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2020/12/27

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  • "夜郎自大"が今本邦最大の病巣だということ

    相変わらず原料の話になると触手が立ってしまいます(^o^;; Equinor enters partnership with Standard Lithium Equinor has entered into an agreement with Standard Lithium L www.equinor.com 世界のリチウムは、現在中国が生産量の67%を押さえています。つまり産業の根幹であるバッテリーは、その材料が80%がmade in Chinaなのです。 (国が発行している) お金がデジタル化したとき、その背景を支えるのは「国家的信用(不換紙幣)」に

  • 星と風と海流の民#19/フォートカニングの丘へ03

    「ラッフルズ卿が此処に公邸を構えたのは1822年からだ。彼がシンガポールを統治したのは1823年までだ。24年に英蘭協定(ロンドン条約)が交わされて、公式にクリスマス島とココス・キーリング諸島を含むシンガポール海峡植民地とペナン/マラッカが英国統治下になると、26年からロバート・フラトンが替わっている」 「フラトンってフラトン・ホテルのフラトン?」 「ん。あれは1928年に中央郵便局として作られたビルだ。戦時中は日本軍が昭南島陸軍本部中央司令部があった」 「へぇ、じゃホテル・ラッフルズは?」 「いろいろ聞くなぁ。あっちは日本海軍が占拠した。海軍の高級将校たちの宿泊設備として使用されてい

  • 星と風と海流の民#18/フォートカニングの丘へ02

    https://www.youtube.com/watch?v=O9SaD3cV6fc 貯水池に沿った小道を歩くと幾つかの掲示板に出会う。しかし遺跡らしきものはない。あるのは繁った樹木があるだけだ。 SIngapore in th 16th Centuryと書いてある掲示板を横目に見ながら嫁さんが言った。 「ふーん、ドレもコレも掲示板は『此処に在った』話ばかりなのねぇ。結局、何も遺跡は無いの?全部、英国軍は壊しちゃっわけ?」 「ん。このフォートカミングパーク貯水池は・・」と、僕は左のフェンスの向こうに1mほどの高さで盛られて続く土塁を指差した。「19世紀最後半に作られたインフラな

  • 星と風と海流の民#17/フォートカニングの丘へ

    https://www.youtube.com/watch?v=2L5wCDXaW3I 土曜日の朝早く、フォートカニングの丘へ出かけた。目的はFort Canning Archaeological Dig Siteへ行くことだったが、すこし丘の中を歩いてみたくて、地下鉄はDT20のフォート・カニング駅Fort Canningにした。まだMynaの鳴く声が残っている時間である。 Mynaはムクドリの仲間で、和名はインドハッカというそうだ。何しろ多い。朝夕は、彼処に繁るレインツリーRain Treeの中で無数のMynaが鳴き交わす。あまりにも樹木が茂っているので鳥たちの姿は見えない。

  • 星と風と海流の民#16/テマセク(海の民)と呼ばれたシンガポール01

    シンガポールで英国支配以前の遺跡を探すとなると、思いつくのはフォートカニングの丘にあるFort Canning Archaeological Dig Siteくらいしかない。フォートカニングの丘は、古くから「マレー王の丘Malay Kings' Hill」と呼ばれていた。此処に朽ち果てた遺跡と遺物があったからだ。それはテマセクの王だったスルタンの王宮だろうと言われてきた。 本格的な調査発掘か始まったのは1984年。John Miksic博士がシンガポール大の学生と行っている。彼らは、タイ南部の陶器や中国広州の陶磁器、江西省の磁器。そして宋代の貨幣などを発見した。現在はその一部がFort

  • 星と風と海流の民#15/満潮のナンマドール05

    スペイン王は、アメリカ大陸西海岸・メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の鉱山で採掘された銀を持ち出すために、太平洋を横断する航路を求めていた。所謂「マニラ・ガレオン貿易」である。 このマニラ・ガレオン貿易を成功させたのは、マゼランの業績を継いだトリビオ・アロンソ・デ・サラザールToribio Alonso de Salazarだった。彼は貿易ルートを確立し、スペインの太平洋支配を進展させ、国家に膨大な功績を残している。そのサラザールがポナペを含むカロリン諸島を発見したのは1528年1月だった。しかし彼の航海日誌の中にポナペらしき名前はない。ポナペの名前を航海誌へ最初に残したしたのは、スペイ

