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勝鬨美樹
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2020/12/27

  • 葛西城東まぼろし散歩#13/砂町07

    富士塚を出るとバス停がある。東陽町に向かってる。30分に一台程度。これに乗った。最初はそのまま葛西橋通りまで歩いてイオンスタイルでお茶してから帰ろうかと思ったが、ちょっとこれ以上歩くのはきついなあと思えたンで、あきらめた。富士塚へ行く前にバス停に貼ってある時刻表を見ておいたから、五分くらい前にバス停に戻った。バスは比較的空いていた。高齢者が多い。町の交通手段なんだろうな、と思った。席に座れた。 元八幡通りは、もう商店街という体はなしていなかった。商店らしきものはあまりならんでいなかった。魚店、肉店、豆腐店、洋品店、花店などがちらほらと有った。 僕らは、東陽町でバスを降りた。バスは錦糸町

  • 葛西城東まぼろし散歩#12/砂町06

    参拝の後、裏の富士塚に回った。「砂町の富士塚」である。 由来を引用する。 「富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。 江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道

  • 葛西城東まぼろし散歩#11/南砂町05

    砂村新左衛門の碑は、富賀岡八幡宮の境内入り口の側あった。 祭日だったが参拝者はいない。僕ら夫婦しかいなかった。 「砂村新左衛門は相模国三浦郡久里浜の人だ。いまの神奈川県横須賀市から一族を連れて此処へ来たんだ。」 「三浦半島の人なの?」 「いや、ちがう。彼は摂津国上福島のひとだ。いまの大阪、北区上福島の出身だ。早い時期から諸国を巡っている。農家だが新進の人だったようだ。人望が高かった。子弟を連れて関東に渡ってきたのがいつの頃かはわからない。まずは武蔵国久良岐郡野毛・・いまの神奈川県横浜市あたりに移り住んで野毛新田を開拓した。そして久里浜の内川新田の開拓もしている。この二つで実績を付けたん

  • 葛西城東まぼろし散歩#08/南砂町02

    東西線を、日本橋から南砂町へ向かって乗った。日本橋へは都営線で宝町から向かった。 春めいた風が明るい。いつもなら日本橋までくらいまでは歩くんだが、ここンとこ、腰が危ういからね。やめといた。医者の云うことには「脊柱管狭窄」というやつを起こしているらしい。・・痛くてそれを庇うから腰が曲がっちゃうやつね。アレだ。 「TAXIで行かないだけ良いんじゃない?」と嫁さんにキツイこと言われた。 「ん~無理しなきゃいいんだけどな。」と言いつつ、iphoneに装備されている万歩計を見た。 これで計ると2000~3000が痛くなり始める曲がり角だ。まあ気を付けながら「まぽろし散歩」をしましょう。 東西線

  • 葛西城東まぼろし散歩#10/砂町07

    嫁さんと人通りのない真っすぐな団地の中の通りを歩きながら、永井荷風を思い浮かべた。 引用する。荷風随筆集の「元八まん」である。 「或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄てには豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果てはいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるは

  • 葛西城東まぼろし散歩#09/砂町06

    【南砂町を出て「もと八幡」に向かって歩いた。団地の中の通りを歩いた。ずっと人影はなかった。 「もともとは埋め立て地でしょ?」 「ああ、江戸時代はな。日比谷入江/江戸前島より先の水ったまりが、暫時開墾開発が進んだのは・・江戸の十カ町が出来上がっていく途中、ほぼ半世紀くらいからだ。 その半世紀を経て、江戸城より東(城東)・宮戸川の改良版・墨田川より向こう・・所謂下総地区も開墾に曝されたんだよ」 「・・曝された?」 「ん。町には人が棲むところと、人の糧を作り出す所がいる。だから家康さんの大事業も、開墾開発は江戸を超えて広がっていったんだ。下総は、千葉房総の周辺地区だ。千葉房総を向いて上総・そ

  • コリョサラムGoryeo saram#09/アゼルバイジャンのバクーにて#09

    20世紀の始まり、革命ロシアは輝いて見えた。 我欲な支配者に苦しめられる人々はマルクス主義者の美句に酔った。ロシアが唱える全面的農業集団(コルホーズ)は労働の最も理想的な姿に見えたのだ。1930年㋂㏡、スターリンは「成功による幻惑」論文を発表した。彼は最も理想的な生産システムとして「農業の集団化」を唱え、これを猛然と推し進めた。しかし、あるのは建前と理想論だけだ。沢山の集団農場は凶作に襲われた。みんなが頑張るなら、俺は手を抜く。みんなで同じ量の仕事をするなら、なるべく仕事量の少ない方法を取る。強制的な搾取者が無ければ、相互監視能力だけでは、作業量は極端に落ちる。 現場は飢饉に陥った。

  • 葛西城東まぼろし散歩#07/砂町04

    googleMapを見ながらどうやって行くかな?と考えてた。 江東区は広い。面積は43.01平方キロメートルとのこと。都内で一番大きい区は大田区60.66平方キロメートル。次は世田谷区58.05平方キロメートル。次は足立区53.25平方キロメートル。4位は江戸川区49.96平方キロメートル。5位は練馬区 48.08平方キロメートル。6位が江東区だ。 もともとは江戸入り江の東・江戸湊の利根川荒川が流れ込んだ広大な汽水地帯な遠浅湿地・葦原地帯だ。いまでも江東区内には、島の名前が多い。亀島、大島、宝六島、永代島等々・・幾つも点在する小さな中州のような島々を開墾し繋いで出来上がったのが江東区だ

  • 還りたい街マンハッタン

    もう何年も離れてる。地下鉄の音を思い出して目が覚めた

  • コリョサラムGoryeo saram#08/アゼルバイジャンのバクーにて#08

    1937年8月21日、政府・全連邦共産党中央委員会の決定により、極東国境地域から朝鮮人の追放が命じられた。 引用する。 「ソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会決定第1428-326号 極秘 1937年8月21日 〇極東地方国境地区の朝鮮人住民の移住について〇 ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会は決定する。 極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するため、以下の措置をとること。 全連邦共産党極東地方委員会、極東地方執行委員会および内務人民委員部極東地方管理局に対し、極東地方の国境地区、すなわちポシエット、モロトフ、グロデコヴォ、ハンカ、ホロリ、チェルニゴフカ、スパッスク

  • コリョサラムGoryeo saram#07/アゼルバイジャンのバクーにて#07

    いまさら言うまでもないが、ロシア/ソ連邦/ロシアはスラブ人だけの国ではない。東へ行けば行くほど、その多民族性は際立っている。 1932年初頭のデータを見ると‥極東地方におけるロシア人は103万3000人(全人口の58.2%)ウクライナ人36万5000人(20.6%)朝鮮人19万人(0.7%)ベラルーシ人6万人、中国人5万人、ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人とある。非ロシア人の文盲率は際立って高く、支配者であるロシア人の言葉は他民族に伝わらなかった。・・多くの悲劇はここからはじまった。 1926年1月、ソ連邦人民委員部審議会は「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、

  • コリョサラムGoryeo saram#06/アゼルバイジャンのバクーにて#06

    国境を越えて朝鮮半島を北へ渡った朝鮮人が沿海州に現れたのは、同地が清国からロシアのものになってからだった。清朝は朝鮮人の移民を許さなかった。比してロシアは朝鮮からの難民を見逃した。難民は大半が農民だった。主に北方朝鮮族と東方日本海側の朝鮮人たちだった。 1910年、日本が朝鮮を統治国とした。 その政治的/経済的圧力から逃れるため、多くの農民がさらに極東ロシアへ流民した。ロシアは農地政策を奨励し、国籍がどこであろうと参与し田地田畑を耕すことを許した。そのため多くの朝鮮人が極東ロシアへ国を逃れて移住した。 往時の(不明確だが)史料によると、1923年の極東ロシアにおける朝鮮人は11万2

