「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。恋の蛍
昨日川崎の老人施設に書道教師として行きました。一人の女性ベテラン介護士が助けを求めて来ました。仕事場でも自宅でもゴミ箱の蓋が浮いてドラムのように叩いていたり、、不思議なことばがり怒って怖いと。私は成仏できない魂が私に近づくようにしていたと感じて成仏させました。その魂が残した言葉が「私が近づくと怖くて慌てて成仏したくなった」でした。私の守護霊がよほど怖いのでしょうか?よく言われます。私の呪文ですか?「もう充分修行したでしょう。お疲れ様でした。」です。魂の鎮魂
人はみな悩みながら生きるものです。徳川家康だって、武田信玄にこてんぱんに敗(やぶ)れて、必死で逃げたといいます。その自画像を絵に描かせて、生涯の戒めにしたといいます。忠臣蔵の大石内蔵助も、はやる気持ちを抑えるようにと、寺の住職にさとされたといいます。討ち入り(12月14日)の前日、寺の住職に泣ける礼状を出していました。誰もが悩みながら生きていた証です。だから、あなたも悩むのは当たり前です。「人生は苦痛であり、人生は恐怖である。だから人間は不幸なのだ。だが、人間はいまでは人生を愛している。それは苦痛と恐怖を愛するからだ。」(ドストエフスキー)「七転八倒」つまづいたりころんだりするのが人生。(禅語)悩まぬ人生などない。そう考えれば少し楽になりませんか。人生は1回のみ、1回で充分だ。悩みながら生きる
「月のしずく、天の露、人魚の涙、月の化身、白玉(しらたま)」と呼ばれてきたのは真珠のことです。今ではあこや貝ですが、万葉のころは鮑(あわび)からとっていたそうで鮑玉とも呼ばれていたようです。砂やゴミなどの異物が入り込むと、それを分泌液を出して異物を包み込むことで真珠が生まれるそうです。苦しみや悲しみを包み込んであなたの心に輝く真珠ができますように。心の真珠
「美しい姿は美しい顔に勝り、美しい品性は美しい姿に勝り、美しい言葉は美しい品性に勝る。」(私)その人の存在によって周囲の人々が生かされるのが愛ある言葉です。まだまだ未熟者だから頑張ろう。愛ある言葉
「少年は老いやすく老年は少年になりやすい。」(私)少年は成長すると、大志を失ってしまう。老年は逆に、少年の志を懐かしくそれに生きようとする。大志は老年から。老年よ大志を抱け
「おだやかな海は上手な船乗りを作らぬ」(西欧の諺)波瀾万丈の人生の荒波を体験するから一人前の人生の船乗りになるのです。皆さんは立派な人生の船乗りです。自信を持って人生航路を航行してください。人生の船乗り
3000年前、オリエント地方に1人の若者がいた。ある夜、夢の中に神が現れ「キミの希望を1つかなえてあげよう。何が欲しいかね?」若者は「長命、健康、美しさ、幸福、栄光、成功、富、愛…」「僕はまだ人生で大切なものが何かを知りません」「だから一番欲しいものは知恵、物事を理解する心」と答えたのです。若者の望みがとても気にいった神は、その望みをかなえてあげたのでした。彼の名はイスラエルの皇太子ソロモン王です。私は神にいつもお願いしています。「生きる力になる言葉」を欲しいと。それで、たくさんの言葉を下さっているに違いない。「言葉は心を伝える船」なのだから。心を伝える船
薄く軽い布地で作った単衣(ひとえ)の着物のことを羅(うすもの)といいます。万葉の時代から「綾羅(りょうら)」「軽羅(けいら)」「綺羅(きら)」「薄衣(うすぎぬ)」という言葉が使われています。軽いので「蝉の羽衣」「蝉の羽」また美しいので「地上の星」と表現もされています。「心にまとった綾羅があなたの言葉で軽くなりさらに透けてしまいそうだ」。皆様の言葉で心軽くなり、勇気を持って旅立つ人がたくさん出ることでしょう。皆様こそ地上の星です。ありがとうございます。薄い布地
『迷い道青葉時雨に胸晴れる』(私)青葉時雨(あおばしぐれ)とは葉っぱの雫が落ちること。心惑いながら、竹藪の下を歩いていたら昨晩の雨の雫がぱらぱらと頭にこぼれて来た。ぱっと気持ちが晴れました。小さなことに心迷わすな!一滴の雫で気持ちが晴れ、感謝の心で手を合わせました。ここも青葉時雨が降り注ぎ気分が晴れますように。青葉時雨
