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古代四方山話 https://blog.goo.ne.jp/kaorio39

古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。

咲くやこの花
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2020/07/24

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  • アジスキタカヒコネとアメノワカヒコ

    約4000年前の縄文時代の北海道洞爺湖町入江貝塚からポリオ患者とみられる人骨が出土したときは話題になりましたね。20歳代の女性とみられ、寝たきりで誰かの手を借りながら生活をしていたといいます。今よりも生活環境が厳しかったと思われるのに、縄文人は一人で生きていくことが出来ない人もちゃんと面倒をみていたことが判明しました。土偶のモデルだって障碍を持つ人だという説もあります。神から遣われし者、神に近い者として障碍者への畏敬の念がうかがえます。ヒルコ、スクナヒコナ、クエビコ等、障碍者が神とみなされていたのではないかと思われる例も少なくありません。神話の中でアジスキタカヒコネとアメノワカヒコはそっくりだったとされます。この神話について高天原から葦原の中つ国を平定するためにやってきたアメノワカヒコ。アメノワカヒコらにとって...アジスキタカヒコネとアメノワカヒコ

  • さなきと讃岐

    銅鐸は古語では「さなき」「さなぎ」「ぬて」「ぬりて」などと呼ばれたと推測されています。この銅鐸に関連している地名が各地に残されているとされます。猿投山、狭投、佐那具、名護、奈具など枚挙にいとまがないほどです。名著「銅鐸」の藤森栄一氏も、地名を手掛かりに探求を続けています。神庭、神於山、神岡など、銅鐸出土地の地名に「神」がつくことも指摘されるところです。加茂や鴨という出土地についても「神」なのでしょうし。銅鐸は意識的に葬り去られた祭器と見受けられます。手放した祭器由来の地名が残り続けたのは何故なのでしょうか??「さなき」に関する地名で気になっているのが讃岐です。讃岐には今も「讃岐鋳造品」として伝統の技が継承されています。佐柳島も、大鐸姫(大野手姫)の島と思われる小豆島も近くにあります。讃岐が鐸由来の地名である可能...さなきと讃岐

  • 鉄の鏡

    数日前の朝日新聞デジタルに百舌鳥大塚山古墳から出土した鉄鏡について興味深い記載がありました。鏡の両面に竜の図像が象眼されていることがわかったそうで、両面に象眼を施す鉄鏡はほかに確認例がないといいます。両面ということは鏡面にも象眼のある竜の図像があるってことですよね。なんともカッコいいではありませんか。百舌鳥大塚山古墳は、世界遺産である百舌鳥・古市古墳群にあった消滅古墳です。西暦400年頃に作られたとみられる百舌鳥古墳群の中で5番目に大きい墳長168メートルの前方後円墳でしたが、昭和25年~27年に墳丘のほとんどが削り取られてしまいました。鉄鏡といえば、やはり日田市で戦前に見つかったとされる重要文化財の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡ですよね。三国志の英雄である曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式であり、中国本土でも稀な最高級...鉄の鏡

  • 住吉神と猿田彦神

    こちら大阪では今緊急事態でないならいつ緊急事態なんだよという状況が続いています。今が緊急事態でないなら、これからもっと悪くなるってことですか・・。しかし日常生活は今までと何も変わりません。家族らが時差出勤になったぐらい。これでいいの?来週には変わる?さて、住吉神と同じ神だとされる神様はたくさんいらっしゃいます。神様が同一とされるのは主に2パターンあるように思います。各々の地で祀るA・Bの神様がいらっしゃって、そのAとBの神様のご神徳が似通っていたりお姿が似ていたとします。Bの神様についての話を聞いた人が「ああそれならおらがAの神様とおんなじだ」となり、ABの神様は同一とされたパターンが1つ。もう1つがAの神様がある地の人にとっては金属神であり、別の地の人にとっては金属神である側面よりも蛇神であることが重要だった...住吉神と猿田彦神

  • 天照大神と卑弥呼

    天照大神は卑弥呼なのでしょうか。明治時代に東大の教授であった白鳥庫吉氏が魏志倭人伝の卑弥呼に関する記事と、記紀の天照大神に関する記事内容を比較し、「その状態の類似すること、何人も之を否認する能わざるべし」と述べています。爾来、天照大神が卑弥呼であるという説は多くの人から支持されています。天照大神=卑弥呼であることに概ねのところは肯けても、何にでも引っ掛かりを覚えるたちですからどうも気になるところが出てまいります。「天岩屋戸事件」の箇所を読むと、天照大御神は鏡を知らないかのように書かれています。天岩屋に引き籠った天照大御神を引き出すために、アメノウズメがストリップをし八百万の神々が歓喜の声をあげます。岩屋の戸を細めに開け、私がいないのにどうしてと言う天照大御神に「あなた様よりも貴い神がいますゆえに」と答え、榊にか...天照大神と卑弥呼

  • 天の沼琴と鳴り物好きの事代主命

    生大刀・生弓矢・天の沼琴。オオクニヌシがスサノオの娘・スセリヒメとスサノオのもとから脱出する際に持ち出したとされる神宝です。鏡・剣・勾玉ではなく、大刀・弓矢・琴の組み合わせがスサノオの神宝だったのでしょうか。大刀・弓矢・琴の組み合わせは5世紀前半の祭祀遺跡から土製模造品として多く見つかっています。スサノオからオオクニヌシに受け継がれたとされる生大刀と生弓矢は、大阪府富田林市にある美具久留御魂神社に奉納されているそうです。美具久留御魂神社は崇神天皇10年に創建されたと伝わる古社です。随分前に訪れましたが、下拝殿で鳥居を振り返ると二上山が鳥居の間から見えることが印象的でした。春分・秋分の日には二山の間から朝日が昇るといいます。その先には箸墓、大神神社、伊勢斎宮跡などが東へと並んでいます。太陽信仰の聖地です。背後の神...天の沼琴と鳴り物好きの事代主命

  • 牛を食す神武天皇

    日本列島で牛が飼われるようになったのは、いつからなのでしょうか。日本書紀に宇陀の弟猾が牛酒で磐余彦(神武天皇)を饗応した場面が出てきます。紀元前663年の出来事とされています。牛の骨が出土するのは5世紀からで、それも5世紀には御所市の南郷遺跡くらいで出土例が極めて少ないようです。6世紀の出土地は近畿地方に8割以上が集中し、あとは下総国から出ている様子です。牛形の埴輪も兵庫県朝来市の船宮古墳のものが5世紀後半と考えられていますが、概ね6世紀代のものばかりです。雄略天皇によって父を殺された、のちの仁賢・顕宗天皇が馬甘・牛甘(牛飼い)として身を隠したという話も書かれています。牛が畿内にいたのは5世紀の終わりくらいからなのでしょうか?馬の飼育についても5世紀頃であると考えられているようですが。神武天皇が牛を食していたな...牛を食す神武天皇

  • 仲哀天皇と西の海と神功皇后

    記紀において仲哀天皇は神託を信じないように書かれていますが、その直前の部分でも貶められているように感じてしまいます。仲哀天皇と神功皇后が熊襲を討つために筑紫の香椎宮にいたときに神功皇后に神がつきます。「熊襲など貧しい地でなく海の西の方へ行け。そこに宝の国がある」というような内容の神託を受けた仲哀天皇は「西の方を見るとただ海ばかりである」と言って信じません。福岡からは朝鮮半島は見えませんから、仲哀天皇が見えないというのはその通りだと思うのです。でもこの話だと仲哀天皇は「朝鮮半島に豊かな国があることを知らない」人だと小馬鹿にされていませんか?神託を信じなかった仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は所謂「三韓征伐」に出向きます。神功皇后その人であったかどうかは別にして、倭人が300年代にしきりに朝鮮半島に侵入していたのは...仲哀天皇と西の海と神功皇后

  • 天叢雲剣と隕鉄剣

    天叢雲剣が高天原の神たちが自らでは作れない剣であったとしたなら、どういう剣であったかが気になっています。単なる鉄剣なのでしょうか?でも単なる鉄剣であれば作ることはできなかったかもしれませんが、唯一無二のものではなかったでしょう。弥生後半~末期の墳墓出土刀剣は北部九州と丹後、播磨、越前、但馬、上野から北部九州と同等かより多いくらい出土しているそうです。もちろん弥生後半に中国にルーツをもつ環頭大刀や長剣が、最も高級な武器でありステータスシンボルであったことを否定するわけではありません。「高天原」はもっと古い時代なのかもしれませんし。だったら中国よりも早くから鉄器時代に入った沿海州からの鉄剣が越(こし)に伝わっていたとみるのも一興かも。自ら作れない剣というワードから私の脳裏に浮かんだものが「隕鉄剣」です。人類の鉄の利...天叢雲剣と隕鉄剣

  • 天叢雲剣と越王勾践剣

    どうも応援してくださる方がいるみたいで。ありがとうございます。三種神器の鏡と勾玉については高天原の神が自ら作ったもののようです。しかし剣はヤマタノオロチの尾から出たものとされています。「八尺瓊勾玉」「八咫鏡」は長さの単位としての八尺、大きな勾玉・鏡という一般名詞であるにもかかわらず「天叢雲剣」だけ固有名詞です。天叢雲剣は特別な、唯一無二のもののように感じます。自分たちで作ることが出来なかった剣とはどんな剣であったのか?妄想をかきたてられます。高天原がいつの時代の話であるか、どこにあったのか不明なのでなんとも言えませんが、銅鏡を作れるのであれば銅剣も作れるでしょう。銅剣は九州・中国地方・四国地方に特に濃密に分布していますし、出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しています。もし本当に草を薙いだ剣なのであれば...天叢雲剣と越王勾践剣

  • 邪馬台国と神武東征

    かつては私、邪馬台国は北部九州にあったと考えていました。邪馬台国東遷説についても、さもありなんと考えていました。しかし纏向遺跡から九州の影響が薄いことと、弥生時代後期の淡路島に鉄加工工房があったと判ったことから、あれ?本当に邪馬台国は九州にあったのか?と思い始めていました。折しも何かの書物で邪馬台国九州説をとってこられた原田実氏が、五斗長垣内遺跡の存在から現時点では邪馬台国は北部九州よりも近畿地方の方が妥当と考えると書いておられるのを読みました。我が意を得たり、という感じでした。しかし畿内に邪馬台国があったというのも素直に首肯出来ません。その時から今まで私には邪馬台国がどこにあったのか見当がついていません。邪馬台国が判らなくなると、神武東征も判らなくなりました。今は神武天皇については八幡和郎氏の話にも興味があり...邪馬台国と神武東征

  • 神武天皇は九州から来たのですか

    根本的なこととして九州の人が何故大和へやって来たのかがどうも納得にまで至りません。また、やって来たとしたらいつ頃の話なのでしょうか。3世紀前半から中葉にかけて、日本列島では土器が活発に移動しているようです。土器が移動するということは人びとが移動しているということです。北部九州は弥生時代であっても古墳黎明期であっても、列島の最先端の地ですよね。出雲なり吉備なり畿内なりが最先端の文物を求めて北部九州へ出ていくのは当然です。実際、出雲・吉備・畿内などの土器は北部九州へ移動しています。例えば物部氏がどこの地方の出身であろうとも、北部九州に物部氏の足跡が残るのは当たり前だと思うのです。九州の地名と大和の地名の一致についても、それがどの時代かはわかりませんが、むしろ大和から九州へ地名が移ったのではないかと思ってしまいます。...神武天皇は九州から来たのですか

  • 魏の張政

    魏の臣である張政は247年に倭国へやって来て(魏志倭人伝より)266年に帰国した(晋書武帝記より)という説があります。19年もの間、張政は倭国で何をしていたというのでしょうか。森浩一氏は「張政は台与をつれて大和遠征を行い大和纏向の地に到達し、古代大和政権を打ち立てる大事業を完成した」との説を展開されています。なんとも歴史ロマンにあふれているではありませんか!しかし、纏向遺跡からは北部九州の影響はほとんどうかがえません、纏向遺跡の発掘が進むにつれて何かでるだろうと思っていたのですが、未だ出ません。出てくれないかな…。纏向遺跡からは魏の張政が主導したような痕跡も全く見受けられません。今のところ…。では、張政は倭国で一体何をしていたのでしょうか?張政の墓は朝鮮半島の楽浪郡の地で方墳として発見されています。磚に「使君帯...魏の張政

