(新着・更新記事)・江戸町奉行所における職員の階層構造 2024.8.31公開・勝手にリンク集 2024.8.20更新・金さんの部下たち 〜 町奉行所の職員録と分課分掌 2024.7.26更新・『舊幕府 第一号』目次(明治30年) 2024
江戸の町奉行所(延享年間以降)における職員の階層構造は以下のとおり。 頭(南北両町奉行)|組頭(筆頭与力。南北各組に五つ宛ある番組の支配役与力)|組衆(組与力同心。五人の支配役以外の本勤与力、本勤並与力、見習与力、および南北各組
今回も深く深くハマってしまうサイトをご紹介! ・トンビが見た江戸の町 66,000m上空からの江戸の眺めにはワクワクがとまらない。夢の江戸スカイツリー! ・JHICO MAP 「東京歴史MAPMAP」の後継サイトだそ
第1号(創刊号)目次 2◎挿画●徳川家康公画像並に親筆●小笠原壱岐守肖像並に筆跡◎史料●戊辰の夢●南柯紀行●小笠原明由公御事蹟◎耳袋●舊幕府監察の勤行●蓮翁往事談●氷川茶話●榎本子のおひたち●腹鼓猶好物●諷刺片々◎詞藻●木村芥舟●栗本鯤●栗
先手組は番方だから家格も高かったというような話をたまに見かけることがあります。先手組は抱入席ですから、家格が高いわけはありません。おそらくは加役方(※1)#長谷川平蔵 を主人公にした時代劇(あるいは小説)の影響などもあるのでしょう。 『甲
明六つ(あけむつ)は日の出の約三十分前。東の空が白み始め、町を包む闇が徐々に晴れていきます。夜明け。今日の午前四時〜六時ごろ。暮六つ(くれむつ)は日の入(日没)の約三十分後。町は溶けるように、闇に包まれていきます。日暮れ。今日の午後五時〜七
江戸は身分社会でしたから、今日よりもずっと軽い命にも軽重がありました。夫婦間の事件を見ていると、しばしばそれを痛感します。 「名奉行」といわれる根岸肥前守(鎮衛)が寛政十二年(1800)に判決を下した事件(※1)もそんな一つでした。新吉原
(本編はこちら) 1.東條八太夫父子のその後 鈴木藤吉郎と対立し、先手組に左遷された東條八太夫父子はその後どうなったのでしょうか。 万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子はそろって長崎奉行支配調役並を
嘉永六年六月三日、米東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが軍艦四隻を率い、浦賀沖に現れました。いわゆる黒船来航です。 同じ年の九月に実施された(江戸の町人の)人口調査の結果をご紹介します。 1.町方支配場町人惣人数 492,31
俗に江戸八百八町といいますが、延享年間(1744〜48)に寺社門前地が町奉行支配になると、江戸の町数は千六百余に及びました。江戸惣町の頂点に君臨していたのが三人の町年寄、すなわち本町一丁目の奈良屋(舘)市右衛門、同二丁目の樽藤左衛門(また
御家人役の大概順です。 徒目付か支配勘定までいければ、上(旗本役)が見えて来ます。 1-161 鳥見:八十俵高持扶持(野扶持五人扶持、傳馬金十八両、見習は扶持方十人扶持、野扶持伝馬金は同じ)譜代 若年寄支配2 召船上乗役:百俵高
江戸の町人地には自身番屋と木戸番屋があり、武家地には辻番所がありました。 今日でいえば、自身番屋は町役場に消防署と派出所の機能を兼ね備えたもの、木戸番屋は町内の防災と防犯、通行の管理を担う警備所、辻番所は最寄りの大名や旗本が管理する派出所
松浦静山の『甲子夜話』(注1)に「諸組与力同心大概順」なるものが出ているので、参考までにご紹介しておきます。 (所司代組与力同心ならびに遠国奉行組与力同心これを略す。いずれも順は頭順なり) 譜代場留守居与力:二百俵高(
天保三年(1832)五月九日夜、浜町にある松平宮内少輔(忠恵)の屋敷へ盗みに入った鼠小僧治郎吉が捕らえられ、翌十日、北町奉行榊原主計頭(忠之)組同心大八木七兵衛に門前捕りされました。『甲子夜話』に、治郎吉に関する記録が出ています。&nbs
一時期、江戸には中町奉行と呼ばれる役人がいました。十七年ほどのあいだ、江戸に町奉行は三人いたのです。 元禄十五年(1702)、丹羽遠江守(長守)が増員となる形で三人目の町奉行になると、番所の位置関係から中町奉行と呼ばれました。ところが、宝
