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2021/04/19

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  • 初春の高原 林の中を歩いてみた

    昨日は東飯綱高原へ行って、のんびり数時間を過ごした晴予報だったが、黄砂もあって一日中、青空は出てこなかった1000mの高原は肌寒かったが、カメラを持って歩いたところがメモリーカードが挿入されていなくて、使えないというおそ松それでスマホでの粗い写真しかない誰もいない林の中を一人で歩いたので、熊とかが薄気味悪かったが、林の魅力が勝った、川の流れなんかもあって気持ちよいトレッキングコースになっていて道も案内板も整備されているから、どってことは無いんだけど、ビビリなんだよな。歩いていると、鳥が近い、幾種類か見られた最近は特に鳥の写真を撮りたいと願っているので、鳥に敏感になった今日もヒヨドリに会った、ウグイスも鳴いているあああカメラ・・・残念ビージーズ/ホリデイTheBeeGees/Holiday(1967年)初春の高原林の中を歩いてみた

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 75

    このような危機に会っても晴信は少しも動揺せず、また左右の旗本もこの主にして、この将あり少しも騒がず毅然として敵の攻撃に備えている。村上方は先陣を五隊に分けて、楽岩寺右馬助、井上九郎光興、須田大炊(おおい)綿内左内左衛門、牧島玄蕃允、その後ろは村上の本陣である。先陣が遮二無二に攻め込んで、晴信本陣が崩れたら村上義清本隊が一気に攻め込んで晴信を討つと言う、思い切った布陣である。先陣は早くも鯨波(とき)の声を上げて攻めかかる、まずは甘利備前隊、鉄砲を撃ちかけるが村上方は盾を並べてじわりじわりと攻め寄せてくる村上先陣の五頭に加え、足軽大将小島五郎左衛門の隊も押し出しついには六頭揃えて攻め寄せる寄せる村上勢は晴信の首取らねば更科に戻ること無し、守る武田勢もここで敗れれば甲州に戻ること無しと互いに思えば、互いに引かず...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家75

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 74

    天文十五年となり、晴信は二十六歳になった前年に諏訪頼茂が滅び、信州降参の大将、芦田下野守、相木市郎兵衛、依路、平沢らは武田方となり、この上は村上義清を攻め滅ぼすべしと策略を巡らせた。信州小県郡(ちいさがた)戸石と云うところがあるこの城は村上義清と小笠原長持の相持ちの城で、村上より薬師寺右近の舎弟、同弥次右衛門が千三百を率い、小笠原からは長澤右兵衛大夫を大将に千人、両家合わせて二千三百が籠っている。これらは時々、武田方の海野へ兵を出して放火などを繰り返していたから、三月上旬に戸石を落すべく軍議を重ねた。村上、小笠原とは別に伊那谷には伊奈衆が割拠していて、村上、小笠原に同心して武田と敵対しているから、いつ彼らが後詰となって横槍を入れてくるかわからないその為、左馬之助信繁を大将にして、穴山伊豆守、小山田左兵衛尉...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家74

  • 忙しさMAX

    この3日間は、いろいろ続いてとうとう昨夜はブログを書く時間が無くなってしまった。15日は夜中に虫歯が痛んで、朝一に歯医者へ行って治療してもらい、16日は花見で、つー君と二人で幹事になって、買い出しやらシート、クーラーボックスの調達、そんなで10時から17時まで、お花見で一日が終わった家に帰ったら「手伝ってほしい」と船長から電話が来て、17日は早朝4時起きで港へ行った午後2時までびっしり仕事をして、家に帰って風呂を沸かして隅々まで洗って、お出かけの支度18時からは、先日の祭りでの手作り品販売の打ち上げを中華料理店で行った始めてゆく店だったが、中華のコースは本格的な品が次々に出て、どれも素晴らしく美味しかった花粉症や歯のこともあって、写真を一枚も撮らなかったのは不覚だったしかし、久しぶりのアルコールだったが(...忙しさMAX

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 73

    諏訪頼茂は、晴信の心籠った対応に喜び、これで小笠原、村上が攻め込んできても武田の強い絆が救ってくれることを確信した。晴信は密かに仲間頭荻原弥右衛門を呼び「汝、頼茂の傍に寄って隙を見て刺し殺すべし」荻原は次の間に去って、それから短刀を懐に隠して料理、菓子を持って給仕の体で頼茂に近づいたそして頼茂が横を向いた刹那、懐の短刀で「えい!」と胸に一刺しすると、頼茂は匕首を抜いて荻原に切りつけたが、荻原はそれを奪って額から真向に切りつけたので頼茂はたちまち息絶えた。騒がしさに気づいた諏訪頼高と従士十余人は匕首を抜き、荻原を討たんと切りかかった。されどもここは甲府の館、多勢に無勢で武田の士に取り囲まれて、次々と討ち死にした、頼高一人が傷を負いながらも抜け出て、諏訪の供の者たち三百の中に逃れて、諏訪を目指して落ちのびた。...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家73

  • お花見 間に合った

    今日は同級生とのお花見、14名ほどいるベストメンバーも何やらかにやらあって、結局、男4人、女2人の6人参加だった。この頃はメンバーも自分か連れ合いのいずれかが不調で欠席することが多くなった参加した6名だって、夫婦で健康なのは2人だけで、あとは何かとあって、それでも参加してくれて感謝、感謝!。もうお互い先が見えてきて「この次ね」なんて言葉がいつむなしくなるかわからない。出来るときにしておくのが、後々の悔いが残らない唯一の方法。さて二年前に初めてメンバーの花見をして、今回が二回目一回目は16日で、ほとんど花が散った後だったが、今日は花びらの舞はじめ、枝にはまだまだ花がついていてよい風景だった。ここは標高100mの広い運動公園で、桜並木もあちこちに全体で100m以上は広がっている今日初めて「メジロ」を見た、見た...お花見間に合った

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 72

    月日は早く、すでに天文十四年となった正月の年始賀儀において、左右に居並ぶ重臣らを前に晴信は「予は既に信州四家の輩と戦を続けてきたが、一度として敗れることなく来たのは、これ全て汝らの軍忠のおかげである中にも諏訪頼茂はわが伯母婿であるが、父信虎の頃より不仲となり幾度も戦火を交えて来た、予の代になって頼茂が心を入れ替えて我らに従えば、村上、小笠原、木曽を滅ぼすことは容易となるであろう故に諏訪へ使僧を使わせて和睦しようと思うが、どうであろうか」と言ったすると山本勘助が進み出て「この義は甚だ道理に叶っております、隣国の戦に手間取る間に、誰ぞが帝都に旗を入れたなら後悔しても後の祭りとなりましょう」と言えば、一座の皆がこれに賛同した晴信は早速、恵林寺の惟高、法成寺の策玄、栄昌院の大益和尚を召されて和議の事を話すと「かか...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家72

  • 思いがけない出来事 先生がびっくり!

    昨日は夜更かしをして寝たのは23時半違和感を感じて目が覚める、時間は深夜1時だった、寝てさほど過ぎていない奥歯が不快感、痛くはないが2日前から同様な兆候はあったうがいをして寝たが、2時半にまた目が覚めた、それから痛みが始まって、最初は「ず~~~ん」だったが、そのうちに「ズキンズキン」に変わって、もう寝られない「こりゃ虫歯だ」何十年ぶりの虫歯の痛み、もう寝られない昔なら一家に一箱、富山の薬売りの配置薬が置かれてあったが、今はドラッグストア乱立で家にはおいてない。歯が痛めば「ケロリン」粉を歯や歯茎に塗って応急痛み止めしたものだった。ともあれ今の我が家には、そんなのが無い、まだ真夜中で朝まで寝ないで我慢か・・・「!」口内炎の塗り薬があった、効くか効かぬかわからないが歯茎に塗って見たそしてアイスノンをタオルで巻い...思いがけない出来事先生がびっくり!

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 71

    その後、源五郎は信州のゆかりある寺院に住んで、雑役をして暮らしていたが、(このまま仏門修業をして僧侶となれば、父の菩提を弔いながら一生を過ごすのも孝道である)と考えてみたが「一子出家すれば、九族天に生ず」(子が一人僧となれば、その一族は皆、極楽に生まれ変わることができる)ということであるから出家するのも良いが「待てよ!」天地には自然の陰陽在り、東あれば西、北あれば南、父あれば子、君あれば臣、夫あれば婦あり、これみな一対ずつであり一つとして欠けたるものはない人においては男女を一対として、天地がある限り人が産まれ、「三歳具足せり」(出家者が守るべき戒律)とも言う出家の道は、「男女の交合を第一の煩悩として、自分の心をまずは清らかにして仏の心に至る修業に励むべし」などと言うが、それは凡夫の世から見れば陰陽雌雄の一...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家71

  • 久しぶりの手作り海鮮丼

    家族の誕生日で久しぶりに包丁を握った海鮮を食べるのもずいぶん久しぶり、この周りはずっと野菜と豚肉の生活魚をスーパーで買うのも何かねーとはいうが漁場が点在するわが町では、スーパーと言えども侮るなかれバイヤー次第で魚屋並みの新鮮魚はある、優秀な鮮魚バイヤーとも付き合いがあったから「あのスーパーは大丈夫」なのも知っている。あとは鮮度確認だけ、照明に騙されないためには「魚の黒目が輝いているか」「魚の表面が乾いていないか」「腹が黄ばんでいないか、痩せていないか」が基準になる。買ってきた食材地元の真鯛以下下ごしらえ終了後写真地物ヤリイカ地物あじ地物あまえび(これは水揚げ2日位たっているでも甘みは2日目が一番)小さく安いのを買って、身は指で簡単に押し出せる大きいのは高い小は、これで350円アジ、マグロ鯛は湯ぶりして皮つ...久しぶりの手作り海鮮丼

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 70

    今日の合戦勝利は、山本勘助の策によるところ功第一等で感状を贈られた次に春日源五郎が召し出され、「汝、昨夜の夜討ちでは抜群の働きを成し首幾つも取り、明けてもまた優れた働きをした、初陣の手柄まことに天晴である」と貞宗の太刀を与え、源五郎改め弾正の名を与えられた。春日弾正の出自を尋ねると、もとは甲州井澤の百姓。春日大隅という者あり、始めは井澤五郎信種に仕えたがわけあって浪人となった後に没落して(二君に仕える不義はせず)と百姓になった。間田を開拓して新墾田と成し僅かな年月のうちに豊かになった大隅には男子なく娘が一人だったので、一族の宗右衛門という者を婿に迎えて家産を譲った。その後、大隅の妻が四十歳になって子を宿し、無事男子を産んだ、これが春日源五郎である。年老いてからの子であったから、大隅は目に入れても痛くないほ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家70

  • オーラ オーラ! 大谷

    昨日は、気の向くままに一日を過ごしていると書いたが、それは少し違う部分があることに気づいた。私の一日に外すことができないものがある、それは「大谷=ドジャース」の試合中継。今日も大谷は4号ホームランに二塁打2本、長打率も打率もまたアップ、ホームランは松井の日本人選手最多に並び、安打数も日米通算1000安打メジャーホームラン数は松井より遥かに早い達成、そらそうだ、大谷はメジャー屈指のホームランバッターだもんな大谷の試合観戦時間だけは重要な行事が無い限り優先される。だから一日の中心に「ドジャース中継」を置き、その前後に様々なスケジュールを配置していくのだ。他にもメジャーの日本人の試合があるし、日本のプロ野球中継もあるのに、それらにはあまり興味ないもちろん、ダルビッシュ、鈴木、今永、吉田などの活躍にも興味があるが...オーラオーラ!大谷