  • 土佐の遺跡群

    縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。南国市の田村遺跡群もまた面白い!現在までに発掘された日...土佐の遺跡群

  • 物部守屋と信濃国 2

    6世紀に物部氏と蘇我氏が「崇仏・拝仏論争」で戦ったというのは本当なのでしょうか。もし本当であれば、物部が難波の堀江に棄てた仏像がご本尊のはずの善光寺。このご本尊は日本書紀によれば百済から贈られた釈迦仏金銅像。しかし善光寺の本尊は阿弥陀如来だといわれています。誰も見たことがない秘仏ですが、秘仏本尊を模した前立本尊の印相は薬師如来に似ているとされるし、一体どんな仏様がどんな由来でまつられているのでしょうね?善光寺本堂に「守屋柱」なる柱があり、柱の下にはその首が埋まっていると言われるのは有名な話です。四天王寺の守屋祠とともに謎ですね。守屋の墓は大阪府八尾市に現存し、全国の有名神社が玉垣を寄進しています。なのになぜ守屋の首が善光寺にあると言われるのでしょうか。 諏訪大社上社の神体山は「守屋山」です。上社の大祝に次ぐ神官...物部守屋と信濃国2

  • 物部守屋と信濃国 1

    記紀の真の主導者が藤原不比等と考えられるにもかかわらず、藤原氏の始祖である鎌足の出自が未だ判明していません。「大鏡」を信用した説では鎌足は常陸の中臣氏の家に生まれ、中央宮廷の祭祀に関与する中央中臣家に身を寄せたとされています。この地方に生まれて中央に身を寄せるパターン、ひょっとして物部守屋にもあてはまらないでしょうか。信濃の洩矢神を祀る物部氏の家に生まれた守屋が、中央宮廷の祭祀に関与する中央物部家に身を寄せたと。中央に出るにあたって洩矢神を祀る物部としての誇りをもって物部守屋を名乗り、中央で活躍したと。もっとも守屋は大連物部尾輿の子であり、母は弓削氏の阿佐姫と伝えられていますが。物部氏の祀る石上神宮の神戸八十戸のうち、信濃国が五十戸と突出していることを大和岩雄氏が調査しています。石上神宮のある大和における神戸は...物部守屋と信濃国1

  • 七枝刀

    国懸神宮の御神体の鏡が銅鐸かどうかというのはさておき、神事に使用される剣とホコがきちんと分類されていなかったのではないかについては、本当にそう疑っています。石上神宮に伝世する国宝「七枝刀」は、かつて「六叉鉾」と呼ばれていました。七枝刀は石上神宮の神剣渡御祭の際、木枠に納め金綿の袋を被せた状態で神剣の代わりとして明治以前は用いられてきました。刀の代理品なのですから、刀と認識されていたはず。しかし銘文が見つかるまでは「刀」が「ホコ」と呼ばれてきているようなのです。刀とホコの境界が曖昧だったら、刀と鎌の境界も曖昧でいいのではないか、薙鎌がサナキの剣でもなどとどんどん古代妄想の沼へ・・・いけない、いけない!七枝刀は6本の枝刀を持つ特殊な形の鉄剣です。このような刀、東アジアのどこを見渡しても見当たりません。類似品のないこ...七枝刀

  • 穴師坐兵主神社の神宝 2

    さて上社、穴師坐兵主神社のご祭神は「大倭社注進状裏書」によると御食津神。しかし御神体は「日矛」であると記されています。武神に相応しいと思われる矛が御食津神の御神体なのも違和感がありますね。こちらのご祭神、アメノヒボコを祭神とする説もありか…と考えてしまいます。でも下社の御神体が「鈴之矛」でイコール子鈴で、上社の御神体が「日矛」であるなら、天降りの「鏡」はいずこへ?まあ現在の上社の御神体が「鏡」とされますので、上社に天降りの鏡があると解釈すべきなのでしょうが。穴師の神も祭器も情報がかなり錯綜してしまっているようです。御食津神や天鈿女命、稲田姫が祭神であるならば、何故「兵主」神社なのかとなります。そもそものところになりますが「兵主神」自体、どういう神様であるか諸説ありすぎて・・・皆神山すき氏は「巻向穴師社に祀られた...穴師坐兵主神社の神宝2

  • 穴師坐兵主神社の神宝 1

    穴師坐兵主神社は、崇神天皇の御代に巻向穴師山に倭姫によって祀られたとされる古社です。現在は穴師坐兵主神社(上社)、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社(下社)が合祀されています。古くからその祭神には諸説があり、謎だらけの神社です。「大倭本紀」に天皇始めて天降り来まし時、斎鏡三面と子鈴一合を副え護らせた1つの鏡は天照大神の御魂で天懸大神といい、1つの鏡は天照大神の前御魂で日前国懸神宮の国懸大神であるまた1つの鏡と子鈴は天皇の御食津神として巻向穴師社に祀ったというような記述があります。どう考えても重要な神社です。巻向坐若御魂神社の祭神は稲田姫説、和久産巣日神説などがありますが、勾玉と鈴を御神体とするそうです。この鈴が天降りの「子鈴」なのでしょうか?稲田姫は越の姫君の可能性もあり、勾玉をご神体とすることは肯けます。玉作と...穴師坐兵主神社の神宝1

  • かごめ かごめ

    地図を眺めていて、また妄想に捉われました。ええそうですとも、今日もくだらない妄想話です(^o^;)私がずっと気になっている「八幡大井、住吉、諏訪は同体」を頭に置きながら地図を眺めておりました。今さらながら「あれ?諏訪大社と宇佐神宮の間に松尾大社があるんだ」と気づきました。一直線とまではいきません。でも妄想をかきたてられる並びです。諏訪の神使は鶴だったな、松尾大社って亀だったな。鶴亀か、そりゃめでたい。ツルカメ!?宇佐神宮がここだということはもしかして・・・・・やっぱりありました。諏訪大社、松尾大社、宇佐神宮の延長線上に大分県日田郡「夜明」が。これって「かごめ唄」!?かごめ=籠目とすれば当然連想されるのが丹後国一宮・籠神社です。籠の中の鳥はいついつでやる・・・羽衣伝説のある地です。籠の中の鳥とは「豊受大神」でしょ...かごめかごめ

  • タニワ王国

    古代の日本海ネットワークを考える上で、タニワの存在が不思議でなりません。弥生時代のタニワには目を見張る遺跡が多く存在します。京丹後市の奈具岡遺跡は弥生中期の玉造工房遺跡です。原石から製品まで一貫した玉作りが行われ、緑色凝灰岩や水晶の玉とともに中国や朝鮮半島から入ってきたと考えられる大量の鉄製工具類、鉄器生産の鍛冶炉なども見つかっています。伴とし子氏は、弥生中期に北部九州を凌駕する技術力が丹波に存在していたと指摘されています。大風呂敷1号墳からは弥生時代後期後半の透明度の高い青いガラス製の腕輪が完形で出土しています。その美しさたるや!中国産のカリガラス製である可能性が高いそうで、鉄で発色したカリガラス製品は国内では大変珍しいものだそう。また一つの埋葬施設から11本もの鉄剣が出土しているといいます。京丹後市の赤坂今...タニワ王国

  • 蘇我氏は諏訪と関係がありますか?

    蘇我氏の本拠地だった飛鳥と、応神天皇陵、住吉大社は一直線に並んでいます。この直線の延長線上に伊和神社、倭文神社があることから蘇我氏は出雲の出身者なのかと、以前考えました。今回気になってきたのは、諏訪と蘇我氏の関係です。諏訪大社上社の「大祝信重解状」には諏訪明神が守屋大臣(洩矢神)を追討したと記されているといいます。洩矢神(守矢神)はタケミナカタより前の先住の神ですが神の名を「大臣」としていることから、これはもう物部守屋のこととしか思えないではありませんか。物部守屋は廃仏派として崇仏派の蘇我馬子との戦いで敗死したとされます。もっとも物部氏の本拠地である八尾市の渋川から廃寺跡が出土し、物部氏が廃仏派であったことについては疑問を持たれています。また物部氏の史書「先代旧事本紀」には物部守屋と蘇我馬子の争いさえ記されてい...蘇我氏は諏訪と関係がありますか?

  • 閑話

    あなたがいつくだらなくない話をした?との声が聞こえたような気が…久しぶりに松本清張氏の「古代史疑」を読み直しました。やっぱり面白いですね。とても昭和に書かれたものとは思えません。生れていなかったなどとしょうもない冗談を言うつもりはありませんが、私がまだまだ漢字を読みこなせない時代の書物です。なのに全然古びていません。でも高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」になると本当に生まれていませんよ。推理小説家の書かれた古代史もの、大好きです。古代史疑のような形ではなく、完全な推理小説であれば大胆な説であろうと許されますし。自分にこのような文才があれば、書いてみたいものです。憧れます。しかし何を書く?まさかの疑問をばかり並びたて一切解決しない迷探偵(名をば咲くやこの花と申す…)がでてくる話とか?大阪のおばちゃんです。飴ちゃんは持...閑話

  • 「ぬ」の勢力

    少し前の2019年発行の本ですが、ちくま新書の「考古学講義」大変楽しく読ませていただきました。第7講「青銅器のまつりとは何か」で北島大輔氏が、銅鐸と玉作りとの関連を指摘されています。玉作りの広域ネットワークと古式銅鐸の分布がほぼ重複しているというのです。こういうものを読むともう妄想が止まりません。「ぬ(ぬな)」と「ぬて(ぬりて)」この「ぬ」がつく祭器、玉と銅鐸が関連しているなんて!!縄文以来の玉作りの広域ネットワーク「ぬ」の勢力があったに違いない。青銅が伝わった弥生時代、その「ぬ」の勢力が作った青銅器が「ぬて」。「ぬ」といえばぬなかわひめ。「ぬ」なかわひめの子、タケミナカタはたけ「ぬ」なかたで、宗像も「ぬ」なかた…。宗像氏の墓所かと考えられている奴山だって「ぬ」やまだぞ。この勢力が「ぬ」の勢力?でも銅鐸とも関連...「ぬ」の勢力

  • オオクニヌシと白楯

    日本書紀の出雲国譲りの話の中で、異伝としてオオクニヌシのために「幾重にも革を縫い合わせた白楯を造りましょう」とあります。革盾とは弥生時代以来の伝統的な木盾と異なり、古墳時代中期に突如出現し副葬品に加わったもので、古墳時代後期には副葬品としての役割を終えるものなのでは?神庭荒神谷や加茂岩倉に青銅器が埋められたころに革の盾ってあったのでしょうか?八千矛の神・オオクニヌシはおそらく弥生時代の神ですよね。オオクニヌシが矛の神なのは深い意味があることなのでしょうか。山陰では荒神谷を除くと今のところ銅矛の出土はみられないようです。綾杉状の文様から荒神谷で出土した銅矛は、佐賀平野など北部九州で作られたと考えられています。青銅器の文化圏については以前とは違った考えが一般的になったものの、銅矛の「本場」は九州なのでは?古墳時代の...オオクニヌシと白楯

  • 出雲大社柱跡

    2000年に出雲大社境内から3.5メートルの巨木を3本組にして1つの柱とした柱根が出土した時には心底驚きました。本当に48メートルもの木造巨大神殿が建っていたようだ!すごいっ!!「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことが大国主の国譲りの条件でした。出雲大社の巨大神殿はその約束を果たすために造られたと考えられています。高天原がどこであるかは虚構の可能性も高く、邪馬台国を探し当てるよりも困難で永遠の謎だと思われます。出雲大社は高天原の建物を真似てあるはずですが、出雲大社境内から出た柱跡と類似するような遺物は国内外のどこからも出土していません。この柱跡が出雲大社境内から出土したとき以降、私は天孫が中国大陸や朝鮮半島からやって来たとは思えなくなりました。出雲大社の建築と大陸や半島の建築とでは、根本的な発想...出雲大社柱跡

