2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
舞台は1994年~1996年のイタリア/ミラノ。かなりおっちょこちょいで頼りない当時27歳の筆者が2年半の留学で体験した、個性的な仲間たちとの日常・珍事件・旅を綴った連載的体験記です。
「そろそろ文章に残しておかなければあの宝物のような思い出が薄れて行ってしまう!」そんな危機感からブログを書き始めました。不思議なことに、つい先日のことのように次から次へと思い出が蘇ります。
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2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
トスカーナの旅から帰った私は大忙しだった。なにせたった3日間で、ミラノで暮らした2年分の全てを片付け、4日目には日本からやって来る友人と約2カ月間、“西ヨーロッパ一周バックパッカーの旅”に出ることになっていたからだ。 その後ミラノのアパートメントに帰り、その2日後には日本に帰国するという超過密スケジュールなのである。
マルコからの突然の提案で(その91参照)、今夜が旅の最後の夜になってしまった。私たちは何となく感慨深げにテントを組み立て始めた。作業する傍らで、どこからともなくやって来たブチ柄の痩せた野良犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらはしゃいでいる。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
今日は1996年7月9日、トスカーナ自転車旅行7日目の朝が来た。 昨夜は設備が整ったキャンプ場のシャワールームで、2日分の汚れをきれいさっぱり洗い流したので今朝は気分爽快である。しかも今夜もここに宿泊するので、今までのように朝早くテントを畳んで慌ただしく旅立たないで済む。 この旅始まって以来ののんびりした朝だ。 昨日の雨の名残りか、プールサイドから見上げる空にはまだ雲が多いが、合間から刺す日差しは夏そのもの。 旅が始まってから今日まで、私たちは古都シエナを目指して必死に自転車を漕いできた。そのシエナがとうとう目と鼻の先(ここから30分行ったところ)にある!確実に手が届く!
古城で迎えるトスカーナの夜明け・・・と書くと物凄くかっこいいが、正しくは、古城がある公園に張ったテントで迎える5日目の朝(笑) 私とマルコとオスカルは早起きをして、この旅最大の目的地である古都シエナを目指して出発した。もう迷子になるわけがない。だって目の前にあるのは獣道ではなく、確実にシエナに向かうと太鼓判を押された”ちゃんとした道”(地図に記載がある道路)なのだから。
「マズいことになってしまったかも・・・いや、そうに違いない。」 1996年7月7日。私たち三人はそれぞれがそう思いながらも口に出せず、無言のままペダルを漕ぎ続けていた。 農家の優しいご夫婦に別れを告げてから約2時間、シエナ方面に向かう一本道をひたすら進んで来たのだが、その道が・・・
「おーい!おまえたちー!早く起きろー!カメが!カメが卵産んでるぞー!」 “は?カメ・・・それって亀?” 手探りで掴んだ枕元の腕時計はまだ5時を過ぎたばかり。 “ここはどこ?ナゼに亀?そして・・・マルコでもオスカルでもないこの声の主は一体誰?” 頭の中も髪の毛もグチャグチャなまま、取りあえずテントのファスナーを開けて外を覗いてみる・・・が、やはり全く状況が呑み込めない。 「ほら!カメラ持って早くこっちにおいで!」 見知らぬおじさんが私に向かって一生懸命に手招きをしている。
3日目の朝が来た。アグリツーリズモを営む農家の庭先に設置した大小のテントが二つ。その小さいほうから這い出した私の視界一杯に、朝のまばゆい光に照らされた緑の絶景が飛び込んできた。 “そうだ・・ここはトスカーナだった!” と、毎朝驚く私。 そしてここはモンテプルチャーノを見上げる広大な畑の中に建つ一軒家・・の庭先。昨夜到着した時は既に日が暮れていたので、遠くにポツポツと灯る灯りしか見えなかったが、今は澄んだ空気の中にそびえ立つ丘の上のモンテプルチャーノがはっきりと見える。
2日目の朝早く、テントを張った謎の空地を後にした私たち三人は、第一目的地であるモンテプルチャーノの手前の、名も知れぬ小さな村でようやく食事にありついた。バール(カフェバー的なお店)はここ一件しかないのではないかと思われるほど辺鄙な村の小さなバール。そこでピザかサンドウィッチでも食べたのだろうか?とにかく自転車を漕ぐので精一杯だったので、残念ながらこの旅での食事の記憶は全般的に薄い。
1996年7月4日。私たちは一つ目の目的地であるモンテプルチャーノを目指して自転車を漕いでいた。 出発地点の“トッリータ・ディ・シエナ”からは直線距離で約12㎞。スタートしたのは昼過ぎであったが、夕方前には余裕で到着すると思っていた・・・が、されどここはトスカーナ・・・そんなに甘くは無い。私たちは1日目にしてトスカーナの厳しい洗礼を受けることになる。
出発の朝が来た。 荷物は最低限にしたのだが、用意したサイドバック(自転車の荷台の横に下げるバック)はパンパンだ。それに寝袋とテントを入れると全部で20㎏くらいになるだろうか。 「あなたホントに大丈夫?こんなに荷物積んで自転車漕げるの?しかもトスカーナの丘陵地帯でしょ?」 同居人の良美さんが心配そうに見つめるも、今更どうにもならない。
