「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
音は聞くもので、見るものではない。そう思っていませんか。観音菩薩は音を観る仏様と書きます。人にも音を観る能力があるのかもしれません。私は山で迷った時、笛の音を頼りに山道に導かれました。夜中の訪問で道に迷った時、鈴の音で案内されました。坂道で自転車を必死にこいでいた時、後ろでバタバタする音に振り向くと、天使の羽根音がして押されているのが分かりました。教会の中に鳩が飛んでいる音がしました。すべてが心で音を観ていたのでしょうか。音を観るという話に江戸時代に千利休の孫に千宗旦(せんのそうたん)がいました。自分の子供たちを分家させて、表千家、裏千家、武者小路千家を作った人です。宗旦の所に仲良しの京都の安居院(あぐいん)の住職が珍しく咲いた椿の小枝を小僧に届けさせました。所が小僧はつまずいて転んでしまい、花が落ちてし...音を観る
禅語に『松直棘曲』松はまっすぐ育ち、イバラは曲がりくねって育つがあります。どちらもそれが自然であるという意味です。お互いを真似ることはないし、自分の姿を恥じることもない。まっすぐ育った松だけなら世の中はつまらない。曲がったイバラだけでも景色にならない。さまざまな個性が存在しているからあきないという事でしょうか。『みんなちがって、みんないい』(金子みすゞの詩)「僕達は神様のステキなマジックペン。みんな違って、みんないい。みんなが違うのはみんなで新しい色をこの宇宙に生み出すため。人と人が出会うたびに新しい色がこの宇宙に誕生している。」素敵な詩です。僕達みんなここで出会って新しい言葉の色がこの宇宙に誕生している。みんな違って、みんないい。言葉の色
🎋私は今日も有料老人ホームに書道を教えに行きます。昨年の皆様の言葉に吹き出してしまいました。おいらにゃ何も要らぬただ毛が欲しい。まだ昼ご飯食べてない。(深夜)家が心配と帰ったら、早く帰りなさいと言われた。旨いもの食いたい!もっと料理勉強しなさいよ!本当にお年寄りには付き添ってやってください。それが、家族の願いですから。七夕の願い
「人間朝昼夕飲んだり食べたりまたそれ以上のたくさんの世話(愛)されて生きていくもの。どんなに大きな怒りや悲しみもいつかは忘れ去っていく。」(私)人は生まれて死ぬまで一人では生きてはいけない。だから手を合わせ、感謝して歩いて行こう。記憶が遠くなるまで。世話(愛)
「国宝は壊れずに残った物に価値がある。しかし、修復された物にも価値がある。それは皆の思いがあるからだ。そして、あなた自身もだ。」(私)リハビリに頑張っている姉や皆様へ。修復
愛について鎌倉時代の僧侶無住が説いた言葉を紹介します。『愛は事(じ)なり』です。はて事とは何でしょうか?事とは「同事の心」のこととあります。同事の心とは、自分の立場を捨てて『相手と同じ境遇になって協調できる心』のことです。例えば、体の不自由なお年寄りに対して同じ目線になって接する心ということです。『愛とは相手に合わせる力』をいいます。自分のことを押し付けてしまっては愛とは言えないのです。愛とは与える事と言った人がいました。まだまだ愛が足りないと反省しております。愛されたければ愛しましょう!相手を思いやる気持ちが愛なのです。愛とは同事の心
私のメッセージが少なくなったと気づいた方いますか。神様の気持ちを伝えていない事は出してはならない。あなたは気ままに出してはいけません。私の言葉はそれだけ大事なんだと叱られました。私の神様はイエス・キリストお釈迦様「人は怒りの時、攻撃的な言葉を発しましす。」その先を越えた発言が人を目覚めさせ、その人を救い成長させるのです。その先の言葉。あなたも身につけてください。(神からの声より)「怒りで相手を殺すのでなく、生かす事が大事だと思いました。」怒りの先
【糖尿病宣告】健康診断で糖尿病と宣告されました。大きな病院に紹介状を書いてもらいました。若い女医さんから食事は?はい施設の昼食以外。はコンビニ弁当で何十年というのを、言わずに普通の食事ですと答えてしまった。毎日カツ丼、カレー丼、幕の内弁当、すき家の弁当、ハンバーグ丼、ケンタッキーフライドチキン、マックが私のメーンの食事です。あとは娘が買って来てくれるスシローのお寿司。何か悪いのかな?来週病院行って来ます。糖尿病宣告