  • 葛西城東まぼろし散歩#06/砂町03

    丸八通りから砂町銀座に入った。砂町銀座は明治通りに向かって走る商店町で比較的長い。日曜日なので、どうかなと思ったが意外のほか開いていた。ただし中華系が多かった。 嫁さんが興味津々で色々総菜類を買い占めていた。ウチのブンというよりスタッフの夕食分だな。 「みてみて、焼きそば180円よ。どうみても400円分は有るわ!」と大喜びしてた。ひとしきり買った後、通り半ばにある珈琲館に入った。 「珈琲館がまだあるのね!いつのまにか木挽町は無くなっちゃったけど」 定番のホットケーキが健在だった。いいなぁ~こういうの。「らしさ」はちゃんと「らしさ」として残してほしいと思う。どっかのでっち上げ老舗もどきと

  • 葛西城東まぼろし散歩#05/砂町02

    五円玉公園の横を抜けて、大島の旧い町を歩いた。丸八橋北詰から左折して橋を渡った。左横に大島稲荷がある。 「大きなところね」橋を渡りながら嫁さんが言った。 「大島神社だ。伏見稲荷大社の分社だったな。たしか」 「千本鳥居のあるところ?行ったわね」 「ああ、お稲荷さんの総本宮だ」 「おもかる石でしょ?持ち上がらなかった」 「持ち上がるわきゃない。石灯籠だ」 「こちらにもあるのかしら?」 「どうかな・・」 丸八橋は典型的な「江東区の橋」だ。川が地盤沈下を続けたため、どんどんとコンモリ丘になっている。 「あら・・砂町だわ」 「ん。砂町だ」 「え~こんなに近いの??大島から」 嫁さんは結婚以前は亀

  • JFK/june10,1963

    まず、平和そのものに対する私たちの姿勢を検証してください。私たちの多くは、それが不可能だと考えています。非現実的だと考える人があまりにも多いのです。しかし、それは危険で敗北主義的な考えです。戦争は避けられない、人類は絶望的だ、自分ではコントロールできない力にとらわれている、という結論に達してしまうのです。私たちはそのような考えを受け入れる必要はありません。私たちの問題は人為的なものです。だから、人間が解決することができる。そして、人間はどこまでも大きくなれる。人間の運命に関わる問題は、人間を超えることはできない。人間の理性と精神は、解決不可能と思われる問題をしばしば解決してきたし、また

  • おそらく今回のバイデンのゼレンスキーへの訪問は、書かれていたこととは違う目的だったろう

    多くの反戦デモが欧州各地で起き上がっている。 ウクライナへの武器供与反対。EUのなし崩し的参加反対の反戦デモである。 日本ではニュースにならない ロンドンでは、ウクライナの平和と英国政府によるキエフへの武器供与の停止を求める同様のデモが大規模なグループによって行われた。このイベントは Stop the War Coalitionによってロンドン中心部のポートランドプレイスで行われ、前労働党党首のジェレミー・コービンも参加した。 Large crowd in London demands end to sending weapons to Ukraine Anti-war

  • コリョサラムGoryeo saram#05/アゼルバイジャン・バクーにて#05

    ロシア革命は、レーニンがタナボタで手に入れた利権だった。時折歴史の女神が見せる悪戯だ。 しかし「ロシア」を手に入れてはみたが・・である。「共産主義」は経営のための原動力とするにはあまりにも机上の空論だった。レーニンは瞬く間に国家経営に行き詰った。・・ロシアは深刻な飢饉に陥っていった。幾つもの内戦が各地で始まり彼の目指した中央集権制は崩壊寸前まで至った。その危機の中で、スターリンが書記長に就任したのだ。1922年4月だ。 彼が最初に仕掛けたのは、共産主義

  • 葛西城東まぽろし散歩#04/砂町01

    中川船番所跡から小名木川へ入った。 江東区は川の都だ。しかし今ほとんどの川が無くなってしまった。大きな川筋しか残っていない。小名木川はその一つだ。 少し入ったところに宝塔寺が有る。真言宗智山派だ。慶長15年(1610)に法印賢意が創建したという。 小名木川からすこしはいったところに塩舐め地蔵がある。 由来を読む。 「この塩舐め地蔵は石井某によって小名木川から掘り出され、宝塔寺に納められたと伝えられます。 小名木川は慶長年間に開削されており、おそらく宝塔寺の開創(慶長15年)とともに境内に安置されたものでしょう。 塩地蔵とよばれる地蔵尊はきわめて数少なく、供えられた塩をつけると疣が取れる

  • 葛西城東まぽろし散歩#03/大島03

    番所跡のプレートがある旧中川岸から少し離れたところに「中川船番所資料館」がある。寄ってみた。 一階がエントラスと受付で2階3階が展示室である。入館料を払ってからエレベータで3階にあがった。 「もともと番所は小名木川の隅田川口あったんだ。その頃は"深川口人改之御番所"と呼ばれていた。それが中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移ったことは判っていた。寛文元(1661)年のころだ。でも実際に何処に移転したのかは杳として分からなかった。それが平成7年(1995)に同地の所有者である日本化学工業が拡張工事のための発掘をしたとき、続々と瓦片等が出土したんだ。どうやら此処が「中川船番所だったらし

  • 葛西城東まぽろし散歩#02/大島02

    「この辺は、あなたがよく言う"葦っ原"だったんでしょ?でも島があったの?それで大島?」 新宿線東大島ホームを出て旧中川沿いに歩きながら嫁さんが言った。 「いや、という訳でもないんだが・・大きな中州くらいは有ったのかもしれない。この辺りが開拓されたのは、家康さんが引っ越ししてきてから50年以上経ってからだ。正保(1644~47)の頃だ。『江戸町鑑(弘化四年改版)』には「大ジマ」と書かれている。あれはおそらく深川漁師町に有った大島と区別するためだな」 「深川漁師町の大島って、この間歩いた清洲橋の傍ね」 「おお、そうだ。よく憶えてるな。たいしたもンだ。大ジマ村が大島町になったのは宝永3年(1

  • コリョサラム#04/アゼルバイジャンのバクーにて#04

    会食が終わってホテルの部屋に戻ると、シンガポールからレポートが届いていた。 別添資料と合わせて50ページほどのレポートだった。僕はワイン片手にベランダへ出てこれを読んだ。 レポートは「スターリンの台頭」から始まっていた。いい切り口だな、と思った。 レーニンの死は1924年である。ソ連共産党はスターリンとトロツキーが拮抗した。トロツキーは世界革命論を説き革命の火ぶたを世界へ広げることを強く主張していた。それに対してスターリンは「まず自国から」を強く語り「一国社会主義論」を前面に押し出していた。この両者の対立は深刻な内抗争をもたらし社会主義体制そのものに崩壊の危機ところまでいっていた。

  • 戦争は儲からない

    ポール・ポーストを引用するならば「戦争は国家が行う最大の公共事業」です。先の大戦ではGDPの一年分を注ぎ込んだところが多出しました。結果はどうだったか? 勝敗に関係なく、戦争によって受けた人的/経済的傷の修復にはたくさんの時間を要した。つまり戦争は"成果"が"コスト"に見合わないのです。 戦争の経済学 www.amazon.co.jp 1,980円 (2023年02月16日 03:53時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 「戦争は儲かる」という輩がいますが、これは間違いです。正しく言うならば

  • 葛西城東まぽろし散歩#01/大島01

    嫁さんと二人で都営新宿線に乗った。行く先は東大島。都営線に乗ったのは、日本へ戻ってから初めてだった。 都営浅草線から乗り換えで地下通路を歩いているとき、嫁さんが「ここ、通ったことないわ」と言った。 「いやいや、何度もある。東銀座へ行くときはいつもここで乗り換えだった。 「東銀座へいくときは」というのは、竪川に住んでた頃の話で40年近い前の話だ。菊川駅から乗っていた。 ・・考えてみると我が家の結婚生活は、三つ目通りを南下する人生だった。竪川で最初の所帯を持って二人の天使を授かり、三好町の木場公園の隣へ越して。それから木場だった。ほぼ20年でこのコースを辿った。子供たちが二人ともサンフラン

