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2021/04/19

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  • 台風10号より先に来た「フーテンの寅ネコ」

    昨日は8月に入って初めてと言ってよい一日中降り続いた雨、それでも50ミリくらいだからちょっと降ったかな程度今日は朝から台風の先触れなのか激しい雨になった、このまま降り続けるかと思ったが、昼からはからりと上がってしまい、夕方には青空と入道雲久しぶりに散歩してなまった足を動かしてきた。台風10号も紀州沖に出て、東海道を行くかと思いきや直角に曲がって琵琶湖から若狭湾に抜ける予報円明日にも熱帯低気圧に変わるとの予想で、わが北陸に到達前に消滅か、ずいぶんと勝手気ままに動いた台風だった。今日驚いたのは「フーテンの寅ネコ」が5月4日以来、約4か月ぶりに顔を見せたことだそして一日中、我が家の玄関先で三食付きで寝たり、くつろいだりして18時過ぎに帰って行った、ふらりと忘れた頃にやってくるのは本当に車寅次郎そっくりいつも車の...台風10号より先に来た「フーテンの寅ネコ」

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(186) 甲越 川中島血戦 13

    天下は群雄が割拠して互いに争い、中でも東に北条早雲、今川義元、上杉憲政、織田上総介、西に大内義興、尼子、大友、島津、竜造寺の諸大将武威を轟かして隣国を併呑する。中にも武田大膳大夫晴信は、智勇兼備の名将なれば甲州一国に満足するわけもなく、諏訪頼茂、村上義清を倒し、残る小笠原長時、木曽義昌を討って信濃を平定し、上州の上杉、相州の北条、駿州の今川らを滅ぼし、関東甲信に根を張り太い幹を作れば、上方に打って上り、四国、九州までも切りしたがえると思えば、天文十七年五月七日、甲州を発ち、信濃国に向かい小笠原長時を攻め滅ぼさんと、諏訪に於いて勢を二つに分け、高遠、松本の抑えとして、士大将、馬場民部少輔、日向大和、小宮山丹後、穴山伊豆、小山田左兵衛尉、長坂左衛門尉を充て旗本をもって、保科弾正忠政景の砦に攻め寄せれば、砦の大...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(186)甲越川中島血戦13

  • 幸福な時間

    *朝の目覚めが快適な時*寝たい時間を寝ていることができるしあわせ*ドライバーとしてドライブしている時*時間を自分の思う通りに過ごせること*友人と楽しく語り過ごすとき*兄弟、家族と和気あいあいに過ごすとき*同じ目的の仲間と一緒に行動している時*家の中を少しずつ改善して行く過程*一日が終わり湯船にひたっている時*旅行*大自然の中にいるとき*自分が健康に過ごせている時*書いている時*瞑想的精神になっている時*太陽が昇り始め今日一日が良い日になりそうな時間*特別なイベントがある日のワクワクしている朝*大谷がホームランを打ってドジャースが勝った日*テレビでマラソン、駅伝、中長距離走を見ている時*大相撲を見ている時*春、秋の季節を感じている時*美味しい物を食べている時*朝食を食べながら新聞に目を通している一人の時間*...幸福な時間

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(185) 甲越 川中島血戦 12

    晴信は越後勢が撤退した後も小室にて陣を構えて滞在したその陣営に甲州より使者がやって来て申すには、敵対する信濃国伊奈の保科弾正忠の抑えとして置いた、秋山伯耆守晴近勢が保科勢と戦い、騎馬武者十七騎、雑兵二十七人の首を取り、三千貫の土地を切り取ったとの注進であった。同十八日には中信の小笠原大膳大夫長時、木曽左馬頭義昌の勢と、下諏訪塩尻口に備えを構える武田方、甘利藤蔵、多田淡路守は小笠原勢に夜討ちをかけたが、小笠原勢は手堅く守って、これを退けたしかし、この時、甘利藤蔵十四歳は、ただ一騎にて先立ち馬を進め、「これほどの敵に進みかねるとは恥を知れ、続けや」と大声にて呼びながら槍を構えて敵陣に駆け込み、たちまち三騎を突き倒しいよいよ進んで戦えば、これを見た武田勢は励まされて討って懸かる小笠原方からも勇士、風間太郎左衛門...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(185)甲越川中島血戦12

  • 病気で変わる心

    人生初の手術が74歳とは、それだけ健康に過ごしてこられたと言うことで、ありがたいのだけれど、入院前と入院中と退院後では、ずいぶん心持が変わった。人生感が変わったともいえるが、入院前の心持が思い出せないくらい遠い過去に思える。たしか、あの頃は煩悩がどうしたとか、業がどうとか言っていたことが多かったように思えるだが入院していた20日ほどの間に、余計な何かは、かなりきえさったように思うそうだ、ずいぶんとコンパクトな思考になったと思うのだ「憑物が落ちた」とかいうけれど、そんな感じ病院が随分と住み心地が良くて、しかも空気が良いのか?鼻の通りも良くなり眠ければ寝るし、目が覚めれば夜中でも起きるし、そんな生活も覚えたようは時間感覚が薄くなった気がする、今が何時であってもかまわない、但し予約とか約束時間だけは守る断捨離な...病気で変わる心

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(184) 甲越 川中島血戦 11

    翌日、晴信は、加藤駿河守、山本勘助、原美濃守、小幡織部正を呼び、景虎の武勇、軍術の程を尋ねた。山本勘助は「景虎の昨日の軍立てを見るに、若大将と言えども噂通りの智勇兼備の名将と存じます此度は六千の兵を率いてわが一万五千より不利なることを察して、丸備えの陣形をもって先陣より無二無三に攻めかけると見せておき、自分は旗本勢のみを率いて、先陣の戦を脇に見てわが本陣に攻め寄せて一気に勝負を付けようと謀ったされどもわが方の備えの堅さを見て、公の軍術の高さを知って荒働きではとうてい太刀打ち出来ぬことを悟り、早々に軍を引き上げたのは、並みの将にはできることではありませんなかなかの知謀の器かと存じました、勇猛はあくまでも逞しく、健やかにして、差し掛かる軍を回さぬ性質かと存じます今後の景虎は君を挑発して腹を立たせて、備えの乱れ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(184)甲越川中島血戦11

  • なぜか時々おかしなのが出来る畑

    今朝はいつもとは違う秋らしい朝だった空の色も秋色で、風も涼やか、それはいつもなら畑作業では汗ばむ午前6時半になっても汗もかかず、とうとうキューリとトマトの枝及び、支え棒を処理したこれで畑はナスの二株と地面を這っているスイカの蔓と葉ばかりになったナスは9月までしばらく続いていきそうだ、なにしろ今年はいつまでも夏日が続いているうえに、旧暦の秋に入ってから、むしろ真夏日の35度前後が続く異常さスイカなどは、お盆過ぎてから2個もリンゴ大の実が見つかるほどで、スイカもすっかり季節を見失っているようだ。ナスは毎日1個2個と自家消費分ずつ実ってくれるが、半月くらい前から同じ株から新しい枝が逞しく伸びてきて、若々しく大きな葉が何枚も広がった背丈も伸びてきて今は1mほどになったおかしいのは、長ナスの木なのに、この新枝からは...なぜか時々おかしなのが出来る畑

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(183) 甲越 川中島血戦 10

    使い番のむかで衆12騎が先陣に走り去るを見て、本陣の武者たちはもちろん使い番の輩も、今や激しく戦の真っ最中に大将命によって軍を多少なりとも引き上げさせるとはいかなることかと皆訝しがった。この時越後の大将長尾景虎は旗本を率いて晴信の本陣へ攻め込み勝敗を一時に決しようとする気配を、甲州方の飫富兵部少輔虎正が気づいたそして馬上と歩兵1500人赤備えにて、大将晴信の旗本の右を厳重に固めたこれには、さしもの景虎も迂闊に攻め寄せることならず、にわかに引き上げの貝を吹かせた景虎は馬周りわずか45人と宇佐美定行を伴って、先備えに乗り入れて手軽く勢を切り上げさせた先手の大将長尾越前守政景、大いに怒り「勝ち戦だというのににわかに引き上げるとはどういうことか、今一揉みにて武田勢を崩して見せ申そうとはやるのを、宇佐美駿河守これを...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(183)甲越川中島血戦10

