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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • フロンザック02/サンテミリオン村歩き#37

    https://www.youtube.com/watch?v=DIRpzzGvcoQ M氏の紹介でOffice de Tourisme du Fronsadais(1 Av. Charles de Gaulle, 33240 Saint-Germain-de-la-Rivière)を訪ねた。 http://www.tourisme-fronsadais.com/ 資料関係を少し買い漁った 「Fronsadaisって何なの?」ママが小さい声で聞いた。 「フロンザック町民という意味さ。フロンサダイは二つの顔を持っている。フロンサックとキャノン フロンサックだ。キャノン・フロンザック

  • フロンザック01/サンテミリオン村歩き#36

    ボルドーで、しばしば利用していたchauffeur VTCのリブリヌ支局に、ポムローヌのワイナリー歩きの運転をお願いした。Chic Chauffeur La meilleure alternative taxi Chauffeur VTC Bordeaux/Libourne(125 Av. Gallieni, 33500 Libourne)+33626566649という。ドライバーはM氏。適格な判断が出来る有能な方だった。 https://chicchauffeur.com/ なので、リブリヌ歩きも彼にお願いした。pickupは朝食後10時にお願いした。 食事が済んで一旦部屋に戻り、3

  • リブリヌ04/サンテミリオン村歩き#35

    リブリヌの町を散策しているときにMaison Politi(65 Rue Gambetta, 33500 Libourne)という食材店を見つけた。イタリア系の食材を扱っていた。店内にイートインのコーナーが有って、試しに寄ってるとこれが中々のものだった。嫁さんは気に入ったらしい。それでディナーも此処へ寄りたいという話になった。 夕方、ホテルからMaison Politiまで歩いた。ジャン・ジャック・ルソー通りを5分ほど行って右折、ガンベッタ通りがプレジタン・デュメにぶつかるところにある。昼間予約しておいたので、スムーズに席に付けた。 「ボルドーって色々な国の料理が多くて、どれも秀逸なも

  • ポムローヌ03/サンテミリオン村歩き#33

    葡萄畑の前に立つ「POMEROL GRAND VIN DE FRANCE」という看板の前で、M氏はクルマを停めた。 看板の下に小さくSAINT JACQUES de CONPOSTELLEとあった。僕は看板を指さした。 「ポムロールの前にマークが有るだろ?あれはマルタ騎士団のマークだ」 「ダヴィンチコードに出てきたアレ?」 「あれはテンプル騎士団。まあ似たようなもンだけど。テンプル騎士団/ドイツ騎士団/マルタ騎士団が有名だ。十字軍時代の護衛から始まったのが騎士団なんだが、マルタ騎士団は、エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会Supremus Ordo Mi

  • ポムローヌ02/サンテミリオン村歩き#32

    ポムローヌとリブリヌに有る主たるワイナリーを紹介したい。 Château Beauregard(73 Rue de Catusseau, 33500 Pomerol) http://www.chateau-beauregard.com/ Château Bel-Air(5 Chem. de la Cabanne, 33500 Pomerol) http://www.belair-beausejour.com/ Château Bellegrave(1 lieu-dit Drouillaud, 33500 Néac) https://www.belles-graves.com/ Chât

  • リブリヌ07/サンテミリオン村歩き#31

    町からポムローヌへ向かう国道はD244/モンタニュー通りという。D1089を越えたあたりから町の外になる。周囲は全て葡萄畑になった。 「ポムロームも葡萄畑を開墾したのはローマの退役軍人だった。開墾は紀元後すぐには始まっている。しかしそれも、西ローマ帝国の崩壊に重なって西ゴート人がこの地を占領したため次第に凋落し、荒廃していったんだ。再興したのはアキテーヌの時代になってからだ。聖ヨハネ修道院が、此処に治療院を興してからだ」 「治療院?」 「サンチャゴ巡礼パリルートを利用する人々のための治療院だ。本体はエルサレムにある。 その治療院によって、大きくポムローヌが花開いたのはアンジュー帝国時代

  • リブリヌ06/サンテミリオン村歩き#30

    町を離れてポムローヌ辺りまで出かけるのでVTCを予約した。ボルドーにあるchauffeur VTCのリブリヌ支局である。Chic Chauffeur La meilleure alternative taxi Chauffeur VTC Bordeaux/Libourne(125 Av. Gallieni, 33500 Libourne)+33626566649という。 https://chicchauffeur.com/ ボルドーでも何回か利用している会社の支局なので、netからそのまま予約を入れた。 ホテルで朝食を済ませた後、ロビーへ出るとドライバーが待機していた。M氏と呼ぼう。

  • リブリヌ05/サンテミリオン村歩き#29

    ホテルで朝食を終えた後、町へ出た。ジャン・ジャック・ルソー通りからエティエンヌ・サヴァティニ通りRue Etienne Sabatiéを通って聖ヨハネ教会Église Saint-Jean-Baptiste de Libourneを訪ねた。 「ここはリブリヌでも最古の教会でね、5世紀ころにはもう有ったと言われてる。史料としてSaint-Jehan de Fozeraという名前が出てくるのは1134年だ。サンテミリオンに有った教会の分院だったようだ。まだ英国がリブリヌを交易港として構築なかった前の話だったから、リブリヌはまだまだ鄙びた村だったに違いない」 僕らは教会入口から入った。中央身

  • リブリヌ04/サンテミリオン村歩き#28

    夕食はホテルの近くにあるRestaurant Cosy Tourny(12 Cr Tourny, 33500 Libourne)に入った。 https://www.facebook.com/cosytournylibourne/?locale=tl_PH ワインは白でアントル・ド・メールEntre-Deux-Mersにした。 「Entre-Deux-Mersというのは、ふたつの潮の間という意味だ。二つの潮というのはガロンヌ川とドルドーニュ川に挟まれた楔形の部分な」 「Mersだから、海じゃないの?」 「いやmaréeだ。merではない。ゲシャ渓谷がゲイシャになったように、いつのまにかM

  • リブリヌ03/サンテミリオン村歩き#27

    アベル=シュルシャン広場に面したLa Mie Câline(25 Pl. Abel Surchamp, 33500 Libourne)というファストフードの横を抜けてクレマン・トマ通りRue Clément Thomasへ出た。 「この道を真っ直ぐ進むとイエル川にぶつかる」 「内陸部から持ち出されるのに利用された川ね」 「ん。ペリグーPérigueuxまで繋がるロジスティックルートだ。リブリヌが貿易港として大きく育ったのは、このイエール川がドルドーニュ川とぶつかるところだったからだよ」 「ペリグーって、ペリグーソースsauce Périgueuxのペリグー?」 「ん。ドルドーニュ県の首

  • リブリヌ02/サンテミリオン村歩き#26

    リブリヌのホテルはLa Maison Mulatô(42 Cr Tourny, 33500 Libourne)にした。 http://www.lamaisonmulato.com/ リブリヌ駅Gare de Libouneはボルドー駅から約40分程度、サンテミリオン駅の一つ手前だ。駅は大きい。ホテルまでは約600mくらい。D670まで出て、あとは直進だから迷わずに辿り着ける。La Maison Mulatôは19世紀に建てられた邸宅を改装し所で、いくつかの部屋を提供している。僕らはGalant de nuitという明るい部屋を予約した。 荷物を置くと、一階レセプションでオーナーのご夫

  • リブリヌ01/サンテミリオン村歩き#25

    https://www.youtube.com/watch?v=uG4fsyy71SE サンテミリオン村郊外西側のワイナリーを歩くのにChâteau Hôtel Grand Barrail(ROUTE DE LIBOURNE, D243, 33330 Saint-Émilion)を起点にしたとき、もう一歩先のポムローヌまでを散策地として考えたが、徒歩で歩くにはシンどいので流石に諦めた。 http://www.grand-barrail.com/ ポムロールは、ペトリウスやル・パンなど素晴らしいワイナリーが有るが何れも一般公開はしていない。出かけても農園とワイナリーで写真を撮ってハ

  • 聖地サンチャゴ/サンテミリオン村歩き#24

    「サン=ジャン=ピエ=ド=ポーSaint-Jean-Pied-de-Portって、バイヨンヌへ行ったときに列車で訪ねた村よね」 「ん。あそこがサンチャゴ巡礼パリルート・フランス側のフランス最後の宿場だ。あそこからピレーネ山脈を越える」 「韓国人の巡礼者がいっぱいたわよね」 「ん。険しい道だから若い人じゃないと難しい」 「なるほどね、列車から見えた川に沿って細い山道が有ったわよね。巡礼者の姿が幾つも見えたわ。村の中にも途中の道にもホタテ貝を象ったプレートが色々なところにあったわよね」 「ん。ホタテ貝はサンチャゴのシンボルだからな。Coquille Saint-Jacquesというんだが、

