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プロフィール
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セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボさんのプロフィール

住所
松阪市
出身
松阪市

三重県を中心に徹底訪城、伝えて残したい山城遺産。時々ダートレースで若さを保ちつつ、セルフコロボレーションを試みる。

ブログタイトル
セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボ
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/idealblog2
ブログ紹介文
日本の城、写真、ダートレース等の趣味を相互に関連づけて趣味を深く追求!
更新頻度(1年)

78回 / 365日(平均1.5回/週)

ブログ村参加:2016/07/05

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ハンドル名
セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボさん
ブログタイトル
セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボ
更新頻度
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セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボ

セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボさんの新着記事

1件〜30件

  • 五箇篠山城(ごかささやまじょう)

    城名五箇篠山城読みごかささやまじょう旧名五ケ城住所多気町朝柄/古江城山築城年不明形式山城遺構曲輪、堀切、土塁規模270×115m城主野呂氏(伝承)-五箇景雅(伝承)-野呂筑前守-野呂氏代々(伝承)-安保大蔵大夫一族北畠氏家臣標高140m比高75m歴史史料に裏付けされた信頼性の高い情報を諸氏が文献としているものを時系列に記述する。「文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。仁木義長が伊勢守護に任じられると1342年に田丸城や阪内城を相次いで陥落させ伊勢国での南朝方を一気に劣勢に追い込み、翌1343(康永2=興国4)年には、五ヶ城にも軍を進め攻撃している。その後の史料がなく合戦の結果は不明だが、五ヶ城もおそらく落城したものと考えられる。」(県史編さんグループ小林秀氏)(落城1⃣)「1465年12月6日付けで、北畠氏に...五箇篠山城(ごかささやまじょう)

  • ヤマビル対策

    ヤマビルが噂されている山に行くことになった。チャボホトトギスを見に行くためだ。対策の一つに考えたのがこれだ。百円ショップで手に入れた”ヘアーバンド”を飽和食塩水に一晩漬けておいて、スパッツの下端に装着。水分がしたたり落ちない程度に手で絞ったものを、スパッツ装着後、つま先からワンタッチで簡単装着。多少は塩分が靴に付着する可能性があるのでその辺は気を付けること。3人が同じように装着し、ヤマビルが目視されたところでチャボホトトギスを撮影したが全員無事であった。まだ、一回の経験で結論は出せないが、これいい案かも知れないと今のところ自負している。今後、経験値を積み重ねて様子を見ていきたい。(塩、ボトルに入れた塩水も携帯)2020.09.15朝熊岳道にてヤマビル対策

  • 朝熊ヶ岳山行

    三重県の絶滅危惧種Ⅱ類を見たくて朝熊ヶ岳に登る。2002.09.15晴下調べから”ヤマビル”が多いという情報を得ていた。いろいろな参考意見を尊重した上で、今回プラスαで新しいことを試みた。下からくるヤマビル対策スパッツは無条件で装着する。その一番下端にヘアバンド(百円ショップ)を巻く。このヘアバンドは昨晩から今朝にかけて、一晩、飽和食塩水に漬けていた、たっぷり塩分を含んだものだ。スパッツの上なので体や靴に塩害は起こしにくい。ゴムの伸縮が足首に程よい。安い。洗える。取り付け取外しが超簡単。チャボホトトギスが咲く湿気の多い切通しで立ち止まって撮影をした。同伴者が直ぐにヤマビルが動くのを見つけた。噂通りここはヤマビルの頻発出現地点。山行の往復で同じように立ち止まったが、同伴者含む3人ともヤマビル被害は避けられた。この...朝熊ヶ岳山行

  • 長谷城

    城名長谷城読み長谷城住所多気町長谷形式山城(独立山頂)遺構曲輪、堀切、土塁、井戸規模160×100m標高218m比高113m城主度会家行か築城時期南北朝時代環境近津長谷城より南西へ(400m)派生する複雑な尾根の一つにある。現地河川や街道からは少し離れた位置にある。現在は近長谷寺のための舗装路が整備され、近くに駐車場もあるので比高は気にしなくてよい。又城への入口も舗装路から簡単には入れる。感想ロケーション、地勢からみると近津長谷城の支城と考えられる。近津長谷城は周辺に西之城、東之城、茶臼山砦、そしてこの長谷城と一大城砦群を形造っている。南朝の拠点としてその意気込みが伝わってくるようだ。地図長谷城