  • 温故知新

    ずっと酷暑で散歩を中断していたが、今日は夕方すこし涼しかったので17時半に散歩に出かけて1.5kmくらいだが歩いてきた、かなり速足で歩けたので未だ健在と安心した。勝海舟(かつかいしゅう=勝麟太郎)と言えば江戸時代末期の動乱期を生き抜いた徳川幕府の軍艦奉行、生粋の江戸っ子だが、代々の幕臣ではないアメリカ使節団として福沢諭吉らと咸臨丸で太平洋を横断して、アメリカを目で見て来た世界観を持っていて、尊王攘夷派の坂本龍馬、西郷隆盛などの傑物さえも唸らせる大局観や度胸をもっていて江戸の町を戦火から守った、江戸の町火消の親分、新門辰五郎をも手の内に取り込める侠気も持ち合わせていた、江戸時代の終焉を予測して無血開城を推し進めて成功する。いつも危険と隣り合わせであったが、坂本龍馬が用心棒にと勝に送った岡田以蔵(人斬りの異名...温故知新

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(182) 甲越 川中島血戦 9

    両軍の先鋒、死を顧みず戦うほどに双方の手負い死人その数を知らず中にも武田方に塩尻五郎左衛門の弟塩尻豊後無双の勇士也直江山城守の勢の中に一文字に切りかかり当たるを幸いに打ち回る直江の兵これを取り囲み四方から打ちかかるが塩尻はこれをことともせず大太刀を振り回し近寄る武者四、五人を切り倒すなおも進んで戦うところに景虎の旗本、鬼小島弥太郎、日の丸の差し物は使い番にて差し掛かったところへ暴れまわる塩尻を見て槍をしごき「小島弥太郎」と名乗り、塩尻に突いてかかる塩尻豊後、大いに叫び打ちかかってくるその切っ先を丁と受け止め槍先に火花を散らせ打ち合うが弥太郎の勢いが増し塩尻豊後受け損じて眉間をぐさりと突き抜かれ真っ逆さまに馬より落ちたところに弥太郎の従者が首を取る、弥太郎はなお敵中に馳いる直江の勇士大井大九郎は先より敵の中...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(182)甲越川中島血戦9

  • 平和な時代、動乱の時代

    日本国の凡そ1500年の歴史を見ていくと、海の波の如く動乱と平和が繰り返されているのがわかる太古の事は古い書物でしかわからないが、実否あれども、それに従うしかないが、大化の改新までは帝の強権の時代で治まっていたかと思われ、大化の改新は最初の動乱だったのだろう。以後、藤原氏を中心に300年の平安の時代は、為政者の内部抗争があったとしても平和で文化的な時代だったのだ、そして朝廷に馬牛の如く仕えていた武士が天皇家の血筋に混じってくると動乱の時代の幕開け。我が世の春を謳歌した平氏も、「奢れるものは久しからず」で源氏の仇討ちによって滅び、続いて源氏も三代で滅び、頼朝の女房方の、前北条氏が仲間内の内部抗争という動乱を勝ち抜いて長期政権を作り上げたそしてまた、しばし100年余の平和の時代が訪れた北条は天皇をも島流しにす...平和な時代、動乱の時代

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(181) 甲越 川中島血戦 8

    海野平に着陣した長尾景虎は宇佐美駿河守と軍議を行い、備えを龍の丸備えとして、先陣には長尾越前守政景、(景虎の姉婿)、吉江織部、同備中守、佐々佐渡守、中条梅坡斎、二の備えには柿崎和泉守景家、直江山城守兼続、大関阿波守親益、柴田、芋川、安田上総介、三陣は大将景虎の旗本、甘粕近江守景時、上田修理進景国を旗本の左右に備え、これに続いて甘粕備前守、鐵上総介、和田喜兵衛、四陣、村上左衛門義清に信州勢これに従い、高梨播磨守宗景、色部修理亮長実、島津左京進隆久、井上兵庫介清政、五陣、古志駿河守秀景は旗本より五、六町引き下がって備えを立て、荷駄奉行には本庄越前守長繁、同清七郎そのほか宇佐美駿河守定行、山本寺宮千代丸、斉藤下野守朝綱、加地安芸守、同右馬丞、色部一子、山村若狭守、同右京、北條丹後守、竹俣三河守を始め越後の勇将ら...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(181)甲越川中島血戦8

  • この頃の事、あれこれ

    今日は実に一か月ぶりに、日中雨らしい雨が降ったそれに加えて雷も鳴り、ずいぶん近いところに二発も落ちて地響きがした遥か昔、家の近くに雷が落ちて、電線に入って走り、50mほど下の家の中に入り込んでテレビを破壊したあれがずっと頭にあって、雷が近いとすぐにテレビとパソコンの心配をしてしまう。まあ今日の雨も長くは続かず、30分も降ったのだろうかちょっと迷ったが、やはり朝に畑の水まきをしておいてよかったキューリも、トマトもいよいよ終わったようで、大部分の蔓を切った本当はきれいにやってしまいたかったが、今年は蒸し暑すぎてとてもやる気にならない夏の始めは蚊がうるさくてやる気がなかったし、暑すぎて蚊が居なくなったけれど、蒸し暑くてやる気なしだし、いったいいつになれば畑が片付くのだろうか。珍しく夏の前から蜂が我が家のサンルー...この頃の事、あれこれ

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(180) 甲越 川中島血戦 7

    長尾景虎が軍を整え、信州に侵入して戦を始めたことは次々と甲府に伝えられた、武田晴信もこれまでとは違う新たなる大敵を認め、急ぎ軍を整えて北信濃へと発向する。十二日には甲府を発ち、十六日には信州小室に至る、十九日には一戦交えんと海野平に陣を敷いた晴信は山本勘助、小幡織部正、原美濃守を呼び、「景虎未だ十八歳と言えども項羽をも欺く勇将と聞く、今日の戦いは必定十死に一生の戦となるべし大事なる合戦であるから、汝ら三人は斥候に出て敵情をつぶさに調べて報告あるべし」と命じた三人は敵情を細かに調べて大将晴信に伝えた勘助は「敵の備え速やかなる中に濁りと申すものなり、初めての対戦なれば厳重に備えてわが勢の動きを監視して、その動きに合わせると見えます」原、小幡も同様に見ゆると申し立て「敵の人数は六千余り、されども余の敵と違い合戦...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(180)甲越川中島血戦7

  • パリオリンピック 私が選んだ日本選手MVP

    今頃になってパリオリンピックってどうかと思うが、全然期間中は触れなかったので書いてみる。私の周囲ではあまり話題に出なかったパリオリンピック、女房殿がやたら見ていてバレーボール、卓球、柔道に目を凝らしていたのが不思議で印象的だった。テレビ画面のパリオリンピックが、パラリンピックに見えたのも印象に残ったさて競技だけれど、日本は海外開催最高の20個の金メダルを獲得して、全体でもアメリカ、中国に次いで3位と大健闘した。2021年国内開催となった東京オリンピック(正式には2020年だがコロナで順延)での27個に次いだ。強豪のロシアがドーピングやウクライナ侵攻のペナルティで参加を拒まれている平和の祭典としてクーベルタンが提案開催されたオリンピックであるが、世界平和への目標は達成されていないそれでも日本選手と中国選手が...パリオリンピック私が選んだ日本選手MVP