  • 玉鉾の道

    今日は(も?)妄想モード全開です…信濃にかかる枕詞「みすずかる」は褐鉄鉱と関係すると考えていることは以前触れました。今回は道にかかる枕詞「たまほこの」についての妄想話です。「たまほこ」とは鉾の美称、あるいは玉で飾った鉾とされ道にかかる理由は未詳です。「たま」と「ほこ」別々のものであったり、美称や玉で飾られた鉾でも構いませんが、たまほこは玉を飾るというより玉をじゃらじゃらと垂らしてある鉾で「瓊音」をたてるものだったと想像します。私は神事に使う鉾はサナギ鈴や玉をつけて鳴らすことで霊力を発揮するものではなかったかと疑っています。さて「道」で思い浮かぶのが宗像三女神「道主貴」です。これを道主の中で一番貴いのが宗像三女神という意味と解釈します。他にもいる道主の中で一番なのだと。丹波道主も氷沼道主もいます。かつて「道主」が...玉鉾の道

  • 草薙剣と越の国

    三種神器の剣、天叢雲剣。この剣がヤマタノオロチのもので、ヤマタノオロチが越の国の首長であるなら草薙剣という別名は草=クシであり、薙=蛇だと考えます。クシとは越の女王であるヌナカワヒメの父親・祖父の名前の「クシイ」と同じだと思っています。クとコは音韻転換しやすいでしょうし、今のクとコの間の音だったかもしれません。関西人が木のことを「きぃ」といい「木の国」が紀伊国と同様に「く(こ)しぃ」が越の国だったと思うのです。越の国の神剣であったことを隠すために、ヤマトタケルが草を薙ぎはらったから草薙という伝説を作ったのではないのでしょうか。櫛稲田姫の名前だってそうです。ヤマタノオロチに関わる姫の名前として相応しいのは「くしぃ・なだ姫」だと思うのです。くしぃ=越、なだ=蛇で越の国の蛇にまつわるお姫様。それを隠したいために、貴い...草薙剣と越の国

  • 天叢雲剣と尾張氏

    三種の神器の中で剣だけに固有の名前がついていることにずっと引っ掛かっています。鏡も勾玉も「八咫」「八尺(瓊)」と寸法がそのまま名前となっているのに、剣だけは「天叢雲」「草薙」という固有名詞で名前がついているのは何故なのでしょうか。鏡や勾玉は自分たちで作ったもので、剣はヤマタノオロチから奪ったものだったからなのでしょうか。武力の象徴たる剣がもともとはヤマト王権のものではないことにも違和感があります。ヤマタノオロチの頭上には常に雲がかかっていたから「天叢雲剣」と命名、火攻めにあったヤマトタケルが剣で草を薙ぎはらい敵を倒したから「草薙剣」と命名、いかにも後付け伝説っぽい話だと感じています。既に名前の有った霊剣の名を奪うことは不吉だから、名前の由来を後付けしてそのまま使ったのでしょうか?尾張氏の系譜にある「天村雲命」あ...天叢雲剣と尾張氏

  • 振ることによって生じる霊力

    叱られそうな話ですが、十種神宝の図、鏡・剣・玉・比礼に見えますか??鏡の図はどちらかというとまだ銅鐸に見えませんか。玉の図も玉には思えないし、比礼だって我々の思うようなストール状のものではありません。品物火禮は例えるなら化粧まわし?単なる妄想話です。聞き流してください。「布留」「ゆらゆらとフル」・・・十種神宝は「振る」ことによって霊力を発揮する宝だったように思えます。紗などでできたストールのような比礼をヒラヒラと振る。(あるいは化粧まわしのような比礼をユラユラと振る)八坂瓊の御統などを瓊音もゆらに振る。(十種神宝の玉の図は御統とはかけ離れていますが・・・)祭祀に用いる銅剣や銅鏡も「振る」ことによって霊力が発揮されるものだったのかもしれません。剣の舞、鏡の舞としてユラユラと振る…。十種神宝の鏡が実は銅鐸だったなら...振ることによって生じる霊力

  • 卑弥呼 ー消えた鉛丹五十斤ー

    卑弥呼が魏から下賜された「鉛丹五十斤」はどうなったのでしょうか。鉛丹は水銀朱やベンガラ朱と並ぶ赤色顔料です。施朱の風習は世界的にみられました。古墳時代に日本列島で使われたのは水銀朱やベンガラ朱であり、鉛丹の使用例は今のところ見つかっていないそうです。平原王墓からの出土品は大変立派ですが、撒かれた朱は鉛丹ではありません。この方形周溝墓から鉛丹が出ていたなら邪馬台国論争に決着がついていたかもしれませんね。いやぁそれでもつかないかぁ…昨今、箸墓の年代がどんどん卑弥呼の時代に近づいてきました。もしも箸墓と平原王墓がさほど変わらない時代に造られたものであれば、その大きさがあまりにも違うことに驚きます。平原王墓は12メートル×14メートルの方形周溝墓。かたや箸墓は278メートルの前方後円墳。たとえ一部であれ北部九州の協力な...卑弥呼ー消えた鉛丹五十斤ー

  • 倭の国の人びと 2

    倭の国の人びとは縄文時代からすでに朝鮮半島や中国大陸と行き来をしています。彼の地においては鏡が姿見として使われ、祭器として重要視されるようなものではないことも知っていたはずです。それでも倭の国の人びとは鏡をレガリアのひとつに選びます。勾玉は日本列島のものと考えられます。剣はともかく、鏡や勾玉をレガリアとする人びとがはたして渡来系なのでしょうか。変な墓も造ります。四隅突出型墳丘墓にしても前方後方墳、前方後円墳にしても奇抜です。前方後円墳の時代には、方墳は前方後円墳の下位に位置付けられたそうですし。まつりごとの在り方も特殊です。卑弥呼や台与などの鬼道の使い手である女王が統治する国です。阿毎多利思比孤の時代になっても「倭王は天を兄とし、日を弟として天がまだ明けないときに出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出ると...倭の国の人びと2

  • 倭の国の人びと ①

    中国での銅鏡は紀元前2000年頃の斉家文化のときには小型で薄いものが多く、姿見ではなく呪術的な用途で使われていたかもしれないそうです。出現期の銅鏡は太陽を表すような文様が多く、太陽信仰と関係していたかもしれません。戦国時代後期に急速に普及が進んだ銅鏡は、大型の姿見と小型の魔除け鏡の使い分けがあった様子。そして玉璧の代用品として副葬されてきたといいます。倭人は鏡をどうやって使っていたのでしょうか。太陽信仰に関わる呪術的な使い方であれば、中国では魔除けに使われたらしい小型鏡のほうが向いているように感じます。中国のものが朝鮮半島を通じて伝わったのなら、中国での使われ方に準じていてもよさそうなのに、倭では逆に大型の鏡を祭祀に用いていたのでしょうか。もし単に玉璧の代用品・副葬のための品であれば破鏡の意味が解りませんし。鏡...倭の国の人びと①

  • モモソヒメは讃岐の出身者ではないですか

    四道将軍は崇神天皇10年に地方の敵を帰順させるために派遣されたと日本書紀には書かれています。北陸に大彦命を、東海に武淳川別命を、西道に吉備津彦を、丹波に丹波道主命をそれぞれ派遣しています。わたくし、この四道将軍の派遣に疑問を持っています。外来土器から考えるに東海は纏向遺跡を造る=初期ヤマト王権を主導した地域なのではないでしょうか。前方後円墳の在り方から吉備は纏向で主導権を握っていたのではないかと考えられています。纏向に集まった各地の首長たちを逆に纏向から各地に派遣したていにした話が四道将軍なのではないかと疑っています。吉備から纏向にやってきたのが吉備津彦、丹波から纏向にやってきたのが丹波道主なのでは。武淳川別命は大彦命の子とされます。もし大彦命がもともと北陸の首長であったなら、大彦命の勢力は纏向以前に北陸から東...モモソヒメは讃岐の出身者ではないですか

  • 勾玉

    勾玉の形については諸説あるものの、未だ何の形であるか定説には至っておりません。獣形勾玉などを見ると胎児の形なのかとも思いますが、そうすると緑色の翡翠に拘った理由が理解できません。月の形であるならば、太陽の意匠とされる鏡とのバランスが取れていないにもほどがあるように思います。動物の牙を模したのであれば、固い翡翠を労力かけて削らなくても牙を身に付ければ?って思ってしまいます。頭が日を尾が月を表し宇宙の表現だとか、魂の意匠なのだとかいう説もあります。金属がまだなかったとされる縄文時代から翡翠の勾玉は作られます。硬い翡翠を勾玉形に加工して穴をあけるのにどれほどの労力がかかったことでしょうか。細い竹ひごを使い、きりもみ法で翡翠に穴をあける実験では3時間で1ミリほどしか進まなかったそうです。そこまでしてあの形にし穴を開けて...勾玉

  • 卑弥呼・台与と真珠

    真珠って綺麗ですよね。あの光沢や石にはない暖かみとかが大好きです。天然真珠だけの時代であれば私には手に入れられなかったかもしれません。「世界中の女性を真珠で飾りたい」と養殖を成功させてくださった御木本幸吉氏に感謝です。真珠って何故か古墳からはほどんど出土しません。発掘できない宮内庁管理の古墳に大量に眠っているのだとか、交換財として朝鮮半島や中国にほとんど渡ってしまったからだとか言われています。魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏の皇帝から真珠を50斤(約11キロ)、もらっています。卑弥呼の墓かもしれない平原王墓からも真珠は出土していません。卑弥呼は魏の皇帝からもらった綺麗な布類や真珠を身に付けたのでしょうか。巫女である卑弥呼は古来からの呪具である翡翠や麻などしか身に付けなかったのでしょうか。卑弥呼の墓かもしれない箸墓...卑弥呼・台与と真珠

  • 畿内の鉄

    青銅器と鉄はほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に伝わったとされます。弥生時代にまずは北部九州に入って来た青銅器と鉄。纏向遺跡が誕生する直前の畿内からは鉄の出土が著しく少なく、その時代の鉄の出土分布は北部九州に偏っていると言われてきました。最近ではタニワなどにも鉄が多く存在したことが判明していています。銅鐸文化圏という言葉があったように、近畿では銅鐸を盛んに作っていました。その青銅は一体どこから手に入れていたのでしょうか。北部九州が絡んでいないとは思えないのですが。鉄資源をめぐって倭国大乱が起ったとするならば、青銅はなぜ争いの対象とならなかったのでしょうか。当時の青銅器は神器として使用されており、巫女王の時代には対立国に青銅器による宗教的な権威を与えることは危険なこととなりかねないようにも思われます。実用品ではな...畿内の鉄

  • 前方後方墳と近江

    前方後方墳は前方後円墳から派生したのだと以前は考えられていました。前方後円墳は王家や勢力圏の首長の墓で、それに準じた者に前方後方墳の造営が認められたと。しかし植田文雄氏は、前方後方墳は纏向遺跡誕生とほぼ同じ時代に近江に出現していたのだと主張されています。前方後方墳が先に全国に伝播し、そのあとを追うように前方後円墳が広まっていったのだといいます。ヤマトのシンボルであり全国へ伝播した前方後円墳は、纏向で誕生していることで間違いなさそうです。ヤマトの建国は前方後円墳という新しい埋葬文化を共有することによって成されたのだと考えられています。纏向遺跡から出土する外来土器のうちの半数近くを伊勢・東海地方の土器が占めているといいます。伊勢・東海地方は纏向遺跡、つまりヤマトの建国に中枢として関わっており、単なる労働力だったなど...前方後方墳と近江

