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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • AIプラットフォームを握る者が世界を握る#03

    「いま僕らが立ち会っているのは、核による世界制覇ではなく、AIによる世界制覇です」と、前述しました。 じつは、その世界制覇は「心のあり方」にも覆いかぶさります。 力だけではない、心です。 計算装置を「どこで」「誰が」動かすかというハードウェアの問題は、そのAIが「どのような社会観・価値観に基づいて」意思決定を行うかというソフトウェアの問題と直結しています。AIの倫理的中枢・・いわば「判断の型」が、物理的なインフラ選択と密接に絡んでいるのです。 言い換えれば、僕たちはこれまで人類の拡張器官として、「手(道具)」「足(交通)」「羽(飛行・通信)」を発明してきました。これを「産業革命」と

  • AIプラットフォームを握る者が世界を握る#02

    このニュースから見えるのは、その背後に、技術供給の問題を超えて、国家安全保障、情報主権、産業政策、さらには価値観の衝突にまで関わる、極めて広範な課題が横たわっていることです。 なぜなら、AI演算資源の地政学的立ち位置は、21世紀における情報主権・産業主導権・思想的影響力をめぐる新たな戦場となっているからです。 「誰がチップを作り、誰がモデルを訓練し、誰がデータを支配するのか」。この構図は、今後の国際秩序の再編を左右する重大な要素となっています。 OpenAIがGoogleのTPUに接近したという話も、こうした文脈の中で理解するべきなのです。 Taiwan has upped

  • AIプラットフォームを握る者が世界を握る#01

    OpenAIがNVIDIA製のGPUだけでなく、Google製のTPUを利用することになったというニュースが報じられました。 https://www.reuters.com/business/openai-turns-googles-ai-chips-power-its-products-information-reports-2025-06-27/?utm_source=chatgpt.com GPU(Graphics Processing Unit)は、本来は3Dグラフィックスや画像処理のために設計された装置ですが、数千もの演算ユニット(CUDAコア)を同時に動かせる構造を持っ

  • ガロ=ロマン03/ローヌ川ワインと歴史紀行#28

    こうしたゲルマン的支配がガリアにもたらした最も根本的な変化は、都市ではなく農村における支配様式の転換であった。ローマ世界では「土地の私的所有(dominium)」と「文書契約に基づく耕作」が支配の基本原理であったが、ゲルマン支配下では「従属と庇護(commendatio)」という人身的関係が土地の支配構造を規定するようになる。土地は契約ではなく、血縁や忠誠関係によって継承され、権原の根拠も法文書ではなく共同体の記憶に依存した。 実際、ゲルマン社会には成文法や公証契約の伝統は存在せず、代わって口承による慣習が法的効力を持っていた。ローヌ川流域においても、司教座の周囲ではラテン語文書が辛う

  • ガロ=ロマン02/ローヌ川ワインと歴史紀行#27

    しかしながら、すでに実質的にローマ世界を担っていた彼らに、国のご都合で「市民」という名がついたにしかすぎない。 カラカラ帝のアントニヌス勅令(212年)は、法的に全属州自由民にローマ市民権を付与する画期的な通達であったが、属州ガリアの社会においては、すでに長らく「帝国の内なる市民」としての実態が存在していた。ローマ帝国の制度と文化は、もはやローマ本体から一方的に注ぎ込まれるものではなく、むしろガロ=ローマ人自身を通じて地方社会に深く根づいていたのである。 実際、ケルト系の旧貴族の中には、ラテン語教育を受け、ローマ式の三名法(トリア・ノミナ)を名乗り、ローマ法に精通したうえで、都市評議

  • ガロ=ロマン/ローヌ川ワインと歴史紀行#26

    古今東西、「交易」が物の移動だけで完結することはない。 定住する者が現れれば、やがて家庭を持つようになる。なぜなら、交易に従事する者のほとんどは男たちだったからである。マッセリアやエーグ=モルト、アルルといったローヌ川沿いの港町には、次第に異邦人居住区が形成され、そこに定住した男たちの伴侶となったのは、土地のガリア人女性たちだった。 こうして、地中海世界からやってきた父と、ガリア出身の母をもつ混血の子どもたちが、紀元前数世紀にわたり川辺の町々で生まれ育っていった。彼らは、父の言語、母の習慣、両者の宗教観、食生活、労働形態を融合させ、成長とともに独自の文化的混合体を形成したのである。こ

  • リヨンからジュネーブまで遡る05/ローヌ川ワインと歴史紀行#25

    窓から見つめていると、ローヌ川の姿は消えた。川はまず北西に向かい、町の外縁を抱きかかえるように迂回しながら、西へ転じていくのだ。森と住宅街が視界を遮り、熟練のドライバーの案内がなければ、ここが国境を越えたことすら気づかないかもしれない。道路の舗装がフランスとスイスで変わるわけでもない。ただ、ごく小さな検問所と、国旗の色が示すだけだ。 スタ=ジュリアン=アン=ジュヌヴォワ(Saint-Julien-en-Genevois)をかすめて進むと、徐々に都市の空気が混じりはじめる。前方の空がひらけ、路面電車の架線が頭上を横切る。川が再び現れたのは、ジュネーブ市街に入る直前、プレランス(Prail

  • リヨンからジュネーブまで遡る04/ローヌ川ワインと歴史紀行#24

    たしかに、ベルガルドには「Genissiat(ジュニシア)」と呼ばれるフランス初の大規模ダムがある。1948年に完成したこの重力式コンクリートダムは、戦後の混乱のさなか、国家の復興を象徴するインフラとして建設された。戦車のような躯体がローヌの流れを封じ込め、人工の湖が谷を埋め尽くしたとき、それは一つの文明が、自然に対して定義を与え直した瞬間だ。 水を塞き止めるということは、時間を蓄えるということでもある。ローヌの水は、もはや単なる流れではない。それはタービンを回し、送電線を介してパリやリヨンへと変換されていくエネルギーの塊だ。ここには、かつての水神や精霊の居場所はない。あるのは計算され

  • リヨンからジュネーブまで遡る03/ローヌ川ワインと歴史紀行#23

    街を過ぎると、ローヌは岩の谷に入り込み、流れは細く、力強くなる。ここから下流にかけての区間では、20世紀初頭から始まった一連の水力発電事業が、川の性格を大きく変えていった。特に1950年代以降の「コンビナ・ナショナル・デュ・ローヌ(CNR)」による治水・発電・航行整備の三位一体化政策は、この地を工学的に再編成していった。セイセル近郊にも小規模なダムと閘門(ロック)が設けられ、かつての自然流路は部分的に水路として再構築されている。 「この下に、かつての川筋が眠っているんですよ」 後部座席から僕がぽつりと声をかけると、ショファーは一瞬だけルームミラー越しに視線をよこした。だが、頷いただけで

  • リヨンからジュネーブまで遡る02/ローヌ川ワインと歴史紀行#22

    土曜日、ホテルの前に彼のベントレーが停まった。 ショファーは中年の、髭の混じった男だった。何度か顔を合わせたことがあるので、僕がフロントから出ると、無言のままドアを開けてくれた。 「お時間は自由にと伺っております。最終地点はジュネーブのホテルでよろしいですか?」 「はい。Four Seasons Hotel Genevaです」 「かしこまりました。レマン湖の畔ですね」 走り出したベントレーのキャビンは静かだった。電動サスペンションがD1084号線のわずかな起伏さえ吸収し、走行音はほとんど外へ逃げていく。 ショファーは、いつもどおり無口だった。車内で彼と言葉を交わすことはない。それがむし

  • リヨンからジュネーブまで遡る01/ローヌ川ワインと歴史紀行#21

    かつて「ルグドゥヌム」と呼ばれた町、リヨンは、ローヌとソーヌの合流点に身を置き、古代にはガリア三州の行政の中心地だった。 僕がこの町に降り立つのは、たいてい仕事のためだ。パールデュー駅のプラットフォームが、その訪問の起点となる。TGVがひっきりなしに発着するガラス張りのターミナル。Rue de la Villetteを抜けて、Rue Garibaldi方面へ向かうと、そこはリヨン第3区──この街の金融の心臓部だ。 象徴的なのは、Tour Incity。地上200メートルを超えるこのガラスの塔は、「地方都市リヨン」という言葉から連想される牧歌的なイメージを鋭く打ち砕く。その周囲には、保険

  • 五輪城址現象を憂う#02

    構想段階(2013〜2016)から、ちょいと追ってみよう。 2013年、東京がオリンピック開催都市に選ばれた時点で、晴海五丁目の再開発はすでに東京都の都市整備構想に組み込まれていた。このエリアは都の所有地であり、大会後には住宅地として整備・転用することが初期からの前提条件とされていた。 都はこれを「持続可能な都市モデル」と位置づけ、「子育て世帯中心の定住型コミュニティの創出」や「環境・防災性能の高い住宅インフラの導入」を掲げ、五輪レガシーを住宅政策に活かす意図を明示していた。 そして2016年。百合子ちゃんの知事就任直後、晴海五丁目西地区に関する用地処分と開発事業者の選定が行われた

  • 五輪城址現象を憂う#01

    晴海通りを走るバスに乗りながらつらつら考えた。 「五輪城址現象」は勝ちどきまで及ぶのか? 伊藤忠に管理者が替わった駅前のビルに中国人相手のマーケットが入り、ここが驚くほど混みあっている。見ていると‥住民なのか?遠方から来たのか?わからない・・どう考えてもABあたりに住んでいる連中が跋扈してるのだ。 んんんん。発信源は五輪城址なのか?そう思った。 五輪城址は「五輪レガシーの象徴住宅地」として、一時は東京都から大いにプロパガンダされたが、結局はご本尊の供給政策についての不見識が無様に露呈し、なおかつそれに市場環境の過熱、対策の遅れが重なったことで、本来の住宅政策的な目標から逸脱する結果と

