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ブログタイトル
古代四方山話
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/kaorio39
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古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。
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咲くやこの花さんの新着記事

1件〜30件

  • アジスキタカヒコネとアメノワカヒコ

    約4000年前の縄文時代の北海道洞爺湖町入江貝塚からポリオ患者とみられる人骨が出土したときは話題になりましたね。20歳代の女性とみられ、寝たきりで誰かの手を借りながら生活をしていたといいます。今よりも生活環境が厳しかったと思われるのに、縄文人は一人で生きていくことが出来ない人もちゃんと面倒をみていたことが判明しました。土偶のモデルだって障碍を持つ人だという説もあります。神から遣われし者、神に近い者として障碍者への畏敬の念がうかがえます。ヒルコ、スクナヒコナ、クエビコ等、障碍者が神とみなされていたのではないかと思われる例も少なくありません。神話の中でアジスキタカヒコネとアメノワカヒコはそっくりだったとされます。この神話について高天原から葦原の中つ国を平定するためにやってきたアメノワカヒコ。アメノワカヒコらにとって...アジスキタカヒコネとアメノワカヒコ

  • さなきと讃岐

    銅鐸は古語では「さなき」「さなぎ」「ぬて」「ぬりて」などと呼ばれたと推測されています。この銅鐸に関連している地名が各地に残されているとされます。猿投山、狭投、佐那具、名護、奈具など枚挙にいとまがないほどです。名著「銅鐸」の藤森栄一氏も、地名を手掛かりに探求を続けています。神庭、神於山、神岡など、銅鐸出土地の地名に「神」がつくことも指摘されるところです。加茂や鴨という出土地についても「神」なのでしょうし。銅鐸は意識的に葬り去られた祭器と見受けられます。手放した祭器由来の地名が残り続けたのは何故なのでしょうか??「さなき」に関する地名で気になっているのが讃岐です。讃岐には今も「讃岐鋳造品」として伝統の技が継承されています。佐柳島も、大鐸姫(大野手姫)の島と思われる小豆島も近くにあります。讃岐が鐸由来の地名である可能...さなきと讃岐

  • 鉄の鏡

    数日前の朝日新聞デジタルに百舌鳥大塚山古墳から出土した鉄鏡について興味深い記載がありました。鏡の両面に竜の図像が象眼されていることがわかったそうで、両面に象眼を施す鉄鏡はほかに確認例がないといいます。両面ということは鏡面にも象眼のある竜の図像があるってことですよね。なんともカッコいいではありませんか。百舌鳥大塚山古墳は、世界遺産である百舌鳥・古市古墳群にあった消滅古墳です。西暦400年頃に作られたとみられる百舌鳥古墳群の中で5番目に大きい墳長168メートルの前方後円墳でしたが、昭和25年~27年に墳丘のほとんどが削り取られてしまいました。鉄鏡といえば、やはり日田市で戦前に見つかったとされる重要文化財の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡ですよね。三国志の英雄である曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式であり、中国本土でも稀な最高級...鉄の鏡

  • 住吉神と猿田彦神

    こちら大阪では今緊急事態でないならいつ緊急事態なんだよという状況が続いています。今が緊急事態でないなら、これからもっと悪くなるってことですか・・。しかし日常生活は今までと何も変わりません。家族らが時差出勤になったぐらい。これでいいの?来週には変わる?さて、住吉神と同じ神だとされる神様はたくさんいらっしゃいます。神様が同一とされるのは主に2パターンあるように思います。各々の地で祀るA・Bの神様がいらっしゃって、そのAとBの神様のご神徳が似通っていたりお姿が似ていたとします。Bの神様についての話を聞いた人が「ああそれならおらがAの神様とおんなじだ」となり、ABの神様は同一とされたパターンが1つ。もう1つがAの神様がある地の人にとっては金属神であり、別の地の人にとっては金属神である側面よりも蛇神であることが重要だった...住吉神と猿田彦神