  • 星と風と海流の民#14/満潮のナンマドール04

    滿汐はゆっくりとやって来た。マングローブを巻き込んだナンマドールの玄武岩の壁である。あるものは原形をとどめるほど大きく、あるものはマングローブに絡み付かれて分断されている。その刻まれた溝を、静かに滿汐が昇って行く。その速さは視認できるほどだった。見る間にナンマドールは海の中に沈んでいった。トシさんのフィッシングボートは、再度海に浮かんだ。 ポナペは海底火山が生んだ島だ。島中央にあるナハニキド山Mount Nahna Laudがその痕だ。その爆発が北西にもう一つの溶岩噴出口・ソケイ山Sokehs Mountainを作った。そして東側にトミウォール山Temwen Mountainを作った。

  • 星と風と海流の民#13/満潮のナンマドール03

    https://www.youtube.com/watch?v=v2Sy318SN5M 昼はボートへ戻って食事した。潮は完全に引き終わっていた。 「誰がすんでいたかというと」トシさんがエンサイマダEnsaymadaを齧りながらいった。 「王と兵士と神官だ」 「一般人は?」 「職人はいたかもしれない。人々はナンマドールの外に住んでいた。ナンマドールは聖なる宮殿だったんだよ。王が居て、それを兵士が守り、そして王は神なる存在で神官たちが傅いていた。それだけだ。とくに北東の方にある島々は神官たちが住んでいたという。それで彼らが何を食っていたかと言うと・・パンノキBreadfruitや貢物

  • トランプ、RFKjr.を政権幹部に任命することを検討していると発言

    トランプは火曜日、無所属候補のロバート・F・ケネディ・ジュニア(RFKjr.)が2024年の大統領選から撤退し、トランプを支持するなら、RFKjr/が政権で役割を果たすことに「もちろん前向きだ」とCNNのクリステン・ホームズとのインタビューで語った。 「彼は素晴らしい人物だ。とても頭のいい人物だ。私は彼を長い間知っている」 「彼が退陣を考えているとは知らなかったが、もし退陣を考えているなら、もちろん私も賛成だ」 11月の大統領選で勝利した場合、ケネディを政権の役職に任命することを検討するかとの質問に対し、トランプは「おそらく検討するだろう」と答えた。 Trump says he

  • 星と風と海流の民#12/満潮のナンマドール02

    「ポナペには魔術師オロサパとオロサファが来る前から人は住んでいた。人がこの島にやってきたのは3000年ほど前だと云われている」トシさんが言った。 「ん。華夏族Huáxiàzúの時代だな。中原で強大になった夏・殷(商)・周は周辺に勢力を伸ばし、多くの民族が支配されるか追い出されたんだ。百越は華夏族に圧し潰された。そのときに隼人の民は海へ逃れたんだろうな」 「ん。そのあたりの話はお前の趣味範囲だな」 「はは。百越は長江以南の多くの民族集団を指す言葉だ。彼らは東の海へ逃れ、台湾へフィリピンへ移った。南に逃れた民は南越の人となったが、ここも華夏族に襲われた。そしてさらに南のマレーシア半島へ逃れ

  • 星と風と海流の民#11/満潮に沈む都市ナンマドール01

    「ナンマドールは満潮になると大半が海中に沈んでしまう。だから中までボートで入れるようになる」 トシさんが言った。 「潮が引き始めたらころに到着するようにする。中まで入りたいだろ?」 「ん」 「潮が引き終わって、もう一度ボートが動けるようになるには3時間くらいはかかる。暗礁だらけだからな。総計で8時間くらいの探訪だ。ルシアが弁当の支度をしてる」 「悪いな。客は俺一人か?」 「お前は客じゃない。友だちだ」 「ありがと」 「友だちの冒険旅行に付き合うんだ」トシさんが笑った。 浅瀬に係留したボートまでは、到着の時と同じように海の中を歩いた。ボートは昨日の1/3もないフィッシングボートで船外機が