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 69

    上和田孫次郎は今日この城、落城の時来たりと思い、最後の一軍華やかにせんと、刃渡り三尺五寸の長刀を下げ城外に突出したとき源五郎に出会った「よき敵なり」と源五郎が勇んで槍を突き出せば、孫次郎もこれを跳ね返し、二人の殺気ほとばしるに周囲の誰も、これに手出しもできず固唾をのむのみしかし源五郎の槍が勝って、孫次郎を突き伏せ、この首を取ったその余勢をかって源五郎は更に三つの首級を挙げた小田井又六は、もはやこれまでかな最後に死出の旅立ちを飾る華々しい一戦を持て黄泉へ旅立とうと思ったが、心残りは妻子の身の上、我亡き後に敵の手に落ちて屈辱を受けるよりは、わが手にかけて共に三途の川をわたらんと本丸へ取って返した。しかし既に忠臣の者の仕業か、小田井の妻子を引き連れて落ちたと見え姿はなかった。「心無き者のふるまいや」と歯噛みした...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家69

  • 今日の事 桜を見て歩く

    「PERFECTDAYS」を見て少し刺激された私は2年前からPERFECTな「FREEDOMDAYS」になって、仕事のオファーも断り、勝手気ままな生活を始めた。義理あって船長の手伝いを冬の間10日ほどやったが、これも行く行かないは私の気持ち次第が条件だった。一日の暮らしは、やっていることはほとんど毎日同じで、始める時間、やっている時間の長さが違うだけ、あとはやりたくない日はやらない。2年も続ければ、ほぼマンネリで変化が欲しくなるだから畑つくりを始めたし、散歩+写真撮り、女性部への入会、映画も見に行くようになったし、リースやステンドグラス作りなどを始めた。まだまだ暇な時間が多くある、youtubeを見る時間も増えて来た、今はPCからモニターにつなげて大きな画面で見ているyoutubeで外国人の日本旅行を見て...今日の事桜を見て歩く

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 68

    城中に紛れ込んだ勘助の手の者たちは用意した火薬に火をつけて回ったのであった。折悪しく、小田井の兄弟は東西の櫓にあがり兵を指揮していて、この狼藉に気づかなかった城兵はわけもわからず騒ぎ立てた、「裏切り者だ」と言えば「敵が紛れ込んだ」という者もあり、守りに乱れが生じた。小田井又六は味方に向かい「直ちに二の門内に引き揚げよ」と下知して自らも二の丸へと入った勘助は、これを見て「謀ごと成って、もはや外曲輪の敵は去ったぞよ、城戸を破って突入せよと馬上から立ち上がって采配を振れば、諸兵たちまち城戸を打ち破り二の門に押し寄せたこれに元気をもらった板垣勢も押し出し、その中より広瀬、馬淵の二人も勇み出て早、山本勢の後ろから二の門に取りついた。これを見て小田井兄弟は二の城戸にあって、散々に矢を射かけるしかし既に二の丸の内にも勘...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家68

  • 夜桜は寒い

    今日は、あちこちをドライブして新湊まで行ったが、どこも桜さくらが咲き誇っていた。北国は、もう少しと思うが、多くの町でも、桜は満開でしょうから、あえて写真は載せません。私が時々訪れる河川敷の堤防の桜並木も、あっという間に満開です、バックの山並みとマッチして素晴らしい景色です。また富山県東端の朝日町船川べりは、桜とチューリップと菜の花と北アルプスの景色が揃った「春の四重奏」として近年観光コースになっています。今日も木曜日なのにどんどん車がやってきて、観光バスも見えるこのあたりの国道は渋滞して、なかなか動きません今日なんかは本当に見事に四つが揃って最高の風景でした、桜、チューリップ、菜の花が揃うのはなかなかむつかしいのです。海王丸パークの新湊大橋東詰め周辺でも、まだ若い桜並木が満開で、その中を気持ちよさそうに走...夜桜は寒い

  • 祭りの一日

    9日は一日中けっこうな雨が降り続き、そんな中で祭りに準備をしたが、その頃には小降りになって、なんとかぬれねずみは免れた。10日は本番、祭り最大のイベントも、稚児の舞もコロナ以来五年ぶりのフル再開で祭りファンを喜ばせた、しかも天気は快晴私も仲間4人と手作りアクセサリー&人形の店を出店、長テーブル二つのささやかな店やはり五年の空白は簡単には戻らず、まして高齢化率4割を超えている町では、人出も思ったほどなく、私たちの日陰の参道は寒くて、人も少ない出店も地元からは4店舗だけとなって、あとはずっと空き地になって寂しいメインストリートはさすがに多くの人が歩いていて、テキヤさんの店がずらりと並んでにぎわっていた。日当たりも良く、家族連れや子供たちが池の亀に興味津々で戯れていたメイン行事も力が入って、延々2時間近くも熱気...祭りの一日

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 67

    夜が明けて周りを見るに、敵も味方も一人として血糊なき人はいないすでに夜を徹して寒風の中を戦い、誰もが疲れ果てていると晴信は見た敵は闇夜の内は、互いの顔も見えぬ故、闇に紛れて逃亡する者もあったであろうが、明るくなって互いの顔が見えれば、もはや逃げることもならず再び必死の兵になる、そうなれば死を覚悟した敵の力十倍にも増すであろうそう考えると、早く味方を引き上げるべきと傍にある原隼人佐昌勝に「急ぎ、兵を引き上げさせよ」と命じた。原隼人佐は、晴信直々の軍配を預かり、その勢二百騎を引き連れて最前線に駆け寄り、敵味方切り合う中に割って入り、疾風の如く駆けて引き上げの下知を味方に伝えて走ったその手際の良さは、屈伸自在なること十本の指を動かすよりも速やかである小田井方も押され気味の中、必死の誓いを立てたとはいえ武田勢の守...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家67

  • 完全復帰 大谷! 待ってたよ

    9試合41打席ノーホームランの大谷も2試合連続の1.2号で感触を思い出したようだ、今日も3号を放ち長打3安打、5試合連続のマルチ安打打率も.345で10位OPSも1.056まで跳ね上がりリーグ10位まで上がって来た、トップは1.300の同僚のベッツ。今期は強豪ドジャースでベッツ、フリーマンに挟まれ、更に4番から7番まで切れ目のない打線だから、敬遠や四球が未だ1ケ、安打やホームランのチャンスは昨季より遥かに高くなった。ネットでは大谷が去ったエンゼルスで孤軍奮闘のトラウトが、ホームラン4本打ちながら未だ4打点とあった。トラウトの前にランナーが居ないと言うことだ、あるいは居た時には勝負してもらえないと言うことだろう。ホームランはヒットの延長というのは大谷に当てはまる、軽くちょこんと出したバット、泳いで片手打ち、...完全復帰大谷!待ってたよ

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 66

    小田井勢は全ての士が死を決しての突入であったから、これを受ける武田方もまた必死であったが、長躯甲州からの長旅、それに加えて夜の厳しい寒さに少しの睡眠もとらずいたため、小田井の死に物狂いの攻撃に後れを取って、防ぐもままならず追い込まれた。そのとき、味方の陣中より一人の若侍が兜もつけず、乱れ髪を白布にて引き締め、年頃は未だ十七八歳、三間の長槍を押し立てて「エイ!」と叫んでかけ入り、手先を回し、敵を突き立て縦横無尽の働き是、春日源五郎なり(後に高坂弾正昌信という)時に十八歳、勇気凛々の若武者敵の大将小田井又六郎を求め、ひたすら敵陣を駆けると、垣澤森之助と名乗った若侍、これも二十一ニと見受ける、春日源五郎に槍を合わせ、春日は三間槍、垣澤は僅か六尺の槍、春日の手元にくぐって一突きにせんと進むところを、源五郎は長槍を...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家66

  • 映画「PERFECT DAYS」を見た

    たいがいの人は、他人の生活など興味が無いし、見てほしいと言っても見たくないはず。ところが何のへんてつもない平凡なトイレ清掃員の生活を、わざわざお金を払って見に行く私も、その一人になった。なぜ行ったのだろうか?それはこの映画の評判が良かったと言うことに尽きるごくありふれた生活ドラマだと書いてあった、だから事件だとかが映画の中でおこることは最初から思っていないそうだ、もう一つは全編にオールデイズナンバーがかかっているという情報これには少し心が動いたのだった。田舎で、マニアックな映画を見るのは容易でない、いつも話題作、封切を見に行くのは総合シアターで、そこでは上映予定が無かった金沢、富山から新潟まで上映館を探してみたら、それなりに4月まで上映している映画館はいくつかあった。そんな中で気をひいたのは、上越市高田の...映画「PERFECTDAYS」を見た

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 65

    小田井の勢は北表と西の二手より火をかけ旗なびかせ、鬨の声を挙げて攻め寄せた、そして口々に「武田晴信見参」と声高々に呼びかける。味方は寒さに凍えて休んでいるところに火をかけられて騒然となったが、さすが晴信の軍令は行き届いており、それぞれに具足を身に着けると素早く敵に備得た特に板垣信形は味方に向かい、大音声で「汝ら慌てることなかれ、敵の夜討ちの勢は僅かなり、合言葉をもって敵味方を探る様に、決して同士討ち無きようにせよ、入ってきた敵を陣から追い払え」と叱咤する。板垣勢の中より真っ先に突き出でたるは板垣の甥、三科肥前、中間頭広瀬郷右衛門十六歳、曲淵庄左衛門十九歳また小田井勢の中から板垣勢に突き出し者は、小田井次郎左衛門、岩津鉄右衛門ら七百人、武田晴信の首級を挙げねば引くまいと遮二無二攻め寄せる三科、広瀬、曲淵三人...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家65

  • ダブルけんちゃん

    昨日は3時半に目が覚めて、4時にはベッドから出て時間を過ごし5時からのドジャース戦のテレビ観戦最近では珍しい朝からの温かさと、青空に気分も浮かれる野球がドジャースの完全な勝利で終わり、ハラハラドキドキの内に、山本投手のメジャー初勝利おめでとう青空の見えるうちは屋内仕事はトイレ掃除と拭き掃除くらいにしておいて、あとは外での活動をするに限るまずは畑作業からで、とはいえ野菜を植えるにはまだ10日以上放置期間が必要なので、花壇作りと花苗を植えるまあまあ順調にやっていたが、女房殿がなぜか芝桜の苗を買ってきたので、それを植える場所が必要になった正直、芝桜の概念は広い土地という風に思っているから、・・・てか!という気分で、でも仕方ないから申し訳程度の場所を確保したでも土が全く足りなくて、結局昼過ぎにホームセンターへ買い...ダブルけんちゃん

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 64

    折節極月で中旬であれば、信濃路は南北に山近く、厳寒骨を砕き、その日は朔風しきりに吹き、晩方より山々には雪が降り始めて、たちまち野山を白く変えてしまった。雪は武田勢の兵の上にも遠慮なく降り積もり、雪まみれの兎の如し皆々行軍で疲れた上に、寒風吹き叫び焚火でわずかに暖を取って凌いだ小田井兄弟は晴信の出陣を聞き、急いで諏訪に援軍の伝令を走らせたけれど、諏訪頼茂はこの時、風邪を引いて寝込んでおり出馬はできず、さらに村上、小笠原まで走らせたが、冬でもあり遠方なので後詰が来るより遥かに早く武田勢が攻め込んできた。小田井の勢は三千二百騎、兵たちは早くも武田勢の勢いに浮足立ち、恐怖心に恐れおののいたこれを櫓の上から見てとった小田井又六郎は馬にまたがり、城中を駆け巡り「おののくな、敵は僅か五千にも満たぬ、今夜は城攻めに不利な...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家64