  • 高井戸城

    城名高井戸城読みたかいどじょう別名佐奈城住所多気町平谷築城年築城者城主不明形式山城(尾根先端)遺構曲輪、土塁規模50×25m標高76m比高32m環境JR佐奈駅の北、街道、街並みの背後にある低い丘陵の先端に城はある。現地曲輪は神社となり社が祀られている。卵型の狭い主郭に土塁はない。北側から南に向かって緩傾斜となる。主郭の東側に副郭となる広めの台地があり、中央に段差があって三番目の曲輪となるのかも知れない。畑地として改変されている。感想佐奈の小さい盆地を北の丘陵から見下ろし、直下の街道と町を抑えるための城と言う雰囲気である。地図高井戸城

  • 西之城

    城名西ノ城住所多気町津留/鍬形築城年・築城者・城主不明形式山城(尾根山頂)遺構郭、堀切(西に2か所、東に4か所)規模主郭、東西30×20m標高210m比高150m経緯近津長谷城は貞和三年(正平二年・1347)楠木正行の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。田丸城・一之瀬城とともに北軍をおおいに悩ました伊勢における南朝方の拠点の一つであった。その近津長谷城の「西の城」という説がある。尾根伝いに2100mほどの距離でそれほど困難なルートではない。書籍三重の中世城館環境丹生と櫛田川の両面をを見下ろす急峻な山城である。現地どこから攻めるにもまずは急峻な傾斜を攻略しないと近寄れない。尾根に取り付いても主郭までの距離がいずれのルートも十分ありこれも防御上有利である...西之城

  • 矢田城

    城名矢田城読みやたじょう住所多気町矢田築城者2説あり(以下参照)形式山城(独立山頂)遺構曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台規模150×90m(主郭50×40m)標高129m比高77m経緯以下は笠木館にある説明板の記述内容。おおむね各資料はこのような論調である。①阪内氏の居館跡として断定されている。「神宮文庫」、寛正年間(約1460)頃より。平時には笠木御所に居住をして、有時(事)には1km離れた矢田城に立籠りの砦としていた。②永禄12年(1569)10月4日、以降、具教・具房父子はこの笠木阪内の御所に退城したと「信長公記」に記されている。③天正4年(1576)11月、北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫頭具義(国司の聟・むこ)も田丸城で鏖殺(おうさつ)された。書籍『伊勢の中世/第75号(文責成瀬匡章...矢田城

  • 五桂城

    城名五桂城読み五桂城住所多気町平谷/五桂築城年一概に言えないが堀切の竪堀化の傾向が見られないことから、在地の城跡として共通するよく似た、竪堀のある長原城より古いと考えられる。長原城の推定築城年は天文5年(1536)なのでそれ以前ということになる。形式山城遺構曲輪、堀切、土塁規模主郭25×20m城主不明標高220m比高163m書籍①三重の中世城館の記述を記す。「五桂の南西の標高220mの光度山から北東にのびる山地の尾根にある。佐奈谷を一望におさめる所で、東側は五桂池へ通ずる谷となり、西側は急斜面をなしている。尾根が小山状に盛り上がっているだけで、あまり遺構はみられない。北方の人家の付近には馬場と呼ばれる所がある。」「地目:山林、墓地立地:山頂住所:五桂字城山」②日本城郭大系の記述を記す。「多気町五桂字城山山頂に城...五桂城

  • 笠木館

    城名笠木館読みかさぎやかた別名笠木御所○現地の案内板の記述より笠木はかつての神宮祭主領であったが寛政年間(1460頃)より、阪内氏の知行地となり阪内氏の居館跡として断定されている。(神宮文庫)永禄12年(1569)織田信長と北畠勢が大河内城で攻防を展開したが、信長の次男信雄を北畠家の養子として和議を結んだ。そこで具教・具房父子はこの笠木御所に退城したと「信長公記」に記されている。天正4年(1576)11月北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫具義(国司の婿)も田丸城で殴殺された。○もう一つ案内板「中世の回土居群」よりこの場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。標高は40mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のように...笠木館