  • 星と風と海流の民#10/中島敦のポナペ02

    1941年12月7日午前7時48分、山本五十六を総司令官とした日本海軍は真珠湾を攻撃した。続いて2回目の攻撃は午前8時40分頃だった。電撃的な襲撃で甚大な被害を米海軍に与えた。 続いて1941年12月8日、日本軍はフィリピンを攻撃した。総司令官は、日本陸軍第14軍司令官・本間雅晴だったマニラが墜ちたのは1942年1月2日だ。戦いはバターン半島へ移った。 そして同日、日本軍はアメリカ領グアムへ侵攻している。司令官は日本海軍第55警備隊指揮官・斎藤義次。彼は陸戦隊を投入し、数日間でグアムを占領した。 香港を攻撃したのも12月8日た。司令官は日本陸軍第23軍・酒井隆中将。彼は12月25日に香

  • 星と風と海流の民#09/中島敦のポナペ

    中島敦は父も祖父も教育者だった。1920年11歳の時、彼は父母と共に朝鮮京城へ移った。17歳まで京城で育った。そして帰国、旧制一高から東京帝国大学文学部へ入学、中国文学を専攻している。1933年卒業後、彼は一族の願いを汲み教職員に就いた。そのとき彼は既に結核を病んでいた。気候によって体調が大きく変動した。1931年、橋本タカと結婚。二人は、長男次男を授かっている。結核は次第に悪化した。1941年6月、彼は在籍していた横浜高等女学校を退職し南洋庁内務部地方課に就職した。南洋庁へ移職したは、結核のため教職員生活が不可能と判断したからに違いない。彼は国語教科書編修書記として採用されている。

  • 星と風と海流の民#08/ポンペイと呼ばれるようになった島

    https://www.youtube.com/watch?v=tKn7JdJo2LU ミクロネシア連邦が出来てから、ポナペはポンペイと呼ばれることが多くなった。連邦が定めた公式な表記が「Ponape」から「Pohnpei」へと変更されたからだ。ポナペという呼び名は、1919年に国際連盟から南洋群島の委任統治を請けた日本政府が付けた名前である。その前は「ジュラウ島(Jaluit)」と呼ばれていた。ドイツ統治時代だ。その前は、というとスペイン統治時代で、この時は「サン・アウグスティン島San Augustín」と呼ばれていた。 帝政ドイツは第一次世界大戦で太平洋の統治権を失った。英

  • 若き友への手紙#11/素直でいればコウモリは曲解しウソをバラまき、ヘビはそれで食ってやろうとする

    会社を何よりも機能的に動かす"潤滑剤"という話をさせてください。 仰る通り、御社内の事務処理に意図的な作為が有ったことは事実です。本来は周囲が事前に社内で修正すべきことです。チクリではなく、そうすべきです。しかし・・それをネタにチクリと云うほうへ走った者が出た。 同じくメンヘラの件。あなたの申し訳ないと労う行為は何よりも大事です。それが人の上に立つ者の心です。その気持ちが無い者は社長になる資格はない。しかし、その「申し訳ないと労う行為/言葉」を捻じ曲げて金にしようと思う気持ちを持つ奴らがいることも事実なんです。 事業の中で、必ず瑕疵は出ます。これは致し方ない。補正すればいい。しかしソ

  • 星と風と海流の民#07/カロリン海の白い航跡02

    その夜はトシさん夫人(ルシア)が作るタガログ料理を楽しんだ。 テーブルの上にはパクベットPakbetやアドボAdoboなどがヤマのように並んだ。そして大鍋に入れたままのカルデレータKalderetaが出た。トシさんの話は、サイゴンで米兵たちのバカ話に終始した。キッチンを終えてルシアがテーブルに付くと、今度はどうやって二人が出会ったかの話をした。 「私、叔父がやっているTu-Doのレストランで働いていたの。私、英語は得意じゃなかったの。初めてトシがお店にやってきたとき、彼が身振り手振りで色々話しかけてくるの。最初はトイレはどこだ?と言ってると思ったわ。でも話が通じなくて叔父さんを呼んだ

  • 星と風と海流の民#06/カロリン海の白い航跡

    https://www.youtube.com/watch?v=VOY7vFQrXnY コロニア飛行場はデケティック島を縦断するように在る。島の大半が飛行場だ。トシさんのボートはその小さな艀に停まっていた。ボートは意外なほど係留されていた。僕が乗り込むとトシさんは真っ直ぐ南東へボートを走らせた。島はすぐに小さな影になってしまった。右側に陸影が続いた。僕がマングローブに覆われた陸を見つめていると、トシさんが言った。 「ナニムウィンサ半島Nanimwinsapwだ。あそこに日本軍のトーチカが残っている。ジャングルに包まれていて飛行機から見え難い工夫がされていた。日本軍の拠点があったと

