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2020/12/27

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  • トゥーレーヌ周辺のドメーヌ35か所ロワール川散歩#15

    遅い朝食を終えて、一度部屋に戻った。シンガポールは午後4時を回ったところ。少し仕事を片付けて、街へ出た。今日はワインの博物館——Musée des Vins de Touraine(現在閉館)を訪ねることにしていた。 ホテルを出て、Rue GroisonからBoulevard Béranger方面へと歩く。通り沿いの並木はすでに緑を深くしており、午前の光を浴びながら小さな花屋がシャッターを開けていいた。やがて広い円環通りに出て、トラムA線の軌道と並行してRue Nationaleを南下した。ロワール川を渡り、マルロー通りを越えた。大きなトラムの路面駅を過ぎると、左右に旧市街のクラシッ

  • 朝食の時に考えたこと02/ロワール川散歩#14

    たとえば、ライン中流域に点在するマルクスブルク城やライフェンスタイン城は、外敵からの防御というより、河川を通過する商人たちからの通行税徴収(Zollburg)を目的としていた。つまりここでの城とは、戦の備えではなく、利権と租税の可視化だった。領主は塔の上から川を見張り、船が通れば税を取り、通らねば通さなかった。こうした「関所としての城」は、ロワールのような信仰と王権の緊張ではなく、断片化された帝権と都市経済の接点として成立していたのである。 また、帝国教会(Reichskirche)の制度の下で、大司教区や修道院も独自の築城権を持ち、それを使って城塞化された修道院や教会を構築した。だ

  • 朝食の時に考えたこと01/ロワール川散歩#13

    ホテルで朝食に付いたのは遅い時間だった。離れのレストラン棟で用意されていた。石畳を踏みしめながら小道を歩いていくと、ガラス張りのテラスが朝の光を反射し、なかからやさしいジャズが流れてくるのが聞こえた。 レストランの扉をくぐると、広がっていたのは、まさに“フランス的余白”のある朝の風景だった。テーブルには白いリネンがかけられ、小さな花瓶に一輪の野花。ガラス越しには、まだ露を含んだ芝が淡く輝いている。テラス席に案内され、僕はコーヒーとクロワッサンを頼んだ。スタッフは英語も丁寧で、居心地の良さがそのまま料理の味にしみ込んでいるようだった。 料理は見た目以上に繊細だった。焼き立てのパンはふんわ

  • トゥール・朝の散歩05/ロワール川散歩#12

    ある年の厳冬、僕はブロワの城壁に立っていた。そこから見下ろすロワールの川筋は、もはやただの自然景観には見えなかった。 王たちはこの流れをどう眺め、どう支配し、そしてどう「演出」したのか。 その問いが、風の冷たさとともに胸に入り込んできた。 城のバルコニーは単に景色を楽しむためのものではない。それは、視線の「起点」であり、「ここから見ている」という権威の宣言だった。幾何学的に整えられた庭園もまた、自然を理性の名のもとに秩序づけるという、王権の理念の視覚的な実装だった。見せること、見せつけること、それが統治の一部だったのだ。 そしてシュヴェルニー—。 あの狩猟のために設計された城に立った

  • トゥール・朝の散歩04/ロワール川散歩#11

    朝の光が緑に揺れて、ロワール川沿いの遊歩道の敷石をやわらかく照らしていた。 カフェを出たあと、僕はあえてポール・ヴェール通りを渡り、川沿いの小道を歩いた。まだ他に歩く者はいない。右手には川がゆるやかに流れ、左手には19世紀の石造りの住宅が静かに並んでいる。街が目を覚ます前の、あの特有の静けさが漂っていた。南岸に比べて、こちら北岸はどこか穏やかで、控えめな空気をたたえている。 トゥールという町は、権力の線が何度も引き直された土地だ。 王と聖職者と武装した騎士たちが、交錯する欲望を石に託し、時に血を流しながら築いてきた場所。その名残は今も、朝の清浄のなかに、かすかな香りのように立ちのぼっ

  • 中立は責任の回避か/スイスの揺籃#04

    デジタル社会が生み出す越境的アイデンティティ、EUの法制度との実質的な連動、そしてNATOや国連が象徴する「連帯の政治」。これらすべてに対して、スイスはただ沈黙することでは対応できなくなっている。 「なぜ我々は政策決定に参加できないのか?」 「なぜ他国とともに声を上げることができないのか?」 こうした問いが国内の若者たちが日常のなかで繰り返し立ち止まり、向き合っている実感の問いとなっているのではないか?。 確かに国家が築き上げてきた「中立」は、確かにこの国を戦争から守った。外の世界が焦土と化したときにも、スイスはその山岳の中に文明と秩序を保ち続けることができた。冷戦下でも、どちらの陣営

  • 中立は責任の回避か/スイスの揺籃#03

    そしてもうひとつ見るべきは、スイスは戦後、金融立国としての地位を確立したことだ。 中立国としての安定性、銀行機密制度、税制上の優遇措置などが富裕層や企業を引き寄せ、チューリッヒやジュネーヴは世界の金融中枢となっていった。だがその反面、スイスの金融制度が国際的な脱税や資産隠しに利用されているとの批判も高まり、しばしば倫理的責任を問われるようになった。つまり"中立"とは「誰の味方でもない」ということであり、これは対他から見ると「誰に対しても無責任である」ということでもあり、そうした評価付けに、スイスは道義的信用の維持に大きな影を投げかけてしまう。 結局のところ、経済、法制度、社会的価値観と

  • 中立は責任の回避か/スイスの揺籃#02

    スイスが「中立国」としての真価を問われた最も厳しい時期が、1939年から1945年にかけての第二次世界大戦であった。ヨーロッパ大陸全体がナチス・ドイツによる侵略の脅威にさらされ、周辺諸国。ポーランド、フランス、ベルギー、オランダ、オーストリア、チェコスロヴァキアが次々と陥落していく中、スイスは孤立無援の中でその「中立」の看板を掲げ続けることを余儀なくされた。 この時期、スイス政府と軍部は中立を「外交的声明」としてだけでなく、実際に機能させるための物理的・戦略的・経済的な準備を徹底して行っていた。1939年に動員された約43万人の兵士と、国家総動員体制の構築。国土を守るために、要塞地帯を

  • 中立は責任の回避か/スイスの揺籃#01

    僕がエリック・ガイヤーの記事を読んだのは、朝の徘徊の途中、スターバックスで広げたニュースサイトからだった。それはノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(NZZ)の紙面にあった。彼はガイヤーNZZの編集長である。彼の言葉は、予想以上に強く、そして思いのほか鋭く胸に突き刺さるものだった。 彼はこう書いている。 「中立はもはや神聖不可侵のものではない」 「スイスは西側の価値に明確に立つべきだ」 「NATOとの連携は負担ではなく、義務である」 彼の言葉は、まるで僕たちに向かって「いつまで黙っているつもりだ?」と問いかけてくるようだった。 それまで僕は、スイスの"中立"という言葉は、ある種の文化遺

  • 沖縄で見たBBCニュースのこと/#03

    夜になり、夕食を終えた孫たちは娘たちに手を引かれて階上に行った。 キッチンは僕と嫁さんだけになった。嫁さんが赤ワインをグラスに少し注ぎ、僕にも差し出してくれた。グラス越しに見る恩納村の夜は、静かなほどに濃く、そして不思議なことに、さっきまで観ていたBBCのニュースが頭から離れなかった。 ──「外交とは、敵と話す回路を残しておくこと」。 画面の向こうの評論家のその一言が、今も胸に残っていた。 「まださっきのBBCのニュースのこと考えているの」 嫁さんが後ろから声をかけてきた。 「ああ、例によってトランプを叩く話だったからな。聞き慣れてる。しかし・・日本もアメリカもメディアが、恐ろしいほど

  • 沖縄で見たBBCニュースのこと/#02

    もし孫たちの未来に、またあのような戦争が訪れるとしたら。僕たちは何をしていたことになるだろう? せめて、戦争を止めようとした人間の声に、もう少しだけ耳を傾けていたと言えるだろうか。 「また戦争の話?」 背中越しに嫁さんの声がしたのは、ちょうどBBCのキャスターが「トランプ氏のウクライナ政策は失敗だったのでは?」と口にした瞬間だった。 「うん……ちょっとな」 僕はPCの音量を下げ、振り返った。嫁さんはジャグジーを終えたばかりの濡れた髪をタオルで巻き、グラスにフランチャコルタを少し注いでいた。娘たちは孫たちを寝かしつけに二階へ上がっていて、リビングには僕たちだけ。風の音と、海の気配だけが静

  • 沖縄で見たBBCニュースのこと/#01

    夕暮れの恩納村。海からの風が、木々の間を抜けて、借りた一軒家の障子の隙間をそっとくぐり抜けてくる。外では、孫たちの歓声が響いている。二階のベランダにあるジャグジーでは、娘たちが子どもたちと一緒に水しぶきをあげて遊んでいた。くすくす笑い、きゃっきゃと叫び声。若い母親と、まだ幼い子どもたちの声が重なると、それだけで世界が平和に思える。 僕はその下のリビングにいて、ノートPCを開き、BBCのニュース番組を静かに流していた。氷を浮かべたさんぴん茶を口にしながら、ソファにもたれていたが、ふと画面から耳を離せなくなった。 番組のテーマは「トランプ大統領とウクライナ戦争」。キャスターは、例によっ