  • 天照大神と卑弥呼

    天照大神は卑弥呼なのでしょうか。明治時代に東大の教授であった白鳥庫吉氏が魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事と、記紀の天照大神に関する記事内容を比較し、「その状態の類似すること、何人も之を否認する能わざるべし」と述べています。爾来、天照大神が卑弥呼であるという説は多くの人から支持されています。天照大神=卑弥呼であることに概ねのところは肯けても、何にでも引っ掛かりを覚えるたちですからどうも気になるところが出てまいります。「天岩屋戸事件」の箇所を読むと、天照大御神は鏡を知らないかのように書かれています。天岩屋に引き籠った天照大御神を引き出すために、アメノウズメがストリップをし八百万の神々が歓喜の声をあげます。岩屋の戸を細めに開け、私がいないのにどうしてと言う天照大御神に「あなた様よりも貴い神がいますゆえに」と答え、榊にか...天照大神と卑弥呼

  • 天の沼琴と鳴り物好きの事代主命

    生大刀・生弓矢・天の沼琴。オオクニヌシがスサノオの娘・スセリヒメとスサノオのもとから脱出する際に持ち出したとされる神宝です。鏡・剣・勾玉ではなく、大刀・弓矢・琴の組み合わせがスサノオの神宝だったのでしょうか。大刀・弓矢・琴の組み合わせは5世紀前半の祭祀遺跡から土製模造品として多く見つかっています。スサノオからオオクニヌシに受け継がれたとされる生大刀と生弓矢は、大阪府富田林市にある美具久留御魂神社に奉納されているそうです。美具久留御魂神社は崇神天皇10年に創建されたと伝わる古社です。随分前に訪れましたが、下拝殿で鳥居を振り返ると二上山が鳥居の間から見えることが印象的でした。春分・秋分の日には二山の間から朝日が昇るといいます。その先には箸墓、大神神社、伊勢斎宮跡などが東へと並んでいます。太陽信仰の聖地です。背後の神...天の沼琴と鳴り物好きの事代主命

  • 牛を食す神武天皇

    日本列島で牛が飼われるようになったのは、いつからなのでしょうか。日本書紀に宇陀の弟猾が牛酒で磐余彦(神武天皇)を饗応した場面が出てきます。紀元前663年の出来事とされています。牛の骨が出土するのは5世紀からで、それも5世紀には御所市の南郷遺跡くらいで出土例が極めて少ないようです。6世紀の出土地は近畿地方に8割以上が集中し、あとは下総国から出ている様子です。牛形の埴輪も兵庫県朝来市の船宮古墳のものが5世紀後半と考えられていますが、概ね6世紀代のものばかりです。雄略天皇によって父を殺された、のちの仁賢・顕宗天皇が馬甘・牛甘(牛飼い)として身を隠したという話も書かれています。牛が畿内にいたのは5世紀の終わりくらいからなのでしょうか?馬の飼育についても5世紀頃であると考えられているようですが。神武天皇が牛を食していたな...牛を食す神武天皇

  • 仲哀天皇と西の海と神功皇后

    記紀において仲哀天皇は神託を信じないように書かれていますが、その直前の部分でも貶められているように感じてしまいます。仲哀天皇と神功皇后が熊襲を討つために筑紫の香椎宮にいたときに神功皇后に神がつきます。「熊襲など貧しい地でなく海の西の方へ行け。そこに宝の国がある」というような内容の神託を受けた仲哀天皇は「西の方を見るとただ海ばかりである」と言って信じません。福岡からは朝鮮半島は見えませんから、仲哀天皇が見えないというのはその通りだと思うのです。でもこの話だと仲哀天皇は「朝鮮半島に豊かな国があることを知らない」人だと小馬鹿にされていませんか?神託を信じなかった仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は所謂「三韓征伐」に出向きます。神功皇后その人であったかどうかは別にして、倭人が300年代にしきりに朝鮮半島に侵入していたのは...仲哀天皇と西の海と神功皇后