  • 握り寿司ならぬ乗っけ寿司は初めて食べた

    有楽町に所用が有って(嫁さんの)出た。 その帰りに、某量販店ビルの上の階に回転寿司屋があるのに気が付いた。 「行きたい」と僕がいうと、嫁さんが露骨にイヤな顔をした。それでも無理やり行ったんだけど・・聞きしに勝るオートメ化だね。何もかも全部セルフサービスでびっくりした。店内は割と混んでいて、予約も席番号も全自動で、席に行ってパネルで注文。ベルトコンベアで送られてくる・・というモノだった。 皿の上に載ってるは、飴棒状に成型された飯の上に魚の切れ端が乗った「寿司によく似た食い物」だった。 箸で掴んだら、ぽろっと上の魚が落ちだ。どれ取ってもポロポロと上に乗ってる魚は落ちた。んんん、こいつは相当

  • コリョサラム#03/アゼルバイジャンのバクーにて#03

    アゼルバジャイ・バクーはカスピ海に突き出たアブセロン半島の南の根元にある新しくて旧い街だ。BAKUは「風の街」という意味だそうだ。カスピ海は渦巻く寒気と暖気のせいで黒海以上に気象の変化が激しい、その吹きすさむ風を古代の人々は"bād-kūbe"バード・クーベと云ったそうだ。これがバクーという街の名前になったと聞いた。 自分でも少し調べてみた。そしてサラ・ハヌム・バラベク・ギジ・アシュルバンリSara Ashurbeyliの著作に逢った。彼女の著作「バクー市の歴史」によると古ペルシャ語のBagavanが語源で「神の都市」という意味だという。他にもテュルク語の「丘」が語源であるという説もあ

  • コリョサラム#02/アゼルバイジャンのバクーにて#02

    スターリンがレーニンの信認を得てロシア共産党の書記長になったのは1922年である。その年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、極東共和国を併合、日本海に至る広大なソ連なる国が出来上がった。トロツキーとの対立しながらも、レーニンの死をきっかけにスターリンは権力掌握のため手段を択ばない王になっていった。・・おそらく彼ほど人を殺した男はないだろう。その数は100万人を下らないと言われている。 スターリンは何を見ていたのか?僕は、オノレをイワン雷帝の再来としたかったのではないか?そう思えてならない。強引な領土拡大と政敵粛清の嵐を見つめると、いつもイワン雷帝の亡霊を見つめるような気がするのだ

  • コリョサラム#01/アゼルバイジャン・バクーにて#01

    前職の頃、ある大きなプロジェクトのためのSPCでコリョサラムGoryeo saramの方とご一緒した。カシャガン油田に絡む案件だった。 ・・ここでは「姜さん」と呼ぼう。舞台はアゼルバイジャンのホテルのラウンジである。 姜さんは30歳半ばだろうか。グーブキン大学Gubkin Russian State University of Oil and Gas卒だとのこと。 「なぜ、金融の道にいったの?どちらかというと、そのまま技術者の道でしょう?」と僕が軽い気持ちで聞くと、彼が言った、 「父は鉱夫だったんです。その願いで行ったんですが、途中で気が変わりまして」と笑った「卒業後しばらくして転属を

  • おはぐろ蜻蛉: 東京日和7つめ/あっちゃこっちゃの旅日記

    おはぐろ蜻蛉: 東京日和7つめ/あっちゃこっちゃの旅日記2 www.amazon.co.jp 0円 (2023年02月03日 12:12時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 泉鏡花が『日本橋』を書いたのは41歳のときだ。大正3年である。装幀は小村雪岱だった。 雪岱は川越で生まれたが日本橋で育った人だ。残念ながら今の日本橋から小村雪岱を偲ぶ縁(よすが)は何もない。 なぜ唐突に小村雪岱の名前が浮かんだかというと・・資生堂パーラーである。 あスこは、ママと娘たちのお気に入りの店で何かと足繫く通っているよう

  • 堀留日本橋まぼろし散歩・#28/芳町や 日和下駄まで 流れけり

    そろそろ夕方の風が吹く甘酒横丁を歩いていた。 「芳町・浪速町がなくなってぜぇンぶ人形町になったのは1971年昭和46年だ」 「堀が埋められたのもその頃でしょ?」 「ああ、浜町川が無くなったのは1972年。その頃に箱崎Tキャットができた。ロイヤルパークホテルはなかった」 「ええ!そんなに箱崎のシティターミナルって古いの?」 「ああ、最初は羽田のためにあった。でも成田が1978年に開業してここで航空会社の搭乗手続きや出国審査の手続きできるようになったんだ」 「そうそう、箱崎でいつも出国審査を受けてたわ。いつのまにかなくなっちゃった」 「2002年だよ。WTC911のテロの煽りで北米線は搭乗

  • 日本橋まぼろし散歩#27/小商い 時のあいまを 流れけり

    甘酒横丁を浜町に向かって歩いた。商店街も甘酒横丁も時代の趨勢はある。 「相変わらず小さい店が重なるようにある。いいね、ちゃんとまっとうな地元の商店街の風情だ。こんな風情の商店街が令和の御代になって激減した。借家で商いする人が個人じゃなくなってたこと、それと家主が商いするより大家するほうがいいと商道を諦めちまったせいだな。哀しい話だ。諦めからは何も生まれない。銀座や渋谷・新宿・池袋だって一昔前は二階に住んで一階で商いしたもんだ。それを諦めちまわなきゃならなくなったのは、世の中が進んでる方向に何ンか大きな間違いがある・・そう思わないか?」 「そうね、銀座もドンドンご夫婦家族でやってるお店は

  • 堀留日本橋まぼろし散歩・#26/安産祈願の水天宮縁起話#02

    「社紋は白玉椿。本宮にはいっぱい植えてある。白玉椿と躑躅は久留米の花だ。白玉椿はイザナギ・イザナミに供えられる花で中々結構なものだ。それで中央殿の鈴な。鈴緒に使う布地(さらし)が月に一度替わる。この"鈴緒〟を戌の日に安産の御祈薦を済ませたものを織り込んで腹帯にしてる。ご祈祷所にお願いすれば譲ってもらえる。いまでもOKだと思うよ」 「あ。ウチもいただいた岩田帯ね。妊娠五ヶ月の戌の日に着けなさいって、お義母さんに言われたわ。それとお守り」 「ん。"いつもじ"だ。懐かしいこと、憶えているなぁ」 「あれって"いつもじ"っていうの?」 「ん。5つの神呪文字が書かれているんで"いつもじ"だ。大寒の

  • 堀留日本橋まぼろし散歩・#25/安産祈願の水天宮で化け猫話#01

    水天宮の本宮は、北九州市久留米市京隈瀬下町にある。 本宮は鎌倉時代/建久初年に創建されたといわれている。平家一門の菩提を弔った小さな祠だったという。 興したのは按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)。平時子/建春門院/建礼門院に仕えた人だ。壇ノ浦の戦い/寿永4年(1185年)で源氏に敗れた時、平時子と共に入水自殺を図ったが叶わず捕縛され、流浪し尼となり千歳川の畔/鷺野ヶ原に住むようになった時、平家一門の菩提を弔うために祠を興したのだという。村人には尼御前と呼ばれてた。そのため、彼女の祠は尼御前神社と云われるようになり、これが水天宮の由来となった。 往時、筑後川は荒ぶる川で、人々は度重なる氾

  • 植草先生のことat TriBeCa

    79年冬。僕はトライベッカTriBeCaの襤褸アパートにいた。トライベッカはね、ぜんぜん三角じゃなくて、キャナルストリート、ウェストストリート、ブロードウェイ、ビージーストリートに囲まれた台形をしている。なぜ、そんなところにいたかというと・・家賃が圧倒的に安かったから。それと知り合いのバンド屋が何人もいたからだ。それとデッカイ音出しても誰も文句を言う奴がいなかったから。 当時、僕はCV/gateにハマってた。control voltage/gateね。まだMIDIなんか無かった。だからコンピューターで音楽を演ろうと思ってた連中は手探りで色々なことを試していた。CV/gateはそのソリ

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#24/雨の日は小網町を散歩しよう

    小網神社に寄った。日本橋図書館の帰りだ。 小網町は植草甚一先生の生家があった。木綿問屋だったそうだ。関東大震災で焼け出されたという話を先生がされてたなあ。どのあたりに有ったのか・・見当もつかない。東華小学校に通ったそうだ。東華小学校は十思小学校と合併して、今は日本橋小学校になっている。この辺りを歩くと、いつも先生のことを思い出す。先生の云う「大正式散歩」ね。 先生を引用する。気恥ずかしいけど・・ 『とにかく散歩について一枚かけといわれたあとで、三時間ばかり考えたけれど、つまらないことしか頭に浮かんでこない。めんどくさいなあ、そのうちいい知恵が急に出てくるだろう。そう思ったけれど忘れて