  • 「Block I」のPSCがもたらす経済的・政治的影響は甚大だ

    UAEのエネルギー関連企業であるXRG社が、マレーシア国営石油会社ペトロナス(PETRONAS)およびトルクメニスタン国営企業とともに、カスピ海沖合に位置する「Block I」天然ガス・コンデンセート鉱区に関する生産分与契約(PSC)を締結しました。 国内ではロクなにゅーすになっていないが、これはエネルギー安全保障と地政学的再編についても極めて重要な意味を持つニュースだ。 Enterprise — Essential business, finance and policy news from the Arab world Business, finance and reg

  • AIで仕事を失うのは女性たちだということ

    人工知能(AI)の急速な進化によって、さまざまな職業が自動化の影響を受けてます。特に女性の雇用が相対的に脆弱な立場にあることが、国際労働機関(ILO)とポーランドの国立研究機関(NASK)の共同調査でデータ化されました。 Generative AI and Jobs: A Refined Global Index of Occupational Exposure This ILO Working Paper refines the global measurement of occu www.ilo.org 高所得国では、AIの影響を最も強く受けるとされる

  • ①ブロックチェーン技術+②mBridge(multi-CBDC bridge)=通貨主権の組み換え

    何回か書いていますが、21世紀の通貨体制は、第二次世界大戦後に築かれた米ドル基軸体制の上に成り立っていました。しかし2008年の世界金融危機以降、この手品の底が見え始めている。特に胴元の魔術師・アメリカが危なげです。対外債務膨張、制裁外交、そして国際送金網SWIFTをいとも簡単に「武器化」したことで「それをやっちゃあオシメェよ」と寅さんみたいに世界の金融機関は、米国中心の秩序に依存しない新たな選択肢を模索する動きへ進んでしまったのです。実は、金融マンは根底にローンウルフな血を抱えています。彼らは任せて安心という発想はしない。危ないと見えれば、それでもお小姓坊主のように阿り続ける・・とい

  • トゥール・朝の散歩03/ロワール川散歩#10

    僕は橋のたもとにあるCafé du Pont de Pierre(1 Quai Paul Bert, 37100 Tours)という小さな店に入った。エスプレッソをお願いした。 そして店の外のテーブルに座って、もう一度ロワール川とリュ・ナシオナルと名前を替えたアグリッパ街道を見つめた。目の前を走るポールヴェール通りの東に、昨日歩いたサン・シンフォリアン歩道橋がある。 アグリッパ街道は、ローマが帝国を安定させるために敷いた秩序の帯だった。 征服のあとの恒久的支配を実現するために、彼らは道路を敷いた。道を敷くとは、意志を刻むこと。線を引くとは、世界を割ること。 だが川は違う。ロワールは人

  • トゥール・朝の散歩02/ロワール川散歩#09

    Rue Nationaleを端まで歩ききると、視界がふいに開けた。そこにはロワールの川面があった。 堤防の石段に腰を下ろし、僕はしばらく黙って川を眺めた。振り返ると、通ってきた通りの直線がずっと奥へと続いているのが見える。都市をまっすぐ貫く、人工の線だ。 目の前の川は、沈黙のまま。自由で。曲がりくねり。境界を持たず。そしてゆったりとしたリズムで流れている。 僕は呆然とした。ロワールは昔から「気まぐれな川」と呼ばれてきた。大雨のあとには簡単に氾濫し、平常時には中州を変え、流路を裏切る。その気まぐれさは、時に破壊であり、時に豊穣であり、人間の思惑を軽やかにかわしてしまうような奔放さを持って

  • トゥール・朝の散歩01/ロワール川散歩#08

    翌朝は早く目覚めた。窓の外にはうっすらとロワールの霧が残っていた。鳥の声すら静まったような曇り空の下、ホテルのラウンジにはまだ朝刊も届いていない。僕はロビーのカウンターに向かい、コンシェルジュに静かに尋ねた。 「Rue Nationale(リュ・ナシオナル)へ行きたいんです。できれば、まだ人が少ない時間に歩きたい」 彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「あの大通りですか?」と訊き返し、観光地図の中で中央の直線を指差した。 「ええ、この通りは町の背骨みたいなものですよ。市役所や大きな書店、あとはカフェもいくつか…」 「いいんです、そういうのじゃなくて。ただ、その通りを、歩いてみたくて

  • 僧侶たちの夢の跡から07/ロワール川散歩#07

    カフェ《Chez Colette》を出ると、川面に差し込む光がぐっとやわらぎ、午後から夕方へと時間が音もなく移ろっているようだった。カフェの窓越しに見えていたサン・シンフォリアン歩道橋の白い鉄骨が、傾く陽に淡く染まり、まるで水辺に浮かぶ装飾のようだった。ホテルまでは、川沿いをしばらく東に歩き、それから街路を北へ折れるコースだ。遠回りでもないが、ほんの少し丘を登ることになる。 店の前の通り、Quai Paul Bertを右に、僕は歩き出す。左手に広いロワールの流れ。ここ北岸は、先ほど歩いてきた南岸に比べて人通りも車の往来もずっと穏やかだ。川沿いには大きなプラタナスが並び、その根元に白い

  • 僧侶たちの夢の跡から 06/ロワール川散歩 #06

    緑豊かなオーカール島(Île Aucard)を越え、ロワール川の北岸に渡ると、目の前に小さなカフェ《Chez Colette》(57 Quai Paul Bert, 37100 Tours)が現れた。店内にはゆるやかなジャズが流れていて、窓の向こうには、さっき渡ったばかりの吊り橋が静かに佇んでいた。 僕はエスプレッソを頼み、椅子に腰かけた。カップを口に運びながら、ふと、ナントの港湾地区で見た巨大なクレーンの影を思い出していた。アンヌ・ド・ブルターニュ橋の姿も脳裏に浮かんだ。そのとき強く感じたのは、二つの橋に抱いた思いの違いだった。もしかすると……古い土地の名をそのまま橋に刻むような、そ

  • 僧侶たちの夢の跡から05/ロワール川散歩#05

    トゥール美術館を出ると、午後の街には、石畳の上に淡い日差しがやさしく残っていた。僕はラボアジェ通りをロワール川に向かって歩いた。川が近づくにつれ、空気が澄んでいくように感じる。建物の影がふと途切れ、前方に水面が広がった。陽光を受けて、やわらかく光を撥ね返している。小さな波。ゆるやかな流れ。鳥たちが低く飛び、岸辺の葦が静かに揺れていた。 僕は思った。「ああ、この川は、まだ自然の顔を保っているな」と。 少し前、ナントのドメーヌ巡りのときに出合ったロワールは、まるで別の川だった。巨大なクレーン、錆びた倉庫の残骸が並ぶ水辺。潮の満ち引きに応じて上下する水位、貨物船の往来。両岸はコンクリートに囲

  • 僧侶たちの夢の跡から04/ロワール川散歩#04

    そしてOffice de Tourisme & des Congrès Tours Val de Loire(78 Rue Bernard Palissy, 37000 Tours)へ寄った。 マップやパンフを貰った後、 Rue Bernard Palissyを北上した。 そしてサン・ガシアン大聖堂の前に出たとき、僕は一瞬、どちらが「本当のトゥール」なのかと考えた。だがすぐに、その問いが意味をなさないことに気づく。聖性も統治も、記憶も制度も、この都市はすべてを併せ持ち、それらを時代ごとに編み直してきた。 僕は大聖堂の前の広場に腰を下ろし、石造りのファサードを見上げた。ゴシックの

  • 僧侶たちの夢の跡から03/ロワール川散歩#03

    ゆっくりと僕は席を立つと、Basilique Saint-Martin de Toursに向かって歩いた。地図を開かなくても、行きたい方向は決まっていた。いま自分が歩いているこの道の下に、かつて回廊があり、修道士たちが祈りながら行き交っていたのだと想像すると、舗道の一枚一枚が意味を持ちはじめるように感じた。 この、19世紀末に再建された教会は、かつてこの地にあった修道院の全貌には、遠く及ばないという 中世の最盛期、この修道院は都市空間の中心を圧倒的な広がりで占めていた。 Bernard Barbicheの研究によれば、現在のRue des HallesからRue des Ursulin

  • 僧侶たちの夢の跡から02/ロワール川散歩#02

    それにしてもいま、僕が背後から見つめているCollégiale Saint-Martinという建物は、19世紀末に再建された比較的新しい建築にすぎない。そして通りを挟んだ先にあるBasilique Saint-Martin de Toursもまた同様だ。いずれも中世の壮麗な姿そのままではない。いや、むしろその「失われたもの」への記憶を取り戻そうとする、祈りにも似た再建の意志の結晶なのだ。 かつて存在したサン・マルタン大修道院は、9世紀からフランス全土に影響を及ぼす宗教的中枢であり、巡礼地として、また王権の象徴としても機能していた。しかし、18世紀末のフランス革命の渦中でその姿は徹底的

  • 僧侶たちの夢の跡から/ロワール川散歩#01

    トウール、ボン・ゾンフォン通り Rue des Bons Enfants にある A Torra(13 Pl. de Châteauneuf, 37000 Tours)の外のテーブルに座っていた。目の前の小さな広場を挟んだ右手には、かつての栄光を湛えたコレジアル・サン=マルタンと、その背後にそびえるシャルルマーニュ塔がある。 TGVで駅に到着してから、ほとんど迷わずここまで歩いてきた。普段なら、新しい街に着いたらまず観光案内所——Office de Tourisme & des Congrès Tours Val de Loire——に立ち寄るのが常だが、今日はまっすぐこの場