  • 速報 ビックリ! 大谷満塁サヨナラホームランで40-40を達成

    今日この日、この時間に生きていてプロスポーツの歴史に残る大記録達成を見ることが出来た、それもMLBで日本人が達成した大記録100年を遥かに超えるMLB史でも僅か5人しか達成できなかった40本塁打40盗塁の記録を、大谷が同日同試合の中で同時達成、しかも9回裏、満塁サヨナラ40-40&史上最速126試合での達成(これまで147試合が催促)はというおまけつき。まだ34試合残っているから史上初と言う45-45は射程内、誰もやったことがない50-50もいよいよ視野に入って来た実際のところチャンスに弱い大谷に私は「せめて内野越えのヒットでサヨナラを祈っていた、それがまさかのサヨナラ満塁ホームランとはこれが超人たるゆえんであろう、記憶に残る記録をさらりとやってしまうのが凄いジャッジが4試合連続ホームランで49号、打率も...速報ビックリ!大谷満塁サヨナラホームランで40-40を達成

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(179) 甲越 川中島血戦 6

    上田原の戦に敗れて退いた村上義清は、退路を断たれて城に入ることが出来ずそのまま峠を越えて山中に入り、北を目指して越後に落ち延び越後府内に入り、長尾景虎に対面した義清は「某は十年にわたり武田家と戦いを重ねてきたが、去る二十四日上田原の一戦で、敵大将武田晴信と一騎打ちを行った、晴信の近臣がわが馬腹を突いた為に落馬して鼻を打ち目がくらみて討ち死にとなるところを、わが郎党馳せ参じて助け、換え馬に乗り次いで窮地を出したされども居城葛尾には入ること能わず、腹を掻き切らんと思えども、死は安し生きるは難じと思い、ここまで来りて候なり公の父祖とわが先祖は代々武威を争ってきたが、義清、今日は恥辱を忘れて降を請う、公の英雄の名声は天下にとどろき、某の心中を察して今一度、葛尾に帰住するを叶え給われば大いなる幸、莫大な厚恩を賜るこ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(179)甲越川中島血戦6

  • ボケの始まり? 老化現象? 暑さのせい?

    昨日わが町は、この夏最高気温を記録した36度に近かった、そして今日はもっと暑いとの予報だったが、やはり暑い暑くて何もできないから家ごもりだ、それでも今日はドジャースの試合が無かったので病院へ行く気になった水曜日午前に皮膚科へ行ったら午後からだけだったので帰ってきたことは先日書いたそれで金曜の今日あらためて10時半に行ったのだ、皮膚科はわりと患者が少なめなので10時半だとわりとすんなりやってもらえそうなのだそして行ったら、産婦人科、外科、眼科などはまだ十人くらいずつ待っていたしかし皮膚科は誰もいない、嫌な予感がして行って見たら、今日も午後からだった、「え~~」と心の中で叫んだ水曜に見た時は、午後は水曜だけだと思ったが、見間違いだったのか仕方ないから帰って来た、今日も35度の猛暑の中、わざわざ行ったのに・・・...ボケの始まり?老化現象?暑さのせい?

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(178) 甲越 川中島血戦 5

    (yottin評武田晴信(後の信玄は甲斐(山梨)の守護大名で、長野県を佐久地方から侵略して、中山道も北上して諏訪を攻め滅ぼし、佐久からは上田地方を狙って、信州でも一二の豪族、村上義清と上田で戦いを始めた諏訪からは塩尻峠を越えて松本平を狙っているが、松本には信濃守護の名家、小笠原長時が強敵である、武田はオール山梨であるから結束が固く命令系統も統一されていてプロ集団である、一方信州勢は個々は強いけれど、皆おやまの大将で結束できず、個別では兵数で武田に太刀打ちできないから次々に打ち負かされてしまう、これが今にも続く盆地だらけで個別の経済圏で生きる信州の県民性である、因みに越後新潟県も信州同様広くて群雄割拠していたが、長尾景虎という武田信玄に負けないカリスマが現れたために統一された、そう言う意味では信州にはカリス...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(178)甲越川中島血戦5

  • 夏野菜収穫終了

    この夏は大腸の事が心配で、好物もかなり我慢している特に消化が悪いものや、腹にたまるもの、刺激が強いものを我慢して食べないトウモロコシを蒸したり焼いたりして食べるのが好きだが、これも今年は我慢枝豆もせいぜい10個以内で我慢している納豆だって大好物だが、ひきわりだけ食べている、ステーキも待ったに食べないが、食べる時は本当は肉厚なのを食べたいが、1cmもない薄いのを食べている、但し幅広く大きめなのを、寂しいけれど仕方ない、酒ももう4か月くらい一滴も呑んでいない、もっとも1年前から飲みたい気持ちが薄れていた食べたいものも今が我慢のしどころなのだ。さて今年の収穫、太くなったキューリの根元も枯れ始めてきた、できるキューリも小さく形も悪くなってきた、数も減っているトマトは青いのが6ケ位になったが、熟しかけ2個を収穫した...夏野菜収穫終了

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(177) 甲越 川中島血戦 4

    時は天文16年8月24日辰の刻、両軍は互いに鬨を上げ、弓鉄砲の打ち合うこと激しく矢玉は雨の降るごとく、顔を上げることもできないそのような時武田勢の中より曲淵正左衛門、三島肥前守、広瀬郷左衛門ら勇士一番に槍を上げて、真一文字に突入する村上勢の中からも、原田十郎左衛門、八木宗七、松野一斎が出でてこれに当たり、火花を取らして戦うが、武田の勢いは強く、原田十郎左衛門は広瀬のために槍を突き通されて討ち死にする、松野一斎はあまりにも強く打ちかかったので槍の穂先は折れて太刀を抜かんとする時に、曲淵これにつけ入り討ち取る八木宗七は三科のために突き倒される、八木の兄、安中一藤太は弟の仇を討たんと大太刀を上げて討ってかかるを、武田方の藤代七左衛門、安中と打ちあい討ち死にするこれより両軍入り乱れ喚き叫んで討ちあったが、村上勢は...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(177)甲越川中島血戦4

  • グッドタイミング バッド タイミング

    私の日記によれば日中に雨らしい雨が降ったのは、7月25日の夜中から朝への大雨が最後のようだ、だからもう1か月くらいまとまった雨が降っていない江戸時代なら飢饉だろう、そのくせ川の水はそこそこ流れているから、山の方では多少なりとも雨は降っているのかもしれない。日中の日差しの暑さと、蒸し暑さは半端ない毎日最低気温は25度、最高は30度以上の真夏日が続く例年であれば裸で暮らし、暑ければ水風呂に入り、シャワーを浴びて暮らすが、体力が落ちている今年は日中はエアコンを除湿モードで使い、夜は扇風機で暮らしている我が家は女房殿と息子が居るが、この二人の体質は私とは正反対で、扇風機だけでこの暑い夏を過ごしたというより暑さに強い体質らしい、車に乗ってもこの暑さの中エアコンをつけない、私が居間のエアコンをつけている時は近寄ってこ...グッドタイミングバッドタイミング

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(176) 甲越血戦川中島 3

    信州猿が馬場峠の浦野城主浦野民部允は、村上に属していたが密かに信州内山城の武田飫歩富兵部少輔虎昌に内通し「晴信君が当国に出馬されるならお味方に参ります」と伝えた晴信は碓氷峠合戦の時に、同年8月2日春信は甲府を発ち同じ6日に、上州上杉家と言い合わせて武田家の陣を妨げた佐久郡志賀の城主笠原信三郎を攻め落とし笠原信三郎を打ち取ったその後の飫富の内山城に立ち寄り、1万人余りを引き連れて砂原峠から上田原に着陣したこのこと保科の村上義清に伝わると義清は大いに怒り、笠原新三郎を討ち取られ浦野民部は武田に内応して当家に敵対すること返す返すも悔しいことなりその上、去年は真田幸隆に謀られ一騎当千の武者を多く打たれたこと、このままでは信濃の味方衆もいつ離れていくかわからぬと、今度の合戦においては晴信の旗本に切り込んで自ら勝負を...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(176)甲越血戦川中島3