  • 天叢雲剣と隕鉄剣

    天叢雲剣が高天原の神たちが自らでは作れない剣であったとしたなら、どういう剣であったかが気になっています。単なる鉄剣なのでしょうか?でも単なる鉄剣であれば作ることはできなかったかもしれませんが、唯一無二のものではなかったでしょう。弥生後半~末期の墳墓出土刀剣は北部九州と丹後、播磨、越前、但馬、上野から北部九州と同等かより多いくらい出土しているそうです。もちろん弥生後半に中国にルーツをもつ環頭大刀や長剣が、最も高級な武器でありステータスシンボルであったことを否定するわけではありません。「高天原」はもっと古い時代なのかもしれませんし。だったら中国よりも早くから鉄器時代に入った沿海州からの鉄剣が越(こし)に伝わっていたとみるのも一興かも。自ら作れない剣というワードから私の脳裏に浮かんだものが「隕鉄剣」です。人類の鉄の利...天叢雲剣と隕鉄剣

  • 天叢雲剣と越王勾践剣

    どうも応援してくださる方がいるみたいで。ありがとうございます。三種神器の鏡と勾玉については高天原の神が自ら作ったもののようです。しかし剣はヤマタノオロチの尾から出たものとされています。「八尺瓊勾玉」「八咫鏡」は長さの単位としての八尺、大きな勾玉・鏡という一般名詞であるにもかかわらず「天叢雲剣」だけ固有名詞です。天叢雲剣は特別な、唯一無二のもののように感じます。自分たちで作ることが出来なかった剣とはどんな剣であったのか?妄想をかきたてられます。高天原がいつの時代の話であるか、どこにあったのか不明なのでなんとも言えませんが、銅鏡を作れるのであれば銅剣も作れるでしょう。銅剣は九州・中国地方・四国地方に特に濃密に分布していますし、出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しています。もし本当に草を薙いだ剣なのであれば...天叢雲剣と越王勾践剣

  • 邪馬台国と神武東征

    かつては私、邪馬台国は北部九州にあったと考えていました。邪馬台国東遷説についても、さもありなんと考えていました。しかし纏向遺跡から九州の影響が薄いことと、弥生時代後期の淡路島に鉄加工工房があったと判ったことから、あれ?本当に邪馬台国は九州にあったのか?と思い始めていました。折しも何かの書物で邪馬台国九州説をとってこられた原田実氏が、五斗長垣内遺跡の存在から現時点では邪馬台国は北部九州よりも近畿地方の方が妥当と考えると書いておられるのを読みました。我が意を得たり、という感じでした。しかし畿内に邪馬台国があったというのも素直に首肯出来ません。その時から今まで私には邪馬台国がどこにあったのか見当がついていません。邪馬台国が判らなくなると、神武東征も判らなくなりました。今は神武天皇については八幡和郎氏の話にも興味があり...邪馬台国と神武東征

  • 神武天皇は九州から来たのですか

    根本的なこととして九州の人が何故大和へやって来たのかがどうも納得にまで至りません。また、やって来たとしたらいつ頃の話なのでしょうか。3世紀前半から中葉にかけて、日本列島では土器が活発に移動しているようです。土器が移動するということは人びとが移動しているということです。北部九州は弥生時代であっても古墳黎明期であっても、列島の最先端の地ですよね。出雲なり吉備なり畿内なりが最先端の文物を求めて北部九州へ出ていくのは当然です。実際、出雲・吉備・畿内などの土器は北部九州へ移動しています。例えば物部氏がどこの地方の出身であろうとも、北部九州に物部氏の足跡が残るのは当たり前だと思うのです。九州の地名と大和の地名の一致についても、それがどの時代かはわかりませんが、むしろ大和から九州へ地名が移ったのではないかと思ってしまいます。...神武天皇は九州から来たのですか

  • 魏の張政

    魏の臣である張政は247年に倭国へやって来て(魏志倭人伝より)266年に帰国した(晋書武帝記より)という説があります。19年もの間、張政は倭国で何をしていたというのでしょうか。森浩一氏は「張政は台与をつれて大和遠征を行い大和纏向の地に到達し、古代大和政権を打ち立てる大事業を完成した」との説を展開されています。なんとも歴史ロマンにあふれているではありませんか!しかし、纏向遺跡からは北部九州の影響はほとんどうかがえません、纏向遺跡の発掘が進むにつれて何かでるだろうと思っていたのですが、未だ出ません。出てくれないかな…。纏向遺跡からは魏の張政が主導したような痕跡も全く見受けられません。今のところ…。では、張政は倭国で一体何をしていたのでしょうか?張政の墓は朝鮮半島の楽浪郡の地で方墳として発見されています。磚に「使君帯...魏の張政