  • 4月は忙しい

    やはりyottinは誕生した春になると体が自然動き出す急に忙しくなって来た、この四月は町のあちこちで祭りも始まり、最大の祭りも間もなくだが、今年は祭りの参道で例の女性仲間とリースや手作り人形などの販売を行うテキ屋さんと軒を並べてのお祭りだ。以前は、別の仲間と焼きそばを焼いて販売していたが、その団体からは三年前に抜けて今は新境地での復活。この頃になれば桜も満開だろう、暖かな日差しがあってくれればありがたいがそれが終われば、また高岡へドライブして、こちらも富山市の呉羽山か高岡市の二上山にでも寄って桜を見ようかと思っている。それより数日前に、上越の高田城の観桜会を見てくる予定だ、本当は日本三大夜桜と言われるライトアップ夜桜を見たいのだが、人は多いし寒いので昼間にするついでに映画も見たいし、好評の「PEAFECT...4月は忙しい

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 63

    天文十三年三月、山本勘助は上州箕輪より、真田弾正忠幸隆を召し連れて帰って来たとの言上に晴信は、たいそう喜ばれた。幸隆は背丈高く、人物卑しからず、言語分明にしてまことに豪傑であった。晴信は機嫌よく幸隆に盃を賜った、そして禄を定めてから幸隆に真田家の由緒を尋ねた。ある書に曰く、清和天皇の皇子貞秀親王を滋野親王と申すこの親王の御子、幸恒が初めて信濃国海野に在して海野をもって氏とする幸恒十八代の孫、海野弥平四郎幸弘が木曽義仲に仕え、その後、海野小太郎幸氏、鎌倉へ赴き、右大将源頼朝公に仕える幸氏より二十代の孫、海野信濃守棟綱という人あり、足利家に仕え、その子、左京大夫幸義、信州の村上頼平に従い信州小県郡真田に住み、よって真田を氏とする。幸義後に浪々の身となり、上州箕輪に蟄居し弾正忠幸隆は幸義の嫡子なりこれによって先...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家63

  • 睡眠の常識

    まだまだコタツは離せないが、さすがに日中は無理でも夜になると5度以下になるのでコタツに入ってテレビを「聴いてる」聴いているうちにウトウトと少し寝てしまうほんとテレビはドラマやドキュメンタリー、野球、相撲、駅伝、マラソン、歴史もの以外は見なくなった。睡眠の常識も変わった、どう変わったかなんて2週間前まで知らなかったが、ラジオを聞いていたら、そこで睡眠の話題が放送されたアナウンサーが言うには「高齢者は8時間以上寝るのは健康上良くない」というものだった大谷翔平のパワーの源の一つは「たっぷり睡眠」と聞いたから、まねようと思っていた矢先これだ!裏付けということで、ネットでも調べたら、こんな記事があった厚生省の研究らしいので今年2月に厚生労働省が公開した「健康づくりのための睡眠ガイド2023」。14年に定められた前回...睡眠の常識

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 62

    勘助は更に言う「晴信が合戦に臨み、自ら士卒に混じって他人に采配を任せぬのは好んでのことではない、晴信は未だ、その人を得ていないからである武田家に名将多いと言えども、古老と称する者は板垣、小山田、甘利である、まず板垣信形は勇気有りて、強気を頼む心あり小山田備中守は槍術、剣術において人に超えたる人物であるが知略を用いることはできず甘利備前守は今ぞという時に進みすぎる気象ありこれによって軽々しく大事の采配を任せることできないのである足下のような花も実もある豪傑は得難い、これを得賜えて察すれば軍略を任せざることありませぬ、必ず重く用いられるでありましょういかがでありましょう、愚将に仕えて、一国の陪臣となりて生涯を終えることなく、某は足下の智略には遠く及ばないが、二人して晴信の傍らにて諫め、軍策を巡らせば天下の主と...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家62

  • 早春の信州

    昨日はいつもの信州牟礼へ行って来た霊仙寺湖もすっかり雪が解けた、二種間前はまだ近づくことが出来ぬほど雪に覆われていたのだから、あっという間の雪解けいつもは行かない、林の方へ足を延ばした、珍しい鳥でもいないか鳴き声がする方へ行ったが、とうとう一羽も見えなかったまっすぐに伸びた?の木の真ん中あたりで、カサカサ音がした見たら大きめの鳥のように見えて身構えたら、それはリスだった天然のリスを見たのは、江ノ電から見た鎌倉近くの駅の塀を上るリス以来2回目写真を撮ろうと構えたが、早くも枝の中に隠れて撮れず残念だった。この木に居た、なんという木なんだろう?植物は杉、松、桜くらいしかわからない人間で困る木の下には松ぽっくりならぬこんなのが、たくさん落ちていた木の実の殻みたいなのもたくさん落ちていた花粉症が心配だったが、ノーマ...早春の信州

  • 超ミニ畑スタート

    今日は朝から長野へ行くのでドジャースの試合HDDに録画しておいて、帰ってから見た。ついに9試合目41打席目で130mソロ弾が出た、しかも9試合連続5得点以上を継続する一発だった記念すべきDs1号を録画できてよかった、これで量産体制に入るだろう、早く打率、打点もベッツに追いついてもらいたいものだ、いったいドジャース打線はどんな記録を作っていくのだろうか。商売をやめて約2年半、70歳まで働いていきなり辞めたものだから、当初は何をしてよいのかわからぬまま、一年を過ごしなんとか人間に戻った。去年の春から、これはやろうとも思わないのが偶然の必然に追われて野菜作りを始めることになった。詳細は省くが、畑など無いので、家の南西にある10坪の小庭のうち2坪の雑草地を掘り返して、畑用の土を撒いて畑にした。ニンニク、トマト、ナ...超ミニ畑スタート

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 61

    真田幸隆は、さらに続けて言う「天下の大丈夫を見定めて仕えれば、一国一城の主となることも可能であるその人を見定めるために、このような上州の田舎にあって時の熟すのを見ているのだされども時を外してしまい、天下泰平になってから仕官しても、もはやそれは遅い、今は乱世ゆえに百姓から大名になることもできるのだ、その時を外してはならぬしかも仕える英雄を間違えれば、平時には山よりも重い命も、戦時には鳥の羽よりも軽くなる命の使い方を間違えれば子子孫孫の損である、一国の為に命を捨てれば太平の後、子孫は槍一本の主となり、奴僕の一人二人を使い、城門の番人となる程度であろうされども天下の為、義兵の為に命を捨てるならば、太平の後、子孫は一国の主となり名馬をまたぎ、あるいは輿に乗り前後を千人の供が付きそうであろう名家や公家にさえ腰を折る...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家61

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 60

    勘助が武田に仕えから、晴信は昼夜問わず勘助を傍らに置いて、軍法談義を重ねた。元より武田家には武田家の軍法があったが、加えて勘助の軍法をも取り入れてこれを揉み上げて五十七ケ条の国法を作り上げ、別に軍法七十五ケ条も制定した。ある時、勘助は晴信の一字を賜り、晴吉と名乗った勘助はこれを大いに喜び「臣、諸国を歩き回って、その地の名士人物を見るになかなか英雄と言える士には出会うこと少なく、そのうちに臣、一人の英雄をお勧めいたします、この者を用い下されば、臣とはまた異なった実に良き相談相手となるでありましょう」晴信は驚き「それはいかなる人物であるか」と問えば勘助は「その人は上野国の浪人で真田弾正忠幸隆と申す者、彼の先祖は嵯峨天皇第六皇子恒貞親王とも滋野親王とも申し、その末葉に滋野小太郎幸氏という者、奥州磐井郡に住み、そ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家60

  • 大谷ショック!

    今日は大谷のホームランを期して、日記記事を朝に、甲越軍記は夜に変更します。大谷が快投しても勝てないAs大谷が投げなくても勝つDs大谷が8打点あげても勝てないAs大谷がホームランを打たなくても勝ち続けるDsやはり大谷がドジャースに行ったことは正解だった、さらに私も試合を見ていて楽しい、応援するチームが大量得点で勝つのはスカッとする。エンゼルスの時は4点さになったらm早くからあきらめてスィッチを切ったがドジャースは5点差になっていても諦めることは無い、毎試合5得点以上を続けている強力打線だ。ベッツ、フリーマンは別格としても、スミス、マンシー、髭のヘルナンデスも大当たりしているのは大谷効果だと信じているところが肝心の大谷君は未だ「小活躍」で留まっている、しかもウリのホームランが出ていない。打率HR打点1.ベッツ...大谷ショック!

  • 友情と青春と宗教と

    日記の転記整理をやっていて思うのは人生の季節ごとに友達がやってきて、友達が去っていく青春の頃は「友情」「恋」「人生」「親友」などの言葉に酔っていて「愛」も「友情」も永遠だと信じていた高校時代は自分は部員ではなかったが、女子ばかりの文芸部の部長と詩を書いたノートを交換したり、20ページも批評を書いたりして夢を語り合った今になっても、そんな言葉に酔いしれる時間もあるけれど、「永遠の愛」も「親友」も「恋愛の情」と同じく(いっとき)心を支配した(本気)という幻であった。「義理」「人情」を認め合った時に「友情は生まれる」、遊びだけの友達には友情は生まれないどん底に落ち込んだ時、友情を知る、そう言う人に出会えた場合だけであるが遠く離れて年賀状だけの便り、疎遠になっていくのは友だちではないそれは「ともだちだった」という...友情と青春と宗教と

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 59

    晴信は左右を見て「甘利。小山田、そのほかの者においてなんぞ意見はないか」と言うと、小山田備中が進み出て「信形の申すところ甚だ正論と思われまする、まず勘助の名高きことは言うまでもなく、今目の前でその姿をみたところ小男で障害の姿、それでも天下に名を轟かせているのは彼に非凡な才がある故でございます昔、斉の晏子(あんし)は小男で見苦しき人物でありましたが、斉の政を助けた賢才として有名なり、漢の世を引き起こした韓信は他人の股をくぐった卑し男で人物として取柄が無いと言えども、その名は千年の時を経た今もなお名高い、それがどんなわけかは某は知らねども、ただ顔つき姿を見て決めるのはやめて、その才能を用い賜わんことを願います」晴信はうなずいたが「両人の申すところもっともであるが、しかれども我思うに、勘助は元々孤独な浪人であり...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家59

  • 小さな畑と、珍客

    長い冬の季節も終わったか…眠りから覚めよう幸い今年の冬は月に5日くらいだったが漁師の手伝いというのがあってけっこう頑張ったし、健康維持のための運動にもなったそれとはね出しの魚をもらってきて食べることが出来たのは、経済的にも魚好き的にもありがたかった。しかし年明けて地震の影響でカニが獲れなくなって、月に1~2日になってしまい運動不足になってしまったそれも明日から4月で、畑の土いじりが始まればまた全身運動になる散歩だと有酸素運動にはなるが、筋肉的には足だけの運動畑仕事は全身運動で、いろいろ考えることも多くなるから全て良しだ今日はほったらかしにしていた畑と小庭をかまった雑草取りをして、花壇を分解して別の場所に新しく作り、畑の土も掘り返して平らにしたが、土はふかふかで塊など全くなくて、今年二年目だが良い畑になって...小さな畑と、珍客

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 58

    庵原は勘助に「わが主、義元との縁がないと決まり、某、右下に思慮を巡らすに甲陽の館、武田晴信公は専ら(もっぱら)奇才の名士を募っているとのことである、当家とは晋秦の親しみあり、旛下には豪傑の士多く、ことさら甘利備前守は忠義知謀を兼ね備えたる勇士、幸い某と交わり深い、一通の書を整えて足下を薦めようと思うので、甲府へ赴きたまえ」と勧めると、勘助も元より晴信とは主従の誓いの約をして深く示し合わせてあったから、自ら甲府へ行くつもりだったところに庵原の勧めもあって、いよいよ渡りに船と思い、思わず笑みがこぼれた「昔、、晋の豫譲『士は知己に値うて死す』と言えり、某、貴宅に草鞋を脱いでより数月の間、恩を被り歓喜は一言で語り尽せない、今また文書を持って甲州を勧められ、足下の下意われ明白にこれを察し、まことに忠臣の所為感心いた...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家58