  • 抗がん剤治療 緊急 中止

    今日から第3回目の抗がん剤治療が始まる、治療室に入ったら私よりちょっと年上に見える色の黒いおばちゃんがいた、そして独り言のように「この部屋に来るようになればもうおしまいだな」などと言っている受付が終わって血液検査に向かった、順番がおばちゃんが一番私が2番隣同士になった病院では名前と生年月日をいわせるそれで気がついた、このおばちゃんは高校の時の同級生だった、だけど2時間の点滴中に色々話しかけられるのも嫌だから知らん顔していた採血が始まったが若い看護婦は下手くそで1回目は失敗して2回目は2本取るところを1本半で血が入らなくなったと言って中止したこれで間に合うかどうか聞いてきますと言って奥へ行った、20分待たされて結果はもう1回1本分だけ取るということになった今度はベテランの看護婦に代わってあっという間に終わっ...抗がん剤治療緊急中止

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (175) 甲越10年戦争 血戦川中島 2

    武田大膳大夫晴信は去年、村上義清と小県郡戸石の合戦(初編に記す)に武田方の危うきところを山本勘助晴幸の策略で逃れた上に勝利を得たことを、摩利支天の再来と褒め讃えた。天文十六年二月十五日、八幡宮に社参して回廊にて晴信と勘助は孫子の五事七計、或いはニ五の妙、深々の戦問答あって下向した。馬場民部少輔景政、秋山伯耆守晴近をもって信州伊奈へ発向させて村上方の砦三か所を攻め落とし、秋山伯耆守を信州郡代とした。村上義清は、これに備えて幕下の士、楽岩寺右馬介、布下新左衛門尉、依路右近進らに信州海野平の乾、上田筋の北、時田山の東方の険阻な土地に三か所の砦を設けさせた。晴信はこれを知って、この砦を踏みつぶしたのち村上の本拠保科を攻め落とさんと板垣駿河、浅利式部丞の両将に検使として原美濃守虎胤を指し添えた三将は海野平に陣を構え...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(175)甲越10年戦争血戦川中島2

  • 今日は病院の歯科を受診

    今日もまた朝から暑い日差しだった第二クールも今日で終わり、明日から第三クールに入り、明日は抗がん剤点滴の日になる今日までの一週間は抗がん剤の休養日だったので、まだ一回しか行っていない歯科に行って、二回目の治療を受けた一回目は前に書いたが、レントゲンを撮って治療の方針を決めただけで、何もしなかった今日は、これまでの詰め物を外して、虫歯の部分を削り新しい詰め物で仮処置までやった10時半からの予約だったので10時に受付に行ったが、家を出る前に小トラブルがあった、それは保険証が7月31日で切れていたのを気づいたのであるそれで新しい保険証が来ていたはずなので探したが見当たらない、時間はもう9時半、ちょっと焦ったがマイナンバーカードがあるのに気づいて、これが今後の保険証代わりになるのを思い出して、受付の仕方をネットで...今日は病院の歯科を受診

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (174) 甲越10年戦争 血戦川中島 1

    信州に於いては、甲斐から信州を侵した武田大膳大夫晴信と信州の有力豪族、村上左衛門義清の合戦が止むことなかった。武田晴信より信州佐久郡岩尾の城を預かる真田弾正忠幸隆は、天文十五年十一月、板垣駿河守、飫富兵部少輔、小山田備中守を岩尾に招き、「晴信公が某を召し出されてより今日までに受けた御恩は泰山の如し、生涯をかけても返すことが出来ぬほどである、某の心の切なることは近隣に城を構えている飫富殿、小山田殿にはわかるでありましょう某も方々に劣らぬ働きで、お屋形様の御恩に報いたいと思い、ここに一つの謀を考えました、かって信虎公の時、萩原常陸介殿が福島の多勢を少数にて勝利を得たと聞き、某も少数にて敵の多を打ち破る策を考えた次第ですそれを皆さまに披露してご意見を聞きたいとお招きした次第であり申す」と三将に囁けば、三将も真田...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(174)甲越10年戦争血戦川中島1

  • 74歳 この頃思うこと

    人生は早く流れて短い年月だと思うようになったのは、この頃気が付けば74歳、ついこの前、古希だ70歳だと言ってたのに、もう70代半ばに差し掛かっている何といってもコロナ騒動が、我々の人生を意味のない無駄遣いさせたあれに気をとられているうちに貴重な年月が失われたあの国を挙げての大騒ぎは一体何だったのだろうか、今は一番騒いだテレビ、医師、政治家が何もなかったかのように口をつぐんでいる過ぎ去った年月は取り戻せない、そして日常に戻りかけたら突然のガン宣告これでまた半年、何もできずに家ごもりだだけど、この病気になって考え方も生活もすっかり変わった自分は永遠に死なない気でいたが、ここにきてやはり自分も死を逃れない存在であることを認識したそうなると人生が定まった、心が定まった、悔いのない人生を送るために考え始めた命は天命...74歳この頃思うこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (173) 長尾家 86

    長尾の旗下、竹俣三河守、はじめ初士であったとき一つの名刀を得たこれを竹俣小長光、または小豆長光(あずきながみつ)と言うこの名刀の出自は越後の国の百姓の家に代々伝わるものであった、当世の百姓、これを大事にもせず常に山に入る時、里に出る時も腰に差して出たが、ある日、木を切るために山に入った俄かに雷鳴がとどろき、切れ間なく数十の雷鳴が鳴り続けて、今にも百姓の頭上に落ちるばかりであった百姓は是を恐れて、刀を抜き頭上に差し上げた時、雷鳴一声すさまじく、たちまち百姓の頭めがけて落ちて来たもはやこれまでと思ったところ、雷はこの刀に当たり再び天へと戻っていった百姓は奇跡的にケガも無く、ようやく人心地ついて刀を見れば、切っ先の先頭より一尺ばかり血のりが付いていた、あらためて見直せば百姓の首にも衣にも血を被っていた百姓でさえ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(173)長尾家86

  • 大谷不振、ドジャース首位の座守れるか

    ドジャースが5連勝のあと、ピシッとしない昨日はハドソンがリードの終盤に逆転されて負け、今日は最近調子が良いバンダがリードの6回に1点差まで追い上げられたベッツが戻って打線に活気が出て、下位打線も打ち出したのに投手陣がふがいない真っ向勝負で打たれるのは我慢できるがフォアボールを連続で出したあげくに長打やホームランを打たれるのは頭にくるクローザーが定まらないのに、中継ぎ陣もバタバタ、勝てる試合を負けているそして好調な打線の中、大谷と髭ヘルナンデスの二人がスランプ気味大谷は.305くらいから.290近くまで落ちてきて三冠王も遠のいて来た。相変わらずチャンスに打てない、最近はホームランも打つが、打率が1割台素人目には第一ストライクが第2第3ストライクより打ちやすいボールに見えるが、打つ気無いように見逃すし、第2第...大谷不振、ドジャース首位の座守れるか

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (172) 長尾家 85

    直江山城守は己の勢から二百余人を選り、間道から城の搦め手に至って攻め込む作戦に切り替えた。山城守はかっては、この城への出入りをしていたことがあり、勝手知ったるであった搦め手に至るには険峻な道なき崖をよじ登っていくしかない、岩を伝い谷を巡り、苦労に苦労を重ねて、ようやく搦め手の下へとたどり着いたこの難関を知り尽くしている直江兼続あればこその大作戦であるそして搦め手の守備の様子を見れば、山城守の見立て通り、この険峻な崖を来るものなどあるはずがないと、守備は至って手薄であった。直江山城守「得たり」と真っ先に乗り込み、逆茂木を引き破って鬨の声をあげて二百余人一斉に打ち込めば、油断していた城方の兵は驚き、慌てふためいたそして誰一人戦うことなく奥へと逃げていく、いよいよ直江勢は勇み立って、逃げ遅れる敵兵を切り倒し、陣...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(172)長尾家85