  • mBridgeが問いかけてくるもの#02

    mBridgeという「出口」を見つめながら、もう少し考え込んでしまうことがあります。 「機械という名の花嫁」のことです 200年で手にした身体と脳と、壊れゆく社会の話です。 19世紀に入って間もなく、私たち人間は、それまで想像すらしなかった力を手に入れました。 蒸気機関が生まれ、歯車が回り始め、電線が情報を運び、機械たちが我々の「手足」として社会の隅々まで入り込んできました。 そして20世紀。今度はその手足に加えて、耳と目、さらには脳までもが、機械の中に宿り始めたのです。 人間は、わずか200年という短い時間のなかで、自分では持て余してしまうほどの「第二の身体」と「第二の頭脳」を手

  • mBridgeが問いかけてくるもの

    mBridge(Multi-CBDC Bridge)というプロジェクトについて語る者に出会うことは、本当に少ないです。 それが単なる送金技術でも、金融イノベーションの一環でもなく、貨幣の根幹、ひいては「信用とは何か」という人類史的命題に触れる試みであるにもかかわらず、です。 おそらく、それはあまりにも交易そのものを根底から革新してしまう方法だからかもしれません。 mBridgeが実稼働すれば、それはごく自然なかたちで、あっけなく社会の心臓部に取り込まれるでしょう。 そして私たちは、かつて携帯電話のない世界に生きていたことを忘れてしまったように、「国境をまたぐ通貨の壁」が存在してい

  • 大学をビジネス化すれば#02

    アメリカの大学が抱え込んでいる最悪の「制度的矛盾」は「教育とは社会的に価値ある公共財である」とされながら、実際には「民間債務によってしかアクセスできない私的商品」として機能していることです。 学生が学ぶために背負う借金は、学問の自由や成長の機会を与えるはずの教育が、むしろ若者にとって人生最初の重い財務リスクになるという皮肉な現象を生み出しているのです。 アメリカの若者は、常に大学進学を「経済的な賭け」として語ります。 進学すれば高収入の職につけるかもしれない、しかしその代償として数万ドル、時には十数万ドルに及ぶ学生ローン(student loan)を抱えるリスクも負わなければならない。

  • 大学をビジネス化すれば#01

    アメリカ国土安全保障省は、ハーバード大学に対して学生・交換訪問者プログラム(Fビザ・Jビザ)の認定を即時に取り消すという措置を取りました。 トランプ政権がハーバード大の留学生受け入れ認定停止発表…「キャンパスで反ユダヤ主義助長した責任問う」 【読売新聞】 【ニューヨーク=金子靖志】トランプ米政権は22日、名門ハーバード大に対し、留学生の受け入れに必要な連邦認定を www.yomiuri.co.jp この背景には、同大学が外国人留学生に関する安全保障上の報告義務を怠ったという理由が説明されてますが、より本質的には、私立大学でありながら国家の補助金を受け、その財

  • ムーディーズが示した格下げから考えたこと#04

    ムーディーズは、現在の米国の公的債務総額が約37兆ドルに達していることを、格付け上の重大なリスク要因として指摘しています。これを受けて、米国の信用格付けは最高位の「Aaa」から一段階下の「Aa1」へと引き下げられました。 それでは、仮にこの37兆ドルが格下げの直接的な引き金になったとするならば、さらにその背後にある「オフバランス債務」――すなわち社会保障(Social Security)やメディケアなど、将来にわたって支払うべき約束を含めると、一部の試算では200兆ドル近い潜在的負債についてはどうでしょうか? そしてもう一つ、短期的な借換需要の集中です。2025年中に償還期限を迎える既

  • ムーディーズが示した格下げから考えたこと#03

    今回の格下げの主因として、格付け会社は、膨張し続ける公的債務、すなわち37兆ドルに達する米国債務の存在を挙げています。確かにその規模は歴史的水準ですが、実は問題の本質はそこにはない。 米国政府の財政を本当に分析しようとするならば、およそ200兆ドルに及ぶ“見えざる債務”に目を向けなければならないのです。 この200兆ドルとは、社会保障(Social Security)給付、メディケア、連邦職員年金など、法制度上すでに約束された将来の支出義務を積み上げたものです。これは会計上はバランスシートに現れず、予算にも計上されません。しかし、それでもなお、法的・政治的にはきわめて実質的な債務である

  • ロワール川ワインと歴史を訪ねる旅: アンスニからナントまで

    ブルゴーニュから移植されたメロン・ド・ブルゴーニュは、寒冷な気候や春の遅霜にも比較的強い耐性を持つ葡萄である。その特性に注目し、ロワール下流の沿岸部、特にペイ・ナンテ地方では大いに利用され、現在に至っている。ナントの気象条件とメロン種の適応性が合致したことから、この地において急速に定着するに至ったのだろう。 しかし、移植されたこの品種に対し、地元で「メロン・ド・ブルゴーニュ」という名称をそのまま用いることには、ある種の抵抗感があったのではないかと僕は思う。ブルゴーニュという名は、既にワイン界において高い権威を有していたため、ナントはこれを嫌った。そしてその代替として用いられるようになっ

  • ナント出発の朝/ロワール川ワイン散歩#終章

    ホテルを出たのは、まだ朝の柔らかな光が街の屋根瓦を撫でている頃だった。レセプションの前には、いつものようにM氏が立っていた。彼は深く一礼し、「おはようございます。ナント・アトランティック空港までは、およそ20分ほどでございます」と丁寧に言った。 僕は小さく頷き、後部座席に乗り込んだ。 「この時間帯なら混みませんよ。もしよろしければ、少し街をご案内しながら向かいましょうか」とM氏がハンドル越しに振り返る。 僕は再び頷いた。 クルマはまずカンブロンヌ広場(Place Cambronne)をかすめて進む。かつて軍人の名を冠したこの界隈には、幾何学的に整備された庭園と新古典主義建築の建物が並ん

  • Domaine du Mortier/ロワール川ワイン散歩#81

    そろそろ陽かげる時間だった。 「少し急ぎます」とM氏が言った。 アンセニの丘を抜け、車はゆるやかな坂を登っていく。ロワール川の風は届いていない。前方に現れたのは、畑の縁に寄り添うように建つ古い石造りの建物がDomaine du Mortierだった。 「若い生産者です。正直、私は初めて名前を知りました。予約はとってありますが、通訳以外はあまりお役に立たないかもしれない」M氏が言った。 実は、いつも通っているアベスの、ちょっとカルトなワインバーで偶然この生産者の「レ・グラヴィエ」に出会ったのがきっかけだった。ひと口飲んで、思わず息をのんだ。これはロワールなのか?と。 ナント行きを思い

  • ムーディーズが示した格下げから考えたこと#02

    今回の格下げの主因として、格付け会社は、膨張し続ける公的債務、すなわち37兆ドルに達する米国債務の存在を挙げています。確かにその規模は歴史的水準ですが、実は問題の本質はそこにはない。 米国政府の財政を本当に分析しようとするならば、およそ200兆ドルに及ぶ“見えざる債務”に目を向けなければならないのです。 この200兆ドルとは、社会保障(Social Security)給付、メディケア、連邦職員年金など、法制度上すでに約束された将来の支出義務を積み上げたものです。これは会計上はバランスシートに現れず、予算にも計上されません。しかし、それでもなお、法的・政治的にはきわめて実質的な債務である

  • ムーディーズが示した格下げから考えたこと#01

    2025年5月16日、格付け機関ムーディーズは、米国政府の信用格付けを最上位である「Aaa」から「Aa1」へと引き下げました。これにより、米国はS&P(2011年)、フィッチ(2023年)に続き、三大格付け機関すべてから「最高信用」の評価を失うことになりました。この出来事は、単なるランクの変更ではなく、100年以上続いた「米国政府=絶対的信用」という神話が制度的に否定された、歴史的転換点であると見るべきです。 Moody's downgraded US credit rating: What does that mean? Moody's downgrade of

  • ペイナントのドメーヌ歩きで見えたもの02/ロワール川ワイン散歩#80

    「たしかに、農民にとっては大きな転機だったと思います。麻や麦は手間もかかるし、価格変動も大きい。でも葡萄なら、オランダ人が買ってくれる。しかも酸っぱいほうがいいと来た」 「だから皆、作り始めたんですね」 「最初は半信半疑だったはずです。でも“売れる作物”があるというのは強い。それに、港だけじゃなくて、価格形成までオランダ人が担っていた。ナントの相場は、実質的に彼らが決めていたようなものです」 「地元の人たちにとって、それってどうだったんでしょう」 「複雑だったでしょうね。確かに現金収入にはなる。でも、作物が外需に依存してしまう。しかも当初のワインは、飲用としては正直厳しかったはず。酸味

  • ペイナントのドメーヌ歩きで見えたもの01/ロワール川ワイン散歩#79

    スタッフの手厚い見送りを受けながらDomaine des Galloires を出た。M氏のクルマはゆっくりさらに東へ内陸部へ走った。時おりぶどう畑の列が道を縫うように現れ、ふたたび消える景色になった。 道の脇の斜面や、畑の合間の小さな崖には、表土薄く、すぐ下から硬質な片麻岩が露出している。まるで大地が、むき出しの骨をこちらに見せているようだった。 このあたりは、ロワール右岸の中でも、とりわけ地質が古い地域だ。 あの・・ワインの酸味。緊張感のあるミネラルの輪郭。あれを支えている“基盤”は、地表のすぐ下からせり上がってくる片麻岩だということが、今回の旅でようやく分かった。 けれどそれは、