  • 星と風と海流の民#05/コロニア飛行場

    グアムを朝早く出たMicronesian Airwaysは、途中で機体を替えながら、ポナペ島コロニア飛行場Kolonia Airfieldに着いたときは軽飛行機になっていた。 コロニア飛行場は意外に整備されていた。 僕はいつものように官制のカーキ色のワンショルダーバッグで、上から下までPXで買ったファティーグFatiguesだった。 イミギュレーションの向こうには髭面の朝黒い男が立っていた。ここでは「トシさん」と呼ぼう。 彼は僕の手を強く握るといった。 「マイク、生きてたか。びっくりしたぜ。よく俺がポナペに行くことを憶えてたな」 「行くっただろ。忘れたか?」 「ああ憶えてる。悪いな、そ

  • 星と風と海流の民#04/アガナハイツ

    アガナの町には幾つか軍用のロッジとインが有った。U/S/Oの管理官は印刷された紙を僕に渡した。チェックインは自分で直接訪ねて取れと云う事だった。まあいつものことだった。ロッジの名前を教えてくれただけでもありがたい。 町まではゲートの傍でジープにヒッチハイクした。最初は近くで降ろされるはずだったが、ユタパオから今日の昼に就いたという話をしたら。ぴっくりされて、そのまま泊まる場所が決まるまで付き合ってくれた。 ロッジはアガナハイツの瀟洒な所に決まった。ドライバーが「こいつはサイゴンの帰りだ」と話してくれたら、ロッジのマネージャーは何泊いる?とも聞かずに下士官用の部屋を用意してくれた。ドライ

  • 星と風と海流の民#03/太平洋諸島信託統治領

    アンダーセン基地にあるU/S/O担当官を訪ねると、彼には何も連絡が入っていなかった。いつものことなのでビックリしなかったが、ウタパオで渡された通達書を見せると「おお!Operation New Lifeに相乗りしてきたのか?」と驚いていた。 「KADENAには頻繁に飛んでいるから、相乗りで良ければいつでも手配できるよ」 「どうする?明日飛ぶか?しばらく島で休養するか?滞るなら宿泊できるところを用意する。仕事も手配するぜ」管理官が笑いながら言った。 僕はその時、とっさにアガナ空港のことを思い出した。 「休暇でも良いですか?」 「休暇?」 「しばらく養生したいです」 「ああ、かまわない。長

  • 星と風と海流の民#02/アガナ空港

    グアム海軍航空基地Naval Base Guamからアンダーセン空軍基地Andersen Air Force Baseへの移動は、資材を運ぶ軍用トラックに乗った。西岸を抜ける軍用道路で一時間余りの距離だが、トラックは一度アガナ空港Agana Airportへ立ち寄った。資材の一部を此処でおろすらしい。僕は荷台を降りて荷下ろしの手伝いをした。 そのとき、爆音に惹かれて空を見つめると民間旅客機の姿が見えた。DC-3だった。 「民間機だ」僕が思わず言うと、荷物を下ろしていた米兵が言った。 「民間空港だからな。今はここが南太平洋の島々を平和でつなぐ繋ぐハブになっている」 彼はチョモロ系だろうか

  • 星と風と海流の民#01/オペレーション・ニューライフ

    1975年5月、僕は半年近くタイ・ウタパオ空軍基地U-Tapao Royal Thai Navy Airfieldに足止めを食らっていた。サイゴンが落ちたのは4月30日。あまりにも事態は混乱していた。そのため僕の帰国したいという希望がお座なりのままになっていた。僕は毎夜、所在なく基地のEM(Enlisted Mess)でピアノを弾いていた。U/S/Oから給料は貰えていた。週給500USDだった。ドル300円前後の時だったから15万円くらい。月間で65万円になった。GIと一緒にパタヤの歓楽街に時折出かけたりはしたが、稼いだお金は殆どU/S/O預かりだったので、半年間で400万円くらいには