  • 長柄・豊崎と難波宮

    「地名は歴史の生き証人」とよく言われます。難波長柄豊碕宮。前期難波宮の名前を見ると、モヤモヤしてしまいます。大阪の人ならもう察していただけたでしょうか。長柄・豊崎という地名が前期難波宮跡とは別の場所にあるのがモヤモヤの源です。現在も「長柄橋」という橋が淀川に架かっています。新大阪から直線で1キロほど南にいった辺りです。この長柄橋の西には「豊崎」という地名が残っています。この地にある豊崎神社には「大化の改新後、遷都された難波長柄豊碕宮旧跡地」であるとの伝承があるそうです。淀川沿いの長柄・豊崎は、法円坂にある難波宮跡公園から5キロ程度離れているでしょうか。同一地域とみるには遠すぎると思うし、かといってたまたまにしては長柄・豊崎と両方の地名が並んで存在しているのですよね。長柄橋にまつわる大阪の昔話が「長柄の人柱」で、...長柄・豊崎と難波宮

  • 卑弥呼だけ匂わせるのは何故ですか

    日本書紀には「倭の奴国王」も「邪馬台国・卑弥呼」も「倭の五王」も「阿毎多利思比狐」も誰も記されていません。何故書かれていないのでしょうか。日本書紀が書かれたころには奴国王や卑弥呼については分からなくなっていたとしても、アメノタリシヒコが誰か分からなくなっていたはずはないでしょう。中国に跪いてきたことを書きたくなかったとしても、アメノタリシヒコのことなら書けるのではないでしょうか。アメノタリシヒコについてはわざと誰のことだか判らなくしていますよね、確信犯ですよね?諸説ありますが、一体アメノタリシヒコって誰ですか?誰のことも書いていないのに、日本書紀は卑弥呼のことだけは神功皇后かもしれないと匂わせます。卑弥呼とは「日本」の歴史においてそれほどに重要な人物なのでしょうか?卑弥呼の系譜に繋がっていない王家などあり得ない...卑弥呼だけ匂わせるのは何故ですか

  • 天武天皇 駅路と日本書紀

    「駅路」の存在を考えるとき、日本書紀は天武天皇のために書かれたものではないという説を実感します。駅路とは日本最古の幹線道路網です。天武天皇の時代、藤原京を起点として東北から九州までの総延長6300キロに及ぶ道路が整備されたようです。日本書紀にはそんなことは記されていないのですが、考古学の進展で判ってきたものです。幅が最小でも6メートル、最大30メートル超の道路で、後世、江戸幕府が整備した五街道さえも凌ぎます。小さな丘など躊躇なく切り崩し、道を一直線に通しているといいます。この駅路は天武天皇による「列島改造」で、中央政権・律令国家を目指して造られたのだそう。そして律令制の終焉とともに平安時代中期に廃絶されました。日本書紀が天武天皇のために書かれたものであるならば、こんな大事業を書かないはずはありません。東北から九...天武天皇駅路と日本書紀

  • 始まりはえべっさん

    昨年、自身の備忘録的に始めてみたブログです。あれがわからない、これがわからないだとか妄想を書き散らかしておりますが、なぜだか読んでくださる人が…。ありがとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。さて、こちら関西では初詣の次は十日戎。娘が学生時代、とある神社で福娘としてご奉仕させていただきました(けっして今宮戎ではありません。あないなべっぴんさんではありません)。「その神社のえべっさんは、どのえべっさんや」と質問し、娘に嫌な顔をされたことを思い出します。えべっさんには系統があることなど、神社や神様または古代史などに興味がない人には常識ではないと。・・・そうですね。島根県松江市にある美保神社の主祭神、事代主命は「鳴り物が好き」で歌舞音曲の神様とされます。事代主命を祀る大阪の今宮戎においては、えべっさんは耳が...始まりはえべっさん

  • 疫病退散の知恵

    半年間の罪や穢れを払い除く大祓は全国各地で、また宮中においても古くから行われてきました。大祓が毎年6月の晦日と、12月の大晦日に行われるのは春秋二倍年暦の名残なのでしょうか。大祓といえば茅の輪くぐりが思い浮かびますがそこから話は飛んで、蘇民将来の話ってそもそもは「疫病が流行ったときにはしめ縄をめぐらして家に閉じこもりましょう」という教訓話だったのではないかと思う今日この頃です。疫病にはステイホームが効果的だという教訓を伝えていくための話なのだと思います。また「家送り」というのも疫病封じだったのではないかと妄想しています。アイヌではチセウフイカあるいはカソマンデ(カッオマンデ)と呼ばれた家送りの儀式がありました。老人、特に老女が死んだ折に墓地に土葬した後、個人の持ち物を家ごと焚き上げる儀式です。家送りは焼失竪穴建...疫病退散の知恵

  • ひらがなは神代文字?

    漢字が伝来する以前、古代日本には固有の文字があったのでしょうか。神代文字としては阿比留草文字などが有名どころですね。滋賀県彦根市の荒神山神社のお札に今でも書かれている文字も神代文字だと言われていますし、同じ滋賀県高浜市安曇川町の阿閑神社には神代文字の刻まれた石が残っています。先史時代に岩に刻まれた文字や文様、絵画であるペトログラフは日本各地にたくさん残されているようです。また神代文字といえばホツマツタエに使われたヲシテやカタカムナなど、いわゆる古史古伝の真偽も知りたいところです。真偽を論ずるようなものではなく、我々が日常的に使用している「ひらがな」が神代文字であるとの説もあります。室町時代中期から戦国時代にかけての神道家である吉田兼倶の「日本書紀神代巻抄」に「いろは四十七字は、弘法大師これを作る。かたかなは吉備...ひらがなは神代文字?

  • 十三市民病院

    古代史以外のことを初めて書きます。私は大阪在住の持病持ちで数年来、十三市民病院に外来患者として通っています。ご存知の方も多いかと思いますが、十三市民病院は全国初のコロナ専門病院です。一時はコロナの入院のみに特化した病院となっていましたが、今は外来も再開しています。多くの医師が退職されましたが、私の主治医の先生方は残っておられ概ね2カ月に一度通院しています。先日、診察に行ってまいりました。待ち合いの椅子もガラガラで、明らかに患者数が減っているように感じます。この病院、未だに会計が機械精算ではなく窓口で人がお金のやり取りをするので、これまでは会計にやたらと時間がかかったのですが、会計さえもスムーズです。私などは病状が安定している期間だったから良かったものの、外来ストップの期間に多くの患者が転院せざるを得なかったこと...十三市民病院

  • 日本列島の中の倭国とそのほかの国

    7世紀の中国は南朝の「梁書」などによると、どうも日本列島には倭国のほかにも国があった様子です。「文身国」は倭国の東北7千里にあり、刺青の習慣があるといいます。物は豊かで安く、王のいるところは金銀、珍宝、美しい品で飾っている。館の周囲は濠をめぐらし、幅一丈に水銀を流している。市場がある。犯罪には厳しいと書かれているそうです。なかなか素晴らしい国のようです。文身国の東5千里には「大漢国」があるとし、武器がなく戦争をしない。風俗は文身国と同じだが言語が違っていると記されています。こういう記述があると、やはり「倭国」というのは九州を指すのだろうなと思います。九州が倭国で、扶桑国は関西、北陸が文身国で、関東が大漢国、女国が伊勢あたりでしょうか。また「三国史紀」には、新羅の第4代王の脱解の出身地である「多婆那国」は倭国の東...日本列島の中の倭国とそのほかの国

  • 卑弥呼と台与の間の男王

    新羅本紀に249年に出兵した倭王についての記載があるそうです。倭の使節を接待する席で「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った新羅の名将、于老(うの)。この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し出兵したといいます。倭王は謝罪する于老を許さず、火炙りの刑に処したそうです。于老とは百済との戦いで大いなる戦果をあげた、古代新羅の12代王の従兄で10代王の子にあたる人物だそうです。兵にも慕われていたという名将を火炙りにされても、新羅は倭に対して争いを起こすことはなかったようです。当時の倭国と新羅の力関係を考えさせられるエピソードです。列伝・于老では253年の出来事として同様の事件が記されているようですが、いずれにせよ年代的に于老を処罰した倭王こそが、卑弥呼と台与の間の男王だと思われます。魏志倭人伝に...卑弥呼と台与の間の男王

  • 古墳の数

    古墳の数って多すぎませんか。大仙古墳のような大きなものからほんの小さな古墳まであわせると、全国に16万基もありコンビニの3倍の数だという比較がよくなされています。埋没古墳も数多くあり、一体我々の祖先は3世紀初頭から7世紀初頭の間にどれほどの古墳を造ったのでしょうか。古墳の数が多すぎて中国の薄葬令などとは関係なく、単に場所がなくなってきたから古墳を作るのを止めたのではないかと、くだらないことを考えてしまいます。大林組の仁徳天皇陵を復元するプロジェクトでは、仁徳天皇陵は15年8カ月の歳月をかけ、延べ680万7千人の人が関わり、現代の金額に換算すると796億円ものお金を使って造られたものだといいます。1週間に1回休み、1日8時間労働で、工事のピークには1日に2000人も作業をしていたとされます。鋤や鍬などを作る要員、...古墳の数

  • 徐福が和歌山に渡来していたなら

    秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」といい3000人の童男童女を連れ、財宝、財産、五穀の種を持ち東方に船出をしたという徐福。当時の中国において倭人が長寿であるとの噂が流布されていたが故に、徐福は日本を目指して旅立ったのでしょうか。日本各地に徐福伝説が残されています。和歌山県の新宮市も徐福が渡来したとされる地のひとつで、徐福の墓もあります。徐福の生没年は不詳ですが、2200年ほど前の人であると考えられています。徐福は「平原広沢」を手に入れそこに留まり王となり帰らなかったとも言われていますし、徐福=神武天皇という説もあります。和歌山の新宮市に徐福が渡来していて徐福の墓が本物であったとします。それって「先進国」からやって来てかつ人材も財産も持っていた徐福が、単なる豪族として亡くなったってことですよね?多...徐福が和歌山に渡来していたなら

  • 倭人の年齢

    魏志倭人伝には「其の人は寿考(長生き)にして、或いは百年、或いは八、九十年」との記載があります。倭人は百年、あるいは八、九十歳まで長生きするのだと書かれています。現在であれば日本人は本当に八、九十年生きていますから、何ら不思議な記載ではありません。しかし歴史から見ればつい最近の、明治・大正時代の男性の平均寿命が43才前後だというのです。もちろん平均寿命であり、明治・大正時代であっても江戸時代であっても長生きする人は長生きしています。それにしても3世紀の人々が百才まで生きていたとは、まず考えられません。「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」との記載もあることから、倭人は春から秋までを1年、秋から春までをまた1年、1年で2歳、歳を数えているのだという説があります。いわゆる春秋二倍年暦...倭人の年齢

  • 懸ける神さま

    天御影神は鉄鐸を作ったとされる天目一箇神と同一神といわれ、私は銅鐸の神だったのでは?と思っています。近江の御上神社で祀られる神さまです。この「御影」という神名はもともと御「懸」であり、懸け神などと呼ばれたのではないかと妄想しています。銅鐸は諏訪の湛神事の神木のような木にかけて使うものだったので、銅鐸神のことを懸け神と呼ぶようになったのでは?と疑っています。銅鐸がなきものとなり長い年月が経ち、懸けるものがなんだったのか忘れられたことでしょう。かけるは欠けるに通ずることから、かけ神では不吉に感じられ、ご神影を表す御影という名になっtたのではないでしょうか?鐸のことを「ぬて」ともいいます。大野手姫=大鐸姫(おおぬてひめ)の島、小豆島には紅葉の名所「寒霞渓」があります。もともと神懸だったでしょう。麓には神懸の地名もあり...懸ける神さま