かつてテレビで大ヒットした、必殺シリーズの中村家では主水の出世をめぐって、せんとりつが嫌味をいったり、ぼやいたりする様子がコミカルに描かれ、人気を博していました。しかし、現実の江戸社会ではどうだったのかと疑問を抱いたことのある人も少なくな
1-81 姫君方用人並:三百俵高(役料百俵)桔梗間席 若年寄支配2 新番組頭:六百石高 桔梗間席 頭支配3 大番組頭:六百石高 躑躅間席 頭支配4 表右筆組頭:三百俵高(役料百五十俵、銀二十枚四季施代)若年寄支配5 膳奉行:持高(役料二百俵
1-181 高家:千五百石高(肝煎は役料八百俵)雁之間席 老中支配2 側衆:五千石高 老中支配3 駿府城代:持高(役知二千石)老中支配4 伏見奉行:持高(役料三千俵)老中支配 ※但、万石以上でも駿府城代の次席5 留守居:五千石高 老中支配6
時代劇などで、定(町)廻同心が自身番屋を巡回したり、拠点にしている様子がよく描かれます。では、自身番屋とはどのような場所だったのでしょうか。 江戸には、町奉行と町人たちとのあいだに、惣町を支配する三人の町年寄がいました。それが樽屋、奈良屋
明治元年(1868)、新政府は一六ノ日(※1)を休みとし、同六年には年末年始等の休日を制定しました。また、同九年四月から一六日の休暇を日曜日および土曜日の午後に改めます。では、それ以前、江戸幕府の役人、たとえば町奉行所の組与力同心たちはい
側衆の子弟や小姓・小納戸など、中奥の昵近衆がその筋の推薦を得て、表の役人に転じることがありました。そういう人を表では「坊さん」といったようです。要するに、世間を知らないお坊ちゃんというわけです。 中奥から出た町奉行といえば、下情に通じた刺
『季刊大林』というサイトに、「大林組の復元・構想プロジェクト」という、並んだタイトルを見ているだけでワクワクが止まらなくなるページがあって、その中の一つに「長屋の復元」という、実に魅惑的なコンテンツがありました。四十年も前に、こんな素敵な
さいきん、goo地図を手放すことができません。 江戸切絵図と現代の地図とを見比べていても、あまりにも町並みが変わってしまっているため、まるでイメージが湧かないからです。 その点、goo地図で明治の実測図と見比べると、江戸の土地関係を比較的
『英雄たちの選択スペシャル:大奥贈答品日記』という番組をNHKでやっていて、(大奥年寄の)瀧山黒幕説なるものを紹介していました。瀧山が十三代将軍徳川家定の生母・本寿院からの贈答品とともに、彼女の実家の「跡部」のことを頼まれ、その直後に跡部
以前、定中役について書きましたが、若干の補足をしておきます。 定中役の中役とは、組役(組屋敷、つまりは自宅で事務を執る同心支配役や年寄同心、物書同心など)や、内役(日々役所に出勤する年番や吟味方、例繰方など)、外役(本所見廻や牢屋見廻、養
『文教の古本屋』というウェブサイトのこちらの記事に元南組与力・原弥三郎(胤昭)のことが出ていました。 弥三郎は昭和十七(1943)年に九十歳で亡くなったそうですが、晩年には「最後の町与力」としてラジオにも出演し、町方与力同心の逸話について
役方の事実上のトップともいえる大目付、(江戸)町奉行、勘定奉行はいずれも役高三千石の要職でした。このことを町奉行になると、三千石の年俸をもらえるのだと誤解されていらっしゃる方も少なくないように思われます。 徳川幕府の俸禄制度は
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後ほど追記します。 ・江戸町奉行所当番表(享和3〜慶応2) (2021年2月6日公開)
本ブログの記事で取り上げるのは基本的に江戸中後期のものだということを以前に書きました。 にも関わらず、ここで言及しているのはもっぱら化成・天保期以降のことばかりとなっています。残念ながら、それ以前の具体的な事柄については、詳細がほとんど分
時代劇で「御頭(おかしら)」といえば、火附盗賊改方(火盗改)長官長谷川平蔵の専売特許のようになっていますが、徳川の制度では「頭支配」といって、部門長はたいてい皆、「御頭(様)」と呼ばれます。また、「頭」と混同されやすいのですが、部門内の長