  • 堀留日本橋まぼろし散歩・#23/堺町・葺屋町・芝居町

    「ただの葦っ原だったトコが遊興の地になって、人が足繫く通う地になって、そこに目を付けたのが、初代中村勘三郎。江戸中村座の創始者だ。彼が禰宜町(今の日本橋堀留町2丁目)へ芝居小屋を起こしたんだよ。寛永9年(1632年)だ」 「歌舞伎?」 「ん。歌舞伎。もとは江戸中橋南地(八重洲)にあった。初代中村勘三郎が座長だ。櫓を上げたのは寛永1(1624)年2月15日。初代中村勘三郎は狂言師でね、猿若で名を馳せた人だった」 「猿若?」 「ん。所謂出雲阿国のころにはもうあった狂言回しの役どころだ。出雲阿国は出雲大社の巫女だったと書かれることが多いが、実のところはよくわからない。文禄年間に出雲大社勧進の

  • 堀留日本橋まぼろし散歩・番外#22/売り声に いらぬンの字で ごンぼう屋

    「廓として開業したのは元和4年(1618)12月。客は武家・町民はお大尽。格式は高かった。はじめはね、でもどんどんとコナされていくのは世の常でね。牛丼屋が親子丼出したりカレーやったり、親子丼やが牛丼やったりうどんやったりするのと同じさ。メニューとサービスがインフレ化してくのは世の常さ。町が育ってくと小ぶりなお大尽がいっぱい出てくるからな、ニーズは時代に合わせてマーケットと共に変わってくもんだ。日本橋との間に有った堀にも私財で橋が架けられたし、江戸前期から中期に向けて10年ほどで人の流れは大きく変わったんだよ。まあ、そんな時代の流れも今となっちゃ"まぼろし"でしか見えないが・・」 「その

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#21/日本橋・元吉原#02

    「廓として開業したのは元和4年(1618)の12月だ。葭原と呼んだ。裏を流れていた浜町川から水を引いて堀で囲った」 「吉原じゃなかったの?」 「吉原と改名したのは8年後の寛永3年(1626)だ。中で、京町は麹町で遊郭を開いていた京都六条からの廓14軒が店を開いた。京町2丁目は新しく関西から流れてきた者たちが店を出した。だから新町と呼ばれたそうだ。江戸町は神田鎌倉河岸・元誓願寺町にあった14軒が入った。遅れて出来た角町は、庄司甚右衛門に協力しなかった廓が入った。それが幾つかの町名に分かれている理由だ。この町名はそのまま浅草の新吉原にも採用されている」 僕らは末廣神社の前にいた。 「この神

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#20/日本橋・元吉原#01

    水天宮通りから浜町へ向かって歩いた。二本目の通りが「大門通り」だ。 「この通りから向こうに元吉原が有った。吉原が此処に有ったのは40年ほどで、すぐに浅草に移っちまうんだがね」 「小さな飲食店がほんとにたくさんあるのね」 「ん。吉原が無くなった後も花町・芝居町として残ったからな。明治の御代になっても。大正・昭和になっても粋な街として残ったんだ」 「元吉原って大きかったの?」 「浅草ほどではない。幕府から庄司甚右衛門が遊廓地として拝領したのは日本橋葦屋町二丁四方だった。一丁は120m位だから220m四方だな。周囲に堀を作り出入りは一つだけにした。それが大門だ。大門が有った通りが大門通り」

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#19/日本橋・小舟町

    按針通りをそのまま昭和通りを抜けると小舟町になる。 「小舟町はね、日本橋小舟町というのが名前だ。丁目がない。昔は大船町と対を為してたんだが、いまは小舟町だけが残った。道三堀沿いに作られた町だよ。材木町/舟町/四日市町/柳町なンてぇのがあったとモノの本にはある。その舟町が小舟町と大船町に分かれたんだ。ただ、今の小舟町は企画整理の折に相当堀留側に併合されたんで小さくなってる」 「材木町とか舟町とか・・この辺りも江戸城築城のために作られた町なの?」 「そうだな。始まりはそれだな。材木町はそのために築城のための材木が水路だーで運ばれて降ろされたところだ。いまの大手町あたりがそれだ。舟町は廻船業

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#18/日本橋・魚市場#02

    日本橋魚河岸の始まりについて『日本橋魚市場沿革紀要』を引用しよう。 https://dl.ndl.go.jp/pid/992034/1/1 融魚市場沿革紀要上卷である。 「日本橋魚市塲之沿革 日本橋租魚問屋ノ濫觴丿大畧ヲ舉裕クレハ其昔天正十八年德川氏開國 ノ際摄州西成郡佃村名主森孫右衛門始メテ佃大和田兩村ノ漁夫三十 餘名ヲ卒ヘテ此地ニ來リ各所ノ河海ニ於テ漁業ヲ營ナマシテ請シ ニ許サレ而シテ日々其獲ル所丿魚類ハ幕府丿膳所ニ供シ 其殘餘ヲ市街ニ販賣セシガ追年同業ヲ營ナム者增加シ隨ヲ賣却ノ途 モ廣盛セシカハ慶長丿頃ニ至リ森九右衛門等其幕府ニ納セ シ殘餘丿魚類ヲ引受ケテ之販賣スルニ便益ヲ謀リテ

  • 世界のGDPの半分はアメリカ人と中国人が持っている。

    世界のGDPの半分はアメリカ人と中国人が持っている。 The U.S. and China Account for Half the World’s Household WealthThe U.S. and China Make Up Half the World's Household WealthThe U.S. and China Account for Half the World's Household Wealth This visualization breaks down how household wealth is distri www.visual

  • 知り合い以外の他人は"モノ"?モノに恥は感じない

    今朝は嫁さんと代々木に出かけた。その途中で、しばらくぶりに「車内化粧」地下鉄の中で見た。 「車内化粧」が減ったわけじゃなくて、僕が公共交通機関に乗らなくなったせいだろう。きっと減ったわけじゃないと思う。 で。色々と考えてしまった。 発生論的な視線で見ると「車内化粧」は、おそらく帰校時の女子高生が、次のフェーズに入るための武器装着の場として、学校Aから別フェーズBの間の移動手段である交通機関の中を利用するようになった・・ことから始まったように思う。恐らく前世紀の終わりころからではないか?もし知見をお持ちの方が居られるようなら論を俟ちたい。 その彼女たちが、社会に出るようになって普遍化し

  • 効きません。でも買ってください話

    No Studies Showing 'Masks Work That Well' Against COVID-19: White House Health Official No studies show masks work well against respiratory infection www.theepochtimes.com コロナに対してマスクがほとんど効果がないことは衆知のこと。 マスクはね。みなさん趣味の一環ないしファッションとして使用されてるんですよ。

  • “thoughtcrime”という言葉を最初に使ったのはジョージ・オーエルだった

    イーロン・マスク 「全く率直に言って、人々がTwitterについて抱いていたほとんどすべての陰謀論が真実であることが判明した」と言った。 Elon Musk "To be totally frank, almost every conspiracy theory that people had about Twitter turned out to be true." pic.twitter.com/zBDY3AcrRq — Gretchen 🇺🇸 (@GretchenOO8) December 25, 2022 「陰謀論」という便利なレッテルで処理されるジョージオーエル風の

  • 共産主義黒書

    You need to hear: A conversation with Dr. Kristian Niemietz - SpokenTome Media: AudiobooksYou need to hear: A conversation with Dr. Kristian Niemietz As we were wrapping up production on Dr Kristian Niemietz’s “ spokentome.media クリスティアン・ニーメッツ博士の講話を聴いてた。 それでちょっと思うところがあって"the black book