  • 城壁の外を散策する03/サンテミリオン村歩き#23

    Av. de Verdunを行くと円形の五差路にぶつかる。D122とD243が通っている交差点だ。北側に33-Gironde 304lineのバス停Bourgが有る。 「ここのバス停で一度だけ降りたこと有るわね」 「ん。いつものボルドーバス乗り場からだ。リブリヌの抜けて1時間20分くらいかかった」 「普通の市バスだったから、村の間を抜けて葡萄畑を抜けて。楽しかったわ」 「そうだな。サンテミリオン行のバスは駅前と此処と二つある。村を抜けていくバス小旅行は良いもんだ」 「でも、一度だけよね。デジョンからボーヌのほうは何回も乗ったのに」 「ん。33-Gironde 304lineは不定期なん

  • 城壁の外を散策する02/サンテミリオン村歩き#22

    急坂の小道を1945年5月通りへ抜けた。 「ここがサンテミリオン村の外周を走る道だ。左へ行くよ。ペジュ通りを歩く、戻る感じになるんだがな、ウルスリン修道院跡Couvent des Ursulines(Unnamed Road, 33330, 33330 Saint-Émilion)へ寄りたい。ウルスリン修道院もサンテミリオン村を囲む城壁の西側にあったんだ。今は崩れかけた廃墟しかない」 「今日は中世の廃墟歩きね。教会も修道院も、アキテーヌの人たちは大事にしなかったの?」 「サンテミリオンは戦火の前線だったしな。それに宗教戦争を挟んで、今度はフランス革命だ。大半が破壊されたのは何とも仕方な

  • 営業マンを接待する首相(@0@);

    あまり政治経済の話は書かない。 岸田文雄首相、米ブラックロックCEOと面会 - 日本経済新聞 岸田文雄首相は21日、首相官邸で米資産運用大手ブラックロックのラリー・フィンク最高経営責任者(CEO)と面会した。政府が進 www.nikkei.com しかし。。あまりにも唖然とするので書こう。 世界のどこに己の国を簒奪するためにやって来たハゲタカをお迎えする指導者がいるのか?金塗れのゼレンスキーでさえ、もし野村證券の社長が行っても、わざわざお迎えには出ないだろう。 それほどまでに国がらみ民がらみで、アメリカのファンドを買わなければならないほど、日本に未来はない・

  • 城壁の外を散策する/サンテミリオン村歩き#21

    https://www.youtube.com/watch?v=ipokFxqQbg4 アントル・ドゥー・ヴェールAntre Deux Verres(Rue de la Prte Sainte-Marie, 33330 Saint-Émilion)を出た後に王の塔La Tour du Royを左に見ながら歩いた。 「なるほどねぇ、王の塔ではなかったのね」 「ん、城壁に取り付けられた監視塔というのが事実だったようだ」 僕らはLa Tour du Royの横にある幾つも曲がった細い階段を登った。雨で滑る。注意しながら進むと、 クーバン通りRue du Couventに出る。 此処は村

  • 古名アスカンバス/サンテミリオン村歩き#20

    「西暦300年ころからローマでキリスト教が国教化すると、当時属州最大級になっていたボルドーへ、キリスト教徒たちは精力的に布教活動を行った。幾つもの教会/修道院がこの時期に出来上がっている」 「ああそういえばボルドー博物館にたくさん当時のものが飾られていたわね。でも教会はシャンパニュー地方みたいに多くなかったような気がするけど」 「ローマは西ゴート王国にボルドーを奪われているからな。その時代に壊されたものが多い。それもあるが、当時建立された教会/修道院はジロンド川左岸に多かった。それはボルドーがあまりにも泥の町だったからだ」 「そんなに酷かったの」 「ん。ジロンド川右岸は、川を流れてきた

  • 王の天守閣/サンテミリオン村歩き#19

    https://www.youtube.com/watch?v=tiPM_ZO8nFs 「聖エミリオが暮らした洞窟を、大幅に改装改築拡張したのがオーブテール子爵ピエール・ド・カスティヨンPierre de Castillonだ」 「ふうん。・・でも、なぜカスティヨンはサンテミリオンをサンチャゴへの中継点にしたいと思ったの」 「自領の中に聖地を持つというのは、とても大きなステータスだったんだよ。聖エミリオが死んで300年、既に地元では聖地として取り扱われていたが、彼はこれをグローバルにしたいと考えたんだろうな。彼はカッパドキアを訪問していてね、同じようなものを領地の中に起こしたかっ

  • 聖エミリオの奇跡/サンテミリオン村歩き#18

    https://www.youtube.com/watch?v=h15uFdZmTZo&t=34s ブルネ門から村へ向かってポルトブルネ通りを歩いた。雨は続いたまま。人通りはない。大きな雨粒がブルネ門の石壁を叩いていた。 「車の通行も、ほとんどないのね」嫁さんが言った。 「よほどのことがない限り、車は村の外環道を使うんだろうな」 ポルト門の向うは五差路なっていて、村の交通手段として機能している・・という感じだった。 僕らは撮影をした後、そのままランチをしたMaison de la Cadèneのほうへ戻った。そしてレストランの手前、二股になっているリベルテ通りを左に入った

  • ポルトブルネ/サンテミリオン村歩き#17

    https://www.youtube.com/watch?v=w8S7-HADGUs Logis des Cordeliersでランチが終わってからポルトブルネ通りへ出た。雨は止まっていなかった。人通りはない。 「この先のブルネ門へ寄りたい」僕が言うと 「近いの」と嫁さんが言った。 「100mくらい先だ」 ポルトブルネ通りを東の村はずれに向かうと、五差路の手前にブルネ門Porte brunet porte médiévale 1200(Rue de la Prte Brunet, 33330 Saint-Émilion)はあった。 「あら、ここはBed & Breakf

  • 村の小さなミシュランひとつ星/サンテミリオン村歩き#1

    SAINT‑EMILION PORTES OUVERTES 2024 - Les vins de Saint-Emilion Le week-end du 4 et 5 mai 2024, les châteaux de Saint-Emilion vins-saint-emilion.com 雨のサンテミリオン歩きは趣がある。コルデリエのマルシェで買い物をした後、そのまま通りの前にあるホテルAuberge de la Commanderieに戻った。そして荷物を置いた後、レセプションで傘を借りてもう一度村へ出た。 「ランチは近くで取るの?」嫁さんが時計を見ながら言

  • コルドリエ修道院02/サンテミリオン村歩き#15

    「コンドリエ修道院は400年かけて少しずつ巨大になった。教会/中庭/ワイナリー/ワイン貯蔵室/地下室/庭園そして6っ有った修道院の僧侶のための寮が有った。そして1789年だ」 「フランス革命ね」 「ん。コンドリエ修道院は閉鎖され、会派は解散。建物はすべて国有化された。そしてすぐさま競売にかけられた」 「だれが買ったの?} 「だれも買わなかった。国有化はされたが、引き取りてがないまま放置されたんだ。そのうち革命政府は崩壊。ナポレオンの時代になるが、相変わらず放置されたままだったんだよ」 Maurice Graterrole は、彼のUne ville curieuseで、その廃墟となった

  • コルドリエ修道院01/サンテミリオン村歩き#14

    ガアデ通りを坂下に向かって行くと、東の村外れへ向かうポルトブルネ通りの道との二股にぶつかる。ポルトブルネ通りは、ゆっくりな登り道だ。少し行ったところ右側にオーベルジュ・コマンドリーAuberge de la Commanderie(2 Rue de la Prte Brunet, 33330 Saint-Émilion)というホテルがある。 http://www.aubergedelacommanderie.com/ ここは僕のお気に入りで、わりとよく利用する。二階の部屋の窓がサンテミリオン村に向いており、村が一望できるからだ。朝起きた時に、窓から見た景色が何とも宜しい。窓を開けると聞

  • ワインショップ巡り/サンテミリオン村歩き#13

    https://www.youtube.com/watch?v=4sSSeJC3RcQ サンテミリオン村は、ボルドーの北ドルドーニュ川に面した丘にある。村そのものは3ヘクタールほど。所謂サン=テミリオン地域Juridiction de Saint-Émilionを含めても7.5ヘクタールしかない。人口は1200人前後だそうだ。標高は、一番低いところで20m前後。高いところは100m前後ある。全体にゆっくりな上り坂だが、モノリス教会あたりから急こう配になって観光センターが有る台地へ向かうのが特徴だ。 この急こう配の坂がサンテミリオンの町並みを替えている。坂の上は官公庁や企業が集まり