  • 皇帝ドミティアヌスによる布告/ローヌ川ワインと歴史紀行#20

    しかし、こうして形成されつつあった属州内の自立的なワイン経済圏は、帝国中枢。とくにローマ本国の大土地所有層や元老院階級にとって、必ずしも歓迎すべき変化ではなかった。 とくにガリアにおける地元生産・地元流通の動きは、ローマ帝国本土の農業経済と市場を直接的に脅かす兆候をはらんでいた。属州の農民たちがワインを独自に生産し、地元都市で消費し始めたことで、ローマ本国からの輸出需要が縮小し、収益構造に歪みが生じたのである。 この動向に対して、明確な制度的対応を取ったのが、皇帝ドミティアヌス(Domitianus)による紀元92年の布告である。この布告は、帝国全体において属州での新たなブドウ園の開

  • アロプロゲス族とシラー種の登場/ローヌ川ワインと歴史紀行#19

    しかしここでもまた、現地での生産という夢を追う人々が現れた。南方から届くアンフォラや木樽に詰められたワインを待つのではなく、自らの土地で葡萄を育て、醸造し、川沿いの都市で供給網を完結させようとする試みである。ビエンヌやリヨンといった都市は、もともとローマ帝国の軍事・行政・交通・宗教・流通の結節点として発展してきたが、やがてその都市周辺で「生産を行う」という概念が芽生えはじめた。 背景には、輸入ワインの価格上昇や流通障害、さらには帝政期後半にかけての物価統制令(たとえばディオクレティアヌス帝による『価格勅令』)など、外部からの供給に頼る経済の限界があった。また、アンフォラによるワイン輸

  • ルグドゥネンシスへとローヌを北上するローマ支配/ローヌ川ワインと歴史紀行#18

    ガリア・ナルボネンシス属州の南部一帯が「制度化された農業地帯」として整備されるにつれ、その産物。特にワインは、北方ガリアへの内陸河川輸送によっても広く流通していくようになる。その舞台となったのが、ローヌ川(le Rhône)という物流動脈であり、特にその中流域にあたるヴィエンヌ(Vienna)からリヨン(Lugdunum)にかけての都市圏は、属州経済の「北の受け皿」として、属州ナルボネンシスの生産体制と密接に連動していくことになる。 なかでもビエンヌ(Vienna)は、属州ナルボネンシスとルグドゥネンシス(Gallia Lugdunensis)との境界に位置し、属州境を越えた物資・軍事

  • ボルドーの始まり/ローヌ川ワインと歴史紀行#17

    ちなみに余談だが・・ こうした退役兵たちが生産したワインは、当初、属州内のローマ系商人やナルボンヌを拠点とする大規模交易業者を通じて流通していたのだが、その取引条件は劣悪だった。彼らは、元兵士たちの「土地付き市民」であるという立場に対し、イタリア半島からの商人たちは容赦のない価格交渉を仕掛けた。大量に安く買い叩き、それを属州内外で利鞘を乗せて売るという構図である。 この構造の背後には、属州に張り巡らされたローマ的交易システムの「中央集権的な中間搾取構造」があった。属州住民であれ退役兵であれ、制度上はローマ市民となった彼らも、事実上は資本と輸送手段を持つ中間商人。特にナルボンヌのギリシア

  • ガリア・ナルボネンシス/ローヌ川ワインと歴史紀行#16

    ガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbonensis)は、北にローヌ川を境とし、西はピレネー山脈、東は地中海に面する広大な領域で、その中核は属州の首府ナルボンヌ(Narbo Martius)が置かれた。 この都市は紀元前118年、ローマによって建設された最初のガリア内ローマ植民都市であり、「属州ナルボネンシス」の名そのものが、この都市に由来する。 もちろん、その前史は、ギリシア人による「開拓と交易」マッセリア(Massalia、現マルセイユ)がある。マッセリアの商人たちの視線は前述のように「海商の論理」に基づくもものだった。ローマの発想は「土地の占有」と「制度的支配」による一体

  • バ=ラングドック地方に残るヴィラ・ルスティカ遺構群02/ローヌ川ワインと歴史紀行#15

    紀元2世紀、五賢帝の治世下で属州経営が安定しつつあったこの時期、ラングドック地方はその経済的理想が具現化された地域のひとつであった。ベジエ(Béziers)、ニーム(Nîmes)、モンペリエ(Montpellier)を中心とする一帯は、温暖な地中海性気候、乾燥した夏と長い日照、そしてなだらかな地形に恵まれ、ブドウ栽培にきわめて好適な自然条件を備えていた。 この地に建設されたヴィラ・ルスティカ(Villa rustica)は、搾汁・発酵・貯蔵・輸送までを一体化させた制度的な農業拠点であり、市場経済を前提とした「自立型の生産工場」として機能していた。ヴィラはしばしば土地の傾斜を利用して設

  • バ=ラングドック地方に残るヴィラ・ルスティカ遺構群/ローヌ川ワインと歴史紀行#14

    このように、海洋交易の中継者として立ち回っていたマッサリア人の商人的世界観は、やがてローマによる「定住と支配」の発想に呑み込まれていった。紀元前1世紀以降、ガリア・ナルボネンシス属州が確立されると、ローマはこの地を単なる交易拠点ではなく、制度化された農業供給地として再編成していく。とりわけ五賢帝時代に至ると、その構想はほぼ完成形を見せ、ガリア各地で需要が拡大したワインを、効率よく大量に供給するための「国家的農業体制」が、ガリア南部でも本格的に展開されることになる。 その中核に据えられたのが、ラティフンディア(Latifundia)と呼ばれる大農園制度である。未開拓地や再分配された土地

  • 海商の論理から帝国的地政の論理への転移02/ローヌ川ワインと歴史紀行#13

    中でも特に注目すべきは、ビエンヌ近郊の(既出)サント=コロンブSainte-Colombe丘陵部で発見された墳墓群である。 そこでは、地元のケルト系部族によって築かれた埋葬施設から、明らかに外来由来とみられるギリシア陶器・・たとえばアッティカ産の黒像式クラテル(混酒壺)やレキュトス(香油瓶)などが複数見つかっているのだ。 また、ヴァランス周辺の複数の集落跡からは、アンフォラの破片が集中的に出土しており、明確に集積された痕跡が確認されている。おそらくだが、ヴァランスは通過点ではなかったのだろう。ワインは同地で一時保管そして再配分が行われていたに違いない。つまりマッサリア系商人が定住してい

  • 海商の論理から帝国的地政の論理への転移01/ローヌ川ワインと歴史紀行#12

    彼らが取り扱った交易品の中で、最も主要なもの。それは、やはりワインである。 つまり、極論するならば、彼らのローヌ川への進出は、ワインを売るための販路とロジスティクスの開拓であったと言ってよい。 そもそもこの取引は、マッサリア(現マルセイユ)の建設以前。すなわち紀元前600年よりも前に、すでに地中海世界において実行されていた。 「ガリアに錫がある」という情報は古くから東方世界に知られており、錫は青銅器文明にとって欠かせない金属であった。青銅は銅と錫の合金であり、その精製には安定した錫の供給源が必要だった。したがって、エーゲ海世界にとってガリアの錫産地は、まさに文明維持の根幹に関わる“鉱脈

  • マッサリア商人03/ローヌ川ワインと歴史紀行#11

    フォカイア人とその後継者たちは、マッサリアからローヌ川に沿って内陸部へと徐々に浸透し、地中海とガリア内陸を結ぶ交易ルートを形成していった。 この動きは、後のローマ人にとって「開拓(colonia)の精神」の体現として評価された。 ローマの地理学者ストラボン(Strabon*, 紀元前1世紀)は『地理誌(Geographica)』第4巻において、マッサリア人が単にガリア人と交易しただけでなく、現地の女性と婚姻関係を結び、混血の子孫を残したことに言及している。ストラボンは、マッサリアの子孫たちが「野蛮なガリア人」を文化的に教化したと記し、ギリシア系開拓者を文明の担い手として高く評価した。同

  • 低学歴低意欲低収入「三低のひとたち」

    日本の少子化の本質は「少母化」だと、いままで何度も書いてきました。 実は結婚した女性の出産率は変化しいない。(しかし子を産まない家庭は増えた)変化したのは「子供を産まない日本女性が増えた」ことです。 実は・・これは極めて深刻的な、そして輻輳的な事態です。 これについて突っ込んだ解決を語るメディアも有識者も政治家もいない。そのことに僕は、強い失意を感じている。 何故本質から議論し、そこから解決を導き出さないのか・・ そんな気持ちでいながら、フィガロのニュースを見ました。 Comment l’immigration coûte 3,4% de PIB par an à la Fr

  • マッサリア商人02/ローヌ川ワインと歴史紀行#10

    しかしその栄光も、やがて陰る。紀元前2世紀、勢いを伸ばしたローマが南ガリアに進出し、属州ガリア・ナルボネンシスを設置すると、マッサリアはかつてのような自由な交易都市ではいられなくなった。ローマはマッサリアとの同盟を維持しつつも、より整備された軍道と港湾を築き、マッサリアのネットワークを吸収していった。マッサリアの商人たちもまた、やがてローマの許可のもとでしか交易できない立場へと転じてゆく。 それでも、彼らの残した足跡は深い。ローヌ川沿いの地層から見つかるギリシア陶器片、アンフォラの破片、ガラス製品、そして言葉にならない技術や価値観の断片。それらはすべて、かつてこの川を遡った商人たちが運