  • 抗がん剤治療 現在

    この頃、昼食は麺類+ハムとトマトのチーズトーストがマイブームだパンもあまり好きでない、トマトもそれほどでもないが、チーズトーストにして焼きたてを食べると香ばしくてたまらない、麺の他に薄い食パン2枚、まだ当分は続きそうだ。手術不可能なガンと戦っていると言うのではないので、抗がん剤治療と言う言い方はどうかなと思う、しいて言えば抗がん剤でガン発生予防中なのだ。ようは、在るか無いかわからないがん細胞を、万一あった場合に攻撃消滅させるための抗がん剤なのであるだからがん細胞の芽がなければ、それはわが細胞と抗体を抗がん剤が無駄に攻撃しているだけなのである。それはベトナム戦争で、恐怖にさいなまれた米軍の歩兵が民間人さえ兵士に見えて無差別に殺した、あるいは攻撃ヘリがナパーム弾を敵がいるかいないかわからない森林に撃ち込んで焼...抗がん剤治療現在

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (171) 長尾家 84

    同年五月、神余隼人佐を京都に登らせ、足利家に官途受領の事を願い出た足利義輝公は内裏に奏上願い出て長尾景虎を弾正少弼に任じ、従五位下に叙せられる綸旨を申し下し、足利家より御祝いとして御内書並びに備前国光の太刀を賜る景虎は大いに喜び、内裏に御剣一振り、並びに黄金巻絹などを献上した足利家へは備前長光の太刀一振り、川原毛の御馬一疋、蒼鷹一連、青銅三千疋を進上した、これにより景虎は越後国主と称す。景虎は国中に遣いを出して、この度、任官の宴を開くので十五日を限って、諸将に府内の城に集まるよう伝えた諸将は追々、府内に集まったが、景虎は例の十六将には別途遣いを送り、林泉寺を宿とするよう伝えたそして彼らが林泉寺に収まるを見て、かねてより寺の四方に伏せさせた士卒が取り囲み、直江山城守、杉原常陸介、千坂対馬守が内々野心を秘め、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(171)長尾家84

  • もう一度、お盆になって考えたこと

    今頃になって気づいたけれど、終戦の日は「お盆」だったのですね昭和20年のこの日、生き残った国民は終戦と先祖が戻ってくるお盆とを、どんな気持ちで迎えたのだろうか思うほどに複雑な気持ちになります。人類の歴史はいつからか、build&scrap作っては壊し、壊しては作るの連続それが戦争と平和のサイクル、賽の河原、満れば欠ける、欠けては又満る平和が続けば、人は満ちてあふれ出す人があふれれば飢餓が起こる飢餓が起きれば、死を待つか略奪するかの二つ一つ戦争は大量殺人と略奪しか目的はない、いくらきれいごとを言ってもその二つしかない自分と同胞が生き残るために、その他を滅ぼすのも必要悪と割り切る獣の世界、畜生の世界と何ら変わらない人間界生きるために殺すことは悪なのかそれは人間が持って生まれた業であるから仕方がないことだと言う...もう一度、お盆になって考えたこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (170) 長尾家 83

    景虎は越後を捨て、武家を捨てて剃髪して高野山へと向かったが、驚いた越後の諸将に関山妙高山にて引き留められ、誓詞を受け取ったのち越後府内に戻ったのである。出家の時に入道謙信となり、長尾景虎を改めて長尾入道謙信と号す。府内に戻った謙信が最初に行ったのは、越後の全ての諸将を集めて「議することあり」と言う皆一様に何事といぶかしがり集まった。入道謙信は諸将「ロノ字」に座す中央に座り四方を見まわし、「去る日には皆々より誓詞をもって無二の志を表したことについて某の喜びこの上なし、しかれども今、隣国は乱れに乱れ国々の諸将は薄氷を踏む思いで日々を生きており、朝には東の旗に従えども、夕べには西の旗に寝返っていること多し、それは我が身の安全を考えての事であるしかしそれは真の心無きともいえる、今越後の国は平穏であるが、いつ何時敵...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(170)長尾家83

  • 今年のお盆に思うこと

    昨夜はやたら眠くて20時にはベッドに横たわったまま寝てしまった朝は6時まで寝ていたから10時間寝たのか、途中2回目が開いたがすぐに寝てしまった、朝の目覚めも入れて結構リアルな夢を見ていた。相変わらず仕事や人に追いまくられる夢だ、自分の仕事がいかに時間との戦いだったか、お客様との信頼関係を守るために時間的な無理を重ねて来たか、いまになってわかった。それだけに今の時間のゆとりがある生活に満足している、ただゆとりがあるからと「ぼ~」としているのにも飽きて、病身ながら常に何かしていないと落ち着かなくなってきた。今日は午後一に住職が見えて読経してくださるので、朝食後にシャワーして身を清め、それから準備に一時間、昼前に墓参りに行って来た共同墓地がある場所は元々「薬師堂」があって薬師如来さまがおられます盆の間は、御開帳...今年のお盆に思うこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (169) 長尾家 82

    幸い、上田長尾家と親戚になった、長尾越前守は一族の歴々であり、姉婿の父であれば諸将からも尊敬され一目置かれた存在この人に謀を打ち明けて協力してもらおうと思い、金津新兵衛に密意を言い含めて上田に遣わした。新兵衛は越前守と対面して景虎からの密書を贈った、その内容は「景虎、屋形定実公の命により亡父為景の跡を継いだことはたいへんな名誉であった、けれども某は病気がちで重圧に耐えきれないこれは国家を危機に招くかもしれない、三略にも『国を滅ぼし家を破るのは人を失うからだ』とある、我は不器用であり衆士の上に在りながら、これを束ねることおぼつかず、政権をいただきながら衆を服従させることができない、これすなわち国の安泰を守れず、国を失うのは法が無いからではなく、法を守らせる君主が無いからである、法があっても、これを守らせる力...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(169)長尾家82

  • 戦争に負けて79年が経った

    日本が有史以来初めて対外国との戦争に負けたのは昭和20年(1945年)それも軍、民あわせて300万人以上が戦争で死んだ、そして東京を始め主要都市50以上が爆撃、砲撃で壊滅的被害を受けたという悲惨な戦争我が家の先祖代々の浜松の寺も艦砲射撃で住職ごと破壊(焼失?)されたという数分で10数万人を殺した原子爆弾投下が2度、2時間で10万人以上を焼き殺した東京大空襲(祖父母が亀戸で犠牲になった)と世界でも例のない大虐殺を5か月で3度も受けた日本はそれ以上戦争継続をすることはできなかった。もっとも一部軍の上層部では戦争継続を叫び、アメリカ軍を本土に上陸させて一気に殲滅する、あるいは刺し違えるといった考えもあったようだ。そのために多くの航空機や燃料、武器弾薬を各地に隠しもっていた、父が入隊していた調布の陸軍飛行場にも掩...戦争に負けて79年が経った

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (168) 長尾家 81

    天文二十一年、景虎は二十三歳と相成った昨年のことを思うに、ついに国内を平定し朝廷の公家衆、足利将軍家の覚えもめでたく、国内の諸将もみな景虎になびいた。すべてはうまくいったと思われたが、人心は永遠不動ではない、景虎に真髄する将も多けれども、心から服従しているわけではない将も多い越後は北西の羽前(山形)から南東の越中(富山)まで長く伸びていて今風に言えば凡そ300kmに渡る広大な国であるそれゆえに府中がある上郡、栃尾、三条の中郡、阿賀野川以北の下郡では人の心、風俗、方言も異なり、特に新発田から北は揚北(あがきた)と呼ばれて独立独歩の将が少なくない。人心測りがたく、今は服従しているが、誰ぞが反旗翻せば、それに同調する者も多いそもそも越後の国人とは、それぞれに出自が違い、しかもそれぞれが祖先を誇りに思っているそれ...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(168)長尾家81