  • omaine des Galloires/ロワール川ワイン散歩#78

    僕らを迎えてくれたのは、くっきりとした目元をした中年の男性だった。代々この地で葡萄を育ててきた家の四代目であるとM氏が紹介してくれた。 「ようこそ。Galloiresは、目の前に広がるロワールとともに生きてきた畑です。川が呼吸するように霧を運び、土に湿り気を与えてくれるんです」 彼の声は穏やかで、しかし畑の風をまとっているような生気があった。案内されたテラスからは、なだらかな斜面の畑が見渡せた。メロン・ド・ブルゴーニュの整列した列の向こうに、ロワールの流れが光っていた。 「このあたりは、昔、川が暴れて何度も流路を変えた地区です。そのせいで、氾濫原の砂利質や砂岩、それにところどころ火山

  • 石の記憶ミュスカデワイン/ロワール川ワイン散歩#77

    ロワール川下流域に広がる農園。その間を縫うように、舗装された農道が走っている。そのすぐ下には、深くもない地層に、大陸が幾度も収斂と揺動を繰り返してきた記憶が眠っている。ナントから少し離れたこの丘陵地帯は、一見すると穏やかな田園風景に見える。だが実際には、表土のすぐ下に、約4億年前のバリスカン造山運動によって地中深くで圧縮・変成された岩体が、地表近くまで露出している。 通常、このような岩盤は地下数十メートル、あるいはそれ以上の深さにあるものだ。しかし、この地では例外的に、それが視認できる位置に顔を出している。氷期と間氷期を繰り返す長い侵食作用と、悠久の造山活動の果てに、この土地では「地

  • Domaine Luneau-Papin/ロワール川ワイン散歩#76

    ヴィラ・サントワーヌでのランチがひと段落すると、M氏が先に出て車のエンジンをかけて待っていてくれた。レストランのテラスからは、小さな川(セーヴル・ナンテーズ)が石橋をくぐって流れていくのが見えた。僕は、再びM氏の車に乗り込んだ。セーヴル・ナンテーズ川沿いの街並みを抜け、南東へ向かうと、ぶどう畑の斜面が次第に濃くなっていく。 M氏は運転しながら、後部座席の僕に語りかけてきた。 「次に伺うのはご指名された3つ目のドメーヌDomaine Luneau-Papinです。ル・ランドロー村にございます。ナントから南東へ25キロほどでしょうか、ミュスカデの心臓部と言っていい地域でしょうね」 僕が頷く

  • クリッソンでランチ/ロワール川ワイン散歩#75

    ドメーヌを出たのが正午前、クルマはロワール川に向かって走った。 「リストの中にランチの場所が指定されておりませんでしたが?」M氏が言った。 「お任せしたいんです。どこかお勧めのところを。それとぜひご一緒に」僕が言うと、彼が笑った。 「ありがとうございます」 そして少し沈思黙考して言った。 「どうでしようか?近いので、Clissonの町へ行きましょうか」 「Clisson…?」僕は聞き返すした。 「イタリアとブルターニュが手を結んだような街です。面白いですよ」 クルマはセーヴル・ナンテーズ川に沿って東へと進んだ。次第に石造りのアーチ橋が現れ、遠くに城壁と塔が見えてきた。まるで中世の情景画

  • グロ・プランからメロン・ド・ブルゴーニューへ/ロワール川ワイン散歩#74

    M氏が運転するクルマは緩やかな丘を登っていた。左手に広がる畑の樹々は、葉の切れ込みが浅く、明るい黄緑の新芽が風にそよいでいる。 「あの樹はすべてグロ・プランです」とM氏が指を差した。 「え? グロ・プランが? こんなにあるんですか?」 「はい。絶滅寸前とも言われたんですが、ここ10年ほどで少しずつ戻ってきてるんです。私が少年だった1950年代には、グロ・プランの作付面積は2万ヘクタール以上ありました。けれど2000年頃には800ヘクタールを切るほどに減少してしまって、本当に絶滅寸前でしたよ。でも今は、1,100ヘクタール前後まで回復しています。AOCとしての枠組みも、再評価されてきてい

  • ペトロダラーが終わりAIダラーがやってくる

    OpenAI、アブダビに大規模データセンターを建設する米国とUAEの計画に参加 OpenAI to join US-UAE plan to build vast data centre in Abu Dhabi Deal on third leg of Trump Gulf tour hailed as ‘major milesto www.ft.com トランプは訪問中、UAEと協働しアブダビにおいて世界最大級のAIデータセンターキャンパスを建設する計画を発表した。この施設は、エミラティ企業G42が主導し、OpenAIが主要パートナーとして参加する予定で

  • ケイマンで誰が買ってるのか??

    すでに米国債保有額4位まで落ちた中国本土の動きを見つめつつ、やはり考えるのは・・そんなに簡単じゃないなというこどてす。 2025年3月は、思った通り外国による米国債の保有額が前月と比べて1,330億ドル増加しました。背後に非常に複雑で繊細な金融・政治の動きがドラスティックにでていますね。 ・・まず注目すべきなのは、中国が190億ドルもの米国債を売却していたということですが、英国、ケイマン諸島、カナダという3つの国・地域が増加分のうち860億ドルを占めている事実です。 この動きは、それぞれの国が何を・どのようにリスクとして捉え、どのような通貨戦略をとっているのかを如実に物語っていますね。

  • ペイナント・ドメーヌ歩き03/ロワール川ワイン散歩#72

    シャトー・ド・ラ・グランジュ(Château de la Grange)は、ナント南東に広がるミュスカデ・セーヴル・エ・メーヌAOCを代表する生産者のひとつであることを、今回の訪問で改めて実感した。このシャトーでは、伝統的なシュール・リー(Sur Lie)製法が極めてエレガントに完成されていた。酵母の澱とともに瓶詰め直前まで熟成させることで、ワインに独特の丸みと旨味が生みだしている。しかし一方でこの製法は、管理が甘いと雑味や硫黄臭を引き起こし、ワインの品質を損ねるリスクもある。しかし、グランジュのワインにはそれが微塵もなかった。緻密な管理と熟成判断の妙が、瓶内に美しいバランスを与えてい

  • ペイナント・ドメーヌ歩き02/ロワール川ワイン散歩#72

    素晴らしい城だった。クルマがシャトー・ラグランジュの前庭に足を踏み入れると、セラーのある建物館から作業着姿の男性が笑顔で現れた。手のひらにまだ畑仕事の名残があるような指先でしっかりと握手をしてくれたのが、ヴィクトール・ド・ゴーレーヌ(Victor de Goulaine)氏だ。どうやらM氏とは懇意だったらしい。この地で何世代にもわたりワイン造りを営んできた名門一族の現当主である。M氏が僕を日本からやってきたワイン史の研究家として紹介したようだ。 「遠くからようこそ。今日は少し肌寒いですが、そのぶん香りがよく立ちますよ」と彼は穏やかに微笑んだ。 通訳は、ドライバーのムッシュM氏が自

  • ペイナント・ドメーヌ歩き01/ロワール川ワイン散歩#71

    ホテルへ戻ると、レセプションの横の椅子にドライバーのムッシュM氏が座っていた。出発予定より30分ほど早くもどったのだが、僕は少し慌てた。M氏は僕を見つけるとすぐに立ち上がり。前回のような日本式な深いお辞儀をした。 「おはようございます。再度、お声掛けをいただきましてありがとうございます」 「おはようございます。出発は9時でしたね」 「はい。了解しております。こちらで待機しておりますので、いつでも出発できます」 僕は急いで部屋に戻って、簡単な支度をして、レセプションに戻った。 そしてM氏のクルマに乗った。 クルマはホテルをでた。 「本日は、ご指定していただいたドメーヌを5つ回ります。 先

  • 戦争を終わらせたい者はいなかった/イスタンブール和平会談の虚構

    今回の和平会談は、メディアには「戦争を終わらせるための重要な一歩」として報じられたけどねぇ。 ゼレンスキーも、それに前面に出して演出したし、お小姓坊主のメディアたちもそれを追従して見せた。 そして自らイスタンブール入りを示し「私は話し合いを望んでいる」と強調したのは、まるで三流メディアの流すプロパガンダのように、思ったなあ。です・・よ。その姿勢は、交渉というよりは、むしろ一種の「演技」だ。 キャプテン・アメリカはそんなことしなかったけど、キャプテン・ユーロ気取りはするんですな。噴飯です(^o^) トランプ氏もプーチン氏もゼレンスキー氏も参加せず…ロシアとウクライナ、高官級協議き

  • 難民という名の侵略#02

    それでも欧州が憮然としながらもダンマリを繰り返しているのはなぜか? それはダブリン規制(難民が最初に入域したEU加盟国に難民についての責任を負わせる制度)のためだ。 ダブリン規制は“負担の固定化”という現実をイタリア、ギリシャ、スペインなどに押し付けているからだ。 正にこれは組織内の「押しつけ合い構造(burden shifting)」だと断言できる。 もともとは、ダブリン規制は「一国で複数の申請をさせない」ための制度的工夫であり、EUの庇護制度の安定化を目指す論旨だったが、実際には南の国境線で「見えない壁」を築くことになってしまった。 Tusk: Poland will no