  • 弥生時代の奈良盆地

    弥生時代の奈良盆地は豊かだった、中西遺跡や秋津遺跡の水田跡を見るにそう思います。奈良県御所市の中西遺跡と隣接する秋津遺跡では、弥生時代前期に少なくとも4万3000万平方メートルもの水田が広がっていたことが判明しています。弥生時代前期における国内最大規模の水田跡であり、九州地方のものよりも規模が大きいのです。ちゃんと灌漑施設も備わった水田だそうです。この地では縄文時代にはクリを管理し利用していたのですが、地下水位が上がって荒れ地となったため水田として利用するようになったのではないかとの見解を橿原考古学研究所が示しています。また奈良県磯城郡田原本町の弥生の環濠集落、唐古・鍵遺跡を見てもやはり豊かであったと感じます。全国からの土器が出土していますし、半島との交流もあったようです。青銅器の鋳造炉が出ており、銅鐸の主要な...弥生時代の奈良盆地

  • 倭国と日本国

    いにしえの日本列島には倭国と日本国が存在したようです。旧唐書を意訳すると、日本国は倭国の別種なり。その国は日出ずる国故に日本という名を用いている。あるいは倭国はその国名が正しくないことを憎み、日本国と改めた。あるいはまた、日本は小国である旧倭国の地を併合した。と書かれてあります。新唐書の記述ではまた違ってきますが、いずれにしろ列島内に倭国と日本国があったことは間違いなさそうです。また、旧唐書には「倭国はいにしえの倭奴国なり」ともあります。北部九州が倭国の一部であったことは疑いようがないと思われます。その倭国の範囲がどこまでなのかが議論が別れるところです。邪馬台国の所在地問題と同様に正解が解りません。なぜ国内の書物には倭国と日本国の関係性が書かれていないのでしょうか。いったい倭国と日本国はどういう関係にあったので...倭国と日本国

  • 神有月の出雲と諏訪

    神無月がくるたびに思い浮かぶ妄想があります。諏訪の神が日本一、格式の高い神なのではないのかと思うのです。旧暦10月には全国の神々が出雲に集まり、そのために他の地では神が不在になります。諸国では神が不在だから「神無月」で、出雲では神がたくさん集うので「神在月」というとの俗説があります。出雲大社では神在月に例年、八百万神をお迎えしてお見送りする神在祭がとり行われます。神々が出雲において様々な会議をなさるのだそうで、例えば「誰と誰を結婚させるか」という縁結びもこの会議で決められます。その出雲と同じく旧暦10月が「神在月」なのが諏訪です。諏訪に他所からの神様が集まるわけではありません。諏訪の神様が出雲の会議に出向かないため、諏訪には神がいらっしゃるまま。故に神在月です。なぜ諏訪の神が出雲に行かないのかについては諸説があ...神有月の出雲と諏訪

  • 竪穴式住居

    竪穴式住居というと縄文時代のイメージですが、実は都に近い畿内でも平安時代頃までの庶民の家は、竪穴式住居だったのだそうです。竪穴の深さは凍結深度によってきまるそうで、寒い地方ほど竪穴が深くなるといいます。多くの遺跡で竪穴式住居が復元されていますが、縄文の遺跡で茅葺きの竪穴式住居というのはおかしいようです。というのもカヤをどうやって切っていたか、研究者にもわからないそう。カヤは黒曜石などの石器ではとても切れない、鉄でないと切れないのです。縄文時代には鉄は普及していなかったのですから、カヤを切ることもできなかったはず。鉄のない段階では今の復元のようなキレイなカヤ葺きはあり得ないようです。カヤ葺き屋根でなかったのなら、縄文の大型竪穴式住居「ロングハウス」の屋根がどうなっていたのか気になるところです。土葺き?それとも樹皮...竪穴式住居

  • 神武天皇はなぜ南九州からやって来たとされるのですか

    橿原遺跡、纏向遺跡の出土状況から鑑みるに、神武天皇や崇神天皇が南九州から来た人物だとは私には到底思えません。唐古・鍵遺跡にしても巴形銅器が出土しているものの、縄文晩期の中部高地や飛騨に近い環状石斧が、弥生初期のものとして出土しています。どうも奈良盆地には「東」から多くの人がきた様子です。神武天皇はなぜ九州から来たと記されているのでしょうか。実在する初代天皇であると考えられている崇神天皇の祖先が、九州からきた豪族だったと伝えられていたからでしょうか。もし崇神天皇の祖先が九州からやって来ていたとするならば、神武天皇たる人物は、橿原遺跡にやって来たころにはその痕跡をわずかにしか残せないほどの弱小勢力でしかなかったと思われます。崇神天皇の宮は発見されたのですから、今後、色濃く九州の痕跡が残る遺跡が発見されないでしょうか...神武天皇はなぜ南九州からやって来たとされるのですか

  • 神武天皇はどこから来たのですか

    崇神天皇が実在する初代天皇であるなら、神武天皇から欠史8代の天皇は実在しなかったとみるべきなのでしょうか。天皇家の歴史を古くみせるために、崇神天皇の主に前半生を神武天皇として書いたのだという有力な説があります。しかし纏向遺跡の発掘が進み、纏向遺跡からは九州の土器がほとんど出ないことが判ってきた今、神武天皇と崇神天皇が同一人物とみるのは難しいように感じます。崇神天皇と神武天皇が同一人物なら、崇神天皇は南九州からやって来た人のはず。纏向遺跡の出土物から考えるとそれはなさそうです。では神武天皇は崇神天皇とは別人で、南九州から「橿原」にやって来た人なのでしょうか?畝傍山の東南麓に広がる橿原遺跡は縄文から奈良時代までの遺跡群です。諸説あるものの神武天皇が紀元前660年に即位したとするなら、神武天皇の頃に橿原に一つの勢力が...神武天皇はどこから来たのですか

  • 紫香楽宮の三角形

    日本一有名なレイラインは「太陽の道」でしょうか。北緯34度32分の線上に名だたる聖地が一直線に並んでいます。淡路島の石上神社→大鳥大社→箸墓古墳→檜原神社→長谷寺→室生寺→伊勢斎宮跡というように東西200キロ近い距離に並ぶレイラインです。こういった直線上のレイラインについては、春分、秋分、夏至、冬至の太陽の位置を観測しながら同緯度に聖地を見いだしていったのだと言われると、私のような者でもなんとなくわかったような気がします。なんとなくですよ、あくまでも。しかし、例えば「近畿の五芒星」となるともういけません。淡路島の伊弉諾神宮、熊野本宮大社、伊勢神宮内宮、福知山にある元伊勢・皇大神社、滋賀の伊吹山が大地の上に巨大な五芒星を描いているというのです。そんなことできるものなのか。口をあけてアングリです。レイラインについて...紫香楽宮の三角形

  • 住吉神の勝ち

    武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に仕えたといいます。300年生きたというのは非現実的であり、実際は数人が継いでいる「武内宿禰職」だったのでしょう。武内宿禰が数人いたならば、景行天皇に仕えた武内宿禰と神功皇后に仕えた武内宿禰が全く別の考えを持っていてもおかしくありません。私はこの頃の天皇は連合国家ヤマトの「連合の盟主」だったと考えています。景行天皇に仕えた武内宿禰は、日高見国を討ち取るように進言しています。この武内宿禰は天皇が強い政治力をもつことを良しとし、専制君主たる天皇を目指していたと推測します。天皇の専制君主制に反発したのが、九州や出雲や東海などであり、天皇やヤマトタケルはそれらのクニグニを諌めて回ったのではないでしょうか。一方、神功皇后の側に仕えた武内宿禰は、その流れに危機を感じ、天皇は力を...住吉神の勝ち

  • 神功皇后の裏切り

    第10代崇神天皇が実在する初めての天皇で、倭の五王「武」=第21代雄略天皇が現れるまでは、ヤマト政権はずっと連合国家であり、天皇は連合の盟主だったと考えています。「宋書倭国伝」には讃と珍は兄弟、興と武も父親を済とする兄弟であると書かれています。ところが、珍と済がいかなる関係にあったのかについては書かれておりません。二つの系譜は血縁関係になかった可能性があります。このことから倭の五王の頃までの天皇というのは、万世一系ではなく、連合しているクニグニの首長の持ち回り制だった可能性さえあるのではないかと、最近、私は疑っています。そんな中、第12代景行天皇からヤマトタケルを経て第14代仲哀天皇までは、血族で皇統を引き継ぎ、専制君主を目指して東奔西走していたのではないでしょうか。代が替わるごとに宮を遷す歴代遷宮が当たり前の...神功皇后の裏切り

  • オオクニヌシの幸魂 奇魂 ②

    神話の中でオオクニヌシの幸魂・奇魂は自らを「やまとの国の三輪山(御諸山)に祀れ」と指示しています。指示どおりに祀られた三輪山・大神神社の大物主神がこのオオクニヌシの幸魂・奇魂です。倭大物主櫛甕魂という名前もお持ちです。この名前の櫛甕魂も怪しい…。ひょっとしてオオモノヌシが小さな蛇となって櫛笥に入っているのも櫛=越で、越を暗示している可能性はないでしょうか?するとオオモノヌシは出雲の神と思いきや、越の神なのでしょうか?神武天皇即位前紀では、神武天皇がヤマトにやってきたとき、ヤマトに盤踞していたのは「夷」だったことが歌われています。蝦夷であるならば、出雲よりも越や関東のほうがそれらしい…。櫛甕魂の櫛は奇であり越だとすると、甕とは関東の神と考えられる天津甕星の「甕」でしょうか?天津甕星=天香香背男は関東といっても常陸...オオクニヌシの幸魂奇魂②

  • オオクニヌシの幸魂 奇魂 ①

    縄文時代の人口密度の数字を眺めていると、また妄想に捕らわれてしまいました。今回は幸魂・奇魂についてです。縄文後期の100万方kmあたりの人口(推定)は、関東が一番多く161人、中部が73人、東北65人、北陸63人、東海54人と続きます。中国地方が最も少なく7人です。推定人口16万300人のうち、14万700人が東日本、西日本はたったの1万9600人だそうです。今から約2500万年前に気候が寒冷化して急激な人口減少がおこるまでは、東日本が圧倒的に先進地だったようです。中国地方の出雲は、縄文時代にはまだ過疎地域だったことでしょう。日本書紀のオオクニヌシ(オオナムチ)に関する神話に幸魂・奇魂が登場します。神々しく海を照らしてやってきた光が「私がいなければ、あなたは国を平定できなかった。私が共に国造りをしたからこそあな...オオクニヌシの幸魂奇魂①

  • 褐鉄鉱製鉄 ③

    原始的製鉄では世界的に褐鉄鉱が使われていたのだそうです。スウェーデンやハンガリーでは泥状沼鉄による褐鉄鉱製鉄が行われていました。鉄は熔解しなくとも700度~800度で可鍛鉄が得られるらしいですから、縄文土器を焼く温度で製鉄も可能です。1870年には既にドイツの学者、ルードヴィヒ・ベッグ氏が青銅器よりも先に鉄器がつくられたという「鉄器先行説」を主張してます。もし作られていたとしても粗製鉄器は腐食しやすいため、残らないのだといいます。古代の日本においても、ベンガラの材料として高師小僧や鬼板などを日常的に熱していたのであれば、褐鉄鉱による製鉄があったとて不思議ではないと思うのです。岡山県赤磐郡の門前池遺跡は弥生中期末の遺跡です。浅いピット内の一部に焼土面があり、その側から多量の褐鉄鉱(沼鉄)が出土してます。報告書では...褐鉄鉱製鉄③

  • 豊葦原の褐鉄鉱とベンガラ

    「豊葦原の瑞穂の国」「豊葦原千五百秋瑞穂国之水穂国」記紀における日本の美称です。瑞穂はとにかく、葦原をなぜ称えるのでしょうか。葦原が「豊葦原」と称えられたことは、葦の根もとに高師小僧や鈴石などと呼ばれた褐鉄鉱ができたことと関係しているのかもしれません。葦そのものは茅葺などに使用され、根もとの褐鉄鉱はベンガラの材料となったのだと思われます。ベンガラは人類が最初に使用した顔料です。17000年前のフランス・ラスコー洞窟の赤色壁画にもベンガラが使用されていることは有名ですね。日本においても旧石器時代の石皿や石臼に付着しているといいますし、縄文早期からは赤彩土器や赤色漆などの使用例があります。9500年前の鹿児島県・上野原遺跡の土器や、6000年前の福井県・鳥浜遺跡の櫛など、ベンガラを使用した遺物が多数出土しています。...豊葦原の褐鉄鉱とベンガラ