  • 牧城

    城名牧城住所多気町牧/鍬形築城者岡惟家(これいえ)形式山城遺構曲輪、竪堀城主岡惟家-小四郎(注1)標高96m比高47m歴史北畠家家臣経緯1576年か1577年に北畠教具と同時期に死去。書籍○勢陽五鈴遺響「同所ニアリ岡小四郎住セリ北畠家臣ナリ」(p209)○三重の中世城館○三重県の城「多気郡多気町字前街道中牧集落の南東250mの山頂にあったとされる城で、北畠氏の被官岡氏の居城という」○多気町史「鍋倉峠南側に標高100mの山があり、その山頂に城跡がある。「伊勢名勝志」には北畠氏の家臣岡惟家(これいえ)此ニ居リ近郷ヲ所管ス。小四郎ナルモノニ至リ、天正中北畠具教三瀬ニ殺セラレル時之ニ死ス。其の子孫今本村ニ存ス」また、「山頂には狭い平坦地があるだけである。峠の西入口麓付近を扇の館といい、今も小四郎を子孫とする岡氏宅がある...牧城

  • 多気町の城

    笠木館多気町笠木笠木御所。矢田城多気町矢田矢田御所の詰城。浅間山砦多気町野中西山城多気町西山北畠家家臣。片倉氏館多気町四神田伊達家家臣。黒田山城多気町兄国/荒蒔佐奈城五桂城多気町五桂、前村、平谷の境界山上山頂にあった。砦が付属する。近津長谷城多気町長谷貞和3年に楠木正行と挙兵。長谷城多気町長谷近津長谷城の支城か。佐伯中浅間山城多気町佐伯中佐伯中浅間山で大日如来が祀られている東之城西之城多気町津留、牧、鍬形の境界山上東西に連なる尾根上にある。牧城多気町牧北畠家家臣。具教とともに暗殺。丹生城多気町丹生新発見!!ひよどり城多気町上出江波多瀬氏の出城か。五箇篠山城多気町朝柄北畠家家臣。波多瀬城多気町波多瀬大永年間築城。波多瀬氏を称す。多気町の城

  • 城山城

    城名城山城読みしろやまじょう別名棚橋城住所度会町棚橋形式丘城遺構無し(堀切痕、切岸跡らしきものは散見される)規模不明城主福井若狭守か標高31m比高川面より15m経緯”以前から城山と呼ばれていた場所”と三重の中世城館に記されている。書籍三重の中世城館渡会史渡会史の記述を以下に記す。棚橋の集落のほぼ西端に位置する段丘上にあり、下方は宮川の流れがかつては大渦を巻き、曲流するところであった。小高い崖をなし、北西部には「城の小殿さん」と呼ばれる小祠がある。東側は「城の阪」と呼ばれ堀切となっている。現在その大部分は町営住宅の「城山団地」となっている。築城などについての伝承や文献はないが南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるものであろう。環境北側の山が宮川に迫り出すように人や川の可動範囲を狭めている場所で、恐...城山城

  • 南鮠川城

    城名南鮠川城読みみなみはいかわじょう住所度会郡度会町鮠川662/富津形式丘城遺構土塁の一部規模内城田村史によると当時、東西30間、南北20間とあり、54×36m位ほ平地があったようだ。城主不明標高29m川面からの比高10m書籍三重の中世城館環境宮川に面する河岸段丘の断崖にある。支流鮠川(はいかわ)が東側の急崖を創り出したようだ。まるで岬の突端の様相を現している。「内城田村誌」によると「南鮠川の城、字浦の上なる渡船場の断崖上。東西30間。南北20間の平地にあり。郷人これを城(じょう)と称す。蓋し(注1)砦跡ならん」とある。昭和47年2月、城跡を縦断するように鮠川大橋が完成した。いまは土塁状のものがわずか数メートル残っている。現地宮川右岸の河岸段丘の縁に城はある。城から宮川へは行き来ができる。船着き場の様子が垣間み...南鮠川城

