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セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボ https://blog.goo.ne.jp/idealblog2

日本の城、写真、ダートレース等の趣味を相互に関連づけて趣味を深く追求!

三重県を中心に徹底訪城、伝えて残したい山城遺産。時々ダートレースで若さを保ちつつ、セルフコロボレーションを試みる。

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  • 北家城城

    北家城城2021年1月6日に”遺構探索倶楽部レコ”が新発見した山城。10月に松阪山城会の会長に伝達し、12月11日に伊藤徳也氏と新城について事前に見ていただいていたレポートに基づいて面談した。その評価は「北家城城は間違いなく城」とされた。さらにこの北家城城より南西方600mの尾根上にある19×11mの単郭、両側に堀切を持つ遺構も城であると評価された。この山城を我々は「北家城西城」と命名していた。その理由として両城の間は大きな谷に遮られていて距離もあることにより別の城と判断はするが、一つの山塊に共存する以上全くの無関係とも考えにくいことから「北家城」を冠として関係性を伺わせた。あるいは北家城城が主で北家城西城が従という意味合いがあるのかもしれにという想像からでもある。昨今、グーグルマップやツイッターで「北家...北家城城

  • 日本の城 目次

    日本の城制覇611(2022.2.12現在)日本全国城制覇の記録只今あっちこっち工事中です!デジブック百名城(現在94城制覇)+他名城(117制覇)=211制覇地図0-1;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kp6KADMyLUKo<!--日本の城-->24三重県の城・制覇400地図1-1;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU松阪の城制覇98地図1-2;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfI7Dg0vF-_824三重県の城・未制覇多数地図1-3;http...日本の城目次

  • 三重県の城

    紅葉に染まる上野城の高石垣三重県の城リスト制覇36801桑名市02いなべ市04東員町05四日市市06菰野町07朝日町09鈴鹿市10亀山市11津市12松阪市13多気町14明和町15大台町16伊勢市17鳥羽市18志摩市19玉城町20度会町21南伊勢町22大紀町23伊賀市24名張市25尾鷲市26紀北町27熊野市28紀宝町29御浜町未制覇の地図<!--未制覇の地図-->制覇の地図<!--制覇の地図-->三重県の城

  • 松阪の城一覧

    松阪の城・砦・館一覧;(制覇72)松阪の城順位・星数表★は「松阪の城50選」につけられた星の数。星合氏館佐藤氏館曽原城須賀城★★★小川城天花寺城★★★筒野砦★★天保館堀ノ内城八田城★★★釜生田城★★★森本城★★滝之川城★★★矢下城★★小原城★★上小川城★★柚原城★★黒米城★★★小牧薩摩守館跡松ヶ島城★★久米城船江城★赤城★阿坂城★★★高城★★枳城★★岩内城(松阪)★★天ケ城★★伊勢寺城★★★五輪山城松坂城★★★黒田城★白山城★★岡ノ谷城★★園館立野城大河内城★★★泉ヶ久保城★★脇谷城★★★坂内城★★★坂内氏館達磨城浅堀木城★神山城★★★尾タケ館★矢倉山城★★★戸垣内館山室城★★上山城★★六呂木城★花木館霧館大石御所(館)有間野高城★★下滝野城★★上ノ原館★滝野城★赤桶城★★田引城★愛宕砦★九十九曲城★★福...松阪の城一覧

  • 松阪の城50選、入手方法

    「松阪の城50選」は書店では売っていない。販売数量が少ないせいか、入手方法は葉書かEメールとのこと。税込1,000円+送料で後払い。葉書➡〒515-0063松阪市大黒田町1850-5高瀬孝二Eメール➡mphoto_7@mctv.ne.jp門山信男「セルフコラボレーション」とメモ書きしてください。内容はよく、保存版・携帯版として文句無いと思う。新聞各紙で取り上げられている。朝日新聞https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191213002526.html夕刊三重http://www.yukanmie.com/news/8205/伊勢新聞https://news.line.me/issue/oa-iseshimbun/a81da78140feそろそろネット上で見かける...松阪の城50選、入手方法

  • 金山城

    城名美濃金山城読みみのかねやまじょう別名兼山城住所可児市兼山築城年1537年廃城年1601年築城者斎藤正義廃城者石川氏形式山城遺構曲輪、石垣、城主森長可など標高280m比高185m歴史森可成(よしなり)-長可(次男・ながよし)-忠政(六男)経緯1601年石川氏によって解体、犬山城の改修に使用される。天守移築説は否定されている。参考Wikipedia他現地石川氏が犬山に材料を持っていってから、江戸時代は尾張藩の山となり立ち入り禁止、明治時代は皇室の管理、昭和20年からは国有林となる。昭和28年住民に払い下げられた。長年にわたり利用できなかったことが当時の様子を残すことになった。破城の様子は全国のどこよりも生々しいと思った。考察岩村城の六段壁に匹敵する石垣の様子が主郭の西側などに伺える。一時森長可や忠政が岩村城を接...金山城

  • 八田城

    八田城はったじょう別名;霧ケ城城名八田城読みはったじょう別名霧ヶ城住所松阪市嬉野八田町築城年鎌倉時代か(注1)築城者三浦盛時か形式山城遺構曲輪、土塁、堀切、横堀、井戸、見張台規模100m×150m城主三浦氏一族三浦一族家臣鳥羽氏(与原)標高58m比高34m歴史1,鎌倉時代に相模から三浦五郎左衛門盛時が来て築城した。2,姓を大多和に改め十一代大多和盛成は北畠顕能に従い以来北畠氏に属した。3,永禄12年(1569)信長の伊勢侵攻の時、大多和監物が籠城した。秀吉は二手に分かれて攻めたが堅固で攻めあぐねた。4,折しも山手から濃霧が城を覆ったので八田勢が優勢であった。かくして秀吉は引き揚げた。5,大河内城合戦は和睦となり、下之庄へ土着し三浦姓と改めた。参考文献三重の中世城館環境麓に祖先の三浦義明の霊をまつる義明寺がある。...八田城

  • 梁瀬兵庫頭城跡

    松阪市飯南町粥見に史跡柳瀬観音がある。入口の階段右側に案内の看板がある。あらためて活字に起こしてみる。「史跡柳瀬観音中世末期の戦国時代、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に住んでいた野呂兵庫頭が持仏を埋めて大和へ去り、元和三年村人が発見して深田金助らがこの観音寺を創建したと伝えています。現在は無住のため荒れ果てていますが、大正時代まで芝居小屋が假設され、しばしば興行されていました。附近には武将館ゆかりの地名がいくつか残されています。飯南町文化財調査委員会」である。中世城館ファンとしては見過ごせない情報が幾つかある。1、中世末期の戦国時代に、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に、野呂兵庫頭が、住んでいた。2、附近には、武将館ゆかりの、地名が、いくつか残されている。以上9つのキーワードがみられる。飯南町史には以下の記述がみ...梁瀬兵庫頭城跡

  • 御麻生薗見張城

    城名御麻生薗見張城(注1)読みみおぞのみはりじょう住所松阪市御麻生薗町/庄町形式山城(見張台)遺構曲輪・堀切・見張台(虎口・西・主郭)標高250m比高200m歴史古くは伊勢神宮のあらたえの材料である麻を栽培していたということから地名にその面影が伺える。経緯2018年2月3日初登頂「本郷浅間山松阪ノ猪」のプレート有り。この時、尾根筋に堀切を見つけ城跡を認識する。同13日俯瞰図を描く。2020年1月10日約2年振りに2回目の登頂。新たに虎口・見張台と東堀切を確認する。又、主郭の北西の口を虎口と認識する。書籍無し環境櫛田川中流域の左岸にあって妨げるようにその流れを右折させている。そのことによって流れと山肌は近接し全ての往来を妨げている。まさに自然の要害を創り出している。考察●虎口見張台御麻生薗見張城の南に位置し尾根を...御麻生薗見張城

  • 佐原上三瀬城

    単郭構造であるが虎口に小さなエプロンが付属している。背後に堀切はない。曲輪の奥(虎口と反対側)に低い土塁の痕跡がある。近世において、社を設けて祭事に使用されていたらしいが現在は放棄されている。佐原上三瀬城

  • 奈良県の城

    https://www.google.com/maps/d/edit?mid=11IsGW7BI7UlxxDaOfIeYJ98z0F0&usp=sharing奈良県の城

  • 丹生番所城

    丹生番所城

  • 矢倉山城整備

    松阪市にある矢倉山城の訪城会が4月4日に行われる。子供も参加可能の一般向けの山城の見学会を射和公民館が計画されている。それに向けての事前整備ということになった。ボランティアで参加したのは9名で心強い。半日悪戦苦闘の結果見違えるようになった。一般参加ができるようである。よく見る北畠の城とは、やや趣が異なるコンパクトだが見どころのある山城である。矢倉山城整備