  • 天叢雲剣と越の国

    記紀神話の中で天岩戸隠れの際に、八咫鏡と八尺瓊勾玉は作られています。八咫鏡と八尺瓊勾玉が一般名詞であるならば、瓊瓊杵尊が天照大神からもたらされた鏡と勾玉が岩戸隠れの際のものと同一であるとは限りませんが、ヤマト政権のご先祖はどうやら八咫鏡と八尺瓊勾玉を作ることができたようです。八咫鏡と同じサイズと思われる平原王墓出土の大型内行花文鏡は仿製鏡だと考える研究者が多く、このことからも八咫鏡は自らで作成可能な鏡であると推測できそうです。対して天叢雲剣はヤマタノオロチの体内から出た剣とされます。ヤマタノオロチを退治したスサノオの十握剣(天羽々斬剣)ではなく、敗者の側の剣が天皇のレガリアとなっていくのです。天叢雲剣とはそれほど別格なものなのでしょうか。スサノオの十握剣が欠けたというのですから鉄剣のように思われるのですが、江戸...天叢雲剣と越の国

  • なぜ草薙剣は固有名詞なのですか

    八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣。なぜ剣だけが固有名詞なのかが、ずっと気になっています。卑弥呼の墓かもしれない福岡は平原王墓出土の大型内行花文鏡は、直径46.5センチもある鏡です。この鏡の円周は、漢の時代の寸法で「八尺」=八咫となるため、発見当時から伊勢神宮に伝わる八咫鏡との関係が取り沙汰されてきました。具体的な数字ではなく大きいという意味で「八」が使用されたと思われてきましたが、平原王墓の鏡が出土以降、八咫は寸法と考える研究者も増えたようです。また八咫鏡は、周防国の神夏磯媛が服従の意を示すために景行天皇に差し出しています。唯一無二のものではないようです。八咫鏡というのは円周が八咫の長さになる大きな鏡を指す一般名詞だと考えられます。八尺瓊勾玉についても、岡県主・熊鰐や伊都県主・五十迹手、周防・神夏磯媛が服従に差し出し...なぜ草薙剣は固有名詞なのですか

  • 大王(おおきみ) 絶対君主と連合体の盟主

    3世紀の遺跡と考えられる奈良県の纏向遺跡からは、他の遺跡より多くの比率で外来土器が出土しています。この遺跡は実在した初めての天皇とされる崇神天皇から垂仁、景行天皇と三代にわたる都の跡だと考えられています。遺跡のあり方から初期ヤマト政権は絶対君主が統治したものではなく、各地のクニグニが連合して国家を成したものとの説が昨今では有力です。ヤマト政権の大王が絶対君主ではなく、各地域の連合体の「盟主」という存在だったのは、いつまでなのでしょうか。少なくとも、倭の五王「珍」や「済」の時代までは連合体の盟主だったように思えます。「宋書倭国伝」に425年の珍の朝貢の際「珍、又倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む」と記されています。自身が「安東将軍倭国王」の称号を賜るにあたり、何故か臣下の称号まで宋の...大王(おおきみ)絶対君主と連合体の盟主

  • 淡路島の弥生鉄器工房

    鉄器製造が北部九州に偏っていたとされることに、まず一石を投じたのが淡路島です。播磨灘を見下ろす海抜200メートルの地にある五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期の遺跡です。23の竪穴式建物のうち12棟が鉄器工房とみられ、約130点もの鉄器が出土し世間を驚かせました。およそ100年間にわたり鉄器作りをしていた様子です。ほぼ同時期、五斗長垣内遺跡から6キロほど南西に舟木遺跡が存在しています。舟木遺跡からも4棟の竪穴建物跡と刀子などの鉄器や鉄片、約60点が出土したそうです。どちらの遺跡も2世紀後半が最盛期で、3世紀には終わっていたようです。突然山の上に現れた2つの遺跡は、3世紀、大阪湾の奥に纏向遺跡ができた頃に何故か消滅しています。この2つのムラに当時貴重だった鉄器を作らせていたのは、はたして淡路島の勢力だったのでしょうか。...淡路島の弥生鉄器工房

  • 淡路島と銅鐸

    国産みの島、淡路島からは21点もの銅鐸が出土しています。淡路島の銅鐸を思うに、イザナギは鐸(さなき)の神だと感じます。松帆銅鐸は弥生時代中期前半の最古級の銅鐸と同じ特徴を持っているそうです。出雲の荒神谷と同范の銅鐸も出土しています。この銅鐸に付着した植物片の放射性炭素年代測定を実施したところ、銅鐸は紀元前4世紀から紀元前2世紀に埋納されたということがわかったと、南あわじ市の教育委員会より発表されています。松帆銅鐸の研究が進み、私には銅鐸を埋納した理由がますますわからなくなりました。銅鐸が埋納された理由は、首長霊信仰の成立によるものであると多くの研究者が発言されています。しかし松帆銅鐸は紀元「前」4世紀から紀元「前」2世紀に既に埋められたというのです。この埋納が首長霊信仰と本当に関係しているのでしょうか。しかも銅...淡路島と銅鐸

  • 国生みの天瓊矛と鐸鉾

    記紀の国生み神話において、伊弉諾尊・伊弉冉尊が下界をかき回した「天瓊矛」。「瓊」とは玉のことなので、天瓊矛とは玉で飾られた矛だと解釈されています。御統の玉が触れ合う音を「瓊音もゆらに」と表現されているように、玉が触れ合う音には霊性があると考えられていたようです。天瓊矛も一つの勾玉が飾られていたということではなく、御統のようにたくさんの玉が飾られていたことと思われます。矛を動かすことにより玉が鳴り、霊性を高めて島を生んだのでしょう。またアメノウズメは「鐸つけたる矛」を持って舞っています。長野県の小野神社の「鐸鉾」には12個の鉄鐸が吊り下げられています。アメノウズメの矛もこれと同様に鉄鐸がついていたことでしょう。どうも神事に使用する矛は何かを付けて、音を立てて使うものだったような匂いがします。伊弉諾・伊弉冉が天瓊矛...国生みの天瓊矛と鐸鉾

  • 出雲大社 雲太・和二・京三 ②

    出雲大社を建てたのはさて本当にヤマト政権側だったのでしょうか。当初、出雲大社を建てたのが、ヤマト政権を嫌って飛び出した(あるいは追い出された)出雲サイドだったら面白いのですが。まつらわぬ民、蝦夷とともに出雲のモニュメントとして、大国主神鎮魂の巨大神殿を勝手に建てていたら…と思うのです。縄文時代から越や東北では巨木柱の文化がありました。金沢市のチカモリ遺跡では直径92センチもあるクリの巨木を切り出してウッドサークルを作っています。能登半島の真脇遺跡でも同様の堅いクリの巨木によるウッドサークルが出土しています。富山県の桜町遺跡では、はるか縄文時代に既に高床式の建物が存在し、渡腮仕口などの高度な木材加工技術を使いこなしていたことが判明しています。著名な青森の三内丸山遺跡でも巨木の掘立柱建物が再現されていますね。この巨...出雲大社雲太・和二・京三②

  • 出雲大社 雲太・和二・京三 ①

    雲太・和二・京三10世紀の公家の子弟たちの副読本「口遊」にある、巨大建築のベスト3です。出雲大社が太郎で一番、大和の大仏殿が二番、京都御所が三番目に大きいという意味です。当時の奈良・東大寺大仏殿は今と同じ約45メートルだったそうです。出雲大社はそれよりも大きく、上古には32丈、中古には16丈(約48メートル)あったと伝えられています。そんな高い建築物なんて伝説に過ぎないと思われてきましたが、2000年に出雲大社の境内から、直径1.35メートルほどのスギの大木を鉄の輪で3本束ね、直径約3メートルの柱とした跡が発見されました。出雲大社に伝わる本殿の平面設計図「金輪御造営差図」に描かれた9本の柱のうち、最も重要な「心の御柱」「宇豆柱」「側柱」が図面通りに発掘されたのです。大手ゼネコン大林組が古代出雲大社復元プロジェク...出雲大社雲太・和二・京三①

  • 久延昆古命 ②

    クエヒコはヤマタノオロチ。名前を言い換えていくとそうなります。クエヒコ→山田のソホド→山田の案山子→山田の蛇→ヤマタノオロチ古事記ではヤマタノオロチは「越(高志)」だとされます。そして久延昆古命を祭神とする神社が越にもちゃんとあります。能登半島にある延喜式内の古社、久氐比古(くてひこ)神社です。「くて」は地滑りを表す語であるから「くてひこ」は石動(いするぎ)と関係する神との説もありますが、久氐比古神社には天目一箇命や火産雷神も祀られていることから、久氐比古は製鉄神と考えられます。たたら製鉄の鍛冶師は片目で炉を見続けるため片目を失明してしまうことから、天目一箇命は製鉄の神として信仰されます。この神が一時、久氐比古神社の主祭神でした。また鍛冶師たちは片足でたたらを踏み続けるため、片足を痛めてしまう、一本足の案山子は...久延昆古命②

  • 久延昆古命 ①

    三輪山をご神体とする大和国一之宮大神神社の末社に、久延彦(くえひこ)神社があります。御祭神は久延昆古命(くえひこのみこと)。社殿前の展望台は奈良盆地、大和三山が眺められるビュースポットです。古事記に「大国主命の国譲りの際、少彦名命の名前を誰も知らなかったが、久延昆古命だけはその神が少彦名命であることを知っており大国主に教えた」というエピソードが記されています。久延昆古命は「足はいかねども天下のことをことごとく知る神」と記されており、知恵の神として信仰されています。また「謂はゆる久延昆古は今者(いま)に山田の曾富騰(そほど)というぞ」とあります。「そほど」とは案山子のこと。久延昆古命は山田の案山子だというのです。久延昆古とは崩彦で、風雨にさらされ朽ち果てゆく案山子のことだと解釈されています。古事記は何故、久延昆古...久延昆古命①

  • 崇神天皇と纏向遺跡 ②

    纏向遺跡から考えるに崇神天皇というのは共立された実権の薄い、どちらかといえば祭祀王的な天皇であると想像されます。祭祀王のはずなのに、崇神天皇は祭祀を次々と手放しています。大物主神は神の指示どおり、子孫の大田田根子を探し出して祀らせます。倭大国魂神も、倭大国魂神の子孫である市磯長尾市に祀らせます。天照大神も祀れません。皇女の豊鋤入姫に託して笠縫邑に祀らせます。出雲の神・大物主神や、大和の地主神と考えられる倭大国魂神を祀れないのはともかく、八咫鏡・天照大神を祀れないというのはどういうことなのでしょうか。卑弥呼の鬼道の時代ですから、神は巫女が祀るものだったからなのでしょうか。大物主神も倭大国魂神もそれぞれ子孫が祀っています。崇神天皇は、天照大神とは関係のない氏族だということなのでしょうか。では崇神天皇は一体どこの何者...崇神天皇と纏向遺跡②

  • 崇神天皇と纏向遺跡 ①

    第10代崇神天皇は、実在する初めての天皇と思われます。彼の時代、日本のどこかに卑弥呼女王の都する邪馬台国がありました。崇神天皇の御代に疫病が流行り、人口が半分以下に激減したことが日本書紀に記されています。崇神天皇の都・纏向遺跡には広い範囲から大勢の人間が集まった様子ですから、感染症が流行るのも、うなずけますね。でも昔の話ですから、疫病は大物主神の祟りだと考えられました。大物主は、大国主の荒魂ではなく和魂。和魂に祟られるって、崇神天皇は一体何をしでかしたというのでしょう⁉崇神天皇の大叔母とされるモモソヒメは大物主神との神婚に破れ、事故死なのか自死なのか亡くなっているし、本当に一体何があったというのでしょう?倭成す大物主…と崇神天皇は歌に詠みますし、大物主のお告げを夢見もしています。両者の間に交流がなかったはずはあ...崇神天皇と纏向遺跡①