  • 牧戸城

    城名牧戸城読みまきどじょう住所度会町牧戸101築城者牧戸氏か形式平城遺構無し規模不明城主牧戸友之助牧戸与五郎一族北畠氏家臣標高10m書籍渡会史三重の中世城館渡会史によると、「勢陽五鈴遺響」に「牧戸砦跡。同処にあり国司北畠家のきか牧戸氏住まいせり」とあり、内城田村誌には「牧戸砦址・本区に在りと、今其跡を詳にせず。また三重国盗り物語には牧戸友之助の名が見える。他書にも牧戸与五郎の記述もある。そのことから土豪、牧戸氏の館か砦ほどのものがあったのだろう。いまその位置を明確にすることはむずかしく台地の先端が宮川に突出する八柱神社跡ではなかろうか。また集落の西端ともいわれる、とある。環境宮川に突き出すような河岸段丘の縁に城跡はある。敵に対する防御というよりは、宮川の抑えと言った方が合点がいくロケーションだ。現地上流側、入り...牧戸城

  • 麻加江城

    城名麻加江城読みまかえじょう住所度会町麻加江奥屋敷築城年室町後期か形式丘城遺構曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、虎口規模主郭50×50m城主不明標高55m比高23m歴史背景書籍*2に「南北朝期、度会町一帯では両朝の抗争が激しく、南朝が北朝側の法楽寺(蓮花寺・度会町棚橋)を落して背後に蓮華寺城を築くと、今度はこれを北朝が奪回するというような状況であった」とある。法楽寺という呼び方は寺の名称ではなく、蓮華寺がある辺り、度会町棚橋辺り一帯の地区をいっている。書籍*1三重の中世城館*2三重の山城ベスト50を歩く環境宮川右岸の度会町に麻加江集落があり、北のはずれにある丘陵地端に城はある。現地ほぼ東に向いた緩傾斜を溝と土塁で囲んだ三角形の曲輪が中心となっているようだ。南200mの所には”郷士館”と呼ばれた館跡があったというが畑...麻加江城

  • 蓮花寺城

    城名蓮華寺城住所度会町棚橋築城年築城者城主不明形式山城(上の城と下の城)遺構曲輪、堀切規模上の城東西10m×南北80m下の城東西30m×南北25m標高160m比高90m(上の城)書籍未確認環境宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。現地山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。考察蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。感想遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必...蓮花寺城

  • 矢村城

    新城名矢村城旧城名山川城度会町は”従来の所在地「下久具」の訂正と同時に城名を矢村城とする”としている。住所度会町上久具形式丘城遺構曲輪、空堀、土塁、虎口、井戸跡規模40×60m城主刀根氏か標高40m比高6m経緯三重の中世城館によると「刀根幸太郎氏によれば、その祖先がここに落ちのびてきたといい、同家には天正8年(1580)の「佑山信士」の位牌がある。付近を開墾したときに刀片などが出土し、岩風呂もあったと古老は伝えている」とある。書籍三重の中世城館環境北に向かう傾斜角3度くらいの緩斜面にある。東側に小川が流れその縁は急崖となる。現地集落とは地続きの様相で天然の要害ではない居館を想像させる周辺のロケーションだ。土塁、堀は高さ、深さ、容量があり見応えがある。南側(山側)の堀や土塁は敵からの防御はもとより、山からの水、落...矢村城

  • 渡会の城

    度会町の城特集一之瀬城度会町脇出城山愛洲氏が築城。一之瀬御所。青木山城・屋敷跡度会町脇出丘頂に4条の堀切、削平地がある。山川城度会町上久具丘陵にあった。麻加江城度会町麻加江丘陵にあった。長原城度会町長原大崎氏の詰城。立岡城と似るところあり。南鮠川城度会町富津丘頂にあった。立岡城度会町立岡丘頂にあった。牧戸城度会町牧戸北畠家家臣。山崎館度会町立花台地にあった。殿山城度会町長原丘頂にあった。制覇6渡会の城

  • 殿山城

    城名殿山城読みとのやまじょう住所度会町長原城主山崎氏か形式山城遺構削平地標高103m比高65m書籍『度会史』「中川村誌に中川神社の東に当り字田間そばの山上に広さ二町歩程の坦夷(注1)あり。土俗(注2)之を殿山と呼ぶも玆に住みし郷士を明らかにせずとある。山麓に割合浅い空堀状のものが、130mほど続く。この溝より山側15~20m離れて、高さ1.5mの石積みがほぼ東西に50m続く。さらに、これより山側へ8~10m離れた位置に高さ3mの石垣が45mほど東西に延びている。この石積みと石垣の間が長方形の削平地となっている。ここより北方に宮川を見降ろすことができる。」注1たんい【坦夷】(名・形動)[文]ナリ土地などが平らである・こと(さま)。平坦。「-なる大道を択ばば危険少ふして/経国美談竜渓」注2どぞく【土俗】民俗の旧称。...殿山城