  • 「今日は何もしない」ができない

    昨日は4時半に目が覚め、前夜はは22時半に寝たので6時間、十分だけどやることも無いから5時半までベッドにいた。いつものルーティンをこなして、まだ涼しいので畑に出て収穫スイカはやはり今年は失敗で、出来た数は6個だけど4個はまず食べるまでいかない、リンゴ大から少しも大きくならず、もう蔓が変色してしおれたので収穫どうすりゃいいのかわからない大きいのも蔓が変色したので収穫、でも900gしかない他はキュウリを4本、オクラ1本、ししとう1本、キュウリは8月になってどんどんできてきて、毎日4本収穫だから食べきれない。トータルで70本くらい取れたので昨年並みになった、ナスもまずまず取れているが、トマトが低調で未だ6ケ位で青いのが6ケ位収穫を待っているが、もうこのくらいでお終いだろう。朝から「熱中症警戒アラート」が行政から...「今日は何もしない」ができない

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (167) 長尾家 80

    天文二十年七月、景虎が上田攻めを命じたと聞いて諸士を城内に集めて評議した「景虎が上田に攻め寄せるとの風聞があるが、われらはこれと戦うべきか、それとも和議をもって家の無事を保つべきか、その得失を各々腹蔵なく考えを述べて見よ」と越前守は諸士に問うた。諸士は互いに顔を見合わせるだけで意見を述べる者が無かったが、やがて栗林肥前守、金子与十郎が進み出て言うには「景虎は未だ二十二歳であるが強敵の長尾平六郎、逆徒黒田和泉守、金津伊豆守を討ち取り一国を平定した、これは尋常の事ではないその上、知謀に長け、しかも豪勇の宇佐美駿河守を始め軍術に秀でた諸将が数多景虎に従っている長尾平六郎は猛将の上、大身であったため、これに味方した諸将も府内勢と等しい程であった、しかも国内には黒田、金津らの逆徒も威を張っていた、それにもかかわらず...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(167)長尾家80

  • 昭和の戦争 たった一度の過ちなのに

    甲子園球場は大阪府だとずっと思っていたが兵庫県が正解らしい、知らんかった!さて一昨日は新潟県代表の新潟産業大付属高校が春優勝経験がある埼玉徳栄に2対1の接戦で勝った、新潟代表が初戦突破したのは7年ぶり、ずっと新潟市、長岡市の高校が代表だった中で、産大付属は中堅都市柏崎市の高校だ、もしかして柏崎市からは初の甲子園代表かもしれない。石川県代表小松大谷も勝って北信越勢はまず2勝0敗富山商業は東海大相模との初戦、強豪相手にどんな試合を見せるか。局地戦は別として国家間の大戦争はわが大日本帝国は明治以来負け知らずついにはアメリカ、中国、イギリス、フランス、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドなど世界の強国相手に戦争を始めた。中国とは一対一の差しの勝負、精密に言えば一対二、と言うのは中国側は日本とと戦争する前には...昭和の戦争たった一度の過ちなのに

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (166) 長尾家 79

    さてこのように景虎の越後平定は都の足利将軍家にも認められ、さらに禁裏の公家衆までもが好を通じてくるほどの名声となった。しかし越後国内には、唯一景虎に従わぬ勢力が残っているそれは上田の庄(新潟県魚沼郡)一帯を治める有力豪族、長尾越前守房景と五郎政景の親子である。去る天文六年には景虎と兄、晴景が国内を二分して戦った時、晴景に味方して米山で晴景に見切りをつけて上田の城に引きこもった経緯がある。景虎は国内が鎮まったことを契機に、長尾越前守にも出府するよう何度も促したが、その都度越前守はこれを無視して、あまつさえ近々兵を挙げて景虎と一戦をして雌雄を明らかにするとの噂まで出て来た。景虎は、これを聞き、金津新兵衛を使者に遣わした新兵衛は越前守に向かい「越前守が晴景に味方したのは、元を一つとする同根であり当時の守護代晴景...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(166)長尾家79

  • 8月は日本の対外戦争を考える

    わが日本国の歴史は第三十三代推古天皇の御代、西暦で言えば590年頃からある程度信頼に足る資料が現れる、推古天皇の時代の有名人と言えば聖徳太子である。三十一代用明天皇の二子で、皇太子となり推古天皇の片腕として法隆寺建立に寄与し、冠位十ニ階、十七条の憲法、遣隋使など様々な活躍をした。ライバルは推古天皇の叔父、蘇我馬子、聖徳太子が亡くなると蘇我氏によって聖徳家は滅ぼされてしまう。これは内乱であるが、この時代は大陸では隋の二代皇帝煬帝の時代(隋は二代で滅び唐に取って代わられる)、日本とは平和外交であったが、朝鮮半島は三国時代で、日本(倭国)と何らかの関わり深い「任那(みまな)」の地を巡って、任那を奪おうとする南東部の「新羅」相手に半島に出兵して戦った。それ以前にも、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后が男の姿で半島...8月は日本の対外戦争を考える

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (165) 長尾家 78

    金津伊豆守、死を覚悟しての突撃なればすでに人にあらず、鬼人の如く当たるを幸いに斬りまくれば、宇佐美勢はしどろとなって近づく者なしそれを歯がゆく思った宇佐美の勇士、塚田嘉右衛門は名乗りを上げて、血糊が突いた大槍をしごいて、大将めがけて突いて懸かる金津の勇士、松田主計、これを見て塚田に挑みかかった、互いに喚き合いかかりあうところに松田を助けんと澤鉄五郎が助太刀に入る澤鉄五郎は大太刀を振り回して塚田にかかる、宇佐美の中からも土岐掃部、鉄五郎に打って懸かれば、互いに人も交えず戦うありさまは真に勇ましき限り金津の勇士らは、そこここに戦って討死するもの三十人余り伊豆守も槍をしごいて宇佐美の勇士らと戦うところ、塚田嘉右衛門は大将首を狙ってかかったが松田主計に邪魔されて、しばしこれと討ちあいついに松田の首をとり、それを引...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(165)長尾家78

  • このごろ気分の良いこと

    暦は秋の始まり日中の蒸し暑さは相変わらずだがここ数日、朝夕が過ごしやすくなった長崎、広島に原爆が落とされた日、そして終戦の昭和20年8月15日は暑い夏日だったとか。我が父20歳は終戦の時は兵隊で、東京調布の高射砲大隊の中隊の通信兵であったが、天皇陛下の「堪え難きを耐え・・・」の玉音放送を全員整列でここで聴いた。「戦争が終わった」突然頭が空白になった、戦争中には耳に入らなかったセミの鳴き声が耳に聞こえた。天皇陛下の敗戦宣言を聞いた大隊長は、演台の上で崩れたあと。何も語らず下りて自室に消えた父の終戦の日は真夏の一日だった。そんな父が語った言葉を思い出している午前5時半、未だ涼しい。この頃気分が良いことがある毎朝4時半には目が覚めて5時から始まる一日、これが第一ダメになったまま放置しておいた10か所の網戸を全て...このごろ気分の良いこと

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (164) 長尾家 77

    寄せ手はますます意気上がって勇み、逆茂木を踏み破って城内に入り込んだ城兵も城門、柵を打ち破られては勝ち目無しと必死の抵抗、大木、大石を転ばし、霰の如く鉄砲を撃ち放てば、寄せ手の死傷者は数知れず崩れ発ってひかんとする。宇佐美勢の中より高田瀬平、館勢の中より矢野孫八、一様に黒糸縅の具足をまとい、二人等しく躍り出て高梨が新山の城を落したことを悔しく思い、味方が引き下がる中を二人は同時に進みゆき、敵の銃丸降り注ぐ中も少しも怖れず、金梃子を引き下げて柵を打ち破り、塀下に至る木村伝左衛門もこれを見て、「某もここにあっては両人に劣るべし」と言うと同時に同じく塀下まで駆け寄り三人力を合わせて、金梃子を石垣の角石に差し込み、「えいえい」と力をこめる城中からは、これにめがけて鉄砲を放つ、これにより矢野孫八は冑の天蓋に銃弾を受...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(164)長尾家77