  • 難民という名の侵略

    難民という名の侵略。そう呼ぶには過激すぎるだろうか。 だが、いま欧州で進行している人口移動の規模と構造は、単なる「人道危機」を超えて、国家の根幹を揺るがす事態へと発展しつつある。英国を含めた欧州諸国は、リビア戦争以降の地中海ルートにおける移民の急増により、かつて想像すらしなかった形の“存亡の危機”に直面している。 そして、思い出して出すのはもかつて西側によって「独裁者」と断じられた男の言葉である。ムアンマル・カダフィは、2011年の戦乱のさなか、こう警告していた。 「リビアが崩壊すれば、アルカイダが支配し、地中海は混乱する。ヨーロッパには数百万人の黒人難民が押し寄せ、キリスト教徒

  • 消えてしまったオランダ人商人の影03/ロワール川ワイン散歩#70

    現代フランス人の記憶にとって、オランダ人は「仲間」でも「敵」でもない。それは国民国家の一部である「自己を語り直す」過程で、彼らは都合よく忘れられていったのである。そこには「語らないことで保たれる平穏」への無意識の選択があったのかもしれない。 ナントは川の街である。ロワール川の河口に開かれたこの都市は、海に向かって開いているだけでなく、歴史のうねりの中で何度も「外からの力が、再び内へと折り返す地点」となってきたにちがいない。 僕はその歴史で“二つのUターン”を見てしまう。 ひとつはブリテン島へノルマン人の兵士として渡った人々だ。そしてもうひとつは、宗教の自由を求めてオランダへ渡った人々だ

  • 消えてしまったオランダ人商人の影02/ロワール川ワイン散歩#69

    昨日は、フェドーの通りの間を彷徨したあと、プレイス・ド・ラ・プティット=オランダ(Place de la Petite-Hollande)へ寄った。フェイドー(Île Feydeau)の西端にある唯一のオランダの名前がある広場だ。そして考えた。この通りにあるオランダ人商人の影はここ・・だけなのか?と。 実は、僕がこの広場の名前を初めて知ったのは、ピエール・H・ブールの著作『Le commerce négrier, l’organisation commerciale et la croissance industrielle à Nantes au XVIIIe siècle』(Re

  • 消えてしまったオランダ人商人の影/ロワール川ワイン散歩#68

    - YouTube Enjoy the videos and music you love, upload original content, www.youtube.com 今日は、ドライバーのムッシュM氏にエスコートしてもらい、ペイ・ナンテのワイナリーを一日かけて巡る予定でいた。明日はパリへ戻るつもりだ。 だから今朝は、出発前にもう少しだけ、ナントに響く歴史の木霊に触れておきたいと思った。 夜明けを待って街へ出た。 日差しはまだ柔らかく、夜の香りが空気にほのかに残っていた。ロワール下流の湿潤な大気が、眠りから目覚めつつある都市の鼓動を包み込んでいるようだった。

  • ナントの早朝・旧ローマ街道をあるく/ロワール川ワイン散歩#67

    朝早く目を覚ました。今日は、ドライバーのムッシュM氏にエスコートしてもらって、ペイ・ナンテのワイナリーを一日かけて巡る予定だ。そして、明日はパリへ戻る。 だから今朝は、出発の前に、もう少しだけナントの歴史の木霊に触れておきたいと思った。 夜明けを待って、静かな街へと出た。 日差しはまだ柔らかく、夜の香りが空気に残っていた。ロワール下流の湿潤な大気が、眠りから目覚めつつある都市の鼓動を、どこか静かに包み込んでいる。 ホテルの外へ出て、最初に感じたのは、ナントの朝は音が少ないことだ。 先日訪れた Marché de Talensac の前を通った。市場はまだ半分眠ったままだった。 開店準備

  • ナントの暗闇ディナー/ロワール川ワイン散歩#66

    さすがに疲れて、しばらく部屋に戻って転寝した。 ディナーの時間はレセプションからの電話で間に合った。 ピックアップはフロントのところで待機してくれたコンシェルジェだった。 名前を言うと、スタッフが笑顔で近づき、声をかけてきた。 「今夜は、特別な旅にご案内します。どうぞ、携帯電話や時計など、光を発するものはすべてお預けください。」 言われるまま、すべてレセプションに置いた。不思議なのは、それだけで世界とのつながりをひとつ失ったような気持ちになった。この感覚が要るディナーへなんだな‥と思った。 数人ずつのグループに分かれ、スタッフに誘われて、暗闇の入口へ向かう。 「前の方の肩に、そっと手を

  • 和魂洋才・和魂漢才。Chemistry=化学を思い浮かべながら

    Chemistryの語源は、エジプト語の𓆎𓅓𓏏𓊖 (kēme / kēm)だ。これは「黒い土地」つまりナイル川の肥沃な黒土を指す。 これをギリシャ人は.χημεία (khēmeía) または χυμεία (khumeía)と呼び、錬金術を指す言葉にした。 アラビア人たちはالكيمياء (al-kīmiyā)と呼んだ。 これに定冠詞「al-」を付けると「al-kimiya」になる。それがラテン語の「alchimia」を経て、最終的に英語の“alchemy”となった。17世紀以降、錬金術が科学的思考へと移行する過程で、“alchemy”から“chemistry”が分離・発展したので

  • おどろくべき黒字の春──2025年4月米財務省月次報告書とDOGE構想の現実味

    先日発表された2025年4月の米財務省月次報告書(MTS)には、2,584億ドルの月間黒字が記録されていました。これは2021年4月の3,080億ドルに次ぐ歴代2位の水準です。わずか1か月前、2025年3月には1,605億ドルの赤字を出していた米国が、たった一か月でこれだけの反転を遂げたという事実に、僕はただ驚くばかりです。 これは果たして「DOGE構想(Debt Optimization via Government Efficiency)」政府効率化による債務最適化の成果なのか? もちろん、4月は例年、米国財政にとって特別な月です。個人および法人の所得税納付期限が集中するため、歳入

  • おためごかしの「悪平等」は「平等」をグズグズにする

    昨年2024年6月に発表された第41回英国社会態度調査(British Social Attitudes, 以下BSA)を読みながら、いまさら思ったのは、英国という国家が抱え込んでしまった深層の亀裂がヒトゴトではないなと思ったからです。。 BSAの調査によると「政府を信頼していない」と答えた人が全体の45%でした。これはBSA史上最高の数字だとのことです。そして「政治家が真実を語ると信じていない」人が58%にも上る。 すいません。繰り返します。日本国のことではない。英国です。 ふたつの数字から、明確に見えるのは、もはやこれは政治的不満でも、選挙制度への皮肉でもないということ。 国家その

  • 処方薬の価格を「ほぼ即時に30〜80%」引き下げる

    昨日2025年5月11日、トランプ大きな発表をしました。なんと、アメリカで売られている処方薬の価格を「ほぼ即時に30〜80%」も引き下げるための大統領令にサインするというのです。この新しい政策は、長年にわたって世界で最も高い薬代を払ってきたアメリカの現状を変えるための試みだと説明されています。 特に注目したいのは、この発表の背景にあるビル・アックマンの提案です。彼は著名なヘッジファンドマネージャーで、今年3月、SNS(X)上でこう語っていました。 「製薬会社が、同じ薬を海外でアメリカより安く売るのを違法にすべきだ」 とても強い主張ですね。トランプの発表は、このアックマンの考え方をその

  • 錫ワイン塩との三位一体03/ロワール川ワイン散歩#65

    こうして、既存の網が解体される一方で、ローマは新たな交易の構造を構築した。 それが、ワイン・錫・塩による、三角の交易である。 ブルターニュから東、ロワール川をさかのぼったガリア中部では、ローマ人が愛したワインの生産が急速に広がっていた。アンジュー、トゥレーヌ、さらにナルボンヌを経てローマ本国へとつながるその供給網において、ブルターニュの塩は食料保存の基盤として不可欠な存在だった。魚を塩漬けにし、オリーブや肉を守るための塩は、ワインとともにローマ的食文化を支える無言の柱となった。 そして北西。いまのコーンウォールやデヴォン地方に広がるブリテン島の錫鉱山からは、青銅のための金属が産出されて

  • 錫ワイン塩との三位一体02/ロワール川ワイン散歩#64

    こうした共同体の基盤となったのは、ブルターニュ独特の地勢だった。 三方を海に囲まれた半島という地理的条件は、外部との接触を限り、特定の集団がひとつの土地に長く定着するのに適していた。内陸部には緩やかな丘陵が広がり、森林と草原、湿地が入り交じるモザイク状の自然環境が、農耕と牧畜を組み合わせた複合的な生業を可能にした。そして、小さな川と湧き水のある谷筋では、畑を拓き、家畜を飼い、水を確保する生活が平穏のもとに育まれていた。 ・・モルビアン湾周辺のような海と内陸の接点部では、貝類の採集や魚の捕獲も加わり、生活の多様性はさらに広がった。 干潟には貝塚が幾層にも堆積し、浅瀬には小舟が浮かんだ。陸

  • 錫ワイン塩との三位一体/ロワール川ワイン散歩#63

    ロワール河口に広がるブルターニュ半島は、長い間、ローマ帝国にとって「世界の果て」に近い辺境の地でしかなかった。しかし僕らは、その「未開の地」が、国家権力によらない「支配なき秩序」を産み出した場所であることを知っている。 そこには、王も都市も貨幣経済もない。人々が協働し、世代を超えて土地に根ざしながら営む、もうひとつの文明のかたちがあった。 ブルターニュの大地に刻まれた巨石群がその墨痕である。カルナックやロクマリアケールにそびえる列石群やドルメンは、親族単位の共同体が互いに力を合わせ、土地と祖先をめぐる精神的な連帯によって築いた秩序の時代が此処に在ったことを黙しながらも語っている。 こ