  • 倭成す大物主神

    奈良・三輪山に祀られる大物主神は、出雲の大貴己神の和魂と言われています。ニギハヤヒ神や、あるいは事代主命と同一神とも言われます。大物主神は神婚譚を残しています。三島溝咋の女・勢夜陀多良比売は見目麗しい女性でした。その美しい姫に見惚れた大物主神は、丹塗矢に化けて用便中の姫のホトを突きます。姫がその矢を持ち帰り、床の辺に置いたところ、忽ち麗しい壮夫になり姫と結ばれました。二人の間に生まれた子が神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫です。卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫の元にも大物主神は通います。夜だけにしか通ってこない男に姫は「朝までいて。姿を見たい」とお願いします。すると男は「明日の朝、あなたの櫛笥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」と言います。翌朝、男=大物主神は櫛笥の中に美しい小蛇の姿で現れます。倭迹迹日百襲姫...倭成す大物主神

  • 物部がつくり給ふた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命

    趣味は何ですかと聞かれたなら当たり障りなく読書ですと答えますが、本当のところ、趣味は古代妄想です。初めて「纏向遺跡は各地の首長層の寄り合いによって造られた都市」らしいと知ったときも、ある妄想に取りつかれました。私の妄想は、首長層が連合して卑弥呼を担ぎ出し、邪馬台国を…という方向へは向かいませんでした。「ニギハヤヒ」は各地の神を寄せ集めた神なのではないかという妄想です。ははぁん、前方後円墳を各地の墓制を寄せ集めて創り出したように、各地の神を集めてニギハヤヒを造ったな、と。だから天照国照彦天火明櫛玉饒速日命などという、いろいろな神を寄せ集めたような神名を持っておられるに違いないと思ったのです。一説のとおり、ニギハヤヒを祖とする「物部」は当初は血族ではなく、各地から集まったモノ(霊威)を祀る職能者たちの総称だったので...物部がつくり給ふた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命

  • 黥面文身と纏向遺跡

    魏志倭人伝には「男子無大小皆黥面文身」という一文があります。この大小については大人も子供もと訳されることもありますが、通過儀礼として入れ墨が施されることを考えると「身分の差なく男は皆、顔と体に入れ墨をしている」と訳すほうが自然かと考えます。この描写が魏志倭人伝にあるということは、北部九州において当時、黥面文身の習慣があったことは間違いありません。北部九州の宗像は「胸形」や「胸肩」と表記されることもあり、胸などに特徴的な入れ墨を入れていたから宗像という名となったと言われます。(私は宗像はヌナカタだと思っていますが)対して畿内からは黥面絵画を施された土偶がほぼ出土しないことから、2~4世紀の近畿では黥面の習慣はなかったと考えられています。日本書記においても、初代神武天皇の皇后となる畿内出身と思われる伊須気余理比売が...黥面文身と纏向遺跡

  • 蘇我氏のレイライン? 蘇我氏は出雲の出身ですか?

    私は住吉神に興味を持っておりますので、地図で神戸・本住吉神社と、大阪・住吉大社の位置関係を見ていました。すると気づいたのです。本住吉神社と住吉大社を結んだ延長線上に、応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳があるではないですか。応神天皇は一説に住吉神の子であると疑われています。これは偶然ではないかもと思い、そのまた延長上を確認すると、飛鳥に行き着くことがわかりました。飛鳥…。蘇我氏⁉応神天皇の親かもしれない住吉神は、武内宿禰と同一視されています。その武内宿禰は、蘇我氏の祖先とされる人物です。蘇我氏の4代の墓は明日香にあると考えられています。蘇我馬子の墓であることが有力視されている石舞台古墳の下層からは、古い時代の古墳が発見されています。つまり古い古墳を破壊して、何故かわざわざその場所に石舞台古墳は築造されています。石...蘇我氏のレイライン?蘇我氏は出雲の出身ですか?

  • 信越を邪馬台国に比定してみる②

    どうも日本書紀は(というか藤原氏はでしょうか)蘇我氏や尾張氏の実績を消してしまいたかったようです。となると日本書紀に邪馬台国が記されていないのも、蘇我氏や尾張氏の関係かと勘繰りたくなります。蘇我氏は曽我遺跡において玉造りを一手に担っていたと考えられています。曽我遺跡に埋蔵されている石の数は億、勾玉・管玉完成品は1300万個という膨大な量です。玉素材には翡翠もたくさん含まれています。蘇我氏の出自は確として判明していませんが、玉造りを一手に握り、継体天皇を支えた一族ですので越の国と関係がある氏族に違いありません。日本書紀が消したかった蘇我氏も尾張氏も、越の国の関係者だと思われます。越の邪馬台国が蘇我氏や尾張氏と関係してくるから、邪馬台国を日本書紀に載せなかったのでは。八幡平のインパクトには負けますが、新潟には「胎内...信越を邪馬台国に比定してみる②

  • 邪馬台国はどこですか? 信越を邪馬台国に比定してみる①

    「邪馬台国はどこですか?」鯨統一郎氏の小説を読んだときは、正に目から鱗が落ちました。それまで邪馬台国は九州か、大和なのか一体どちらなのだろうと考えていました。そのどちらでもない選択肢があるなんて!私は日本書紀に邪馬台国や卑弥呼の記載がないのは、邪馬台国たる証拠の品「親魏倭王」の印をヤマト政権が手に入れられなかったからではないかと疑っています。証拠の印が手元にありさえすれば、たとえヤマトが邪馬台国でなかろうとも邪馬台国だと主張しそうです、ヤマト政権は。邪馬台国が九州からヤマトへ東遷していたり、ヤマト政権が邪馬台国を侵略支配するにいたっていたりすると、印はヤマト政権が所持していたはず。となると、ヤマト政権の支配下になかった地方に邪馬台国はあったのかも、と思うのです。邪馬台国東北説、非常に魅力的です。邪馬台国は解釈次...邪馬台国はどこですか?信越を邪馬台国に比定してみる①

  • 邪馬台国を考える 邪馬台国は纏向ですか②

    もし邪馬台国が纏向にあったとするなら、狗奴国は東海だとは考えられません。纏向遺跡から出土する外来土器の半数弱を東海の土器が占めています。東海は纏向遺跡誕生に深く関わっていたことでしょう。敵対勢力ではあり得ません。すると纏向が邪馬台国なら狗奴国は関東でしょうか。纏向を邪馬台国と考えると、九州から東海までの広域での連合国家が卑弥呼の時代に既に誕生していたことになります。国内だけではありません。纏向遺跡からは、ベニバナやバジルの花粉が出土しています。日本には自生しない植物なので、染織など当時の最新技術を持つ渡来人とともに伝来したと見られています。正史たる日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことは書かれていません。これはヤマト政権の系譜に邪馬台国や卑弥呼は存在しないということなのでしょうか。倭の五王のことも日本書紀には書かれて...邪馬台国を考える邪馬台国は纏向ですか②

  • 邪馬台国を考える 邪馬台国は纏向ですか①

    2世紀の終わりなのか、はたまた3世紀の初め頃なのか、奈良の三輪山の麓に纏向遺跡が突然誕生します。最大をとれば東西2キロ、南北2キロと後の時代の藤原宮や平城京と遜色ない規模です。他地域からの搬入土器の出土比率が15%前後あり、その範囲は九州から関東まで広範囲にわたります。農耕具がほとんど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多いなど、他の遺跡とは様子が異なっており、政治・宗教に特化された列島最初の「都市」を作ったのが纏向遺跡だと言われています。纏向遺跡のもっとも重要な要素は、前方後円墳が全国に先駆けて造られたことでしょう。各地の墓制を取り入れ発展させたのが前方後円墳だとされ「ヤマト王権」のシンボルとなっています。一番古い、いわゆる纏向型前方後円墳でさえ北部九州から東京湾岸まで伝わっていると言われます。纏向のものがも...邪馬台国を考える邪馬台国は纏向ですか①

  • 邪馬台国を考える 纏向に向かってみる②

    仮に投馬国を吉備と比定して吉備から水行十日、陸行1月でたどり着く地はどこなのか、これがわかりません。しかし奈良ではなかろうと思うのです。水行十日で大阪湾まで行けたとしましょう。そこから奈良へ陸行1カ月?使節団は不彌国か伊都国かまでしか行っていないと考えますので、使節団はゆっくり進むから短い距離でも1カ月かかったのだ等の意見は受け入れられません。北部九州の現地人が水行十日、陸行1月と説明したのでしょうから、現地倭人が行き来をする場合の日数だと考えます。投馬国まで水行し、投馬国から水行十日した後にわざわざ舟をおりて陸行したのだとすると、邪馬台国は水行では近くまで行けない内陸部だと思われます。当時の奈良を内陸部といえるかどうかは別としても、奈良では近すぎます。因みに東大阪市の日下から奈良・纏向までを地図アプリで調べて...邪馬台国を考える纏向に向かってみる②

  • 邪馬台国を考える 纏向に向かってみる①

    邪馬台国の所在地は周知のとおり主に九州説と畿内説に分かれます。中でも近年、畿内・纏向説はもうここで決まりかぐらいの勢いです。しかし、魏志倭人伝の記述に沿うならば、纏向にたどり着くのはなかなか困難です。当時の魏の人々は日本列島を南北に広がると認識していたとか、東と南の字は似ているので書き写し間違えたとかの説をとり、まずは「南」へ向かうと記された方向を「東」に変えないと始まりません。さて北部九州を出発するにあたり、最終地の不彌国はどこにしましょうか。ここは思い切って、福岡平野を無視してしまいましょう。魏の使者の上陸地は神湊とします。・北九州市に陸行し、名門大洋フェリーよろしく大阪南港方面へ向かってもらう・直方、田川を抜け行橋方面に陸行し、瀬戸内海を進む・高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」の国々を行き、その先の国東半島か...邪馬台国を考える纏向に向かってみる①

  • 邪馬台国を考える 邪馬台国は九州ですか②

    私は魏の使者は卑弥呼に会わなかったと考えています。そして卑弥呼に会わなかった理由は「遠かったから」が一番しっくりくると感じています。初夏に倭国にやって来て、遠い邪馬台国まで行っていたなら冬になってしまう。海が荒れて帰れなくなってしまうから行かなかったのだと言われるのが、私には一番納得がいくのです。巫覡王たる卑弥呼はともかく政務を取り仕切ったであろう「男弟」、魏の使者双方とも、会えるものなら会いたかったのではないでしょうか。初夏に来訪し、冬が来る前に帰ることができる距離に「私の」邪馬台国はありません。奴国や不彌国の副官が卑奴母離(ひなもり)といい、一大率が中国の地方行政官である刺史に例えられることも気になるところです。もちろん、ヒナが現在の雛=都から離れた土地を意味するとは限りません。最近の考古学的見地から、当時...邪馬台国を考える邪馬台国は九州ですか②

  • 邪馬台国を考える 邪馬台国は九州ですか①

    魏志倭人伝における一里がどれくらいの距離なのか、私にはわかりません。そこで今回は乱暴なやり方で、末慮国から伊都国までが500里なのでその3倍程度(帯方郡から伊都国までの距離を引いた残りの1500里)南へ行った場所に邪馬台国を探してみたいと思います。どうも佐賀平野や筑後平野ではおさまりきらず、熊本は菊池平野あたりまでたどり着けそうです。糸島・福岡平野をフル無視して、唐津から佐賀平野を進んだとしても、熊本へたどり着きそうです。免田式土器の出土分布からすれば、佐賀平野ルートのほうが自然でしょうか。通説では菊池は狗古智卑狗が「菊池彦」と理解され、狗奴国に比定されることが多いですね。菊池が狗奴国とされるのは、多くの場合、佐賀や筑後などに邪馬台国を比定したときに「たまたま」南に狗古智卑狗に似かよった地名があったからという理...邪馬台国を考える邪馬台国は九州ですか①