  • 若き友への手紙#10/人はナマモノです。ナマモノは用意周到に扱わなければならない

    実はお金を調達することについて不安が有ります。それは調達したお金が、必ず会社の向かう方向性を決めてしまうからです。 たしかに資金を得ることで"衣"は変えることはできます、たしかに組織構造(衣)を新しい形に替える資金にはなる。しかし、今のままでは"人"は変わらない。 ここです。このままの組織運営体制でいれば、ただただ借金が増えただけで終わります。 僕は何よりもそれを恐れます。 以前にも書きました。 あなたは"社長というペルソナ"をつけなければならない。 役員から出た暴言・社員の揶揄誹りは、いまの。御社の。社長の。ペルソナに向けられたもの。です。 今回の組織改変の最大課題は、この「社長の

  • 若き友への手紙#09/他者に共感できない偉大な指導者はいない

    「自分の意見を通す・なぜならそれは"自分"の意見だから。他人の意見より自分の意見が最優先になる」 「他人の心に不感症なので、相手の心が察知できない。自分の思い通りに動かすことが交渉の成果だと信じ切っている」 「部下を簡単に采配し、そして簡単に切り捨てる」 これらは中間管理職に"なりたがる"人たちの間でよく見かける資質です。 ヒトに共感する感性が極めて低い。あるいは摩耗している。 ヒトは共感する生き物です。スポーツ観戦をしてなぜ楽しいか?疑似的に自分のものとして脳がソレを受け入れるからです。(これは脳生理学的に確認されている)なぜ小説を読むか・疑似的に他の人の人生を短時間で追体験できる

  • 若き友への手紙#08/面従腹背も悪意も、雇用後に社内で発症します

    だれもバスに乗ろうとしてくれなかった、とあなたはおっしゃる。 乗るべき人を選べなかった、と。 ・・そうでしょうか?僕はいた!と思います。10年間の戦いの中で全くいなかったことは現実的に考えられない。「乗るべき人を選べる」自分に気がつかなかったためでしょう。 もちろん最初から面従腹背の人はいない(いても極小) 会社をひっかきまわしてやろうという悪意の人はいない(いても極小) 面従腹背も悪意も、雇用後に社内で発症します。 多くの原因は、社長の態度と会社運営のやり方から・・です。これは指導者として強く猛省すべきです。 そんな人が出てこないようにするには、どうしたらいいでしょうか? ここです

  • 若き友への手紙#07/信頼(愛)が育めない奴は「愛が醒めた」という

    人は世間に晒されて傷つきます。そのために仮面ペルソナをつける。 しかし、じつはそのペルソナが大きな重荷になる。 だからペルソナが外せる相手を希求します。 伴侶(共に生きる者)を求める理由でもあります。 例えば男と女は、もっとも自分の恥ずかしい所を相手に晒す。獣のように交尾する。 この「晒す」という行為は、ペルソナを外すためです。 もちろんそれが悪い方へスパイラルすることもある。しかし、ペルソナを外すための行為であることは間違いないです。 結婚という形態を取らない伴侶を求める時、人は慎重に許せる範囲を広げようとします(広げない利己だけのひともいる) 広げようとする意志と努力があれば、

  • 若き友への手紙#06/ペルソナを携えなさい

    人は二つの自分をもっています。 ひとつは自分の中にいる自分です。 もうひとつは他人の中にいる自分です。 自分の中にいる自分について、その責任を取ることは出来る。(比較的) しかし他人の中にいる自分はどうでしょうか?(至難) 責任をどう取ればいいでしょうか? "私人"ではなく"公人"になると・・人はこれに直面します。 語るべきは、独立したことで得た巨大な実績とノウハウの蓄積であるべきです。 「サラリーマン時代はこんなに良かった」ではない、と考えます。 実はですね。これは心してほしいのです。社長職にある者が正直な自分を晒すことは、とても稚拙です。社長として評価されるのは、絶対に「そこ」

  • 若き友への手紙#05/なぜ笛吹けども踊らずなのか

    あなたの口ぐせ。そのことに触れます。 「会社員時代は、それぞれのモチベーションが上がる仕組みを考え、実際に彼らの成長を促していました。 一方でここでは、それが通用しない。いる人種が異なっているとしか思えない」 ・・実は、この言葉を僕は何人もの社長から聞いています。全員が上場会社の管理職だった方です。 こんなはずじゃなかった。こんな人たちではなかったと‥ もちろん違います。上場企業は、そうした環境を生み出すために数十億のお金を注ぎ込み紡ぎあげているのです。その積み上げの上で働いた人は、自分の仕事環境の背景に猛烈な投資がされていることを忘れてしまいます。自分自身のお金で起業すれば、当たり

  • 若き友への手紙#04/あなたは,下りていけますか?