  • 旧市街に残る塩の音/ロワール川ワイン散歩#62

    もう一度、Rue Kervéganの石畳を踏みしめながら、ゆっくりと歩いた。つい先ほど立ち寄ったグルー邸の白く端正なファサードが、まだ目の奥に焼きついている。18世紀末、三角貿易で繁栄した時代の石組みが、そのまま建物に封じ込められているように思えた。 角を左に折れ、トラムを渡って広場を越える。すると街の表情が変わった。通りの名前も、Rue Bon Secoursから「平和通り(Rue de la Paix)」へと姿を変えた。通りの入口にFalbalas Saint Junien(1 Rue de la Paix, 44000 Nantes)というクラシックな帽子屋があった。その店を横

  • ブルジョワの影をたどる散歩03/ロワール川ワイン散歩#61

    背面に回ってquai Turenne(テュレンヌ河岸通り)に出ると、ロワール川の光が差し込む。かつてはこの川が、交易の母体だった。貨物船、奴隷船、移民船・・この川のすべての歴史が、そっとこの建物の壁に触れていったかのように思える。 しかし、グルー邸とは違う。この建物にはマスカロンもない。象徴もない。装飾の中に「植民地の影」を匂わせるような意図もない。ただ、建築そのものの構造的正しさによって、時代を生き抜いてきた。 それは、ある種の抵抗だったのかもしれない。 都市というのは、記憶の書物である。グルーのように、壮麗なファサードで富と美を語る者もいれば、ペロドーのように、静かに均衡と規律の

  • ブルジョワの影をたどる散歩02/ロワール川ワイン散歩#60

    実は・・知っておくべきことがある。このフェイドー島(Île Feydeau)は、開発されるまで「ソルゼ島(Île de Saulzaie)」と呼ばれていたのだ。 おそらく、島の周囲に柳(saule)の木が多く茂っていたことに由来するのだろう。ロワール川の蛇行と氾濫が繰り返されるなかで形成されたこの中洲は、かつて瓦礫と湿地の入り混じる低地にすぎなかった。人々はここを貨物の一時保管所や川舟の係留場として利用する程度で、居住地として見る者はほとんどいなかったという。 地盤は非常に悪く、現在もこの島に建ち並ぶ18世紀の邸宅群は、どれもわずかに前かがみに傾いている。それは、地中の水分を含んだ軟弱

  • ブルジョワの影をたどる散歩/ロワール川ワイン散歩#59

    今朝の朝食は遅い時間に取った。 今日の夕食はドライバーのM氏お薦めの「暗闇ディナー」を予約したのと、あしたからのドライバーをさいど。ムッシュM氏に頼めるかをVTCの会社に確認した。それからシンガポールにあるオフィスに電話した。向こうは午後3時を回ったところだ。一時間ほど、やり取りをして街へ出た。そしてゆっくりとJean Jaurèsの駅へ向かって歩いた。 昨日と違って、空は青空に包まれていた。停留場にある券売機(グレーのタッチパネル式)でチケットを買った。トラムが来る。立っていてもドアが開かない。そばにいた人がドラムのドアにある緑色のボタンを押すと開いた。なるほどな・・と思った。 トラ

  • 王の勅許と黒い航路/ロワール川ワイン散歩#58

    帰りのトラムでViarme-Talensacに向かう途中、窓の外に流れるナントの街並みをぼんやりと眺めながら、僕はひとつの問いにとらわれていた。なぜナントは、18世紀フランス最大の奴隷貿易港となったのか。その背後には、どれほど根深い「経済の必然」があったのか。 ナントが三角貿易に本格的に加わったのは18世紀初頭。ポルトガル人が先行して築いた大西洋貿易網を、フランスも国家戦略として採り入れた時期である。この三角貿易とは、ヨーロッパからアフリカへ布や武器を送り込み、現地で人間を奴隷として買い取り、カリブやアメリカのプランテーションに送り出し、そこで得た砂糖、コーヒー、ラムを欧州に持ち帰る

  • 三角貿易へ繋がる奴隷売買ビジネス02 / ロワール川ワイン散歩・番外08

    【】 この供給の背後には、アフリカ内陸部の協力があった。たとえば、西アフリカのカネム=ボルヌ王国やガーナ王国は、戦争捕虜を奴隷として獲得し、サハラ交易路を通じて北アフリカへと売却していた。奴隷たちは、タガザ(塩鉱の町)やシジルマサ(モロッコ南部)といったキャラバン都市で中継され、マラケシュやフェズといった地中海交易都市に送られた。ここからさらに海路でイベリア半島やイタリアへも運ばれていった。 一方、東アフリカではスワヒリ文化圏の都市(モンバサ、キルワ、ザンジバル)が重要な奴隷供給拠点であった。アラブ商人たちはこれらの港町で黒人奴隷を集め、インド洋のモンスーン貿易圏にのせてアデン(イエメ

  • 三角貿易へ繋がる奴隷売買ビジネス/ ロワール川ワイン散歩・番外07

    西暦1000年を境に、ヨーロッパ大陸内では奴隷労働の姿が次第に消えていった。これは単に労働形態の変化ではなく、思想的・宗教的な価値観の変容によるところが大きい。とくにキリスト教の倫理観が社会に深く浸透するにつれ、キリスト教徒が他のキリスト教徒を奴隷として使役することに対する抵抗が強まり、奴隷制は名目的にも忌避されるようになった。その結果、ヨーロッパ内では古代ローマ以来の奴隷制度は、徐々に農奴制(serfdom)へと転換していく。農奴は土地に縛られた労働者であり、形式上は「人間」として扱われたが、実質的には世襲的な隷属状態に置かれ続けた。 しかし、奴隷制度自体がなくなったわけではない。

  • 奴隷制度が維持されなかったガリア / ロワール川ワイン散歩・番外06

    西ローマ帝国の崩壊によって中央の支配が失われたガリアの地では、ローマ的な奴隷制度は維持されないまま終息へと向かった。むしろ、その代替として、後の封建制につながる農奴制へと展開していったのである。 その大きな要因の一つは、ローマ帝国における奴隷制度が、都市社会と法制度に支えられた制度だったことにある。奴隷の売買、管理、刑罰といった運用は、ローマ法の枠組みに組み込まれ、それを執行する官僚機構、市場、貨幣経済といった基盤に依存していた。しかし476年以降、ガリアを含む西方の旧属州では、これらの制度的・経済的土台が西ローマの崩壊とともに姿を消した。帝国の行政官はいなくなり、徴税制度は停止し、

  • 奴隷制度が農奴制度へ / ロワール川ワイン散歩・番外05

    ローマ帝国は、その奴隷制度においてギリシャ的な要素を引き継ぎながらも、より制度的・商業的に発展させていた。ギリシャにおける奴隷は、ポリス社会における自由市民の理想生活を支える補助的存在として位置づけられていたが、ローマでは奴隷が都市、農業、軍事、さらには経済全体に組み込まれ、「帝国を維持する根幹的な労働力」として機能していた。巨大なラティフンディア(大農園)では、戦争捕虜として獲得された大量の奴隷が酷使され、ローマの穀物供給を支えた。市中では家内奴隷から書記・医師に至るまで、あらゆる分野に奴隷が浸透していた。 しかし、こうしたローマ的奴隷制度の拡張には限界があった。 第一に、制度の根

  • アリストレスの自然奴隷論/ロワール川ワイン散歩・番外04

    つまり「穀物に依存する文明」とは、本来「飢えた猿」として生存していた人類を、定住と飽食の方向へと急激に導き、その見返りとして寿命の延長と人口の爆発的増加をもたらした。しかし、それを支える社会システム。すなわち灌漑、貯蔵、分配、徴税、治安は、膨大な労働力の制度的確保を必要とした。 そのために、人類は「支配の論理」を制度化した。他者の時間と身体を自らの所有物として組み込む構造。それが奴隷制の起源である。 それは暴力ではなく「技術」として、また「合理性」として登場した。文明とは、他者を使い潰すことを正当化するための枠組みでもあったのだ。 貯蔵された穀物は飢餓を退け、人口を養い、文明を持続させ

  • 奴隷制度は何処から来たのか02/ロワール川ワイン散歩・番外03

    もっとも、すべての狩猟採取社会において奴隷的慣行が皆無だったわけではない。人類学的に注目すべき例外は、北米太平洋岸。現在のアラスカ南部からブリティッシュ・コロンビア沿岸地域にかけて暮らしていた、トリンギット族やハイダ族などの先住民社会である。 彼らは、豊かな海洋資源。特にサケの遡上、アザラシ、クジラなどの海獣効率的に利用することで、狩猟採取文化でありながらも、高度な定住性と資源の余剰を実現していた。この結果、階層的な首長制、戦利品の蓄積、儀礼的な富の再分配(ポトラッチ)といった、農耕文明に似た社会構造が形成されていた。 このような社会では、戦争や襲撃によって捕らえられた他部族の人々を、

  • 奴隷制度は何処から来たのか/ロワール川ワイン散歩。番外02

    奴隷制廃止記念碑を出てトラム3番の駅Médiathèqueまで歩いた。そしてViarme-Talensacまでトラムに乗った。途中Commerce駅で下車し、トラム3号線に乗り換えた。夕食はホテルでするつもりだった。 トラムの中で考えたのは「なぜヒトは、他者を奴隷として使うのか?」ということだった。 人類が狩猟採集から定住へと移行した最初の拠点は、チグリス・ユーフラテス、ナイル、黄河といった大河流域だった。これらは肥沃な沖積地帯を抱えており、自然の恩恵によって高い生産力が約束されていた。しかし、そこに文明が成立するためには、単なる自然条件だけでなく、それを活用する「技術システム」と「