  • 土佐の遺跡群

    縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。南国市の田村遺跡群もまた面白い!現在までに発掘された日...土佐の遺跡群

  • 物部守屋と信濃国 2

    6世紀に物部氏と蘇我氏が「崇仏・拝仏論争」で戦ったというのは本当なのでしょうか。もし本当であれば、物部が難波の堀江に棄てた仏像がご本尊のはずの善光寺。このご本尊は日本書紀によれば百済から贈られた釈迦仏金銅像。しかし善光寺の本尊は阿弥陀如来だといわれています。誰も見たことがない秘仏ですが、秘仏本尊を模した前立本尊の印相は薬師如来に似ているとされるし、一体どんな仏様がどんな由来でまつられているのでしょうね?善光寺本堂に「守屋柱」なる柱があり、柱の下にはその首が埋まっていると言われるのは有名な話です。四天王寺の守屋祠とともに謎ですね。守屋の墓は大阪府八尾市に現存し、全国の有名神社が玉垣を寄進しています。なのになぜ守屋の首が善光寺にあると言われるのでしょうか。 諏訪大社上社の神体山は「守屋山」です。上社の大祝に次ぐ神官...物部守屋と信濃国2

  • 物部守屋と信濃国 1

    記紀の真の主導者が藤原不比等と考えられるにもかかわらず、藤原氏の始祖である鎌足の出自が未だ判明していません。「大鏡」を信用した説では鎌足は常陸の中臣氏の家に生まれ、中央宮廷の祭祀に関与する中央中臣家に身を寄せたとされています。この地方に生まれて中央に身を寄せるパターン、ひょっとして物部守屋にもあてはまらないでしょうか。信濃の洩矢神を祀る物部氏の家に生まれた守屋が、中央宮廷の祭祀に関与する中央物部家に身を寄せたと。中央に出るにあたって洩矢神を祀る物部としての誇りをもって物部守屋を名乗り、中央で活躍したと。もっとも守屋は大連物部尾輿の子であり、母は弓削氏の阿佐姫と伝えられていますが。物部氏の祀る石上神宮の神戸八十戸のうち、信濃国が五十戸と突出していることを大和岩雄氏が調査しています。石上神宮のある大和における神戸は...物部守屋と信濃国1

  • 七枝刀

    国懸神宮の御神体の鏡が銅鐸かどうかというのはさておき、神事に使用される剣とホコがきちんと分類されていなかったのではないかについては、本当にそう疑っています。石上神宮に伝世する国宝「七枝刀」は、かつて「六叉鉾」と呼ばれていました。七枝刀は石上神宮の神剣渡御祭の際、木枠に納め金綿の袋を被せた状態で神剣の代わりとして明治以前は用いられてきました。刀の代理品なのですから、刀と認識されていたはず。しかし銘文が見つかるまでは「刀」が「ホコ」と呼ばれてきているようなのです。刀とホコの境界が曖昧だったら、刀と鎌の境界も曖昧でいいのではないか、薙鎌がサナキの剣でもなどとどんどん古代妄想の沼へ・・・いけない、いけない!七枝刀は6本の枝刀を持つ特殊な形の鉄剣です。このような刀、東アジアのどこを見渡しても見当たりません。類似品のないこ...七枝刀

  • 穴師坐兵主神社の神宝 2

    さて上社、穴師坐兵主神社のご祭神は「大倭社注進状裏書」によると御食津神。しかし御神体は「日矛」であると記されています。武神に相応しいと思われる矛が御食津神の御神体なのも違和感がありますね。こちらのご祭神、アメノヒボコを祭神とする説もありか…と考えてしまいます。でも下社の御神体が「鈴之矛」でイコール子鈴で、上社の御神体が「日矛」であるなら、天降りの「鏡」はいずこへ?まあ現在の上社の御神体が「鏡」とされますので、上社に天降りの鏡があると解釈すべきなのでしょうが。穴師の神も祭器も情報がかなり錯綜してしまっているようです。御食津神や天鈿女命、稲田姫が祭神であるならば、何故「兵主」神社なのかとなります。そもそものところになりますが「兵主神」自体、どういう神様であるか諸説ありすぎて・・・皆神山すき氏は「巻向穴師社に祀られた...穴師坐兵主神社の神宝2