    「辞めたい」と言い続ける社員が、さっさと辞めてくれればこれほど良いことはないのです。しかし、たいていは組織の癌として居残り、会社の進むべき道を阻害します。 困ったもんです。 この"癌"は二種類でして、良性の(諦めが先に立ち、最低限給与がもらえるだけの仕事をする)ものと悪性の(会社へ悪影響を与えることに暗い喜びを感じてその道を行く)ものがあります。二つは峻別しにくく見出すことが難しい。しかし何れであろうと、癌は会社を機能不全にし、大きな阻害となります。 何回もいいますが、会社が儲かっていればいい。癌があっても倒れない。しかし儲からなくなると、突然顕在化します。 前にお話ししたように「

  • 若き友への手紙#03/社長業は親業Parentingだということ

    今の御社の社内体質で、社長が社員に対して「その場でちょっと考えて対応できればいいだろう?俺はそうしてるぞ」と言うのはムリです。 原則として、成人した人は、伸びる素養のある人しか伸びません。大抵の人は年俸200~300万で充足する平・伍長・尉官クラスの人です。やはりスタッフは、平・伍長・尉官そして佐官と、それぞれ別々の理屈/そしてメリットを説くべきかと思います。 できない人に「このくらいのこと出来るだろ?」と云えば、相手は必ず言われたことを曲解する。悪意を抱く。「なに上から目線で偉そうなこと言ってるのよ、自分だってトラブルだらけじゃないのよ」のループになります。それが深い溝・瑕疵になる。

  • 若き友への手紙#02/共に歩く者を選びなさい

    今回面談させていただいた新事業部長Sさんですが、僕が充分信頼に足ると確信したのは、彼の格です。 格は、性格であり人格であり品格ですね。彼の格は、彼の言葉にも彼の視線にも出ています。 信頼するに足る方です。あとは、彼が信頼するに足る我々でいるかですね。 他者は、我々が見ているように、我々を見ている・・ということですね。 信頼は、そう簡単に積み上げられはしないものですが、信頼できる人かどうか、共に手を繋げるか否かは数分で解ります。 魂の希薄な人。魂が言葉で塗れている人。 根底に闇を抱えている人は信頼できません。 今回、我々がSさんにYESを出したことから始まり、今度は彼がYESを出してく

  • 若き友への手紙#01/あなたはどんな気持ちで社員を雇用しているのか?

    起業を目指す人間は、その根底に「自分勝手に業務をしたいのではなく、自分の思う社会をつくりたい、という目標」を持っています。しかし起業という発想を持つこともない/起業とは何かを熟考したこともない人々にその気持ちはありません。理解することもないのです。どんなに大きな声を上げても、どんなに人を集ってもです。徒労に終わります。 従業員は自分と同じ視線から会社を見つめられない。それを正鵠に知るべきです。 その視点の違いを理解できないまま、頑張れ頑張れを唱えても、じゃ自分でやれば?と、不満しか言わなくなります。協力を求めれば、それが曲解されます。泥沼の関係になります。実は、これが個人商店が陥る一番

  • 夫婦で歩くパリマルシェ蚤の市散歩

    夫婦で歩くパリマルシェ蚤の市散歩: 19世紀パリを偲びながら 夫婦で歩く歴史散歩 www.amazon.co.jp 300円 (2024年08月08日 23:29時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する

  • パリのマルシェ歩き#50/ヴァンプの蚤の市

    https://www.youtube.com/watch?v=hFatxo-gD7E ブランション公園の古本マーケットの前にイタリアンがある。Trattoria Toscana(101 Rue Brancion, 75015 Paris)という。ここが滅法すてきな店だ。ランチは12時からなので予約しておいた。ここのParigiana di melanzaneは絶品だ。雰囲気はラザニアに似ているが茄子が基調だ。当家でも嫁さんが時折出してくれてる。食べ慣れた料理だ。これをトスカーナ・ワインと一緒に頂いた。 「お腹いっぱいだし、帰りたい気分」と嫁さん。 「まあ、そういうな」と僕が笑い