  • 奴隷制廃止記念碑/ロワール川ワイン散歩#57

    アンヌ・ド・ブルターニュ橋を渡ってナント島から北岸へ戻ると、右手に現れるのは、白い壁のような建物だ。奴隷制廃止記念碑、Mémorial de l’Abolition de l’Esclavage。この記念施設は、地下に沈むように造られている。階段を下り、半地下の回廊へと足を踏み入れたとき、訪問者はまず、静謐な闇と向き合うことになる。 構造はきわめて簡素で、外の自然光は一切入らない。代わりに、控えめな照明が壁面に沿って無数の影を落とし、沈黙の中で語られない記憶が息づいている。回廊の壁には、奴隷制度にまつわる年表や、各国における廃止法の抜粋が多言語で刻まれており、日本語の表記も見受けられた

  • アンヌ・ド・ブルターニュとナント自治の記憶/ロワール川ワイン散歩#56

    アンヌ・ド・ブルターニュ橋は、決して大きな橋ではない。旅人の多くがこの橋を見過ごし、足早に通り過ぎてしまうかもしれない。だが、この橋こそが「群島都市ナント」という都市構造の要であり、ナント島(Île de Nantes)を本土と結び続けてきた歴史の動脈だと、僕は思う。 ナント島から北岸へ戻る途中、僕は橋の中腹で足を止め、しばしロワール川を見つめた。 この川は、かつて「怒れる川」として恐れられていた。長い蛇行の果てに大西洋へと注ぎ込むロワールは、降雨や雪解けに応じて荒れ狂い、幾度も洪水を引き起こしては川沿いの人々を苦しめてきた。 中洲が幾重にも連なるナントの地形において、橋を架けるとい

  • バナナ倉庫からグリュ・ティタン・グリーズまで/ロワール川ワイン散歩#55

    機械象のある広場からロワール川に沿って東へ歩いていくと、やがて川に面して連なる長大な倉庫群にたどり着く。ここは、かつての「バナナ倉庫(Hangar à Bananes)」であり、20世紀前半、ナントが西アフリカ諸国とのバナナ輸入で繁栄した時代の貿易拠点だった。 ナントと西アフリカは、奴隷交易を失った後、バナナによって再び結ばれた。 ナントは大航海時代以降、フランス随一の奴隷貿易港として名を馳せた都市である。アフリカ西岸で捕らえられた人々を奴隷として新大陸へ送り出し、そこで得られた砂糖やラムなどの交易品を本国へ運ぶ「三角貿易」の一角を担い、莫大な利益を上げていた。ナントにはそのための船団

  • 旧デュビジョン造船所/ロワール川ワイン散歩#54

    アンヌ・ド・ブルターニュ橋を渡って南岸へ入った。橋の中腹から振り返ると、旧市街の屋根と塔がロワールの霞んだ陽光に包まれて、その下を川の流れがゆっくりと横切っていた。川面のきらめきを追いながら、僕は静かに歩を進める。 目指す旧デュビジョン造船所Chantiers Dubigeon(Boulevard Léon Bureau, 44200 Nantes)は、現在「Parc des Chantiers(造船所公園)」として公開されている。かつての造船所の巨大な組立工場「Les Nefs」は「マシーヌ・ド・リル(Les Machines de l'île)」という展示スペースになっているそう

  • アンヌ・ド・ブルターニュ橋/ロワール川ワイン散歩#53

    そして僕は、ブルス広場(Place de la Bourse)を後にして、フォス通り(Quai de la Fosse)を抜け、グロリエット広場にある駐車場(Parking Gloriette)を通り過ぎた。 このあたり一帯は、かつて「グロリエット島(Île Gloriette)」と呼ばれていた中洲だった。ナントには大小さまざまな島が存在していたが、その中でも最大は「ナント島(Île de Nantes)」であり、それに次ぐ規模を誇ったのがこのグロリエット島だ。しかし20世紀初頭から中葉にかけて、都市再開発の波の中でこの島は徐々に埋め立てられ、1920年代から1950年代にかけて現在の

  • 革命ではない、ただのクーデターだった十月革命/ロワール川ワイン散歩・欄外

    ロマノフ王朝の終焉を追い始めると、必ず共産主義の色がついた事実が執拗に追いかけてくる。忍び寄るように・・だ。とくにカウンター・インフォメーションが少ない話は細心の注意が必要だ。それは、キリスト教の始まりを追いかける作業によく似てる。事実は誰かがこう言ってたという事実しかない。あるいは、誰かがこう言ってたと、言ってた・・そんな事実のウエファースだ。そのうえ、その事実に反証する事実がない。 そんな泥沼に潜りこむのがロシアの革命を追うときの足枷である。 1917年10月にロシアで起きた「十月革命」について、話するのに気が重い理由はそれだ。 と言いつつ、しばらくぶりにエイゼンシュタインの「レー

  • フランス革命の誤解/ロワール川ワイン散歩・欄外01

    フランス革命は、しばしば誤解されている。アンシャン・レジームの崩壊は、労働者の勝利ではない。というのも、当時、いわゆる「労働者階級」はまだ存在していなかった。 「労働者」としての階級が生まれるのは、産業革命以降のことである。農民でもなく、商人でもなく、職人でもない。つい最近まで季節労働者として都市と農村を浮遊していたような層が、産業革命によって生み出された新しい労働構造の中で、「労働者」として初めて位置づけられることになった。それがこの階級の成立理由だ。 封建制から都市経済へ、さらに資本主義的生産様式へと移行する過程で、土地を失った農民や自営業者、手工業者たちが、労働市場に流れ込み

  • パッサージュ・ポムレー02/ロワール川ワイン散歩#52

    こうした「パサージュ」なる商業施設の発生と興隆を考えると、やはりフランス革命がもたらした「公共空間の変容」と「新しい市民階級の誕生」について触れずにはいられない。 貴族階級の没落とともに、王侯の館や修道院の土地が解体・転売されるなかで、都市には「空き地」や「解体跡地」が出現した。こうした空間が民間資本によって再開発され、新たな商業用途へと転用されたとき、「市民=citoyen」のための、新しい建築様式――鉄とガラスによる透明で開かれた構造――すなわち「パサージュ(passage)」が誕生したのである。 革命によって自由と平等を掲げ、社会の主役に躍り出た新しい「市民たち」は、もはや身分

  • パッサージュ・ポムレー/ロワール川ワイン散歩#51

    博物館の出口を出て、城内の広場を横切り、外堀沿いに設けられた門からから街へ出た。 すぐ隣には、ナント市の観光案内所(Office de Tourisme de Nantes)があるので、こちらにも寄ってみた。建物は近代的で、ガラス張りの外観が目印だ。 自動ドアを入ると、正面にカウンターがあり、英語対応のスタッフが常駐していた。 館内には無料のパンフレットや地図、バス・トラムの路線案内、イベントカレンダーなどが整然と並んでいた。 「ナント・パス(Nantes Pass)」についての説明資料もあり、城や美術館、市内の主要施設の入場がセットになった観光パスとして紹介されていた。日数別に24時

  • 城内ナント歴史博物館/ロワール川ワイン散歩#50

    塔を降りて広場へ戻り、案内表示に従ってナント歴史博物館(Musée d'histoire de Nantes)へ向かう。 博物館の入口は城内の建物の一角にあり、入場料は常設展と特別展のセットで一人9ユーロ。受付で日本語のパンフレットを希望すると、在庫はないとのことだったが、英語版は用意されていた。 館内は時系列に沿ってナントの歴史を展示している。 展示はおよそ30のセクションに分かれており、先史時代から現代までを通覧できる構成になっている。 導入部では、ガロ=ローマ時代の出土品や中世都市の再現模型が展示されていた。城の歴史との重なりも随所で示されており、ナントが港町としてどのように発

  • ブルターニュ公爵城散策02/ロワール川ワイン散歩#49

    展示室を出て、広場の西側へ回ると、塔への登り口がある。 中世の構造を活かしつつ、安全のために鉄製の手すりが後付けされている。 階段は石造で、螺旋状。段差は狭く、足元の照明は最小限。 登る際には対向者とのすれ違いが困難で、途中に待機用の踊り場が二か所設けられていた。 およそ60段で上層部へ到達する。塔の上部は城壁へとつながっており、通路は一部開放されている。 城壁にはいくつかの観測窓(銃眼)が保存されており、城の防衛機能を説明するパネルも設置されていた。 一部の区画は改修中で立ち入り禁止になっている箇所もあったが、周回ルートとしては約3分の2が公開されていた。 城壁は厚さ約1.5メート

  • ブルターニュ公爵城散策/ロワール川ワイン散歩#48

    第一室は城の建設に関する資料が中心で、13世紀の地図、石造建築の構造模型、当時の道具のレプリカなどが並ぶ。 ジャン1世・ル・ルーの名が確認できるパネルがあり、木造から石造への移行が図示されていた。 第二室は考古学的出土品が主体。中世の陶器片、鉄製の錠前、硬貨、革製品の断片などが展示されている。 どれもナント市内やその周辺で発掘されたもので、説明は仏英併記。 第三室には、城の防衛機能や都市との関係についての説明がある。城壁の断面模型とともに、18世紀の城郭構造の変遷が年表で示されている。 また、要塞化が進んだ時代の銃眼や射撃用の小窓の実物も移設展示されていた。 展示物はいずれも保存状態は

