古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。
天御影神は鉄鐸を作ったとされる天目一箇神と同一神といわれ、私は銅鐸の神だったのでは?と思っています。近江の御上神社で祀られる神さまです。この「御影」という神名はもともと御「懸」であり、懸け神などと呼ばれたのではないかと妄想しています。銅鐸は諏訪の湛神事の神木のような木にかけて使うものだったので、銅鐸神のことを懸け神と呼ぶようになったのでは?と疑っています。銅鐸がなきものとなり長い年月が経ち、懸けるものがなんだったのか忘れられたことでしょう。かけるは欠けるに通ずることから、かけ神では不吉に感じられ、ご神影を表す御影という名になっtたのではないでしょうか?鐸のことを「ぬて」ともいいます。大野手姫=大鐸姫(おおぬてひめ)の島、小豆島には紅葉の名所「寒霞渓」があります。もともと神懸だったでしょう。麓には神懸の地名もあり...懸ける神さま
弥生時代の奈良盆地は豊かだった、中西遺跡や秋津遺跡の水田跡を見るにそう思います。奈良県御所市の中西遺跡と隣接する秋津遺跡では、弥生時代前期に少なくとも4万3000万平方メートルもの水田が広がっていたことが判明しています。弥生時代前期における国内最大規模の水田跡であり、九州地方のものよりも規模が大きいのです。ちゃんと灌漑施設も備わった水田だそうです。この地では縄文時代にはクリを管理し利用していたのですが、地下水位が上がって荒れ地となったため水田として利用するようになったのではないかとの見解を橿原考古学研究所が示しています。また奈良県磯城郡田原本町の弥生の環濠集落、唐古・鍵遺跡を見てもやはり豊かであったと感じます。全国からの土器が出土していますし、半島との交流もあったようです。青銅器の鋳造炉が出ており、銅鐸の主要な...弥生時代の奈良盆地
いにしえの日本列島には倭国と日本国が存在したようです。旧唐書を意訳すると、日本国は倭国の別種なり。その国は日出ずる国故に日本という名を用いている。あるいは倭国はその国名が正しくないことを憎み、日本国と改めた。あるいはまた、日本は小国である旧倭国の地を併合した。と書かれてあります。新唐書の記述ではまた違ってきますが、いずれにしろ列島内に倭国と日本国があったことは間違いなさそうです。また、旧唐書には「倭国はいにしえの倭奴国なり」ともあります。北部九州が倭国の一部であったことは疑いようがないと思われます。その倭国の範囲がどこまでなのかが議論が別れるところです。邪馬台国の所在地問題と同様に正解が解りません。なぜ国内の書物には倭国と日本国の関係性が書かれていないのでしょうか。いったい倭国と日本国はどういう関係にあったので...倭国と日本国
神無月がくるたびに思い浮かぶ妄想があります。諏訪の神が日本一、格式の高い神なのではないのかと思うのです。旧暦10月には全国の神々が出雲に集まり、そのために他の地では神が不在になります。諸国では神が不在だから「神無月」で、出雲では神がたくさん集うので「神在月」というとの俗説があります。出雲大社では神在月に例年、八百万神をお迎えしてお見送りする神在祭がとり行われます。神々が出雲において様々な会議をなさるのだそうで、例えば「誰と誰を結婚させるか」という縁結びもこの会議で決められます。その出雲と同じく旧暦10月が「神在月」なのが諏訪です。諏訪に他所からの神様が集まるわけではありません。諏訪の神様が出雲の会議に出向かないため、諏訪には神がいらっしゃるまま。故に神在月です。なぜ諏訪の神が出雲に行かないのかについては諸説があ...神有月の出雲と諏訪
竪穴式住居というと縄文時代のイメージですが、実は都に近い畿内でも平安時代頃までの庶民の家は、竪穴式住居だったのだそうです。竪穴の深さは凍結深度によってきまるそうで、寒い地方ほど竪穴が深くなるといいます。多くの遺跡で竪穴式住居が復元されていますが、縄文の遺跡で茅葺きの竪穴式住居というのはおかしいようです。というのもカヤをどうやって切っていたか、研究者にもわからないそう。カヤは黒曜石などの石器ではとても切れない、鉄でないと切れないのです。縄文時代には鉄は普及していなかったのですから、カヤを切ることもできなかったはず。鉄のない段階では今の復元のようなキレイなカヤ葺きはあり得ないようです。カヤ葺き屋根でなかったのなら、縄文の大型竪穴式住居「ロングハウス」の屋根がどうなっていたのか気になるところです。土葺き?それとも樹皮...竪穴式住居