  • 邪馬台国を考える 帯方郡から水行してみる

    「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」この文章は大きな難関です。文章そのままに向かえば海のかなた、どこへも着きません。この「水行二十日」「水行十日陸行一月」は不彌国や伊都国からではなく、帯方郡からだという説をとったとしましょう。帯方郡はソウル付近であったとする学者の方が多いようですが、比定地は確定はしていません。まずは投馬国・・・文面をそのまま考えるに投馬国は津に面していて、帯方郡から水行のみで行くことができる場所となります。水行二十日のうち三日間は、狗邪韓国・対馬・壱岐・末慮国間の渡海に費やされたことでしょう。帯方郡から狗邪韓国の「水行七〇〇〇余里」に7日間を使ったとしたら、投馬国は残りの水行10日で行くことができる場所のはずです。このヒントだけでは「投馬国は内陸部ではなさそうだぞ...邪馬台国を考える帯方郡から水行してみる

  • 邪馬台国を考える 伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる②

    須玖岡本遺跡は南北2キロ、東西1キロの大きさがあり、おびただしい量の遺物が出土し、鏡・青銅製武器・勾玉の三種の神器様のセットも出土しています。青銅器鋳造工房跡も見つかっています。またガラスの璧が出土しているのは、三雲南小路遺跡とこちらの2例のみのようです。奴国の丘歴史資料館・奴国の丘歴史公園として整備されているこの地が、いにしえの奴国なのでしょうか。奴国がどこかについて考えるにあたっては、志賀島で見つかった金印について気になるところですが、偽印説もあり今回は棚上げしておきます。もし奴国が春日市ならば、東へ百里の不彌国は太宰府あたりになるのでしょうか。不彌国の有力候補地である宇美だと方向が違ってしまいます。しかし、太宰府のような7世紀後半に地方行政機関が置かれる要所が不彌国で良いのか、という思いも…。壱岐から伊都...邪馬台国を考える伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる②

  • 邪馬台国を考える 伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる①

    私の邪馬台国への道程は、末慮国、伊都国の段階で行き詰ってしまったのですが、もうちょっと先に進みたいので強引に話を進めてみます。末慮国の津である呼子に上陸し、末慮国の市街地である唐津に東南に向かって歩き始めましょうか。これなら一旦は東南に進めます。(呼子だと壱岐から千余里には近すぎるぞという心の声は聞こえなかったこととします)東南陸行して糸島=伊都国と仮定し、ひとまず進んでいくこととします。伊都国は不思議な国です。たった千余戸しかないのに、代々王がいたと記されています。帯方郡からやってきた使者が常に滞在するところであり、国家間の公文書や贈り物を伊都国の津で点検し、中国の刺史のような監察官である「一大率」が派遣されていました。邪馬台国でさえ悪字が使用されているのに、伊都は良い字で記されています。どう考えても北部九州...邪馬台国を考える伊都国から奴国・不彌国へ向かってみる①

  • 邪馬台国を考える 末慮国・伊都国へたどり着けません②

    平原遺跡1号墓は伊都国王墓と考えられている弥生終末期の方形周溝墓です。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数は弥生時代としては日本一で、大量の朱も使用されています。副葬品の中に武器がなく装身具が多いこと、中国で女性が身に着ける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることから女性の墓と目されており、卑弥呼の墓であると考える人もたくさんいらっしゃいます。佐賀方面に伊都国から先を比定する場合、平原に存在していた国が邪馬台国とは関係のない国だったと考えるのでしょうか。糸島平野・福岡平野周辺に、当時の日本列島の中でも先進的な国々が形成されていたことは間違いありません。鏡を副葬品の主体とするのは、弥生時代では三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡だけです。邪馬台国を考える上で、古代遺跡のメッカといえる糸島平野・福岡平野を私...邪馬台国を考える末慮国・伊都国へたどり着けません②

  • 邪馬台国を考える 末慮国・伊都国へたどり着けません①

    日本古代史最大であり永遠の謎である邪馬台国論争。邪馬台国の所在地をめぐり、学者の方からアマチュアに至るまでまさに議論百出です。私も古代史ファンとして邪馬台国関連の書籍を長年に亘って読み続けてきました。そろそろ自分なりの邪馬台国を見つけてみたいと思うのですが、これがまた一向に判りません。偉い学者の方々が一生をかけて研究されても決定打が出ていないのですから、私に判らないのは当然といえば当然なのですが、いい加減「私は邪馬台国〇〇説を支持します」と言ってみたいのです。でも現時点では本当に私にはどこだかわかりません。何がどうわからないのか整理するために、わからない点を思いつくままに綴ってみようかと思います。対馬国、壱岐国までは問題ありません。末慮国から既にわからないのです。末慮国は魏志倭人伝で対馬・壱岐を経由して最初に本...邪馬台国を考える末慮国・伊都国へたどり着けません①

  • 棄てられた銅鐸神②

    さて棄てられた銅鐸神はどの神様なのでしょう。まずは出雲国風土記において「御財を積んでおいた所」と記されている場所から銅鐸が出土した、大国主が考えられます。鉄鐸を作ったとして先代旧事本紀や古語拾遺に名を残しているのが天目一箇命です。この神と同一視されている天御影命の祀られる御上神社のほど近く、野洲市の大岩山からは24個もの銅鐸が出土し、日本最大の銅鐸も含まれています。天御影も銅鐸神でしょうか。また雷神であり稲作の神であるアジスキタカヒコネも銅鐸神だと思われます。雷神=鳴神であることと、銅鐸の農耕絵画から「スキ=鋤」の名を持つアジスキタカヒコネは銅鐸神と解釈されています。イザナギを「サナキ」の神(鉄鐸)と仮定して、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴神をそれぞれ鏡、勾玉、剣の神と仮定するならば、棄てられた銅鐸神は「...棄てられた銅鐸神②

  • 棄てられた銅鐸神①

    銅鐸がどのように使われてきたのか記紀には何も記されていません。使用方法のみならず銅鐸そのものの存在が記されていません。加茂岩倉遺跡出土の銅鐸のうちには、たった2ミリの厚さのものが含まれているそうです。これは現代の技術をもってしても再現できない、ロストテクノロジーだといいます。銅鐸を当時国産していたのは確かなことなので、作っていた工人の青銅器職人としての腕前は相当なものだったと考えられます。鏡についても仿製鏡=質が悪いとは一概には言えなかったと思います。銅鐸は広い地域で一斉に姿を消します。「鰭」を上下にして銅鐸を横たえ、多数を一度に埋納する際には「入れ子」にして…と各地で同じやり方で埋納されています。何故埋められたかについては諸説ありますが、流行りが終わり廃れて消えていく感じではありません。意識的にキッパリと手放...棄てられた銅鐸神①

  • 銅鐸と銅鏡

    銅鐸と銅鏡、見た目にどちらが凄いと思うかと問われれば、悩むまでもなく銅鐸と思うのは私だけでしょうか。故に銅鐸から銅鏡に信仰の対象が変わったなどと、さらりと言われれば違和感を覚えてしまいます。淡路島の松帆銅鐸の発掘により、初期銅鐸は紐で吊りさげて鳴らしていたことが判明しました。銅鐸はキラキラ輝く上に鳴り響きます。「見る銅鐸」の大きさは鏡とは比べものになりません。そんな銅鐸の金属光沢、音響効果、形状・大きさを知るものにとって銅鏡はどれほど魅力的に映ったか疑問に思うのです。銅鐸同様姿を消した銅矛にしても、吉野ケ里遺跡周辺や荒神谷遺跡などから出る綾杉文状に模様をつけた銅矛は、太陽に直接光を当てたとき異常な反射をするといいます。日本列島でしか出土しない三角縁神獣鏡は、3Dプリンターを使い精巧なレプリカを作成したところ、反...銅鐸と銅鏡

  • 褐鉄鉱製鉄②

    長浜浩明氏によると、豊葦原とは貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原であり、豊葦原から生まれるスズより鉄を得、その鉄で農具を作り開墾して瑞穂の国を作るこれが「豊葦原の瑞穂の国」だといいます。原始と変わらないような縄文時代を学校で教わった世代ですが、褐鉄鉱による鉄器を使い、陸稲のみならず水稲栽培でさえも行っていたのが本当の縄文時代であったなら…と想像するとワクワクしてきます。愛知県指定天然記念物の褐鉄鉱を高師小僧(たかしこぞう)といいます。豊橋市の高師が原で多く採れるのでそう名付けられたそうです。この「高師」は越の訛りではないでしょうか。古代の信越間は関わりが深かったと考えています。古代信越では褐鉄鉱製鉄が盛んに行われていたのではないかと思います。ところで出雲国造神賀詞に登場する「賀夜奈流美(加夜奈留美)」(カヤナルミ)。...褐鉄鉱製鉄②

  • 褐鉄鉱製鉄①

    真弓常忠氏の著作「古代の鉄と神々」によると、褐鉄鉱を原料とした製鉄が弥生時代に始まったといいます。みすずかるは信濃にかかる枕詞です。「みすず」とは鉄の原料であるすずの美称であり、すずとは湿地帯に生える葦や茅などの根に付着した褐鉄鉱のことです。根に付着した褐鉄鉱が成長し、中が空洞になると同時に中に小さな塊が残り振ると音がするようになる、これが「すず」であり、このすずがたくさん根に付着した様子が「すずなり」の語源だそうです。諏訪湖は鉄分含有率が高く、諏訪湖畔では褐鉄鉱がたくさん産出されるようです。すずがたくさん採れる地であるから信濃の枕詞が「みすずかる」になったといいます。この葦の根などに付着した褐鉄鉱、かならず鈴の形状になるわけではありません。形状が筒状のものであれば鉄鐸とそっくりです。諏訪大社のシンボルの鉄鐸は...褐鉄鉱製鉄①

  • 小豆島は塩土島②

    小豆島には応神伝説が残されています。応神紀・二十二年四月条に、応神天皇は淡路島から吉備そして小豆島を周遊したことが記されています。現在も小豆島には応神天皇に因んだ八幡宮が5社あります。その一つ、富岡八幡神社は応神天皇が登った「塩土山」と呼ばれた小高い丘の上に建てられています。応神天皇が来島の際「嶋景色あそぶ魚鳥いつらへの海にかげある塩土の山」という歌を詠まれたという伝承が残っているそうです。小豆島がショウドシマと呼ばれるようになったのは、鎌倉中期以降だとされますが、住吉神の子とされる応神天皇の巡幸地に「塩土山」があることは興味深いことです。住吉神は塩土老翁(しおつちのおじ)と同一視されています。日本書紀において山幸彦に海神の宮へ行く道を教え、神武天皇には東に美しい地があることを教えた神が塩土老翁です。同様に神武...小豆島は塩土島②

  • 小豆島は塩土島①

    瀬戸内海に浮かぶ小豆島は古代には「あずきしま」と呼ばれたといいます。「あずき」といえば、出雲lの「阿須伎(あずき)神社」にアジスキタカヒコネは祀られています。出雲国風土記には三十九社もの阿須伎神社が記されています。アジスキが訛りアズキになるのであれば、妄想は膨らみます。小豆島はアジスキタカヒコネと関係しているのではないでしょうか。しかし現在の小豆島にはアジスキタカヒコネとの関連は見当たりません。小豆島の阿豆枳(あずき)神社は、島の祖神・大野手姫を祀っています。古事記の国産みの段で、伊邪那岐命と伊邪那美命により「小豆島」(あずきしま)、亦の名を「大野手比売」(おおのてひめ)が生まれたと記述されています。大野手姫とは「大鐸姫」(おおぬてひめ)でしょう。島の中には大鐸という地域もあります。小豆島は大きな鐸を司る姫神が...小豆島は塩土島①

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