  • 川上城

    ☝川上城想像図☝曲輪Ⅰ☝曲輪ⅡからⅢ☝曲輪Ⅲ☝曲輪Ⅲから堀切Aと曲輪Ⅳ☝堀切A☝曲輪Ⅴ☝曲輪Ⅴから曲輪Ⅵ(手前に堀切B)☝堀切Bと曲輪Ⅴ☝曲輪Ⅵ城名川上城読みかわかみじょう住所津市美杉町川上築城年不明築城者不明形式山城遺構曲輪、堀切規模尾根230mに亘って、大小9つの曲輪と2つの堀切によって縄張された中規模の山城(注1)。城主日置氏か。標高572m比高230m歴史応永22年(1415)北畠満雅一回目の挙兵の時、5月16日に阿坂城が攻め取られ、北畠軍は中村川をさかのぼり多気にこもって持ちこたえた。一方同年6月17日、雲出川を遡った幕府軍に川上城は落された。(伊藤裕偉氏、「北畠氏領域における阿坂城とその周辺」『三重ヒストリー6号』)経緯平成7年夏、皇学館大学考古学研究会にの調査によって遺構が確認された。同10年5月...川上城

  • 剣ヶ峰城

    城名剣ヶ峰城読みけんがみねじょう住所津市美杉町川上/奥津/上多気築城年不明築城者不明形式山城遺構曲輪、土塁、堀切標高723m比高460m経緯近世に描かれた『多気城下絵図』では、「剣ヶ峯城」「天峯矢蔵」「大峯城」「天峯城」などと呼ばれ広く知られていた。伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述がある。近代になって、その存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表された。同年秋に伊勢中世城館研究会によってさらなる調査が行われた。書籍伊勢の中世城館第13号環境奥津の消防署との比高は460mとなる。霧山城の南方に位置しその距離は2.8㎞で見通し...剣ヶ峰城

  • 川上城への道のり

    川上城への道のり

  • 発見!! 出丸城

    これまで出丸城の場所を確定した報告や資料は無かったが、今回確率の高い遺構を発見したことでこれまでのブログ記事を全面改訂し旧記事は削除した。過去2回(20172019年)は単独訪城、今回(2020年)は山城会会員の同伴を得た訪城である。山桜がこれ見よがしに枝を張り尾根のところどころに花びらを散らしていた。城名出丸城読みいでまるじょう【*1】住所津市一志町波瀬出丸/松阪市嬉野宮野町形式山城/のろし台遺構曲輪、土塁城主出丸四郎国道【*2】一族波瀬氏の分家。波瀬城の支城。【*2】標高206m(三角点)比高125m歴史信長により落城。書籍【*2】日本城郭大系・【その他の城郭一覧】伊勢の中世城館・第22号【上出城の調査】忍者学講座・第7章【忍者の火器を作ってみる】環境多気御所と一志平野部を結ぶ多気街道と波瀬の平野部を眼下に...発見!!出丸城

  • 上出江大権現 行者

    施設名大権現/行者住所多気町上出江形式単郭遺構削平地腰曲輪規模15×20m標高131m比高56m環境北から南へ大きく櫛田川が湾曲する要因となる舌状丘陵地の側面を形成する一連の山塊の一つである。側面側は急峻で反対側は緩やかに平坦地へつながる。側面側の視界は本来は良好で上出江・片野の集落や和歌山街道に繋がる間道を俯瞰する。小さいが側面側には腰曲輪が認められる。現地権現さんや行者さんの祭事場である。維持管理された状態と見受けられる。考察出江地区は小祠が点在する。山神、金毘羅、弁天、浅間、明神、薬師堂、大日、庚申等がある。感想山頂の削平地を城郭とする根拠は見出せない。北に存在するひよどり城から尾根伝いに出曲輪、小さな峠を越えてこの削平地と、一連の動線を仮定することも確立の極めて低いこととなる。権現、行者さんの祭事場の施...上出江大権現行者

  • 樋ノ谷遺跡

    遺跡名樋ノ谷遺跡読みひのたにいせき住所大紀町(旧大宮町)神原566時代縄文早期(7000~8000年)前形式竪穴式住居跡遺構復元モデル規模2棟(一棟は現在閉鎖中)標高79m歴史県内屈指の古い時代の住居跡経緯畜産環境整備事業に伴って昭和57年秋、1か月に亘り1000㎡を対象に県教育委員会文化課によって発掘調査された。平成の初めころ復元が行われたが、風雨の影響などで傷んだ。令和2年夏に一棟の再復元が完成した。町文化財調査委員の中瀬氏は「多くの人に見に来てほしい」と言われている。書籍現地案内資料夕刊三重環境宮川中流右岸の河岸段丘上にある。神原集落の西側を南から北の宮川へ向けて小支流の樋ノ谷が小さな扇状地を形成しながら開いている。感想今でこそ道路によって短時間で行くことが出来るが、周辺の地勢や環境から当時を察すると、「...樋ノ谷遺跡

  • 奥野城

    👆定本三重県の城👆定本三重県の城(巻末に「字小広」で記載あり)👆松阪市史別巻(古地図で「字小廣」を検出)👆昭和22年航空写真(該当地の鋭角で変則的な様子)👆4図で位置の検出👆西野町現地付近👆字小廣の尾根を攻めるが何もない👆山すそに削平地はある👆これだけでは判断しがたい城名奥野城読みおくのじょう別名奥の屋敷住所松阪市西野町字小廣(広)形式居館遺構不明規模不明城主不明標高132m比高30m(無量寺前より)経緯定本三重県の城にてNo,104として奥野城が記されている。巻末の記事には「丘陵地を削平して三方を防塁とした単郭構造の城で、郭内より出土した備前焼の大甕が現存する」とある。書籍定本三重県の城環境西野町集落より南西の方向で、棚田の最高点から山林にかけての範囲を、旧称でいう字小廣(広)である。現地棚田自体も圃場整備が...奥野城

  • 多気御所を取巻く七つ峠踏査の計画

    津市美杉町多気に北畠氏の本拠地、多気御所の跡地がある。館跡と共に霧山城砦の遺構が中世の当時を忍ばせる。ここを中心に北畠氏は240年程の権勢を振るっていた。この本拠地は美杉の山中にあり、周囲を険阻な山々が取巻いている。行き来できる峠道は限られた数しかない。それが七つ峠と言われているところだ。ここは津市が「史跡多気北畠氏城館跡保存管理計画」として、その保護を目的に、発掘調査、整備事業などを行っている。同計画の資料の一部に下表がある。七つ峠がその対象にリストアップされている。この七つ峠については以前より諸氏によって取り上げられている。代表例が下図である。原図は樋田清砂氏作成とある。この中の峠の部分だけをズームアップしてみる。峠が御所を取巻いて、北畠氏の本拠地を守る上で重要な要素であったということが、作者の意志として感...多気御所を取巻く七つ峠踏査の計画

  • 五箇篠山城(ごかささやまじょう)

    城名五箇篠山城読みごかささやまじょう旧名五ケ城住所多気町朝柄/古江城山築城年不明形式山城遺構曲輪、堀切、土塁規模270×115m城主野呂氏(伝承)-五箇景雅(伝承)-野呂筑前守-野呂氏代々(伝承)-安保大蔵大夫一族北畠氏家臣標高140m比高75m歴史史料に裏付けされた信頼性の高い情報を諸氏が文献としているものを時系列に記述する。「文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。仁木義長が伊勢守護に任じられると1342年に田丸城や阪内城を相次いで陥落させ伊勢国での南朝方を一気に劣勢に追い込み、翌1343(康永2=興国4)年には、五ヶ城にも軍を進め攻撃している。その後の史料がなく合戦の結果は不明だが、五ヶ城もおそらく落城したものと考えられる。」(県史編さんグループ小林秀氏)(落城1⃣)「1465年12月6日付けで、北畠氏に...五箇篠山城(ごかささやまじょう)

  • ヤマビル対策

    ヤマビルが噂されている山に行くことになった。チャボホトトギスを見に行くためだ。対策の一つに考えたのがこれだ。百円ショップで手に入れた”ヘアーバンド”を飽和食塩水に一晩漬けておいて、スパッツの下端に装着。水分がしたたり落ちない程度に手で絞ったものを、スパッツ装着後、つま先からワンタッチで簡単装着。多少は塩分が靴に付着する可能性があるのでその辺は気を付けること。3人が同じように装着し、ヤマビルが目視されたところでチャボホトトギスを撮影したが全員無事であった。まだ、一回の経験で結論は出せないが、これいい案かも知れないと今のところ自負している。今後、経験値を積み重ねて様子を見ていきたい。(塩、ボトルに入れた塩水も携帯)2020.09.15朝熊岳道にてヤマビル対策

  • 朝熊ヶ岳山行

    三重県の絶滅危惧種Ⅱ類を見たくて朝熊ヶ岳に登る。2002.09.15晴下調べから”ヤマビル”が多いという情報を得ていた。いろいろな参考意見を尊重した上で、今回プラスαで新しいことを試みた。下からくるヤマビル対策スパッツは無条件で装着する。その一番下端にヘアバンド(百円ショップ)を巻く。このヘアバンドは昨晩から今朝にかけて、一晩、飽和食塩水に漬けていた、たっぷり塩分を含んだものだ。スパッツの上なので体や靴に塩害は起こしにくい。ゴムの伸縮が足首に程よい。安い。洗える。取り付け取外しが超簡単。チャボホトトギスが咲く湿気の多い切通しで立ち止まって撮影をした。同伴者が直ぐにヤマビルが動くのを見つけた。噂通りここはヤマビルの頻発出現地点。山行の往復で同じように立ち止まったが、同伴者含む3人ともヤマビル被害は避けられた。この...朝熊ヶ岳山行