「苦難は年齢、時を選ばず突然やってくる。ガラスの心が震えている。」(私)お祝いの席に悲しみの知らせがやってくる。それが、この世の定めなのです。ガラスの心の私だったのにたくさんの苦しみがやってきました。今はお陰で防弾ガラスのように厚く強くなってきました。皆様のガラスも厚く強くなっていることに気づいてください。悩む人を導いてください。強くなったあなたのガラスのように。ガラスの心
私は幼稚園の時、海水浴で大波(今で言う津波)に会いたくさんの人が沖に流されてしまいました。私も行方不明者となりました。私は随分離れた半島に打ち上げられました。それから人のいる所まで歩き、裸で電車に乗り大人のズボンを持って終点の前まで行きました。見覚えある地だったから。それから、出会った子供たちと遊びました。何で裸なの?と言われました。私は分からないと答えました。夕方になると子供たちは家に帰ってしまいました。私は父、母と来た路を思い出しながら夜中ずっと歩きました。深夜の朝方家にたどり着きました。兄は二日ぶりの私を見て幽霊と叫びました。町の話題になり連日人がやって来ました。幼稚園の園長さんに泣きながら抱かれた思い出があります。あれから私は死んだ人の言葉を聞くようになりました。死んでいく人を目の当たりにすること...生きる力
「心配事や不安な事があってもいいんだよ。必ずその先に嬉しくなる事が待っているからさ。ほらね明日ご家族の居室への面会予約が入ったよ。」(3年ぶりに居室面会が再開されました。皆の笑顔がたくさん見れます。)心配事あってもいいんだよ
「生きることが目的ではない。死ぬことが終わりではない。生かされていることに意味があり、死は生の途中に過ぎないってこと。忘れないでね。」(私)志は次の世代の心に生きるもの。あなたも私も永遠に誰かの心に生き続けているんだ。忘れないよ。永遠の命
「身口意(しんくい)」という言葉があります。身とは行動。口とは言葉。意とは思考(知恵)。自分の持っているものを他者の為に出すこと。いわゆる他者支援のことです。ボランティアとか、お布施ともいいます。人を助けることはお金だけではないのです。私は「言葉のボランティア、言葉のお布施」で支援していきたいと思います。身口意
いつまでも仲良くナいつまでも幸せにナいつまでも優しくナいつまでも思いやってナいつまでもがんばってナ(ある投書欄。兄が妹にあてた結婚式の寄せ書き、その後病死されたという。)兄からのメッセージ
「何でもかんでも沢山、本を読む事が正しいとは限りません。」と良寛さまが述べています。『たとえ恒沙(ごうしゃ)の書を読むとも、一句を持(じ)するに如(し)かず』と述べています。「恒沙」とはインドのガンジス河の川砂のこと。数えきれないことを恒沙といいます。「一句を持するに如かず」は沢山の書を読むのも良いが、一書の中の一句を噛み締め、考え、実践することはさらに大切であると述べています。心を打つ一句を持ち続けることがより大切と述べているのです。簡単な言葉でもずっとずっと心にこだまします。心に刻む言葉
【奈良にて】昨日は母の納骨の為、奈良に行ってきました。駅について驚きました。安倍晋三さんが駅前で演説中に亡くなった所でした。そうか、ここで亡くなったのですね。近鉄奈良駅の大きな場所でした。お寺に貼ってあった言葉紹介します。奈良にて
イエスが人生最後に言った言葉が「私は渇(かわ)く」です。十字架の上で苦しみながら肉体的に、ものすごく喉が渇いていたということもあるのでしょうが、愛の足りないこの世界に対して渇いていたのかもしれません。マザー・テレサがこの言葉に心を深く揺さぶられたといいます。インドの貧しく愛の足りないスラム街で人々の渇きを癒そうとしました。皆様も色々な悩み苦しみを癒されに来ていると思います、渇きを癒すことができますように。祈願私は渇く
長年勤めている老人施設のブログに私の事が掲載されていました。こんにちは!今日は真夏のような暑さの一日でしたね。お天気は良いものの、少し動くと汗が流れ出てきました。さて、ここ2~3か月ですっかり日常となった書道について。担当するケアマネジャーが皆様の作品を見ながら少し思ったことがある様子・・・爆笑お伝えさせていただきます♪「旅」90代の女性が30個以上あるお手本の中から選んで書いたのが「旅」でした。「旅」の言葉のイメージに何か深い意味を感じました。ドイツの詩人リルケやスペインの詩人アントニオ・マチャド、国内でも松尾芭蕉や若山牧水、島崎藤村と言った作家が、様々な「旅」「旅人」についての詩を残しています。「旅はね、自分の思い出作りと生きがいを探しに行くことさ。だからいつも歩いているんだね。」作品を見て、ふっと思...旅