その日は晴天だった。学校側の粋な計らいの下、卒業式は太陽が降り注ぐ校舎の中庭で行われることになった。狭い庭内に建築からグラフィック、ファッション、インダストリアルetc…全てのコースの卒業生と教師が集まるのだから結構なすし詰め状態だ。
卒業設計の結果発表の翌日、私たちは約半年間続いた苦行(?)の打上げと称し、料理上手なシェフ(その75参照)がいるダニエラの家で、しこたま食べてしこたま飲んでお互いの健闘を称え合った。この楽しい時が永遠に続いて欲しいと、そこにいるみんなが願っていたと思う。その日はうっすらと空が明るくなるまで誰一人帰ろうとしなかった。
卒業設計が大詰めを迎えていた1996年6月の始め、私は半年間お世話になった設計事務所でのアルバイトを辞めた。ここで働かせてもらったお陰で生活が安定し、何とか無事に卒業できそうである。どこの馬の骨とも分からない私を迎え入れてくれたピエラとダッグには感謝しかない。
“訳”あって、(前回参照) 卒業旅行の日程をズラしてもらってから一週間後のことである。 卒業設計のグループ作業をしている教室に、マルコが珍しく遅れて入って来た。いつも穏やかな丸い目が心なしか横に潰れた楕円形に見える。 明らかにいつもと比べて口数が少ないマルコ。しかしそのことには触れないまま黙々と作業をすること数時間。
卒業旅行計画が発表された翌日の土曜。私たち4人は早速マルコの車で郊外の大型ホームセンターへテントと寝袋を物色しに出掛けた。まだ2カ月以上先のことではあるが、私たちの意識は既に卒論を軽く飛び越え、新緑きらめくトスカーナの地にあった。 しかしそんな中、私は一人、ある問題を抱えて悶々と悩んでいたのである。
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
卒業旅行計画が発表された翌日の土曜。私たち4人は早速マルコの車で郊外の大型ホームセンターへテントと寝袋を物色しに出掛けた。まだ2カ月以上先のことではあるが、私たちの意識は既に卒論を軽く飛び越え、新緑きらめくトスカーナの地にあった。 しかしそんな中、私は一人、ある問題を抱えて悶々と悩んでいたのである。
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
午後の教室は春先の柔らかい光と食後の気だるさで満たされていた。卒業設計のグループ作業の前日は、割り振られた課題を完了するため、徹夜作業になることが多い。私はその日も明け方に仮眠をとっただけだったので、ついさっきマルコと食べたピアディーナが胃の中で膨れて来るにつれ、耐えきれない眠気に襲われていた。
ミラノにいつも通りの朝が来た。今日は午前中にナビリオ沿いのピエラの設計事務所でアルバイト。午後からは学校で卒業設計のグループ作業をする予定である。 “例の模型作りの一件”以来、いまだ首にならずにアルバイトを続けていられるのは、ピエラが同居人の良美さんの友人だか
いよいよ今日はポルトフィーノ散策の日。天気は快晴。絶好のお散歩日和である。 マルコお墨付きのバールで、カスタードクリーム入りコルネット(クロワッサン)をたらふく食べた私たち4人は、いったんマルコのマンションに戻って身支度をしてから出発した。 サンタマルゲリータからポルトフィーノまでは約5キロの道のり。交通手段としては通常、船やバスが利用されるのだが、「歩いて行った方が絶対楽しいから!」とマルコが言うので、全員素直に従うことにする。
こんにちは!先日、近所の幼稚園の園庭で梅の花が咲いているのを見かサンタマルゲリータに到着したその夜はマンションの近くで見つけたアットホームなトラットリア(イタリアの食堂)でパスタやらなにやらをお腹いっぱい食べた。残念ながら、メニューは忘れてしまったが、とにかく4人とも無口になってしまうほど満腹になった。 「さ~て、じゃあ帰ってシャワーして寝るか!」マルコはウェイターにお会計を告げ、カバンから例の共有財布を取り出して支払いをしている。・・・そのときである。その様子をジッと見ていた私は、ふと思ってしまった。“え?これって不公平じゃない?”
「これで運転してるのがマルコじゃなかったら最高なんだけどな~!」信号待ちの合間に憎まれ口を叩くも、今日のマルコはベスパのバックミラー越しに寛大に笑っている。 ここで余談ですが・・ ここまで書くと読者の中には「とかなんとか言って実はマルコと付き合ってるんじゃないの~?」と思う方もいらっしゃるかと思うので、念のため解説します。 マルコにはエマというとても可愛い彼女いるのです。
マルコと子供のようなケンカ別れをしてから数日後、何度目かのチームミーティングの朝が来た。今度こそ絶対文句は言わせまいと、昨夜は遅くまで根を詰めて作業をしていたせいか、今朝は格別に眠い。 思い身体を引きずりながら身支度をしていると、キッチンにあるFAX機能付きの電話が鳴った。数秒後、キッチンにいた良美さんが私を呼ぶ。 「お~い!マルコから電話だよ~!」
ミラノ市内の病院に行った日から寝込むこと3日間。そして4日目の朝が明けた・・・。「完全復活!」と言いたいところだが、今回の風邪はそう甘くはないようで、咳と喉の痛みがしぶとく残っている。しかし今日は何としてでも卒業設計に取り掛からねば、次のミーティングに間に合わない。 喉を除けば体調はだいぶ良くなった気がするので、取りあえず起き上がってブランデー無しのホットミルクにたっぷりのお砂糖を入れて飲んでみた。荒れた喉の粘膜に痛いほど染み渡る。アルバイト先である設計事務所には良美さんが保護者の如く「しばらく欠勤」の連絡をしてくれていたので、なんとか集中して卒業設計のプラン作りに集中することができた。