  • 長谷城

    城名長谷城読み長谷城住所多気町長谷形式山城(独立山頂)遺構曲輪、堀切、土塁、井戸規模160×100m標高218m比高113m城主度会家行か築城時期南北朝時代環境近津長谷城より南西へ(400m)派生する複雑な尾根の一つにある。現地河川や街道からは少し離れた位置にある。現在は近長谷寺のための舗装路が整備され、近くに駐車場もあるので比高は気にしなくてよい。又城への入口も舗装路から簡単には入れる。感想ロケーション、地勢からみると近津長谷城の支城と考えられる。近津長谷城は周辺に西之城、東之城、茶臼山砦、そしてこの長谷城と一大城砦群を形造っている。南朝の拠点としてその意気込みが伝わってくるようだ。地図長谷城

  • 高井戸城

    城名高井戸城読みたかいどじょう別名佐奈城住所多気町平谷築城年築城者城主不明形式山城(尾根先端)遺構曲輪、土塁規模50×25m標高76m比高32m環境JR佐奈駅の北、街道、街並みの背後にある低い丘陵の先端に城はある。現地曲輪は神社となり社が祀られている。卵型の狭い主郭に土塁はない。北側から南に向かって緩傾斜となる。主郭の東側に副郭となる広めの台地があり、中央に段差があって三番目の曲輪となるのかも知れない。畑地として改変されている。感想佐奈の小さい盆地を北の丘陵から見下ろし、直下の街道と町を抑えるための城と言う雰囲気である。地図高井戸城

  • 西之城

    城名西ノ城住所多気町津留/鍬形築城年・築城者・城主不明形式山城(尾根山頂)遺構郭、堀切(西に2か所、東に4か所)規模主郭、東西30×20m標高210m比高150m経緯近津長谷城は貞和三年(正平二年・1347)楠木正行の挙兵に呼応し外宮禰宜の度会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと「外宮禰宜目安案」に記されている。田丸城・一之瀬城とともに北軍をおおいに悩ました伊勢における南朝方の拠点の一つであった。その近津長谷城の「西の城」という説がある。尾根伝いに2100mほどの距離でそれほど困難なルートではない。書籍三重の中世城館環境丹生と櫛田川の両面をを見下ろす急峻な山城である。現地どこから攻めるにもまずは急峻な傾斜を攻略しないと近寄れない。尾根に取り付いても主郭までの距離がいずれのルートも十分ありこれも防御上有利である...西之城

  • 矢田城

    城名矢田城読みやたじょう住所多気町矢田築城者2説あり(以下参照)形式山城(独立山頂)遺構曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台規模150×90m(主郭50×40m)標高129m比高77m経緯以下は笠木館にある説明板の記述内容。おおむね各資料はこのような論調である。①阪内氏の居館跡として断定されている。「神宮文庫」、寛正年間(約1460)頃より。平時には笠木御所に居住をして、有時(事)には1km離れた矢田城に立籠りの砦としていた。②永禄12年(1569)10月4日、以降、具教・具房父子はこの笠木阪内の御所に退城したと「信長公記」に記されている。③天正4年(1576)11月、北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫頭具義(国司の聟・むこ)も田丸城で鏖殺(おうさつ)された。書籍『伊勢の中世/第75号(文責成瀬匡章...矢田城

  • 五桂城

    城名五桂城読み五桂城住所多気町平谷/五桂築城年一概に言えないが堀切の竪堀化の傾向が見られないことから、在地の城跡として共通するよく似た、竪堀のある長原城より古いと考えられる。長原城の推定築城年は天文5年(1536)なのでそれ以前ということになる。形式山城遺構曲輪、堀切、土塁規模主郭25×20m城主不明標高220m比高163m書籍①三重の中世城館の記述を記す。「五桂の南西の標高220mの光度山から北東にのびる山地の尾根にある。佐奈谷を一望におさめる所で、東側は五桂池へ通ずる谷となり、西側は急斜面をなしている。尾根が小山状に盛り上がっているだけで、あまり遺構はみられない。北方の人家の付近には馬場と呼ばれる所がある。」「地目:山林、墓地立地:山頂住所:五桂字城山」②日本城郭大系の記述を記す。「多気町五桂字城山山頂に城...五桂城

  • 笠木館

    城名笠木館読みかさぎやかた別名笠木御所○現地の案内板の記述より笠木はかつての神宮祭主領であったが寛政年間(1460頃)より、阪内氏の知行地となり阪内氏の居館跡として断定されている。(神宮文庫)永禄12年(1569)織田信長と北畠勢が大河内城で攻防を展開したが、信長の次男信雄を北畠家の養子として和議を結んだ。そこで具教・具房父子はこの笠木御所に退城したと「信長公記」に記されている。天正4年(1576)11月北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫具義(国司の婿)も田丸城で殴殺された。○もう一つ案内板「中世の回土居群」よりこの場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。標高は40mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のように...笠木館

  • 牧城

    城名牧城住所多気町牧/鍬形築城者岡惟家(これいえ)形式山城遺構曲輪、竪堀城主岡惟家-小四郎(注1)標高96m比高47m歴史北畠家家臣経緯1576年か1577年に北畠教具と同時期に死去。書籍○勢陽五鈴遺響「同所ニアリ岡小四郎住セリ北畠家臣ナリ」(p209)○三重の中世城館○三重県の城「多気郡多気町字前街道中牧集落の南東250mの山頂にあったとされる城で、北畠氏の被官岡氏の居城という」○多気町史「鍋倉峠南側に標高100mの山があり、その山頂に城跡がある。「伊勢名勝志」には北畠氏の家臣岡惟家(これいえ)此ニ居リ近郷ヲ所管ス。小四郎ナルモノニ至リ、天正中北畠具教三瀬ニ殺セラレル時之ニ死ス。其の子孫今本村ニ存ス」また、「山頂には狭い平坦地があるだけである。峠の西入口麓付近を扇の館といい、今も小四郎を子孫とする岡氏宅がある...牧城

  • 多気町の城

    笠木館多気町笠木笠木御所。矢田城多気町矢田矢田御所の詰城。浅間山砦多気町野中西山城多気町西山北畠家家臣。片倉氏館多気町四神田伊達家家臣。黒田山城多気町兄国/荒蒔佐奈城五桂城多気町五桂、前村、平谷の境界山上山頂にあった。砦が付属する。近津長谷城多気町長谷貞和3年に楠木正行と挙兵。長谷城多気町長谷近津長谷城の支城か。佐伯中浅間山城多気町佐伯中佐伯中浅間山で大日如来が祀られている東之城西之城多気町津留、牧、鍬形の境界山上東西に連なる尾根上にある。牧城多気町牧北畠家家臣。具教とともに暗殺。丹生城多気町丹生新発見!!ひよどり城多気町上出江波多瀬氏の出城か。五箇篠山城多気町朝柄北畠家家臣。波多瀬城多気町波多瀬大永年間築城。波多瀬氏を称す。多気町の城

  • 城山城

    城名城山城読みしろやまじょう別名棚橋城住所度会町棚橋形式丘城遺構無し(堀切痕、切岸跡らしきものは散見される)規模不明城主福井若狭守か標高31m比高川面より15m経緯”以前から城山と呼ばれていた場所”と三重の中世城館に記されている。書籍三重の中世城館渡会史渡会史の記述を以下に記す。棚橋の集落のほぼ西端に位置する段丘上にあり、下方は宮川の流れがかつては大渦を巻き、曲流するところであった。小高い崖をなし、北西部には「城の小殿さん」と呼ばれる小祠がある。東側は「城の阪」と呼ばれ堀切となっている。現在その大部分は町営住宅の「城山団地」となっている。築城などについての伝承や文献はないが南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるものであろう。環境北側の山が宮川に迫り出すように人や川の可動範囲を狭めている場所で、恐...城山城

  • 南鮠川城

    城名南鮠川城読みみなみはいかわじょう住所度会郡度会町鮠川662/富津形式丘城遺構土塁の一部規模内城田村史によると当時、東西30間、南北20間とあり、54×36m位ほ平地があったようだ。城主不明標高29m川面からの比高10m書籍三重の中世城館環境宮川に面する河岸段丘の断崖にある。支流鮠川(はいかわ)が東側の急崖を創り出したようだ。まるで岬の突端の様相を現している。「内城田村誌」によると「南鮠川の城、字浦の上なる渡船場の断崖上。東西30間。南北20間の平地にあり。郷人これを城(じょう)と称す。蓋し(注1)砦跡ならん」とある。昭和47年2月、城跡を縦断するように鮠川大橋が完成した。いまは土塁状のものがわずか数メートル残っている。現地宮川右岸の河岸段丘の縁に城はある。城から宮川へは行き来ができる。船着き場の様子が垣間み...南鮠川城

  • 牧戸城

    城名牧戸城読みまきどじょう住所度会町牧戸101築城者牧戸氏か形式平城遺構無し規模不明城主牧戸友之助牧戸与五郎一族北畠氏家臣標高10m書籍渡会史三重の中世城館渡会史によると、「勢陽五鈴遺響」に「牧戸砦跡。同処にあり国司北畠家のきか牧戸氏住まいせり」とあり、内城田村誌には「牧戸砦址・本区に在りと、今其跡を詳にせず。また三重国盗り物語には牧戸友之助の名が見える。他書にも牧戸与五郎の記述もある。そのことから土豪、牧戸氏の館か砦ほどのものがあったのだろう。いまその位置を明確にすることはむずかしく台地の先端が宮川に突出する八柱神社跡ではなかろうか。また集落の西端ともいわれる、とある。環境宮川に突き出すような河岸段丘の縁に城跡はある。敵に対する防御というよりは、宮川の抑えと言った方が合点がいくロケーションだ。現地上流側、入り...牧戸城