  • 医者にかかったこと

    ショルダーバッグの中を整理していて「おくすり手帳」が目に入った普段は中身を見ることも無いのに、先日は花粉症でA医院にかかったので、ページをめくった。普段はB医院ばかりで、A医院へ最後に行ったのは平成28年の夏だたことがわかった「なるほど」おくすり手帳というのは病気の履歴にもなって、ある意味「病気歴手帳」ともいえる、そんな風に思っていたら、パスポートにそっくりだと思った近年のパスポートは手のひらサイズだが、昔のは、おくすり手帳サイズだったA医院でのことを思い出した受付には感じの良い30歳前後のお嬢さんと、ふつうのおばさんの二人が居た「どうされましたか?」と若い方が聞いた「目がかゆく、くしゃみ、鼻水、寝る時は鼻づまりで」「熱はありますか」「ありません」「じゃあ、お熱を測って、このアンケートを書いてください」熱...医者にかかったこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 57

    その後、安房守は家中の者共の非礼を勘助に詫びて、「今一度御屋形に貴殿を迎え入れるよう諭すので何卒、ここはこらえてお待ち願いたい」というのに対して勘助は「安房守さまのご厚情には感謝しかありませぬ、されども御屋形の気持ちが変わることは決してありません、それがしもまた義元公に仕官する気持ちは全くありませんので、どうか某を用いることはお忘れ下さい」と丁寧に断った。そして言うには「昔、鄭(てい)国に賢人あり、その名を列籞宼(れつぎょこう)と云う家、至って貧しく、妻子共に飢えたる様子であるが少しも貧困を苦にすることは無かった。その時の鄭の王は穆(ぼく)候という。国の政治は宰相の子陽という者に任せていたが、子陽は国内に賢人のあることを知らなかったある人が子陽に列という賢人がいることを知らせると、子陽は驚いて早速に多くの...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家57

  • 藤原道長と、わが祖先の奇縁

    約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし面にまで広がることも稀にあるこれが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。郷土資料でさえ、1000年...藤原道長と、わが祖先の奇縁

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 56

    勘助は小田原を出て東に向かい、相州鎌倉扇谷に行き、上杉修理大夫憲政の方に寄り数か月留まり、そこから上州に向かって倉賀野越中守に留まること三月、それからも各地に出でて二か月、半年ととどまり、天文十二年冬十二月駿河国に入る、太守今川義元の城下なり。今川の執事庵原安房守という者あり、武勇知略人に超え、人を看ることに明るいとのことを聞き、勘助は今川に仕官する気は元々ないけれども、あえて庵原なる人物を見定めようと宅を訪れた。庵原も勘助の名声は日頃より聞き及んでおり、歓待してくれた。安房守も初対面で見る勘助の醜さに驚いたが、このような体でありながら名声高きことは尋常ならざる人物と、あえて嫌わず、数日我が家にとどめ置いて兵法論議を重ねるに及び、勘助の才知は安房守の遥かに及ばざることを知り、勘助がここに現れたのは当家の福...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家56

  • またまた外を歩けば

    27日は久しぶりに午前から晴れ間が出て温かくなった。昨日の昼はスパゲッティを作って食べ、その前の昼はラーメンを作って食べ、今日は鍋焼きうどんか、カツ定食か?たまには外で食べたい気分になった、もう外食は2か月くらいやっていないので散歩も兼ねて外で食べようと思った。外と言うと、やっぱりラーメンを食べてくなってしまうんだよな食べる回数は三分の一くらいに減ったけど、やっぱりラーメンはうまい市内のラーメン店は以前の半分以下になった、そのかわり今風の脂こってりラーメン店が増えて来た。私のお気に入りは「野菜坦々麺」辛いのが好みだ、そこへ行ってみようかところが駐車場は満杯、もう一軒の人気店も同じく並ばないとダメいくらうまくても並んでまで食べようとは思わない頑固者だから、結局同級生の食堂に三か月ぶりくらいで行ってみた駐車場...またまた外を歩けば

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 55

    しばらくして氏康が上段に立ち出でて勘助に対面したその表情には傲りが現れている。勘助は平伏して拝し、仰いで傍らを見ると、御簾(みす)をかけた一間があった、中には夜の香鼻を奪うばかりであるそこには数百の女たちが御簾の間、あるいは几帳の間より、勘助と氏康の体面を見んと押しかけていて、のぞいては密かに囁き合っている対面が終わり、勘助が退く姿は猿が飛ぶ如くに見えて、氏康はつい「クっ」と笑いを漏らした、すると左右の小姓数人も我慢の限界か氏康につられて笑い声をあげた、それを境に同席の士も爆笑し、当然ながら後ろに控えた女たちも一斉に笑い声に包まれた。さすがに嘲笑に慣れた勘助も、この場のありように赤面して退出した。氏康は左右を見て「七郎左衛門があまりにも推挙を申す故、会ってみたがこれほどの見にくき姿とは思わなかった、いかに...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家55

  • 現役高齢者

    人生の大半を商売に携わってきたので友達はやはり経営者や商売人が多いサラリーマンの友達と言うと、大半は同級生か女性だ。昭和の時代はサラリーマンは55歳か60歳前で定年を迎えた、私たちが60歳の時は既に平成の半ばであったから、55,60で定年が来ても再雇用が定着していて一時定年後65歳までは短時間、低賃金で働き、更に70まで伸びること少なくなかった。町工場や、従業員10名程度の商売だと70になっても人手不足もあって嘱託という名前で再々雇用もあった。私も同級生を数人雇用したが、一番長かった人は、わが店に45年勤務して店を畳む71歳までいた、まさに「相棒」であり「弥次喜多道中」と言える男だった。今も介護老人施設で働いている。今は73~74歳だが、同級生は従業員数名の個人経営の場合、未だに経営者として働いている人が...現役高齢者

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 54

    勘介は「われは試合を好まず、凡人の性として勝てば歓び、負ければ憤るものなり、これ古今の通例である、某、壮年の頃より諸国を歩き幾度も試合に勝ち、そのたびに門弟の仕返し、闇討ちに遭い、このような不具者となってしまった、某が勝ったのは相手の未熟によるもので、それを逆恨みされるのは道理に合わず、今日のことも同じで、そなたの未熟が原因で某に負けて逆恨みいたすようなら、このまま某を返したまえ、潔く試合をするというなら此処で誓詞を交わそうではないか、なればあえて試合にのぞまぬものではない某が諸国を巡り試合を行ってきたのは、禄を求めて徘徊したわけではない、優れた君子に会って己の修業を成さんがためである」と言った門人たちは口々に「勘介の申す事、もっともだ、試合はやめた方が良い」という者あれば、大多数は「口先はうまく申すが、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家54

  • 自然と生きる漁業者

    漁師が漁をするのも、私が干物を作るのも風と天気に左右される。漁師などは「船板の下一枚地獄」というように嵐に出会えば、命さえ左右されるから、今の時間の天候もさることながら、この先何時間後の天気にも気を配る。カレイを捌いて、塩水につけ夕方から2時間干したけど、雨模様で湿度が高い上に風もさほどなく失敗。朝は5時半から、もう一度干した、風は結構あるが湿度高く、8時には雨の予想なので7時までが勝負。干物失敗ので、から揚げ用にして冷凍と相成る。北海道では昨年来イワシの大群が押し寄せる現象が起きている記憶が確かなら年末にも海岸に上がったとか・・・そして大地震富山定置網にもイワシが大量だった、けっこう大きめでそれなりに脂がある、5~6匹おすそわけいただいて食べてみる。縁あって漁師の手伝いをすることになったが、長年の私は魚...自然と生きる漁業者

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 53

    松田は、勘介の兵法の理を否定しようとさらに続ける「そなたは三州牛窪に生まれ、兵の五十人も率いたことなく、村の長にもなったことはなく、まして小城の一つも任されたことはあるまい畳の上に人形を並べ、粘土をこねて小さな城型を作って『こう攻め寄せれば云々』などと僅かに二十分の一の小形をもって胸算用を兵法と称するが、これは太平の時にこそ通用するだけの事、いざ戦が始まり戦場に出れば、たちまち胸算用は崩れ去り、ただただ右往左往するばかりとなり、心胆取り乱して逃げ惑であろう論ばかりを高くして、戦場にて役に立たなければ、それは虚論と申すもの、何の益があろうや、舌先三寸弁が立つものが勝つ道理であろう」これをじっと聞いていた勘介は、やや笑みを含んで「そなたを高名の師範者と聞き、そのようなお人であれば格別の高論もあるかと訪ねてみた...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家53

  • 人も歩けば 人に当たる

    一日の生活パターンがあるのと、気分で一日を過ごすのはどっちが正しいのだろうか?どっちが正しいなんて、あるわけないけど「現役の時」というと、ほぼ一生なんだけど、それはとうぜん生活パターンにハマっているわけで、それだからこそ自由になれる休日が待ち遠しい今のように、毎日が自由に暮らせる日々に変わってしまうと、ほんとに油断していると一日中寝てばかりになるかもしれない。幸い、私はわりと規則正しい生活をしている朝起きるとすぐに「3月26日火曜日、午前6時31分」と声を出して言うこれは時間の認識と、ボケ防止のつもりだけど、これをやると今日の一日が存在感ある意味ある一日に思えてくる。夜はベッドに入った瞬間、「あああ寝るは楽なりおやすみなさい」と言ってから寝る、部屋には一人だから「おやすみなさい」は多分、自分自身に向かって...人も歩けば人に当たる

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 52

    山本勘助の諸国見聞山本勘助は昔、晴信がまだ勝千代と言った頃に出会い、密かに主従の内約を固めたのであったが、心に思うことあって天文三年より、兵法修行と言いつつ関八州(関東地方一帯)を巡り、遠くは奥州までも足を延ばした。半年、三か月とあちこちに逗留して兵術を試み、軍法を討論して、その国の陣立てや戦術を探り、諸士の強弱も見定めた。その頃は英雄の諸侯が全国に現れて、武芸者は、それらの家々に仕官を求めて集まった、中でも相州(神奈川)小田原の北条相模守氏康は伊豆、相模の二か国に領分を持ち、勢いは隣国に鳴り響いた。勘助は、北条家の戦術、兵法を学ぼうと北条家武術指南の松田七郎左衛門を訪ねた。松田は十文字槍を鍛錬して隣国に並ぶものなしと言われている。勘助が松田の道場に訪ねていくと、松田は門弟相手に槍を教えていたが、人を使わ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家52

  • 今日の事

    今日は約3週間ぶりに船長に頼まれて手伝いに行って来た昨日の夕方、急にメールが入ってちょっと考えたが、魚との対面はやはり削りがたい、すぐにOKを出したが、入船が朝5時と言うので、急にせわしくなった。5時だと3時半には起きるから、逆算して21時には寝なければ寝不足になる。まあ、その時間でベッドに入ったのだが、最近の花粉症気味なのは大きな痛手起きていると、くしゃみ鼻水、横になると鼻づまりで寝苦しく、なかなか寝付けない、そんなうちに22時を過ぎ、なんか寝ているのか起きているのかわからない。結局、一番寝られたのは午前1時頃からで、それでも深い眠りに入ったので3時半起きでもすっきりしていた。台所へ行って、粥を作りながら、洗面してそれから食べて身支度をして4時半には港に着いた。昨日までは、ごろごろしている時間が長くて体...今日の事