  • ペトロダラーの終わり

    ペトロダラーの終わりが、トランプを待たずして始まりました。1973年以来世界を走る金融的激震が今年のメインテーマになる。 しかし・・まあ50年です。https://www.gaitame.com/markets/chart/usdjpy.html?interval=60 支えたのは中国と日本でした。支え方は違った、中国は下請け工場として米国に隷属することでドルをもらい続けた。日本は、円を希釈化することで、その希釈した分の80%を米国へ渡した。 ペトロダラー戦争――イラク戦争の秘密、そしてドルとエネルギーの未来 www.amazon.co.jp 3,080円 (

  • 世界の金持ちがいる都市ランキング

    2022年度の「世界の金持ちがいる都市ランキング」東京は第二位です。 Global Citizens Report 2022 Q3 The Henley Global Citizens Report 2022 Q3 features the World' www.henleyglobal.com

  • 1798 年から 2022 年までの海外での米国軍の参戦例

    必読「1798 年から 2022 年までの海外での米国軍の参戦例」 https://crsreports.congress.gov/product/pdf/R/R42738?fbclid=IwAR2su4Ylwfr_ZrlCSWeJ4ioar_YsQ1LvKMEKCgyPMIyJpB3ky8wQeH5Txuk アメリカは「不干渉主義/モンロー主義」と宣伝されている。ではそのアメリカが、建国以来どのくらい海外で戦争をしてきたか・・具体的な例を見てみよう。dataはいつでも事実を見せてくれる。 アメリカは 1776 年以来 500 回以上の国際軍事介入を実施してきた。そしてその戦争6

  • The American people want a solemn ass as a President.

    “The American people want a solemn ass as a President.” Sovereign Research It was late in the evening on August 2, 1923 when Vice Presid www.sovereignman.com サイモン・ブラックが“The American people want a solemn ass as a President.”というレポートを書いた。 第10代アメリカ大統領ジョン・カルビン・クーリッジJohn Calvin Coolidge J

  • あなたは何らかの宗教をもってますか?

    あなたは何らかの宗教をもっていますか?という調査。 https://www.statista.com/chart/29107/not-religious-people-atheists-by-country/?fbclid=IwAR3oMXlvH7sPG-5C0HqinV8dLQ514plgyaim6RwfFA8GWahSIpR13kPV600

  • Unstable Majorities: Polarization, Party Sorting, and Political Stalemate

    フーバー研究所が出している良書。kindleで読めます。 https://www.amazon.com/Unstable-Majorities-Polarization-Political-Stalemate/dp/081792115X?fbclid=IwAR3Ruhbx5pXXoW42T2siK-HoIBdHF4SFhMESFeYOds9qQmX7SL7QSBPZOWg Unstable Majorities: Polarization, Party Sorting, and Political Stalemate アメリカ人は案外バランス感覚が良いという本です。 僕は近い感覚を

  • ニクソンとJFK

    志半ばでウオーターゲートスキャンダルで引きずりおろされたニクソンは、JFK暗殺の何を暴こうとしていたのか Nixon Threatened to Reveal the CIA's Involvement in the Kennedy Assassination Watch now (40 sec) Shocking new Watergate-era tape reveals. rogerstone.substack.com 中共への接近を図った田中角栄が、コーチャン発言で引き摺り倒された事件を思い出させる

  • これだけ真面目な顔で仕事したら

    これだけ真面目な顔で仕事したら。もっといい仕事できるだろうに

  • 昼のライブ/若菜里香さん

    昼のライブ/若菜里香さん

  • 昼のライブ/森作友美さん&高橋圭吾さん

    昼のライブ/森作友美さん&高橋圭吾さん

  • 昼のライブ/みつこさん&能勢朝也音さん

    昼のライブ/みつこさん&能勢朝也音さん

  • 昼のライブ/後藤光子さん

    昼のライブ/後藤光子さん

  • 昼のライブ/若菜里香さん

    昼のライブ/若菜里香さん

  • 昼のライブ/SHINOさん

    昼のライブ/SHINOさん

  • 昼のライブ/中村美朱々さん

    昼のライブ/中村美朱々さん

  • 昼のライブ/Mariさん

    昼のライブ/Mariさん

  • 開店前のお騒がせ

    開店前のお騒がせ

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#17/日本橋・魚市場#01

    日本橋交差点から日本橋を渡ると「乙姫像の広場」がある。ここに「日本橋魚市場発祥の地」の石碑がある。ちょいと読み難い。嫁さんは乙姫の像のほうがになるらしい。 「なぜ唐突に乙姫様なの?」 「日本橋市場関係者の総意だということになってる。『日本橋 龍宮城の港なり』ということらしい。それなんで乙姫様。まあ洒落が効いてて良しとしようよ。あまり真剣に考えなくていい」 「それにしても・・乙姫様?それも江戸前というより、もっと洋風だけど」 「・・それも洒落ということで・・納得してくださいな」 「ふうん・・」 「日本橋魚市場発祥の地の碑は豊道慶中こと豊道春海が書いている。大正から昭和かけての天台宗の僧だ

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#16/外堀・呉服橋御門外#05

    八重洲仲通りがつき当る西海岸通りに出た。 「前に並ぶビルが塞いでいるが、この向こうに日本橋川が流れている。江戸時代はは浮世絵に描かれた白壁の蔵が並ぶところだった。いまはその面影は欠片もないが・・蔵には舟着き場が有って荷物がひっきりなしに出し入れされていた。 夢二がさっきの角に小さな店を構えたころ、大正3年にはまだ面影が残っていた。隣接して色街も有ったしね、小村雪岱が書くように『誠に何とはなしに人情のある土地』だったに違いない。」 「夢二の港屋絵草紙店開店のご案内に『下街』と書いていたわね」 「ん。下町という言葉が相応しい。いまは隅田川より向こうをなんとなく指すようになっちまったが、江戸

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#15/外堀・呉服橋御門外#04

    「日本橋川は、家康さんの江戸入り直後に掘られた川なんだよ。道三堀と一緒だ」 「道三掘って、葛西の方から塩を運ぶために作られた運河でしょ?」と嫁さんが言った。おやおや、ヒトの話をそれなりにきいていねんだ・・と内心感心した。 「うんそうだ。日本橋川は、江戸城築城のための資材を運ぶために掘られた川だ。両岸に鎌倉河岸/裏河岸/西河岸/魚河岸/四日市河岸/末広河岸/兜河岸/鎧河岸/茅場河岸/北新堀河岸、/南新堀河岸があった。江戸湊から隅田川を通って夫々の河岸に荷揚げされてた。一番上流にかかっていた一石橋からは、常磐橋/呉服橋/鍛冶橋/日本橋/江戸橋/銭瓶橋/道三橋が一望できたそうだ。だから一石橋

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#14/外堀・呉服橋御門外#03

    雪岱と名乗ることになる小村泰助は、明治⒛年3月22日、埼玉県川越郭町に生まれた。4歳のとき父が日本鉄道会社に勤めたの契機に上京した。しかし翌年ひまの父が他界したため、一家は川越に越している。再び上京したのは尋常小学校を卒業したのちで、神保町の叔母の家で暮らした。 上京した翌年、紹介する者が有って宮内省出仕の書家安並賢輔方の書生となった。安並賢輔方の家が日本橋檜物町に有ったのである。彼は一番多感な時を日本橋檜物町で過ごしたわけである。 呉服橋門外は、大店と貿易会社が並ぶ日本橋と、日本橋川対岸を背に、華やかな遊郭の地として確立していた。 長文だが彼が書いた「日本橋檜物町」を引用したい。

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#13/外堀・呉服橋御門外#02

    「武州豊島郡江戸庄図」は、江戸図として最も初期のものである。 http://jmapps.ne.jp/usuki/det.html?data_id=555 ここに描かれている呉服橋御門外は東に楓川が流れ。西は外濠に面し、南は楓川と外濠を繋ぐ入堀で、北には日本橋川が流れていた。そして東側入り掘は、櫛形の船入堀になっていた。ここは江戸城・築城のための運搬荷揚場になっていた。江戸城築城期は城郭内に築城のための武士・職人・町民が居を構えており、彼らによって東側入り掘の運搬荷揚場へ持ち込まれた石材/木材などが使用された。 築城が進み、外濠が作られると、外堀の中は直参の武士たちが屋敷を構え、職人・