町方組与力でもっとも著名な人物は誰でしょうか。 江戸の文化人として、もっとも名高いのは、歌人・国学者として知られた加藤又左衛門(枝直、千蔭)の父子でしょうか。 又左衛門(枝直)はもともと伊勢松坂の人で、江戸に出て南町奉行・大岡越前守(忠相
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江戸の町奉行は激職だったから過労死が多かったというのは本当か
江戸の町奉行は激職だったから過労死が多かったという話を割とよく見かけます。 『柳営補任』を見ていて、かねてから気になっていたことの一つは、現代人の感覚で見ていると、在任中に亡くなる人が異様に多く感じられるということです。町奉行に限ったこと
もともと近世史(江戸時代)に関心の薄かった私がこのブログを始めたきっかけは、江戸学の祖・三田村鳶魚の最後の弟子といわれた故小川恭一氏の『江戸の旗本事典』(講談社)で、佐々木修輔(信濃守顕発)の立身出世の話を読んだことでした。将軍の寵愛など
旗本・御家人の役職を、ある時点での序列どおりに列挙したものを「大概順」といいます。 幕府の組織を知る上では貴重かつ有用な人事資料といえますが、一方で幕府の人事制度はとても複雑である上に、人事は生ものですから、一見すると分かりづらく、戸惑う
『柳営秘鑑』によれば、「五位ニ被仰付面々」は次のとおり、一 所謂万石以上城主之嫡子、無城ニ而も寺社奏者之嫡 若年寄之嫡 國持之次男或は三男 御側衆 御留守居年寄 大御番頭 御書院番頭 御小姓組番頭 甲州詰小普請頭 大目付 町奉行 御勘
「町方与力同心の給与:与力篇(前)」を書いてから、早くも二年半が経ってしまいました、 続編を書くため、一つひとつ史料に当たる気力がなかなか涌かず、先延ばしにしていたところ、2018年の暮れに倒れてしまい、以来半身麻痺のため、集中力の低下と
今月十九日から、大相撲七月場所が再開されるようです。 夏場所は中止になってしまっただけに、七月場所こそは無事に千秋楽を迎えてほしいものです。 大関に昇進した朝乃山関への期待も膨らみます。先に大関となったものの、怪我による休場などで、さいき
1. 組与力同心の員数 寛永八(1631)年以後、江戸の町奉行は一時(元禄十五~享保四年)三人に増えたことはあるものの、享保四(1719)年に中町奉行の坪内能登守(定鑑)が辞職し、後任が置かれないまま二人に復して以降はそれが幕末まで続きまし
新選組にはあまり関心はないのですが、時代劇チャンネルで栗塚旭さん主演の『新選組血風録』をやっていると、つい見入ってしまいます。殺陣は華麗でも派手でもないのに、どうしてあんなにも迫真のシーンが紡ぎだされてくるのだろうかと、毎回感心してしまい
残念なことに今年の大河『麒麟がくる』は、コロナ禍で撮影の中断を余儀なくされていたため、先週の放送分で話のストックを使い切り、きょうから当分はひとやすみとなるそうです。そのかわり、過去の大河の名場面集をやるそうで、今週は歴代の大河史上最高の
アメリカにWWEというプロレス団体があります。 株式上場の際にはそれまで認めていなかったストーリーの存在を認めたといいます。 実際、番組にはしばしば警官や救急隊員が登場し、ストーリーライン上の事件では逮捕者や救急搬送される選手
1991年の大河『太平記』がなぜそんなに評価が高かったのかをずっと考えています。 昔から『平家物語』と並ぶメジャーな物語ではあるものの、現代人にとってはイデオロギー的に扱いづらい作品だし、とりわけ戦前には大逆臣・大悪党たる足利尊氏が主人公
日曜の朝、六時からBSプレミアムで1991年の大河ドラマ『太平記』の再放送をしています。 いうまでもなく、『麒麟がくる』と同じ池端俊作さんが脚本を手掛けた作品です。同じ脚本家で、似たような筋書きや設定の話もあって、どうしてこうも違う印象が
仕事はなく、時間ばかりがあるので、こんなページを洒落でつくってみました。 いうまでもなく(江戸北)町奉行所などという役所は百五十年ほど前になくなってすでに久しく、その公式ウェブサイトなどというものもあるはずがないわけですが、「公式ウェブサ
町奉行所の掛役の一つに定中役というのがありました。 定中役とはどんなお役目だったのか。三田村鳶魚翁は『江戸雑話』のなかで定中役について、「同心十人、臨時触当により諸般の出役に従事す」と書いていますが、番方同心との違いがよく分かりません。定