  • 麻加江城

    城名麻加江城読みまかえじょう住所度会町麻加江奥屋敷築城年室町後期か形式丘城遺構曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、虎口規模主郭50×50m城主不明標高55m比高23m歴史背景書籍*2に「南北朝期、度会町一帯では両朝の抗争が激しく、南朝が北朝側の法楽寺(蓮花寺・度会町棚橋)を落して背後に蓮華寺城を築くと、今度はこれを北朝が奪回するというような状況であった」とある。法楽寺という呼び方は寺の名称ではなく、蓮華寺がある辺り、度会町棚橋辺り一帯の地区をいっている。書籍*1三重の中世城館*2三重の山城ベスト50を歩く環境宮川右岸の度会町に麻加江集落があり、北のはずれにある丘陵地端に城はある。現地ほぼ東に向いた緩傾斜を溝と土塁で囲んだ三角形の曲輪が中心となっているようだ。南200mの所には”郷士館”と呼ばれた館跡があったというが畑...麻加江城

  • 蓮花寺城

    城名蓮華寺城住所度会町棚橋築城年築城者城主不明形式山城(上の城と下の城)遺構曲輪、堀切規模上の城東西10m×南北80m下の城東西30m×南北25m標高160m比高90m(上の城)書籍未確認環境宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。現地山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。考察蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。感想遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必...蓮花寺城

  • 矢村城

    新城名矢村城旧城名山川城度会町は”従来の所在地「下久具」の訂正と同時に城名を矢村城とする”としている。住所度会町上久具形式丘城遺構曲輪、空堀、土塁、虎口、井戸跡規模40×60m城主刀根氏か標高40m比高6m経緯三重の中世城館によると「刀根幸太郎氏によれば、その祖先がここに落ちのびてきたといい、同家には天正8年(1580)の「佑山信士」の位牌がある。付近を開墾したときに刀片などが出土し、岩風呂もあったと古老は伝えている」とある。書籍三重の中世城館環境北に向かう傾斜角3度くらいの緩斜面にある。東側に小川が流れその縁は急崖となる。現地集落とは地続きの様相で天然の要害ではない居館を想像させる周辺のロケーションだ。土塁、堀は高さ、深さ、容量があり見応えがある。南側(山側)の堀や土塁は敵からの防御はもとより、山からの水、落...矢村城

  • 渡会の城

    度会町の城特集一之瀬城度会町脇出城山愛洲氏が築城。一之瀬御所。青木山城・屋敷跡度会町脇出丘頂に4条の堀切、削平地がある。山川城度会町上久具丘陵にあった。麻加江城度会町麻加江丘陵にあった。長原城度会町長原大崎氏の詰城。立岡城と似るところあり。南鮠川城度会町富津丘頂にあった。立岡城度会町立岡丘頂にあった。牧戸城度会町牧戸北畠家家臣。山崎館度会町立花台地にあった。殿山城度会町長原丘頂にあった。制覇6渡会の城

  • 殿山城

    城名殿山城読みとのやまじょう住所度会町長原城主山崎氏か形式山城遺構削平地標高103m比高65m書籍『度会史』「中川村誌に中川神社の東に当り字田間そばの山上に広さ二町歩程の坦夷(注1)あり。土俗(注2)之を殿山と呼ぶも玆に住みし郷士を明らかにせずとある。山麓に割合浅い空堀状のものが、130mほど続く。この溝より山側15~20m離れて、高さ1.5mの石積みがほぼ東西に50m続く。さらに、これより山側へ8~10m離れた位置に高さ3mの石垣が45mほど東西に延びている。この石積みと石垣の間が長方形の削平地となっている。ここより北方に宮川を見降ろすことができる。」注1たんい【坦夷】(名・形動)[文]ナリ土地などが平らである・こと(さま)。平坦。「-なる大道を択ばば危険少ふして/経国美談竜渓」注2どぞく【土俗】民俗の旧称。...殿山城

  • 山崎館

    三重の中世城館よりなかなか現地を比定することが出来なかったが、国土地理院空中写真で痕跡を見つけた。城名山崎館読みやまざきやかた住所度会町立花字山崎形式平城遺構北側の空堀は巾5m、深さ3mで、南側のものは巾20m、深さ8mありそれぞれ宮川へ続いている。規模110m×100m標高25m歴史もと薬師堂がここにあったが集落に移したというが、昭和51年3月ごろ取り壊されたという。書籍三重の中世城館現地現状は殆どが水田となっている。環境ここから300m南の山頂に殿山城があるが、館と詰城の関係性はあるのだろうかと疑ってしまう。地図詳しくは👆こちら山崎館

  • 発見!山崎館跡

    発見したのは現地ではなく空中写真のネガの中でした。縄張図に縮尺は記してなく、現地へ行っても合点がいかなかった。"title="">長年の胸のつかえが今取れた気がする。古い空中写真は役に立ちます。国土地理院さん、感謝します。発見!山崎館跡

  • 栗谷赤坂城

    城名栗谷赤坂城読みくりやあかさかじょう住所大台町栗谷80形式山城遺構曲輪、堀切(巾6m、長さ8m)規模主郭16×8m城主唐櫃(からと)五身助標高200m比高48m歴史唐櫃氏の出城という。経緯唐櫃に本拠を構えた唐櫃氏の支城であったともいう。環境宮川の支流栗谷川の蛇行点で三方を川に囲まれ半島状になっている。現地峠越の車道が開通し、峠から数分で城跡に着く。考察宮川流域と櫛田川流域を結ぶ重要な間道を、本城(大台町唐櫃)の北口で守る出城と考えられる。感想まるで眼下の間道を180度の視界で見張るためだけに造られた城のようである。地図詳しくは👆をクリック!栗谷赤坂城

  • 栗谷殿切城

    城名栗谷殿切城読みくりやとのきりじょう住所大台町栗谷193築城大永年中(1521~1527)形式山城遺構台状地、堀切城主谷内蔵之丞(たにくらのすけ)政教(栗谷氏)一族北畠家臣標高230m比高63m経緯谷氏が入境の時は誰も住んでいなく、草木茂り、道細く、山賊が横行し往来する旅人を苦しめた。国司北畠氏は谷内蔵之丞政教に山賊討伐を命じた。谷氏は山城を築き、家来六人を召し連れて山賊討伐の任に着いた。谷氏は栗谷三里四方と松阪領の八重田、深長、鎌田を与えられている。(栗谷過去帳より)歴史天正4年(1576)(注1)、谷内蔵之丞政教は北畠具親に与力して義兵を発す、と勢陽五鈴遺響にある。書籍三重の中世城館史跡・名称・天然記念物・基本調査報告郷土の文化遺産宮川流域の遺跡を歩く(田村陽一著)環境宮川と櫛田川を結ぶ間道沿いにある。こ...栗谷殿切城

  • 坊主山館

    👆参考=大日山北にあるヘリポート(後方は大日山)城名坊主山館読みぼうずやまやかた住所玉城町蚊野(かの)形式平城(300m×700mの丘陵地)遺構幅2m×高さ1m弱の土塁に囲われた曲輪3か所1号館:45×60m2号館:22×42m3号館:20×20m規模全体で50×150m城主不明一族北畠氏、田丸城の出城標高45m比高12m歴史旧和歌山軌道に近く、寛正年間(1460~1465)に北畠氏が山田三方を抑えるため要所として築いたものといわれる。書籍三重の中世城館環境昭和47年、陸上自衛隊航空学校のヘリコプター練習場・発着場造成のため破壊された。造成の際、山茶碗、土師器などが出土したという。現地立ち入り禁止区域である。考察宇治山田合戦の初期のころに造られた。土塁で囲われた簡素な遺構から山田三方を抑える兵の駐屯地ではないだ...坊主山館

  • 山岡城

    "title="">城名山岡城読みやまおかじょう住所玉城町山岡字村内形式平山城遺構台地の宅地化で消滅規模不明城主池山伊賀守(修理亮)15??~15??田丸三代城主顕晴(親忠)家臣。北畠家臣帳(池山修理亮-対馬守-与五平)標高14m比高5m経緯伊勢において宇治六郷と山田三方は抗争していた。宇治六郷を応援する田丸城主と、山田三方を応援する池山伊賀守、城主と家臣という関係に相反する事態となった。山岡城主、池山伊賀守は北畠家臣でありながら、山田三方側に合力し田丸城主と軋轢が生じ、伊賀守は反乱を起こすことになった。結果、伊賀守は田丸城を制圧し、田丸城主(親忠)を自刃に追い込んだ。歴史「勢陽雑記」には、「天文年間田丸家の侍山岡一党、池山伊賀守逆心して田丸を攻めける、とある。田丸弾正少弼顕晴防戦ひけれども終に打ち負け、少弼自...山岡城

  • 岩出城

    古地図昭和23年、米軍空中写真現代岩出城の移り変わり城名岩出城読みいわでじょう住所玉城町岩出築城年、築城者延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法又は、天正3年(1575)田丸中務少輔直息(直昌)形式平城遺構消滅、石碑規模150×130m標高16m比高6m歴史この地、岩出は往古(平安中期)の、神宮祭主大中臣氏岩出祭主家の500年にわたる館跡とも伝えられる。一説には延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法が築城ともいわれる。又は、天正三年(1575)、織田信雄が田丸に三層の天守閣を築き入城の際、城主田丸中務少輔直息はこの岩出台地に城を築いて移ったのが岩出城の最初とされる説もある。その後、牧村兵部大輔利貞、稲葉蔵人道通が城主となった。慶長5年(1600)、家康は関が原の論功で2万石を加増して道通を田丸城主に取り立て...岩出城