お年寄りに聞いてみた。明日は雨だよ!「え!あめか」「雨なんだ」。何も外に出る予定もないのに、この反応?雨だと帰れない、誰も来てくれない…。逆に、晴れだよと言うと。嬉しそうに反応する。お年寄りへの魔法の言葉かも知れない。心を穏やかにさせる言葉。若い人、エネルギーある人は雨でも変わりはない。私もカッパで雨に打たれるのが好きだから。傘より雨の力を感じて心洗われるから。・「晴れの日は出かけよう。雨の日も出かけよう。」いい日は晴れも雨にも訪れるから。雨にも負けず
「幸福とは健康ともの忘れの早さである」ですって!わたしが思いつきたかったくらいだわ。だって、それは真実たもの。(オードリー・ヘップバーン)お年寄りはもの忘れが多くなりますね。これは神様からの贈り物かも。幸福とは
ギリシャ神話に、仲良しの姉妹が、祭壇に捧げる花を摘みに野に出ました。蓮華草を見つけ摘むと、折った茎から血が流れました。姉の足元はみな草に変わってしまった。「花はみな女神が姿を変えたもの。もう花は摘まないで」と妹に言い残して蓮華草になってしまったといいます。「花はそれぞれの地で咲くのがよい。人も同じ、風に吹かれ自分にあった地で咲くのがよい。心を癒す花を待つ人がいるからだ。蓮華草の心を悩む人に伝えてください。女神の花
イエスは日々「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りなさいと教えています。何が神のみ心なのでしょうか。それは毎日の自分の務めを果たすことです。これも一日中神に祈っていることと同じといいます。私はクリスチャンですが書家ですので、仏教の経典や漢詩を模写していましたから仏教の教えも紹介します。一休和尚は「小欲を越え、大欲に生きよ」そうすれば貧しくても心豊かに生きることができ、決してみじめになることはないと述べています。これからは地球の平和、世界の平和の為に生きよう。大欲に生きる
「一人ひとりの人生とは、神様の手が書いた童話。」(アンデルセン)私も童話書いています。(駄作ばかり)題材は人を観察しています。人の一生はそれぞれの童話を背負って生きている。驚いたり、悲しんだり、笑ったり、負けずに元気に生きているあなたは皆に勇気を与えている主人公です。マッチ売りの少女、裸の王様、みにくいアヒルの子、親指姫…。僕の人生はやはり駄作でした。人生は童話
私は76歳。何でそんなに若々しいのかって。それは「希望に生きているからさ」希望は果てしないしかも、逃げたりはしない。逃げるのはいつも自分だから。「希望に生きる者はいつまでも若いのさ。」希望に生きる者
「君は海(苦難)を航海している。海の他に何も見えない時、陸(幸運)はないと絶望すると永遠に陸を見つけることはできない。」(私)空からドローンで見れば島の陸地が近くにあるのが分かるのに。心を開いてあの鳥(天使の言葉)のように、陸を目指せばいい。諦めないで歩みましょう。苦難の海
「私に過ぎたるもの二つあり。神の業と友の力。」(私)私は家康のように頼りにならない。しかし、ここまで長生き出来たのは、神の業と友の助言があったからだ。本当に感謝しています。だから恩返しの為に皆様の力になればと思って神に祈っています。神と友の力
「平凡な毎日を生きることを非凡と呼ぶ。」(私)何もない日々を生きてこそヒーローと呼べるのだ。父も母もあなたも。ヒーロー
「知ってるだろうか泥水だって月光は映るんだ」(私)泥水=困難な時。諦めないでください。月光は泥水だって照らしてます。(苦境の体験より)月光
私の心に響いた言葉『若い女は美しい、しかし老いた女はもっと美しい。』(ホイットマン・草の葉の美女の一節より)『冠は心に在る。頭にはない。ダイヤモンドやインド石で飾ってもなければ目に見えもしない。わたしのは「満足」という冠だ!』(シェクースピア・ヘンリー四世より)『君の路を行きつくとよき満足がある。しかし初めに満足する者は先へ進まない。』(リュッケルト・ドイツの詩人)冠は心にあるいい言葉ですね。皆様の心に冠が見えます。冠は心にある
私は老人施設の特養、有料、ディサービスなどを17年書道と小話をして回っています。昨日も急病で搬送されるご利用者様が玄関で不安な顔されます。手を握り大丈夫だよ。安心してね。というと「先生!」と見つめてくれます。いつもそばにいる医師、看護師、介護士、管理栄養士、社会福祉士、リハビリの先生等の声掛けが不安をなくしているのです。生きる力になる言葉本当に大事だと思いました。心のよりどころ