  • 村郊外北西側ワイナリー/サンテミリオン村歩き#12

    サンテミリオン村での一番の楽しみはワイナリー巡りだ。しかしお話ししてる通り、ほぼ150あまりの生産者が存在する。これを全て走破するのは至難だ。それで幾つかのグループにまとめてみた。 今回は❸村北西側にあるワイナリーにあるワイナリーを紹介したい。 ただ、村内のホテルに泊まって郊外のシャトーへ出かけるとなると、徒歩で出来る訪問数は限られてしまう。なので僕はサンテミリオン郊外にあるホテルを拠点とすることをお勧めしたい。 実は、サンテミリオン村の傍には秀逸な宿泊設備が幾つかある。逆に村巡りのための宿泊先とするには距離的に不便なので、こうしたときに利用するほうがいいだろうと僕は思う。 ❸村北西

  • 村郊外南東側ワイナリー/サンテミリオン村歩き#11

    サンテミリオン村での一番の楽しみはワイナリー巡りだ。しかしお話ししてる通り、ほぼ150あまりの生産者が存在する。これを全て走破するのは至難だ。それで幾つかのグループにまとめてみた。 今回は❷村東南側にあるワイナリーを紹介したい。 ただ、村内のホテルに泊まって郊外のシャトーへ出かけるとなると、徒歩で出来る訪問数は限られてしまう。なので僕はサンテミリオン郊外にあるホテルを拠点とすることをお勧めしたい。 実は、サンテミリオン村の傍には秀逸な宿泊設備が幾つかある。逆に村巡りのための宿泊先とするには距離的に不便なので、こうしたときに利用するほうがいいだろうと僕は思う。 村東南側のホテルで、僕の

  • 村内・ワイナリーとワインショップ/サンテミリオン村歩き#10

    サンテミリオン村での一番の楽しみはワイナリー巡りだ。しかしお話ししてる通り、ほぼ150あまりの生産者が存在する。これを全て走破するのは至難だ。それで幾つかのグループにまとめてみた。 ❶村中心にあるワイナリー 村歩きをしながら見て歩くにはD122ガデ通りにあるワイナリー歩きがとても便利だ。何れも立派な地下ケーブを持っていて、見学すると良い。予約なしでも入れるところがあるので気軽に寄ってみよう。 ➀Château Guadet(4 Rue Guadet, 33330 Saint-Émilion) https://www.chateauguadet.fr/ 通りの名前となったGuadetは、

  • レストラン13軒/サンテミリオン村歩き#10

    我が家の場合、サンテミリオン村を訪ねる時は最低でも一週間程度は時間を取る。多いのは土曜日に東京を出てパリに入り、そのままTGVでボルドーへ。そしてSNCFでサンテミリオン村へというコースである。パリへ午前中に着く便だと、5時間後にはサンテミリオンのホテルへ辿り着くコースだ。 帰路は同じルートで、日曜日にサンテミリオンを午前中に出で帰国とする。つまり土曜東京発・翌週日曜日東京着という献立である。9日間を利用する。 それと多いのは、帰路一泊だけパリに泊るという選択肢だ。そんなときは大抵、嫁さんの買い物目当てでパリ市内のマルシェ歩きが挟まったりするが、まあ、その方が時間が自由に使えるのでラク

  • ワイナリー一覧#01-2/サンテミリオン村歩き#08

    Château Monlot(292 route du Lavoir, 33330 Saint-Hippolyte) http://www.chateaumonlot.com/ Château Montlabert(1 Monlabert, 33330 Saint-Émilion) http://www.chateau-montlabert.com/ Château Moulin de Lagnet(Les Vignobles Chatenet-Goujon 1, Larguet, 33330 Saint-Christophe-des-Bardes) https://www.mouli

  • ワイナリー一覧#01-1/サンテミリオン村歩き#08

    フィロキセラが南仏ガール地区で発生したのは1862年だった。なぜ正確に発生時が判っているかと言うと、それはジョセフ=アントワーヌ・ボルティJoseph-Antoine Bortiという南仏の農家が、その年に米東海岸からランブルスカを持ち込んだことが判っているからだ。彼が持ち込んだ葡萄は見事、南仏に馴染んだが、その葡萄に付着したフィロキセラが周辺の葡萄を枯らし始めた。南仏の葡萄全域が感染するに5年は罹っていない。フランス全土に拡大するには10年ほど・・世界中へ広がるには30年ほどだった。 ボルドーは、地域的に南仏が近かったこともあって、かなり早い時期からフィロキセラ禍に襲われていた。サン

  • ホテル選び/サンテミリオン村歩き#07

    サンテミリオンは観光地化しているので宿泊設備が割とある。 ホテルとB&Bそしてレンタルのアパートがある。代表的なものを列挙しよう。お勧めを★での数で示してみた。 ホテル形式は➀➁③④⑤そして少し離れた㉞だが、B&BのChambre d'hôtesが僕は好きだ。村には秀逸なレストランが多いので、長期滞在を考えるなら朝食だけが付いたホテルの方が使いやすいと思う。 ①★★★Auberge de la Commanderie(2 Rue de la Prte Brunet, 33330 Saint-Émilion) http://www.aubergedelacommande

  • ボルドーからサンテミリオン駅まで/サンテミリオン村歩き#06

    https://www.youtube.com/watch?v=FmNqYNq3RPY&t=391s ボルドーからサンテミリオンへ向かうには、選択肢が三つある。TAXI/列車SNCF/バスの三つだ。 パリからボルドーへは選択肢が二つ。飛行機/列車TGVになる。空港はボルドーの西12kmのメリニャックにあるボルドー・メリニャック空港Aéroport de Bordeaux-Mérignacで、パリからならCDGかオルリー空港出発となる。所要時間は1時間程度。例えば成田からボルドー直行を試みるならCDGからの便を利用する。この場合は、たいていエアフランスになる。パリへワンスト

  • サンテミリオンの自律性/サンテミリオン村歩き#05

    https://www.youtube.com/watch?v=dtU3XpOzc_o 第二次世界大戦中、ボルドーがナチスドイツの手に墜ちたとき、ナチはこの地に彼らの海軍基地・潜水艦基地を作った。ガロンヌ川沿いには、いまでもその時の潜水艦基地が残されている。 ボルドーを訪ねたら是非とも行くべき負の遺跡だ。・・ボルドーで出会うのがワインだけというのは、あまりにも心貧しい。この地の、時代の変転を通して、ぜひとも西欧史に触れることを僕は強くお勧めしたい。 https://www.youtube.com/watch?v=92pjm2jnhos さて、サンテミリオンだが。此処

  • 聖エミリオンの教会/サンテミリオン村歩き#04

    サンテミリオン村は、ボルドーから北東へ40kmくらい離れた小高い丘の上にある村だ。人口は2000人ほど。主産業は葡萄農家である。ワインの生産地としても村としても旧い。AD200年ころから在った。スペインと戦ったローマ軍の退役軍人が興した村だ。 キリスト教時代になると、いつしかここがサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路のひとつになった。 もともとはアスカンバスと呼ばれていたが、サンテミリオンと呼ばれるようになったのはAD700年からで、ブルターニュの修道士エミリオンが、この丘の崖に隠棲したからである。 ブルターニュの修道士エミリオンはヴァンヌVannes出身で、ヴァンヌ伯爵のパン職人

  • 駅から村まで/サンテミリオン村歩き#03

    https://www.youtube.com/watch?v=q4JllgEuhJ8 今でもブケール通りは、鉄道でサンテミリオンを訪ねる人々のメインストリームとして生きている。 SNCFサンテミリオン駅を降りると、すぐ傍にムーランドビゲMOULIN DU BIGUEY通り/国道D122がある。村はこの道を北へ/右へ歩くと辿り着く。ブケール通りまでは距離にして2.5kmあまり、かなり長い徒歩行になる。右側だけに歩道があり、左側はクルマが止められるようになっている。景色はずっと葡萄畑だ。Château La Gaffelière(La Gaffelière-Ouest, 33330

  • 先細ってしまった村への道・ブケール通りに泊る02/サンテミリオン村歩き#02

    https://www.youtube.com/watch?v=Ir3C23EE-ow いまでも、村のすぐ南にフォンガバン川L'oiseau de Fongaban Rivièreが運河となって流れているが、以前はこの川に繋がってドルドーニュ川へ向かうグランド フォンテーヌ川というのがあった。サンテミリオンの丘から始まる細い川だ。この川は幾つかの支流をもっていて、隣接しているプチフォンテーヌ通りにも流れており、物流の手段として利用されていたようだ。このグランド フォンテーヌ川は、いまのポルト・ブゲール広場に小さな池を持っていた。今は残滓もない。 ここにブゲール門(ポルト)Prte