  • 白山ヶ鼻城

    城名白山ヶ鼻城読みはくさんがはなじょう(桑名市遺跡包蔵地検索より)住所桑名市東方形式平山城遺構壊滅城主近藤右京進標高18m(改変前は25m程と考えられる)比高(東側)10m(改変前は17m程と考えられる)歴史北廻城の出城。信長により落城。経緯日本城郭大系に「室町期、近藤右京進の居城。小学校で遺構不明」とある。書籍三重の中世城館日本城郭大系(その他の城郭一覧)現地桑名市立大成小学校地図白山ヶ鼻城

  • 尾野山城

    城名尾野山城読みおのやまじょう別名小野砦住所桑名市東方字岸西形式平山城規模100m×130m城主尾野山正斎坊(小野神社の別当)標高25m比高19m歴史永禄天正のころ、織田信長勢によって滅ぼされた。一説には、永禄年中に建部(又は渡部)掃部介が居城したともいわれる。(勢陽五鈴遺響)経緯城域の北側が道路改良に伴う対象となるため、三重県埋蔵文化財センターにより、平成4年に地形測量、同6年に試掘調査が行われている。書籍尾野山城跡発掘調査報告三重の中世城館現地現在は、小野神社の裏山になり、土塁が部分的に残存し、壇もみられる。地図尾野山城

  • 桑名城

    城名桑名城住所桑名市吉之丸9築城年永正10年(1513)築城者伊藤部左衛門形式当初は不明-水城遺構石垣、堀規模400×550m城主本多忠勝系統伊藤氏は北勢四十八家標高1m歴史永正10年(1513)に、関東より伊藤氏の伊藤部左衛門実房がこの地に城館・東城を築いた。天正2年(1574)織田信長が征し、滝川一益が配下に置いた。天正19年(1591)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめた。文禄4年(1595)伊勢神戸城から天守閣を移築した。豊臣秀吉の時代には、神戸信孝以降目まぐるしく支配者が入れ替わった。慶長6年(1601)、本田忠勝を桑名10万石に封じた。4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多門が立ち並んだ。元和2年(1616年)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んだ。元...桑名城

  • 大井田城

    城名大井田城読みおおいだじょう住所いなべ市大安町大井田築城年永禄年中か形式平山城(居館の集合体の行きついた結果の城)遺構土塁、空堀、井戸、虎口規模主郭70×50m全体350×240m城主栗田(粟田)左衛門佐(員弁雑志)又は、印道信入道(桑名志)標高76m比高17m書籍三重の中世城館三重の山城ベスト50を歩く環境北の宇賀川を防御にしている。現地梅林公園となっている。居館に重きをおいた造りに伺える。地図大井田城

  • 山ノ城城

    城名山ノ城城読みやまのしろじょう住所桑名市下深谷部字山ノ城形式平山城城主深谷部監物標高38m比高23m歴史永禄年中、織田信長の攻撃により滅ぼされた(伊勢名勝志)のち、飛鳥寺がおかれ現存している。書籍三重の中世城館現地立地は丘陵で、地目は畑となっている。土塁が部分的に残存し、壇もみられる。地図山ノ城城

  • 御園城

    城名御園城読みみそのじょう住所いなべ市員弁町御園字道南廃城年永禄12年(1569)形式平山城遺構不明。団地建設のため破壊とある。規模不明。城主渡辺八右衛門督標高66m比高10m歴史永禄12年(1569)に滅ぶといわれるが(員弁郡郷土資料)、くわしいことは不詳である。書籍三重の中世城館環境員弁川によって形成された河岸段丘の突出した縁に城はあったようだ。現地地目:宅地立地:台地御園住宅団地建設のため破壊されている。(三重の中世城館)地図御園城

  • 金井城

    城名金井城読みかないじょう住所いなべ市員弁町北金井字亀谷築城年永正2年(1505)築城者種村大蔵太夫高盛形式平城遺構土塁、空堀、宝篋印塔規模60×120m城主種村大蔵太夫高盛一族近江源氏の流れをくむ佐々木家の一統六角高成の孫。標高58m比高13m歴史永正2年(1505)に、種村大蔵太夫高盛が築いたとされる。大永2年(1522)、美濃の土岐大膳大夫が金井城に侵攻してきたが北勢諸家連合軍で撃退した。永禄11年(1568)、信長2度目の伊勢侵攻のとき抗戦したが、すぐ降服し配下となった。元亀3年(1572)、高盛死去。4男秀政、その長男秀信が継いだ。天正4年(1576)、秀信は滝川一益に不信を持たれ伊勢長島城へ出頭、切腹させられる。一族は城を放棄してちりぢりばらばらとなった。書籍三重の中世城館環境員弁川の河岸段丘を生か...金井城

  • 下笠田城

    城名下笠田城読みしもかさだじょう住所下笠田字旭1550築城年天正年間築城者多湖刑部左衛門か形式平山城城主多湖大蔵橘実元系統・家臣北西四十八家-北畠氏-織田氏標高比高歴史建武年間(北朝暦で1334年~1336年)南北朝のはじめころ、多湖刑部左衛門がこの付近を押領し、代代居住して付近に大きな勢力をもっていた。永正7年(1510)北畠氏が北勢地方に勢力を伸ばしたときは北畠氏に従う。永禄11年(1568)織田信長の北勢攻略(2回目)にあたっては織田に降服するなど、地方豪族の苦しみをなめている。天正17年(1589)11月、豊臣秀吉は小田原の北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣を命令した。多湖大蔵介橘実元も小田原に出陣した。翌18年(1590)4月、秀吉軍は小田原城の出城を落として包囲網を完了したのであるが、この戦で多湖大...下笠田城

  • 上笠田城

    城名上笠田城読みかみかさだじょう別名笠田砦住所上笠田字城下263-2築城年永禄年間形式平山城遺構土塁、空堀規模53×65m城主多湖大蔵允標高72m比高10m歴史多湖氏、永禄年中;飯田佐衛門尉経緯多湖家は建武年間(1334~37)にこの池を押領し、代々居住して付近に大きな勢力をもっていた。永禄年中には、飯田佐衛門尉が上笠田城を守っていたが織田信長の侵攻の際に滅ぼされた。(勢陽五鈴遺響)書籍三重の中世城館現地地目:山林立地:丘陵南側に員弁川を臨む丘陵の端に位置しており、土塁、空堀も部分的に残存している。寛永年間に六把野用水路の掘割により城跡は分断されている。現在城山稲荷大明神が祀られている。地図上笠田城

  • 野尻城

    城名野尻城読みのじりじょう住所いなべ市藤原町西野尻字南谷築城年天正年間築城者不明形式山城遺構曲輪、土塁、竪堀、空堀規模100×130m城主城主は史料によって記述が異なる。西野左馬亮(勢陽五鈴遺響)塩谷兵部と西野左馬助(三国地誌)文治年中(1185~1189)輪田右馬允が居住し、そののち、白瀬家が六代続き、その後日置大膳、その子日向および塩谷兵部ら数代が居城したと記している。(伊勢名勝志)輪田右馬允、白瀬正司家が六代、その後日置大膳、日向親子、および塩谷兵部が居城した。(三重の中世城館)標高148m比高28m歴史塩谷兵部は1574年(天正2)滝川一益に不信を抱かれ、長島城に呼び出され切腹させられた。経緯書籍・資料三重の中世城館いなべに行こう(いなべ市観光協会)現地大字西野尻字南谷の丘陵の先端に位置する。北から東に...野尻城

  • 田辺城

    田辺城城名田辺城住所いなべ市田辺北山築城年天正14年(1586)築城者木造左衛門左具康(長政)形式平山城遺構郭、土塁、空堀、土橋台地南側の先端に方形の本丸を設け、同一平面上北側に家臣団の居館を配した典型的な戦国城館の形式は、関東地方を中心に行われた丘陵城郭と呼ばれるものである。規模210m×450m主郭は50m×50mの空堀と土塁に囲まれた方形のもので3か所に虎口がある。ただ西側の入口は土塁の崩れた状態から見て、後世に造られたものと思われる。城主木造氏一族北畠一族標高240m比高30m歴史木造具康の築城。具康は天正12年(1584)小牧長久手の戦いで父の隠居所・戸木城を増強し、秀吉方の蒲生軍と対峙し、6か月籠城しよく戦った。同14年信雄、秀吉の和睦により戸木城は開城され、具康は信雄より与えられたこの田辺に城を築...田辺城

  • 大島城

    城名大島城読みおおしまじょう住所桑名市長島町大島(長良川)築城年天正年間遺構消滅規模不明城主大島新左衛門標高不明歴史長島の西南隅の出城で兵2000人、長島一向一揆の拠点。経緯明治の河川改修で水没。書籍三重の中世城館現地桑名市教育委員会文化財「遺跡包蔵地検索」によると、護岸から西200m位の長良川の水中を示している。大島水門が付近にある。地図大島城