  • 穴師坐兵主神社の神宝 1

    穴師坐兵主神社は、崇神天皇の御代に巻向穴師山に倭姫によって祀られたとされる古社です。現在は穴師坐兵主神社(上社)、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社(下社)が合祀されています。古くからその祭神には諸説があり、謎だらけの神社です。「大倭本紀」に天皇始めて天降り来まし時、斎鏡三面と子鈴一合を副え護らせた1つの鏡は天照大神の御魂で天懸大神といい、1つの鏡は天照大神の前御魂で日前国懸神宮の国懸大神であるまた1つの鏡と子鈴は天皇の御食津神として巻向穴師社に祀ったというような記述があります。どう考えても重要な神社です。巻向坐若御魂神社の祭神は稲田姫説、和久産巣日神説などがありますが、勾玉と鈴を御神体とするそうです。この鈴が天降りの「子鈴」なのでしょうか?稲田姫は越の姫君の可能性もあり、勾玉をご神体とすることは肯けます。玉作と...穴師坐兵主神社の神宝1

  • かごめ かごめ

    地図を眺めていて、また妄想に捉われました。ええそうですとも、今日もくだらない妄想話です(^o^;)私がずっと気になっている「八幡大井、住吉、諏訪は同体」を頭に置きながら地図を眺めておりました。今さらながら「あれ?諏訪大社と宇佐神宮の間に松尾大社があるんだ」と気づきました。一直線とまではいきません。でも妄想をかきたてられる並びです。諏訪の神使は鶴だったな、松尾大社って亀だったな。鶴亀か、そりゃめでたい。ツルカメ!?宇佐神宮がここだということはもしかして・・・・・やっぱりありました。諏訪大社、松尾大社、宇佐神宮の延長線上に大分県日田郡「夜明」が。これって「かごめ唄」!?かごめ=籠目とすれば当然連想されるのが丹後国一宮・籠神社です。籠の中の鳥はいついつでやる・・・羽衣伝説のある地です。籠の中の鳥とは「豊受大神」でしょ...かごめかごめ

  • タニワ王国 

    古代の日本海ネットワークを考える上で、タニワの存在が不思議でなりません。弥生時代のタニワには目を見張る遺跡が多く存在します。京丹後市の奈具岡遺跡は弥生中期の玉造工房遺跡です。原石から製品まで一貫した玉作りが行われ、緑色凝灰岩や水晶の玉とともに中国や朝鮮半島から入ってきたと考えられる大量の鉄製工具類、鉄器生産の鍛冶炉なども見つかっています。伴とし子氏は、弥生中期に北部九州を凌駕する技術力が丹波に存在していたと指摘されています。大風呂敷1号墳からは弥生時代後期後半の透明度の高い青いガラス製の腕輪が完形で出土しています。その美しさたるや!中国産のカリガラス製である可能性が高いそうで、鉄で発色したカリガラス製品は国内では大変珍しいものだそう。また一つの埋葬施設から11本もの鉄剣が出土しているといいます。京丹後市の赤坂今...タニワ王国

  • 蘇我氏は諏訪と関係がありますか?

    蘇我氏の本拠地だった飛鳥と、応神天皇陵、住吉大社は一直線に並んでいます。この直線の延長線上に伊和神社、倭文神社があることから蘇我氏は出雲の出身者なのかと、以前考えました。今回気になってきたのは、諏訪と蘇我氏の関係です。諏訪大社上社の「大祝信重解状」には諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)を追討したと記されているといいます。洩矢神(守矢神)はタケミナカタより前の先住の神ですが神の名を「大臣」としていることから、これはもう物部守屋のこととしか思えないではありませんか。物部守屋は廃仏派として崇仏派の蘇我馬子との戦いで敗死したとされます。もっとも物部氏の本拠地である八尾市の渋川から廃寺跡が出土し、物部氏が廃仏派であったことについては疑問を持たれています。また物部氏の史書「先代旧事本紀」には物部守屋と蘇我馬子の争いさえ記されてい...蘇我氏は諏訪と関係がありますか?