  • マッサリア商人01/ローヌ川ワインと歴史紀行#09

    こうしたローヌ川を利用した交易の先駆者たちはフォカイア人(Phocaeans)たちだった。 彼らは、古代ギリシア世界の中で最も航海技術に長け、最も遠くへ植民活動を行った民だ。 出自は、小アジア西岸、現在のトルコのイズミル近郊にあったフォカイア(Phocaea)という港町だ。 彼らがマッサリア、すなわち後のマルセイユを西方植民の中継拠点としたのは紀元前6世紀ころだったという。伝説によると、当地のケルト系部族の首長の娘ギュプティスが、フォカイア人の長と婚姻を結ぶことで定住が認められたということだ。 当時、ローマはまだ「地方都市」にすぎなかった。王政期(Regal Period)にあり、王

  • ビエンヌ散歩06/ローヌ川ワインと歴史紀行#08

    僕は、晩秋の早い朝にビエンヌの橋の上Pont routier de Lattre de Tassignyに立っていた。空は雨含みだった。 ローヌの水は鈍色に、穏やかに流れていた。川面を渡る風は冷たかった。 橋のたもとは殺伐としたコンクリートの建物・ビル群が点在するだけの橋だった。その川の並びには中世の町並みが折り重なっていたが、遠い。僕が歩いてきたのは川の東岸、旧市街からだ。ローヌ川を見つめるために早起きして出かけてきたのだが、橋は何処にでもありそうな産業道路だった。 橋の名前とされたジャン・ド・ラトル・ド・タシニーは、フランス陸軍の将軍だ。ナチス・ドイツによるフランス占領下でヴィシー

  • 武力ではなく、対話による解決の可能性を模索し続けること

    イスラエルとイランという二つの国家の対立は、宗教やイデオロギーの衝突と見えますが、実際は、安全保障、核抑止、地政学、そして国内政治といった複雑な要素が絡み合っています。なかでも、イスラエルによるイラン核施設への先制攻撃の是非は、単に両国間の問題で終わらず、中東地域全体の安定に大きく影響を及ぼす重大な判断となる。 イスラエルにとって、イランの核兵器開発は国家の存立を脅かす脅威と見なされています。 たしかに、イラン政府が過去に「イスラエルを地図から消す」といった過激な表現を用いたことは事実です。それがプロパガンダであったとしても、もしイランが実際に核兵器を保有すれば、その脅威は単なる言

  • 【恨みは部下が背負う/耶律楚材#06

    楚材自身には、帝オゴタイの寵愛があったため、表立った排斥や罷免には至らなかった。だが、その「嫌がらせ・冤罪」は、彼の部下たちに降り注いだ。ある地方では、楚材が派遣した徴税官が軍人によって吊るされ、責任は「楚材が使う文吏が無礼であった」とされて握り潰された。あるいは、楚材に登用された者の家族が、無実の罪で投獄され、楚材が口を出せば「帝の信任を笠に着て、身内をかばうか」と言われた。 『湛然集』の中には、こうした状況を暗に示す詩がいくつか残されている。た彼はこう記す。 > 「堯舜之道難行,忠信之士多辱。雖為朝廷所用,亦為權貴所猜。」 「堯舜の道を行うは難く、忠信の士はしばしば辱めを受

  • 【正義を通し恨みを背負う/耶律楚材#05

    チンギス・ハーンが崩御し、帝国の指導権が空位となった1227年以降、モンゴル帝国は一時的な政治的空白の中にあった。この混乱を収めたのが、チンギスの第三子オゴタイである。1229年、カラコルム近郊で開催されたクリルタイにおいてオゴタイが大ハーンとして即位したことで、帝国は新たな段階へと進むこととなる。征服から統治へ。帝国の持続と管理を意識した政治体制の構築が求められる時代となった。その制度的な転換を担ったのが、耶律楚材だった。楚材はチンギス存命中は彼に従って西征に参加し、政治顧問としての実務に従事していたが、チンギス没後は、オゴタイ政権下において最も重用される存在となっていった。 12

  • 當調和法與德/耶律楚材#04

    1215年の中都陥落後、金王朝の政権中枢は南の開封へと遷移し、北部の実効支配力は著しく低下した。この空白を突いて、旧契丹系の勢力が華北と満洲の境界域において再度自立の動きを見せた。特に注目されるのが、耶律留哥Yelü Liugeを盟主とする自称「東遼」政権である。 耶律留哥は、遼朝の宗室に連なる人物であり、かつて金に滅ぼされた契丹の復興を標榜した。彼の勢力は遼東半島から遼西、さらには満洲方面に及んだが、支配範囲は限定的であり、国家的統治機構としての整備は不十分であった。 当初、耶律留哥は金朝に敵対的な姿勢を取り、また金に敵対するモンゴル側と一時的に提携した。この段階でモンゴルにとって

  • 歴史は、時に同じ旋律で響く/耶律楚材#03

    テムジンの最初の東進は、西夏(タングート)を越えて中原へと迫る道であった。 1209年、まず西夏王国に遠征し、その臣従を認めさせると、そのまま東に舵を切る。標的は、かつて契丹を破り、燕雲十六州を奪った金(ジン)王朝だ。 1211年、テムジンは、クリルタイの決議を経て、金朝討伐を命じた。彼は当初から掠奪目的の短期遠征を考えていなかった。漸く国家としての構造を整え始めていたモンゴル帝国の「領土戦争」の標的として、テムジンはかつて契丹を滅ぼし、中原の北辺を領した女真族の王朝・金を見たのだ。 たしかに金王朝の創建者アグダは、猛き征服者だった。だが、百年の栄華の後、王朝は南遷に備えて首都を中都

  • 中南海の北縁で出会ったもの02/耶律楚材#02

    九世紀の終わり、唐王朝が衰退を深めるなかで、中国の北辺にはいくつかの遊牧民族が台頭しつつあった。そのひとつが、契丹(きったん)と呼ばれる部族連合である。契丹族は、現在の中国東北部(遼寧省北部からモンゴル高原東南)にかけての地域を拠点とし、遊牧と狩猟を基盤とする生活を営んでいた。 その出自はモンゴル系ともツングース系とも言われるが、いずれとも断定しがたい。彼らは古くから中国史の北方民族として断片的に現れ、唐の時代には冊封関係のもとに存在を認められていたが、独自の国家体制を持つまでには至っていなかった。 この契丹族を統一し、はじめて国家を築いたのが、耶律阿保機(やりつ・あほうき)Yēlǜ

  • 中南海の北縁で出会ったもの/耶律楚材#01

    北京の春は、埃っぽい。 三月下旬。中央政府関係の会議と、事業者向けの訪問調整のため、僕は北京市中心部に滞在していた。 会議を終えた午後、党本部から宛がわれた通訳の劉氏とともに、天安門の北にある大通りを歩いていた。空は低く、街路は広く、人の流れは絶えない。まさに大国の首都といった風景だったが、僕にとっては、むしろこうした空気の重さに安心感があった。 北京の人々は気配りが細かく、手続きや段取りも予想以上に整っている。だからいつも思うのだ。もしも中国で人生を終えるなら、きっとこの街がいい——と。 劉は三十代前半の控えめな人物で、行政出身らしく、話す内容は常に要点を押さえていた。 通訳というよ

  • 民主主義と帝国を共存することは可能だが、それを持続することは出来ない#02

    「民主主義と帝国」の関係を考えるとき、考察すべきは、中国とロシアという非民主主義体制のもとで帝国的拡張を追求している国家とのことだ。 ⑸中国:合法的権威と超法規的帝国 中華人民共和国は、形式上は「人民による統治」を謳いながらも、その実体は中国共産党による一党支配と、中央の計画的覇権構造である。新疆、チベット、香港、そして台湾問題において見られるように「一つの国家」の枠組みの中に異質な政治文化・宗教・民族を統合することが国家目標とされている。 ここでは民主的な「政治的自己決定権」は否定され、ホッブズ的な「秩序」の維持が最優先されている。さらに、経済的には「一帯一路」を通じて経済的支配=

  • 民主主義と帝国を共存することは可能だが、それを持続することは出来ない

    ひとつの国家が、民主主義と帝国を共存させることは可能か。だが、それは持続しうるのか? 歴史を俯瞰すると、ある時点において民主主義と帝国が、同一国家の中で共存した事例は確かに存在する。しかしそれは、常に不安定な均衡の上に成り立っており、やがてどちらか一方を犠牲にする選択を迫られる。この不可避の二者択一こそが、歴史のなかに繰り返し現れる法則である。 ・・その話をしたい。 BBC「イラク戦争の亡霊が漂っている」…国家情報長官「イランは核兵器製造してない」、トランプ氏「間違えている」 【読売新聞】 【ワシントン=淵上隆悠】米国のトランプ大統領は20日、イランの核開発の進行状況を巡り

  • 大統領が戦争を「企業活動」として捉えたとき

    アメリカという国家が、いわば巨大な株式会社であるとするならば、大統領はその最高経営責任者(CEO)であり、国民は株主です。ドナルド・トランプは、おそらくその構図を最も忠実に受け入れ、実際にそれに基づいて政治判断を下してきた人物ですな。 だからこそ、僕は指導者としての彼を支持しているのです。 もちろん好悪は別です。僕は、嫌いでも有能な奴は有能として認めることにしてます(@0@) 彼にとって政治とは、理念や美徳を説く場ではなく、企業経営と同じく「株主に最大の利益をもたらすための意思決定プロセス」なのだと思う。 そんな企業人を大統領にしてしまうのが、アメリカの凄さです。 国家は「国民が利