  • パリのマルシェ歩き#49/ヴァンヴの古本マーケットと蚤の市

    「ヴァンヴの古本マーケットに行きたい。で、午後から蚤の市にも寄りたい」 「古本探し?」 「ん。最近、ブキニストが失速してるからな。ヴァンヴまで行きたいんだ」 「そうねぇ、セーヌの周りは観光客用のお土産ばかりですものね」 「ん~、開いてないとこも増えた」 「いいわよ。でもいっぱい買い込むと帰りが大変よ」 帰りはUberで‥と思ったけど、言わなかった。 Marché du Livre Parc Georges Brassens(104 Rue Brancion, 75015 Paris)は14区。地下鉄は13番Porte de Vanvesが一番近い。距離的には、Marché Puce

  • パリのマルシェ歩き#48/マレの蚤の市05

    Le Village Saint-Paulをシャルマーニュ通りへ抜けると、すぐ右前にもう一つ路地が有る。エジナール通りRue Eginhardという。入るとすぐT字路になっていて、左側は小さな泉台が有って行き止まり、右側はサンポール通りへ抜ける露地である。 「エジナールの泉Fontaine Eginhard(6 Rue Eginhard, 75004 Paris)と言うんだ。最初に観た時は、滔々と湧き水が有った」 「いまはないのね。それにちょっと臭い」 「ん。サンポール通りへ出よう」 そのままサンポール通りへ出た。 「パリってどんな短い通りでも名前を付けるのよね」 「ん。一番短いのはデ

  • パリのマルシェ歩き#47/マレの蚤の市04

    Bistrot cache(13 Rue Saint-Paul, 75004 Paris)を出て、そのままシャルマーニュ通りRue Charlemagneへ向かって歩いた。 「もうひとつ場所が分からないけど‥サンポール・サンルイ教会はもう少し北でしょ?」 「ん。この小路をぬけてぶつかったシャルマーニュ通りの向こうにあるのがサンポール・サンルイ教会だ。その横にあるのがVestige de l'église Saint Paul des Champs(41 Rue Saint-Paul, 75004 Paris)があった場所だ。それを囲むように、向こう側にもLe Village Saint

  • パリのマルシェ歩き#46/マレの蚤の市03

    https://www.youtube.com/watch?v=BlBMw_2v16g サンポール通りをセーヌに向かって歩くと、セーヌにそって走るセルスタン通りにぶつかる。その直前・右側にアベマリア通りRue de l'Ave Mariaがある。角にSur le fil de Paris Livres anciens(2 Rue de l'Ave Maria, 75004 Paris)という僕が大好きな古本屋が有る。 https://www.surlefildeparis.fr/ 大抵はこの本屋で小一時間ほど使うのだが、今回はそのままスルーした。そして少し先のビル右側アーチ道へ入

  • パリのマルシェ歩き#45/マレの蚤の市02

    僕らはAu Bouquet Saint Paul(85 Rue Saint-Antoine, 75004 Paris)を出てサンポール通りをセーヌへ向かって歩いた。通りの全長は300m程度。ギャラリーとアンティーク・ショップが軒を並べている。 アンティーク・ショップについて、名前を挙げたい。 ➀Coté Cailloux(15 Rue Saint-Paul,75004 Paris) https://cotecailloux.fr/ 宝石のブティック。展示を見るとアール・ヌーヴォー、アール・デコが得意なようだ。同時にその雰囲気をオマージュしたオリジナルなものもあった。こちらは充分に日用

  • パリのマルシェ歩き#44/マレの蚤の市

    マレ、サン・タントワーヌ通りで開かれる蚤の市は、広報も定期的もない。いかにも"パリ的"だ。出会ったらいいね。買えたらいいね。売れたらいいね・・を通している。 もし出会えたら・・その僥倖に感謝しょう。でも必ず天気の良い日です。 通りに、雑然とスティールの骨枠と紙や布で仕切られた露店に、古着やアンティークが並ぶ。いかにも手作りの工芸品や不思議なコレクションや古本などが、オジヤのように不規則に並んでいるのだ。出店者はどうやらプロとアマチュアが混在していて、もちろん言葉は当たり前のようにフランス語だけ。でも・・例えば・・古いロートレックのポスターが無造作に置いてあって、ずいぶん昔のだなぁ~だと

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