ある人が私の5年前のブログを読んでくれていました。こんな事を書いていたのだなと懐かしく思い出しています。鎌倉建長寺の開山大覚禅師は「建長寺はすべて松関をとじず、無限の清風来たりて未だやまず」と述べています。修業者にも一般の人々にも、老若男女、あらゆる人に対して、いつでも門戸を開いているという意味です。建長寺がお地蔵さんを祀っているお寺だと知ってますか?私は自分の寺だと学生時代から通っていました。また、臨済宗建長寺派住職は「無限の清風」は偶然の出会いや出来事に姿を変えて訪れる。心の窓を閉じていると、風は入らず大事なご縁も気づかずに通りすぎてしまうと述べています。現在は、学業や仕事、介護に日々追われ、心の窓は閉ざされてしまいがちです。最近、聞く言葉に『ヤングケアラー』があります。病気や障害をもつ両親や祖父母な...幸せの風
高野山(空海)や比叡山(最澄)などの深山から、夜間ブッポーソーという鳴き声が聞こえてくるところからその鳥を「仏法僧」と名付けられた。「一声よく一夜に五千声発す」といわれ、その声をよく耳にするも、めったに姿を見せない鳥といわれていました。昭和になって、「木葉木菟(このはずく)」と分かりました。しかし、その名を改めることがなく仏法僧と呼ばれています。6月の季語になっています。深い山の中でしか聞こえない鳥に霊鳥を感じて思わず手を合わせたくなります。最近見た夢は飛び魚を追いかけ水平線まで泳いだり、水平線を飛び越え星空を泳いでいました。ポケットに星のかけらが入っていた。首飾りにしよう。夢の首飾りをつけた喜びの夢でした。そうだ!私が作った老人施設の体操ビデオは「長寿体操」です。次は「星空を泳ぐ体操」を作ろう!生きる喜...星空を泳ぐ
イエスは日々「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りなさいと教えています。何が神のみ心なのでしょうか。それは毎日の自分の務めを果たすことです。これも一日中神に祈っていることと同じといいます。仏教の教えも紹介します。一休和尚は「小欲を越え、大欲に生きよ」そうすれば貧しくても心豊かに生きることができ、決してみじめになることはないと述べています。雨の日も風の日もひたすら励む。小さな欲を捨て、大欲(皆様の事を気遣う事)に生きる。そう考えて天に祈っています。豪雨や地震が多いです。世界の皆様、日本の皆様をお守りください。神に祈りを
僕はただの草名も知らないただの草。あの女の子毎日通るけど一度も気づかないだけど雨の日も、風の日もあの子が通るのを待っていた。あの子が泣きながら歩いてきた。そして、やっと僕を見てくれた。淋しくても強く生きている僕を見て元気が出たみたい。僕はただの草名も知らない草だけど人の心に「花」を咲かすことができるんだ。僕は名も知らない古い古いお地蔵さん誰かが悲しい思い出に立てたみたいとても悲しい悲しい思い出に違いないだって僕はいつも胸が痛いからだから、もうそんな悲しい事起きないように僕が守るから安心して僕を見たら手を合わせてくれたら嬉しいな胸の痛みが癒えるからさ。いつまでも忘れない。(毎日通る道に小さなお地蔵さんとたくさんの花束がいつまでもいつまでも耐えない。それを見て20年前に作りました。)草と地蔵
17年前の日記。介護士の研修で老人施設と訪問施設に行きました。全く違う職種で緊張して行きました。ショートステイの男性がやって来ました。彼はこんな所に来たくない。将棋できる人いないか!と大声上げていました。女性スタッフはいつもと同じ事をいう人と無視していました。私は手を上げて将棋のお相手しました。脳梗塞で下半身が不自由になって車椅子に座っていました。一勝一敗で終わり満足してくれました。私は言いました。ずっと心配そうに後ろに立っている女性が気になっていました。え!どんな風の人ですか?着物姿で小太りの女性です。あ!それは昨年亡くなった同居していたかみさんのお母さんだ。この車椅子は彼女の使っていた物です。彼は泣き出してありがとう。今日来てあなたに会えて良かった。私こそ役に立って良かったです。この仕事でもやれる自信...人生泣き笑い