「どんな人も美しい誰でも美力があるどんな人も才能があるあなたの才能は泥の中にある蓮(はす)のように芽を出し花を咲かすだろう。あなたの種は5,000年の時を経てここにいるのだ。」(神の目)私は聞こえた言葉を伝えただけです。神はあなたの信じているご先祖様、手を合わせている神様仏様です。あなたの事を見捨てませんよ。神に抱かれて
何年かかっただろうか。ここの友が一万人を越えました。思い出せば都内のガード下で始めた徒然日記。生きる力になる言葉。皆様の力で一万の仲間ができました。ありがとうごさいました。『輝くもの』「胸のどこか奥で夢を見た。悲しみは数えきれないけど人は青空の青さを知り大空を抱く果てしなく道は続いていてもこの手に光を浴びるだろう生きる夢を描こう悲しみは口に出すより心に植えよう星のかなたに輝くものはいつもここにある見えなくても心の中に見つけるから友よありがとう」輝くもの
「畑の中に木があった。その木に蝉がとまっていた。蝉は声高く鳴き、木のつゆを飲もうとしていた。自分の後ろにかまきりがいるのを知らなかった。かまきりはその蝉をとろうとして身構えていたが、自分のかたわらに雀(すずめ)がいるのに気づかなかった。雀は首を伸ばして、かまきりをついばもうとして、自分が猟師に狙われているのを知らなかった」アフリカの大草原にも似たような話があります。人生も同じ。苦境というサタンに襲われ、もうダメかも知れない時、手を差しのべてくれる神様がいるものです。大逆転だってあるのが人生です。何とかなるさ!という気持ちで前向きに生きれば道はひらけるもの。今日を負けずに生きましょう。必ず神様ご先祖様が護って下さいます。「諦めないで良かった」という日が必ず来ます。あなたのその言葉を私は待っています。負けるものか
「あなたの心が弱気になって明日の勝負のために落ち着いた心が必要ならここで言葉を見つけて明日の運(自信)をつかんでください。」(私)明日は決済の時関ヶ原の戦いの時面接の時試験の時試合の時開演の時オーディションの時一世一代の時人の心は乱れて眠れないものです。ここで実力以上の力を得て自分を信じて明日を迎えてください。ここには魔法の力が宿っているから。運をつかめ
中国の古典に「暴風雨の日には、鳥や獣でさえも、悲しそうである。ところが、天気晴朗の日には、草木さえも嬉しそうである。天地に一日も和気(わき)がなくてはならず、人の心に一日も喜びの精神がなくてはならないことがわかる」(菜根譚)「和気」とは天地のことで、晴れやかでのどかな気象という意味で使われます。天地の和気は「喜びの心」を表し、なごやかな気分をもたらしてくれます。皆様の心に和気が訪れますように。和気
私は感じました。神にお願いする時、神は何でも聞いてはくれない。そして、雨の中人が困っている事を手助けしました。とても喜ばれました。すると私が苦しんでいる悩み事をひとつ解決してくれました。帰り道、自動車修理工の店先に奇跡の値段という看板を見ました。神は私に奇跡の願い事を叶えてくれたのでした。今あなたの出来る事で誰かの力になればそれが神の力を与えたことになります。神はお礼にあなたの願い事をひとつ叶えてくれるでしょう。私の願い事はいつも皆様の悩み事を癒す奇跡の力を授けてくださいと念じています。神と一体の喜びを感じる瞬間(とき)です。奇跡の瞬間
愛について「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」(聖書コリント13.4-13)「愛」を神の愛、仏の愛にしてみると良く分かりやすくなりました。ここも神の愛で一杯になりますように。神の愛
雨に打たれて帰ってきました。夏の季語である牡丹。腰痛、頭痛、止血、婦人薬に効果があり平安時代は観賞用に栽培され江戸時代に400以上の品種が栽培されました。中国では「百花の王」と賞賛されています。「立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん)歩く姿は百合(ゆり)の花」。昔から美しい女性の姿をたとえたものでした。しかし、「丹」という字は「赤」を表し、「牡」という字は「おす」を意味しています。そのため、牡丹は男性かも知れませんが、百獣の王(獅子)と百花の王(牡丹)を表しているのかも知れません。獅子は牡丹を食べて生きているとか。そこから猪の肉をボタンというのかも知れません。別名「花王」「花神」と呼び、比べようがない美しさと表現されています。あらためて楽しみたいと思います。牡丹