  • 使い古されたドミノ理論に暗然とする

    今回のイランとの衝突において、僕が見ている戦略的特徴は「エスカレーション」です。これは単に相手国に損害を与えるという戦術的な意味ではありません。むしろ本質的には、戦争を段階的に拡大させることで、欧米諸国を否応なく巻き込む構造を作り出すことに目的があります。 ゼレンスキーの動きも、まさにこの構図と重なります。彼にとって重要なのは、戦場での勝利そのものよりも、西側諸国に「戦争への直接的介入の正当性」を納得させることです。それこそが、彼の政権、ひいては彼自身の生き残り戦略の核心だからです。 そして、その正当性を訴える際に持ち出される理屈が、あの使い古された「ドミノ理論」にほかなりません。僕

  • ビエンヌ散歩05/ローヌ川ワインと歴史紀行#07

    いつでも文明は、自分のクローンを各地に作る。 現代でいうならば、それは世界を席巻した「アメリカ文明」だろう。彼らは、軍事基地だけでなく、マクドナルドとスターバックスとアップルストアを携えてやってくる。 コカ・コーラは、かつてのローマの浴場に等しい。ハリウッド映画は、古代の剣闘士たちに代わる公共の娯楽であり、英語はラテン語の代替言語となった。ウォール街はフォルムであり、GAFAのサーバーは属州にまで伸びるアクアダクトである。 かつてローマが道と水道と都市制度を属州に持ち込んだように、現代のアメリカ文明もまた、情報網と資本と消費のフォーマットを、あらゆる地域に複製している。・・その目的は必

  • ビエンヌ散歩04/ローヌ川ワインと歴史紀行#06

    2017年、フランス南東部の町ビエンヌ(Vienne)を見下ろすローヌ川の対岸、サント=コロンブ(Sainte-Colombe)で、考古学界を揺るがす大発見があった。それは、都市計画にともなう事前調査の一環として始まった、何の変哲もない開発用地での掘削作業の中で起きたものである。 地中から現れたのは、驚くほど良好な保存状態を保ったローマ時代後期のモザイク床と、それを囲む邸宅建築群だった。数々のフレスコ画、精緻な床装飾、個人浴場、柱廊を備えた中庭、さらには倉庫と見られる構造まで──まさにローマ都市文化の一断面が、土中からそのまま蘇ったのである。 サント=コロンブは、ビエンヌ旧市街の対岸

  • ローヌとリヨン02/ローヌ川ワインと歴史紀行#02

    ローマ帝国がローヌ川上流域に軍事的・行政的な支配を確立したのは、紀元前2世紀末から紀元前1世紀にかけてのことだ。特に紀元前125年以降、ローマは南ガリアへの影響力を強め、やがてガリア・トランサルピナ(後のガリア・ナルボネンシス)として属州化した。その主要な陸路が、イタリアからローヌ川沿いに北上する「ドミティア街道(Via Domitia)」であり、ローマにとってローヌは単なる自然の川ではなく、軍団の移動と行政命令の伝達を担う戦略的動脈であった。 とりわけローマの地理的知識が一気に深まった契機は、紀元前58年、カエサルによるガリア遠征である。ヘルウェティイ族が集団移動を開始し、レマン湖

  • ローヌとリヨン01/ローヌ川ワインと歴史紀行#01

    ロワール川の長い流れに沿って、シャトーの樽積みを数え、修道院の影を追い、ワインと歴史が折り重なる土地の記憶を拾い集める。ひと息ついたその先に、自ずと視線はもうひとつの川へ向かってしまう。 それは、フランスを南北に貫くローヌ川である。 ローヌには、ロワールとは異なる時間の速さと、異なる文明の気配がある。古代から地中海とガリア内陸とを結ぶ、もうひとつの大動脈。それがこの川だ。 もしロワールの流れを「フランスの背骨」に沿ってなぞる穏やかな時間とたとえるならば、ローヌはむしろ「血流」と言うべきだろう。アルプスを源とし、レマン湖を経て一気に南下する水勢には、地形の劇的な変化と、文明の衝突と交歓の

  • ビエンヌ散歩03/ローヌ川ワインと歴史紀行#03

    帝国の政治的秩序が徐々に緩みつつあったこの時代、統治の論理は単一性ではなく、多様性の調整によって保たれていた。異なる民族、異なる習慣、異なる宗教観が都市空間のなかで共存するには、何らかの共通の語り。倫理的規範や救済の物語が求められる。 ビエンヌはまさに、そのような多様性の交差点に位置していた。 ローマ帝国の南北交通の要衝であり、軍事拠点としてだけでなく、交易都市、行政都市、そして宗教都市としての複合機能を備えたこの町は、周囲から多様な人々を引き寄せていた。ラテン語を話すローマ市民だけでなく、ギリシア語を使う東方出身の商人、アリウス派のゲルマン人、地元のケルト系住民、さらにはユダヤ人共同

  • ビエンヌ散歩02/ローヌ川ワインと歴史紀行#02

    さらに重要なのは、軍事戦略上の再配置である。ビエンヌの周囲にはローマ軍の補助部隊(auxilia)や斥候部隊の駐屯地が置かれ、ローヌ河谷を南北に移動する主力軍団の通過点・補給地として機能した。北はリヨン(Lugdunum)、東はアルプスを越えて北イタリア、南はマルセイユ(Massalia)やナールボンヌ(Narbo Martius)へ至る軍道が接続され、ビエンヌはそのハブ都市となる。 つまり、ビエンヌはこの段階で「ローマ帝国の統治・防衛・輸送・交易」という四つの機能を同時に担う中枢都市へと転換されたのである。その変化は急激でありながら、地理的な必然とローマの政策意図に沿って計画されたも

  • 【ビエンヌ散歩01/ローヌ川ワインと歴史紀行#01】

    パリからビエンヌ(Vienne, Isère)へ行くには、まず高速鉄道TGVに乗ってリヨン(Lyon)まで南下する。出発駅はパリ・リヨン駅(Gare de Lyon)。TGVでリヨン・パールデュー駅(Gare de Lyon Part-Dieu)までは約2時間の行程である。ビジネス街の中心にあるこの駅で、在来線のTER(Train Express Régional)に乗り換える。 リヨンからビエンヌまでは、およそ30分。ローヌ川(le Rhône)に沿って南へ向かうローカル線の車窓には、やがて川とともに広がる段々畑や、岩盤に張りつくようなブドウ畑が見えてくる。途中に通過するのは、コンド

  • 旅とは、風景を歩くことではなく、いにしえの人々が抱いた記憶の中に足を踏み入れること~おわり/ロワール川散歩#81

    その封筒は、机の上に並べられた書類の束の上に乗っていた。いつものように大事な書類には黄色い矢印の形をしたポストイットが貼りついている。何気に切手を見るとロワール地方のものでだった。消印はトゥール。送り主は市の観光局だった。何かな?と思った。開封した。 “Invitation officielle – Mémoire des Pierres” 《記憶の石と歩く——語られる風景の中を》 ジャン=リュックからだった。三年ぶりだ。あの旅のあと、彼は「歴史を生きる」道を選んだ。そして今、彼自身が立ち上げたプロジェクトの初の国際発表会が、パリ市庁舎前の文化フォーラムで開催されるという。 “あなたと

  • ロワール川夢幻03/ロワール川散歩#80

    正午をかなり回って、ホテルへ戻った。僕らはカウンターに挨拶をして車を受け取り、ホテルを出た。 「まだ、1時間以上はあります。どこかに寄りますか?} 「前の酒屋に寄ろう」 Caves de Pouilly sur Loire(39 Av. de la Tuilerie, 58150 Pouilly-sur-Loire)ホテルのほぼ正面、道を挟んだ斜め向かいにある。 灰色の石造りの建物に、緑がかった木製の看板が掲げられ、「CAVES」の文字が金色で塗られていた。 扉を押すと、小さな鈴が澄んだ音を立てた。 中はひんやりとしていた。外の陽射しが強かったぶん、空気の密度が変わったように感じる。

  • ロワール川夢幻02/ロワール川散歩#79

    「あ。Relais Les 200 Bornesが見えてきた」 僕が言った。 赤い屋根と古びた看板。川沿いの道から少しだけ外れた場所に、その宿はぽつんと佇んでいた。 それはオーベルジュと呼ぶには素朴で、レストランとカフェと売店が一つになったような、町でも村でもない場所にだけ許される混成的な空気を纏っていた。 ジャン=リュックは黙ったままうなずいた。そして僕と一緒に、ゆっくりと扉をくぐった。 中に入ると、奥に長い低い天井、木の梁がそのまま残され、壁はチョークのような柔らかな白。ワインボトルがずらりと並ぶ棚の横に、小さな黒板メニュー。ラジオが小さな音でシャンソンを流していた。 テーブルの上

  • ロワール川夢幻01/ロワール川散歩#78

    「それと……このあたりは、もう“上流域”に入ってるんですよね」 ジャン=リュックが言った。 「うん、確かに。先日までいたオルレアンやトゥールに比べると、川がずいぶん静かで、素朴に見えるね」 「ええ。水の表情も穏やかですし、周囲の空気に、“はじまり”の匂いがある。まだ誰にも触れられていないような、そんな原初の静けさが残っているんです」 彼は立ち止まり、流れをじっと見つめた。 「このあたりでは、川はまだ“自然”と一体です。人工の痕跡が薄くて、川がそのまま風景の呼吸になっている。かつて修道士たちは、この土地を歩きながら祈りをささげていたはずです。信仰と土地が、まだ分かたれていなかった時代の空