「ChangeisChance.」チェンジ(変化)にこそチャンスがある。(gをcに変えるだけでこの言葉になります)異動辞令に不安を抱いている人に送った言葉です。新しい試みこそチャンスだと歩みましょう。変化はチャンス
昨晩のトピックスニュースに紹介していた、お蕎麦屋さんに嬉しくなりました。お蕎麦に揚げカレーパンを入れたら美味しかった!それから店の看板商品になった。娘に早速カレーパン買って来てもらって蕎麦カレーパン作りました。(インスタント蕎麦だから作るほどのものではない)旨かった!やみつきになりそう。うどん苦手だから、カレー蕎麦は良く食べていた。内の施設の食堂にも頼もうかなカレーパン蕎麦。カレーパン蕎麦
愛犬も亡くし、母も亡くし、続けて兄も亡くし友達も亡くしお世話したお年寄りも亡くした日々。心に淋しさが残り何か記憶に留めて置きたくて昔に書いた詩です。同じ体験持つ人に捧げます。【永訣の日】『さようなら』って言わせて木の葉は散っても木は生きている木が枯れても森は生きているひとつの命が死んでも必ず生まれ変わるんだ春になると木は新しい木の葉をつけ草やお花はパッと大地から芽を出すこのことがずっとずっとつづいていくんだもし死んでいる人に君の悲しい気持ちを話したら君はほっとするかもしれないよだってその人は君の気持ちをよくわかってくれるから大切な人は僕達の思い出の中でずっとずっと生きていくんだわすれないでねありがとうさようならと言わせて(ジム・ジョアン)『忘れないよ』と言わせて木は新しい木の葉をつくり森はあらたな生き物を...永訣の日
【心の涙】私は泣いています。心の中で。私は定年したのに臨時招集されケアマネとして働いています。あるユニットからsos。自尊心が強く暴言、拒否が強い人がいる。私は会いました。私と同じ70代後半の人でした。彼は映画のカメラマンで数々の作品を手掛けてきた。黒澤明、三船敏郎…。私は驚き尊敬した。私はテレビのドキュメントディレクター、戦地のカメラマン、子ども番組もしていたと話してから心打ち溶けた。現場の苦労話などに。書を教えたら喜んで書いてくれました。それが昨日急変して病院で亡くなりました。彼の部屋の壁に彼の書作品が張ってありました。思わず目が熱くなりました。安らかにお休みください。私はクリスチャンですので十字を切りました。続きはあちらでやりましょう。心の涙
「人間は毅然として現実の運命に耐えてゆくべきだ。そこに人生の一切の真理がひそんでいる。」(ゴッホ)奥深い言葉です。いまの与えられた現実を耐えること。それが自分の生きるすべての道の本質があるからです。病気になったこと、体が不自由になったこと、なぜ私だけがこうなったのと悩むことがあるかも知れません。それを乗り越えて生きることが大切とパラリンピックの選手達が教えてくれています。生きていけば必ずいいことある。そう信じて元気出しましょう!と毎日お年寄りに声掛けして手を握って回っています。生きる道
昨日3年ぶりにコロナで閉鎖していた市が運営している無料の銭湯に行って来た。お湯に浸かりながら思い出していた。ここで知り合った気の短いおじいさん。どうしたかな?私は異動で本館のユニットに行った。その時に出会ったおばあさん(昨年肺炎で亡くなった)。涙が出る程悲しい人生歩んで来た。旦那が博打ばかりして、家に一銭も入れないので赤ちゃん栄養失調で亡くしてしまった。睡眠薬ひと瓶飲んで苦しかったから救急車呼んだ。離婚して今の旦那と結婚してなんとか苦労から抜け出せた。その旦那の写真見たらあの銭湯で知り合ったおじいさんだった。おばあさんそれ聞いて3年ぶりに会いたいなと言って亡くなった。おばあさん、銭湯大好きな旦那を知っている人に会えて、誰にも話せない苦労話を聞いてくれる人に会えて私は幸せだよと言ってくれた。出会いは偶然でな...出会いは必然
愛とはその人の自由を見つめること。夫婦愛、親子愛、恋人愛、友人愛、すべてその人に寄り添うことができる人、それが愛だと思う。愛とは見つめる事なんだ。無茶苦茶な私をずっと見守ってくれている人がいるってことに気がつき感謝しています。愛とは
