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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • ウチらゼレさんの連帯保証人だよね、キッシー君?

    なかなかビックリするニュースです。 ゼレンスキーは今まで、アメリカから総額1770億ドルを「くれて当たり前」でもらってきた。悪の化身と戦うヒーローですからね。かかるお金は自前じゃないのは当たり前。 ところがポッドキャスターのベン・シャピロ氏とのインタビューで、とんてもないこと言い出した。 「我々が実際に受け取ったのは、せいぜい750億ドルだ。残りはどこに行ったのか、私にはわからない。」 "WHAT!!“と叫びたくなるのは、シャピロさんだけではないでしょう(嗤い 🇺🇦 ZELENSKY: WE’RE OPEN TO ANY AUDIT—NOTHING TO HIDE “As fo

  • 国家の非上場化という道?

    前の稿で、トランプは「段階的デカップリング(gradual decoupling)」を通じて、アメリカの国家構造そのものを再設計しようとしていると、書きました。 それを彼は ①「モノ」と「労働」の領域 ②外交政策における「不干渉主義」の復活 ③金融と通貨に関する構造転換。 この三つを輻輳的になおかつ段階的に、彼は実行しています。それが最初の100日間に行ったことです。 ・・実はこの中で、最も困難なdecouplingが③「金融」の分離です。 なぜならアメリカは世界の基軸通貨ドルを発行しており、米国債(トレジャリー)は世界中の中央銀行が保有しており、株式市場や債券市場も世界中の資金が握

  • お前たちの国は、誰のものか?トランプ現象が突きつける“国家”の再定義

    トランプは「段階的デカップリング(gradual decoupling)」を通じて、アメリカの国家構造そのものを再設計しようとしている。僕はそう考えています。 彼が目指しているのは、グローバル化によって骨抜きにされてきた国家主権と経済的独立の回復であり、それは彼の「グローバリストは国を滅ぼしている」という言葉に端的に表れています。 世界市場との漸進的な切り離しを通じて、国家を根本から立て直し、 「①自律自尊(self-reliance)」 「②自給自足(self-sufficiency)」 「③不干渉主義(non-interventionism)」 という、かつてアメリカが原型として

  • 対症療法しかできない奴はコントロールしやすい

    トランプの方法は実に明快です。まず「相手にどんな手を打たせるか」を見極め、それを引き出すように仕掛けていく。そのためには、強引なやり方をもいとわない。多くの人が事後的な対処に走る中で、彼はあらかじめ相手の反応を読みきっておき、その反応に応じた“次の一手”を常に準備する人です。 今回の関税政策も、まさにその典型です。 「事後策だけで動く連中は、きっとこう出る」と見切った上で、先に布石を打っている。 トランプは、今のような危機的局面でなければ「アメリカの新たな成長のチャンス」は訪れないと見ています。だからこそ彼は、事後処理に終始しない。常に予測し、さらにその先を何歩、何十歩も見据えて行

  • 想像力の風景03/ロワール川ワイン散歩#25

    TERはアンセニ駅に到着。駅舎も簡素な造りだった。小さな待合室はベンチがあるだけで、いわゆる地方の中間駅といった印象だ。ホームを降り、改札を抜けるとすぐにロワール川の気配が感じられる気がした。駅を左側に出た。目の前に小さいカフェが有った。Le Café de la Gare(337 Av. de la Libération, 44150 Ancenis-Saint-Géréon)と小さな看板が出ていた。 Log into Facebook Log into Facebook to start sharing and connecting with your f www.

  • Auberge du Tire Bouchon/ロワール川ワイン散歩#26

    しばらくの間見つめていると、そろそろロワール川に、やわらかな夕景が纏わり始めてきた。西の空から溶け出すような橙の光が、水面にかすかに揺れている。日暮れまでそう時間は残されていなと思った。宿泊先はクーフェ(Couffé)のオーベルジュに決めておいたので、タクシーを探した。地方の町だからね、駅前で流しの車を拾うのは難しい。だからmonTransport.comという配車サイトを使った。 Comparateur taxis, VTC, minibus & autocars Meilleurs prix fixes garantis Comparez et réserv

  • Coteaux d’Ancenis散歩01/ロワール川ワイン散歩#31

    最初に訪れたのは、SCEA Renou Frères et Fils(ルノー・フレール・エ・フィス)。ホテルから車で20分ほど、まだ朝の光が柔らかく差し込む時間だった。 Domaine Renou, Vins Vallée de la Loire Notre domaine situé entre Liré et Drain : 90 ha de vignes, 11 www.renou-freres.com 高台に広がる畑には、霧がまだ少し残っていた。 一角に、石造りの低い建物が佇んでいた。看板には控えめな文字で「Renou Frères et Fils」

  • 川を覆う霧の記憶03/ロワール川ワイン散歩#30

    朝の森を散歩したあと、ホテルへ戻った。朝食の時間、ガルソンが一枚のメモを届けてくれた。 昨夜、ディナーの際に話したソムリエに、今日訪ねるべきワイナリーをいくつか紹介してほしいとお願いしておいたのだ。どうやら、彼がさっそく手配してくれたらしい。ありがたい。 その紙には、5つのワイナリーの名前と、1軒のレストランの情報が丁寧に書かれていた。 そして、下には手書きのメッセージが添えられていた。 「ドメーヌ巡りは、午前中に2軒、昼食を挟んで午後に3軒ほどがよろしいかと存じます。 当ホテルからは、記載の順序でまわっていただくのが効率的かと。ドライバーの方ともご相談ください。 すべての訪問先には、

  • Googleの「株価を企業が守る」宣言が他GAFAMにどんな波及効果をもたらすか?#02

    このGoogleの親会社であるアルファベットが発表した700億ドルの自社株買いは、投資家心理や市場全体に多方面で影響を及ぼすますね。市場はどう動いたか? ①株価と投資家心理への影響 アルファベットの自社株買い発表後、同社の株価は時間外取引で4%以上上昇し、時価総額は750億ドル増加しました。​この動きは、同社の業績が市場予想を上回ったことと相まって、投資家に安心感を与えています。​特に、AI関連の投資が広告収益を押し上げている点が評価されています。 ​ ②他のテック企業への波及効果 アルファベットの積極的な自社株買いとAIインフラへの投資は、MetaやAmazonなど他の大手テック

  • Googleの「株価を企業が守る」宣言が他GAFAMにどんな波及効果をもたらすか?#01

    ChatGPT​の猛烈な急伸が、GAFAMに与える波及効果が気になります。 それでアルファベット(Google)についても、今まで以上に関心を持つようにしています。たしかにアルファベットが発表した2025年第1四半期の決算、かなり好調でした。 もともとマーケットでは「最近の株価は割安に見えるし、最悪期はもう過ぎただろう」という声が出ていましたが、実際の数字もまさにそれを裏付けるような内容でしたね。設備投資も含めて、全体的に予想を上回る内容で、発表後にさっそく株価が時間外取引で大きく上昇しています。 まず注目されたのは利益です。1株あたりの利益(EPS)は2.81ドルで、これは前年同期

  • グローバリズムは亡国の論理?

    2025年4月2日、トランプ米大統領は中国製品に対する認識を最大145%に据える命令を発表した。これに対して、中国は4月4日に報復措置として、7種類の「重」希土類元素(例、ジスプロシウムやテルビウムなど)の輸出制限をすると発表した。 重希土類は、電気自動車や風力発電機、軍事装備といった先端技術に欠かせない素材で、中国が世界の供給の中心である。 たしかにアメリカは、世界の希土類元素(レアアース)埋蔵量の約13%を保有している資源国だ。しかし加工・精錬・磁石製造の産業基盤は、米国内にほぼ存在しない。 埋蔵量は1,800万トンのレアアースを保有(世界2位)と云われている。マウンテンパス鉱

  • トランプ第二期「百日抗争」分析:10の政策戦線を巡って

    2025年、ドナルド・トランプが第47代アメリカ合衆国大統領としてホワイトハウスに復帰し「アメリカ・ファースト」の理念に基づいた包括的な改革政策を開始した。 彼の掲げた施策群は「百日抗争(Hundred Days Struggle)」と呼ばれ、官僚主義の打破、経済の活性化、文化的分断の是正、国家アイデンティティの回復を目的としている。その100日目が2025年4月30日に終了する。 トランプ2.0の100日目で見えた、損得重視の安全保障政策 第2次トランプ政権が発足して、2025年4月末に節目の100日目を迎える。経済政策にしても、安全保障政策にしても、バイデ xte

  • キャプテン・ユーロは何処へ行く?

