古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。
第10代崇神天皇は、実在する初めての天皇と思われます。彼の時代、日本のどこかに卑弥呼女王の都する邪馬台国がありました。崇神天皇の御代に疫病が流行り、人口が半分以下に激減したことが日本書紀に記されています。崇神天皇の都・纏向遺跡には広い範囲から大勢の人間が集まった様子ですから、感染症が流行るのも、うなずけますね。でも昔の話ですから、疫病は大物主神の祟りだと考えられました。大物主は、大国主の荒魂ではなく和魂。和魂に祟られるって、崇神天皇は一体何をしでかしたというのでしょう⁉崇神天皇の大叔母とされるモモソヒメは大物主神との神婚に破れ、事故死なのか自死なのか亡くなっているし、本当に一体何があったというのでしょう?倭成す大物主…と崇神天皇は歌に詠みますし、大物主のお告げを夢見もしています。両者の間に交流がなかったはずはあ...崇神天皇と纏向遺跡①
奈良・三輪山に祀られる大物主神は、出雲の大貴己神の和魂と言われています。ニギハヤヒ神や、あるいは事代主命と同一神とも言われます。大物主神は神婚譚を残しています。三島溝咋の女・勢夜陀多良比売は見目麗しい女性でした。その美しい姫に見惚れた大物主神は、丹塗矢に化けて用便中の姫のホトを突きます。姫がその矢を持ち帰り、床の辺に置いたところ、忽ち麗しい壮夫になり姫と結ばれました。二人の間に生まれた子が神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫です。卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫の元にも大物主神は通います。夜だけにしか通ってこない男に姫は「朝までいて。姿を見たい」とお願いします。すると男は「明日の朝、あなたの櫛笥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」と言います。翌朝、男=大物主神は櫛笥の中に美しい小蛇の姿で現れます。倭迹迹日百襲姫...倭成す大物主神
趣味は何ですかと聞かれたなら当たり障りなく読書ですと答えますが、本当のところ、趣味は古代妄想です。初めて「纏向遺跡は各地の首長層の寄り合いによって造られた都市」らしいと知ったときも、ある妄想に取りつかれました。私の妄想は、首長層が連合して卑弥呼を担ぎ出し、邪馬台国を…という方向へは向かいませんでした。「ニギハヤヒ」は各地の神を寄せ集めた神なのではないかという妄想です。ははぁん、前方後円墳を各地の墓制を寄せ集めて創り出したように、各地の神を集めてニギハヤヒを造ったな、と。だから天照国照彦天火明櫛玉饒速日命などという、いろいろな神を寄せ集めたような神名を持っておられるに違いないと思ったのです。一説のとおり、ニギハヤヒを祖とする「物部」は当初は血族ではなく、各地から集まったモノ(霊威)を祀る職能者たちの総称だったので...物部がつくり給ふた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
魏志倭人伝には「男子無大小皆黥面文身」という一文があります。この大小については大人も子供もと訳されることもありますが、通過儀礼として入れ墨が施されることを考えると「身分の差なく男は皆、顔と体に入れ墨をしている」と訳すほうが自然かと考えます。この描写が魏志倭人伝にあるということは、北部九州において当時、黥面文身の習慣があったことは間違いありません。北部九州の宗像は「胸形」や「胸肩」と表記されることもあり、胸などに特徴的な入れ墨を入れていたから宗像という名となったと言われます。(私は宗像はヌナカタだと思っていますが)対して畿内からは黥面絵画を施された土偶がほぼ出土しないことから、2~4世紀の近畿では黥面の習慣はなかったと考えられています。日本書記においても、初代神武天皇の皇后となる畿内出身と思われる伊須気余理比売が...黥面文身と纏向遺跡
私は住吉神に興味を持っておりますので、地図で神戸・本住吉神社と、大阪・住吉大社の位置関係を見ていました。すると気づいたのです。本住吉神社と住吉大社を結んだ延長線上に、応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳があるではないですか。応神天皇は一説に住吉神の子であると疑われています。これは偶然ではないかもと思い、そのまた延長上を確認すると、飛鳥に行き着くことがわかりました。飛鳥…。蘇我氏⁉応神天皇の親かもしれない住吉神は、武内宿禰と同一視されています。その武内宿禰は、蘇我氏の祖先とされる人物です。蘇我氏の4代の墓は明日香にあると考えられています。蘇我馬子の墓であることが有力視されている石舞台古墳の下層からは、古い時代の古墳が発見されています。つまり古い古墳を破壊して、何故かわざわざその場所に石舞台古墳は築造されています。石...蘇我氏のレイライン?蘇我氏は出雲の出身ですか?