  • プイィ=フュメのオーベルジュLe Coq Hardi02/ロワール川散歩#77

    夜の間、僕は何度か目を覚ました。理由はわからない。夢の底で、川のせせらぎが何かを囁くように聞こえていた。遠くのフクロウの声さえ、どこか現実と夢の境を曖昧にした。 やがて夜がほどけていく。窓の外がゆっくりと白んでいくのに合わせて、川の向こうの丘が、霧のヴェールをまといながら輪郭を取り戻す。畝を描くブドウ畑は、まるで土地そのものが静かに呼吸をしているようだった。 テラスに出ると、空気はひんやりとしていて、湿った石と草の匂いが肌に沁みる。風はない。音もない。川面だけがかすかに揺れ、朝の光が斜めに差し込んで、波紋をやさしく撫でていた。 朝食室では、白いリネンのクロスがかけられた小さなテーブルに

  • プイィ=フュメのオーベルジュLe Coq Hardi/ロワール川散歩#76

    少し走ると、小さな案内板が見えてきた。Le Coq Hardi(42 Av. de la Tuilerie, 58150 Pouilly-sur-Loire)——ロワール川を見下ろす、丘の中腹に建つオーベルジュだった。 レセプションに立ち寄ると、2階の部屋に案内された。今回も、ジャン=リュックとは隣同士の部屋だった。 窓を開けると、ロワール川が一望できた。眼下の庭越しに、大きなテラスが広がっている。その先には、川と対岸の畑。そして、午後に歩いたプイィのシレックスの区画も、角度を変えて、夕光に照らされているのが見えた。 客室はこぢんまりとしていたが、窓の外に広がる景色が、そのすべてを補っ

  • プイィ=フュメの村歩き03/ロワール川散歩#75

    僕らはDomaine Jonathan Didier Pabiotの畑を抜け、もう一つの斜面に出た。そこには粘土石灰質の土壌が広がっており、シレックスよりも柔らかな印象を受ける。 近くにはDomaine des Rabichattesというドメーヌもあるが、徒歩で行くには少しきつい距離だ。 「ここは“テール・ブランシュ”ですね。サンセールにもありました」 「このあたり、本当にブドウ畑の“地層図”みたいだ」 「ええ。そしてそれが、そのまま味になる。シャブリでは“張る”、フュメでは“薫る”、サンセールでは“跳ねる”——同じソーヴィニヨン・ブランが、地質によってこれほど姿を変えるのは、やはり

  • プイィ=フュメの村歩き02/ロワール川散歩#74

    僕はベンチに座って、城を見上げた。 「ワインは、血筋の記憶であり、同時に、人生の選択の痕跡でもある。飲む側にとっては“贈り物”かもしれないけど、造る側にとっては、ある種の“犠牲”でもあるのかもしれないね」 ジャン=リュックは笑って言った。 「それでも、こうして僕らが飲んで“美味しい”と感じる。その一言で、彼らはまた来年の春も、剪定ばさみを持てるのかもしれません」 「そうだね。一杯のワインは、長い物語の“返事”なんだ。感謝とか、共鳴とか、名前のない返事。 それが、土の下に届くような気がするから、こういう場所で飲むワインは、心に残るんだろうな」 風がまた一度、静かに吹き抜けた。 空はどこま

  • プイィ=フュメの村歩き01/ロワール川散歩#73

    「ホテルですが、予約しました。そろそろプイィ=フュメへ行きましょうか」とジャン=リュックが言った。 車に乗り込むと、坂道を下り、シャヴィニョルの村を抜けていく。石造りの家々の間を、穏やかな午後の陽光が縫うように差し込んでいた。ロワール川を目指して東へ進む道は、やがて緩やかな丘陵を抜け、視界が開けてくる。 「プイィ=フュメまでは、およそ20km。ロワール川を向こう側に渡ります」 「ロワールを挟んで、まったく違う表情のワインが生まれる土地だよね」 「そう。サンセールと向き合う丘の上にあるのが、プイィです」 道路脇の景色が、徐々に変化していく。シャヴィニョル周辺の白い石灰岩の斜面から、よりな

  • サンセールの村歩き06/ロワール川散歩#72

    フロントでチェックアウトを済ませ、荷物を手に外へ出ると、ジャン=リュックがすでに車のエンジンをかけて待っていた。 「アンリ・ブルジョワにはお昼までに到着します」彼はそう言って、窓を少し開けた。 「見学が終わったら、ランチを頼んでおいたから、昼はあそこで済ませよう」 目的地はすぐ近くだった。アンリ・ブルジョワSAS Henri Bourgeois(18300 Sancerre,)はサンセールの北端、シャヴィニョル村(Chavignol)に本拠を置く大手生産者であり、この地域の名を世界に広めた先駆者のひとつでもある。 車はゆっくりと村を抜け、Chp du Cormier通り、丘の間を縫う道

  • サンセールの村歩き05/ロワール川散歩#71

    僕らはお礼をして、村へ出た。裏の広場へ歩いてみた。畑が一望できる、その中央には、葡萄の房を抱えた古風な彫像が立ち、周囲には地元ワイナリーの名前を記したプレートが並んでいた。 目の前にOffice de Tourisme du Grand Sancerrois(Esp. Prte César, 18300 Sancerre,)があった。 「寄っていいかな?」僕が言うと「もちろんです」とジャン=リュックが笑って応えた。 足元に「Esplanade Porte César(ポルト・セザール広場)」という標識があった。 かつてローマ時代の城門があった場所だとジャン=リュックが教えてくれた。 「

  • ロワール川ワインと歴史を訪ねる旅: トゥール・シノンからオルレアン・サンセールまで ロワール川紀行

    ロワール川ワインと歴史を訪ねる旅: トゥール・シノンからオルレアン・サンセールまで ロワール川紀行 www.amazon.co.jp 300円 (2025年06月20日 22:32時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 『ロワール川上流紀行──ワインと風土の交差点を歩く』 本書は、フランス・ロワール川流域のうち、トゥールより上流の地域──オルレアン、サンセール、プイィ=フュメ周辺──を対象とした、ワイン文化と歴史・地理に焦点を当てた紀行エッセイである。 著者はこの地域を実際に訪れ、地元の案内人ととも

  • 米国内の「グローバリスト系シンクタンク」が戦争拡大構想の中心にある

    今回のイランとの衝突において、僕が見ている戦略的特徴は「エスカレーション」です。これは単に相手国に損害を与えるという戦術的な意味ではありません。むしろ本質的には、戦争を段階的に拡大させることで、欧米諸国を否応なく巻き込む構造を作り出すことに目的があります。 ゼレンスキーの動きも、まさにこの構図と重なります。彼にとって重要なのは、戦場での勝利そのものよりも、西側諸国に「戦争への直接的介入の正当性」を納得させることです。それこそが、彼の政権、ひいては彼自身の生き残り戦略の核心だからです。 そして、その正当性を訴える際に持ち出される理屈が、あの使い古された「ドミノ理論」にほかなりません。僕

  • サンセールの村歩き03/ロワール川散歩#70

    朝のサンセールは、まだ静けさの中にあった。 僕らがホテルの石造りの玄関を出ると、澄んだ空気が頬を撫でた。細くうねった坂道には人の気配がなく、屋根の上で鳩が一羽、首をすくめて朝の太陽を待っていた。 「まだ時間に余裕がありますから、村の北の丘を歩いていきましょう」 ジャン=リュックはそう言って、手にしていたiPodを見た。 僕らは村の旧市街へ向かって、ゆっくりと坂を下っていった。道沿いには淡いピンクのバラが石壁のあいだから顔をのぞかせ、開いた窓からはパンを焼く香りが流れてきた。 「この道、昔は“Le Chemin des Moines”と呼ばれていたんです。修道士たちが礼拝と畑仕事のあいだ

  • サンセールの村歩き02/ロワール川散歩#69

    ひとしきり写真を撮り終えると、僕はカメラをテーブルに戻し、窓辺に腰を下ろした。静かだった。鳥の声と、風に揺れる葉音だけが、遠くから響いてくる。 「少し、村を歩こうか?長いドライブで疲れてるかな?」と僕が言うと、ジャン=リュックは笑いながら首を振った。 「このまま出ましょう」 僕らは部屋を出て、ホテルの裏手の小径を辿ると、すぐに村の古い中心部へと入った。坂の多い村だった。足元は滑らかな石畳で、建物の壁はどれも厚く、時の重みに沈んでいるようだった。 「この村、かつてはローマ時代の砦の跡だったと言われています。中世には修道士たちがワイン造りを広めました」 坂を登りきると、小さな広場に出た。そ

  • サンセールの村歩き01/ロワール川散歩#68

    14時近く、Restaurant De L'Hotel Le Laurier(6 Rue de la Vrillière, 75001 Paris)で少し遅めの昼食をとった。白アスパラの前菜と魚介のパイ包み焼きに、グラスで供されたのはサンセールのソーヴィニヨン・ブラン。標高差のある畑が生み出す、直線的でミネラル感のある味わいが、料理に美しい陰影を与えていた。 食事を終えて、そのまま向かったのが、Domaine Joseph Mellot S.A.(Route de Ménétréol, 18300 Sancerre)。ここはこの地方でも屈指の名門で、訪問者用のテイスティングルームが整っ

  • オルレアンのドメーヌ歩き03/ロワール川散歩#67

    斜面の道が切れるところで、ジャン=リュックは車を止めた。外に出ると、南向きの斜面が大きく口を開いていた。遠く、ロワールの流れが見える。僕はその広がりを眺めながら、ふと問うた。 「ブルゴーニュ公国は、このあたりとも関係あったしね」 ジャン=リュックはうなずきながら答えた。 「商業的には、深くね。政治的には敵だったけど。15世紀、ブルゴーニュ公フィリップ善良公はイングランドと組んで、シャルル7世の王位継承を妨害しました。だからロワールは“戦線”だった」 彼は視線を川の向こうへ投げた。 「でもね、この川の南側って、簡単に“フランスの土地”と言い切れないんですよ」 「どういう意味?」 ジャン=