    いやはや・・ゼレンスキー大統領がローマでのローマ法王の葬儀の際に、トランプと直接会えることをちょっぴり期待していたンですが。残念ながら、それはかなり望み薄のようです。 ・・がっかり というのも、トランプが水曜日に自身のSNS「Truth Social」でゼレンスキーを𠮟りつけたからです。しかもけっこうキツめの言い回しで「クリミアが欲しかったなら、11年前にロシアに“撃たずして”引き渡されたときに、なぜ戦わなかったんだ?」って・・さらに「彼は平和を選ぶか、あと3年戦って国を失うかだ」とまで言い切りました。いや、トランプさん、やっぱりあなた言葉選びがきつい(^o^;;僕よりきつい。 h

  • 川を覆う霧の記憶02/ロワール川ワイン散歩#29

    翌朝、まだ朝霧の残る森の縁を歩いてみた。オーベルジュの傍を流れる小さな川沿いに続く小道を、ゆっくりと辿った。前夜の静けさが、そのまま霧となって地面に残っているような空気だった。鳥の鳴き声すら届かず、聞こえてくるのは水音だけだった。木立の横から、小さな流れが見えた。 ドノー川Donneau。地図を見て確かめるまで、この川の名を知らなかった。けれど、すぐに気がついた。この穏やかな流れは、やがてロワール川に合流する支流のひとつなのだ。小さな川に過ぎないが、古来より無数の人々がこの水辺を行き来し、見つめ、名も残さず去っていったことは、想像に難くなかった。 川の流れは不思議なものだ。今まさに目

  • 川を覆う霧の記憶02/ロワール川ワイン散歩#29

    翌朝、まだ朝霧の残る森の縁を歩いていた。オーベルジュの傍を流れる小さな川沿いに続く小道を、ゆっくりと辿ってみた。前夜の静けさが、そのまま霧となって地面に残っているような空気だった。鳥の鳴き声すら届かず、聞こえてくるのは水音だけだった。木立の横から、小さな流れが見えた。 ドノー川Donneau。地図を見て確かめるまで、この川の名を知らなかった。けれど、すぐに気がついた。この穏やかな流れは、やがてロワール川に合流する支流のひとつなのだ。小さな川に過ぎないが、古来より無数の人々がこの水辺を行き来し、見つめ、名も残さず去っていったことは、想像に難くなかった。 川の流れは不思議なものだ。今まさ

  • Coteaux d’Ancenis/ロワール川ワイン散歩#27

    *Auberge du Tire-Bouchon*のすてきなディナーも、素晴らしいワインも、独りで楽しむにはどこか寂しさがつきまとう。料理の香りがふわりと立ちのぼり、グラスの中の赤がろうそくの灯にゆらめくたびに思う──これらはやはり、誰かとのマリアージュの中でこそ、ひときわ輝きを放つものなのだと。 なぜかというと、独りで食卓に向かうと、どうも癖が出てしまうからだ。良くない癖だ。つい、批評家の目になってしまう。だからどうしても、料理もワインも、気がつけば賞賛より先に欠点を探しはじめてしまうのだ。 皿の端にこぼれたソースの線、余韻の切れ方、グラスの脚にうっすら残る水跡──そんな些細なと

  • 釣り銭で 拒まれつつも 健気なり

    どうも小銭を持って歩くのが苦手で、もらったお釣りはポケットにいれて、ウチに持って帰るとソレを入れてるケースに入れてます。おかげで硬貨類がヤマになってしまいます。ときおりそれを銀行に持ってって両替するんですが、これが割と面倒くさいです。 そのとき、たまっているなあと感じるのが、一円玉です。買い物のおつりでやっぱり1円玉はおおいんですな。だから「釣銭放り出し箱」は、いつの間にか一円玉がおおくなる・・というわけです。 んで。なんでそんな話から始めたかというと、じつはこの一円玉、私たちが思っている以上に「高くつく」貨幣なんですな。 日本では、一円玉の原材料にはアルミニウムが使われていますが、実

  • 想像力の風景(Landscapes of the Imagination)02/ロワール川ワイン散歩#24

    ギャレットは、シュノンソー、シャンボール、アンボワーズのシャトーについて、イタリア芸術の息吹を取り入れ、フランス・ルネサンスの中心となったと記している。 確かにこれらのシャトーは、単なる防衛施設ではなかった。それは権力の象徴であり、芸術の殿堂であり、そして何よりも、ルネサンスの息吹がフランスに根を下ろした最初の舞台でもあった。 たとえばだが・・16世紀初頭、フランス王フランソワ1世はイタリア戦争に乗じてアルプスを越え、イタリア諸都市の栄光を目の当たりにする。フィレンツェ、ミラノ、マントヴァで彼が見たもの──それは、透視図法を駆使した絵画、幾何学的に構成された建築、古典文芸に根ざした

  • 想像力の風景(Landscapes of the Imagination)/ロワール川ワイン散歩#23

    アンジェ=サン=ロー駅からアンセニ(Ancenis)へ行くつもりだった。TER(地域急行)で30分弱だ。TGVだと次の駅ナントになってしまう。なのでTERに乗り換え。駅に着いたのは、午後3時を少し過ぎたころ。平日の中頃は駅構内も静かで、観光客よりも地元客の姿が多く見られるようだった。発車ホームの発車案内板で「Nantes」行きを探した。アンセニはその途中停車駅だ。 なぜアンセニに行こうかと思ったかというと、パリのカフェで読んだ雑誌の特集を見たからだ。 「ロワール川のほとりで、時が止まる町」としいうタイトルだったか。そのなかに「アンセニ(Ancenis)」という聞き慣れない町の写真があ

  • 黙示文学について02/ロワール川ワイン散歩#22

    僕の全く個人的な見解だが・・「ヨハネの黙示録」を書いた"ヨハネ"と、漁師で「ヨハネの福音書」を書いた"ヨハネ"は別人だろうと考えている。 資料の中には、私はヨハネだという言葉しかない。出自は語られていない。「ヨハネの福音書」はマルコという口述記述者がいて書かれたものだ。「ヨハネの黙示録」はヘブライ語の匂いがブンブンとするコイネー(古代ギリシャ俗語)で書かれている。その背景にある人格にオーパラップするものはない‥ぼくはそう思う。 なので、此処では"別のヨハネ"として買いたい。 "別のヨハネ"はパトモス島に逃れた。彼は此処で象徴と幻視に満ちた書を書いた。新約聖書中唯一の本格的な黙示文学で

  • 黙示文学について/ロワール川ワイン散歩#21

    「ヨハネの黙示録」を「黙示文学(apocalyptic literature)」という枠組みで捉えたのは、19世紀以降の歴史的批判学派(Historisch-kritische Methode)の研究者たちである。この学派は、聖書を「神の言葉」としてではなく、「特定の歴史的・社会的状況の中で人間の手によって書かれた文書」と見なし、それを科学的・客観的手法で分析しようとした。その方法論は19世紀のドイツを中心に発展し、現在の聖書学・神学・宗教史・文学研究の基礎を築いた。 「黙示文学」という語自体は古くから存在していたが、それを律法文学・預言文学・知恵文学と並ぶ独立したジャンルとして明確

  • 地中海・黙示の洞窟を想う/ロワール川ワイン散歩#20

    レストランを出て、石畳の坂をゆっくりと降りはじめた。アンジェ=サン=ローの旧市街は思いのほか静かで、陽光が石壁のあいだにたまり、ほのかに金色の埃が舞っていた。駅へと向かう帰り道でふと思い出したのは、遠い海の記憶だった。エーゲ海に浮かぶ、あの小さな島──パトモス島のことだ。 僕がその名を初めて地図の上で見たのは、フェニキア人のワイン産地を巡っていたときだった。ロドス島やコス島を辿るうちに、海の青の只中にぽつりと浮かぶ島に出会った。それが、あの「黙示録の地」だと知ったとき、息を呑むような驚きに打たれた。 パトモス島──現在のトルコ西岸に近いドデカネス諸島に属する、小さくも峻厳な島である。

  • キリスト教的終末観は僕らにはない/ロワール川ワイン散歩#19

    アンジェ城の門を出て左に歩くと、やがて見晴らし台に出た。眼下には、メーヌ川がゆったりと広がっている。 日差しと風が優しかった。きらめくメーヌ川は、まるで時間そのものを運んでいるかのように静かで、濃青だった。何名かの観光客が石柵に寄りかかりながら、ぽつぽつと歓談している。僕もその柵越しに、しばらく川を眺めていた。 その緩やかな川の流れは「黙示録のタペストリー」の世界とはまるで別のものだった。 精緻に、そして執拗に描かれる終末──燃え上がる天界と地獄、ラッパを吹き鳴らす天使たち、竜の顎。 これでもか、これでもかと迫ってくる緊迫と幻視の記憶が、メーヌ川の風にあたってほどけていく。 柔らかな陽