  • 小田御崎砦

    城名小田御崎砦読みおだみさきとりで住所桑名市長島町西外面(長良川)築城年天正年間遺構消滅規模不明城主梅戸高実-高資一族田光氏の後裔。北勢四十八家(八風街道の抑え-六角氏と縁組)の一家。歴史長島の西の守備砦。ウィキペディアでは、1568年(永禄11)織田信長に攻められて滅亡した、とある。三重の中世城館(桑名史)では、1574年(天正2)7月落城とある。上記1568年は、織田信長第2回目の伊勢侵攻の時、下記1574年は、一向一揆3回目討伐の時である。書籍・参考資料三重の中世城館・他現地桑名市教育委員会文化財「「遺跡包蔵地検索」によると、光栄寺の西250m位の長良川の水中を示している。付近にある大智院には長島増山家六代藩主正賢(号雪斉)による、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅後、大智院訪問百年を記念して、自筆による「蕉翁信...小田御崎砦

  • 願証寺

    寺名願証寺(願證寺)読みがんしょうじ住所桑名市長島町又木434築造年1492年(明応10)ごろ(中郷杉江地区)1537年(天文6)へ移転(南郷西外面)1574年(天正2)織田軍3回目の一揆討伐1596~1615年慶長年間に復興築造者連淳(蓮如の6男)形式平寺遺構石碑規模50m×60m寺主連淳-実恵-証恵-証意-顕忍宗派山号浄土真宗本願寺派長島山願証寺標高-0.1m歴史信長に敗れた斎藤龍興が逃げ込む。経緯戦乱の世で明日の生活もわからず、頼るもののない民衆や農民の中には、来世に救いを求めて、浄土真宗に帰依するものが多く、願証寺にはたくさんの人々が寄ってきた。尾張や美濃で織田信長に反抗する土豪や戦いに敗れた戦国武将・国侍なども数多く願証寺に寄った。書籍三重の中世城館環境現代では当時の輪中の長島の様子を見ることは出来な...願証寺

  • 伊勢長島城

    城名伊勢長島城読みいせながしまじょう住所桑名市長島町西外面2188築城年文明年間築城者伊藤重晴形式平城遺構移築大手門(蓮生寺)、移築奥書院(深行寺)、堀跡規模230m×310m城主伊藤重晴-滝川一益-原-福島-菅沼-増山標高1m歴史1245年(寛元3)藤原道家が居住する。1482年(文明14)伊藤重晴が築城。1561年(永禄4)服部左京進が伊藤重晴を追放して、願正寺に属した。1567年(永禄10)織田軍第1回伊勢攻略1568年(永禄11)織田軍第2回伊勢攻略服部左京進が没して、下間三位頼且が守護した。1569年(永禄12)織田軍第3回伊勢攻略1571年(元亀2)一向一揆討伐(1回目)で柴田勝家負傷、氏家卜全討死、岐阜へ撤退。1573年(天正元)一向一揆討伐(2回目)織田軍は大垣から南下する隊と八風峠超えする隊に...伊勢長島城

  • 柚井城

    城名柚井城読みゆいじょう住所桑名市多度町柚井廃城年1571年(元亀2)築城者梶田左馬亮形式山城遺構曲輪(10)、土塁規模130m×190m城主梶田左馬亮-梶田刑部浄-西松要人標高78m比高46m歴史長島一向一揆に加勢し織田信長と戦ったが永禄年中に敗れた。その後城主になった西松氏も1571年信長に敗れ廃城となった。書籍三重の中世城館現地掲示板現地独立丘町内で最大規模一部は昭和20年に軍部によって改変されている。地図柚井城

  • 松阪の城50選 第4刷販売中

    松阪の城50選が好評につき、3刷(1800冊)が7月末で売り切れとなりました。この度4刷目の販売を新たに開始しました。これまでの皆様のご支援に感謝申し上げます。松阪山城会の会員が総力を結集して完成させました珠玉の一冊です。ぜひ、お手元に一冊お買い求めください。松阪の城50選第4刷販売中

  • 松阪の城50選 4刷販売開始

    松阪の城50選が好評につき、3刷(1800冊)が7月末で売り切れとなりました。この度4刷目の販売を新たに開始しました。これまでの皆様のご支援に感謝申し上げます。松阪山城会の会員が総力を結集して完成させました珠玉の一冊です。ぜひ、お手元に一冊お買い求めください。詳しくは”松阪の城50選、入手方法”をご覧ください。👆52ページで紹介している#39赤桶城の遠景赤桶城はこの地方では珍しい2重の堀切があります。標高240m、比高70m。城への道案内や縄張図、写真で分かり易く案内を記述しています。松阪の城50選4刷販売開始

  • 長慶天皇の事蹟を追う

    ナゾの天皇と呼ばれる長慶天皇とは?【その所以】●即位の日が特定されず、式典の史料もない。●即位後、行在所が転々とし、明らかでない。●後亀山天皇への譲位の日も推定にとどまる。●譲位後、院政を敷いていたと考えられるが実態が明らかでない。●叔父の宗良親王の『新葉和歌集』にも、南朝の皇位は三代であるとの記事があって、後醍醐、後村上、後亀山天皇があてられている。三重県松阪市嬉野上小川町の花園地区に”御渡寺趾”らしき遺構が認められる。嬉野町史によると”御渡寺趾”は「長慶天皇が多気より下られたときの行在所であったと伝えられる」とある。この御渡寺跡に長慶天皇はいつごろ来ていたのだろうかという、素朴な疑問もある。以下に長慶天皇の生誕から崩御までの52年間に亘って、年ごとの事蹟を整理する。。文末の記号は参考資料を表す。*1国史大辞...長慶天皇の事蹟を追う

  • ヤマユリ

    2020年夏、上小川町に咲く花たち!ヤマユリ

  • 花園城

    👆花園城遠景👆曲輪👆土塁👆土塁👆堀切の痕跡か?城名花園城読みはなぞのじょう住所松阪市嬉野上小川町(大字花園小字鳥屋尾辺り)築城年不明築城者大久保佐兵衛督形式平山城遺構土塁曲輪規模20m×50m家臣北畠家臣(家臣帳に記載あり)標高385m比高15m環境松阪市嬉野上小川町花園集落のほぼ中央にあって、北、東、南を見下ろす台地の上にある。現地眼下の間道は南に向けて走るがいずれ白猪山系にぶつかり、更に南下することは出来ない。南北に延びる丘の上にある。北に登る山側にだけ土塁が施されている。堀切はない。曲輪の削平感は甘い。考察上小川城の西側が白口峠・多気方面であり、大手口である。反して花園側は搦手となる。上小川城の背後の間道であり、無防備であれば敵の攻勢に対して弱点になり得る。仮説花園側(搦手)の番人として中峠への入口辺りに...花園城

  • 御渡寺趾

    👆御渡寺のある山裾遺構名御渡寺跡読みぎょとじあと住所松阪市嬉野上小川町(大字花園小字中ノ平)築年築造者不明遺構削平地3段規模50m×50m標高380m比高23m参考書籍嬉野史・嬉野町史歴史長慶天皇(注1)が在所された時期があるという。御渡寺という名はそのことを現しているのかも知れない。経緯嬉野史文化財考証の項に御渡寺趾という一項がある。短いので全文を記す。『上小川、花園垣内にあり山の中腹の平地を云う。長慶天皇が多気より下られたときの御在所であったと伝えられる。』以上である。この場所を探索するにあたり、花園垣内という場所がキーポイントとなる。花園における小字名を確認するが”垣内”という名称を見出すことはできない。この記述における”垣内”の意味合いは小字名としてではなく”花園の地区内”という広義の意味で捉える方がふ...御渡寺趾

  • 最初はグー

    最初はグー

  • クワガタソウ

    三重県松阪市三峰山山頂1235m令和2年5月14日撮影クワガタソウ

  • 教えてください、花の名前

    撮影日令和2年5月26日午前11時撮影場所三重県松阪市鈴の森公園ネット検索しましたが見つけられませんでした。詳しい方、この花の名前を教えてください。教えてください、花の名前

  • 寺屋敷跡

    遺構名寺屋敷跡読みてらやしきあと別名倭寺屋敷住所津市白山町上ノ村建立年12世(1150年頃か)遺構土塁規模30m×20m標高340m歴史津市広報・歴史散歩(5)によると、”昭和24年布引の滝に滝見台を建設する際、経塚・銅鏡3枚・刀子が出土した。滝見台周辺には、かつて大きな寺院があったという伝承がある。この経塚は青山経塚、あるいは倭(やまと)寺屋敷経塚と呼ばれ、12世紀頃、平安時代のものと考えられている。出土品は市指定文化財で白山郷土資料館に保管されている。”とあった。経緯平成10年(1998)、市指定文化財(4点)に指定資料津市広報・歴史散歩(5)https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000012677/simple/rekishisanpo05.p...寺屋敷跡

  • 真生寺跡

    名称真生寺跡読みしんしょうじあと別名大倉山地蔵院住所松阪市上蛸路町建立年康生3年(1457)頃か(注1)築造者不明形式山腹の丘頂遺構削平地高台規模東西75m×南北60m一族北畠家祈願所(注1)標高143m比高94m経緯平成17年(2005)、旧松阪市を中心として周辺4町と合併し新たな松阪市が誕生したことによって従来の各市町文化財も新市に引き継がれた。その数219件(当時)が『松阪市の指定文化財案内』として一冊の本にまとめられた。その中の一つに、気になる記述を見つけた。その像の底に「康生三年丁丑三月廿三日持住明斗」と墨書銘があり、造像時期(1457年・注1)のわかる貴重な仏像として説明されている。気になる記述は続き、「真生寺は天台真盛宗(注3)に属し、大倉山地蔵院を称し、もとは2Km離れた大倉山中腹にあったが、織...真生寺跡