  • 先細ってしまった村への道・ブケール通りに泊る/サンテミリオン村歩き#01

    https://www.youtube.com/watch?v=CmwPxdnz0p0 サンテミリオン村の中心部へ向かうポルトブゲール通りPrte Bouqueyreは、王の塔からほど近い細い路地である。中世の趣を未だに湛えている通りだ。 ここにロジスデロイChambres d'hôtes Les Logis du Roy(7, rue Porte Bouqueyre - 33330 SAINT-ÉMILION)というホテルがある。僕のサンテミリオン歩きは、最近ここが定宿になってる。 でも嫁さんはお気に召していない。もう少しホテルらしいところが良いらしい。どうもこのChambre

  • ワインと地中海/kindle版

    ワインと地中海: 6000年の旅を見つめながら歴史紀行 www.amazon.co.jp 300円 (2024年02月17日 11:48時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する 母の化粧机の横に色々な化粧品と共に、淡青色の歪な球形のガラス玉が有った。 親指爪くらいの大きさで不透明だった。置かれている木台は、葡萄の幹を加工したものだったと思う。ガラス玉は表面に幾つもの同心円の黄色い模様が描かれていて、その中心がすべて穿ってあった。見つめていると一つ一つが眼球のように思えて、不思議な違和感のある置物だった。

  • ワインと地中海#63/シラクサ散歩11

    https://www.youtube.com/watch?v=PHCaQZzuL0A オルテージャの南端にあるCortile Spirito Santo(Via Salomone, 21, 96100 Siracusa)までは充分徒歩圏内だが、タクシーを頼んだ。ドレスコードはないが、女性はハイヒールという天敵が有るからね。石畳みの道はきつい。 http://www.cortilespiritosanto.com/ 旧い邸宅を利用したレストランだった。現代的なシシリー料理だった。ワインのチョイスはソムリエに任せた。 「ここはね、ワインのコレクションで有名な店なんだ。シシリーは地元

  • ワインと地中海#62/シラクサ散歩10

    オルテガ市場Mercato di Ortigiaへ戻ったのは午後二時を過ぎてからになった。待ち合わせのカフェには嫁さんが先に入っていた。 「悪い悪い、思ったより時間がかかった。どうだった?料理教室は?」 「面白かったわよ。わりと知ってるはずのメニューなのに、作り方がとてもユニークでびっくりしたわ。すっごく刺激になったわ。・・あなたは?」 「ん。ガイドを頼んだ人が中々面白かったよ」 「ホテルが紹介してくれた人でしょ?」 「ん。ウニクサーノ大学で教師をしてる人だった。彼の案内も面白かったけど、彼の祖父の話が面白かった」 「おじいさまの話になったの?」 「ん。シチリアン・レジスタンスだったそ

  • ワインと地中海#61/シラクサ散歩09

    https://www.youtube.com/watch?v=ppI9hEQKYDw 博物館を出てアウグスト通りをクルマは直進した。すぐに道は公園にぶつかった。 「ここがアルケオロージコ・ネアポリス公園Archeologico Neapolisとして設備されたのは、戦後でした。1952年です。考古学的な発掘は1800年代には既に始まっていたのですが、シチリアそのものがイタリアの政治構造に巻き込まれて、長い間、政情不安だったため、調査は何回も分断されて100年以上放置されたままでいました。それが戦後になって外資からの資金援助を受けて再開したのです。いまの形に整ったのは30年ほど前

  • ワインと地中海#60/シラクサ散歩08

    https://www.youtube.com/watch?v=WY3LC76PKM8 ママと別れた後、そのままホテルが予約してくれたTAXIとの待ち合わせ場所へ向かった。2~3分先にあるMunicipio di Siracusaシラクサ役場の前だ。ドライバーが車の前で立って待っていた。アンドレアという若いドライバーだった。 ホテルのコンシェルジェに頼んだのは、4時間ほどで市内巡りを頼めるドライバーそして州立考古学博物館とアルケオロージコ・ネアポリス公園Parco Archeologico Neapolisのガイドできる英語の話せる人ということだった。即座に彼の名前が出て、その場

  • ワインと地中海#59/シラクサ散歩07

    https://www.youtube.com/watch?v=Cy6fWaRYOoo ホテルの朝食を済ませて町へ出た。海岸通りニッツア通りを散策した。 「少し遠回りなんだが、オルテガ市場には海岸線を散策しながら行こう」 午前中はオルテガ市場周りと料理教室をキットにしたツアーに申し込んでいた。4時間余りである。僕はその間に島を渡って州立考古学博物館へ行くつもりだった。 「料理教室兼ランチだから、終わるのは午後2時過ぎね」 「ん。市場にあるだろう、どっかのカフェテリアにいるよ。場所は向うへ行ったら、決めよう」 そのまま少し歩くと"Occhio" scolpito sullo sti

  • ワインと地中海#58/シラクサ散歩06

    「賢王ヒエロ二世の時代。シラクサは大きく再興した。ローマとの連携を守り、これを通したからだ。BC215年に彼が亡くなるまでシラクサは往時の栄華を一時だが取り戻した。それがアルキメデスの時代だ。アルキメデスが亡くなったのはBC212だ。ローマ兵によって殺されたとある」 「一所懸命計算をしているところにローマ兵が入ってきて、光を遮るな!と言ったからでしょ? 学校で習ったわ。でも・・なぜローマ兵なの?シラクサはヒエロ二世が亡くなったことで、また戦禍に巻き込まれての?」 「そうなんだよ。BC218年にポエニ戦争2回目が始まったんだ。スペインにいたハンニバルがイタリアを侵攻した。一時は大進撃だっ

  • ワインと地中海#57/シラクサ散歩05

    アレトゥーサの泉を見ながら、町の中へ入るポンペオ・ピケラリ通りに入った 「町の中に入る道は細いものばかりなのね」 「ん。つい最近までオルティージャ島内は車の乗り入れが禁止されていた」 「ヴェネツィアみたい」 「ん。ヴェネツッアは太鼓橋という障壁が市内にいっぱいあるからな。物理的に無理だけど、オルティージャはなし崩し的に車両通行可になってしまった」 「でも石畳みがきちんとしていて、車が頻繁に通るとボロボロになってしまうんじゃないの?」 「それは有るな。アレトゥーサの泉の泉が観光バスで埋もれたら・・たしかに哀しい」 「アレトゥーサって女神さまなの?」 「いや。女神に仕えるニンフだ。女神アル

  • ワインと地中海#56/シラクサ散歩04

    Calarossa Caffèを出ると、隣にデリがあることを嫁さんが見つけた。いつものようにまるで吸い込まれるように入っていった。 Alimentari Randieri Lucia(Via Serafino Privitera, 41, 96100 Siracusa) 「ここも良いかも。サンドイッチが美味しそう。少し何か買っていこうかしら」 好々爺とした感じで、嫁さんは色々なものを買った。持つのは僕の係。ご満悦なようだ。 「今夜のお夜食ね」 「はいはい」 すぐ横にローマ通りというのがある。僕らはここを曲がった。そしてすぐ先のカポティェッチ通りを左へ曲がった。MUSEO DI PA

  • ワインと地中海#55/シラクサ散歩03

    Spiaggia Diana nel Forte(V. Eolo, 46, Siracusa)を出て、そのまま海岸沿いのエアロ通りを南へ歩いた。 「シケリア西部をギリシャ人たちが攻め始めると、カルタゴはすぐさま本土から兵士を送り付けた。軍事力では圧倒的にカルタゴのほうが勝っていた。しかし思うんだが、カルタゴ側にシケイアに住むギリシャ人を殲滅させてまで、シラクサを自分たちの手にしたいという気持ちが有ったか・・ということだ。シケリア戦争でのカルタゴは、どう見ても総力戦を仕掛けていない。ギリシャ人たちが降伏すれば占拠してそれで終わり・・という姿勢のように思う。そのへんにギリシャ軍との気質の違

  • ワインと地中海#54/シラクサ散歩02

    https://www.youtube.com/watch?v=dsHYbcrhgzI 荷物を置いてホテルを出た。目の前の通りはラルガ通りという。右へ進むとT字路にぶつかり、これを左に曲がると海岸線にでた。僕らはそのまま浜辺まで歩いた。2mほどの高さだろうか展望台がすぐ傍に見えた。 Spiaggia Diana nel Forteという。僕らはその展望台に上った。見え目のは海原と左右に広がる海岸線だけだった。 柵まで行くと、嫁さんがすぐ下の水辺を見た。 「岩だらけね。前は?イオニア海?静かな海ね」 「ん。今日はな。このあたりまで大陸からの陸風が吹く地域だから、海は荒れると狂暴にな