  • 地震大国日本と未来空想

    今日も海王丸パークへ行って来た朝まで結構な雨が降っていて涼しかったが8時には止み、お昼前にはまた夏の日差しに戻って暑くなった。こんな猛暑の時は家にいれば電気料がかさむし、エアコンを使わなければ体が参ってしまう、外はもっと暑いが、海辺に行くとけっこう涼しい風が吹いていて日陰にいると涼しいのだ。夕方、四国の太平洋側(高知県)から九州南部にかけて震度6の地震が発生した、津波警報も出た正月早々能登沖地震で始まり、未だに復旧作業ははかどっていない、それなのに能登沖以後も各地で地震が続いている先日には、富山県から新潟県上越市にかけてこの先、海底震源の大地震が起こる確率が高い発表があった当然それは私たちの生活圏で少し肌寒さを感じる発表だった能登沖地震でも相変わらず富山県は大きな被害はなかったが、津波がある程度やって来た...地震大国日本と未来空想

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (163) 長尾家 76

    この夜、黒田内匠、大鳥玄蕃六百騎、馬も人も音を立てぬようにして館四郎兵衛の陣屋に近づき、鬨をあげて攻め入った。思いがけぬ夜襲に館勢は驚き、防ぐこともならずたちまち崩れて逃げ出した黒田内匠は勢いのままに、中条越前の陣に攻め寄せた、中条勢はしばし抵抗したけれど、黒田勢の勢いに抗しがたく、これもまた本陣目指して逃げていく黒田、大鳥の軍勢はますます勢いを増して「宇佐美の本陣とても中条らが守りと違うことあるまい、一気に本陣を攻め落とし宇佐美の首を取っやろうではないか」と勇み立って馬を走らせた。中条らの先陣と宇佐美の本陣は約六町あるが、城兵は既に本陣まじかに迫っている、そして本陣の柵に攻め寄せたところ、思いがけず森の中から数百丁の鉄砲一斉に火ぶたを切れば、まさに雷鳴の如し攻め寄せた城兵は将棋を倒すがごとく、前のめりに...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(163)長尾家76

  • なかなか休ませてくれない

    パリ・オリムピック閉幕も、もう一週間を切った開催前新聞を見たら、金メダル10ケ取れば株価が上がる、6ケ位なら下がると書いてあったが、ちょうど10ケに達した日に史上最大の株価下落が起こった「こりゃ大外れ」と思ったら、翌日は最大級の値上がりと乱高下「はて?」金メダル数と株価の因果関係は、とうとうわからずじまいどうでもいいけど。高校野球大会も今日始まり、オリムピックは日本が金を期待できる競技は女子やり投げの北口、男女レスリング、スケートボード、スポーツクライミングなど目が離せないMLBもいよいよ50試合を切りプレーオフ進出争いが激しくなる、戦力ダウン中のドジャースは補強で凌いでいるが苦しい試合が続く今日もライバルのフィリーズに負けて対戦成績が1勝4敗になってしまったこれがプレーオフなら敗退決定だ、大谷の三冠王、...なかなか休ませてくれない

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (162) 長尾家 75

    新山城落城に先立つ日の事、黒田和泉守、金津伊豆守の勢いは次第に衰えて来たので、越中の諸将に対して援兵を催促したけれども、景虎は先手を打って越中、越後の境界の市振に砦を築き、上田修理進を将と定め置く。越中勢は無理押しもならずむなしく日が過ぎるうちに、新山城は陥落し、大将の黒田和泉も自決して果てる、これにより黒滝城の金津伊豆守は力を落し周囲には味方も無く孤立の様相となった。ここに黒滝城を包囲していた宇佐美駿河、中条越前、館四郎兵衛の三将は高梨源三郎らが新山の城を攻め落としたと聞き地団太踏んで悔しがった我らもいつまでここにこうしておられようかと心焦らせ、三将軍議に及び、速やかに黒滝の城に押し寄せて金津の首をねじり取ろうではないかと意気込み早速に支度に入った。ところが間もなく、陣内に疫病が蔓延して死する者も出た、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(162)長尾家75

  • 調子に乗りすぎたかな

    この頃調子が良いからちょっと調子に乗って食べ過ぎちゃった昨日の夜からお腹がはった感じ、ちょっと苦しい考えてみれば食欲と体調は別物そもそも大腸の一部を切っているのだから前と同じような気分で食べていればそりゃあ調子は悪くなるだろうしかもまだ抗がん剤半ばに達してないんだ、まだ治療中の身なのに一人前に食べようなんて馬鹿な考えをした口が美味いのも考えもんだ、また食事の量を3割減らしてご飯もお粥っぽい感じにして消化を助けようまだまだ無理は禁物。と昨夜は少し苦しい思いをして、薬の副反応が出たのかと心配したが一過性だったらしい、暑気あたりというやつだったらしい。今日は、普段に戻って一安心。久しぶりに一日中、わりと涼しくて室温は29度、今月初めてエアコンをつけないで済んだ。襖張りのメインもはかが行って、4枚の内2枚を完成さ...調子に乗りすぎたかな

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (161) 長尾家 74

    城兵らは大手、搦め手、城内と三方に敵の軍勢を引き受けて、すでに敗色濃いと悟り勢いは失われ、大将黒田和泉守の叱咤にも足は萎え、力も失う黒田和泉守いかに勇なりと言えども従卒の崩れたつ姿に和泉守も力を失い、敗兵と共に城内に引き上げる高梨源三郎、長尾備中守の勢は敵の引くところに付け入り、一同に城内に攻め入る、この時には搦め手の城兵もまた心臆して色部勢の成すがままに切り立てられていたすでに二の丸も景虎方によって攻め落とされ、足元には累々の死骸折り重なり城兵は戦うことを忘れて逃げ惑うばかりであった和泉守も、もはや討死の時と悟り、この上は敵を道連れにせんと八方に当たり、四面に向かい、当たるを幸いに斬りまくれば実に稀代の形勢なりこれに当たって討たれるものは数知れず黒田の勇将、富田左馬助は城外で山田、宮川の勢と渡り合ってい...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(161)長尾家74

  • パリ五輪ゴルフ 松山選手銅メダル獲得バンザイ!

    今朝は5時前に起きたが、朝から薄曇りの様相で幾分涼しく感じる玄関先に出てみたら、夜半過ぎか夜明け前かに雨がいくらか降ったようで湿っていた。9時半、陽はささず昨日までのじりじりとした焼ける暑さは消えた、だが雨が降ったせいか湿度が一気に上がって湿度計は68%を指している。だが10時にはまた陽がさしてきて一気に蒸し暑くなった。今はほとんど家の中で過ごしているが、今日はいろんなことが重なって、外出しなければならなくなった。いつも、夕方外出しようと思いながら、結局夕食だとか、シャワーだとか、昼寝だとかで出そびれるので、今日は思い切って一番暑い2時に車で家を出た。最初は旧宅へ行って神棚の榊と水を取り替えた、その後、共同墓地の年会費を会長宅へ納めに行った、ところが2年前に行った家は会長宅ではなくなっていた、家を間違えた...パリ五輪ゴルフ松山選手銅メダル獲得バンザイ!