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#12/外堀・呉服橋御門外

    外堀・呉服橋御門外は旧い町だ。家康さんと共に江戸湊に入った人々が、とりあえず地面が有ったところに居を構えたことから始まっている。少しずつ日比谷入り江が埋め立てられて江戸前島が拡大すると、そこに町が作られた。 基本的に同じ職業の人々が集まって一つの町を為した。この構造はそのまま長く残った。 日本橋檜物町 (平凡社ライブラリー) www.amazon.co.jp 701円 (2023年01月10日 17:04時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する たとえば元大工町(いまの八重洲一丁目・日本橋二丁目

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#11/夢二夢散歩#05

    「必ずも偉大なARTが偉大な魂から生まれるわけではない。人殺しでも荒淫でも大噓つきでも、自分の事しか考えないロクデナシでも、偉大な作品を生み出す。芸術は人格とか品性に相関してないんだ。もししてたら高慢無慈悲なワグナーの交響曲があんなに凄いわけはない。軟弱で自己憧憬のカタマリで、男だろうが女だろうが、自分の義娘とまで寝てしまうロクデナシだったショパンがあんなに素晴らしい作品を書けるわけがない。 もちろん三流は違う。三流はオノレの喜怒哀楽しか描けない。実はそんな三流のほうが売れたりする。しかし時の女神の前では泡沫として消えて行ってしまうもンなんだよ」 「夢二は?」 「見てごらん、夢二の描く

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#10/夢二夢散歩#04

    松本楼の脇にある「首かけイチョウ」の横を通った。 「あら、お昼は此処にすればよかったわね」嫁さんが言った。松本楼は彼女が好きな店の一つだ。以前、仲が良いフランス人シェフが此処で食事会を開いたときは大喜びしてたな。あのときにウチも借り切ってやるか?と言ったら「めっそうもないわ」と首を振ってた。 「ずいぶん戻ったな。学生運動の煽りを食らって此処が全焼したときに、この木も丸焼けになったんだけどな。伐採しないでいたら翌年しっかり芽吹いたんだよ。2回目の安保騒動の時だ。僕は20歳だった」 「でもなぜ首かけ銀杏というの?」 「もともと、この木は公園の傍にあったんだ。此処を練兵場から公園に変えるとき

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#09/夢二夢散歩#03

    お休みだから日比谷に夢二を観に行こうと思った。タクシーを有楽門のところで降りた。行きも帰りも歩きじゃ、とっても腰が持たないからね。片道はラクさせてもらった。 竹久夢二のデビューから晩年までをたどる 日比谷図書文化館で作品展示 本紙の前身「都新聞」の挿絵原画も:東京新聞 TOKYO Web 大正ロマンを代表する画家竹久夢二(1884〜1934)の作品を紹介する企画展「龍星閣がつないだ夢二の心—『出版屋』から生ま www.tokyo-np.co.jp お目当ての日比谷図書館は国会通りの西幸門の傍だから、あっちでも良かったんだけどね、天気も佳いし散歩しながら行こう

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#08/夢二夢散歩#02

    「開店は大正3年10月1日だ。3月19日に辰野金吾が設計した東京駅が新築落成した。第一次世界大戦のきっかけになったオーストリア・ボスニア地方の町サラエボで、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人青年によって暗殺されたのが6月28日だ。翌7月28日に第一次世界大戦がはじまった。これに欧州各国が参戦していったのが8月9月だ。」 「日本は?」 「8月23日だ。ドイツに宣戦布告した。大正3年というのは明治天皇の喪が明けた年だ。時代が大きく動いた」 「どうしてそんな遠い国に宣戦布告したの?} 「ありていに言えば景気対策さ。これに先んずる日清戦争(明治27年)で日本は

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#07/夢二夢散歩#01

    夢二の港屋は間口2間ほどの小さな店だった。「港屋絵草紙店」という暖簾は夢二の直筆だった。軒下にブル下がる提灯にも「港屋絵草紙店」と書かれている。間口両方にショーウィンドがあり、夢二の描いた木版画/彼の書籍/夢二がデザインした和装のため小物/便箋なと紙ものが陳列してあった。いずれも手作りで大量生産されたものではなかった。作風はアールヌーボーを思わせるものだが、全体には琳派の影響を思わせるものだった。しかし作品は和洋が織り交ざった特異な世界だった。彼自身も開店時の引き札に「不思議なもの」と書いており、こうした和洋混然とした世界を意識的に選んでいたことが判る 開店の時、こんな案内状を出してい

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#06

    嫁さんに付き合って大丸の地下食品コーナーで野菜類を買った後、件の玉丁本店に寄った。そんで「餅入り二つね」と頼んだらモツ入りが出てきた。運んできた中華系の女店員に「モツじゃないよ餅だよ」と言ったら「モチ?モツ?」と戸惑ってた。すぐに男の子が来て「申し訳ありません。替えます」と下げてった。 ところが少し行ったところで引き返してくると「もしよろしければ、これに餅乗せてきますが」と言った。 イイねぇ、そういう小回りがあって商いというもんだ。昨今のファストフードに毛が生えたような飲食には、この対応の切り返しの切れがない。 このおかげで、よけいに玉丁本店のファンになりました。 食事の後、永代通り

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#05

    元旦はみんな集まってママの洋風お雑煮を!そしてそのあとはペランシュラのおせちを頂いた。TVはyoutubeでTimesSquareのカウントダウン。雨だぁ~マンハッタンは。孫たちはもう寝たのかな・・と話しながら、おせちを頂いた。 店の前は、非中華系の観光客がずいぶん通る。新富町築地はいまインバウンド向けのホテルだらけだからね。ウチのまえはインバウンドストリートなんですよ。そんな観光客が時折ドアを開けて入ってくる。「いちいち断わるのナンだから、いっそ入れちまえば?」と僕が言うと、ママに「誰がそのための支度をすると思ってるのよ」と言われちゃった。すいません。で、やっぱりオープンは2日から

  • 葱鮪鍋の思い出

    佃のウチでは、冬になると葱鮪鍋がよく出た。 鮪の脂身に近いとこを賽の目に刻んで、これを葱と一緒に煮込む。 トロは足が速いからね。きっとそれが理由で煮込んじまったんだと思う。赤みのほうは鍋の横に列を揃えて並んでたりした。 母の姉夫婦は揃って酒飲みで、絵にかいたような下町の人だった。叔父さんは定職を持たないまま、何か拵えモノをしちゃそれを鬻いでいた。叔母は浮世絵の摺師だった。その二人が我が家の一階に揃って居候していたのだが、まあウチの母とどっちが世帯主だか判らないほど堂々としてたね。 母は父が逝って、銀座のクラブでホステスをしていた。・・考えるとまだ母が30半ばにならない頃の話だ。子供心に

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#04

    泉鏡花が『日本橋』を書いたのは41歳のときだ。大正3年である。装幀は小村雪岱だった。 雪岱は川越で生まれたが日本橋で育った人だ。残念ながら今の日本橋から小村雪岱を偲ぶ縁(よすが)は何もない。 なぜ唐突に小村雪岱の名前が浮かんだかというと・・資生堂パーラーである。 あスこは、ママと娘たちのお気に入りの店で何かと足繫く通っているようだが、たまたま僕も随伴を仰せつかったからだ。不思議なもんだ。ウチのお袋もあスこがお気に入りだった。僕的には不二家のほうが良かったが、ときおり目いっぱい御粧(おめか)してあスこのクリームソーダを頂きに行ったもンだ。 お袋は神田の製本屋の娘だったから、ご多分に漏れず

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#03

    正月ま近の冬桜。あ~でもない。こ~でもないと、色々なカットを嫁さんが追い掛け回している。 「ここには、ほんの少し前(30年ほどまえ)「万安楼」という料亭が有ったんだ。このお社はその屋敷の庭にあったんだよ。僕の子供の頃には有った」僕が言うと、冬桜の撮りながらの嫁さんが 「ふうん。じゃずいぶん昔ね」と言った。 「だ~か~ら、ほんの少し30年くらい前だって言ったろ」 「ふ~ん・・ずいぶん前ね」 「銀座はな、江戸時代、武家屋敷が多かった。木挽町も京橋に面した辺り、築地川に沿った処に新庄美濃守さまのお屋敷が有った。これを明治に入って鈴木専吉てぇ男が買って自分ンちにしてた。これが料亭旅館になったの