  • シャンパーニュ紀行05

    シャンパーニュのワインと歴史の話

  • ワインと地中海#53/シラクサ散歩01

    CDGシャルルドゴール空港からFCOレオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港を経由して、CTAカターニア・フォンターナロッサ空港Aeroporto di Cataniaへ入る所要時間は、だいたい9時間から11時間の間。いつものようにローマ経由はトランジットが長い。しかし最近はEASYJETが飛んでいるようなので2時間半でCDG-CTAは繋がっている。カターニア・フォンターナロッサ空港にはEASYJET専用のターミナルがあるそうだ。ぜひ次回はそれを使ってみたいと思う。 カターニア・フォンターナロッサ空港Catania–Fontanarossa Airportは、シチリアに入る最も一般的な空路で

  • シャバーニュ紀行

    シャンパーニュの歴史とワインについて話しています

  • ワインと地中海#52/スースの葡萄模様なモザイク#02

    館内は静謐だった。何もかも止まっているようだった。来館者はまばらだった。古いカスバを改装した美術館だった。 「ここのモザイクはチュニスのバルド国立博物館に継いで世界で二番目にコレクションが豊富なんです」Jが言った。「古いものはフランスのPierre Cintasが集めたものが中心です」 「ピエール・シンタス?」知らない人の名前だった。 「Jean Cintasと一緒で、兄弟そろってチュニジアの考古学者です。どちらかというとアマチュア色の強い学者です。フランスには多いタイプの考古学者です。Tebourbaの発掘なんかで有名な人です。ここにあるコレクションはシンタスがスースのトフェットとバ

  • ワインと地中海#51/スースの葡萄模様なモザイク#01

    30年前・・ そのとき、パリにいた。ハードネゴだったから一緒にいたのは通訳のフランス人と僕、そしてコーディネーターだった。仕事が思いのほか順調に片付いて時間に余裕ができた。いつもなら次の仕事に向けて、さっさとシンガポールへ戻る。でもその時にコーディネータが、最後の晩の会食の席で「マイクさんは西洋史に造詣が深いと伺っているのですが」と言われたのだ。 「いや気紛れに色々観て歩いてるだけだよ」と僕が返事すると、彼が笑った。「もしよろしければ、今回のお礼ということで、どちらか行かれてみたい場所がございましたら、弊行で手配いたしますが・・いかがですか?」 僕は即答した「スース博物館」彼は戸惑っ

  • ワインと地中海#50/マグナ・グラエキア#06

    「南イタリアに葡萄とオリーブを持ち込んだのはフェニキア人だ。そしてそれを大きく育てたのはギリシャ人たちだった。フェニキア人は通商の人だからな。自分で作るより買ってきて仲買いで売り捌く人たちだ。実はこの分化が、フェニキア人の中でも起きて、互いに確執しあうという事件がカルタゴ側で多々起きるんだが、ここではその話をしない」 「そうね。いつものように話が取っ散らかるからね」 「フェニキア人たちは、北アフリカから島伝いに地中海を上がっていった。だから伝搬ルートはシチリアから南イタリア テレニア海側だった。マルタ島もエオリエ諸島もこの時期に持ち込まれている」 「エオリエ諸島のワインなんてあるの!」

  • シャンパーニュ歴史散歩03

    シャンパーニュ歴史散歩03

  • ワインと地中海#49/マグナ・グラエキア#06

    「東ローマ帝国のマグナ・グラエキア統治は500年以上続いた」 「安定政権だったのね」 「ん~でもない。ペルシャに襲われたりスペインに襲われたり、揺籃を繰り返した。ローマはテマ制の総督領Catepanate of Italyだったからね、自国領と言っても脆弱に部分はあった」 「テマ制ってなに?」 「派遣された治政管が全て軍民すべてを統治するやり方だ。東ローマの属領はこの方法が多かった。しかし本体の東ローマが弱体化すると、テマ制はさらに脆弱に歪(いびつ)になっていった。そこにノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドが攻め込んだのは11世紀後半。ローマ総督領は脆くも崩れた。ノルマン人はここに

  • シャンパーニュ紀行02

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパーニュの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • ワインと地中海#48/マグナ・グラエキア#05

    「ポエニ戦争でフェニキアが滅びると、シチリアもマルタもサルディーニアもコルスもすべてローマのものになったが、ローマ中央部から移植する人たちは殆どいなかった。敢えて言うなら、退役軍人と傭兵たちがそのまま残ることは有ったが、地域の住民は先住部族とギリシャ人が中心のままになった」 「言葉は?」 「公用語は俗ラテン語だったが、供用語は相変わらずギリシャ語だ。とは言っても今のギリシャ語じゃない。コイネーKoinēだ」 「コイネーって古いギリシア語でしょ?」 「ん。 ギリシア語のアッティカ方言だ。 アッティカはアテナイあたりが有った地域だ。云って見れば東京弁な。これがギリシャ語共通語になった。黒海

  • ワインと地中海#47/シチリアを巡って#01

    「一番最初にシチリアに入ったのはギリシャ人じゃなくてフェニキア人だったのよね」と嫁さんが言った。 「ん。北アフリカ側から島伝いに渡ったろうな。サントリーニの大爆発以降だ」 「無人島だったの?} 「いや、先住民がいた。エリミア人Elymians/Sicaniシカニ人/Sicelsシケル人という部族が島を三つに分けていた。イタリア本土から渡ってきた先住民だが、印欧語族だからラテン人より早く西アジアからイタリア半島へ流れ込んだ人々だろう。いわゆる原住民ではなかった。フェニキア人は彼らと交易するためにシチリアに入ったんだ。占領目的ではない。だからフェニキア人はいつものように海岸沿いに小さい交易

  • シャンパニュー歴史散歩01

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパニューの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • シャンパニュー歴史散歩/はじまり

    シャンパニューを歩きながら、ワインとシャンパニューの話をしています。旅行用の参考としてご使用ください。

  • ワインと地中海#46/マグナ・グラエキア#03

    「イタリア半島南側に出来たギリシャ植民都市は、先住者であるカルタゴのエァニキア人たちと小競り合いは有ったが、通商関係は続いた。そしてフェニキアから借りた"軒先"は次第に母屋へと勢力を伸ばした。当時、次第に村から町へ、町から都市へ替わったのはカプエKapuê/ネアポリスNeapolis(ナポリ/シラクサSyracuse/アクラガスAkragas/スバリスSubarisなど。ほかにターレスTaras/ロクロイ・エピゼフィリオイEpizephyrioi Lokroi/レギオンRhegion/クロトンKroton/トリオイThurii(トゥリ/エレアElea(ノーヴィ・ヴェーリア/アンコンAn

  • ワインと地中海#45/マグナ・グラエキア#02

    「ギリシャ人のイタリアへの移植が始まったのはBC750年ころだ・・といったろ?同じころにレラントスLēlantos平野の領有をめぐってアテナイ側で大きな戦争が有った。都市カルキスとエレトリアの戦いだ。レラントス戦争Lelantine Warというんだが、これに周囲の幾つもの都市が巻き込まれていく。カルキス側についたのがサモス/エリュトライ/コリントス/スパルタ/テッサリアだ。エレトリア側にはミレトス/キオス/メガラなどが参戦した。戦いはカルキス側の勝利に終わった。エレトリアは焼き尽くされて廃墟になっている。敵に捕まればそのまま奴隷にされてしまう。このとき、大量の敗残者/逃亡者が出て散逸

  • ワインと地中海#44/マグナ・グラエキア#01

    「マグナ・グラエキアMagna Graeciaって、いまいち場所がわからないわ」 「イタリア半島南側だ。アドリア海側はプーリアの州境あたり。ティレニア海側だとサレルノSalerno辺りまでだ。アドリア海側は全体にLongobardiaと呼ばれてる。ティレニア海側は四つに分かれていてSalerno/Lucania/CalabriaそしてSiclly島だ。 Magna Graeciaという呼称はローマ人のものだ。移植してきたギリシャ人たちはMegalê Hellasと呼んでいたそうだ。ギリシャ人たちは自分をヘラスHellasと言ってたからな。いまでも正式国名はHellenic Republ

  • ワインと地中海#43/ローマとワイン#03

    ワインの持つ薬事という機能は、そのまま呪術/邪教に繋がった。キリスト教のベースになったミトラ教は、こうした酒宴をしばしば開いた。そして泥酔しながら秘儀を行った。ワインの酩酊感が日々の苦しみからの解放であり、非日常的な快楽をもたらしたからだ。ワインに様々な薬草を混ぜて、トランス状態になり踊り狂い交合した。 「ミトラ教は奴隷たちの宗教だ。北側から伝搬した。だから当初はおそらく幻覚性のある薬草/毒草を使っていたかもしれない。これにワインが混合していくのは、イタリア半島南側マグナ・グラエキアMagna Graeciaからの影響だろう」 「ワインと一緒に怪しげな宗教も南から渡ってきたのね」 「ん