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 51

    小幡日浄のこと日々多少の書籍に目を通すが博識というわけではない、されどもその見識眼は確かであった。もとは遠州(静岡県西部)の国人の生まれで、18歳の時、甲州にやって来て、武田信綱、信虎、晴信の三代に仕えた、忠義は怠りなく武辺は人を超え、戦功数回に及ぶ、今、死の床にあって晴信に「任」の一言を残したのは、彼に一抹の不安あったからである。晴信は稀代稀なる英雄豪傑であるが、人を見て任ずることが無く、例えば一郡、一村の小城一つ攻めとるにも、自ら采配を振って人に任せず、それゆえ一代休まることなく、村上がごとき人と戦い、また長尾謙信と長き年月を戦い無為に年月を過ごしてしまった、ついには天下を手にする思いにすら届かなかった。晴信の才知には織田信長と言えども遠く及ばなかった、しかし織田信長公は生まれつきの大器であり、人を選...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家51

  • 散歩は気分良いが

    尊富士のド根性と執念には恐れ入った大の里に優勝してもらいたかったが、気力が違いすぎた、細かかな論評は明日にまわして「尊富士おめでとう!」もうコロナの心配はしていないが、今度は花粉症に悩まされているとにかく我が家の周囲は杉林が多いし、散歩となればいやでも杉林近くを歩くことになる、だからマスクは離せないどころか薄いのと厚いのを二重にしての散歩だ。さすがに上り坂では苦しいから、下の方を開けて新鮮な空気を吸うようにしている。歩いていても、好きなコースと、飽きてしまうコースがあって毎回コースを変えている、遠くへ車で行って全く違う町を歩くことも多々ある。今は歩きながら鳥の写真を撮るのが楽しみだが、レンズは250ミリしかないのであまり遠いものや、高いところのものは撮れないしかも手持ちだから、ブレも多いし、されど三脚を使...散歩は気分良いが

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 50

    小幡入道の死時の流れは速く、武田晴信は二十歳になった。正月十三日には恒例の軍議もとどこおりなく済んだ。小幡日浄は晴信が幼い時から守役として仕え、片時も傍を離れず養育したのであった。小幡の嫡子、織部正虎盛は武辺において武田家の三本の指に入る武者で、韮崎の戦の折も抜群の功を挙げたので、皆「さすがは小幡父子である」と称賛した。ところが日浄は、この三年ほどの間、中風の病を患い床に伏している。しかも日ごとに病は重くなり、晴信もこれを気にして近習に様子を探らせ、医師を送って看病させていたが、いよいよ最後も近いと思われるようになってきた。晴信は、これを知って存命の間に対面して、せめて末期の一言も聞かんと僅かな供回りを連れて、小幡の屋敷に向かった。早々に小幡虎盛が門外で平伏して待ち受け「愚老父、今や床から出ることもできず...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家50

  • 大荒れの大阪場所 記録づくめ

    「もし」尊富士が明日休場なら、明日大の里(たぶん対戦相手は豊昇龍)が勝てば、大の里の優勝、負ければ休場でも尊富士の優勝となる。いずれにしても優勝するのは入門1年半初入幕の幕尻力士か、入門1年入幕二場所目の平幕力士ということになる、おそらく相撲史上こんなことは無かっただろう。「もし」尊富士が入院したまま、優勝となれば表彰式はどうなるのだろうか?親方が代理となるのだろうか?これも起れば珍事だ。尊富士の新入幕初日からの連勝11は、大鵬と並ぶタイ記録新入幕優勝となれば110年ぶりの記録だと言う。大の里の新入幕から二場所連続11勝以上は白鵬に続き3人しかいない記録だと言う、すなわち尊富士と大の里は怪物と言っても過言が無い大力士と言うことができる。そんな怪物相手に一矢を報いた琴ノ若、豊昇龍、朝乃山も立派だこのような大...大荒れの大阪場所記録づくめ

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 49

    「まだありますぞ、古今より女色に溺れ国家を失い、後世に悪名を残した者多し源義経のような豪傑でも静と云う芸妓を愛し、平時忠の息女の色に迷って身を滅ぼし、新田義貞ごとき英雄も勾当内侍(義貞の妻)の愛に迷い、足利尊氏卿を滅ぼすべき大事な時節を逃し、越前の雪と消え去ってしまった。このような話は某などが言わずとも君が充分知るところ也いますぐに御心を翻せば、某一人ではなく一国の大慶であります、さもなくば一座の皆々、一人もこの場を去ることなく信形の腹切り、腸を掴みだすさまをとくとご覧あれ」と大音声で言えば、一座の禅僧も諸士もみなうつむき声も上げない晴信は涙で袖を濡らし、「信形の諫言、心魂に響いた、しかしながらこれは信形の言葉にあらず、正しくは武田家代々の先君が、汝に命じて言わせたのであろう今日より心改め、ひたすらに武を...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家49

  • なんかいろいろあった昨日

    昨日は、朝5時に目が覚めてトイレに行って寝なおしたら目が覚めたのが7時45分、8時45分発で長野へ行く日だったので昼食のお弁当(2人分)を作るのに大慌て、朝食も食べなければならないしでも慣れたもので、息子用の肉、野菜入りの焼きそば二人前と、自分の三食おにぎりを25分で完成させた。この日の長野県北部は大雪予報で、身構えていったのに国道8号から海岸沿いはずっと青空、上越市直江津地区へ行ったら急に道路にも屋根にも雪が多くてびっくり18号も新井道の駅くらいまでは晴れていたが、中郷あたりから急に雪が降ってきて、その先は晴れたり、降ったり滅茶苦茶な一日になった。そんな時、関東でM5くらいの地震発生の情報が入り、上越、北陸、長野新幹線が運行停止になったとのニュース信州は深夜から降ったようで、諏訪から北の方では35~40...なんかいろいろあった昨日

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 48

    このような有様であったが、なぜか板垣駿河守信形は音を沈めて、いかなる行動も起こさない。甲斐国西郡に友夢居士という者が在り、詩の名人と聞き、信形は友夢に師事して同年九月下旬より病気と称して三十日ほど引き籠り、その間に起承転合など詩の稽古に励み、五言七言絶句などを作るようになったので、十一月朔日に行われる例の詩会、詩を旨とする禅僧十余人、そのほか近士の輩集まり、各々御前に出て詩を披露するが、その多くは晴信に取り入ろうとする者たちであった。そこに板垣信形がまかり出て申すには「近頃、御屋形様は詩を好まれると聞き、某も御家人として、それを学ばぬのは不忠と思い、早速に師を得て詩づくりを学び、ようやく絶句の一編くらいは曲がりなりにも作れるようになりましたお許しくだされば、某も隣席いたし一句作ってご披露いたしたく存ずるし...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家48

  • あんこうを食する会に行って来た

    *「甲越軍記」は、朝の掲載に変更します。冬の味覚、富山湾の「アンコウ料理」広い意味で言えば、能登半島の内海(七尾、氷見)から富山県全域と新潟県の上越地域の海岸と佐渡島の西側までが富山湾と言える。これは正月からの地震の発生地域にかぶっている、そもそも富山湾がどうしてできたのかわからない?狭い範囲に深さ1000mを超えるすり鉢状の海溝だ。ともあれ、「アンコウの会」に招かれて、行って来た新潟県、富山県からボランティア仲間が30数名集まって、交流を深めたアンコウの刺身、水袋(胃)の小鉢、アンコウの焼き物、アンコウ鍋、ホタルイカの天ぷらなど9品の料理二年ぶりに熱燗を飲んだ、三次会、四次会まで歩いてしょっちゅう御前様だった私が、二年前から急に酒に関心が無くなった。家でも一か月に二回くらい水割りを一杯飲むくらいで、台所...あんこうを食する会に行って来た

  • 新時代 令和大相撲「三国志」到来の予感

    その前に、朝一で「大谷の水谷通訳、賭博で逮捕」のニュースが入って来たビックリ!第一世代は、稀勢の里がようやく横綱になったが、短命に終わり、大関の琴奨菊、豪栄道、高安、栃ノ心は陥落第二世代、貴景勝足踏み、朝乃山、正代、御嶽海も陥落、横綱が出ず第三世代、霧島、豊昇龍、琴ノ若が今大関として競っている、だがここに大の里、尊富士が加わりそうな今場所の二人の活躍。尊富士は大の里に勝ち、今日は大関琴ノ若をも寄り切って11戦全勝、これで残り4日で大の里に2差、大関陣には3差で尊富士の優勝確率は90%くらいになったであろう、新入幕優勝なら110年ぶりとのことだ。新入幕初日から連勝記録11は大横綱大鵬に並ぶ史上一位、明日の大関豊昇龍に勝てば新記録達成となる、もし全勝優勝をすれば来場所は小結昇進間違いないだろう、豊昇龍に勝機が...新時代令和大相撲「三国志」到来の予感

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 47

    武田大膳大夫兼信濃守晴信、未だ若きと言えども先に韮崎において、小笠原、諏訪の大軍と戦い、これを粉々に粉砕した。その後、天文八年閏六月に両家は再び、甲州に押し寄せたが、撚場、野辺山、蔦木の合戦でまたも敗れて、それ以後は信濃に籠ったまま静かになった。是より、武田の武威は日々高まり、天文八年には晴信十九歳となった。若気の至りと言うか、自分の才気に自信を得て、信州の者どもなど恐れるに足らずと言って、次第に奢りの心が現れて来た。近頃では華美、風流に心を奪われ、甲州の地は住人田舎臭くて卑しいと言い特に女性の姿かたち、物言いが鼻につく都人は婦人の風情が端正で美しく、且つ情深いと聞くと、都の婦人の何もかもが美しく思えて「都より容儀正しい者を呼び寄せて、甲府の婦人の卑しいしぐさを改めさせるように」と命じた。都から朧(おぼろ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家47

  • 「さよならマエストロ」終わる

    最近は記事ネタが多くて、日が過ぎてからの掲載が増えて来た今でも1日に2記事書いているので、これ以上掲載しても分母が増えるだけで分子は変わらないので、無駄ってことになるから・・・「さよならマエストロ」は日曜日に終わって、掲載が今日になってしまったでも、なかなか良いドラマだった、普通オーケストラが題材のドラマは私にとっては退屈なんですが、このドラマも毎回、録画再生ボタンを押すまではなんか「見なくてもいいわ」と思ってしまうんだけど、見始めると1分で入り込んでしまう。以前も、オーケストラが偉い人の陰謀で解散させられそうになるのがあったけど、あのドラマの何倍も、こちらの方がストーリーも、視点の広さも、キャストも全てにおいて素晴らしい。なにか淡々と進行して行って、一人一人の悩みや苦しみが、感情の一つが完全に欠如してい...「さよならマエストロ」終わる

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 46

    陽はすでに西に傾きつつあったが戦は果てることなく、敵味方入り乱れての決戦は続いている。この会戦始まる前に晴信は北の小高き山の上に、三百の兵を選び日向大和守、今井伊勢守の両名を大将として「大将軍」と書いた旗を預けたまわった。そして「汝ら、味方が以下に不利に見えたとて決してここを動かず、いかにも晴信の本陣ここにありと見せかけよ、決してここを動くこと許さぬ」と言い置いたしかし晴信勢、今朝より四度の合戦におよびいかにも疲労の度は増して見える今は味方の大事と思い、晴信に救援の遣いを出すが、いかなる心底か晴信はついに、それを許さず、両将は歯噛みして手に汗握り、戦場を見下ろすばかりであった。甲府の城には御舎弟左馬之助信繁、それを助けて原加賀守を残しておいた原加賀守は信繁に「今度の戦は当家の命運をかけた大一番、何としても...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家46

  • 大相撲9日目を終わって

    今日(9日目)の相撲を見て「新時代到来」を強く感じた新入幕尊富士が阿炎をものともせず押し出せば、幕内二場所目の大の里も関脇若元春を圧倒して寄り切った、尊富士全勝キープで単独首位、大の里も勝ち越して単独二位、明日はこの二人が直接対決、まるで横綱同士の優勝決定戦のような高鳴りを私は感じている。二人共まだ大銀杏を結えない斬バラ髪、こんなことが過去にあっただろうか大の里の初土俵は去年の五月場所で、今場所が六場所目、年六場所だから、まだ一年経っていない、幕下10枚目格付け出しだから、こうなったがそれは実力を伴っていたことを証明した9日目で通算53勝15敗、三場所続けて二桁勝利、今場所もあと2勝で二桁、来場所の三役入りは80%見えている尊富士、初土俵一昨年の九月場所だから今場所が9場所目、こちらもまだ一年半の経験だ尊...大相撲9日目を終わって