  • ジャン1世・ル・ルー02/ロワール川ワイン散歩#47

    たいていの史書で名前が出てこないジャン1世・ル・ルー(Jean Ier le Roux)を知ったのは、前々職の頃、仕事の合間に手にした『Histoire de la Bretagne』からだった。 それはフランスの地方史をテーマにした専門書で、どちらかといえば無味乾燥な文献だった。 そこに数行だけ彼の名前と業績が簡素に記されていた。 「ジャン1世・ル・ルー(Jean Ier le Roux)は、ナントに石造の城を築き、公国を秩序のもとに統治した。」という程度の記述だったが、僕の記憶に何故か強く残った。 "赤毛のジャン"。石を選び、文書で統治し、剣より秩序を選んだ公。戦場を駆ける英雄では

  • ジャン1世・ル・ルー/ロワール川ワイン散歩#46

    アラン二世が斃れると、いつものように“終わりなき綱引き”の中へブルターニュは堕ちた。 「敵」が「隣人」となり、そして「海」は「国境」ではなく「通路」へと姿を変えた。 かつてヴァイキングと血で争ってきたブルトン人たちは、今やその子孫たち。ノルマン=イングランド王たちと、海を隔てて対峙することとなった。 この時期、ブルターニュは、三つの力の軸の狭間に置かれることになる。 それはフランス王権、イングランド王権(ノルマン系)、そして自立を願うブルトン貴族階層である。この三者の綱引きが、以後数世紀にわたってブルターニュの命運を翻弄していく。 アラン二世以後のブルターニュの支配者たちは、剣よりも

  • EU BattleGroups

    ゼレンスキーの「アメリカ軍が来ないなら、EU軍にきてほしい」という発言は、実のところそれほど突飛ではない。 "EU軍"なるモノは冷戦初期、フランス政府によって提唱された「欧州防衛共同体(EDC)」としてすでに1950年代に具体化されているからだ。この構想は、西ドイツの再軍備を抑制しつつ、ソ連に対抗する集団的防衛能力を欧州自体で整えるというもので、当時の西欧統合六カ国。フランス、イタリア、オランダ、ルクセンブルク、ベルギー、西ドイツによる超国家的な軍事組織の設立を目指していた。たしかに1952年に条約までは調印されたが、最終的にフランス議会で批准されず頓挫した。その後、西ドイツはNAT

  • イーロン・マスクDOGE撤退の意図

    ミルケン研究所グローバル会議におけるイーロン・マスク氏の非公開パネルセッションは、政府効率化局(DOGE)の活動と今後の展望を扱う内容だった。しかし、そのニュースより前に「マスク・同機関を退任する意向を示した」という報道があった。 僕は考えてしまうと共に納得した。 なぜ退任の意思を事前に明かしながら、セッションを予定どおり実施したのか。 確かにDOGEには、制度的な限界がある。 2025年初頭、連邦政府の行政合理化を目的に設立されたこの新組織には、立法権も執行権も与えられていない。あくまで「提案機関」という位置づけであり、改革案の実現には議会の協力が不可欠だ。 DOGEの提案内容は、

  • ミルケン研究所グローバル会議#02

    ミルケン研究所(Milken Institute)は、非営利・非党派のシンクタンクである。今この瞬間のリッチな人々の鳩首会議なので、ニュースはわりと冷ややかに見てるね。 今年は、NVIDIAのCEOでAI業界の先導者ジェンセン・フアン氏が、AI革命がもたらす産業構造の再編を語り、シティグループのジェーン・フレイザーCEOが「金融包摂と持続可能な資本主義」の実践例を示した。シタデルのケン・グリフィン氏は、マーケットのボラティリティと地政学リスクに言及し、投資の未来を論じている。 その席で、イーロン・マスクが非公開でセッションを開いたわけだ。 クローズドな部屋の中で、招待制、記録も制限付き

  • ミルケン研究所グローバル会議

    先日、用事があって、お役所さまに出かけた‥まあその「お待たせぶり」は銀行業務並みなのに驚かせるね。マクドナルドの窓口だったら、お客はあきれ返って帰っちまう・・そんな非効率的な作業を平気でやってる。まったくもって前時代的で驚くばかりだ。 で。待たされながら妄想したのは、イーロン・マスクが云うところのテクノクラート政治(technocratic politics)デジタル官僚制(digital bureaucracy)という奴なんです。 彼の「もういいんじゃないの?そろそろ変わろうよ」という姿勢にしみじみ同感した(笑) つまり、政治的意思決定を民意や感情から切り離し、多くの部分を専門知と

  • アルモリカからブルターニュへ#03/ロワール川ワイン散歩#45

    ナントの昼下がり。ランチの喧騒の中で、アジア人は僕ひとりだった。 観光客というより、地元の人ばかりが席を埋めていた。会話の調子や服の色、ナイフとフォークの音に、どこか柔らかい生活の重みがあった。 僕の目の前には、チーズの香りが立ち上る大きなピザと、よく冷えた白ワインのグラス。 ナイフで生地を切り分けながら考えてたのは、アラン二世“ねじれ髭のアラン”の祈願成就(939)のことだった。 亡命先のイングランドから帰還し、トランブルの戦いでヴァイキングを退けた男。アラン二世のもとに、なぜブルターニュに割拠していた諸侯たちが競うように集ったのか。な ぜ地元育ちでもない“余所者”アランのもとで、

  • ブルターニュ公国の成立#02/ロワール川ワイン散歩#44

    彼らはフランク王国の内乱に乗じてセーヌ川をさかのぼり、パリを脅かし、ロワール川を伝って西方内陸部にまで達するようになった。ブルターニュの沿岸都市は次々と襲撃を受け、修道院は焼かれ、農地は荒れ、民は略奪されていった。もはやそれは一過性の襲撃ではなく、定住と植民を伴う持続的な侵略へと変貌していた。 この結果、ブルターニュの諸侯たちは再び四散し、かつてノミノエとエリスポエが夢見た「独立王国」は、地図の上にも実体を持たない、名ばかりの存在となってしまった。 王も旗もなく、祈りの声だけが、焼け跡の修道院に残された。 それでも民が完全に解体せず、荒廃を免れたのは、教会の力にほかならない。 やがて

  • アルモリカからブルターニュへ/ロワール川ワイン散歩#43

    エルドル川の暗渠をこえてさらに歩くと、通りの名前はストラスブールue de Strasbourgと替わった。 ストラスブールは、1871年の普仏戦争でドイツに奪われ、1918年の第一次世界大戦終結までドイツ領となった地域だ。フランス人にとっては「失われた都市」そして「奪還された都市」という意味で象徴的な名前だ。エルドル川の暗渠の始点に建つ「Monument aux 50 Otages(50人の人質記念碑)」に相応しい名前だと思う。 同じ通り沿いにナント市役所Mairie centrale de Nantes - Hôtel de Villeが有った。 歩いているうちに驟雨は已みナントの

  • 小手先の「奇跡」を方便とする教団の慧眼/ロワール川ワイン散歩#42

    当初、この地はコンディウィンクムCondevincum)と呼ばれていた。これはラテン語の "confluens"(合流点)に由来する名前だ。まさにこの地が、ロワールとエルドル、そして小さなセーヴル川までもが交わる「都市の大動脈」であることを、ローマ人はよく理解していたのだろう。 ローマがガリアを征服したのは紀元前1世紀のことだった。ユリウス・カエサルが「ガリア戦記」に記したように、ローマの軍団は徐々にケルト諸部族を圧倒し、西ガリアへと支配を広げていく。ナントも例外ではなかった。やがてこの地はローマの支配下に入り、都市は「ポリス」ではなく「ウィカス(vicus)」・・地方の町として発展し

  • ナント市50人の人質記念碑に立つ/ロワール川ワイン散歩#41

    市場を歩いていて感じたのは、商品そのものの魅力よりも、その背後にいる人々の存在感だった。 どの店にも、必ず誰かが立ち、声をかけ、切り分け、笑い、提案し、そして「また来てね」と、親しげに言葉を添えてくる。観光客である僕にも、よそよそしさはまるでなく、むしろ「ようこそ、こっちへ」とでも言いたげな、温かい視線が交差していた。 あるチーズ店で、並べられたCuré Nantaisの熟成具合について尋ねると、若い店主が「匂いで判断して」と笑って答えた。オレンジ色の表皮に包まれたそのチーズからは、熟れた香りがふわりと立ちのぼっていた。じっと見つめていると、店主は気前よくサンプルを一切れ差し出し、「

  • タランサック市場/ロワール川ワイン散歩#40

    聖シミリアン広場からジャンヌ・ダルク通りを少し歩くと、道が切り開かれたように左手にタランサック市場(Marché de Talensac/Rue Talensac, 44000 Nantes)が現れる。全長160メートル、幅16メートルもあるというから、僕はまずその大きさに驚いた。 https://archives.nantes.fr/files/live/sites/Archives/files/pdf/D%C3%A9couvrir/publications/FICHE-MEMOIRE-TALENSAC_web.pdf タランサック市場は、ナント市内に現存する市場のなかでも、もっ

  • 71分で世界は変わる。DOGEと官僚主義の戦い

    IRSのホームページにサインインすること。それは、納税という市民の最も基本的な責務にアクセスする、ありふれた行為です。でも、その「ログイン」ボタンが本来あるべき右上になかったんですな。これ、些細なことのように見えるかもしれません。でも、DOGE(政府効率化局)にとっては、その存在意味を伝えた象徴的な事件でした。 Internal Revenue Service An official website of the United States government Pay your taxes. Get your refund status. Find IRS forms

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