  • ワインと地中海#42/ローマとワイン#02

    「原イタリック人/ラテン人はエトルリア人・ギリシャ人たちをとりこみ、彼らの宗教を取り込むことでワイン文化も受け入れた。ワイン神はディオニュソスに挿げ替えられた。そしてディオニュソスはバッカスになっていく。しかしそれでも・・ラテン人にとって、飲酒は低俗なこと/田舎者のすること、という気風が根強く残ったと僕は思うな。ディオニュソスは決して人々を導く神ではない。乱れた神/謂わば悪神・・それ以上にはならなかったんだ。 たしかに原イタリック人/ラテン人は、エトルリア人・ギリシャ人と混交することで、次第に自分たちもワインを飲むようになっていった。彼らは希釈したワインを飲んだ。ギリシャ人の知識人の方

  • ワインと地中海#41/ローマとワイン#01

    「ヴィティス・ヴィニフェラとイタリア半島の邂逅は衝撃的だった」 「あら、イタリアワインを称賛するの?珍しい」嫁さんが笑った。 「称賛ではない。事実だ。アララト山から、ワインのための葡萄を携えて人々は3000km以上の旅をした。4000年以上の時をかけて、ヴィティス・ヴィニフェラとイタリア半島に出会ったんだよ。この出会いが以降のワインの道を決めたんだ。ワインラッシュはローマから始まった」 「ゴールド・ラッシュじゃなくてワインラッシュ?」 「製造法も貯蔵法も運搬法も、ローマで工夫されてローマで確立した。フェニキア人の技法もアッシリアの技法も、ローマでソフティケーションされた。そして絶対的な

  • ワインと地中海・欄外#40/ギリシャ人がかけた撲滅の呪い

    「ところで・・アメリカンネイティブって300万人位はいた。これがほぼ100年で3万人くらいになった。彼らは、ありとあらゆる方法で297万人殺されてしまった。いまは10万人位に増えているが、インディアンは相変わらず米社会底辺に蹲ったままでいる」 「あら・・なぜいま、西部開拓史の悲劇になるの?」 「パンとサーカスpanem et circensesだよ。ローマの詩人ユウェナリスDecimus Junius Juvenalisの言葉だ。パンとサーカスさえ与えておけば、人々は批判するだけで、それ以上何もしない。当面の危機が無ければ、民は諦めに染まる。そして支配者は肥大化し饐えていく。いまの日本

  • ワインと地中海#39/ギリシャ人とアドリア海

    https://www.youtube.com/watch?v=2SHLdqbW4HY 「ギリシャ人がイタリア半島へ移植したルートは、このフェニキア人の開拓した航路を擦ってというわけだ。 その移植したギリシャ人をローマはマグナ・グラエキアMagna Graeciaと呼んだ。その移植はBC700年代から始まったと云われている。この時期、ギリシャ人は広く拡散している。黒海周辺やアナトリア半島海岸部を東まで広がっているんだ。イタリア半島への移植はその一環だ」 「そこでローマ人と出会ったわけね」 「ん。イタリア半島内の対抗勢力としてローマと対峙した。しかし・・ギリシャ人はイタリア半島でも

  • ワインと地中海#38/フェニキア人とアドリア海

    https://www.youtube.com/watch?v=rj7EtffJPPI コルフ国際空港をでた飛行機は一度地中海に向かって飛び、ヴラチェルナ修道院Vracellona Monasteryの上あたりから大きく右へUターンし島を跨いでアドリア海へ向かった。 席を左側にしたのは、空からヴラチェルナ修道院が見えるかもしれないと思ったからだ。嫁さんには窓側に座ってもらった。 「岬から突出している白い教会。あれがギリシャ正教の教会・ヴラチェルナ修道院だ。ヴェネツィアの時代に作られたものらしい。建立が何時なのかは不明だ。でも15世紀の資料には名前が有る。1980年までは尼僧院だっ

  • ワインと地中海#37/エーゲ海沿いのワインたち

    https://www.youtube.com/watch?v=QGiCWPMFxoo コルフ最後の夜はホテルのオーナーだった/Aristotle Onassisの名前に因んだアリストスARISTOSに予約した。さすがにワインはフレンチがきちんと揃えられていた。 「オナシスって有名な人なの?」嫁さんが言った。 「1975年に亡くなった。世界一の船舶王だった。ケネディ夫人ジャクリーンの再婚相手だよ」 「あ!思い出した。ジャクリーンさん、再婚相手が亡くなったとき、葬儀に行かなかったこと」 「ん。そのオナシスだ。この店の名前は彼のことだ。オナシスは何もかもが超一流志向でね、女房も元ファ

  • ワインと地中海#36/キルケアの旧市街を歩く#04

    水曜日、早起きしてスターバックスへ出かけた。PCを持って行ったのは少しだけ書き物をしようと思ったからだ。CityMagを買ってドリップのグランデを頼んだ。もちろん支払いはスターバックスカードで。一時間ほどでホテルに戻った。嫁さんは起きてチェックインのためのパッキングをしていた。 朝食の後チェックインしたとき、夕方にTAXIの手配をロビーで頼んだ。今夜はグレコテル コルフ インペリアル ホテルGrecotel Corfu Imperial(Tzavros - Kommeno, Kerkira 490 83)へ戻り、明日はESYJETSでヴェネツィアへ戻る予定でいた。荷物はTAXIが車でホ

  • ワインと地中海#35/キルケアの旧市街を歩く#03

    旧市街、あまり奥まで入らないまま港まで戻った。予約していたOra Restaurant(Agoniston Politechniou, Kerkira 491 00)は波止場沿いにテーブルを並べていた。案内をしてくれたガルソンがきびきびして品の良さを感じた。 https://orarestaurant.gr/ ワインは土地のオレンジワインである。料理は典型的な地中海料理である。僕の好みで中々嬉しかった。テーブルの向うに要塞跡Πύργος της Θάλασσαςが見えた。 「コルフ旧市街は二つの要塞に挟まれた町なんだよ。南にあるのが、あの新要塞。北にあるのが旧要塞。新要塞は、この島が英

  • ワインと地中海#34/キルケアの旧市街を歩く#02

    https://www.youtube.com/watch?v=CX7yE0vwcbg 火曜日。朝食後にGrecotel Corfu Imperialをチェックアウト。荷物は殆ど預かってもらった。 「今夜は旧市街のホテルに泊まるんだ。明後日に帰ってくるよ」とロビーに言ったら「何処に泊まる?」と聞かれた。 「カラリヴァル・ホテルCavalieri Hotel(Kapodistriou 4, Corfu Greek)」と応えたら「エクセレント!」と言われた。それと「タクシーだと此処からは30分くらい南へ進むと旧市街になる」と言われた。 フロントで頼んだTAXIは、海岸沿いを走ったが海

  • ワインと地中海#33/キルケアの旧市街を歩く#01

    https://www.youtube.com/watch?v=x2kXYqGbwv8 思い立ってキルケア(コルフ)に出た。毎週月曜と木曜日はEasyJet空港がヴェネツィアとキルケアを繫いでいる。所要時間は1時間45分。エアバスだ。ホテルはグレコテル コルフ インペリアル ホテルGrecotel Corfu Imperial(Tzavros - Kommeno, Kerkira 490 83) https://www.corfuimperial.com/ レストランのグレードは此処が好いとダニエリのコンシェルジェご推薦だった。ホテルは"今っぽい"個性は感じなかったが設備はきちん

  • ワインと地中海#32/クレタ島のワイン

    https://www.youtube.com/watch?v=WiR3SJXEQ8g 「僕がクレタ島に行ったのは、フィロキセラ真っ只中の時だったから殆どのワイナリーが閉鎖していた」 「フィロキセラ?だって大流行は19世紀の後半でしょ? あなた、そんなに昔から隠れて生きてたの?」 「そはいかない。エーゲ海にフィロキセラが入ったのは100年近く経ってからなんだ。もともと塩分の高い地域だからフィロキセラは根付かなかった。クレタ島に発生したのは1980年くらいからだ。僕が訪ねたのがチェルノブィリ1985年の後だから、ほぼどこも全滅状態だった。今あるワイナリーは大半がこの後に立ち上がって