  • 黙示録のタペストリー/ロワール川ワイン散歩#18

    13世紀初頭、フランス王ルイ8世の妃ブランシュ・ド・カスティーユによって再建されたこの城は、かつてアンジュー伯の拠点であり、後にはフランス王権の西方の要として重要な役割を担った。地政学的に見ても、イングランドとフランスの勢力がぶつかり合う境界に位置するこの地において、巨大な石の威容は単なる軍事的象徴ではなく、王権の威信を示すものであった。 城門をくぐると、風景は一変する。外の町の光はすっと引き、時間が内向きに巻き戻るような静けさがあたりを覆っていた。広々とした中庭には中世風の庭園が整えられ、ラベンダー、セージ、ミントなど、まるで修道院のハーブ園のような草花が風に揺れている。その先には

  • アンジェ城/ロワール川ワイン散歩#17

    マルグリット・ダンジュー(Marguerite d'Anjou)の石像を過ぎてまっすぐ進み、ロワ・ルネ通りを左に折れると、すぐにアンジェ城の壁が視界に現れた。低い丘の上に築かれたその姿は、「要塞」という言葉の重みをそのまま石に写し取ったような迫力を放っていた。17基の円形の塔が規則的に並び、あたかも「ここは要塞である」と誇示するような、重々しくも静謐な威容を今なお湛えている。思わず、小さくため息が漏れた。 けれども、歩きながらGoogleMapで調べていたので、アンジェ観光案内所「Office de Tourisme - Destination Angers(7 Place Kenn

  • 世界は柔軟だということ/世界恐慌と呼ばれる現象の実相#04

    関税が引き起こすコスト増は、たしかに企業や消費者に影響を与えます。でも、だからといって「関税をかけたらすぐ大不況になる」と考えるのは早計です。現実はもう少し複雑で、多層的なんです。 鍵となるのは、経済のプレーヤーたちが変化にどう適応するか、という点です。 たとえば関税が課されたとき、企業はじっとしているわけではありません。コスト増を吸収するために、さまざまな工夫をこらします。その代表例が「サプライチェーンの再構築」です。実際、トランプ政権が中国からの輸入品に対して高関税をかけたとき、多くのアメリカ企業は調達先を中国から別の国へ切り替えました。結果として、米国の対中輸入額のシェアは急速

  • 関税かけたらすぐに大恐慌がくる?/世界恐慌と呼ばれる現象の実相#03

    まず確認しておきたいのは、1929年と2025年では、経済の規模も、産業の構造もまるで別物だということです。 1930年代のアメリカ経済は、まだまだ農業と製造業が中心で、海外市場への依存度も今とは比べものにならないほど低かった。当時、輸出はGDP全体のほんの数パーセント程度でした。でも今はどうでしょう。サービス産業が主体になり、GDPの約7割が個人消費で支えられる、完全な内需主導の経済に変わっています。たとえ輸出や輸入が一時的に落ち込んでも、旺盛な国内需要が経済の下支えになる構造です。 さらに今のアメリカ企業は、ほとんどが多国籍化しています。サプライチェーンも一国だけに依存していません

  • 師なき戦いに挑んだフーヴァー世界恐慌と呼ばれる現象の実相#02

    【】トランプ関税をついて語られるとき、スムート・ホーリー関税法を引き合い出す方がいますね。僕も以前、彼の政策をすぐに連想したって話、書きました。 【トランプの断つゴルディアスの結び目#02】 ハーバート・フーヴァーは、とことん不運な大統領だった。 1929年3月に第31代アメリカ大統領に就任した直後、米国は未曾有の経済危機に直面することになった。同年10月、ニューヨーク証券取引所で株... Posted by 勝鬨美樹 on Thursday, April 3, 2025 【トランプの断つゴルディアスの結び目#03】 フーヴァー政権下で1930年

  • 世界恐慌と呼ばれる現象の実相#01

    加速というものは、いつも唐突に起きます。 無数に蓄積されてきた余力が、ある瞬間すべて結びつき、連鎖反応のように爆発的な変化を生むのです。 人類が麦や米を手に入れ、生産力を飛躍的に伸ばしたときも、まさにそうでした。 灌漑技術の発見と整備は、たった一粒の種を、わずか一年で何百粒にも増やす奇跡をもたらし、ヒトの社会とその姿は劇的に変化しました。 そして──19世紀。 再び人類は、決定的な変化の時を迎えます。 ヒトの〈手〉は、機械と蒸気によって、かつてない力を得ました。〈足〉は、車両と鉄道によって、猛烈な速度と機動力を手に入れ、〈耳〉は、電信と電波の発見により、地球の裏側の声すら即座に拾

  • トランプ関税で不況になるぞ〜と叫ぶ前に、ちゃんとデータ見てますか?

    つい1か月ほど前のことでした。アトランタ連邦準備銀行(アトランタ連銀)が、米国経済の第1四半期の成長予測を、年率+4%近くから一気に「年▲2.8%成長」へと下方修正したのです。この速報値(GDPNow)を受けて、あちこちのメディアやコメンテーターたちが「トランプ不況が始まった!」とか、「次の大恐慌が来るぞ!」とか、まるで大将の首でも取ったかのように大騒ぎを始めました。 でも……おやおや。その後、ひっそりとこの予測が「年▲0.1%」に修正されていたこと、ご存じですか? ぜひ、声を大にして言いたいんです。 「狼が来るぞー!」と叫ぶなら、どうか「狼、来なかったぞー!」とも、同じくらいの勢い

  • マルグリット・ダンジューとロレーヌ公国/ロワール川ワイン散歩#16

    僕はアンジェ=サン=ロー駅(Angers-Saint-Laud)で途中下車した。宿泊するかどうかも決めないまま、TGVを降りた。モンパルナス駅から1時間半弱だから、まだ11時を少し過ぎたくらいだった。 近代的なガラス張りの駅舎を出ると、すぐにその周囲に広がる古びた町並みとの対比に驚かされる。Google Mapで見ると、ロワール川までは徒歩でおよそ2時間──およそ8kmも離れている。さすがに歩くのは無理だと思った。しかしアンジェ城なら20分ほど。しかもその傍らにはサルト川があることがわかった。 とりあえず川のほうへ出てみようと思い、駅前の広場を横切って、ガール通りを歩き出した。駅前に

  • 産業から聖変化へ替わったワイン/ロワール川ワイン散歩#15

    ローマ帝国の崩壊後、ガリアが辿った道は、「法による支配」から「土地による支配」への移行であった。その延長線上に成立したフランク族的荘園制度は、政治・宗教・経済・生活を一体化させた中世的秩序の精髄である。 11〜13世紀のフランス社会は、「祈る人(oratores)」「戦う人(bellatores)」「働く人(laboratores)」という三つの身分で構成されていた。荘園(manoir)は、これらの身分それぞれの生活と役割を地理的・制度的に統合する空間として機能し、とりわけ地方では実質的な支配単位であった。 荘園の構造は、領主が収益を得るために農民に耕作させる直営地(réserve

  • 交差する王権と神権03/ロワール川ワイン散歩#14

    このように見ていくと、ローマ帝国の荘園とフランク王国の荘園は、その表面的な類似に反して、まったく異なる社会構造を体現していたことがわかる。ローマの荘園が帝国の富を支える手段だったとすれば、フランク族の荘園は、帝国の崩壊後に秩序を再建しようとするための生存装置であった。 ローマの荘園が都市文明を下支えしていたとするならば、フランクの荘園は、崩れかけた文明のなかで、教会と王権、そして土地に根ざした人々が新たな秩序を模索する場であったのである。 教会や修道院が領主である場合、そこは典礼や教育を担う精神的生活の中心地にもなった。 このようにして荘園制(manoir制)は、中央集権的な命令によ

  • 交差する王権と神権02/ロワール川ワイン散歩#13

    クローヴィス一世がガリアの支配者となることができたのは、ローマ帝国の崩壊によって生じた混乱を逆手に取り、自らを「ローマの精神的継承者」と位置づけ、教会と手を結んだからである。 この提携関係こそが、のちの中世ヨーロッパにおける秩序の萌芽となった。教会はもはや単なる宗教組織ではなく、土地を所有し、労働力を組織し、経済的な権力を持つ存在として、政治構造のなかに組み込まれていくことになる。すべての始まりは、ここにあったと言ってよいだろう。 クローヴィスの死後、彼の子孫たちはメロヴィング朝を築いたが、広大なガリアを一元的に統治できるほどの力量は持ち得なかった。そのため、実際の統治は各地の司教