  • オルレアンのドメーヌ歩き02/ロワール川散歩#66

    次に向かったのは、わずか数キロ南、Mareau-aux-Présの郊外にあるClos Saint‑Fiacre(クロ・サン・フィアクル)。560 rue de Saint‑Fiacre。クロ・サン・アヴィから車で10分足らずの道のりだったが、風景は微妙に表情を変えていた。畑の並びはより開け、空の広さが一段と増したように感じた。小麦畑と葡萄畑が斑模様に広がり、その向こうには、どこか古い巡礼の道に沿って建てられたような、灰色の教会の尖塔が遠くに突き出していた。 「見えるあれがサン・フィアクル教会Église Saint‑Hippolyte-et‑Saint‑Fiacre(385 rue S

  • オルレアンのドメーヌ歩き/ロワール川散歩#65

    翌朝、僕らはオルレアンの〈Mercure Orléans Centre Bords de Loire〉を出た。空は雲一つなく澄みわたり、ロワール川のゆるやかな流れが朝日に照らされてきらきらと光っていた。朝食はジャン=リュックした後、一度部屋に戻って仕事を済ませて、レセプションへ行った。ジャン=リュックは既に待機してくれていた。 「クルマはレンタルしました」 ホテルを出ると、彼がドアを開けてくれた。 「助手席がいいな」と僕が言うと彼が笑った。 そして、助手席のドアを開けてくれた。 「今日も気持ちの良い天気です。葡萄も喜んでいるはずですよ」 「ロワール上流の品種って、意外に知られてないよね

  • オルレアンという聖都市を見つめて/ロワール川散歩#64

    ロワール川中域に位置するオルレアンは、その地理的・戦略的な重要性ゆえに、古代より幾度となく歴史の舞台となってきた。特にフランク王国の成立と軌を一にするように、オルレアンもまた、その政治的な性格を徐々に変化させ、やがては独自の王国首都として、さらにはフランス王権の一端を担う都市として、その名を歴史に刻むことになる。 紀元前にはガリアの要衝ケナブム(Cenabum)として知られ、カルヌート族の中心地だったこの地は、紀元前52年のユリウス・カエサルによる征服と都市の破壊により、ローマ化の波に呑まれた。だがその後、ローマ帝国の属州都市「アウレリアヌム」として再建され、軍事・商業の結節点として

  • アメリカ発「T1モバイル」誕生―トランプ・オーガニゼーションの通信事業参入が意味するもの

    本日6月17日、トランプ・オーガニゼーションが発表した新たなスマートフォン「T1フォン」と、それに付随する携帯通信サービス「T1モバイル」は、単なる新商品の枠を超えて、現在のアメリカの政治・経済・通信インフラをめぐる潮流を象徴する試みとして注目を集めている。 https://www.trump.com/media/trump-mobile-launches-a-bold-new-wireless-service 価格は499ドル前後。サービスプランは月額47.45ドルで、通話・テキスト・データが使い放題。さらに24時間対応のロードサービス、遠隔医療(バーチャル診察、メンタルヘルス支

  • オルレアンの再生と歴史を語る夜/ロワール川散歩#63

    テーブルの上に、ローリエの葉をあしらった白い花と、細く磨かれたカトラリーが整然と並んでいた。天井から吊るされたアイアンのシャンデリアが、うっすらと琥珀色の光を灯している。Le Lièvre Gourmand(28 Quai du Châtelet, 45000 Orléans)である。 Dossier-de-presse-Le-Lievre-Gourmand.pdf 2.82 MB ファイルダウンロードについて ダウンロード 「アミューズでございます」 運ばれてきたのは、グリーンアスパラガスのムースに透明なトマトのジュレを重ねた一皿。グラスに

  • オルレアンの町へ03/ロワール川散歩#62

    午後の陽がやわらかくなりはじめた頃、僕たちはレストランを後にした。 ロワールの風が再び頬に触れると、体の奥にたまっていたワインの余韻が、ゆっくりと風に溶けていくような気がした。 「じゃあ、川を渡りましょう」 ジャン=リュックがそう言って、僕たちはポン・ジョルジュ=ヴァルベール橋(Pont George V)に向かった。この橋は現在のオルレアンの主要な橋のひとつだが、かつてこの場所は戦略的な渡河点として重要視されていた場所だった。 「ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放するために指揮した戦いは、正面からの突撃ではありませんでした。川と堤をどう読むか、どこで敵の意識をそらし、どこに決定的な一

  • オルレアンの町へ02/ロワール川散歩#61

    Maison de Jeanne d’Arcを出ると、ジャン=リュックはひと呼吸置き、まるで自分の中にある"巡礼の地図"を広げるように口を開いた。 「これから大聖堂へ向かいますが、正面ではなく南翼廊側の扉を使いましょう。観光ルートではなく、巡礼者がかつて通った導線です」 「その前にOffice de Tourisme d'Orléans Métropole(23 Pl. du Martroi, 45000 Orléans)に寄りたいんだが、いいかな」 僕がそういうと、ジャン=リュックが「おや?」という顔をした。 「知らない町へ行くと、必ず観光案内所へ寄ることにしてるんだ」 「了解です。

  • オルレアンの町へ/ロワール川散歩#60

    ホテルを出ると、ロワール川は朝の光を受けて銀青色に輝いていた。街の目覚めはまだ途中のようで、車の音も少なく、時折、自転車のタイヤが石畳をきしませて通り過ぎるだけだった。 ジャン=リュックが、僕の隣でゆっくりと歩を進めながら言った。 「ロワイヤル通りをそのまま北に上っていきましょう。オルレアン旧市街の背骨のような通りです」 なるほど、まっすぐな道の両側には、白い石造りのファサードが整然と並び、通りの先にかすかに見えるのはサント=クロワ大聖堂の尖塔だった。 「この通り、整ってるけど、どこか"新しすぎる"気もするな」 「はい。実は、ほとんど戦後に再建されたものなんです。1940年6月、ドイツ

  • チェトレ公設市場の顔02/ロワール川散歩#59

    ジャン=リュックがホテルに現れたのは、午前九時をほんの少し過ぎたころだった。 ガラス張りのロビー越しに彼の姿を見つけると、彼は手を小さく振った。 意外だったのは、ジャン=リュックがジャケット着用で来たことだった。それなりに考えてのことなんだろうな。 「おはようございます。列車が思ったよりスムーズで、駅前も渋滞しておりませんでした。お待たせしませんでしたか?」 「いや、むしろちょうどいいタイミングだよ。朝食は頼んでおいたよ。食事しながらスケジュールを確認しよう」 僕らはテーブルに着いた。真鍮のプレートに載ったパン・オ・ショコラと層の薄いクロワッサン、瓶詰めの苺コンフィチュール、そして湯

  • チェトレ公設市場の顔/ロワール川散歩#58

    早朝7時過ぎ。ホテルを出て、川沿いの遊歩道を歩いた。チェトレ公設市場まで行くつもりだ。 歩き始めると、ロワール川はまだ眠っているように静かで、ほとんど風もない。朝の光の空を映し、街のシルエットがやわらかく浮かび上がっていた。 さすがに、こんな時間に歩いている人は他にいなかった。 僕はゆっくりとした足取りで遊歩道を進みながら、橋の手前で立ち止まり、対岸を見つめた。 ロワール川は、まだ朝の光をまとわない灰銀色の水面をたたえて、ほとんど動きもせず横たわっていた。 その姿は、まるで時の流れから切り離された静寂そのもののようだった。 この川が、どれほど多くのものをこの地にもたらしてきたのか。 ロ

  • オルレアン・ホテルメルキュール・オルレアン/ロワール川散歩#57

    19時33分、Gare d'Orléansに到着。駅のホームには、初夏の名残を含んだ風が吹いていた。ソーミュールからの移動は2時間強だったが、長い旅路のようにも感じられるのは、ロワール川の穏やかな空気のせいだろうか。 駅の出口に出ると、すぐに数台のタクシーが並んでいた。予約の必要もなかった。運転手に「メルキュール、ロワール川沿いの」とだけ伝えると、彼は軽く頷いて走り出した。 市街の中心を抜け、ロワール川をちらりと左手に見ると、ホテルはすぐそこだった。わずか5分。街が夜の顔に変わる気配を確かめるには、ちょうど良い長さだった。 Mercure Orléans Centre Bords

  • TERの車窓から見つめるロワール・ワイン#02/ロワール川散歩#56

    トゥールからシノン、そしてソーミュールへ。ジャン=リュックのプジョーに揺られて巡った、あの白く乾いた石灰岩の道を。今、その記憶が、列車の振動に合わせてゆっくりと甦ってくる。もちろん、ワインと歴史をめぐる旅だった。だが実は・・それ以上に、"石"をめぐる旅だったのだと思う。シュナン・ブランとカベルネ・フラン。この二つの品種は、それぞれ白と赤という対極にあるように見えて、実は同じ"地質の記憶"の上に立っていると感じた。 そのことに、きっと未だ学生の血が残っているジャン=リュックも共感したのかも知れないな‥そう思った。 ロワール渓谷中部の土壌は、白亜紀後期に堆積したトゥフォー・ブラン(tuf

  • TERの車窓から見つめるロワール・ワイン/ロワール川散歩#55

    列車はゆっくりとソーミュールの街を離れ、ブドウ畑とロワールの蛇行を縫いながら、東へと向かっていた。窓の向こうには、初夏の夕景を反射してきらめく川面と、なだらかな丘陵が続いている。その光景を見ながら、僕はこの数日間で巡ってきたロワール渓谷のワイン文化を、頭の中で静かにたどり直していた。 ロワールは、ボルドーに次ぐ広大なブドウ畑を擁するフランス有数のワイン生産地であり、その栽培面積は7万5千ヘクタールを超える。だがここでは、規模以上に「気候」がすべてを決める——冷涼な空気、移り気な天候、そして年ごとの収量と味わいの激しい変動。ロワールワインは、ヴィンテージごとの表情の違いがとりわけ顕著なワ