「ある人から悪口を言われたのですが、どうしたら良いですか」と相談されました。いつもこう答えます。お釈迦様だって説法を聞いてくれない人や、理解できない人は無視する。7日も過ぎれば悪口はなくなるものだ。悪口を毒蛇と思え。飛んで来た毒蛇は掴まないでよけるだろう。よけられた毒蛇は行き場所を失い元に戻るしかない。投げた人に戻るのだとお釈迦様は述べます。また、毎日病気を探しているお年寄りがいます。今日は胸が痛い、膵臓が悪い、寒気と吐き気がする、目まいがする、ガンになった・・・。毎日何かの病気を訴えて深刻な顔して起きません。バイタルとれば何ともありません。やっと安心して起きてくれます。「般若心経」の中に「心無けい礙(しんむけいげ)」という言葉があります。悲しいことがあれば、悲しみに心を奪われる。心配ごとがあれば、心配ご...心配事からの解放
竹の竿の先に五色の糸を飾って星に祈ると三年の間に必ず願いが叶うと言われた宮中行事が、江戸の頃庶民の行事として定着した。竹に五色の願いの糸を垂らすだけでしたが、元禄の頃には色紙や短冊に和歌を書いて吊るすようになり、さらに願い事を書くようになり現代へと続いている。あなたが好きは赤遠くにいる人へ青はしゃいでいる二人は黄二人の幸せを祈る白神様に願いを祈る紫「七夕をまつる心はひとつにて願いの糸はおのがすぢすぢ」源頼政(みなもとのよりまさ)あなたは何色の紙に願いを書きますか?私は紫の紙に願いを書くでしょう。皆様の健康を願います。七夕の準備
「安心とは一人じゃないことなんだ。」あるクリニックで何年ぶりか知り合いのナースに会った。私に何か憑いていませんか?突然聞かれた。アハハ、大丈夫だよ。と言うと安心して帰って行った。私とまだ繋がっている安心を感じたのでしょうか。皆様の安心にもなればありがたいです。安心
年をとると失うものが多い。両親、兄弟、友人、同僚、視力、聴力、腕力、記憶…。全ての財産を喪失していく。その不安や淋しさに負け、心とじる人もいます。人は木石にあらず。人は枯れ木や石ではない、喜びも悲しみも持つ感情ある生き物です。失うと言う考えでなく、生きる栄養となって『消化』したと思えばよい。失ったものをいつまでもくよくよする事なく、新たな喜びに感動する栄養をとりましょう。生きるて心の栄養一杯とることだから。江戸時代の女流俳人加賀千代女の「朝顔につるべ取られてもらい水」が有名ですが、私は違う句が心にしみています。「蜻蛉(とんぼ)釣り今日は何処まで行ったやら」幼い子どもを病で亡くし、その悲しみを抑え、あの子は今日も蜻蛉取りに行っていないんだと懸命に耐えている姿に心打たれています。この場も心の栄養補給となります...心の栄養
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「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。改心の情
ここにいる人達は生きる力を授かり、命のリンク(絆の輪)を持つのです。悩める人達を救いましょう。(私の天使より)命のリンク
私達の体はボディ、スピリット、マインドの三つからできています。ボディとは肉体、スピリットとは魂、マインドとは心。肉体と魂が活動するときに味わう感情、思い、感覚などを感じる機能をマインドといいます。心が穏やかな気持ちでいるとき、心は大きく開いています。これを心理学では「オープン・ハート」と呼ぶそうです。心を開くと物事に対して、優しい気持ちで接し、たくさんの事を受け入れる事ができるといいます。反対に憎しみや、恐怖を感じているときは心を閉じてしまいます。心を閉ざすと益々憎しみが増大してしまいます。オープン・ハートに一番大切なことは愛の注入といいます。愛は無限の力がある。愛されてる貴方はオープン・ハート!愛の注入
毎日お別れする人が続いています。なぜでしょうか?「桜咲き花散る里に帰ろうか」そんな気がしました。皆さん全身の病と戦っていたのですね。最後まで書道を楽しみにしていた顔が忘れられません。書道教師と介護士と言葉の伝道師をしていて良かったです。お別れ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
「万法帰一(ばんぼういちにきす)」苦しみや悲しみは絶対に続かない。という意味です。本当に辛くても辛抱していると周りが助けてくれるものですね。不思議と実感しています。苦しみ悲しみ
「人と神が出会うのは苦難に耐えている時」(私)神はいつもいるわけではない。困って苦しんでいる時に神は現れるものだ。昨日は神の存在を知った。奇跡のような事をしてくれた。感謝しています。神の存在