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#02

    旧日本橋区に「日本橋」冠にする町は22ある。日本橋が付いていないのは「八重洲」だけだ。八重洲は1丁目が旧日本橋区。2丁目は旧京橋区になる。なので「日本橋」という冠を敢えて付けなかったンだろうな。そう思う。 いわゆる僕らが人形町/兜町/馬喰町と呼んでいる町は、正式にはすべて前に日本橋が付く。「日本橋人形町」「日本橋兜町」「日本橋馬喰町」だ。お隣千代田区になる神田も、町名の冠に「神田」が付くところが並んでいる。・・してみると、地元が頑張れば町名は田舎っから出てきた有象無象公務員連中に奇天烈な蛮刀を振るわれずに、由緒ある名前が守れたのかもしれない。 黒門町とか木挽町とか角筈とか・・みんな消え

  • 堀留日本橋まぼろし散歩#01

    僕は「うどん」は食べない。その、食べない僕が2回だけ唸った「うどん」がある。・・ひとつは徳島・大橋の傍にある店で地元の人に連れられて出かけた店だ。おろし大根と生醤油だけで食べる。こいつは驚いた。美味いも何も言わずに黙々と食べた。実は、そのときのショックで、徳島だけは例外・・と思って、何回か他の店でも食しているんだが、残念ながらあの衝撃には出会っていない。じつは・・店の名前が判らない。場所も定かじゃない。だからもういちど!!が叶わないまま20年以上経っちゃった。料理は一期一会を絵に描いたような出会いだった。 もう一つは、名古屋吹上で食べた味噌煮込みうどんだ。汚い店だったけど・・ここもしゃ

  • キューバ/ハイチの夢と光と風#13

    ハバナへ戻った翌日の朝。僕とピトは革命広場を歩いた。その日の午後の飛行機でカンクンへ戻るスケジュールだった。 「キューバの支配者である白人たちが強く望んだのは、アメリカの保護下に入り、その奴隷制度維持体制の一部に加わることだったんです。それがキューバの国旗がテキサス共和国に酷似している理由です。テキサスは1836年にメキシコからの独立を果たし、1845年にアメリカ合衆国の一部に併合されています。アレと同じ形をキューバは望んだんです」 独立広場を歩きながらピトが言った。 「ん。市民戦争(南北戦争の正式名)前夜だからな。まだアメリカを支えていたのはタバコと綿とコーン畑だった。奴隷制度なしで

  • 西インド諸島の夢と光と風#12

    「ポルトプランスからは一晩かかります。かなりきついです」 "ヴェルティエールの戦い"という僕のリクエストにピトが言った。滞在期間4日の中では相当無理があるリクエストだ。 「Kap Ayisyenに一泊してでも行ってみたいな。無理かな?」ぼくがそういうとピトは笑った。 「叔父さんが言ってました。必ず行きたいと言うよって。でもカパイシャンに"ヴェルティエールの戦い"の痕跡は皆無だし、行っても街でお茶飲んで帰るだけになるって」 「でもモニュメントがあるような?Heroes Monument of Vertières」 「はい。取って付けたようなものですが、あります。5分見れば終わります。」

  • 西インド諸島の夢と光と風#11

    当時の欧州経済が、如何に新大陸のプランテーションによって支えられてきたか。1789年末、Gazette de Paris誌に掲載された「黒人の状態について」という記事から、一部を引用する。 「植民地が無くなるようなことになれば、フランスは20億ルーブルを失い、スェーデンのように銅貨を使わなければならなくなるだろう。瀟洒品製造業者や技術者や職人はフランスを去って他の所で生計を立てなければならなくなる。植民地が必要とする物産を供給してきた製品工場は全滅する。 プロバンスやギエンヌやサントンジュの葡萄栽培も半減するだろう。マルセイユ、ボルドー、ラ・ロシェル、ナント、ル・アーブル、ルーアンの街

  • 西インド諸島の夢と光と風#10

    その夜、ディナーの時に歴史博物館を案内してくれたピトが「マイクさんは西インド諸島の先住民の歴史に興味があるのですか?」と聞いてきたので、少しだけこんな話をした。 「そうだな・・うん。ある。本来は大地に拠って生きているはずの人々が、なぜ島嶼まで拡散していくのか‥その理由に強く興味を抱いてしまうんだ。カリブ海の島々にいた先住民は、主に4族、アラワク族・タイノ族・ルカヤン族とカリブ族だったんだよ。いずれも海洋民族で漁労によって生活していた人々だ。 彼らがカリブの島々に渡ってきた経緯は、残念ながら詳細は分かっていないんだけどね。それでも出自が、ブラジル・アマゾン川流域であることは間違いないよう

  • 西インド諸島の夢と光と風#09

    コロンブスは大西洋の西の奥に島嶼を発見した。しかしそこは予想していた黄金の島ではなかった。彼は、彼のスポンサーにまともな釈明できなかった。なので二回目の航海は、黄金を手に入れるため、大量の人間を連れて出帆している。 ところが最初に発見したサンセバスチャン島に到着してみると(キューバではない)前回の時に作っておいた城塞は焼き落ちて、残った部下たちは全員殺されていた。インディアンは従順なはずなのに? 「お前の家を襲ったのはカリブ族である。」通訳として使っていたアラワク族の若者が言った。そして「カリブ族は、村を襲い、女をさらった後、男と子供を焼いて食べる。」と説明した。 「お前の部下も、全員

  • 言われるがままに尻尾をふる犬

    防衛費肥大化させるキシダコメントを見ていて、暗い気持ちになるのは・・「防衛」とは何かについてのリアルな知見が「東大話法」でしかされてないことです。なにをもってして「防衛」とするのか?なぜその「防衛」のために、アメリカから兵器を買い増ししなければならないのか?その議論がごっそりと削ぎ落されていることです。 まさか本気で日本が独自で攻めてきた敵に、あるいは脅威に立ち向かえると思っているのか?そんなこと親方アメリカは認めていないことを忘れたのか?日本には「軍」はない。あるのは「隊」だけだということ。忘れたのか?? 鳥肌が立つ思いです。 ご存じでしょうか?あのとき戦負国になった日独伊には、

  • 西インド諸島の夢と光と風#08

    博物館の2階はキューバ革命(1959年)以前をテーマにした幾つかの部屋が有った。ピトは、現代から過去へというルートで僕をキューバ史の中を歩かせるつもりらしい。 「いまのキューバには先住民の血はありません。先住民はスペイン人によってすべて狩られ絶滅しました。欧州から持ち込まれた伝染病で滅んだという話が尤もらしく宣伝されていますが、そんなのはほんの少しです。先住民は、サトウキビプランテーション運営のために狩り出されて酷使され滅んだんです。その後釜をアフリカから連れてきた。いまキューバの最下層を構成している人種は、代替えで連れてこられた象牙海岸の黒人、スペイン本土イベリア半島の先住民、そして

  • 西インド諸島の夢と光と風#07

    ハバナにある革命博物館(旧キューバ大統領府)旧市街アルマス広場から徒歩で15分くらいのところにある。 ガイドを頼んだピトが最初に案内してくれたのが此処だ。カバーニャ要塞の対岸にある。 ピトはホセ・マルティ大学の学生で、僕のNYCの仕事仲間の甥っ子だった。技術系の学生だが、自国の歴史については日本の同じ年代の若者より詳しかった。 彼が運転する古いビュイック(親戚の借り物だと言ってた)を博物館の前にある露天駐車場に置いて、入館した。なかなか荘厳な建物だ。入り口には旧市街の城壁の断片、1961年のピッグス湾侵攻作戦でカストロが使用したSAU-100戦車が展示されている。 「ここは革命前は大

  • 西インド諸島の夢と光と風#06

    スペイン王室とポルトガル王室が大西洋より向こうの世界を南北に二分して所有宣言をしたとき、ブラジルを新天地として熱く見つめたのはポルトガルのキリスト新教徒とユダヤ人だった。彼らがブラジルにおけるサトウキビの可能性を模索したのだ。 北アメリカでも同じように、正統からはみ出た人々がユートピアを求めて大西洋を渡ったが、ブラジルへ渡ったキリスト新教徒とユダヤ人たちは、もう少しビジョンとお金を持っていた。なので移植して、すぐさま飢えるという無様なことには陥らなかった。 サトウキビ プランテーションは、とても収益性が高いビジネスだが、同時に集約的技術と設備投資に費用がかかるビジネスでもある。個人で