  • 山崎館

    三重の中世城館よりなかなか現地を比定することが出来なかったが、国土地理院空中写真で痕跡を見つけた。城名山崎館読みやまざきやかた住所度会町立花字山崎形式平城遺構北側の空堀は巾5m、深さ3mで、南側のものは巾20m、深さ8mありそれぞれ宮川へ続いている。規模110m×100m標高25m歴史もと薬師堂がここにあったが集落に移したというが、昭和51年3月ごろ取り壊されたという。書籍三重の中世城館現地現状は殆どが水田となっている。環境ここから300m南の山頂に殿山城があるが、館と詰城の関係性はあるのだろうかと疑ってしまう。地図詳しくは👆こちら山崎館

  • 発見!山崎館跡

    発見したのは現地ではなく空中写真のネガの中でした。縄張図に縮尺は記してなく、現地へ行っても合点がいかなかった。"title="">長年の胸のつかえが今取れた気がする。古い空中写真は役に立ちます。国土地理院さん、感謝します。発見!山崎館跡

  • 栗谷赤坂城

    城名栗谷赤坂城読みくりやあかさかじょう住所大台町栗谷80形式山城遺構曲輪、堀切(巾6m、長さ8m)規模主郭16×8m城主唐櫃(からと)五身助標高200m比高48m歴史唐櫃氏の出城という。経緯唐櫃に本拠を構えた唐櫃氏の支城であったともいう。環境宮川の支流栗谷川の蛇行点で三方を川に囲まれ半島状になっている。現地峠越の車道が開通し、峠から数分で城跡に着く。考察宮川流域と櫛田川流域を結ぶ重要な間道を、本城(大台町唐櫃)の北口で守る出城と考えられる。感想まるで眼下の間道を180度の視界で見張るためだけに造られた城のようである。地図詳しくは👆をクリック!栗谷赤坂城

  • 栗谷殿切城

    城名栗谷殿切城読みくりやとのきりじょう住所大台町栗谷193築城大永年中(1521~1527)形式山城遺構台状地、堀切城主谷内蔵之丞(たにくらのすけ)政教(栗谷氏)一族北畠家臣標高230m比高63m経緯谷氏が入境の時は誰も住んでいなく、草木茂り、道細く、山賊が横行し往来する旅人を苦しめた。国司北畠氏は谷内蔵之丞政教に山賊討伐を命じた。谷氏は山城を築き、家来六人を召し連れて山賊討伐の任に着いた。谷氏は栗谷三里四方と松阪領の八重田、深長、鎌田を与えられている。(栗谷過去帳より)歴史天正4年(1576)(注1)、谷内蔵之丞政教は北畠具親に与力して義兵を発す、と勢陽五鈴遺響にある。書籍三重の中世城館史跡・名称・天然記念物・基本調査報告郷土の文化遺産宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著)環境宮川と櫛田川を結ぶ間道沿いにある。こ...栗谷殿切城

  • 坊主山館

    👆参考=大日山北にあるヘリポート(後方は大日山)城名坊主山館読みぼうずやまやかた住所玉城町蚊野(かの)形式平城(300m×700mの丘陵地)遺構幅2m×高さ1m弱の土塁に囲われた曲輪3か所1号館:45×60m2号館:22×42m3号館:20×20m規模全体で50×150m城主不明一族北畠氏、田丸城の出城標高45m比高12m歴史旧和歌山軌道に近く、寛正年間(1460~1465)に北畠氏が山田三方を抑えるため要所として築いたものといわれる。書籍三重の中世城館環境昭和47年、陸上自衛隊航空学校のヘリコプター練習場・発着場造成のため破壊された。造成の際、山茶碗、土師器などが出土したという。現地立ち入り禁止区域である。考察宇治山田合戦の初期のころに造られた。土塁で囲われた簡素な遺構から山田三方を抑える兵の駐屯地ではないだ...坊主山館