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 45

    一陣、二陣と敗れ去り、小笠原勢は船山から押し下って攻め寄せる第三陣は小笠原の士大将、雨森修理亮、その勢二千、矢先を揃えて矢を少々射ると槍ぶすまを揃えて龍虎押し寄せる勢いで攻めかかる武田方の第三陣は小山田備中守の勢二千余騎、東西に開き、南北に挟み込むように攻めかける。戦いは、いよいよ真っ最中と見えた頃、丘で戦況を見ていた晴信は三度三百の精兵を押し出した。またしても先鋒をかけるのは例の七本槍、敵勢に挨拶もなく突入する小幡織部正大半月の前立物を被り「われこそ一番槍」と名乗り、目の前に現れた騎馬武者を一突きに突き落とし、大音声で吠えるさまは前にも増して十倍の勇気をみなぎらせているので、敵勢は誰一人として立ち向かう者がいない原美濃守も兵卒の勇気奮い立たせながら、獅子奮迅の働きで傍若無人の戦ぶりこの時、小笠原の足軽大...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家45

  • ときめく春を感じて

    最近のどがカラカラに乾くと思ったら、今朝の室内は湿度45%だったそろそろ春が顔をのぞかせて来た裸桜の芽吹き雪解けの水流黄砂花粉春霞戻って来た鳥のさえずり四月の恋/パット・ブーンときめく春を感じて

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 44

    晴信の馬回り、多田三八は晴信に近づく見知らぬ武者を認めた雑兵ではない歴戦の強者であることは一目で見抜き、不信に思い近づいて声をかけた「そこの両人、見かけぬ風体なれど見事な武者ぶりかないずれの御家中であるか」と問いかけるが、二人共答えないので合言葉を言ってみた当然ながら返答はない「曲者じゃ!逃がすでないぞ」多田が大声で叫ぶと、これまでと二人は大声で名乗りを上げた「諏訪信濃守頼茂が士大将、渋江内蔵助同じく藤森三郎左衛門なり先敗の恥辱をそそがんと大将武田晴信に見参せんとここまで慕い来たり」と言い放ち、手にした生首を武田勢の中に放り投げ、太刀を抜き放つと、今が今生の別れと武田勢の中に切り込み、決死の太刀先に武田の兵も思わず割れてしまうほどの勢いで切り寄せて馬上の晴信に迫った渋江内蔵助は一躍りして飛び上がると晴信の...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家44

  • 花粉、海岸散歩

    今年は雪が少なかったこともあり、あちこちで畑つくりが始まった私はせいぜい4坪程度のミニファームだから、もっと温かくなってから始めようと思っている。ようやく春分が近づいて、少しだけ温かくなったが、まだ三寒四温、急に寒さがやってくるから「春のまねごと」かなと思う、桜が三分咲きくらいになれば始めようと思う。今シーズンの最大の出来事は「花粉症」、5年くらい前からそれらしい気配はあったが、今年は特別酷い14日の夜が特に酷くて、昼前から目のかゆみが始まり、目薬をさしてもおさまらず、夕方からはくしゃみ、はなみずの連発つねに目のかゆみ、鼻のむずむずが続き、夜寝たが今度は鼻づまりが始まり、口呼吸に、それでマスクをして寝たが、それでも口の中が乾燥して喉が張り付くよう、1時間半ごとに目が覚めと、その都度、水を飲みに一階におりる...花粉、海岸散歩

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 43

    先陣が敗れ去ったのを見た諏訪頼茂は、二陣の本陣を率いて台ケ原に突撃を開始したこれを台の上の丘より見た晴信も、味方の二陣に出撃の合図を送る武田勢の二陣は甘利備前守、その数二千余騎、韮崎穴の観音を背に忽然と押し出す。両軍互いに一歩もひかずせめぎ合う、諏訪頼茂は背後に控える小笠原勢の手前、一歩も引くことならじと攻めあがる甘利備前も、これが館の戦はじめと思えば敵に押されて引くこと不吉なリと、ことらも力攻めに押し返す。互いに命の限りを尽くして戦うその頭上には、炎天の日差しが鎧兜を照らして一滴の潤いもなく、砂埃を上げての激しい攻防となる流れるは汗ばかりで既に両軍の兵、疲れ果てて敵味方声も上がらぬ様となり、ただ無言のうちに抑えて首を取り、首を掻き切る者あり、いつ終わるとも知れぬ泥沼の決戦を繰り広げるこの時、台の丘より戦...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家43

  • 仁徳天皇の徳政

    書によれば、人皇第十六代仁徳天皇は、あるとき宮殿から都の家々を眺むるに食事時と云うのに、どの家からも炊飯の煙が上がらぬことに不審を思い調べてみると、民の暮らしは貧困のどん底で、炊飯する雑穀にも事欠く有様であることを知った。民の暮らしの貧しさを知った天皇は、直ちに課税を三年間にわたってやめることを官吏に伝えて実行した。天皇も自ら質素倹約を掲げて、宮中の人々にもそれを実行させ、履物、衣服に至るまで新調を控えさせた。また宮中の屋根から垣根に至るまで、穴が空こうが壊れようが修繕を拒み、そのままにしておいた、食事も民の苦しみを思い、自らも粗末な食事に甘んじたという。皇后が暮らしの貧困を嘆いても、天皇は「天が朕をここに授けたのは、民の暮らしを護るためなのだ」と諭したというまた「民が豊かになってこそ、我らもまた豊かにな...仁徳天皇の徳政

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 42

    既に夜半となり、武田勢はかがり火を盛んに燃やして鹽川(しおかわ)の向こう岸に陣を構えて動かざるかのように見せかけながら、まずは暗闇の中を迂回した第一陣飫富兵部少輔一千余騎が先陣として川を渡り陣を構えた。そして敵が来るべき道筋に二手に兵を分けて待ち構える、これは万一気づいた敵が攻め寄せた時に、後続が川を渡るまでの時を稼ぐためである。しかし小笠原、諏訪の兵はこれに気づかず押し寄せることもなく、二陣、三陣と越えて台の上に上陸して南に向かい、一夜の闇の内に丘に上がる道をつけたのであった。一方の小笠原、諏訪勢は武田方が既に鹽川を渡ったことなど露知らず、明け方には鎌梨川を押し渡って鹽川を渡ってくる武田勢を河原にて待ち構え、流れに難儀する武田軍を一網打尽に殲滅するという計画を練っていた。秋の夜長しといえども、まだ初秋の...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家42

  • 花粉症か!

    3月14日のこと一週間後に「春分」を控えて、今日は温かかった新潟県は13度そこそこだが、富山市で14度、高岡伏木は14.6度と4月の陽気であった、ただ天気は晴れ、曇り、小雨と猫の目の如し。今日は定例のドライブの日、この数日は目がかゆくてしかたない朝、顔を洗う時に目の周りを洗うと気持ちよい酷い時は、くしゃみ連発で、鼻水が出るし鼻の奥がむず痒く乾燥ヒリヒリしたり、逆にグズグズ熱っぽい。これは間違いなく「花粉症」、昔はこんなことが無く、この5年ほど前から今の季節になるとこうなる。15日の今朝も起きると同時に症状が出ていて不快極まりないブログを見ていても、けっこう私同様に苦しんでいる人がいる車も窓を見ると花粉らしき点が幾つも見える、黄砂とは違う粒だこれで黄砂がやってくれば、ますます不快な世界になるこんなことで花粉...花粉症か!

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 41

    晴信の陣配り、備えは六段構え、先陣は飫富兵部少輔、二陣は甘利備前守、三陣は小山田備中守、四陣は板垣駿河守、その次は晴信旗本隊、後陣は今井伊勢守、日向大和守、旗本の左右は教来石民部少輔、原美濃守、小幡織部正、横田備中守、安間、鎌田の輩、六隊の勢、真っ黒に構え、18日の丑の刻に甲府館を発った。急ぎ駆け付け、立て梨河原に押し出すと、鹽川、鎌梨という二つの川を挟んで、敵勢と対峙した。遥かに敵陣を見渡せば、小笠原、諏訪の軍勢九千六百余騎に加え、信州、上州の地侍どもが此度の合戦に加わり、甲府の豊かなる寺領、民家の金銀を奪おうと信州勢に加わる、その勢二千ほどで併せて一万二三千、船山の上に陣を構えて軍旗なびかせ整然と備えている。両軍は川を隔てて睨み合ったまま一夜を過ごし、夜明けと共に川を渡り正々堂々と会戦に及ばんと構えて...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家41

  • タイムマシーン浦島太郎

    いまさら時の流れに逆らってみたとて、せんもないことであるが、昨日古希がやって来たと思うのに、五月には早七十四とは、いかなることであろうか。七十四と言われても「百まで二十六年ある」とまだまだ余裕だが、一晩寝て起きれば九十九になっていても不思議はない。浦島太郎の寓話には不思議なことを多々思う、いったい作者は何を言いたかったのだろうかと考えてみるが漁師浦島が浜辺で亀を虐めていた子供から、亀を買い取って助けて海に逃がしてやった。浦島太郎は決して裕福ではない、かといって貧乏でもないようだ助けた亀が浦島を迎えに来て、海の中へ乗せて行ってくれた着いた先は竜宮城で、乙姫様という女主が歓待してくれて、連日連夜の宴会三昧、お料理も見たことがない豪華で美味しいものばかり(焼き魚や刺身があったかは不明)鯛や平目が舞を見せてくれる...タイムマシーン浦島太郎

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 40

    武田大膳大夫兼信濃守晴信は国務を執り、国法を改め、賞罰を厳格に行い、領民のご苦労を慰撫して育成にも力を注を注いだ、その甲斐あって国内は平穏に戻った。晴信の室は京の公家伝宝輪三条左大臣藤原公頼公のご息女、一昨年輿入れしたが、ほどなくご懐妊され諸寺諸山に安産祈願を申し付けたところ、かいあって五月に男子を出産された。これで武田家末永く安泰と、長臣諸士の喜びは尋常でないほどであった。さっそく曽根周防守の妻を乳母と定めて日々足を運ばせた晴信のわが子への寵愛限りなく、若君成長の後、太郎義信と称する。同じころ駿府の今川義元の室である晴信の姉(北の方)も同年に男子を出産、後の上総の介氏真である。武田、今川連枝の間ゆえ互いに福を喜びあった。信州に村上左衛門尉義清、諏訪信濃守頼茂(一般的には頼重だが、この書は茂を採用)、木曽...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家40

  • 3月というのに

    3月に入って12日が過ぎたが、初春とは思えない寒さと悪天候ばかり2月中の季節外れの、あの20度、25度の日と入れ替わったようだ。昨日は何週間ぶりかに船長に頼まれて手伝いに行って小魚をもらって来たので、干物を作る下ごしらえをして、今朝は良い風が吹いていたので7時頃、外に干した。ところが9時頃になったら雨がさ~っと降ってきて、雨は干物の大敵だから急いで片づけたが、こんな調子だから洗濯物だって外に干すことが出来なくて女房殿の表情もさえない。2月から急に暇になったので、2月はブログを書くことに集中していたが、3月になって雪は無いので人と会うことが多くなったそんなことで一か月の半分はスケジュールが埋まっている、そして随分と忙しかった。伯母さんの葬式、30年付き合った友達の送別会、ボランティア仲間との新年会や会合、毎...3月というのに