  • 閑話

    あなたがいつくだらなくない話をした?との声が聞こえたような気が…久しぶりに松本清張氏の「古代史疑」を読み直しました。やっぱり面白いですね。とても昭和に書かれたものとは思えません。生れていなかったなどとしょうもない冗談を言うつもりはありませんが、私がまだまだ漢字を読みこなせない時代の書物です。なのに全然古びていません。でも高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」になると本当に生まれていませんよ。推理小説家の書かれた古代史もの、大好きです。古代史疑のような形ではなく、完全な推理小説であれば大胆な説であろうと許されますし。自分にこのような文才があれば、書いてみたいものです。憧れます。しかし何を書く?まさかの疑問をばかり並びたて一切解決しない迷探偵(名をば咲くやこの花と申す…)がでてくる話とか?大阪のおばちゃんです。飴ちゃんは持...閑話

  • 「ぬ」の勢力

    少し前の2019年発行の本ですが、ちくま新書の「考古学講義」大変楽しく読ませていただきました。第7講「青銅器のまつりとは何か」で北島大輔氏が、銅鐸と玉作りとの関連を指摘されています。玉作りの広域ネットワークと古式銅鐸の分布がほぼ重複しているというのです。こういうものを読むともう妄想が止まりません。「ぬ(ぬな)」と「ぬて(ぬりて)」この「ぬ」がつく祭器、玉と銅鐸が関連しているなんて!!縄文以来の玉作りの広域ネットワーク「ぬ」の勢力があったに違いない。青銅が伝わった弥生時代、その「ぬ」の勢力が作った青銅器が「ぬて」。「ぬ」といえばぬなかわひめ。「ぬ」なかわひめの子、タケミナカタはたけ「ぬ」なかたで、宗像も「ぬ」なかた…。宗像氏の墓所かと考えられている奴山だって「ぬ」やまだぞ。この勢力が「ぬ」の勢力?でも銅鐸とも関連...「ぬ」の勢力

  • オオクニヌシと白楯

    日本書紀の出雲国譲りの話の中で、異伝としてオオクニヌシのために「幾重にも革を縫い合わせた白楯を造りましょう」とあります。革盾とは弥生時代以来の伝統的な木盾と異なり、古墳時代中期に突如出現し副葬品に加わったもので、古墳時代後期には副葬品としての役割を終えるものなのでは?神庭荒神谷や加茂岩倉に青銅器が埋められたころに革の盾ってあったのでしょうか?八千矛の神・オオクニヌシはおそらく弥生時代の神ですよね。オオクニヌシが矛の神なのは深い意味があることなのでしょうか。山陰では荒神谷を除くと今のところ銅矛の出土はみられないようです。綾杉状の文様から荒神谷で出土した銅矛は、佐賀平野など北部九州で作られたと考えられています。青銅器の文化圏については以前とは違った考えが一般的になったものの、銅矛の「本場」は九州なのでは?古墳時代の...オオクニヌシと白楯

  • 出雲大社柱跡

    2000年に出雲大社境内から3.5メートルの巨木を3本組にして1つの柱とした柱根が出土した時には心底驚きました。本当に48メートルもの木造巨大神殿が建っていたようだ!すごいっ!!「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことが大国主の国譲りの条件でした。出雲大社の巨大神殿はその約束を果たすために造られたと考えられています。高天原がどこであるかは虚構の可能性も高く、邪馬台国を探し当てるよりも困難で永遠の謎だと思われます。出雲大社は高天原の建物を真似てあるはずですが、出雲大社境内から出た柱跡と類似するような遺物は国内外のどこからも出土していません。この柱跡が出雲大社境内から出土したとき以降、私は天孫が中国大陸や朝鮮半島からやって来たとは思えなくなりました。出雲大社の建築と大陸や半島の建築とでは、根本的な発想...出雲大社柱跡

