前のことを努力することは大切です。その上での「もう、いらない」です。なにか皆様の参考になれば幸いです。ありがとうございます。愛も安心も「もう、いらない」
今日は、親戚一同が自宅に集まっていました。子供の頃から親戚が集まるのが子供時代の私の楽しみ出した。しかし、大人の中ではいろいろあったみたいです。それでも今年もこうやって親戚一同なんとか集まれたことに感謝します。もし、それぞれに都合やなにかありましても一同が会えないものです。家系の深い繋がりを思います。お昼に一緒に食事をしました。いろいろと話で盛り上がりました。食事をいただけるご縁と歓談で笑顔になれる幸運に感謝しました。近代の聖者ラマナマハルシも叔父を自分の住まいに呼んで一緒に生活していたと思います。私の叔父は数年前に亡くなりました。優しい叔父でした。亡くなった叔父は穏やか性格の人でした。大切な叔父であり今でも感謝しています。私は家庭的な愛情は薄いですが人に恵まれてました。今日は書きたいことがあるというより...これからは若い人の時代
釈尊、老子、ラマナマハルシ、マハラジ。 彼らは自己への探究で覚醒しました。 ですから釈尊は自灯明と発言し、マハルシは「私は誰か?」と探究し、マハラジも老子も同じです。 正しい自己への探究は物も他人も必要ありません。 自分一人でできます。 だから私のブログも本来は不要なのです。 けどこれからも書かせてね笑 書かなければいけないような気がするのです。 自己への探究は、自分の家系の先祖に向かうのも正しいです。 日々の先祖供養と感謝の継続が覚醒へ導きます。 物や他人に依存することはないです。 身一つで十分です。 今日も感謝を継続して行きましょう。 ありがとうございます。真我に目覚めるとは自分の身一つで十分です。
人生に答えない。 しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。 この答えは、全ての人に共通することだと思います。 「私」という夢を見ています。 私とは=時間の経過、空間の拡大 です。 私という夢はいつ始まるのか? これを探求してみたいと思います。 大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。 誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。 赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。 母乳(粉ミルク)をいただきました。 オムツを替えていただきました。 入浴をして心身を生活にしていただきました。 泣いたときにはあやしていただきました。 一緒に遊んでいただきました。 数えればまだまだありそうです。 これらをしてくれた大人がいるのです。 赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた...御蔭様のおかげで今まで生きてくることができました。
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私は食事をいただく時には、食前に食材と神様と先祖への感謝が日課です。 今では日課ですが私は忘れっぽいのでいただきますとご馳走様です、が定着するまで数年かかりました。 御蔭様で外食するといただきますとご馳走様をするのは私くらいなものです笑 それだけ無意識にしてしまうくらいに定着していました。 私は継続に神を見ます。 感謝をすると何も起きませんが、「無言」だから良いのです。 もし感謝をして自分と会話する存在があればそれは注意です。 奇異がないのが神がかりです。 ですから私は祈願、占い、霊能にはノータッチです。 この話が皆様の参考になれば幸いです。 ありがとうございます。食事をいただけるご縁に感謝です。
人生を楽しむということを考えてみました。 誰にでもあって、どんな時にも楽しめるもの。 それは感情や、他人を喜ばせるために使っている行動、時間。 人を思い遣っている行動、時間。 などだと思いました。 苦しい時間もあれば安らぎの時間もあります。 心配している時間もあれば不安な時間もあります。 怖がっている時間もあれば安心している時間もあります。 苦しい感情のときもあれば安らぎの感情のときもあります。 心配している感情の時間もあれば不安な感情のときもあります。 怖がっている感情のときもあれば安心しているときの感情のときもあります。 これらの時間を、感情をプレゼントしていただいています。 これを楽しめば良いのだと思います。 怖いときは怖がれば良いのです。 心配しているときは心配すれば良いのです。 楽しいときは楽し...時間を、感情を、それらは人生からのプレゼントだからです。
自分や他人へのイメージというのはコロコロ変わるものです。 自分へのイメージが変わるということは、他人にならなおさらです。 自分が自他にする善悪の評価もコロコロ変わるものです。 だから自分が変わるときは一瞬です。 きっと前触れもなく一瞬で変わることでしょう。 真我への目覚めも同じです。 いつの間にか一瞬で真我に目覚めているものです。 今日は、自分が人から悪い評価をつけられることを必要以上に怖がらなくていいよということを書きたいと思います。 他人は自分への善悪の評価を「その時の気分」で付けて、変えていくものです。 自分が気にしている他人から得た善悪の評価も、他人は評価したことを忘れているものです。 つまり、評価とはそれだけ曖昧なものなのです。 子供の頃に欲しかったおもちゃは欲しいおもちゃですが、大人になってか...自分が変わるときは一瞬です。