  • 阿坂城のろし実験パネル展示 ②

    阿坂城のろし実験のパネル展示会場が移動した。カリヨンプラザの期間を終了し、二つ目の会場「百五銀行松阪支店」に移動した。スペースを提供していただいた百五銀行松阪支店さんにお礼申し上げる。小学生の力作を一人でも多くの人に見てもらえるとありがたい。阿坂城のろし実験パネル展示②

  • 大漁桜

    令和2年3月7日(土)PM3:00三重県松阪市嬉野須賀町新聞記事によると大漁桜があるという。淡いピンク色の花の内側に旗をあげたような「旗弁」と呼ばれる小さな花びらがある、とある。1960年代に静岡県熱海市の故角田春彦さんという人が作り出した早咲き種で、サクラダイの大漁期に咲き、花がタイの色に似ていることから名付いたという。須賀町出身の方が20年前角田さんから苗木をもらって植えたのが始まりで、取り木して増やしている。一回り小さな3本の木も花を咲かせている。例年より1週間ほど早い満開をむかえた。旗弁は元気な枝につくという。旗弁の色、形、大きさはさまざまなようだ。残念ながら8日は一日中雨であったが、その後の様子はどうであろうか。デジブックというスライドがいよいよ2020年3月で終了となる。あと3週間ほどだが惜しみなが...大漁桜

  • 天啓池の河津桜

    よく似た枝ぶりだが今盛りの3本を紹介。2020年3月3日現在の様子。1本目(南)2本目(中央)3本目(北)既に新緑が出始めた。他にも何本か満開となる。天啓池の河津桜

  • 阿坂城のろし実験 パネル展示会の準備

    2月6日に行われた松阪山城会による「のろし実験」の写真や、小学生の絵、文章などが松阪市市民活動センターにおいて展示される。先駆けて本日展示作業を行ってきた様子を紹介する。センターの入り口に案内の表示をする。☟午前中に「森林公園」でパネル作りを行い持ち込んだが多少のアレンジが必要となる。☟現場に合わせて調整できるのは経験豊かな会員の実力!☟松阪市立中原小学校4年生が制作した「白米城ののろしを見よう」という作品。☟松阪市立大河内小学校6年生の作品☟大人が撮影した写真の部☟作品の展示を確認する会員☟机の上にもたくさんの写真が並び、準備万端整いました。皆様、お誘いあわせの上見に来てください!!阿坂城のろし実験パネル展示会の準備

  • まだまだある松阪の城

    「松阪の城50選」に取り上げられなかった、「その他の松阪の城館」をリストアップしてみた。遺構の有るもの無いもの、資料の有るもの無いもの、それぞれ条件は厳しくなるが全くのでたらめでそれらの名称が云われているわけではないだろう。火のないところに煙は立たず!コラムⅠ対応他の城について「資料に登場する城館」51小川城松阪市嬉野中川町52立野城松阪市立野町椋谷53曽原城松阪市曽原町城屋敷54堀之内城松阪市嬉野堀ノ内町55達磨城松阪市松名瀬町56久米城松阪市久米町57五輪山城松阪市藤之木町58島田城松阪市嬉野島田町59寺井城松阪市笹川町60福本城松阪市飯高町福本61星合氏館松阪市星合町里中62佐藤氏館松阪市肥留町63天保館松阪市嬉野島田町64戸垣内館松阪市八太町戸垣内65大石館松阪市大石町御所屋敷66久保三河守館松阪市広瀬...まだまだある松阪の城

  • 櫛田川流域の中世城館

    第6ブロック自治会長研修会において、テーマ「櫛田川流域の中世城館」について講演とデスカッションが行われた。中世城館、山城とは、(概念図)櫛田川中流~下流域の中世城館(グーグル提供)矢倉山城詳しくは「松阪の城50選」にて。御麻生薗浅間砦(注:仮称御麻生薗城は不適と思われる)櫛田川流域はは古くより道や川の活用により繁栄していたと考えられる。奈良の都と伊勢神宮や関東への発着点・大湊等により物や人の移動が盛んであったとも想像できる。物や人の流通が盛んであるということは、城砦が発生する要因になったのではないだろうか。櫛田川流域の中世城館

  • 4回目ののろし実験は成功という評価

    2月6日に白米城で揚げたのろしは、5Km離れた白山城に届き、更に2Km離れた大河内城学校の生徒たちに届いた。実験の目的はかなったので成功と言っていい。ただ、細部では反省点もあり来年に持ち越しになる。4回目になるとギャラリーも増えてきた。恥ずかしいことはやってられないぞー!である。4回目ののろし実験は成功という評価

  • のろし実験大成功!?

    8時50分、合図の旗を揚げるが強風で一人では飛ばされてしまう!大の大人が二人で踏ん張る。発煙筒1本では線が細い。来年は2本に!それでも5Km先の白山城からは知らせののろしが経由したようだ。早速、夕刊三重に各地の情報が寄せられた。成功と言っていいと思う。のろし実験大成功!?

  • 新城発見 リスト

    日本には城の数が3万とも5万ともあるといわれる。都道府県の数が47で各1,000城あるとすると、47,000城となるがこれはあまりに無鉄砲な考えだ。3万と5万と大きくかけ離れている理由に3万は発見され名前がある城の数で、5万は未発見の城の数を加えたものかも知れない。ご当地三重県では1,000城余りというのが相場である。上記の各1,000城にちょうど等しい。大別もされている。伊賀上野地区が半分の500で、残りが三重県の他の合計という。伊賀上野地区に固まって多くあるのは中世までの国人という制度が理由という。このような地域の特殊性はまた全国にあると考えられる。自身も城を新しく見つけ、三重県の城、1,000城に加わることになるのかも知れない。しかし、その数は1%にも満たない程である。新城発見・発表のリスク1、真偽の程度...新城発見リスト

  • 新城発見 御麻生薗城(仮称)

    新城発見か!?仮に御麻生薗城とする。御麻生薗城縄張図(自作)住所松阪市御麻生薗町/庄町遺構主郭(虎口あり)、堀切、削平地、土橋、見張台詳細不明見張台の位置から根木峠、櫛田川から伊勢本街道を見張る砦ではなかったろうかと想像する。経緯口伝も、史料も何もない。縄張図の右下に「庄城」を示したがこれは2018年に発見した城であるが、調査しているとき付近に「武士ヶ谷・陣出・馬場」などの小字名を知ることになり、もう一度付近を調べ直す必要があると思ったことがきっかけとなった。この山の名前は「本郷浅間山」というのかもしれない。庄城も浅間山である。それをヒントにもう一度「本郷浅間山」を調べることにした。上山城の脇の道を登ると南の尾根筋である。登り口からの急坂を登り切ったところに石組と土によって造られた虎口のような遺構に出迎えられる...新城発見御麻生薗城(仮称)

  • のろしの揚げ方変更

    松阪山城会では過去三年間2月にのろし実験をしてきたが、この時期白米城の山頂は季節風で思ったような姿でのろしが揚がらないことは既に分かっている。今年はちょっと違う方法でやってみることにした。先ずは昨年までの道具たち。地形の影響を受けてまったく調整が効かない。据え置き式なので発火中は動かすこともできない。いっそのこと、高さを上げる。5.7m高さとなった。どちらにせよ風は吹くと仮定した上で、地上の変則的な風の影響を受けない高さまでもっていけば流されたとしても安定したのろしとなる、と想定した。これで今年はやってみよう。のろしの揚げ方変更

  • 松阪の城50選 入手方法

    「松阪の城50選」は書店では売ってない。数量が少ないせいか、入手方法は葉書かEメールでとのこと。税込1,000円+送料で後払い。葉書〒515-0063松阪市大黒田町1850-5高瀬孝二Eメールmphoto_7@mctv.ne.jp門山松阪の城50選入手方法

  • 白米城のろし実験

    北畠氏の情報伝達手段の一つにのろしがあったと考えられる。霧山城から髯山のろし台や黒米城を経由して阿坂城へ、そして最後には大河内城へ。その一端として、松阪山城会ではのろし実験が行われている。のろしの実際はどうなのか、有効性は伝承のようにあるのか、ルートはどうだったのかなど明らかにしようとしている。「松阪の城50選」にもそのことは取り上げられている。直線距離なら20Kmに満たないが如何せん、山間部と平野部でいくつもの山が連なり、想像以上に距離感がある。このことが解き明かされることを期待する。のろし実験の様子2017.2.16第1回2018.2.15第2回2019.2.7第3回2020.2.6第4回阿坂城にてのろしを揚げる予定。この時期、見晴らしの良い山頂で、のろしをまっすぐ高く揚げるのは気象条件からかなり確率が低い...白米城のろし実験

  • 天空の城 霧山城

    霧山城住所津市美杉町多気・八知・奥津標高560m比高237m規模東西150m×南北270m👆大洞山雌岳(標高985m)から見下ろす霧山城霧山城は北畠氏の本拠地であった。ここから伊勢平野の出城や各山中に点在する山城とのろしを使って情報のやり取りを行っていたと考えられている。信長の伊勢侵攻の際にはこの本城と髯山ー黒米城ー阿坂城を通じて大河内城と連携していたと推定される(複数のルート説あり)。天空の城霧山城