私の、初めて見た大河ドラマが司馬遼太郎原作の『国盗り物語』であったことは前に書きました。 明覚寺の利発な少年・法蓮房が油問屋「奈良屋」の入婿・松波庄九郎となって美濃に乗り込み、西村勘九郎となっては土岐家に仕え、知略の限りを尽くして頭角を現
2022年の大河があまりにも楽しみなので、かつて同じ時代を扱った『草燃える』(1979年の大河ドラマ)のキャストを振り返りつつ、あれこれと妄想してみたいと思います。 『鎌倉殿の13人』は、鎌倉幕府を草創した英雄頼朝の死から始ま
今年の大河(『麒麟がくる』)はあの『太平記』(91年大河)をものした池端俊策氏が脚本を手掛けるとあって、大いに期待していたのですが、その割にはいささか肩透かしの感があります。光秀と松永弾正、あるいは細川藤孝との出会いなど、今後を占う重要シ
1987年秋、第一回ワールドカップを制したばかりのオールブラックス(ラグビーニュージーランド代表)が来日し、国立競技場で日本代表と対戦しました。試合は予想どおり百点以上の大差でオールブラックスが圧勝しました。当時から世界最強といわれていた
呉服橋門内にあった町奉行所といえば、北町奉行所というのは時代劇ファンならば常識といいたいところですが、かつてはその場所にあった奉行所が南町奉行所とよばれていたこともありました。もう一つの町奉行所が銭瓶橋の北、すなわち常盤橋門内にあったから
初めて大河ドラマを大河ドラマとして、毎週見るようになったのは海音寺潮五郎原作の『風と雲と虹と』でした。それでも、小学生だった私には、中盤は派手な展開に乏しく、途中で退屈になってしまって見るのを中断していた記憶があります。もちろん、毎年大河
たまに、幕府の役人だった人について、何か情報がないかとぐぐっていると、時代小説や演劇に関するページのひっかかることがあります。 小林藤太郎は元南組で定廻同心を勤め、後に隠密廻を兼帯しました。おそらく町方組同心から組与力に取り立てられた最後
元北組臨時廻同心の山本啓助が残した「廻り方手控」(『原胤昭旧蔵史料調査報告書(3)』)は、江戸から逃亡した指名手配犯たちを追跡・捕亡するため、在方出役した啓助たちの詳細な業務日誌です。同書には「飛脚」あるいは「御用̪使」「御用飛
2018.12.15 夕方18時頃、脳内出血で倒れ、翌16日未明、隣県のT病院に搬送されました。 意識不明の重体だったようで、そのまま入院となりました。2019.2.13 リハビリのため、自宅近くのK病院に転院。2019.7.12 退院&n
天保十二(1841)年八月十八日、江戸城内の吹上で三奉行(※1)による公事上聴(※2)が行われました。この時、北町奉行であった遠山(の金さん)が担当した裁判は、奉行所の編纂した記録(※3)によれば、 ・養子対談違変出入 ・弟子
■「蔵米取」:一俵三斗五升入で支給■「地方取」:四ツ物成。即ち、一石につき、四斗の割合■「足高」:すべて蔵米で支給。一石は三斗五升入一俵の割合 例えば、役高千石の内、家禄が地方五百石ならば、不足分の五百石が足高となり、蔵米で三斗五升入五百俵
江戸幕府の「一人扶持」とは、成人男性一人が一日に食べる米の量を五合とみなし、月に一斗五升を月俸として支給する給与方式のことをいいます。また成人男性の「男扶持五合」に対して、成人女性の「女扶持三合」という基準もありました。 この話をすると、
(前編はこちら) 5.東條八太夫の反旗 鳴り物入りで町奉行所の潤澤掛に就任した鈴木藤吉郎には、錚々たるメンバーが部下として付けられました。南組の支配与力で、当時町方で「第一の勢力家」といわれた吟味方上席の東條(ひがしじ
1.前半生 安政年間にこんな川柳があったといいます。 「藤吉ははしばで旗を揚げにけり」 藤吉とは、もちろん豊太閤(羽柴秀吉)のことではありません。本稿の主人公・鈴木藤吉郎は享和元(1801)年、下野国の百姓(※1)に生まれ、米相場
子どもの頃(1970年代)に観た作品の印象が強すぎるせいか、近年の大河ドラマにはがっかりさせられることも多く、観る前からあまり期待しないようにしています。それでも歴史・時代ドラマが絶滅寸前のいま、地上波ではほかに見たいものもなく、ずるずる