  • 交差する王権と神権/ロワール川ワイン散歩#12

    ルマンの次はアンジェ=サン=ロー駅になる。およそ30分くらいだろうか。 駅を出ると、街はすぐさま輪郭を失ってしまう。工場の煙突も、集合住宅の影も、すぐに見えなくなる。代わって現れるのは、刈り取りを終えた畑の裸地と、ぽつぽつと点在する農家の屋根。そのどれもが古びている。 列車は高速で走っているのに、その速さを感じさせない。揺れがない。まるで窓の向こうでゆっくりと風景の記憶が剥がれていくようだ。 ゆるやかな丘陵地帯。麦の名残を残す大地。水をたたえたため池。時折、森が現れて、そして去っていく。その間に、ときおり風車がひとつ、またひとつと回っている。現代風な風車だ。でも風景に溶け込むその姿は、

  • ルマン/ロワール川ワイン散歩#11

    TGVル・マン駅Gare du Mansの駅舎は、ガラスと鉄骨を組み合わせたシンプルで機能的なデザインだ。かつての荘厳さや「眠る犀」のような重厚な雰囲気は、再開発によってすっかり姿を消してしまった。駅前広場も新しく整備されたと聞いているが、実はまだ一度も降りて歩いたことはない。 TGVの車窓から眺めるル・マンの風景には、もう何度も触れてきた。駅が近づくにつれて、郊外の平坦な農地はゆるやかに姿を変え、産業都市の輪郭を帯びてくる。倉庫のような建物や整備された鉄道施設の合間に、古びた屋根がぽつりぽつりと混じる。その向こうには、教会の尖塔とクレーンの影が交差しながら浮かび上がる──いかにも「い

  • ロワール川ワイン散歩#10

    9世紀初頭、カロリング朝時代の修道院長イルミノン(Irminon)がまとめた荘園台帳『イルミノンのポリプティク(Polyptyque de l’abbé Irminon)』には、以下のような記述が見られる。 Vineae in villa Curte-Comitis, censu XXX amphoras vini. 「クルト=コミュ村には葡萄園があり、年貢として30アンフォラのワインが納められていた。」 ― Polypt. Irminon, II, p.186(c.823) このように、修道院は単なる宗教施設ではなく、荘園経済の中枢として機能し、そのなかでワイン生産は重要な収入源にな

  • ロワール川ワイン散歩#09

    ロワール川流域は、古代より交通と交易の要衝として知られており、特にトゥール(Caesarodunum)やアンジェ(Andecavi)といった都市は、ローマ帝国支配下において早くから交通と行政の中心として機能していた。ワインの生産自体はこの時代にも存在していたが、葡萄栽培が文化として定着し、宗教的な意義を帯びるようになるのは、キリスト教化と修道院制度の発展を待たねばならない。 ワインが宗教的・社会的役割を帯びるようになるのは、6世紀以降の西方修道制の確立と歩調を合わせている。 この西方修道制の出発点となったのが、529年、*聖ベネディクトゥス(Benedictus)が南イタリアのモンテ

  • ロワール川ワイン散歩#08

    あれは、ちょうど春の終わり、六月のはじめだったかな。小雨が降った翌日で、空はやや白く濁り、風はどこかミントのような冷たさを帯びていたことを記憶している。僕は仕事の合間を利用して、ふたつの村──ラ・シャルトル=シュル=ルワールと、ルシェ=プランジェを訪ねたことがある。 ラ・シャルトルは、ロワール川ではなく、その支流であるロワール・ルシュ(Loir)の流れに沿って開けた小さな村だ。村の中心には、17世紀の市庁舎と教会があり、そこから伸びる小道は緩やかに川へと向かっている。 レンガ色の屋根と、白く塗られた木枠の窓。まるで絵本の中から抜け出してきたような家々が続く村だった。 「レ・ヴィーニュ

  • ロワール川ワイン散歩#07

    TGVはヴェルサイユを超えたあたりから次第に速度を上げる。車窓の景色が少しだけ変わる。パリ・モンパルナス駅を出て約1時間くらいだ、TGVはルマン(Le Mans)を到着する。 僕の席の傍で降車する人はいなかった。また同時に乗りこんでくる人もいなかった。モータースポーツと工業都市の名で知られるルマンだが、ホームは閑静としていた。それでもホームを出て走り始めると確かに特別な「気配」がを感じた。。遠くに見えるのは、穏やかな丘と、散り散りの石造りの家々。南ドイツの駅で見かけるような工業都市の雰囲気ではない「何か」だ。 僕は車窓から、その雰囲気を嗅いだ。 一番最初に思ったのは・・かつて19世紀以

  • ロワール川ワイン散歩#06

    この時期を代表する宣教師は、マルティヌス・オブ・トゥール(聖マルティン、316~397年頃)そして、少し後のアイルランド出身の宣教師コロンバヌスやパトリックなどだろう。彼らは修道院を設立し、キリスト教の教義を広めるとともに、地域社会の安定と新興を支えた。 当時のキリスト教は、猛烈なご利益をもつ宗教だったのだ。彼らはローマから最新の知識もってガリアの地に広がったのである。ガリアの人々にはその様はまさに奇跡/魔術のように見えたに違いない。 その修道士や宣教師がガリアへ渡る際のルートだが、やはりローマ帝国の開拓した道路網や河川を利用したと僕は思う。ただただガリアの森をさ迷ったわけではない。

  • ロワール川ワイン散歩#05

    紀元前1世紀以降、ローマ軍団がガリアへ進軍すると、軍の駐屯地ではやがてブドウの木が植えられるようになった。ワインは兵士の糧であり、交渉の媒介手段であり、そして交易においては通貨のような役割すら果たしたのである。 穀物と比べて腐敗しにくく、軽量で高付加価値なワインは、古代の物流において理想的な産物であり、ローマの拡張政策において不可欠な戦略物資であった。ローヌ川流域、ナルボネンシス属州に広がる葡萄畑がその生産の限界に達すると、栽培地はさらに北西へと押し広げられていった。ローヌからロワール川、そしてセーヌ川・マルヌ川流域へと、ワイン文化は川の流れに乗って伝播していく。 この拡張を支えたの

  • ロワール川ワイン散歩#04

    パリを発ったTGVは、10分ほどでヴェルサイユの街を通る。僕はヴェルサイユ・シャンティエ駅(Versailles-Chantiers)のことを思った。パリから列車でヴェルサイユを訪れるなら、この駅が目印になる。駅を降りて北へ向かって緩やかな坂を上れば、やがてあの壮麗なヴェルサイユ宮殿へと辿り着く。だがTGVの窓からは、宮殿そのものは見えないし、この駅も見えない。ほんの束の間、街の気配が通り過ぎるだけだ。 それでも目を凝らせば、そこに確かに「ヴェルサイユらしさ」がある。進行方向右手、丘の中腹に古い屋根瓦が連なり、クリーム色の石造りの建物が斜面に寄り添うように佇む。その景色は、初めての人に

  • トランプが断つゴルディアスの結び目#11

    アメリカが今、直面しているのは「永遠には続けられない仕組み」なんです。その仕組みというのは、実は戦後にアメリカが“魚夫の利”を得て築いたものでした。 第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパも日本も、国そのものがズタボロでした。工場は破壊され、街は焼け落ち、経済は崩壊状態。そんな中で唯一、無傷だったのがアメリカだったんです。そして、その時点でアメリカは、圧倒的な工業力・生産力・軍事力・そして「通貨の信頼性」を兼ね備えていた。いわば、世界が一斉に膝をついたときに、ひとり直立していた国だったんですね。 そのアメリカ主導で整えられたのが、いわゆる「ブレトン・ウッズ体制」です。これによって、ド

  • Saudi defense minister visits Iran in highest-level trip in decades as nuclear talks proceed#02

    Perhaps we should first revisit the series of events that led up to the present, as it's difficult to understand without that context. What we’re witnessing is like a "fallen leaf blown away on a stormy day"—a seemingly small event that could signal a much larger shift, even a tectonic change on

  • 4月17日、サウジアラビアのハーリド・ビン・サルマン国防大臣がイランの首都テヘランを訪問した#01

    サウジアラビアのハーリド・ビン・サルマン国防大臣が2025年4月17日にイランの首都テヘランを訪問し、イランの最高指導者アリ・ハメネイ師やモハンマド・バゲリ参謀総長らと会談した。​この訪問は、1979年のイラン革命以降で最も高位のサウジ高官によるイラン訪問であり、両国関係の大きな転換点となるにちがいない。 Saudi defense minister visits Iran in highest-level trip in decades as nuclear talks proceed CNN Saudi Defense Minister Prince Khalid