橿原遺跡、纏向遺跡の出土状況から鑑みるに、神武天皇や崇神天皇が南九州から来た人物だとは私には到底思えません。唐古・鍵遺跡にしても巴形銅器が出土しているものの、縄文晩期の中部高地や飛騨に近い環状石斧が、弥生初期のものとして出土しています。どうも奈良盆地には「東」から多くの人がきた様子です。神武天皇はなぜ九州から来たと記されているのでしょうか。実在する初代天皇であると考えられている崇神天皇の祖先が、九州からきた豪族だったと伝えられていたからでしょうか。もし崇神天皇の祖先が九州からやって来ていたとするならば、神武天皇たる人物は、橿原遺跡にやって来たころにはその痕跡をわずかにしか残せないほどの弱小勢力でしかなかったと思われます。崇神天皇の宮は発見されたのですから、今後、色濃く九州の痕跡が残る遺跡が発見されないでしょうか...神武天皇はなぜ南九州からやって来たとされるのですか
崇神天皇が実在する初代天皇であるなら、神武天皇から欠史8代の天皇は実在しなかったとみるべきなのでしょうか。天皇家の歴史を古くみせるために、崇神天皇の主に前半生を神武天皇として書いたのだという有力な説があります。しかし纏向遺跡の発掘が進み、纏向遺跡からは九州の土器がほとんど出ないことが判ってきた今、神武天皇と崇神天皇が同一人物とみるのは難しいように感じます。崇神天皇と神武天皇が同一人物なら、崇神天皇は南九州からやって来た人のはず。纏向遺跡の出土物から考えるとそれはなさそうです。では神武天皇は崇神天皇とは別人で、南九州から「橿原」にやって来た人なのでしょうか?畝傍山の東南麓に広がる橿原遺跡は縄文から奈良時代までの遺跡群です。諸説あるものの神武天皇が紀元前660年に即位したとするなら、神武天皇の頃に橿原に一つの勢力が...神武天皇はどこから来たのですか
日本一有名なレイラインは「太陽の道」でしょうか。北緯34度32分の線上に名だたる聖地が一直線に並んでいます。淡路島の石上神社→大鳥大社→箸墓古墳→檜原神社→長谷寺→室生寺→伊勢斎宮跡というように東西200キロ近い距離に並ぶレイラインです。こういった直線上のレイラインについては、春分、秋分、夏至、冬至の太陽の位置を観測しながら同緯度に聖地を見いだしていったのだと言われると、私のような者でもなんとなくわかったような気がします。なんとなくですよ、あくまでも。しかし、例えば「近畿の五芒星」となるともういけません。淡路島の伊弉諾神宮、熊野本宮大社、伊勢神宮内宮、福知山にある元伊勢・皇大神社、滋賀の伊吹山が大地の上に巨大な五芒星を描いているというのです。そんなことできるものなのか。口をあけてアングリです。レイラインについて...紫香楽宮の三角形
武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に仕えたといいます。300年生きたというのは非現実的であり、実際は数人が継いでいる「武内宿禰職」だったのでしょう。武内宿禰が数人いたならば、景行天皇に仕えた武内宿禰と神功皇后に仕えた武内宿禰が全く別の考えを持っていてもおかしくありません。私はこの頃の天皇は連合国家ヤマトの「連合の盟主」だったと考えています。景行天皇に仕えた武内宿禰は、日高見国を討ち取るように進言しています。この武内宿禰は天皇が強い政治力をもつことを良しとし、専制君主たる天皇を目指していたと推測します。天皇の専制君主制に反発したのが、九州や出雲や東海などであり、天皇やヤマトタケルはそれらのクニグニを諌めて回ったのではないでしょうか。一方、神功皇后の側に仕えた武内宿禰は、その流れに危機を感じ、天皇は力を...住吉神の勝ち
「ブログリーダー」を活用して、咲くやこの花さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。