  • ワインと地中海#31/フェニキア人とエーゲ海#03

    「地中海へ拠点を移したフェニキア人が最重要拠点としたのがロードスRhodes島から始まるドデカネス諸島ta DōdekanēsaとクレタCrete島だ。キプロス島から西は、此処がフェニキア人の地になった。BC2000年ころだ。上記2島とともにコス島とパトモス島の名前が歴史の中に出てくる」 「無人島じゃなかったんでしょ?」 「ん。先史時代からヒトはいた。考古学者はドデカニサ族と呼ぶ。これをフェニキア人が制覇した。BC2000年ころだ。ここに葡萄畑を起こしたのはフェニキア人だった。極めて先進的な文明を、彼らはここで立ち上げたんだ。・・もちろんレヴァント海岸側にも主要拠点は有った。何れも高い

  • ワインと地中海#30/フェニキア人とエーゲ海#02

    「地中海へ拠点を移したフェニキア人が最重要拠点としたのがロードスRhodes島から始まるドデカネス諸島ta DōdekanēsaとクレタCrete島だ。キプロス島から西は、此処がフェニキア人の地になった。BC2000年ころだ。上記2島とともにコス島とパトモス島の名前が歴史の中に出てくる」 「無人島じゃなかったんでしょ?」 「ん。先史時代からヒトはいた。考古学者はドデカニサ族と呼ぶ。これをフェニキア人が制覇した。BC2000年ころだ。ここに葡萄畑を起こしたのはフェニキア人だった。極めて先進的な文明を彼らはここで立ち上げたんだ。・・もちろんレヴァント海岸側にも主要拠点は有った。何れも高い山

  • ワインと地中海#29/フェニキア人とエーゲ海#01

    フェニキア人たちはクレタ島を中心に、エウビア島、エーゲ海諸島(Samos/Lemnos)、キクラデス諸島(Palos/Santorini)、トデカネス諸島(Rhodes)、イオニア諸島(Corfu/Zanta/Lefcas/Cephallonia)に葡萄畑を起こした。もちろん使った葡萄はヴィニフェラ・ポンティカ Vitis vinifera ponticaだ。 エウビアEubee島は、サヴァティアーノSavatianoという白ワイン用の葡萄が有名だ。瓶詰されるのもあるが店舗向けに樽詰めされたものが中心で、アテネ当たりのタベルナTavernaで飲むレチーナRetsinaはだいたい此処のだ

  • ワインと地中海・番外/都市・王・資本家

    「つい最近、ギリシャのテッサロニキ・アリストテレス大学考古学教授ヴァラモティ氏が、ディキリ タシュ遺跡でワインを作った葡萄の絞り粕を発見した。6500年くらい前のものだった。これは衝撃的な発見で業界を震撼させたよ。アララトから西進した葡萄なんだが、それを運んだ人々の一部はかなり早い時期にアナトリアへ辿り着いていたんだ。 https://www.megalithic.co.uk/article.php?sid=2146412958 もちろんワインのための葡萄を運んだ人々が複数いたのは間違いない。それにしても数百年程度で3000km以上も運ばれていたというのはびっくりだな」 「トルコやギリ

  • ワインと地中海#28/フェニキア人とギリシャを繫ぐもの#02

    「アッシリアは、ワインを生産していた。新バクダットもレヴァント海岸を制覇した後はワイン生産地を手に入れている」 「ワインは王族と神官たちのものでなくなりつつあったのね」 「遅々だが生産技術も醸造法も進化して、ビールほどではないが極希少のものではなくなったんだろうな。アララトの麓から西進したワイン用葡萄は少しずつ絶対的な生産量を2000年ほどかけて増やしてきたんだと思う。 アッシリアは葡萄伝搬ルートの真ん中だったからね、当然葡萄栽培は生食用・ワイン用とも行われていたんだ。生産地の中心はニネベ山脈周辺なことが判っている。黒海東北から下りてきたヒッタイトは、当初ワインはフェニキア人から買って

  • ワインと地中海#27/フェニキア人とギリシャを繫ぐもの

    ORTO WINEのオーナーから、ボトルを海中に沈めて熟成させているという話を聞いた。それをぜひ買いたいとお願いしたら「明日の昼に取りにおいで、朝陸揚げしておくよ」と言われた。これにはびっくりした。というわけで翌日もサン・テラズモ島へお邪魔することになった。 昼食を近くの店で済ませてからフェリーの船着き場Capannoneまで歩いた。 「ラグーンの中にワイナリーって他にあるの?」 「いまはない。古い時代にはあったらしい。しかしラグーンは屡々氾濫するからなぁ。葡萄は潮にやられればひとたまりもない。いまはORTO WINEだけだよ。ベニスの商人たちは、アドリア海沿いで栽培された葡萄のワイン

  • ワインと地中海#26/ヴェニスのワイン・オンブレ

    https://www.youtube.com/watch?v=-pxn49yWVJk リアルト橋の周りを散策しながらフェリーバスでサンマルコ広場に戻った。 鐘楼Campanile di San Marcoの横を抜けてカフェ・フローリアンCaffè Florian(P.za San Marco, 57, 30124 Venezia)に寄った。ここは1700年代創立のカフェだ。白ワインを頼んだ。 「ヴェネツィアはワインをオンブレという。オンブレというのは日向ぼっこのことだ。昔サンマルコ広場の桟橋で働いてい人足たちは、休憩時間にあの鐘楼の壁に寄っかかって休憩したそうだ。そのときにワイ

  • ワインと地中海#25/ヴェニスのワイナリー

    https://www.youtube.com/watch?v=YHmuE-H3ODE 掃いて綺麗にしたような青空になった。ダニエリの朝食は最上階だが、広いベランダが有る。‥少し寒かったが、外の席にした。 「自根木ワインという言葉は、ワイン呑みにとって無類の魅惑を持った言葉なんだ」 僕が言いだすと嫁さんが黙った。なにか言い出すつもりなのがわかっているからだ。 「フィロキセラ禍は、世界中のワイン用葡萄の木をほぼ全滅させた。現在、根まで全て単一種で育てることは、ほんの一部の土地を除いて不可能だ。根の部分はフィロキセラ(北米東海岸原種のアブラムシ)に耐性がある北米の葡萄の木を使用し、ワ

  • ワインと地中海・番外02//謎の「海の民ルウィ人」

    「海の民ルウィ人」は紀元前1200年代半ばに地中海東側に吹いた突風でした。忽然と歴史のページに登場し、古代ギリシャの都市を舐めるように破壊尽し、ギリシャを一気に文字も文化も持たない暗黒時代へ突き落しました。同時にヒッタイトを滅ぼしミケーネを滅ぼし、レバント地域の都市も蹂躙した。最後はエジプト王国に到達し、壮絶な戦いを仕掛けた。そして登場したときと同じように忽然と姿を消してしまうのです。 彼らについては、あまり詳しいことは判っていません。彼らに襲われて、かろうじて勝利を収めることができたのは、エジプトだけだったからです。自分たち自身では、何も資料になるものを残さなかったリウィ人について

  • ワインと地中海番外・番外01/謎の「海の民ルウィ人」

    エジプト/メソポタミアに続いて小アジアで大きく花開いたヒッタイト文明は、騎馬と鉄の文明でした。アナトリアからの先住民が大きな開墾地を持ち独自の文化を築いていました。鉄器を携え騎馬で装備した人々がこれを征服したのです。 ヒッタイト文明は、ミケーネ文明と同じように先ず原型が有って、それを我がモノとし、花開いた文明です。その経緯は、きわめて興味深い。周辺の国家とも戦いも、世界最古の和平条約を結んでいく過程も、その条文も、とても興味深いのですが、ここでは触れないでおきます。本稿のテーマである「ワイン」からあまりにも脱線してしまうので・・ただ。なぜ名前を出したかというと、彼らもまたミケーネ人を滅

  • ワインと地中海#24/エジプトのワイン03

    「そういえば・・一度も葡萄の畑を見にエジプトへ行こう!という話はで出来たことないわね」 「ん?ないから」 「ない?」 「前世紀の終わりに一つ立ち上がったが、それだけだ。エジプトにワインのための葡萄畑はない。だから行かないんだ」 「だって・・そんなに栄えたんでしょ? それなのにないの?」 「ない。エジプトはモスレムの国だからな。国民の90%がイスラム教だ。酒は飲まない。作ることそのものにも禁忌感がある。それと気候的にも葡萄畑は成立しにくい。紀元前に栄えたナイルデルタの葡萄畑は全て全滅している。エジプトに残されているワイン文化は死滅している」 「それもまたビックリね」 「ある意味、エジプト