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (160) 長尾家 73

    山田源五郎は愛妻を主の黒田和泉守に奪われて怒り心頭となった。そして妻の父である武藤平左衛門と伯父宮川隼人に恨みをはらさんと訴えた武藤も宮川も源五郎の話を聞いて憤り、密かに相談していたが「この頃、景虎勢の中に高梨源三郎の旗が見える、幸い高梨の家臣の妻我孫兵衛、吉原大炊、伊藤七左衛門らは親戚である、彼らと通じて景虎の力を借りて、この恨みを晴らそうではないか」と決したそして早速に親戚の三将に宛てて「急ぎ当城に攻め寄せれば、我らは裏切りの兵を挙げるので、これを高梨源三「郎様によしなに取次願いたい」と言い送ったそして「成功の暁には本知安堵を賜りたい」と伝え、誓詞血判書と共に武藤兵左衛門の娘二人を人質として差し出した。これを聞き、高梨は大いに喜び、使者に引き出物を送り、本知安堵まちがいなく承るとの返答をして、時日を約...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(160)長尾家73

  • 食欲旺盛

    ちょいとバテ気味なのか気分のせいなのか?ちょっと「らしくない」数日考えてみれば手術後からずっと草食系の食事ばかりで、血肉となるものは消化が悪いということで禁食メニューだったが、手術から二か月半が既に経っているさすがにもう解禁でも良かろう、よく噛み、量を少なめにしておけば良いかと、ラーメンから始め、体を確認しながら食べ始めた胃腸の働きも良く、体重も増えてきてついに64㎏を突破した、逆にこれ以上太るのを阻止しなくてはならない。とは言え、ここにきて暑さ半端なく、急に塩っぱい物を食べたくなった筋子が食べたくて我慢できず、朝食前にスーパーへ買いに行ったが早すぎて筋子はなく、仕方なくタラコと糠イワシを買ってきた糠イワシは私たちは子供の頃から「漬けどめイワシ」と言う大振りのイワシの頭と内臓を取って、藁の菰に塩と米ぬかを...食欲旺盛

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (159) 長尾家 72

    景虎勢は三条を攻め落とした勢いのまま、黒田和泉、金津伊豆が籠る黒滝、新山の城を攻め崩さんと出陣の用意をしているところに、府内の城より金津新兵衛が馬を走らせてやってきた。「屋形兵庫頭殿、急病にして事は急ぐなり、直ちにご帰還をなさりませ」景虎は驚き、黒滝の城の抑えに宇佐美駿河、中条越前、館四郎兵衛を置き新山の抑えには色部修理、高梨源五郎、新津彦ニ郎、長尾備中を残してその夜急きょ陣を引いて府内へと向かった。やがて屋形に会って、自ら看病をし、良き医師を主治医とし良薬を煎じ手を尽くさせた。また府内の全ての神社仏閣に命じて回復の祈願祈祷を行わせた、されどもその行いの全てがむなしく、上杉兵庫頭定実公は黄泉の旅立ちと相なってしまった。定実公は代々の主であり、姉婿であったから景虎の嘆きは尋常ではなかった国中の驚嘆少なからず...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(159)長尾家72

  • 蒸し暑さでヘロヘロ!

    昨夜は何もしていないのに体力消耗してしまい、シャワーを浴びる元気もなく薬を飲むと21時前にバタンキュー今は午前5時少し前、目が覚めて、これからシャワーをしてくる。最近まで冬が一番嫌い、夏は暑くてもシャワーを浴びればさっぱりするなどと書いていたが、さすがに連日、真夏日、猛暑日が続くと夏も許せなくなる冬が嫌いなのは、老体鞭打って早朝から除雪しなければならないからだ、雪が嫌いなわけではないところがここ数年の夏は異常な夏で、40度近い日が続き、熱中症で倒れる人も多くなったし、運が悪ければ亡くなってしまう。私のように手術をして療養中であれば、なおのこと危険極まりない感染症や体調変化、薬の副反応があるのに加えて、コロナの危険、食中毒の危険、虫刺され、さらに熱中症注意と少しも油断できない。だけども家の中でエアコンかけて...蒸し暑さでヘロヘロ!

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (158) 長尾家 71

    三条の城には長尾山城守、同新七郎討死とはいえどもいまだ照田常陸介、黒田の一族が激しく防戦している景虎は包囲の各陣ごとに隊を作らせて、その夜、近郷の竹やぶに派遣して竹を切って束ね三尺一束として大量に作らせた朝には、この竹束を前にして鬨を挙げて攻め寄せた。城中からは、これをめがけて雨あられの如く、鉄砲を放つが竹束を貫通せず、次第に景虎勢は城に接近した。頃合いを見て、距離を測れば竹束のすぐ後ろから、一斉に城めがけて火矢をおびただしく飛ばせば、塀下の仮屋七か所から火の手が上がり、折節北風なれば一同に燃え上がり、煙が城中にまくりたち炎は天にそびえたつ城内は大騒ぎになり、火を防げば敵は乗り入れて攻めかかる、敵を迎え打てば後ろから火の手がせまり背を焼く火勢は風に巻きあげられてますます燃え広がり、その隙を見て新発田尾張、...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(158)長尾家71

  • 大腸がんになって生き方が変わった

    最初から今日まで順調に来ているから浮かれているように見えるかもしれないたしかに順調でありがたいが、一つ間違えればどうなるかわからないという恐れは持っているそれだけに、日頃から守るルールは決めてあるし、生活もある程度パターン化している一番は「感謝」これは生かしてもらっているという感謝の気持ちを常に持っていること誰に生かしてもらっているか?それは神様宗教家の神様ではない、人間には理解できない大きな力の事だ、宇宙も生命も魂も空間もすべてをコントロールしている永遠の力その力で生まれ、生かされて、やがて滅し、また生まれ変わる、ありがたいことだ生かしてくれているもう一つのものは、私の体内で働いている内蔵器官、免疫、腸内細菌、白血球、赤血球などの味方たちそして太陽、そして先祖、両親、兄弟、家族に感謝二番は「食事」まった...大腸がんになって生き方が変わった

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (157) 長尾家 70

    総攻めが始まり、大手、搦め手共に鬨を挙げて無二無三に柵をめがけて攻め寄せるこれにこたえて城将も弓鉄砲で応戦する先陣を進む新発田、本庄、加地、搦め手を行く古志、新津、平賀らは「大将の御前であるぞ、一歩も引かずにうち潰せ」と郎党、士卒勇に勇んで手負い数知れずと言えども、味方の背を乗り越えて進み、鉄砲を城兵に撃ちかけるされど城兵もこれに負けず勇んで鉄砲を撃ちかける間に、長尾山城、長尾新七二百余騎、どっと喚言て駆け出れば、新発田勢はこの勢いに押されて、どっと崩れ散々になって逃げだす三条勢勢いに乗って逃げる敵を追うところへ、本庄勢が馬印を押し立てて、一文字に切ってかかる両勢互いに真っ向からぶつかり合い、火花を散らして戦うところ、ついに本庄勢は崩れて旗指物も折れて逃げ出せば、三条勢はますます勢いを挙げて、本庄勢を追い...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(157)長尾家70

  • 昼夜逆転 抗がん剤薬ボケ?

    30日は14時まで病院で点滴をしていて、ふらついた頭のまま帰宅したが、どうも頭の中身は正常ではなかったようだ。まさに認知機能の欠如の始まりみたいな気がした。朝出る時も、何かを忘れているような気持にさいなまれて、しばし停車して考えたが何もなかった。帰宅してからまずは麦茶をカップ一杯飲んで一息ついて、ソファーに座って休んだ、そのあたりのことはあまり覚えていない、覚えていたのは昼ご飯を食べたことだ、すでに15時近い、お茶漬けをよく噛んで食べた、スープも温めて飲んだとにかく冷たいと喉を通過するのがキツイから。それからすっかり疲れて、冷えたマイルームであっという間に寝た・・・それから一度もトイレに行かず寝ていた、目が覚めた、いつもの感覚で朝の3時半くらいかと思った電気をつけて時計を見たら8時半だった、一瞬何が何だか...昼夜逆転抗がん剤薬ボケ?

  • 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (156) 長尾家 69

    景虎がついに根負けして府内に向かう時、米山峠の頂に至った。その時景虎は金津新兵衛を側に招いて言った。「儂が平六一味に追われて、栃尾の寺から府内に逃げる途中で米山のこの場に至ったとき、いよいよこれまでと覚悟を決めたが、一人の童を見つけて難を逃れたあれは儂と同じ年ごろであったが、父母兄弟もおらぬ天涯孤独な少年であった汚れに汚れ、すり切れ破れた着物を着ていたが、儂の着物と替えてやると言うと大いに喜んですぐに着替えたのだった儂の身代わりで死ぬとも知らず、与えた握り飯をうまそうに食べながら街道に下りて行ったあとで街道に下りて行ったら童の首のない死骸が傍らに倒れていたのを、儂とそなたで林の中に埋めて、仮埋葬をしたのを覚えておるか」「ああ、そのように言われて確かに思い出しました、童のお陰で我らは命拾いしたのでありました...「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(156)長尾家69

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