  • 戦時独裁体制

    ウクライナの議会が、水曜日に戒厳令と軍の動員をさらに3か月延長する法案を可決しました。しかも、ほぼ全会一致。これで少なくとも8月6日までは戦時体制が続くことになります。 https://www.reuters.com/world/europe/ukraines-parliament-extends-martial-law-until-august-2025-04-16/ これはもう単なる延長というよりも、事実上の「戦時独裁体制の維持」宣言ですな。 というのも、ウクライナ憲法では、戒厳令の下では選挙ができないことになっているので、大統領選も議会選もストップしたままなんです。つまり、ゼ

  • ロワール川ワイン散歩#03

    TGVに乗り込むと、指定された座席に身体を預けた。発車のベルは鳴らない。警笛もない。 ただ、車体が静かに振動し始め、まるで誰にも気づかれぬように滑り出す。 気づけば列車はモンパルナス駅を離れ、パリの街を後にしていた。 最初はビル群の背中を縫うように進む。郊外の住宅街をすり抜け、やがて都市の輪郭が遠のいていく。そこから先は、まるで風景が一枚ずつカーテンをめくるように変わっていく。 広大な平原。ひたすらに平らな大地。 その先には、丸みを帯びた丘陵がぽつりぽつりと現れ、時折、風車が姿を見せる。牛の群れが寝そべる牧草地、手入れの行き届いた葡萄畑、小さな鐘楼を抱いた村々──。それらが一瞬ずつ視界

  • ロワール川ワイン散歩#02

    そのとき思った。「週末、ロワール川に逢いに行ってみるか」と。 それでワイン片手のまま、テーブルの上に置いてあったスマートフォンを手に取った。 Googleマップを開き、パリ・モンパルナス駅から西へ。ナント方面へのTGVのルートを指でなぞる。地図の中の一本の線が、トゥールを越えたあたりで川と重なっていることが分かった。ここだな‥と思った。地図上の線が川と重なるあたり、トゥールを越えたあたりから、車窓に水面が現れるはずだ。 ロワール川の流れが、あのゆったりとした水面がTGVの車窓から見えるはずだ。 それを想像しただけで、もう旅は半分は始まったような気がした。 その週末、僕は早朝のモンパル

  • ロワール川ワイン散歩#01

    モンマルトルのシャンブル・ドット(chambre d’hôtes)に滞在していた。最近はAirbnbが流行っているけれど、パリならシャンブル・ドットのほうが断然いい。特にテーブル・ドット(table d’hôtes)が魅力だ。僕が泊まっていたのは、そんなお気に入りの定宿のひとつだった。 夕食のあと、ごく自然な流れでワインが出された。Cabernet d'Anjou(カベルネ・ダンジュー)だった。セパージュは、カベルネ・フランとカベルネ・ソーヴィニヨン。美しい淡い赤色が印象的だ。 アンジュー産、つまりロワールのワイン。実はパリで見かけるワインはロワールが多い。流通経路的に馴染みがある

  • 20世紀パリとウジェーヌ・アジェ: 芸術ではなく記録を遺した写真家

    20世紀パリとウジェーヌ・アジェ: 芸術ではなく記録を遺した写真家 www.amazon.co.jp 300円 (2025年04月18日 02:07時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する モンパルナスの静かな裏通り。 色あせた店の看板、雨に濡れた石畳──そこに、名声ではなく「記憶」を追い求めた男がひっそりと暮らしていました。 ウジェーヌ・アジェ。 彼はただ写真を撮ったのではありません。パリという都市が忘れかけていた記憶の輪郭を、静かに、丹念に掬い上げていったのです。看板、扉、樹々、階段、窓、霧。人々

  • 20th-Century Dawn Paris and Atget

    「アジェのパリ」英語版です。 20th-Century Dawn Paris and Atget: Without Glory, But Never Without Her (English Edition) 少し要約気味にしてます 20th-Century Dawn Paris and Atget: Without Glory, But Never Without Her (English Edition) www.amazon.co.jp 429円 (2025年04月17日 11:38時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購

  • アジェのパリ#33/旧きパリ写真選集の撮影者-編集者

    アジェの死を、ベレニスは誰から知らされたのだろうか。おそらく、アンドレ・カルメットからだったはずだ。彼は生前、アジェから正式に相続人として指名されていた。アパルトマンの大家がアジェの死を知ったとき、まず連絡を取ったのはカルメットに違いない。 カルメットはベレニスが、アジェとヴァランティーヌの人生の最後の二年間、心の支えになってたことは、知っていた。だからこそ、アジェの死を誰よりも先に彼女に知らせたと僕は思う。 おそらまそのとき、ペレネスは、ついにその時が来たと思っただろう。そして同時に、アジェのコレクションはどうなるのか?と思ったはずだ。 その思いを抱えたまま、彼女はアジェの葬儀と埋葬

  • アジェのパリ#32/ただ2枚しかないアジェのポートレート

    1926年に入ると、ベレニス・アボットは、ほとんど日課のようにアジェのアパルトマンを訪ねるようになった。アジェはそろそろ70歳になろうとしていた。その足腰は衰え、かつてのように重い機材を背負って階下に降りるのも一苦労になっていた。撮影の頻度は落ち、代わりに室内での整理や焼き付けの作業に多くの時間を費やすようになった。 ベレニスは「写真を買いたい」という名目で足繁く通ったが、実際には、アジェとヴァランティーヌの日常の世話を焼くようになっていた。洗濯物を取り込み、ランプの芯を替え、近くのマルシェで買った果物をテーブルに並べる。そうした細やかな気遣いのひとつひとつに、二人は口にこそ出さなかっ

  • 4月15日。刮目すべきインドの解決法

    ニュースインディアの記事です「インドは米国との貿易自由化の道を歩むことを決定し、両国は米国間貿易協定(BTA)を交渉しており、対面での協議は5月に開始される予定であると政府高官が火曜日に通知した。 」 India-US to begin in-person BTA talks from May India and US to begin BTA talks in May, aiming to double trad newsarenaindia.com 昨日2025年4月15日ですが、インドとアメリカは「BTA(二国間貿易協定)」の第一段階に向けて、正式に合

  • アジェのパリ#31/退廃の街レ・アール

    かつてパリの「食の中心」だったレ・アール(Les Halles/現在の住所:101 Porte Berger, 75001 Paris)は、まさに「輝く市場」だった。それは単なる卸売市場ではない。「パリの胃袋」とまで呼ばれた巨大な生き物であり、都市の心臓部だった。昼も夜も眠らないその場所では、人間の暮らしと欲望、労働と享楽が剥き出しのまま渦巻いていた。 この卸売市場は12世紀から続く歴史をもち、19世紀半ばには建築家ヴィクトール・バルタールによって再構築された。鋼鉄とガラスでできた12の巨大なパビリオンが、まるで都市の臓器のように放射状に広がっていた。 氷に埋もれた魚の匂い、熟れすぎた

  • アジェのパリ#30/一区コントラ・ソーシャル通り

    花がひらくように変化したベレニスに、驚いたのはマン・レイだけではなかった。 彼のアトリエに出入りしていた友人や顧客たちも、目を瞠った。 最初にその変化に気づいたのは──おそらくガートルード・スタインであり、そしてペギー・グッゲンハイムだった。 マン・レイは、助手であるベレニスが、パリという巨大な磁場のなかで、新しい女性のアイデンティティを模索する人々に惹きつけられていく様子を、面白がって見ていた。 とくに、少年のような端正さを備えていたベレニスに、ペギー・グッゲンハイムが深い関心を寄せたことは、マン・レイにも何かを予感させた。 「彼女は化けるかもしれない」──そう思った彼は、ペギ

  • アジェのパリ#29/師なくして人は育たない

    ベレニス・アボットは、女性の幸福が「男に愛され、庇護されること」だとは思っていなかった。 彼女が見つめていたのは、「自分は誰なのか? どこへ向かうべきか?」という切実な問いだった。 その問いに向き合うため、ベレニスは苦悩の末に決断を下し、アメリカを離れて自分自身の道を探す旅に出た。1921年のことである。 いくつかの変転を経て、彼女が辿り着いたのはパリだった。 この街で、ベレニスは彫刻を学び始めた。研究生としての生活は、決して豊かではなかったが、粘土の感触、道具の重み、フォルムの追求。そうした手仕事のなかに「形ある自己」を見いだせるかもしれないという期待があったのだろう。 しかし