  • ワインと地中海#23/エジプトのワイン02

    「古代エジプトでワインは『イレプirp』と呼ばれていた。エジプト王朝はアレクサンドロス大王に征服されるまで31の王朝を重ねるが、イレプirpという名前は後代まで使い続けられている」 「今は?」 「現代エジプト・アラビア語方言はnabiitナビット。アラビア語だとnoun」 「イレプとはずいぶん違うわね」 「アレクサンドロス以降。エジプトの覇権は荒れたからな、言語も荒れる。しかし古王朝時代に使用されたヒエログラフはイレプirpで通されている。 ワインは・・最初はフェニキア人から買っていた。エジプトに葡萄は育たないからだ。しかし国産化を目指した王らは、かなり早い時期からナイルデルタで小規模

  • ワインと地中海#22/エジプトのワイン01

    「コーカサス東部から拡散したワインを作るための葡萄栽培は、2000年ほどかけて南レヴァントに達した」 「それまで誰も葡萄からワインを作らなかったの?」 「んん、言い方がよくないな。WINEとはVitis viniferaの果実を発酵させて作った酒のことだ。Vitis vinifera以外の葡萄から作った醸造酒はワインではない。果実酒だ。O.I.V./Office International de la vigne et vin(国際ぶどう・ぶどう酒機構)に準拠しよう。つまりワインを作るために使用されるVitis viniferaが、2000年かけて南レヴァントに達したということ」 「な

  • ワインと地中海#21/ヒッタイトのワイン04

    「僕らがつかうWine/Wein/Vin/Vino/виноの語源はWiyana。ヒッタイト語だ。この言葉を継承したフェニキア人たちが地中海世界で利用したからだ。ラテン語はvinumと書く。古典ギリシア語はoinosだ。ただし今のギリシャ語ではクラシΚρασίという。クラシは"混ぜる"という意味だ。もともとワインは生のまま飲まない。水で割って飲んだ。プラトンの「饗宴Symposion」・シンポジウムの中に、はっきりと書いてある。ワインを生のままで呑むのは野蛮な行為だったんだ」 「え~、だったらあなた、プラトンに毎晩怒られちゃうわよ」 「たしかにそうだ。饗宴Symposionじゃなくて説

  • ワインと地中海#20/ヒッタイトのワイン03

    https://www.youtube.com/watch?v=HCxZTEK3z_c 「前職の頃。何回もキプロス通いをしてた時があったろ?」 「20年以上前ね。子供たちがまだ小学校の頃・・。シンガポールにいたころね」 「ん。週平均就労時間130時間時代だ。仕事するか・寝るかの時代だ。出張でキプロス通いは好きだったんだよ。いつも仕事の後は、勝手に一週間ほど休暇をくっ付けていたしな。地中海東側にどっぷりハマっていた頃だったから、そこいら中を歩き回った」 「まだ40代で体力有ったから・・じゃないの?今はそうはいかないでしょ」 「はは♪そりゃそうだ。でも、老いることはそうそう悪い事じゃ

  • ワインと地中海#19/ヒッタイトのワイン02

    史家たちがヒッタイト帝国と呼ぶハットゥシャ人の国はアナトリアの中央北で大きくなった。本来は遊牧民族・半農半牧だったであろう彼らは、集約的な灌漑技術を習得し、それを駆使して巨大な立農国家を作り上げた。BC2000年からBC1500年くらいである。すでにアッシリア帝国は台頭し、エジプトには特異な王朝帝国が君臨していた。そして東側にミタンニ帝国が競合していた。もう一つ大きな競合として、フェニキア人たちが地中海東部海岸南レヴァントを中心に通商都市グループを幾つも建ちあげていた。 「そんなに競合が多い中で、ハットゥシャ人は何故その勢力をシリアやメソポタミア地方まで伸ばせたんだろう? フェニキア

  • ワインと地中海#18/ヒッタイトのワイン01

    ホテルへ本を置いてからフェーリズターミナルのさきにあるハリーズ・バーHarry's Bar Cipriani(Calle Vallaresso, 1323, 30124 Venezia)へランチに出た。 https://www.cipriani.com/it/harrys-bar スタートは先ず定番のベリーニのカクテルからにした。 「ヒッタイトHetthaeiという文明を紡ぎあげた人々は、黒海の向こうからやって来たらしい。現ウクライナあるいはもっと東のカザフスタン北東部からかもしれない。ラテン人はHetthaeiと呼んでいる。これは古代ギリシア語のΧετταίοιが転化したものだ。彼

  • ワインと地中海#17/テディイン・ベネディグ書店

    ホテル・ダニエリは最上階のレストランで朝食になる。朝からシャンパンが付くので嫁さんはご満悦だ。 しかし・・時流なのか・・ダニエリの朝食へ、簡単な正装/スマートカジュアルで向かう客が少なくなった。欧州人だけである。アジア人が極端に増えたせいだろうか・・きちんとしたホテルでは、ジャケットとワンピース・オールインワンで席に着くという素養が彼らにはない。部屋の中の普段着あるいは、ゴロゴロとスーツケースを転がしたまま旅装支度のまま入ってくる。たしかにダニエリはわざわざドレスコードを謳っていない。それが600年間ホテルをやっていた格へ、ツーリストが示す敬意だからだ。 「前は場違いなツーリストは、店

  • ワインと地中海#16/ボロテア航空でヴェネツィアへ

    サントリーニ国営空港JTRからマルコポーロ空港VIEへの直行便は少ない。ボロテア航空Volotea Airlineが飛んでいるが、フライトは土日月の三日間/夜便しかない。経由便だと4時間から6時間かかるがボロテア航空だと2時間半で到着する。夜、出発なので、フィラにあるお気に入りのレストラン・ボルケーノ ブルーVolcano Blue(Fira 847 00)で早いディナーを済ませてから空港へ向かった。 Book Your Dinner with Amazing Sunset View in Santorini Volcano Blue Restaurant in Fira

  • ワインと地中海#15/ゲノムから見えること

    「今世紀に入ってゲノムを駆使した考古学が成立しても分からなかったことが急速に判り始めている」 「ワインの話してよくでてくるわね。ゲノムのこと。民族もそうなの?」 「ん。カナン人について聖書からの話だと、不明な部分が多い。いったいカナン人が何者なのか・・ほとんど分からない」 マックス・ウェーバは、メソポタミアのウルに住むアラム人アブラハムが神ヤハウェからカナンを与えられ、シリア北部のハランを経てカナンへ移住した(創世記15章18-21)自明の事実として話が始まる。アブラハムはアラム族の裔で遊牧民だった。対してカナン人は農耕民で、豊饒の神バールを奉じていた。彼はこう書く。 「カナン

  • ワインと地中海#14/JEDP仮説

    「聖書とは何か?というと‥キリストの行状について書かれたものとへブル一族の年代記・・これをセットにしたものだ。 実は、なぜキリスト教徒たちがへブル族の年代記まで、自分たちの「偉大な書」にしたのか・・理由が定かではない。たしかにキリストはユダヤ人で、彼の話はユダヤ教の考えを踏襲したものだが・・だからといってそれがへブル族の年代記をまとめて経典に取り込んじまう理由なのかというと‥僕にはどうもそう思えない。・・おそらくだが、西暦70年くらいにローマのパウロが始めたキリスト崇拝は、既にあったミトラ教の信徒たちを狙った団体だったから、それなりに権威が背景として欲しかったのかもしれないな。そのあた

  • ワインと地中海#13/メソポタミアとワイン

    「メソポタミアの人たちもワインは飲んだんでしょ?」 「ん。王や貴族・神官たちは飲んだ。メソポタミアの人々が残した石板写本・壁画・器には沢山のワインにまつわるものが描かれている。しかしすべて交易で手に入れたものだ。都市部近郊には醸造所跡はない。もっと北の方だ。おそらく交易によって運ばれていたんだろうな。 その作り方を見ると、収穫された葡萄は、大きな樽の中で踏まれ汁を出す。。そしてその汁は地中に埋められた陶器の大きな壺に入れられる。そして発酵するのを待つ、という方法だ」 「もうそういう方法が出来ていたのね」 「ん。なぜ地中に埋められた壺を利用するかというと、これは冷却が目的だった。

  • ワインと地中海#12/オリエントとビール

    「オリエントの人たもの飲み物はメインはビールだった。製法的にビールのほうが簡単だしな。乾燥したパン種に水を漬けるだけで出来る。ワインは高価な飲み物で一般的ではなかった。エジプトでもメソポタミアでも、アルコール飲料はビールだった」 「でもレバントの人たちはワインだったの?」 「ワインは輸送できる。交易の対象になる。ビールは地で飲んで終わるだけだ。それとワインに含まれるアルコールはビールの4倍5倍ある」 「ワイン13%ビール5%じゃないの?」 「そんなに高濃度なビールはまだなかった。2%前後だった。ワインは当時から既に13%前後のアルコール濃度だった。これだけアルコール濃度が高いと雑菌は死

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