  • 阿坂城の堀切を新たに確認

    山城探訪は面白い。いつも訪れているなじみの阿坂城で新たな堀切を確認した。「山城は調べつくされている」と考えない方がよいという例である。場所の特定(GPS軌跡の北東の旗2カ所が新堀切の場所)(上方、北の旗2カ所は水源地と思われる場所)枡形山(阿坂城)から北東に延びる尾根筋の2箇所に堀切を確認した。新堀切1(標高の高い方)新堀切2(標高の低い方)共にやや大型である。(尾根がしっかりしている)遺構はかなりしっかり残っている。阿坂城がある枡形山から延びる尾根にはまだ未発見の遺構があると想定している。全容はまだまだ明らかでないと思われる。松阪の城50選入手阿坂城の堀切を新たに確認

  • SAKURA 阿坂城 さくら 白米城 桜 椎木城

    阿坂城(別名;白米城)と椎木城の桜(2019年撮影)👆中央、頂上が阿坂城(別名;白米城)と右側に椎木城👆阿坂城、主郭の登り口👆主郭中央に白米城の顕彰碑👆伊勢平野と奥に伊勢湾を一望する。👆松阪インター方面、山が笑っているようだ。👆観音岳、堀坂山方面。👆青山高原方面。👆主郭下より厳しい切岸を望む。👆同。👆同。👆同じ場所を東から見る。👆中ほどの堀切の残り方が素晴らしい。👆切岸の厳しさが際立つ。👆隣接する椎木城の細長い曲輪。👆椎木城から白米城を望む。2019年4月9日撮影松阪の城50選が発刊(1,000円/税込み)されたが表紙を飾ったのはやはり桜の白米城である。松阪の城マニアにとっては外せないカットということだろうか。書店では手に入らないので、厄介だ。チラシによると、郵便はがきかEメールでの申し込み代金は後払いとのこと...SAKURA阿坂城さくら白米城桜椎木城

  • 阿坂城

    阿坂城あざかじょう城名阿坂城住所松阪市大阿坂町築城年1350年ごろ築城者北畠親房形式山城遺構郭(白米城・椎ノ木城)、堀切、竪堀、土塁規模南北300m、東西150m城主北畠親房、北畠満雅、大宮入道含忍斎標高312m比高270m歴史南北朝時代から室町時代を経て戦国時代で終える217年間の歴史がある。経緯①14世紀築城時期北畠親房のとき文和元年・正平7年(1352)の戦い南北朝時代;9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い撃破する。②15世紀63年後北畠満雅のとき応永22年(1415)の戦い室町時代;5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥落させる。和解が成立。白米城伝説のとき。③15世紀10年後満雅2回目の戦い1425年-1428年応永...阿坂城

  • 野中城で新遺構確認

    野中城再訪城☝現在、鉄塔が建つピークの西側に竪堀があるのを確認した。北側の尾根にある堀切は以前から認知されているが、こちらの竪堀はは先輩諸氏の縄張図に記されていない。☟同時にその堀切の先に、少し線がずれるが竪堀も認められ、これも先輩諸氏の縄張図にない。写真には収められなかったが同ピークの南側のブッシュの中には竪堀と堀切がそれぞれ一つずつあることを同行者が確認している。野中城の兄弟とも思える二こぶのピークは両方とも砦、或は城として機能していたことが裏付けられた。鉄塔工事により山頂は改変されて当時の面影もない。いかにも残念である。はたして、鉄塔が建てられる前の調査資料はこの世にあるのだろうか?一つ疑問が残る。先輩諸氏がこれほど見やすい遺構をなぜ縄張図に記さなかったのだろうか、という点である。現在、ブッシュに覆われて...野中城で新遺構確認

  • 空堀、土塁?

    林の中に遺構かもしれない構造物発見!一見空堀のように見える。続いてあるこちらは土塁のように見える。ここは一帯が中世の城館跡のようにも見える。しかし、決め手に欠ける。この先どのように調査をしていくべきなのか。前途多難!!空堀、土塁?

  • こだわりの50城

    なぜか”50城”にこだわる城本がある。県単位にまとめられたA5判シリーズもの。2006年発刊2009年発刊2010年3月発刊2010年9月発刊2012年発刊2013年発刊三重県の市単位では、A4判。津市2016年発刊松阪市2019年発刊手持ちの本はこれだけだが市中では”50”にこだわった命名の城本がたくさんあるようだ。こだわりのコレクターも居られるかもしれない。まだまだ調べる余地はありそうだ。こだわりの50城

  • 松阪の城50選、刊行。

    本日の新聞記事によると、「松阪の城50選」が刊行されたと発表された。メールか葉書で注文する方法とのこと。一先ず何とかつてを頼って、チラシとポスターの紹介写真だけを手にした。まだ、現物は手に入っていない。市中では販売しないとのことである。まさに地域限定、ローカル色の極めだ。松阪の城50選、刊行。

  • 椎木城

    ☝津の遺跡地図に記されている椎木城の位置☝GPS軌跡☝堀切らしき凹部☝主郭らしき平坦部城名椎木城読みしいのきじょう住所津市美里町北長野築城年築城者不明形式山城遺構曲輪らしき平坦地規模不明城主一族不明標高262m~比高64m歴史経緯不明現地細尾根が殆どの面積を占める。削平地らしき場所は特定しにくい。尾根を所々切った跡は想像できる。考察伊賀街道を抑える砦ではないだろうか。攻撃や防御を考えた縄張には思えない。ただ、街道を見下ろし活動するのに都合の良い場所を選定したというに過ぎないと判断した。感想尾根に取り付くまでに難渋する。そういう意味では要害である。地図椎木城

  • 令和1年の総括・準備

    残すところ、今年もあと1ヶ月となった。振り返ると、山城ライフワークのこの一年は最悪となりそうだ。訪城軒数は50件に遠く及ばないのではと。いったい何をしていたのだ。なのに、身体年齢だけは確実に1歳加算されていく。まだ平成31年であった年明けの頃と300日過ぎた今とでは、格段に体力が落ちたと実感している。来年こそは、、、である。自身の体力年齢と残りの山城数を天秤にかけたとき、来年から出直さないと、という焦りが出てきた。細かい計算は後日としよう。ザット、20~30/月、年間300か所?とにかく、沢山。それがどんなに過酷な数字なのか!令和1年の総括・準備

  • 連部城

    城名連部城読みつらべじょう住所津市安濃町連部築城年天正12(1584)築城者家所帯刀正藤高形式平山城遺構郭、空堀、土塁規模東西50m×南北80m城主不明家所帯刀か標高20m比高4m経緯天正12年(1584)小牧長久手の戦い。羽柴秀吉は伊勢攻めに関して戸木城を攻めるために家所帯刀正藤高に命じて築かせた城。書籍三重の中世城館勢陽五鈴遺響環境穴倉川と北大谷川の合流地点を守るようない位置にある。連部城や今徳城は段丘でもない川の際にあることがヒントとして考えられる。水運を利用していたのであろうか。現地植林された林に守られて土塁が良く残っている。考察藤ケ森城、浄土寺城、連部城、今徳城が近接してある姿は伊賀の国人領主の世界を見るようである。感想川の際に位置するだけに堀には水が張られていたのかもしれない。その他今徳城と連部城は...連部城

  • 津の城一覧

    三行城津市河芸町三行長野氏の一族工藤が伊藤と改姓し助重が築城伊勢上野城津市河芸町上野元亀元年に信包がはいる。黒田城津市河芸町北黒田長野家家臣。信長により落城。秋葉城津市河芸町南黒田天正12年に秀吉により落城。楠原童子谷城津市芸濃町楠原応仁期に築城。信長に属した。楠原向市場城津市芸濃町楠原楠原城の支城。林館津市芸濃町林字殿町長野氏の一族。天文5年に関氏に敗れた。林城山城津市芸濃町林字城山天正11年に秀吉と合戦。忍田城津市芸濃町忍田忍田氏の居城。雲林院城津市芸濃町雲林院長野氏の一族。雲林院氏の居城。椋本城津市芸濃町椋本野呂氏館津市芸濃町椋本(椋岡神社跡)雲林院家家臣。信包に謀殺された。前山城津市芸濃町安西雲林院家家臣。萩野城津市芸濃町萩野北畠家家臣。岡本城津市芸濃町岡本若菜五郎らと元久元年に乱を起こし落城安濃城津市...津の城一覧

  • 中森氏城

    ☝主郭櫓台☝同、愛宕神社境内☝主郭主郭南東隅の土塁と堀切道☝主郭西の土塁と空堀北曲輪の虎口☝同、外から見る虎口付近城名中森氏城住所津市美杉村太郎生築城年不明形式山城遺構郭、土塁、空堀、水場跡規模東西50m×南北200m城主中森数馬之助一族北畠家臣。詳細は分からないことが多いが家臣帳には伊賀口の加番となっており多気に入る街道を抑えていたと考えられる。家系は弓に強かったらしく弓組に従事する者が多く見られる。(権之助、掃部佐、外記丞)標高480m比高65m書籍日本城郭体系三重の中世城館環境多気から伊賀へ抜ける街道と木津川の上流名張川が北に流れるのでこれらを抑える拠点として築かれたと思われる。これらは城から眼下に一望できたはずである。現地城は南の詰城の曲輪群と北の館の曲輪群に大別された縄張である。城の長辺側、南北の一辺...中森氏城

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