  • アジェのパリ#29/ガートルード・スタイン

    ベレニスを大きく変えたのは、アジェと共にガートルード・スタインだった。 ガートルード・スタイン(Gertrude Stein)がパリで暮らしていたのは、27 rue de Fleurusだった。 パリ6区、リュクサンブール公園のすぐ南側、静かな石畳の住宅街だ。今も現存しており、建物には記念プレートが掲げられている。 彼女の家のドアを開けると、目の前に広がるのは、絵画と本に埋め尽くされた世界だった。セザンヌ、マティス、ピカソ──まだ誰も名前を知らなかった頃の、未知なる“色”と“形”が壁を埋め尽くしていた。そして、天井近くまで積まれた書物が部屋の重力になっていた。 その部屋では、無数の発見

  • アジェのパリ#28/ベレニス・アボット

    Berenice Abbott, Photographer: An Independent Vision www.amazon.co.jp 4,112円 (2025年04月15日 15:14時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する ベレニス・アボットが写真という芸術に初めて触れたのは、まさに偶然だった。1923年、マン・レイが自身のスタジオで助手を探していた際、彼は「写真をまったく知らない娘」という条件でベレニスを選んだ。彼が求めていたのは、自らの技術や手法を柔軟に受け入れ、既成の流儀にとらわれることな

  • トランプが断つゴルディアスの結び目#10

    前回、ニクソン・ショックとトランプの一連の動きを話しました。その中で、ひとつのキーワードを出した。それが「アンチ・ニクソン」です。今回は、その相似性と、トランプの独自性の話を、もう少して書きたいと思います。 まず注目すべきは、どちらのショックも「アメリカが損をしている」「俺は怒っている」という強い怒りの感情から始まっている、という点です。 1971年、ニクソン大統領はベトナム戦争の長期化で財政赤字を抱え、加えて日本や西ドイツといった輸出主導国との貿易赤字に苦しんでいました。 彼の目には、戦後復興を助けたはずの同盟国が、いつの間にかアメリカの富を食い物にしているように映ったのでしょう。

  • 中国船舶集団(CSSC)

  • FRBは次にどう動くか

  • アジェのパリ#22/アジェの住まいという劇場について

    アジェは、時折、自らの住まいを撮影した。だが、それを「私の部屋です」とは言わなかった。むしろ彼は、そこに「偽名」を与えた。 あるときは《Intérieur d’un artiste dramatique, rue Vavin (MR)》(舞台俳優の小さな室内、ヴァヴァン通り)として、またあるときは《Intérieur ouvrier, rue de Romainville》(労働者の室内、ロマンヴィル通り)として。写真の中で、本棚に囲まれた居間も、質素な部屋の一角も、すべて“他人の空間”として提示された。しかし、注意深く見る者は、その隅々にアジェ自身の息遣いと視線、そして何より「不在の

  • アジェのパリ#21/出会い

    マン・レイのアトリエで、ベレニス・アボットは、テーブルに置かれたままになっていたアジェの写真を手に取った。 マン・レイは、アトリエを初めて訪れた者には、いつも自慢げにアジェの写真を見せるのだった。その片づけをしていたときのことだ。 彼女は一枚の写真を裏返し、その裏面に手書きされた住所を見つめた。 「17 bis Rue Campagne-Première…」 端正で、筆圧の強さが伝わってくる文字だった。彼女はしばらく、それをじっと見つめていた。 「行くときは offrande を忘れないようにな。午後ならきっといる」 と、後ろを通りかかったマン・レイが言った。 「老人の時間を無駄に使う

  • アジェのパリ#20/ベレニスの心を揺さぶったもの

    アジェとヴァランティーヌが同棲のために引っ越してきたのは1899年のことだった。 彼らが暮らし始めたアパルトマン《17 bis Rue Campagne-Première》は、鉄とガラスで構成された幾何学的なファサードを持つモダンな建物で、完成してからまだ十数年しか経っていなかった。 このアパルトマンが気に入ったのは、おそらくヴァランティーヌだろう。モダン演劇の世界に身を置いていた彼女にとって、この建物の人工的な冷たさの中には、どこか劇場の舞台装置に通じる洗練と無機質な美しさを感じさせるものがあったのかもしれない。 初めてこの建物の前に立ったとき、僕は最初にヴァランティーヌを連想した

  • 現代の経済モデルへの根源的な疑問

    アメリカって、今も昔も「世界最大の輸入国」なんですよ。相変わらず、ね。 2023年の数字を見れば明らかで、輸入総額はおよそ3.9兆ドル。これは本当に桁違いで、世界中のどの国よりも多い。つまりアメリカって国は、“世界中からあらゆるモノを買っている国”なんです。衣料品にしても、電子機器にしても、薬も車も食料品も──何でも世界各地から輸入して、それを国民が買って、暮らしが成り立っている。 逆に言えばですよ、世界中が「アメリカに買ってもらう」ことで食っている。ベトナムの縫製工場、中国のスマホメーカー、ドイツの車メーカー、日本の薬品会社、ブラジルの農場だって、最終的に「誰が買うか?」を考えたとき

  • BRICS+の蠕動が世界を揺るがす

    なぜ金が高騰なんて話をしたかというと‥金を買おうねという話じゃないです(笑) BRICS+の近未来を彼らがどう進もうとしているかの話・・そのマクラです。 どうも日本メディアはBRICS+という経済圏を過小評価あるいはスルーする傾向があります、とんでもないです。いまBRICS+は、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ、そしてついにイランやUAEなども加わり、地球上の人口のほぼ半分がBRICS+の元にいます。そして世界のGDPの約30%、購買力平価(PPP)で見るならば50%以上という圧倒的な経済規模を占めています。これはもう、発展途上国の寄せ集めどころではなく、すでに世界経済の中核

  • BRICS+の蠕動が世界を揺るがす

    ところで・・金がついに1オンスあたり3,200ドルを超えて、史上最高値を更新しましたね。これはかなり大きなハイライトです。 そうかな?ただの一時的な上昇じゃないかって思う人もいるかもしれないけど、それほど単純な動きじゃないですよ・・というのも、背景にはかなり大きな流れがあるからなんです。 キーワードは各国の中央銀行がこぞって金を買い集めているということ。 あは♪日本国は違うよ、日本国は戦後GHQに云われて、金を資産ではなく、ただの金属にしたからね。BOJは金が目隠しされている。 実は今、中央銀行の金購入量って、世界全体の年間金採掘量の約20%にも達しているんですよ。これはもう、相場に無

  • アジェのパリ#19/17 bis Rue Campagne-Première

    アジェ夫婦が暮らした17 bis Rue Campagne-Première, 75014 Paris は、パリ14区にある。この周辺は、パリのモダニズム建築の象徴とも言える集合住宅《17bis Rue Campagne-Première》がいまでも残っている。たてられたのは1900年代初頭で、設計者はアンドレ・アルフォンス・ビュルト(André Arfvidson)という人だった。彼は、鉄筋コンクリート、鉄、ガラスを積極的に用いた建築を設計する人だった。外観は装飾を抑え、構造体そのものがデザインの一部になるような設計を心掛けていた。《17 bis Rue Campagne-Premi

  • アジェのパリ#18/ベレニス・アボット

    アジェの伴侶、ヴァランティーヌ・ドラフィス(Valentine Delafosse)は、1926年6月20日に亡くなった。翌年の8月4日、ウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget)もこの世を去る。彼が遺した膨大な写真の原板とプリントは、引き取り手もないまま、廃棄寸前の淵にあった。その運命を救ったのが、まだ無名に近い若き写真家、ベレニス・アボット(Berenice Abbott, 1898–1991)だった。彼女の慧眼と執念がなければ、アジェの偉業は、歴史の光を浴びることなく闇に埋もれていたに違いない。 ベレニスは、アジェの生きざまに心から共感した数少ない人物のひとりだった。その共感

  • アジェのパリ#17/ジャン・コクトー

    マン・レイは、自分が「孤高の天才」を陋巷の地で発見したことを、何よりの自慢にしていた。 だが彼にとってアジェは「仲間」ではなかった。 アジェは、マン・レイにとってオブジェとしてのシュルレアリストだったのだ。 アジェが死去した1927年8月、マン・レイは『La Révolution surréaliste』誌に、彼の写真を数点掲載しつつ追悼文を寄せている。その中で彼はこう書いている。 「彼は我々の知らぬままに、既にシュルレアリストだった」 この言葉に、マン・レイがアジェを「アイコン」として捉えていた姿が透けて見えると、僕は思う。 彼にとってのアジェの価値は「意図しないことから生まれるシ