  • 土壌と時の記憶を辿って04/ロワール川散歩#54

    車窓の外。午後の陽が傾きはじめるのを感じた。ジャン=リュックのプジョーは静ゆっくりとル・ピュイ=ノートル=ダムの村に入った。教会の尖塔が白い雲の下に小さく覗き、村の外れに広がるブドウ畑は風にそよいで波のように揺れている。 「着きましたよ。ドメーヌ・ド・ラ・パレーヌDomaine de la Paleine(Localisation:15 Rue de la Paleine, 49260 Le Puy-Notre-Dame)です」 そう言って彼が指差した先、15 Rue de la Paleineと記された小道の奥に、石造りの建物が陽光をまとって佇んでいた。広々とした中庭にはバラが咲き、

  • 土壌と時の記憶を辿って03/ロワール川散歩#53

    食事とカフェを終えると僕らはCafé de l'Ormeauを後にした。小さな広場の横を抜け、プジョーは再び静かに走り出す。午後の陽射しはまだ柔らかい。ジャン=リュックのプジョーは、ヴァランの村を抜け、ブドウ畑の道を南へと向かう。ジャン=リュックは静かにハンドルを握りながら、「午後はシャトー・フーケDomaine Filliatreau(Localisation: Château Fouquet, 49400 Saumur)ですね」と口にした。 「うん。Domaine Filliatreau のなかでも、ビオディナミで知られてる区画らしいね」 「はい。シャトー・フーケは、あの家族が19

  • 土壌と時の記憶を辿って02/ロワール川散歩#52

    Domaine des Roches Neuvesの大きな門を出ると、前を走っているのはサン・ヴァンサン通りである。 「ランチは、このドメーヌのすぐ裏手で済ませましょう」ジャン=リュックが言った。 プジョーはすぐ近くのロッシュ・ヌーブ通りを入った。すぐ先の広場に面してCafé de l'Ormeau(1 Rue des Rogelins, 49400 Varrains)があった。 「地元の人たちのレストランです」ジャン=リュックが言った。 「このあたりがヴァラン村、Saumur-Champigny.AOCの心臓部です」 僕らはテラス席に腰を下ろした。白いクロスの上に水差しとカトラリーが

  • 土壌と時の記憶を辿って//ロワール川散歩#51

    「よかったです。予約時間ギリギリになってしまいました」 ジャン=リュックが車を停めながらつぶやいた。 あまりにも洞窟探索に時間を使い過ぎたからだ。 ヴァラン村の細い道を抜けて、私たちはロッシュ・ヌーヴの小さな門の前に立っていた。朝の光は澄みわたり、周囲のブドウ畑がまだ少し朝露に濡れていた。 Domaine des Roches Neuves(56 Rue du Bellay, 49400 Varrains) この地に最初に葡萄が植えられたのは、1850年代のことだという。時代を越えて畑は守られたが、一時は活気を失っていた。それを蘇らせたのが、1993年にドメーヌを買い取ったティエリー・

  • 伴侶への謝罪は金銀財宝で(笑)

    母がまだ元気だったころ、ジャズと洋画が大好きだったひとだったからね、よく一緒に映画を観に行った。 あのとき、銀座の並木通りを抜けて、数寄屋橋の映画館へ行った。上映していたのは、あの『ある愛の詩(Love Story)』だった。1970年代に世界中で大ヒットした悲恋映画の金字塔とも言われる作品だ。僕はどこか照れくさかったが、母はまっすぐに観ていた。映画の中で、恋人が死にゆくシーンでも涙をこぼさなかった。ただ、最後にあの台詞が流れたときだけ、眉間に皺を寄せていた。 「Love means never having to say you're sorry.」 “愛とは謝らなくて済むこと

  • フォロンの神秘・トログロディットの石切場跡/ロワール川散歩#50

    車は川沿いの道を南へ抜け、小さなロータリーをいくつか越えると、斜面にぽっかりと開いた岩の口が見えてきた。まだ人の少ない時間帯で、外は静まりかえっている。 「正式にはMystère des Faluns『フォロンの神秘』と言います。一万年の記憶と、千年の労働と、百年の沈黙が積み重なった場所です」 「こんなところがあるんだね。知らなかった」ぼくが云うと、彼が得意そうに笑った。 「これはソムリエから聞いていません。僕の推薦です。もっとも此処をお客様に推薦したのは初めてですが」 笑いながら、そう言うと、彼は手にした小さなパンフレットをたたみ、石灰岩の壁にそっと触れた。 「この岩は“フォロン層”

  • ソーミュール03/ロワール川散歩#49

    翌朝は9時出発とした。早めのチェックアウトである。 「午前にDomaine des Roches NeuvesとChâteau de Villeneuve。午後はDomaine FilliatreauとDomaine de la Paleineとまわります。終着はソーミュールの駅前でよろしいですね」 「はい。その足でオルレアンに向かいます。18:18のTERにしました。オルレアンに着くのは20:24です。できればTERに乗る前に少し町を歩きたいと思うんですが」 「大丈夫です。予定では17時くらいに駅に着くつもりでスケジュールを動かします」 僕が頷くと、ジャン=リュックがバッグから取り出

  • ソーミュール02/ロワール川散歩#48

    「最初に訪れるのは、トゥフォー・ブラン(Tuffeau blanc)に覆われた柔らかな石灰岩の土壌で、ミネラル分が高く、保水性に富む。根が深くまで入り込みやすく、カベルネ・フランに繊細なアロマとしなやかな骨格を与える地域だそうです。 場所は、Souzay, Varrainsの方向。その地域はも柔らかく白い石灰岩、地中深くまで根を張る畑が多いそうです。ワインは軽やかで、骨格にしなやかさが特徴とのことです。 ドメーヌとしてDomaine des Roches NeuvesとChâteau de Villeneuveが良いとあります」 ジャン=リュックはメモを僕に戻して、ドメーヌの名前の書か

  • ソーミュール/ロワール川散歩#47

    「あと十五分ほどです」とジャン=リュックがハンドル越しに言った。 僕は窓を少しだけ開けた。ロワール川の流れが、眼下の森の切れ目から垣間見えた。初夏の陽射しはすでに傾きかけていたが、川面にはまだ光の帯が走り、揺れながらこちらに届いていた。 彼の運転はいつも無駄がない。ときおりラジオのクラシック音楽がボリュームを絞られて流れ、そしてまた沈黙が戻ってくる。その沈黙が、なぜか居心地よかった。 「このあたりはGennes-Val-de-Loireという町ですが、このような静けさです。道も細いし、カーナビより感覚の方が正確ですね」 プジョーの車体がやや傾くほどの細い上り坂に差しかかると、車窓の右手

  • サン=ジェルマン=シュル=ヴィエンヌからクラヴァン=レ=コトーへ02/ロワール川散歩#46

    ジャン=リュックが「着きました」と言って車を停めたのは、Domaine Bernard Baudry(66 ROUTE DE CHINON, 37500 Cravant-les-Côteaux,)の前だった。ここは、カベルネ・フランの名手として知られる造り手で、創業者ベルナール・ボードリが1975年に開いたドメーヌである。 土地はより起伏に富み、丘の斜面にある畑は、地質学的にも複雑で豊かだ。tuffeau jaune(黄色いトゥフォー)と呼ばれる石灰岩が地表に露出し、その間にargilo-calcaire(粘土石灰質)が混じる。数千万年前の漸新世に形成されたこの地層は、微量の化石や海洋

  • サン=ジェルマン=シュル=ヴィエンヌからクラヴァン=レ=コトーへ01/ロワール川散歩#45

    レストランを後にして南へ走ると、風景はしだいに開けていき、ヴィエンヌ川のほとりに広がる平坦な土地が現れる。午後の陽がやや斜めに射し込むなか、ジャン=リュックの運転するプジョーは、川に向かってしずかに進んでいた。 「ここからはシノンAOCの南端、川に沿ったテロワールです。午前中とは、まったく違う顔になりますよ」 午前に歩いた粘土石灰質の斜面とは対照的に、このあたりは小石と砂が混じった軽やかな土壌である。ヴィエンヌ川の堆積作用が生んだこの地質は、水はけがよく、根は深く潜り、風の通りもよいため、ブドウがすっきりとした果実味を帯びるようになる。 最初に辿り着いたのは、Château du Pe

  • シノンの朝、リグレ村からサジィ村へ/ロワール川散歩#44

    ノブレの丘をあとにして車を進めると、しばらくは粘土質の田園が広がる穏やかな景色が続いた。やがて右手にトゥフォー石の小屋がぽつりぽつりと現れ始め、それがサジィ村へ入った印だった。 「このあたり、古くからのドメーヌが集まる地帯なんです」と、ジャン=リュックが前を指さして言った。「ここがシャルル・ジョゲの“ラ・ディオトリCharles Joguet Clos de la Dioterie(La Dioterie, 37220 Sazilly)です。1930年代にまず畑が整備されて、その後、区画ごとの醸造が始まりました」 舗装された細道を少し外れ、ドメーヌの入り口に車を止める。建物は控えめで、