川面(かわも)の月。ゆったりと大河を流れる川。急流になって谷間を流れる川。月は流されずいつも川面に映っている。月はあなたの心です。流されることのない不動の心あなたはあなたでいいのです。(私)どんな世間の波がたとうとも、自分は流されない不動なのだ。あなたはあなたなのだから。少しの波でも心動揺する私です。こうなりたいと思って日々努力しています。川面の月
「道に迷うことこそ道を知ることだ。」(東アフリカの諺)「人生に迷うことこそ人生を知ることだ。迷わぬ者に悟りはない。」(私)本当に迷ってばかりです。申し訳ない。迷う
日本でつくられた言葉に「躾(しつけ)」があります。身につく美しさと書いて躾。長い間の行いで無意識に身についた姿をいいます。日本人の美意識です。世界に誇れるひとつです。ここもそんな美意識を育てています。躾
一昨日看取りの人が亡くなった。水だけを良く欲しがっていた。イエスも十字架で「私はのどが渇いた」と発言されたことを知りマザーテレサは泣いたといいます。たしか、誰か布にワインを湿らせて唇に付けたと聞いた。そこから浮かんだ言葉です。「渇いた者へ」生きるのに渇いた者はここに来なさい。誰でも心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになるから。(私の天使の言葉より)渇いた者へ
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所もまほろばという安らぎの場所です。まほろば
「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。空海の言う自利利他は幸福の始まりのキーワードです。幸せのキーワード
あと数日の命。看取りの可愛いおばあさん。神田の生まれと自慢していた。しかし、母親からいつもあんたはぐずだと叱られてばかり。妹はチャキチャキの神田っ子。私はだめだ。何やってもノロマ。今何考えているの?「いい思い出ばかり思い出しているよ。」僕なんかいい思い出なんてないよ。「私もそうだよ少ししかないいい思い出を何度も何度も思い出しているよ。」そうなんだね。だけどね悪い思い出もいい思い出になるんだよ。だからすべて思い出していいんだよ。「そうだね」と笑ってくれました。(もうすぐお別れだね)いい思い出
朝の散歩中に竹やぶからうぐいすの鳴く声がしました。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励ましました。勇気が出たと帰っていきました。皆様も人...うぐいす
人は重荷を背負って坂道を行くがごとし。(徳川家康)私は毎日10キロのリュック背負って出掛けてる。墨や絵筆や半紙が結構重いから。50年続けたら120トン。「私の人生120トン雨の日も長靴はいて120トン雪の日も足跡残して120トン風の日も帽子飛ばされ120トン心の重さだ120トン泣いて笑って120トンソーレソレソレ120トン」120トン
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。皆様も今までの自粛生活の苦難の中でも小さな楽しみを見つけて来ましたね。私は物を補修する楽しみを見つけました。苦しい、悲しい、体中痛い毎日の中で楽しみを見つけた時、この言葉が浮かんで来ました。苦中の楽
「人間は死を約束された動物である。人は死んでもその人の影響は消えない。自分は何を残せるだろうか。」聖路加病院故日野原先生生きる力になる言葉をたくさん残した!と自信もっていいましょう。何を残すか
私の作った言葉です。「不幸無感」Idon'tfeelittobeunhappy.(自分を不幸だと思わないこと。)幸福や不幸は心のもちようで変わるもの。不幸にならないためには不幸と感じないことです。不幸無感(ふこうむかん)皆様に届きますように。不幸にならない
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家でありますように。まほろばの家
蛍は遠い故郷を思い出させてくれます。ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。蛍になる