  • アジェのパリ#16/『シュルレアリスト革命』誌第七号

    金環皆既日食は、皆既日食と金環日食が同じ経路上で連続して発生する現象だ。 1912年4月17日、パリは金環皆日食になった。 この日食は金環日食として始まり、途中で皆が日食に変化し、再び金環日食で終わる珍しいタイプだ。 パリの人々は、遮光眼鏡を持って街に立ち空を見つめた。 アジェEugène Atgetはその人々を撮った。 アジェ55歳である。最盛期の仕事だ。 彼は1898年頃から本格的に写真を撮り始めているが、当初は殆どその仕事を評価する者は居なかった。画家や建築家くらいだった。アジェは黙々と日々重い機材を抱え込み街を精力的に彷徨していた時代だ。 それでも伴侶ヴァランティーヌ・ドラフィ

  • アジェのパリ#15/存在そのものをひとつの表現形式へ

    かつて芸術作品に描かれる裸体の女たちは、たいてい名前を持たなかった。カンヴァスに塗られた乳房にも、彫像の曲線にも、それを支える「私」という声は存在しなかった。モデルとは、画家の欲望の影であり、その身体は視線に奉仕する「無名の肉体」に過ぎなかった。 だが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリ、なかでもモンマルトルやモンパルナスのアトリエにおいて、彼女たちは少しずつその姿を変えていった。画家の脇に立ち、画布の上だけでなく、実生活の空間でも芸術の一部であろうとした女性たちが、そこにはいた。その象徴ともいえる存在が、キキ・ド・モンパルナスとシュザンヌ・ヴァランドンである。 しかし・・それ

  • アジェのパリ#14/モンマルトルのシュザンヌとモンパルナスのキキ

    「モンパルナス」のキキを見つめるとき、僕は「モンマルトル」のシュザンヌを連想してしまう。 シュザンヌは1865年、リモージュに生まれた。キキは1901年、ブルゴーニュ地方の小さな町シャトールナールの生まれである。二人のあいだには、36年の時代の差がある。彼女たちの生きざまを見つめるとき、僕らはその背景にある時代を添えて考えなければならないと思う。 19世紀末から20世紀へ。社会の構造、都市の輪郭、芸術の主語──そのすべてが、ゆっくりと、けれど不可逆的に変わっていった。そしてその変化が「激動」に変わったのは、世紀が替わって20年後、第一次世界大戦と世界大恐慌の到来によってだった。 どう

  • アジェのパリ#13/マン・レイとキキ・モンパルナス03

    そして1921年である。カフェ・とロンドで、アメリカから来た若い写真家マン・レイに声を掛けられた。二人はすぐに恋人関係になり、以降はマン・レイのもっとも重要な被写体でありインスピレーションの源となっていく。二人の関係は1929年頃まで続いた。 この時期がキキの最盛期だったのかもしれない。 翌年1930年、キキは自伝『Souvenirs』を出した。アーネスト・ヘミングウェイと藤田嗣治が序文を描いている。 この自伝はアメリカ税でも発売されたが、あまりにも奔放な生活を率直に描写しているため、すぐさま発禁処分にされている。英語版が出版されたのは1996年になってからだった。その英語版の序文で、

  • アジェのパリ#12/マン・レイとキキ・モンパルナス02

    マン・レイのレンズの前で、キキは何かを「演じて」いたわけではない。彼女が示したのは、どのように生きているか、そのありのままだった。マン・レイのフィルムがとらえたのは、単なるポーズや構図ではなく、生の一断面、官能と意志の交差する、ひとつの存在の輪郭だった。 キキは「美しい裸体」として芸術作品に登場したのではない。彼女は、ただ「写されることを許された」存在ではなく、「表現されるに値する人生」をまるごと生きた人だった。そのことに、自覚的であった彼女は、自らの存在を主体的なアイデンティティとして引き受けた。 僕は思う。 キキが「表現」になり得たという事実。 そして、キキという存在が作品として「

  • アジェのパリ#11/マン・レイとキキ・モンパルナス

    マン・レイが『La Révolution Surréaliste』誌に参加したのは、1924年12月に発行された創刊号からである。この雑誌はアンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」(同年発表)を実践の場へと移し替えた、まさに運動の中心的機関誌であり、「夢と現実の矛盾のない融合」という理想を紙面上に体現する実験場だった。 マン・レイがこの運動に合流するきっかけを与えたのは、マルセル・デュシャンである。アメリカから渡仏していたデュシャンは、既にダダイストとして知られ、既成の美術制度を「レディメイド」によって根底から揺るがしていたが、ブルトンのシュルレアリスム運動にも深く共鳴し、陰

  • アジェのパリ#10/パリのアメリカ人

    マン・レイ(本名:エマニュエル・ラドニツキー)は、ウジェーヌ・アジェに深く心酔していた。彼はアジェの存在を広く世に知らしめたひとりであり、その影響は多くの芸術家に及んだ。詩人ジャン・コクトーもその例外ではなかった。コクトーはアジェのアパルトマンからほど近い場所に住んでおり、マン・レイを通じてアジェの写真に出会ったという。そして、そのすぐ近くにマン・レイ自身も暮らしていた。 彼が拠点としたのはカンパーニュ=プルミエール通り。そこを選んだのは、すでにパリに移住していたマルセル・デュシャンの助言によるものだとされている。 当時、アメリカの先鋭的な芸術家たちは、保守的で商業主義的なアメリカのア

  • トランプが断つゴルディアスの結び目#09

    トランプ第二政権成立まで、世界経済は「成長」と「安定」という二つの軸の間で揺れてきました。今もそうです。 不換紙幣が産み出したマジックのもとで、世界は20世紀半ば過ぎに猛烈なグローバル化果たしました。 しかし一方で、その裏では貿易と資本の不均衡が急速に拡大し、国家間の信頼や経済連携に大きな揺さぶりが起きています。 それの根源はただ一つです。お金を保証するものが国家の信用だということです。国家は興亡します。凋落する。凋落すれば貨幣はただの紙くずになる。だから逆に紙くずだから《虚》だから、今の繁栄を得ることが出来た。しかし是正する局面に世界は直面しています。いま、私たちは経済秩序の再構築と

  • トランプが断つゴルディアスの結び目#08

    トランプ関税が及ぼす貿易摩擦ばかりに目をとらえていると、実はなぜトランプ関税が必須なのか?このショックから世界はどちらへ大きくシフトチェンジしようとしているか?が見えなくなってしまい、メクラマシされてしまう・・ 大事なのは個々の要素(懸案の増加が経済危機を先取りパターンになる)です。もしかしてこれはフーヴァーがやった失政を繰り返すだけなのか?ばかりに、こころが捉えられてしまう。あるいは思考誘導されてしまう。 反トランプ・プロバガンダや派手なお騒がせ「狼がくるぞ}ニュースに振り回されず、大きな視点でトランプ関税とそれがもたらす近未来をしっかり見ていくことが大切です。 なによりもはっきりと

  • アジェのパリ#09/カンパーニュ=プルミェール通り

    嫁さんの友人夫婦が14区でやっているレストランがある。 ル・コルニッション(Le Cornichon)ってンだけど、僕らのお気に入りの店だ。訪巴の際は、必ず立ち寄ることにしている。料理もうまいし、何より居心地がいい。今回の旅でも、もちろん予約を入れてあった。でもその前に、ちょっと寄り道をすることにした。 行き先は、カンパーニュ=プルミェール通り。91番のバスに乗って "Campagne Première" 駅で降りればすぐだ。バス停のすぐ近くにはCave Des Grands Vinsというワイン屋があるから、ワイン好きにはそこもおすすめとしておこう。 「ちょいと寄り道するぜ」と僕が言

  • ウジェーヌ・アジェ#1-08/ヴァランティーヌの面影

    1900年代に入ると、アジェの写真は徐々に評価を得はじめ、1906年にはフランス国立図書館や建築学校が彼の写真を買い上げるようになった。近代化の中で失われゆく風景を追う彼の記録性が、文化的資料として注目されはじめたのである。 彼が追ったのは、建築の装飾や古びた扉、樹木、看板、彫像──誰もが見過ごす「時の痕跡」だった。そしてそのすべての活動を支えたのは、傍らにいたヴァランティーヌだった。 ふたりは一度も引っ越すことなく、カンパーニュ=プルミエール通りで人生を重ねていった。喧嘩もあった。病にも見舞われた。けれど、食卓を囲み、窓の外の空を見上げ、冗談を交わしながら、静かに日々を積み重ねた。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-07/芸術家ではなく、職人として02