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 39

    信虎の一行がいよいよ今川領に差し掛かると、今川義元自ら護衛の兵を引き連れて舅の出迎えに来ていた。今川の先導で無事信虎ら一行は駿府の今川館に到着した。さっそくに信虎を迎える饗宴が開かれて、信虎は歓待に満足げであった宴が終わると、信虎は一間に案内された、そこは襖から障子、衝立に至るまで竹の絵が配されており、武田館の信虎の「竹の間」を思わせるものであった。信虎はこれを見て、義元の歓迎ぶりを改めて認識した。ところが翌日になって見れば、いつの間にか、この部屋に軟禁されていることに気づき「これは如何したことじゃ、無礼にもほどがあろう」と叫ぶと、義元がやってきて言うには「甲州での舅殿の人を人とも思わぬ悪行に臣も領民も皆怖れていることは聞き及んでおります、また長子晴信は際立った才を持ち、且つ孝心にも厚い御曹司であるものを...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家39

  • 雪降る中のドライブ 北信濃

    3月9日、昨日だったらよかったのに、天気だけはどうにも自分の力では変えられない国道8号沿いの海岸部では富山にしろ新潟にしろ、ほとんど雪を見ることがないところが今日の天気予報は長野市周辺は雪のち曇り、松本市付近は晴れのち曇りだったので、長野県に行くなら148号沿いが良いと思って、そっちに回ったが新潟、長野県境の平岩温泉あたりから、どんどん雪が降ってきて道路はもうわだちが出来ている。これではスタッドレスタイヤでなければ通行不能だ、気が早い人は2月下旬の春の陽気続きの時に履き替えてしまった。私は毎年3月いっぱいは換えない、何度か痛い目に遭ったことがあるからだ。長野県の小谷村から白馬村にかけても道路の除雪はまだ始まっておらず、車のわだちを頼りに走った。時々、片側だけ除雪している場面に出会ったが、不意打ちの感があっ...雪降る中のドライブ北信濃

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 38

    今井市郎は駿府を発ち、急ぎ甲府館に馳戻り、信虎と対面して義元からの返書をうやうやしく渡した。そして申すには「某が今川家に書をたまわりましたところ、今川公は『長子に家を継がせるのは世の道理である、特に晴信の人となりは仁に優れていると聞く、しかるにこれを廃嫡して二男に家督を譲るとはいかなることか』と仰せになり、はなはだご不満の顔をなされましたので、某は、様々な利害を説いて典厩御曹司(信繁)の徳は晴信君より優れている旨を申し上げると、ようやく納得されて、『そうと決まれば一日も早く晴信を駿河へ遣わすように、晴信が他国へ逃亡せぬように厳重に監視せよ』と申されました、仔細は返書に書いてあるとの仰せでございます」信虎は大いに喜び、返書を開いてみると今井の申す通り、一つの相違もなく満面の笑みを浮かべて、今井市郎に褒美の太...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家38

  • 大相撲大阪場所始まる

    横綱と2大関が敗れる波乱の初日だった貴景勝は朝乃山に、琴ノ若は熱海富士に勝ったが、豊昇龍は宇良に、霧島は阿炎に敗れ、照ノ富士は錦富士に敗れた。まだ初日だから何とも言えないが、今場所も幕内上位から横綱まで横一線と思わせられる初日だった。こんな中で堂々の勝ち相撲を取ったのは、新大関琴ノ若、大関貴景勝、若元春、大の里、豪ノ山、新入幕尊富士だった。豊昇龍と朝乃山と霧島は相手ペースで簡単に負けてしまった、豊昇龍は出ていくところを相手の宇良が得意の肩透かしで破ったが、後の二人ははたき込みに簡単に倒れてしまった。ようやく実力派の横綱、大関が5人そろったが、個性的な業師が金首、銀首を取ってやろうと手ぐすね引いて待っている今場所も何をやるか目が離せない個性派は、高安、翠富士、翔猿、阿炎、宇良の5人、さらに突き、押し、一気の...大相撲大阪場所始まる

  • パリ五輪、女子マラソン代表3名決定 名古屋ウィメンズ

    パリ五輪代表はMGCで1,2位になった鈴木優花、一山真緒の二人が決定していたが、3人目は大阪で日本記録を出した前田穂南か、3月10日の名古屋で前田の日本記録を破って日本人1位のいずれかになる。そして今日、名古屋ウィメンズが開催された有力選手は東京代表の鈴木亜由子2.21.52、加世田梨花2.21.55、安藤友香2.21.36、MGC3位の細田あい2.21.42はケガで欠場となった。外国人招待はゲブレシラシェ(エチオピア)2.18.11、チュンバ(バーレーン)2.20.02、メリンガー(ルーマニア)2.20.49などレースは序盤から日本記録を狙う展開になり、ペースメーカーの一人が15km持たずに脱落するなど、パリに執着するレース運びとなった。しかし20km過ぎから日本選手は遅れ始めてゲブレシラシェ、チュンバ...パリ五輪、女子マラソン代表3名決定名古屋ウィメンズ

  • アルビレックス新潟 ホーム 初戦 勝利で飾る

    J1新潟アルビレックスは、難敵(直近5試合勝てていない)名古屋グランパスを新潟に迎えたただ今年の名古屋は無得点の2連敗中、アルビレックスは今シーズン1勝1分け勝ち点4、ビッグスワンに集まった観客は23000人ここは何が何でも勝ちたいところ前半は互いに得点なく後半に入る、後半はアルビが押し気味に試合を進めているが得点できない、ボール支配率は65%近い、シュート数は最終的には新潟が17本名古屋が10本、新潟のボール支配率61%しかし得点は入らず名古屋は、新潟ボールをカットしてカウンター攻撃、再三のピンチをGK小島享介がファインセーブいよいよ終盤になって78分高木に代えてj2甲府から入った長谷川元希を投入心配していた通り今日の新潟は時折激しい雪が舞う最悪のコンディションその中で88分ついに試合に入ったばかりの長...アルビレックス新潟ホーム初戦勝利で飾る

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 37

    天文七年二月十五日、義元は庵原(いおりはら)、朝比奈の武功の老臣を相手に兵法の討論をしているところに、甲州より今井市郎という使者が来たことを告げられた。義元が対面すると、今井はまず甲州の情勢を話し、それから穴山伊豆守ら老臣の書簡を差し出し、次いで信虎からの書状をもさし出した。義元は、それら二通を見比べてから左右の者どもを下がらせて、今井を膝元に招いて「これについて、もっと事細かに話して見よ」と言った。市郎は老臣たちの謀を事細かに告げて「もし信虎を欺いて貴国へ遣わした時に、貴館に押し込めて隠居させることが出来れば、武田家の断絶は免れるでしょうそうなれば晴信君はもちろん老臣たちも当家の厚恩を感じ、甲州の民も苦しみから逃れることこれ天の道理でありますみなみな今川公の広大な仁恩に感謝いたすでありましょう」聞き終え...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家37

  • 1945年3月10日

    毎年、毎年3月10日「東京大空襲」記事を書いている昭和20年3月10日の東京大空襲は、半年後の広島や長崎への原爆投下の伏線で、降伏しなければ日本人は一般人でも皆殺しにするぞというメッセージだったのだ。現在進行中のパレスチナ戦争に似ている。先日、例の如しで映画を見た「戦場の教室」ナチスが占領地のユダヤ人(当時は国家無き放浪の民)を集めて来ては集団虐殺する映画、その中でペルシャ人に成りすまして生き延びた男の話(実際には600万人ものユダヤ人が無抵抗のまま銃や毒ガスで殺されたそうだ)イスラエルの人々は、こうした皆殺しの危険から生き延びて国を作ったそして地域最大の軍事力を持ち、今やパレスチナ人を虐殺している人間とは自分の痛みは当然知っているが、人の痛みに置き換えることができない生きものなのか?考えさせられる広島、...1945年3月10日

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 36

    今川義元のこと我が国、応仁以来足利家の武威は地に落ち、国内いたるところで戦乱が起きた豪傑の諸侯が兵をもって隣国に攻め入って併合する戦は絶えることなく、中でも東海道の内、駿河、遠江二か国の守護、今川治部大夫源義元は系図をさかのぼれば、清和天皇より六代の後胤、鎮守府将軍兼陸奥守義家の三男式部大夫義国という人あり、是新田足利の祖である。義国の三男足利蔵人義康下野国(栃木県)足利に住み、これを足利家の元祖とする。その子、上総介義兼、その子足利左馬頭義氏に男子多数あり、一男上総介満氏を吉良と称す、二男四郎国氏を今川と称す、これが今川家の元祖であるそれより三代に至り今川範氏という人あり、等持院殿尊氏卿に従い忠義抜きんでる活躍により駿河国を賜った。範氏より五代上総介氏親という人あり、是義元朝臣の父君である氏親の一男氏輝...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家36

  • 夏目漱石「こころ」 文学と本のこと

    ドラマ「舟を編む」だったと思うが、夏目漱石の「こころ」のことが語られたキーワードは「三角関係」それで興味を持って読み始めた、文字が細かくて難儀している調べたら漱石の「それから」「行人」などいくつか三角関係の小説があるらしい、「行人」も収録されているから読んでみよう、きっと漱石さんは体験をもとに書いたんだろうな。私も22歳ころに三角どころか四角関係を体験したことがあるから、その頃の心境になるのか?「甲越戦記」訳もまだ始めたばかりだし、しかもまた別の長編を書きたくなって、これは忙しくなるぞ。実は「新潮日本文学」全60何巻かのうち「石原慎太郎」「夏目漱石」「大江健三郎」「安倍公房」「北杜夫」「遠藤周作」「三島由紀夫」「川端康成」「井上靖」の9冊だけ買って未だに持っている夏目漱石は昭和44年(1969年)に買った...夏目漱石「こころ」文学と本のこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 35

    甘利備前守が口を開き「まずは今川家へ密使を立てて義元の心を計りたまうことが先決なり晴信公の御元服、任官などすべて今川公が京都将軍家に推挙されたからで、晴信公に傾くやもしれません今川殿の心を結び、長く心変わり無きように仕向けるには、君の御心を理解している腹心の人を遣わせるべきであります」そう言うと一同みなこれに賛同して、あれよこれよとそれぞれが名を挙げるがまとまらず、板垣駿河守が言うには「この使者は智弁ともに優れた者でなければ勤まりません、今井市郎は若年ながら、弁舌に優れ、なお才智賢き者であります、この者を使者とすれば、まずや落ち度はありますまい」すると信虎は「それならば、そのものを遣わすがよい」といとも簡単に聞きわけた。やがて今井を呼び出して書状を与え、さらに細々とした注意を与えた。小山田と板垣もまた今井...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家35

  • 聖子ちゃん

    日本人の歌好きは戦後から多くの歌を聞いて熱狂してきたのは「ブギウギ」の通りで、戦争も終わり、敵国音楽も今や口ずさみ楽しんだ。本格的ないぶし銀の技というのではなく、大衆向けで10年20年続くヒットメーカーと言えば、プレスリー、美空ひばり、三波春夫、ビートルズ、タイガースと和洋入り乱れ、さらに松田聖子、キャンディズが登場してくる未だに「聖子ぶりっこ」の面影を残して時々テレビで見かける。私は正直なところ聖子ちゃんは作られたアイドルと思って、少しも興味が無かった、ところが昨日聞き直してみれば、たちまちはつらつとした歌声に引きずり込まれて、あの昭和の華やかさが蘇って来た。松田聖子が、こんなに歌がうまかったとはしらなかった、「聖子ちゃんごめんね」今の日本は株式だけが「日本経済最高!」と喝采だが、多くの庶民は白けている...聖子ちゃん