  • シノンの朝、そしてリグレ村へ/ロワール川散歩#43

    朝、窓を開けると、やわらかな光が差し込んでいた。 前夜の話がまだ身体のどこかに残っている。そしてワインの香り。ホテル・ディドロの分厚い壁に包まれた静寂。そして、なによりも、石の記憶のような眠り。 階下に降りると、朝食の部屋にはクロワッサンの甘い香りが満ちていた。大理石のテーブルには小さなジャムの瓶がいくつも並んでいる。ブルーベリー、杏、ルバーブ……すべてホテルの手作りだという。 「おはようございます、ムッシュ」 ジャン=リュックの声が、レセプションの方から聞こえた。 おや!と思ってカウンターのところへ行った。 「ご用意してごさいますが、どうぞ存分に朝をお楽しみください」 彼はすでに車

  • 仏でも 期限過ぎれば 鬼となる

    いまはもう見ないふりは即刻辞めるべきだと僕は考えます。 中国はかつて「世界最大の債権国」として発展途上国に対して巨額の資金を供給してきましたが、今は「世界最大の債権回収国」になっています。これは2013年から本格化した「一帯一路(BRI)」構想に基づく対外融資が、ついに返済のフェーズに入り始めたことです。中国はいま、貸した金を利子付きで返してくれと言い始めています。 Peak repayment: China’s global lending - Lowy Institute Soaring debt repayments and collapsed lending hav

  • イザボー・ド・バヴィエールの悲嘆/ロワール川散歩#42

    チェックして店を出ながら僕は、思いつきのように口にしてみた。 「その定義の曖昧さが・・遊牧民から続いた“血”の発想が……王太子そして王妃イザボー・ド・バヴィエールすらも、翻弄したんでしょうかね」 そう問いかけると、僕の後ろから店をでたジャン=リュックが、僕を見つめながら静かに頷いた。 「そうですね。血は力です。同時に、呪いでもある。 血筋を“正統”の根拠とする社会では、それが証であると同時に、呪文のようにも働く。王妃イザボーが、自らの息子――王太子シャルルを否定したのも、“血の正しさ”では王国は救えないと、彼女が悟ったからかもしれません。 血が正しい者が正しいとは限らない。だから、彼女

  • 壁に描かれた少女・シノンの夕餉と、預言の輪郭02/ロワール川散歩#41

    ジャン=リュックはワインを口に含み、少し間を置いたあと、言葉を切り替えた。 「一方、イングランドでは、その正反対の道を進んでいたんです」 彼は静かにグラスを置き、視線をこちらに向けた。 「イングランドには、ブルゴーニュ公のような巨大な地方勢力はいなかった。国土はフランスよりずっと小さく、そして何より"島"という地理的条件が決定的に違った。 外敵の侵入は限られていて、内陸のような国境争いもなかった。広すぎず狭すぎず、王が全国土を把握できるサイズの国だったんです。つまり"分割されにくい国"という地理的な土台が、国家形成そのものを支えていたんです」 彼は指先で、テーブルの木目をなぞりながら続

  • 壁に描かれた少女・シノンの夕餉と、預言の輪郭01/ロワール川散歩#40

    夕方7時少し前に、僕は店の前でジャン=リュックと待ち合わせをした。 店の前、将軍ド・ゴール広場の通りを行き交う人々は、その歴史の重みに無頓着な様子で、買い物袋を提げ、犬のリードを引きながら、のんびりと石畳を歩いていた。 ジャン=リュックは、少し息を弾ませながら現れた。 「遅れてすみません。少し駐車場が混んでいて」 そう言って恐縮した様子でお礼を述べる彼に、僕は笑って首を振った。 「問題ないですよ。まだ日も沈みきっていない。いい時間です」 「ほんとうに。この町の7時前は、まだ日が昼の名残を引きずっていますね」 僕らは、ガラス扉を押して店に入った。 店内は、明るすぎない照明が壁の石肌をやわ

  • ホテル・ディドロ/ロワール川散歩#39

    散策のまま、僕らはその足でホテルへ向かった。ジャン=リュックは「車を取りに戻るのが本当は筋なんですが」と恐縮したように肩をすくめたが、僕は首を振った。 「いいですよ。このまま歩くほうが、シノンの空気に浸れますから」 Collegiate Church of Saint-Mexme in Chinonの横を走るジャン・ジャック・ルソー通りRue Jean Jacques Rousseauからホテル・ディドロ(HOTEL DIDEROT, 2 Rue Lavoisier, 37500 Chinon)に入った。 ホテルは、まるで時を巻き戻したかのような佇まいだった。分厚い石造りの外壁にはツタ

  • 番外・査問/ロワール川散歩#38

    シノンの町が見えたとき、ジャンヌは口元を固く結び、背筋を伸ばした。11日間にわたる危険な旅の果て。まだ寒さの残る早春の風が、馬のたてがみを吹き上げていた。 男装したジャンヌは、肩幅のあるチュニックをまとい、革帯に短剣を下げていた。髪は首のあたりで粗く切られ、目元は旅の埃と疲労でくすんでいた。それでも、その眼差しには、揺るぎないものが宿っていた。 彼女を迎えたのは、町の外れにあるCollégiale Saint-Mexmeだった。かつては参事会の聖堂であり、今は王宮の一部と連絡を取る仮の宿舎として使われていた。 古い石造りの建物のなか、ジャンヌは最初の試練に向き合うことになる──聖職者た

  • ジャンヌ・ダルク/ロワール川散歩#37

    ジャン=リュックは、教会の小さな中庭のような石敷きのスペースに出た。そして壁にもたれて、ふっと息を吐いた。 「ジャンヌがどうやってこのシノンまで来たかですね。そこから辿ると、ここに泊まったという可能性は俄然、真実味を帯びるんです」 そう言って、彼は指を一本立てた。 「ジャンヌは、ごく普通の農家の娘でした。読み書きもほとんどできなかった。生まれたのはロレーヌ地方、ドンレミ村。フランス東部、ちょうど神聖ローマ帝国との境にある田舎町です。その“境目”にあったということが、とても重要な意味を持つんですが……その話は今は省きます」 「はい」と僕が言うと、彼はうなずいて続けた。 「ある日、ジャンヌ

  • Rue Jean-Jacques Rousseau 散策/ロワール川散歩#36

    カフェを出て、再び観光センターの方へと足を向けていたとき、石畳の通りの角に、小さな青いプレートで「Rue Rabelais」と記された標識が目に入った。 「ラブレーという名前の通りがあるんだね」と僕が言うと、ジャン=リュックは嬉しそうに頷いた。 「はい」 その即答が、どこか誇らしげに響いた。 「大学ではフランソワ・ラブレーを専攻してたの?」 彼は笑みを浮かべながら、軽く首を振った。 「いえ、違います。僕はどちらかというと考古学寄りでした。ラブレーに初めて出会ったのは高校の授業で『ガルガンチュア』の一部を読んだときです。あのときは、ただの悪ふざけのようにも見えたんですけど、どこか心に残っ

  • 石の記憶・砂の記憶/ロワール川散歩#35

    Rue Neuve de l’Hôtel de Villeを歩き、Azay Chinon Loire Vall観光センター(1 Rue Rabelais, 37500 Chinon)に立ち寄った。ジャン=リュックは、すぐ向かいにある「カフェ・ド・ラ・ペ(Café de la Paix)」で、しばらく待っていてほしいと告げた。彼は一度、城の東端にある公共駐車場まで車を取りに戻るという。プジョーを回収して、再び迎えに来てくれる手筈らしい。 「じゃあ、観光センターに寄ってから、店で待ってます」と僕が言うと、ジャン=リュックはにこやかに頷き、さっと通りを引き返していった。 観光センターでは、地

  • シノン城とジャンヌ・ダルク02/ロワール川散歩#34

    ジャンヌ・ダルク通りの石畳の坂道を下りながら、ジャン=リュックは振り返りながら言った。 「ジャンヌ・ダルクのころ、シノン城への道はこれしかありませんでした」 「なるほど」僕は左側に聳え立つ岸壁に触った。 「ヴィエンヌ川沿いに広がる石灰層の上に作られたんですね」 僕は白い石壁の起伏を確かめながら、彼の方を見た。 「ヴィエンヌ川沿いの平地に町が広がっていく前、町はこの斜面に張りつくように築かれていました」 道は、ゆるやかに蛇行しながら、城下の町並みに向かってくだっていく。道幅は広くはないが、二頭立ての馬車がぎりぎりすれ違えるくらいの広さはある。両脇には木骨造りの家が軒を連ねていて、時折、石

  • シノン城とジャンヌ・ダルク01/ロワール川散歩#33

    プジョーはヴィエンヌ川を背にしてD749号線を登り、城の東端にあるシャトー通りから公共駐車場へと滑り込んだ。 「ここからは歩きです。私もご一緒します」ジャン=リュックが言った。 石段と城壁の間を縫うようにして、かつての要塞都市へ歩いた。 城壁はむき出しの石灰岩で構成されており、その苔むした表面に何世紀もの風雨の記憶が刻まれている。道の両脇に積まれた石も、この土地から切り出されたトゥフォー(tuffeau)だと、ジャン=リュックが言った。 「シノンの城は、見ての通り“広がる城”です。丘の尾根を利用して、三つのセクションが連なっているんです。東から西へ、サン=ジョルジュ城、王の館、クードレ

  • シノン・レ・ジャルディニエ/ロワール川散歩#32

    「実は、ぜひお薦めのランチがございます。ビエンヌ川の向こう、リヴィエール〈Rivière〉という村に《レ・ジャルディニエ(Domaine de la Noblaie)》というレストランがあります。地元の野菜をテーマにした、ちょっとユニークな料理を出す店なんです」 ジャン=リュックの声にうなずきながら、プジョーは静かにD751を走り切り、やがてビエンヌ川に差しかかる。前方に現れたのが、Pont routier de Chinon──シノンの道路橋だった。 「この橋から見えるシノン城は、観光ポスターや絵画によく登場しますよ。特に夕暮れどきは、絶好の撮影ポイントになります」 僕は振り返った。

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