明日捨ててしまう生ゴミなのに誰が前日に生ゴミの中身を確認するでしょうか?そう発言する聖者が過去におられました。生ゴミとは自我(エゴ)のことです。つまり、対象の私のことです。私も人類は最後にはみな自我を明け渡して、真我に気づくと信じています。ところで私と言う対象とは誰のことでしょうか?それは真我が私という個性を想像したときに出来上がる「私とは〇〇である」という自分像です。夢の私です。このイメージは簡変わります。子供の頃に思っていた自分というイメージは、大人になった今の自分イメージは違います。今、流行りの自己評価や自己肯定感は変わりやすくあり、自分で変えて良いのです。周りからの評価はコロコロ変わるし、変わっていって良いので自分への評価を肯定して良いのです。つまり、自分を信じるということです。自分は、価値ある評...自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
人生の喜びと苦しみもプレゼントだと私は思っています。これが深くわかりだしますと、人は黙るのではないでしょうか?地獄を見ても人は黙ります。あれ?喜びも苦しみもいただいても地獄を見ても黙るのです。行き着く先は同じだったのです。これでいい、ちょうどいいというのがわかるのです。そんなに人生をあせらなくても今の自分にちょうどよいのです。ならば、この地獄に肩までつかっていればよいのです。地獄まで共に参ります、で良いのです。意外とこの方が早く地獄から抜け出せるかもしれませんよ?喜びにも苦しみにも感謝していましょう。行き着く先はみな感謝です。ありがとうございます。行き着く先は同じだったのです
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ここ数年間ほぼ毎日ある男性の意識に変わります。 良い思いならば良いのですが、嫌な印象が残る意識なのです笑 相手の方は、事情のある方なので相手が死ぬまで続くと思っています。 しかし、よくよく考えてみますと、人類も大自然もせっかく地球が作って残してくれたものです。 生きているから体験できることを思えば感謝ができそうなものです。 「いや、あの人はとんでもない人で私は感謝できないです」 という人もおられると思います。 私は、それでも良いと思います。 感謝をするか、しないかは個人の自由に思うからです。 感謝できなくても良いので相手の悲しい背景、寂しい生活環境を思いやってはどうでしょうか? 物理的な距離は置くけれども心は相手への慈悲を向けます。 私は、勉強をするのも、当たり前の感謝に気づくためだと考えています。 同じ...今日という日常を一緒に頑張りましょう
たまには音楽を聞いてみてもいいね。 動画サイトで無料の音楽があるので、自分に合った音楽もいいね。 私は日常的に音楽を聞きますが、音楽を聞くのが日々の楽しみです。 ショパン、バッハ、モーツァルトを聞きます。 その時の気分に合わせて洋楽、邦楽、アニソンなども聞きます。 特に最近聞くのがライアーとシタールの楽器の曲です。 これは心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます。 本来の静寂を思い出させます。 あわてないあわてない。一休み一休み。 ありがとうございます。音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
最近に思いますのは、幸福にせよ、不幸にせよ現在の体験が2度と来ないことを私たちは知っているのではないでしょう。 だから幸福には感謝して喜びます。 不幸には因果の精算がこれで済んだと泣いて喜ぶのでしょう。 物質的に恵まれても、心が安心していても、いつも考えているのは地球のことであり他人のことです。 この世には自分一人だけしかいないのが真実です。 しかし、それでも地球や他人のことを考えてしまうのです。 あれほど自分のことばっかりだったのに欲望の対象が変わるだけで人はころっと変わってしまいます。 その人にはその人の人生のテーマがあると思います。 感謝をするテーマだったり、素直になることだったり、謝ることだったり、因果を精算のするテーマだったり。 私はすべてに共通する人生のテーマが感謝の継続だと思っています。 仕...2度とない現在を転げ回って生きてやりましょう。
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どんなことも思い出になります。 苦しみは、渦中は苦しいですがやがて思い出になります。喜びは、最中は嬉しいですがやがて思い出になります。 つまり、現在、苦しいということは、喜んでいるということは、思い出になることが決まっているのです。 喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。 けど、苦しみはすぐには忘れないし、時間の経過と共にただの苦しみに色がついて余計苦しくなることがあります。 けど、いつか思い出になることが決まっています。 ですから、受け取ってしまった苦しみならば、苦しみを体験できることに感謝すれば良いのだと思います。 せっかく受け取ってしまった苦しみが「有る」のですから感謝していただきましょう。 有るものだから体験して行きましょう。 この世は、苦しみと言います。 喜びもやがて苦...喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。 歴史の教科書では、人類の初期はほら穴での生活でした。 寿命で死ぬのも30代頃だと推測されています。 つまり、悲しめるのも苦しめるのも損したり、失っているように感じますが、逆に悲しみも、苦しみも得ているといえないでしょうか? 悲しみも苦しみも逆の感情を知っているからこその悲しみであり苦しみです。 つまり私たちは自分なりの幸福を知っているのです。 あの人のような幸福でなくても自分なりの幸せがあります。 それは悲しみを体験する人生かもしれませんし、苦しみを体験する人生かもしれません。 楽しい人生もあるかもしませんが、楽しみの裏では幸運を使って減らしているかもしません。 今が楽しい人は、感謝の継続です。 これが幸運を減らさない生き方です。 今が不幸だ、苦しい人は、現在に幸...人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。
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