どうも日本書紀は(というか藤原氏はでしょうか)蘇我氏や尾張氏の実績を消してしまいたかったようです。となると日本書紀に邪馬台国が記されていないのも、蘇我氏や尾張氏の関係かと勘繰りたくなります。蘇我氏は曽我遺跡において玉造りを一手に担っていたと考えられています。曽我遺跡に埋蔵されている石の数は億、勾玉・管玉完成品は1300万個という膨大な量です。玉素材には翡翠もたくさん含まれています。蘇我氏の出自は確として判明していませんが、玉造りを一手に握り、継体天皇を支えた一族ですので越の国と関係がある氏族に違いありません。日本書紀が消したかった蘇我氏も尾張氏も、越の国の関係者だと思われます。越の邪馬台国が蘇我氏や尾張氏と関係してくるから、邪馬台国を日本書紀に載せなかったのでは。八幡平のインパクトには負けますが、新潟には「胎内...信越を邪馬台国に比定してみる②
「邪馬台国はどこですか?」鯨統一郎氏の小説を読んだときは、正に目から鱗が落ちました。それまで邪馬台国は九州か、大和なのか一体どちらなのだろうと考えていました。そのどちらでもない選択肢があるなんて!私は日本書紀に邪馬台国や卑弥呼の記載がないのは、邪馬台国たる証拠の品「親魏倭王」の印をヤマト政権が手に入れられなかったからではないかと疑っています。証拠の印が手元にありさえすれば、たとえヤマトが邪馬台国でなかろうとも邪馬台国だと主張しそうです、ヤマト政権は。邪馬台国が九州からヤマトへ東遷していたり、ヤマト政権が邪馬台国を侵略支配するにいたっていたりすると、印はヤマト政権が所持していたはず。となると、ヤマト政権の支配下になかった地方に邪馬台国はあったのかも、と思うのです。邪馬台国東北説、非常に魅力的です。邪馬台国は解釈次...邪馬台国はどこですか?信越を邪馬台国に比定してみる①
もし邪馬台国が纏向にあったとするなら、狗奴国は東海だとは考えられません。纏向遺跡から出土する外来土器の半数弱を東海の土器が占めています。東海は纏向遺跡誕生に深く関わっていたことでしょう。敵対勢力ではあり得ません。すると纏向が邪馬台国なら狗奴国は関東でしょうか。纏向を邪馬台国と考えると、九州から東海までの広域での連合国家が卑弥呼の時代に既に誕生していたことになります。国内だけではありません。纏向遺跡からは、ベニバナやバジルの花粉が出土しています。日本には自生しない植物なので、染織など当時の最新技術を持つ渡来人とともに伝来したと見られています。正史たる日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことは書かれていません。これはヤマト政権の系譜に邪馬台国や卑弥呼は存在しないということなのでしょうか。倭の五王のことも日本書紀には書かれて...邪馬台国を考える邪馬台国は纏向ですか②
2世紀の終わりなのか、はたまた3世紀の初め頃なのか、奈良の三輪山の麓に纏向遺跡が突然誕生します。最大をとれば東西2キロ、南北2キロと後の時代の藤原宮や平城京と遜色ない規模です。他地域からの搬入土器の出土比率が15%前後あり、その範囲は九州から関東まで広範囲にわたります。農耕具がほとんど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多いなど、他の遺跡とは様子が異なっており、政治・宗教に特化された列島最初の「都市」を作ったのが纏向遺跡だと言われています。纏向遺跡のもっとも重要な要素は、前方後円墳が全国に先駆けて造られたことでしょう。各地の墓制を取り入れ発展させたのが前方後円墳だとされ「ヤマト王権」のシンボルとなっています。一番古い、いわゆる纏向型前方後円墳でさえ北部九州から東京湾岸まで伝わっていると言われます。纏向のものがも...邪馬台国を考える邪馬台国は纏向ですか①
仮に投馬国を吉備と比定して吉備から水行十日、陸行1月でたどり着く地はどこなのか、これがわかりません。しかし奈良ではなかろうと思うのです。水行十日で大阪湾まで行けたとしましょう。そこから奈良へ陸行1カ月?使節団は不彌国か伊都国かまでしか行っていないと考えますので、使節団はゆっくり進むから短い距離でも1カ月かかったのだ等の意見は受け入れられません。北部九州の現地人が水行十日、陸行1月と説明したのでしょうから、現地倭人が行き来をする場合の日数だと考えます。投馬国まで水行し、投馬国から水行十日した後にわざわざ舟をおりて陸行したのだとすると、邪馬台国は水行では近くまで行けない内陸部だと思われます。当時の奈良を内陸部といえるかどうかは別としても、奈良では近すぎます。因みに東大阪市の日下から奈良・纏向までを地図アプリで調べて...邪馬台国を考える纏向に向かってみる②