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 34

    「そのわけは、君、晴信君を駿河に追いやり、ひとえに国家の安泰を願い、典厩御曹司(信繁のこと)に家督相続の一心でありますされど世間は二男への愛着により嫡子を追い落としたと騒ぐでありましょう、それはやがて今川公の耳にも届き、彼にも迷いが生じるでありましょう御屋形様がご健在のうちは何事もありませぬが、百年の後(余命とは言えぬから)信繁君の時代になった時、今川義元公が晴信君の後ろ盾となって晴信君を取り立てて甲州に攻め寄せぬともかぎりません、そのときになって信繁君を裏切って晴信君に寝返る者も出てくやもしれませんそのようにならぬよう今川殿の心を固くつなぎとめて、彼の家に厳しく押し込め置きいただき他国へ一切出さぬよう固くお伝えいただく必要がありますこれが出来なければ当家の災いの元となりましょうされど、このことは御屋形様...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家34

  • 退屈しのぎ

    今日、一つ発見した家の階段を後ろ向きで上がるのだ、そうすると何が起こるかやって見て意外なことに気づいた、後ろ向きで階段を上がるとカカトから上がると思ったが、それは無理で、つま先から上がるのだった。すなわち、つま先立ちは内臓系への健康法である、これは面白いことに気づいたこれからは時々後ろ向きで階段を上るだろう、たぶん家族は不審がるだろう2月は春のような日が続き20度越えもあったのに、3月に入ったらずっと雨、曇り、雪の寒い日が続いている、これはいったいどうしたことだ気分も上がらないし、体調も何とは知れず不具合が多い5月生まれの私は、寒いも暑いも嫌いで、寂しげな秋もあまり好きではないやはり芽生えの春が一番好きだ、柔らかな色合い、薄桃色、緑、草色、黄色そんな花開く春「もう少しの辛抱だよ」「春だったね」吉田拓郎(広...退屈しのぎ

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 33

    武田左京太夫信虎、忠功の臣を軽んじて土くれのように滅ぼしてしまう、貴重な進言を取り上げず、さらに嫡男晴信を廃して自分が愛する二男の信繁に家督を譲る企み、すべて驕慢で残忍な性格がなする技であった。しかしそれもいよいよ廃れる時が近づいていた、臣子に疎まれて今度は自分が廃される計画が進んでいるなどつゆ知らず、いよいよ晴信へ駿河入りする催促は増えるばかりである。ところが晴信は、病気を盾にして駿河行きを断固として断り続けているので信虎は怪しみ、(奴は儂のたくらみを察しているのではないだろうか、ならばいよいよ謀を持って、なんとか晴信めを駿河に贈らねばならぬ)と阿諛(おべっか使い)の家臣を呼び寄せて「いかにして晴信を追い払うか」と聞けば、「国の一大事につき、我らよりも長臣の方々を呼び寄せて晴信君廃嫡と申されれば、御屋形...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家33

  • 映画とドラマ

    この一週間は、ずっと天気が悪くて寒い、一日おきには歩いているが、ほのぼのとしない。その代りブログ更新とテレビでの映画、ドラマを見る回数がぐっと増えた最大15本から始めた春ドラだが、面白くない物を削って行ったので、今は「春よ来い」「ブギウギ」「大奥」「おっさんのパンツ・・・」「新空港占拠」「光る君へ」「さよならマエストロ」「不適切にもほどがある」の8本になった。病院物は3本あったが、すべて途中棄権した、先週はついに「院内警察」もやめた、謎が無い、謎が薄っぺらい、謎が支離滅裂なミステリーは飽きてしまう残ったのはどれも面白い。「おっさんのパンツ・・」はジェンダー問題とハラスメントを扱っている「不適切にも・・・」ハラスメントと親子世代の時空と社会常識のズレを扱っている最近見た映画「空気殺人」(韓国)は加湿器用殺菌...映画とドラマ

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 32

    それからも晴信の元へは信虎から「急ぎ駿府へ旅立て」との催促がひっきりなしに届いていた。2月9日、老臣5人は再び晴信の館を訪れて取次を申し込んだ晴信は「またしても同じ話を持って来たかと」しぶしぶながら対面した真っ先に座上の穴山伊豆守が前に進み出て「我ら何度も話し合いましたが、信虎公を廃去するほかはありません」と言い終わらぬうちに晴信は顔に怒りを見せて立ち上がり「われ何度考えてみても不孝の子となるつもりは全くない、今後このような話をするならば二度と目通りは致さぬ」と言ってその場を去ろうとしたそこに板垣が進み出るやいなや、晴信の袴の裾をつかんで離さず「今日、わららがここに来たのは、君の一言によっては進退を決する為であります、我らは信虎公の為に国が亡ぶのを見てはいられません、我らの意見を取り上げていただけぬ場合は...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家32

  • 戦国英雄イレブン データー

    テレビで近頃、最強の城ベスト**、最強の戦国大名**などの番組が増えた気がする。「歴女」「刀剣女子」などの言葉が流行り、若い女性の間にこうしたブームが起こったのは嬉しい限りである。今、「甲越軍記」を現代語に書き直す作業をしているが、考えてみれば戦国大名というのは今の我々が住む日本国の原型を作った人たちなのだ。長い平和な貴族社会平安時代が平氏、源氏の武士の台頭で終わり、それ以後、徳川家康が日本を平定した1615年までの四百数十年間、様々な大名が出てきて戦いに明け暮れ、滅び去った大名の方が多い。その中で1570年頃には勝ち抜いた大名のベストエイトが出そろったと言って良いだろう。それは上杉、武田、北条、織田、徳川、(豊臣)、毛利、島津だ豊臣は織田の家臣で、後継者となったが日本統一という偉業を達成したから、外すこ...戦国英雄イレブンデーター

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 31

    小山田備中は晴信を諌めて言うには「御孝心は道理に叶うことと言えども、今信虎公を廃し、速やかに当家を治めないと申すなら忠臣は去り、百姓は恨みを抱いて他国の侵入に手を貸すでしょう、そうなれば代々続く武田家が滅ぶのは必定であります、その時に至れば御屋形はご先祖に対して不孝を働いたことになります。それゆえにこれま忠臣が諌めましたが皆お手討ちになり、あるいは家を失うこととなりました今や誰も御屋形に諫言する者はいなくなり、みな一様に口をつぐんでいます某らも命を惜しんでいるわけではありませんが、諫言しても効果なく犬死するのも惜しく、国の荒廃を天命に任せてただ見過ごしていることもまた忠臣の行いとしては言えません。某の家系は累代の御屋形様に仕え過分なる禄を賜って来た者で、いわゆる「世臣」という者であります世臣は一代の主が無...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家31

  • 東京マラソン パリ五輪男子マラソン代表3人決定

    パリ五輪の男子マラソン第三代表はMGCで三位だった大迫傑に決定した。昨日行われた「東京マラソン」でも2.05.50を破った選手がいなかったため、MGCで三位に入った大迫に決まった。大迫傑はマラソンでは日本第二位の2.05.29の記録を持っている既にMGCでパリ代表が決まっていたのは小山直城、赤崎暁小山は大阪マラソンで2.06.33の自己新で3位に入った一方赤崎は2時間9分台少し戦うには心配な数字である日本記録保持者2.04.56の鈴木健吾も出場したがパリは遠かった、因みに奥さんの一山真緒選手は既にパリ五輪出場を決めている、女子の第三代表は10日の名古屋ウィメンズで決定する。MGC三位だった細田あい選手はケガで名古屋の出場が取りやめになった、残念。東京マラソンは男子はケニアのキプルトが世界歴代5位の2.02...東京マラソンパリ五輪男子マラソン代表3人決定

  • 韓国映画

    昨日、衛星放送録画しておいた韓国映画を見た「高速道路家族」「半地下・・・」「一日(ハル)」なんかもそうだが、ごく普通の人間模様で一本の優れた映画を作る技術が韓国にはあるようだ。高速と半地下は、並の暮らしよりかなり苦しい生活者が主人公だが、そのような社会から取り残された家族が強く生きていく、そしてそれが壊れた時の脆さ日本でも現実に貧富の差が広がり、都会と地方の収入格差や、いつ解雇になるかわからない低収入の派遣労働者、アミューズメント格差、人口問題、高齢化、医療格差も広がりつつあるいずれこのままだと、韓国映画のような題材が地方でいっぱい拾えるようになりそうだ。投資話に騙されて借金を背負い逃げ回る家族、夫は高速道のSAで寸借詐欺を繰り返して、何とか家族を養っている・・が逮捕され残された身重の妻と二人の子供は、訳...韓国映画

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 30

    この席を催した信形が前に出て、近習を遠ざけさせた。晴信は五人の老臣に向われて言うに「信虎君、某を廃し信繁をもって家督を譲らんとすること数年に及び誰知らぬ者はいない。この晴信、一国を治める才知が無く、信繁に我の十倍の孝心才智があったとしても、彼は二男、我は長子である、世間でも、信虎こそ長子を捨て庶子を立てるのは世間の理に適わぬのではないかなど様々に申しておる当家の虚を伺う敵、信州に村上、木曽、諏訪、小笠原あるというのにわが武田の家では家嫡を廃し、人心一致せず、この時に乗じて甲州へ乱入しようと諸方一度に蜂起して乱入すれば家の危機である我に国の危急を器量が無く、この身を他国に漂泊してどこかの山野で餓死するとも、この身の不肖であれば、なんら惜しむことはない武田の何某こそ家嫡を憎み、それゆえ国家を滅ぼすならば萬世の...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家30

  • 珍 確定申告の巻

    3月早々、再び雪国に逆戻り年金だけになった収入では確定申告の必要はないのだけれど、スマホに国税庁からの催促が届くから、パソコンを開いて「国税庁」のページをから確定申告を始めた。所得税もないのに所得税のページから入る滑稽さ、やって見ればいつもと同じで最後は「所得税は0円です」「確定申告の必要はありません」と去年と同じ。三年前までは10年間ほど、今の要領で自分で確定申告をやって、税務署のポストに投函していたが、あの頃はやるたびに年末調整での戻り分の倍くらい追加徴収されていた今はほんとに何もないから、僅か10分で終わってしまう、控除分にはまだ医療費控除も利用できるが、それなど入れなくてもゼロになるので、無駄な労力は使わない。確定申告の必要はありませんと国税庁では言うが、「但し、住民税の必要がある場合があるので市...珍確定申告の巻

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 29

    楚の人、申包胥の曰く「天定まって而してのち人に克ち、人定まって而してのちに天に克つことあり」暴虐不仁の信虎であるが、いったん時勢を得て心のままに栄えている天文六年までに一族類葉の人々を滅ぼし、あるいは従えて今は甲州に弓ひく者は一人もいない。駿河は富士郡、下方郡まで切り取り、信州は平賀を攻め滅ぼし、佐久郡までも掠め取ったが、暴悪の性によって心から服する者などいなかった。また累代の忠臣と言えども小身の者は身上を没収され、あるいは誅殺されたそのような心は晴信にも向けられ、晴信の他を超越した才能を妬み、なんとしてでも二男信繁に家督を譲ろうと謀り、晴信に少しでも落ち度があれば、それを理由に廃嫡しようとすれども晴信は一分の隙も見せることが無かった。その年はいつとなく暮れて、いよいよ信虎の頭の中は晴信廃嫡のことでいっぱ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた武田家29

  • 夢を見ながら春を待つ

    2月は暖かくて春のようで、本当に気持ちがよかった後半からは、また陰湿な冬に逆戻り、さっぱり気分が盛り上がらない3月2日深夜またの雪の原昨日は激しい雷が鳴り響く、冬の雪下ろしと云う奴だ春がまた、遠ざかったともだちのつーくんは孫とスキー場に行って、うまく滑ったそうだもうスキーを脱いで40年くらい経つ私には考えられない寒い冬は散歩以外のアウトドアは考えられないこんな時は夢を見るに限る、春になったら何しようかないろんな夢があるいろいろやりたいことがある地図を見て夢を膨らまそう窓にはまたアラレがあたって来た外は白い雪の夜-吉田拓郎ー夢を見ながら春を待つ

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