町奉行など、特定の役目につく幕臣が住む官舎を役宅または役屋敷といいました。町奉行所もその一つで、番所(役所)としての機能と、役宅(住居)としての機能を兼ね備えていました。町奉行所は、南北ともにほぼ同じつくりとなっていますので、ここでは北町
旗本・御家人の身分や家格は時代による変遷もあり、非常に複雑で、曖昧な点も少なくありません。本記事では、八代将軍吉宗の頃に身分・家格体系が整備され、比較的多くの記録が残されている江戸中後期(主に天保年間とその前後の時代)の様子について、本ブ
こちらは北の御番所絵図面です。 画像上方が北になります。表門は南北両町奉行所とも東向き(この画像では右側が東) 北に張り出している建物群は奉行の家来が住む長屋で、北西角にある一番大きな部屋は中間部屋です。厩もあります。南町奉行所では、家来
こんなものも、一日中ながめていても飽きることのないものの一つです。 絵図面上を部屋から部屋へとゆっくり視線を這わせながら、いつしか町方の組与力同心になったような心持でいろいろと妄想を膨らませていきます。楽しくも幸せなひとときです。&nbs
町方与力の給与は地方(じかた。土地=知行所・給知による給与方式)ではありましたが、誰某に何処といったような銘々の知行分はなく、一人二百石宛五十人で一万石の給知を上総下総両国のうちに、大繩(一括)で与えられていました。 享保四(1719)年
北町奉行所隠密廻同心・神田造酒右衛門については、以前の記事で少し触れましたが、造酒右衛門には吉十郎という忰があり、彼も同じ廻り方で臨時廻りを勤めていました(※1) 文政十一(1828)年ごろには、父から忰への番代があったようで、吉十郎は名
前回の記事の後半で、町奉行吟味物調役と内与力の話を少ししました。 町奉行吟味物調役(設置当初は支配留役といいましたが、まもなく吟味物調役と改められました。※1)は、寛政八(1796)年三月十七日に始めて置かれ、文化八(1811)年八月二十
どのような役所や企業にも、大きな権限をもち、組織内で権勢を振るう、有力な部署があります。現代の役所なら大臣官房や財務省の主計局、企業なら社長室や経営企画室、人事部といったところがそうでしょうか。江戸の町奉行所にも、そんな有力な分課が三つあ
先ほど、池波正太郎さん原作の時代劇「仕掛人・藤枝梅安 梅安乱れ雲」を何の気なしに見ていたら、大坂の闇社会を牛耳る白子屋菊右衛門が町方与力の稲沢文蔵に賄賂を渡しながら、「稲沢様だけではございません。北の谷村様、嶋様、それに南の吉田様、村井様
桑野平九郎は、文政・天保期に臨時廻りを勤めた北組の同心です。抱入(本勤の若同心として採用)は享和二(1802)年、二十三歳のときでした。それから二十年余が過ぎ、町方同心としてのキャリアを積み重ね、ベテランの域にさしかかりつつあった平九郎は
みなさんは「物書同心」というと、どんなイメージを思い浮かべますか。 奉行所の片隅にある一室で、机の上に高く積み上げられた書類を横目に、一日中、黙々と書物をしている。「物書」同心という呼称がそんな姿を連想させるためか、地味で軽いお役目、閑職
町方同心に関する解説記事には、たいてい「定町廻り六人、臨時廻り六人」と書かれています。 元南組与力の佐久間長敬著『江戸町奉行事蹟問答』にも「定町廻り 六人」との記述があります。ただし、別の箇所では「定町廻り同心四人」とも述べており、混乱が
時代劇に出てくる隠密廻りといえば、さながら現代の潜入捜査官といったところでしょうか。決死の覚悟で悪の組織に潜り込み、犯罪の証拠を探り出すのが彼らの役目です。そして、たいていは正体を暴かれ、命がけで入手した証拠を主人公に託して、息絶えるとい
文政から嘉永ごろの町方与力同心の勤務歴を見ていると、本当に年功序列が徹底していることに改めて驚かされます。番代(ばんがわり、※1)時の年齢がばらばらなので、年齢だけをみていると、昇進スピードに大きな差があったようにも見えますが、見習期間も
マニアなら、日がな眺めているだけで、あれこれと妄想を膨らませ、しあわせな気分になれるものってありますよね。歴史や時代劇のファンなら、こんなのもそのうちの一つなんじゃないかと思って、データ化してみました。 ・天保十一年北町奉行所職
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