  • 西インド諸島の夢と光と風#05

    1500年代に入り、バスコダ・ガマの探検に沿って、ポルトガルは多数のプランテーションをブラジル大陸に設営した。そして、そのすべてが巨大な産業に育っていった。一方、スペイン王国もポルトガルの二匹目のドジョウを狙ってカリブの島々を中心に、大陸側にも幾つかプランテーションを設営したが、こちらはそれほど大規模にはならないまま100年が過ぎた。 その違いはなにか? ビジネスモデル的な差異はそれほどない。 理由のひとつは、ポルトガル王国側では、モスレムとの戦い/レコンキスタが完全終焉しており内憂が何もなかったのに対して、スペイン王国はレコンキスタに勝利しながらも紛争が燻りつづけいたことが大きいだ

  • 西インド諸島の夢と光と風#04

    1492年8月3日。スペイン王女イザベルの支援を受けて、パロス港を出帆したコロンブスは、途中カナリア諸島に寄港した。当時、カナリア諸島はスペイン最大のサトウキビの生産地だった。彼はその隆盛を目のあたりにしたと考えられる。そしてサトウキビの栽培は儲かる。と彼は確信したと僕は思う。そしてこのとき、彼の脳裏に、カナリア諸島のサトウキビ畑の尾根が強く焼き付けられた・・と考えたい。 コロンブスは、カナリア諸島を出ると一気に西進した。まったく島影のない大西洋へと。彼はひと月程度で、インドへ達するだろうと彼は考えていた。リスボンで調べていた古地図から、そう予測していたのだ。しかし2か月を過ぎて

  • 西インド諸島の夢と光と風#03

    さて。このサトウキビという作物の伝播について、少し詳細に書きたい。 サトウキビは、ニューギニアが原産である。これがインドに持ち込まれ、紀元前には既に盛んに栽培された。 元前4世紀にアレキサンダー大王がインドへ侵攻したとき、武将の一人が「その摩訶不思議な甘き作物」を、インドの特産物として報告している。してみると、その時期には中東にも地中海東部にもサトウキビは存在していなかった・・ということになる。 サトウキビを西進させたのはペルシャ人だった。サザン朝ペルシャの時代には、盛んにメソポタミアでも栽培されるようになっていた。 地中海にサトウキビが広がったのは、イスラム帝国が同地を併合した頃か

  • 西インド諸島の夢と光と風#02

    その最初のサトウキビ・プランテーションは、1650年バルバドス島で始まった。これが濫觴となって、瞬く間に彼処の島でプランテーションが作られていく。 プランテーションから作られる砂糖は、巨大な富となったからだ。 砂糖は、幻惑的な食材だった。 料理を根底から変えてしまった。これほどのショックをヒトの食べ物に与えたのは穀物以来かもしれない。砂糖は殆ど麻薬的な衝撃を人々に与えたのである。 じつはスペインには砂糖を利用した菓子が多い。それは最初に砂糖の魔性に染まったのがこの国だったからかもしれない。そしてイタリアである。イタリアは長い間スペインが支配する地だったからね。 黄金をもとめて大西洋

  • 西インド諸島の夢と光と風#01

    僕が知っているキューバは、今は新市街と呼ばれる地域がまだ未開のままだったころだ。空港で強制的に両替されるキューバドルは、市内の店では殆ど使えなかった。使えるのはホテルの中とそのレストラン/土産物売り場だけだった。 ガイドを頼んだのはホセ・マルティ大学の学生で、僕のNYCの仕事仲間の親戚だった。3日間の滞在中は彼がナビケートしてくれた。なので滞在中の市内での支払いは彼がすべて立て替えてくれた。 「どうしてキューバにいらしゃるつもりになったんですか?」と、最初の日に聞かれた。 実は、このときキューバにはメキシコ・カンクーンから入ったのだ。彼にしてみれば、なぜカンクーンから?という気持ちがあ

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#08

    永井荷風の『深川の散歩』を見る。 「清洲橋という鉄橋が中洲から深川清住町の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方かたへと曲っているところから、橋の中ほどに佇立たたずむと、南の方かたには永代橋、北の方には新大橋しの横よこたわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また

  • 体内アルコールを瞬時に消す奇跡の治癒力の話

    粉末ピートの隠れたる能力。 アルコールを体内から数分で、大半を消し去ってしまう!! という実験。 ほんとだよ。びっくりなんだ・・これを最近夜な夜なやってる。 ほんとに効果絶大なのだ。 .類似市販品なんぞ、あっちへいけ!!という実力だ。 で、今夜もお試し吞み(^o^)b ロックで何も割らずにアブサン51度をグラス1/3ほど、ほとんど一気で飲む。数分後アルコール検知器で計ると0.6、まあアラートが高らかになる。すぐさまピートを3gほど飲む。 そして数分後にチェック。アルコールは0.2まで落ちてしまう。アラームはならない。なんどやっても結果は同じ。それでもう数分後、も一度計ると・・0.1。

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#07

    スーパーの大きな買い物袋をブル下げながら佐賀町河岸通りを永代橋に向かって歩いた。永代橋ふもとの鋼板の横を通って橋を渡った。本当は反対側の歩道を行きたかったが、ここの交差点は信号がない。橋を渡ったら鍜治橋橋通りを我が家に向かって歩くつもり・・ 「日本橋側から佐賀町へ橋がかけられたのは1698年(元禄11年)だ」 橋を渡りながらしゃべった。 「それが永代橋・・というわけ?」 「うん、橋は相川町・・いまより150mにくらい上流に架けられた。猛烈な利権だったに違いない。しかし架橋技術そのものは未だ未発達だったため、出来上がった橋は20年は持たなかった。隅田川に架けられた橋としては4番目のものだ

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#06

    もうひとつ注目すべきは大島町である。 大島町の祖型は徳川入城前に成立していた。おそらく地元の漁師が漁船を係留したり漁の捌きなどに利用していた小島だったようだ。そのため、大島には名主がいなかった。 前述相川家・家伝『寛永録』にも「元禄七戌年十二月十七日、当名主助之丞九代以前助右衛門え支配付被仰付」とある。1694年になってようやく黒江町の名主である斎藤助右衛門の支配付きとなったことがわかる。 寛永録 深川猟師町8か町のひとつ相川町の名主であった相川家に伝来した江戸期の古文書で全7巻からなっています。猟師町の沿革を知る貴重 www.city.koto.lg.jp

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#05

    江戸資料館を出た後、清澄通りを仲町に向かって歩いた。仙台掘川を渡って少し行くと千疋屋の配送センターがある。そこのファクトリー・ショップへ寄った。嫁さんが「清澄お土産よ」とか言って焼き菓子を買ってた。以前は同じ清澄通り沿い勝どきに文明堂の工場が有って、ここのファクトリーショップでも「勝どきお土産よ」とか言って、カステラの耳を買ってたことを思い出した。松崎煎餅も文明堂も今はもうない・・ 亀掘公園に向かって歩いていたらホームセンターがあった。「コーナン・ホームセンター」である。びっくりした。僕が知ってる佐賀町には無かった。「あらあら」吸い寄せられるように嫁さんが入って行っちゃった・・あのう、

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#04

    史料を漁っていると、千代田城の家康さんが召し上がっていた魚介類は、深川の漁師が納めていたという記録に出会った。 このとき、ふと思ったのは佃島である。佃島の漁師は摂津から家康の後を追って江戸港へ越してきた漁師たちだ。摂津佃島の漁師たちは、苦難の時代の家康に海運で仕えた人々である。家康を慕って遥々関東までやってきた彼らは地元の小魚を採っている連中より遥かに技術的に勝っていた。そのため、隅田川沿岸の漁撈利権は彼らが独占した・・という記録が残っている。 深川の漁師たちが家康さんに魚を納めていたならば・・やはり同じく関西から越してきた連中ではないか??そう思った。実は、この8人も摂津の人ではない

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