今朝の新聞記事より、日本外科学会定期学術集会の「人にない武器をどう身につけるのか?」というテーマに特別講演を行った元プロ野球選手の松井秀喜さんは元巨人監督の長嶋茂雄さんから誰にも負けない素振りの武器を作ってもらったと披露して、医療関係者1500人を沸かせました。私の武器は誰にも負けない鈍感でドジ。努力しなくて身につけた。皆様の武器はどう身につけましたか。あなたの武器は
「道とは遠くからははっきり見えるけれど近づいたら消えた幻のようなもの。」「晴れた天気に外に出たら急に雨が降る。喜びの歌がまだ終わらない内に悲しみの歌が聞こえて来る。それを道と呼ぶのだ。」(私)退院して来たお年寄りを喜びの拍手で迎えた。その時、心臓が苦しいと、救急車で搬送されたおばあさんが亡くなった。「喜びも悲しみも同時にあるのが道なのだ。」すべてが幻のように去っていく。今の時期を「土(つち)休み」という。春の花が枯れたから、夏の花を植えましょう。土を休めてから。素敵な言葉です。土も生きているのだ。仕事を変える時、迷った時、人も休みましょう。ひと(人)休みひと休み。土やすみ
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。「み」は水。「だ」は垂れる。泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。「瞳の中にも空がある澄みきった空がある晴れ渡った空がある時折涙雲になり涙の雨が降るそのあとはまぶしい空がやってくる涙雲のあとは瞳の空が晴れ輝きを取り戻すのだ。」もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉です。涙雲
仏教の目的は『成仏』。すなわち「仏に成る」ことです。その方法の一つに「行い」「言葉」「考え方」という三つの活動において、仏さまの真似をするというものがあります。「皆が手伝ってくれたから無事に行事ができた」とか、「落ち込んでいた時に掛けてくれた言葉で頑張れた」とか、「上司の冷静な考え方があったから、窮地を乗り越えられた」といった経験ありませんか。「みんなが健(すこ)やかになれる」ような活動を通して、私たちは少しずつ仏さまに成っていきます。「行い」「言葉」「考え方」のどれか一つで結構です。「こんなとき仏さまならこうするんじゃないかな」そんなことを意識してその日を送ることができたならば、その一日はいつもと少し違った一日になるかもしれません。(真言宗・長寿院住職)素敵な説法ですね。このお話の根本にあるのは、思いや...神の子
14日間飲まず食わず。最期に残した言葉。耳元で『良く頑張ったねお疲れ様僕のこと忘れないでね』すると「忘れぬものか」と言って亡くなりました。この言葉を発する力に感動して涙が出ました。「生涯最期の言葉」皆様と共有しましょう。ありがとうの言葉返しで。忘れぬものか
「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「死ぬことは誰かの心に生きることなんだ」皆さんもいろんな悩み抱えているでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私達がそばにいますからね。そばにいるよ
あわてるな、落ち着きなさい。という意味の「且緩々(しゃかんかん)」。若いお坊さんが、師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったら、「且緩々」と言われた。『どの道も、急いで極めることはできません。まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい』。という時に使います。人生も同じです、ふと立ち止まって、これで良いのかとゆっくり考える時間が必要ですね。「且緩々」緊張した人を見たらこの言葉を掛けてみましょう。まずは一服
昨日緊急出勤のため7:00に家を出た。道路から離れた道をチャリで行くと竹やぶが燃えているのを発見。人がいるようないないような?風が吹く朝、すると消防車がやって来て道路に止まり隊員があたりを走り始めていた。私は掛けより竹やぶが火事と伝えた。わき道の奥だから分からないと思ったから。私はその場を去った。帰りに現場に行ったら竹やぶが綺麗な更地に変わっていた。地面は水の跡が染み込んでいた。きっと誰かがたき火(焼き畑)をして竹やぶに火が回り通報したのだと思った。外車の並ぶ販売店の裏だから大事にならないで良かったです。神のお告げか不思議な火事