    1890年代の終わり、ヴァランティーヌは長く続いた巡業の舞台生活に終止符を打つ決意を固めた。 その背中を押したのは、アジェから頻繁に届く手紙だった。愛と孤独、そして迷走のにじむ言葉のひとつひとつが、彼女の心を静かに、しかし確かにパリへと引き戻していた。 「パリならば、自分の居場所がある。それに彼は、私がいないと無明に落ちてしまう」 彼女はそう思ったのだろう。そして、もう一度そこからやり直そうと決めた。 1899年10月、ふたりはモンパルナスのカンパーニュ=プルミエール通り17番地に越す。 当時のその通りはまだ舗装もされておらず、石畳の隙間から雑草がのび、馬車の音が遠くからかすかに聞こ

  • ウジェーヌ・アジェ#1-06/運命を変える二つの出会い

    この旅まわりの劇団で、アジェは一人の若い女優に出会った。 ヴァランティーヌ・ドラフィスである。パリ育ちの端正な顔立ち、朗々たる声、そして堂々たる舞台姿で、「パリのマドモワゼル」と呼ばれていた花形女優だ。人目を引くその存在感に、アジェの心は静かに、しかし確かに引き寄せられていった。 ふたりがいつ、どうやって惹かれ合ったのか――記録は残っていない。 だが、僕は想像する。旅の途上、誰もいない薄暗い劇場の袖。舞台の喧噪が消えたその静寂のなかで、アジェとヴァランティーヌは、ごく自然に、共に生きていくことを決めたのではなかったか。それは言葉にならぬ約束、あるいは運命の囁きだったのかもしれない。 し

  • ウジェーヌ・アジェ#1-05/辿り着けないという悪夢

    1857年2月12日、ジャン=ウジェーヌ・アジェはフランス南西部アキテーヌのリブルヌ(Libourne)で生まれた。リブルヌは、ガロンヌ川に流れ込むドルドーニュ川の下流にある小さな町であり、古くからワイン貿易で栄えた静かな商業都市でもある。 アジェの父は馬車職人だった。アジェがまだ幼いころ、父は事故で亡くなった。母も間もなく後を追うように逝ってしまった。アジェは祖父母に引き取られ、彼らのもとで育てられた。 アジェは決して秀才ではなかった。勤勉な子ではあったが、教科書よりも街角の光景や人々の表情に目を奪われる少年だったという。絵を描くことが好きで、独学でスケッチを始めた記録が残っている。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-04/市井に充足する至福

    アジェの生涯を共にした伴侶は、市井の演劇人ヴァランティーヌ・ドラフィスという人だった。1926年6月20日、彼女は二人の暮らすアパートで息を引き取った。享年79歳。舞台に立ち続けてはいたが、名が広く知られることはなく、彼女の出演歴や所属劇団についての記録も乏しい。 アジェは彼女より10歳年下だった。彼もまた、生前に写真家として評価されることはなく、作品を資料として細々と売りながら生計を立てていた。ふたりが暮らしていたのは、パリ5区、ルクセンブルク公園東側のモンジュ通り近くにあるアパルトマンだった。家具は最小限、壁にはアジェの写真がいくつか掛けられており、部屋の一角には現像器具とガラス

  • ウジェーヌ・アジェ#1-03/クリストファー・ラウシェンバーグ02

    ラウシェンバーグがウジェーヌ・アジェの写真に出会ったのは、写真家としてのキャリアが深まりつつあった1980年代後半のことだったという。 ある日、ニューヨークのMoMAの書棚で、ふと手にした写真集に目が釘付けになった。パリの街角、誰もいない通り、静かな建物の壁面。そのモノクロ写真の一枚一枚が、まるで何かを囁くように語りかけてくる。 「この写真たちは、都市の外観を記録しているのではない。都市の記憶そのものを写している」 それが、彼の第一印象だったと彼は書く。 ラウシェンバーグは、次第に「もし自分が、アジェが立った場所に行き、同じ構図で撮ったら何が写るのか?」という問いに取り憑かれていく。

  • ウジェーヌ・アジェ#1-02/クリストファー・ラウシェンバーグ

    そのときに買ったアジェの写真集が、僕が持っている彼の唯一の写真集だった。それ以来、パリを歩くときはいつもこの本を携えていた。 僕はいつもパリに100年前のパリを見つめていた。今のパリも好きだ。でも僕のパリはベルエペックノのパリだ。・・それもあって僕が次第に思い始めたのは、アジェが実際にどこで写真を撮ったのか・・だった。 そう思うようになって、写真と街並みを見比べながらウロウロするようになるとに、どうやら彼はマレ(Le Marais)、モンマルトル(Montmartre)、それにノートルダム大聖堂のあるシテ島(Île de la Cité)とサン=ルイ島(Île Saint-Louis)

  • ウジェーヌ・アジェ#1-01/アジェの眼とパリの輪郭

    初めてウジェーヌ・アジェの写真に出会ったのは、今からおよそ四十年前、ニューヨークのICP(International Center of Photography)で開かれていた小さな特別展だったと思う。あの頃、僕はまだ若く、写真という表現手段に対して、どこか漠然とした憧れと距離感を持っていただけだった。 カメラは母にせがんで買ってもらったF1を持っていた。高校時代は写真部には入っていたが、それほど熱心な「写真家」ではなかった。それでも写真は好きだったし、とくにロバート・キャパには強く魅せられていた。それでICPなのだ。 ICPは、ロバート・キャパの5歳年下の弟コーネル・キャパが創設した

  • トランプの「The Art of the Deal」

    頓珍漢なトランプの意図が見えない解釈がメディアに羅列されているが、ヘッジファンドのマネージャーであるビル・アックマンがXに載せた記事は面白かった。 .@VDHanson makes a compelling case for the @realDonaldTrump tariff strategy, but gets one issue incorrect. He describes the Trump tariffs as reciprocal and proportional to those other nations have assessed on us. In ac

  • The Floating World Begins Here: in a Drawer She Forgot to Close (English Edition) Kindle版

    kindle版はこちらです。 思うところあってAmazon.comで出しました(^o^;; 少し英語話者が分かりやすいように弄りました。 The Floating World Begins Here: in a Drawer She Forgot to Close (English Edition) www.amazon.co.jp 441円 (2025年04月06日 11:09時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する A memory carried in ink and line. A po

  • 新日本画に酔う~おわり/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#16

    たしかに浮世絵の終焉した。しかしその「かたち」は「こころ」として残った。シャンパンの泡のように消滅し明治の半ばに商業の場から姿を消してしまうが、その技術と感性は、明治画壇に西洋画とは違う新しい潮流を産み出した。まさに異なる形で再生を遂げてたのである。 最後の浮世絵師たちは、その境目に立ち、筆を通して時代に抗い、未来へと橋をかけたのだ。 この「浮世絵の興亡史」を日本列島という枠から外れてみると、日本が手放したものを、西洋が拾い上げ、磨き上げた歴史が見えてくる。・・いつでも日本の美は外圧で再発見されるものだ。 始まりは19世紀半ば、万国博覧会や横浜開港を通じて、日本から陶器や漆器、扇子、

  • 新日本画に酔う/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#15

    江戸の町人文化の中で育まれ、線画と様式美を極限まで洗練させた浮世絵は、庶民の視覚芸術として爛熟の極みに達していた。輪郭線で形をとらえ、限られた色彩で情緒や物語性を表現するその技法は、写実よりも意匠と感性を重んじる美の体系であった。北斎の奔放な構図、広重の叙情的な風景、写楽の劇的な役者絵に代表されるように、浮世絵は「見立て」と「戯れ」の美学の中で自由に生きていた。 しかし、明治維新とともに西洋文明の奔流が押し寄せると、その風向きは一変する。 文明開化の合言葉のもとに輸入されたのは、遠近法と陰影に支えられた油彩画、つまり写実主義の絵画であった。これまで浮世絵が意図的に避けてきた立体感や質感

  • 様式美としての漫画について/紅ひとつ 夢と思いを 刷り重ね#14

    北斎が「漫画」という言葉を使ったのは"漫(そぞろ)に画(え)"、つまり“気ままに描いた絵”という意味で、「気楽な絵」といった心づもりだったと僕は思う。 まさにその気分で、北斎は思いつくままに絵を描き散らかし、それをまとめて版画集として出版した。それが北斎漫画だ。やがてこの作品は、若い作家たちにとって手習い本として重宝されていくようになった。 その第1編〜第15編は、1814年から1878年にかけて断続的に発表された。第1編は1814年(文化11年)に刊行され、大ヒットを記録する。続く第2編・第3編も翌1815年・1816年に出版され、評判を呼んだことで、第4編以降は上方(京都・大阪)

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