  • 玉鉾の道

    今日は(も?)妄想モード全開です…信濃にかかる枕詞「みすずかる」は褐鉄鉱と関係すると考えていることは以前触れました。今回は道にかかる枕詞「たまほこの」についての妄想話です。「たまほこ」とは鉾の美称、あるいは玉で飾った鉾とされ道にかかる理由は未詳です。「たま」と「ほこ」別々のものであったり、美称や玉で飾られた鉾でも構いませんが、たまほこは玉を飾るというより玉をじゃらじゃらと垂らしてある鉾で「瓊音」をたてるものだったと想像します。私は神事に使う鉾はサナギ鈴や玉をつけて鳴らすことで霊力を発揮するものではなかったかと疑っています。さて「道」で思い浮かぶのが宗像三女神「道主貴」です。これを道主の中で一番貴いのが宗像三女神という意味と解釈します。他にもいる道主の中で一番なのだと。丹波道主も氷沼道主もいます。かつて「道主」が...玉鉾の道

  • 草薙剣と越の国

    三種神器の剣、天叢雲剣。この剣がヤマタノオロチのもので、ヤマタノオロチが越の国の首長であるなら草薙剣という別名は草=クシであり、薙=蛇だと考えます。クシとは越の女王であるヌナカワヒメの父親・祖父の名前の「クシイ」と同じだと思っています。クとコは音韻転換しやすいでしょうし、今のクとコの間の音だったかもしれません。関西人が木のことを「きぃ」といい「木の国」が紀伊国と同様に「く(こ)しぃ」が越の国だったと思うのです。越の国の神剣であったことを隠すために、ヤマトタケルが草を薙ぎはらったから草薙という伝説を作ったのではないのでしょうか。櫛稲田姫の名前だってそうです。ヤマタノオロチに関わる姫の名前として相応しいのは「くしぃ・なだ姫」だと思うのです。くしぃ=越、なだ=蛇で越の国の蛇にまつわるお姫様。それを隠したいために、貴い...草薙剣と越の国

  • 天叢雲剣と尾張氏

    三種の神器の中で剣だけに固有の名前がついていることにずっと引っ掛かっています。鏡も勾玉も「八咫」「八尺(瓊)」と寸法がそのまま名前となっているのに、剣だけは「天叢雲」「草薙」という固有名詞で名前がついているのは何故なのでしょうか。鏡や勾玉は自分たちで作ったもので、剣はヤマタノオロチから奪ったものだったからなのでしょうか。武力の象徴たる剣がもともとはヤマト王権のものではないことにも違和感があります。ヤマタノオロチの頭上には常に雲がかかっていたから「天叢雲剣」と命名、火攻めにあったヤマトタケルが剣で草を薙ぎはらい敵を倒したから「草薙剣」と命名、いかにも後付け伝説っぽい話だと感じています。既に名前の有った霊剣の名を奪うことは不吉だから、名前の由来を後付けしてそのまま使ったのでしょうか?尾張氏の系譜にある「天村雲命」あ...天叢雲剣と尾張氏

  • 振ることによって生じる霊力

    叱られそうな話ですが、十種神宝の図、鏡・剣・玉・比礼に見えますか??鏡の図はどちらかというとまだ銅鐸に見えませんか。玉の図も玉には思えないし、比礼だって我々の思うようなストール状のものではありません。品物火禮は例えるなら化粧まわし?単なる妄想話です。聞き流してください。「布留」「ゆらゆらとフル」・・・十種神宝は「振る」ことによって霊力を発揮する宝だったように思えます。紗などでできたストールのような比礼をヒラヒラと振る。(あるいは化粧まわしのような比礼をユラユラと振る)八坂瓊の御統などを瓊音もゆらに振る。(十種神宝の玉の図は御統とはかけ離れていますが・・・)祭祀に用いる銅剣や銅鏡も「振る」ことによって霊力が発揮されるものだったのかもしれません。剣の舞、鏡の舞としてユラユラと振る…。十種神宝の鏡が実は銅鐸だったなら...振ることによって生じる霊力

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