「神の国は君たちの中にあるんだよ」(聖書ルカ17-21)神の国はいつ来るのかとパリサイ人に尋ねられた時、イエスは答えて言われた言葉。神の国とは、神の思いが実現するところ。それは、夢のような特別の場所にあるのではなく、私たちの中にもうすでにあるんだよ。苦しむ人、悲しむ人、助けを求める人に自分ができることをしていくこと。お互いのあやまちを許し、受け入れてそれぞれみんな中にいる神の存在に気づくこと。その時そこにもう神の国はあるんだよというメッセージです。空海も同じような事を言ってました。「仏は外にいるのではなく、丹田(たんでん)にいる」と。丹田とはへそ下で気力が集中する所です。神の国はあなたの中にあるのです。神の国
施設のカウンターに飾られている日本人形。彼女が私がケアマネになって戻って来たことに感謝している夢を見ました。「私の頭にかぶせている帽子は可愛いくないから取って欲しい!」翌日行ってとりました。笑ってくれました。髪を撫でると願いが叶うと教えてくれました。足元にそれを書きました。誰かが撫でたのでしょうか?髪が茶色になったり、前髪が数本伸びてきました。気のせいかな?魂が宿っている人形です。不思議なことだと感じて報告しました。みんな導きで今があるのだと納得して受け入れましょう。少しは気が楽になりますように。導きの今がある
今年も桜が咲いて私達を楽しませてくれました。桜の絨毯ができました。川面には花筏(はないかだ)となって桜の花びらが流れて行きました。「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)咲こうとも散ろうともどんな桜も愛すべき桜なのです。桜を命に変えると「散る命残る命も散る命」どんな命も愛すべき命なのです。桜は痛み苦しみ乗り越えて精一杯生きよと教えています。残る命を精一杯生きましょう。残る命
再び皆様へ「刃物は物を切る言葉は心を斬る暖房は体を温める言葉は心を温める薬は病を治す言葉は全てを癒す言葉は生きる勇気の道標(みちしるべ)しかし、沈黙と傾聴を忘れてはならない言葉の力信じて共に歩もう。」言葉の力
この時期、樹木希林さんの会話を思い出しました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」晩年の希林さんがたどり着いた境地に「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」(良寛)「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」また、良寛の次の句も好んだ。「散る桜残る桜も散る桜」誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。という意味に「そう考えると心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいので...生と死
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。四体の心
「人は神によって生命を与えられ、あらゆる人の愛を受け育まれる。」しかし、「人間は愚かな生き物。日々誘惑に惑わされ、悪や欲に染まってしまうこともある。そのまま悪の道を行く人もいる。」「弱い人間は日々我を顧み生んでくれた神に喜ばれる生き方をして終わりたいものだ。」(自戒の言葉)誘惑の罠
人生は順風満帆ばかりではない。明日の希望もなく苦難の日々ばかりで、逃げたくなる事もある。「成長とは華やかな地上だけではない。地下にだって根を生やす事も成長というのだ。」足踏みしたって、かかとは減るのだから。いま辛い人は地上に出る前に、強い根を生やしていると思えばいい。私は人生の2/3はそうだった。地下の女神が見守っていますよ。地下の女神
「無事に生きる」という言葉があります。禅語では不要なことに振り回されないこととあります。不要とは「三毒」のことです。1.何でもむさぼるように欲しがる欲望。2.ささいなことで怒ること。3.道徳心や常識にかけた愚かさのこと。この三毒を出せば何事にも振り回されなくて、無事に過ごせると説いています。皆様には関係ない言葉ですね。三毒