  • 山岡城

    "title="">城名山岡城読みやまおかじょう住所玉城町山岡字村内形式平山城遺構台地の宅地化で消滅規模不明城主池山伊賀守(修理亮)15??~15??田丸三代城主顕晴(親忠)家臣。北畠家臣帳(池山修理亮-対馬守-与五平)標高14m比高5m経緯伊勢において宇治六郷と山田三方は抗争していた。宇治六郷を応援する田丸城主と、山田三方を応援する池山伊賀守、城主と家臣という関係に相反する事態となった。山岡城主、池山伊賀守は北畠家臣でありながら、山田三方側に合力し田丸城主と軋轢が生じ、伊賀守は反乱を起こすことになった。結果、伊賀守は田丸城を制圧し、田丸城主(親忠)を自刃に追い込んだ。歴史「勢陽雑記」には、「天文年間田丸家の侍山岡一党、池山伊賀守逆心して田丸を攻めける、とある。田丸弾正少弼顕晴防戦ひけれども終に打ち負け、少弼自...山岡城

  • 岩出城

    古地図昭和23年、米軍空中写真現代岩出城の移り変わり城名岩出城読みいわでじょう住所玉城町岩出築城年、築城者延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法又は、天正3年(1575)田丸中務少輔直息(直昌)形式平城遺構消滅、石碑規模150×130m標高16m比高6m歴史この地、岩出は往古(平安中期)の、神宮祭主大中臣氏岩出祭主家の500年にわたる館跡とも伝えられる。一説には延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法が築城ともいわれる。又は、天正三年(1575)、織田信雄が田丸に三層の天守閣を築き入城の際、城主田丸中務少輔直息はこの岩出台地に城を築いて移ったのが岩出城の最初とされる説もある。その後、牧村兵部大輔利貞、稲葉蔵人道通が城主となった。慶長5年(1600)、家康は関が原の論功で2万石を加増して道通を田丸城主に取り立て...岩出城

  • 白山ヶ鼻城

    城名白山ヶ鼻城読みはくさんがはなじょう(桑名市遺跡包蔵地検索より)住所桑名市東方形式平山城遺構壊滅城主近藤右京進標高18m(改変前は25m程と考えられる)比高(東側)10m(改変前は17m程と考えられる)歴史北廻城の出城。信長により落城。経緯日本城郭大系に「室町期、近藤右京進の居城。小学校で遺構不明」とある。書籍三重の中世城館日本城郭大系(その他の城郭一覧)現地桑名市立大成小学校地図白山ヶ鼻城

  • 尾野山城

    城名尾野山城読みおのやまじょう別名小野砦住所桑名市東方字岸西形式平山城規模100m×130m城主尾野山正斎坊(小野神社の別当)標高25m比高19m歴史永禄天正のころ、織田信長勢によって滅ぼされた。一説には、永禄年中に建部(又は渡部)掃部介が居城したともいわれる。(勢陽五鈴遺響)経緯城域の北側が道路改良に伴う対象となるため、三重県埋蔵文化財センターにより、平成4年に地形測量、同6年に試掘調査が行われている。書籍尾野山城跡発掘調査報告三重の中世城館現地現在は、小野神社の裏山になり、土塁が部分的に残存し、壇もみられる。地図尾野山城

  • 桑名城

    城名桑名城住所桑名市吉之丸9築城年永正10年(1513)築城者伊藤部左衛門形式当初は不明-水城遺構石垣、堀規模400×550m城主本多忠勝系統伊藤氏は北勢四十八家標高1m歴史永正10年(1513)に、関東より伊藤氏の伊藤部左衛門実房がこの地に城館・東城を築いた。天正2年(1574)織田信長が征し、滝川一益が配下に置いた。天正19年(1591)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめた。文禄4年(1595)伊勢神戸城から天守閣を移築した。豊臣秀吉の時代には、神戸信孝以降目まぐるしく支配者が入れ替わった。慶長6年(1601)、本田忠勝を桑名10万石に封じた。4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多門が立ち並んだ。元和2年(1616年)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んだ。元...桑名城

  • 大井田城

    城名大井田城読みおおいだじょう住所いなべ市大安町大井田築城年永禄年中か形式平山城(居館の集合体の行きついた結果の城)遺構土塁、空堀、井戸、虎口規模主郭70×50m全体350×240m城主栗田(粟田)左衛門佐(員弁雑志)又は、印道信入道(桑名志)標高76m比高17m書籍三重の中世城館三重の山城ベスト50を歩く環境北の宇賀川を防御にしている。現地梅林公園となっている。居館に重きをおいた造りに伺える。地図大井田城

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