邪馬台国の所在地は周知のとおり主に九州説と畿内説に分かれます。中でも近年、畿内・纏向説はもうここで決まりかぐらいの勢いです。しかし、魏志倭人伝の記述に沿うならば、纏向にたどり着くのはなかなか困難です。当時の魏の人々は日本列島を南北に広がると認識していたとか、東と南の字は似ているので書き写し間違えたとかの説をとり、まずは「南」へ向かうと記された方向を「東」に変えないと始まりません。さて北部九州を出発するにあたり、最終地の不彌国はどこにしましょうか。ここは思い切って、福岡平野を無視してしまいましょう。魏の使者の上陸地は神湊とします。・北九州市に陸行し、名門大洋フェリーよろしく大阪南港方面へ向かってもらう・直方、田川を抜け行橋方面に陸行し、瀬戸内海を進む・高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」の国々を行き、その先の国東半島か...邪馬台国を考える纏向に向かってみる①
私は魏の使者は卑弥呼に会わなかったと考えています。そして卑弥呼に会わなかった理由は「遠かったから」が一番しっくりくると感じています。初夏に倭国にやって来て、遠い邪馬台国まで行っていたなら冬になってしまう。海が荒れて帰れなくなってしまうから行かなかったのだと言われるのが、私には一番納得がいくのです。巫覡王たる卑弥呼はともかく政務を取り仕切ったであろう「男弟」、魏の使者双方とも、会えるものなら会いたかったのではないでしょうか。初夏に来訪し、冬が来る前に帰ることができる距離に「私の」邪馬台国はありません。奴国や不彌国の副官が卑奴母離(ひなもり)といい、一大率が中国の地方行政官である刺史に例えられることも気になるところです。もちろん、ヒナが現在の雛=都から離れた土地を意味するとは限りません。最近の考古学的見地から、当時...邪馬台国を考える邪馬台国は九州ですか②
魏志倭人伝における一里がどれくらいの距離なのか、私にはわかりません。そこで今回は乱暴なやり方で、末慮国から伊都国までが500里なのでその3倍程度(帯方郡から伊都国までの距離を引いた残りの1500里)南へ行った場所に邪馬台国を探してみたいと思います。どうも佐賀平野や筑後平野ではおさまりきらず、熊本は菊池平野あたりまでたどり着けそうです。糸島・福岡平野をフル無視して、唐津から佐賀平野を進んだとしても、熊本へたどり着きそうです。免田式土器の出土分布からすれば、佐賀平野ルートのほうが自然でしょうか。通説では菊池は狗古智卑狗が「菊池彦」と理解され、狗奴国に比定されることが多いですね。菊池が狗奴国とされるのは、多くの場合、佐賀や筑後などに邪馬台国を比定したときに「たまたま」南に狗古智卑狗に似かよった地名があったからという理...邪馬台国を考える邪馬台国は九州ですか①
「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」この文章は大きな難関です。文章そのままに向かえば海のかなた、どこへも着きません。この「水行二十日」「水行十日陸行一月」は不彌国や伊都国からではなく、帯方郡からだという説をとったとしましょう。帯方郡はソウル付近であったとする学者の方が多いようですが、比定地は確定はしていません。まずは投馬国・・・文面をそのまま考えるに投馬国は津に面していて、帯方郡から水行のみで行くことができる場所となります。水行二十日のうち三日間は、狗邪韓国・対馬・壱岐・末慮国間の渡海に費やされたことでしょう。帯方郡から狗邪韓国の「水行七〇〇〇余里」に7日間を使ったとしたら、投馬国は残りの水行10日で行くことができる場所のはずです。このヒントだけでは「投馬国は内陸部ではなさそうだぞ...邪馬台国を考える帯方郡から水行してみる
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