「春過ぎて夏来るらし白妙(しろたえ)の衣ほしたり天の香久山」(万葉集・持統天皇)春過ぎて、夏がやって来たようだ。真っ白な衣が干してある天の香久山に。冬枯れの樹木もいつまでも枯れてはいない。春になれば花も咲く。厚い氷で凍った川も夏になれば溶けて流れていく。いつも順風満帆の人生などはない。いつか花開くこともある。だからあきらめずに頑張ろう。天の香久山に心の衣を干して。心の衣
「人は痛みを知って、生きているありがたみを知るのだ」歯の痛み、膝腰の痛み、躰の節々の痛み、心の痛みを感じる時に自分のあわれを感じるかも知れない。しかし、それが人生を生きて来た痛みなのだから私は愛しく思っている。すべて痛みを治したらどうだろう?人の苦しみ悲しみを自分の事のように感じるだろうか。一病息災、十病息災。私はいつまでも傷だらけを受け入れてこれからも生きようと思う。星になったあの人達が見ているから。星のあなた
「稽古とは、一より習い、十を知り、十よりかえる、もとのその一」(千利休)再び基本に戻り、心技体も初心を忘れてはならないということでしょうか。あらゆるスポーツや習い事も初めて教えて頂いた事をつい忘れてしまい自己流になってスランプになってしまう。人に教えたり、アドバイスされて気づくものです。人生も同じ、生まれて来た時は裸。無心に遊んだ子どもの心をいつまでも忘れてはならないと思います。「無心とは、一より習い、十を知り、十よりかえる、もとのその無心」(私)稽古と無心
鈴蘭(すずらん)、英国では「谷間の姫百合」、フランスでは「聖母マリアの涙」、ドイツでは「五月の小さな鐘」といいます。花言葉は「幸福が戻ってくる」。鈴蘭の心、皆様に送ります。幸せが戻る
昨日出勤すると早朝に息を引き取ったおばあさんがいました。最期のお別れに行きました。優しい寝顔でした。まぶたが動いた気がしました。人の一生は表札や名前の数だけ生き方があるのですね。色々の人生お疲れ様でした。生き抜くこと立派なゴールでしたよ…。「常世(とこよ)いでて旅の空なる雁(かり)がねもつらにおくれぬほどぞ慰む」(源氏物語・須磨)故郷の常世(理想郷・Heven,Eden)の国を出て、旅の空を渡る雁も、仲間に遅れないで一緒にいる間は心が慰んでいる。私達もここの仲間と一緒にいる間は心が慰められている事でしょう。それぞれのゴール目指して生き抜きましょう。それぞれのゴール
私の作った言葉です。「不幸無感」Idon'tfeelittobeunhappy.(自分を不幸だと思わないこと。)幸福や不幸は心のもちようで変わるもの。不幸にならないためには不幸と感じないことです。不幸無感(ふこうむかん)皆様に届きますように。不幸にならない
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「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。改心の情
ここにいる人達は生きる力を授かり、命のリンク(絆の輪)を持つのです。悩める人達を救いましょう。(私の天使より)命のリンク
私達の体はボディ、スピリット、マインドの三つからできています。ボディとは肉体、スピリットとは魂、マインドとは心。肉体と魂が活動するときに味わう感情、思い、感覚などを感じる機能をマインドといいます。心が穏やかな気持ちでいるとき、心は大きく開いています。これを心理学では「オープン・ハート」と呼ぶそうです。心を開くと物事に対して、優しい気持ちで接し、たくさんの事を受け入れる事ができるといいます。反対に憎しみや、恐怖を感じているときは心を閉じてしまいます。心を閉ざすと益々憎しみが増大してしまいます。オープン・ハートに一番大切なことは愛の注入といいます。愛は無限の力がある。愛されてる貴方はオープン・ハート!愛の注入
毎日お別れする人が続いています。なぜでしょうか?「桜咲き花散る里に帰ろうか」そんな気がしました。皆さん全身の病と戦っていたのですね。最後まで書道を楽しみにしていた顔が忘れられません。書道教師と介護士と言葉の伝道師をしていて良かったです。お別れ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
「万法帰一(ばんぼういちにきす)」苦しみや悲しみは絶対に続かない。という意味です。本当に辛くても辛抱していると周りが助けてくれるものですね。不思議と実感しています。苦しみ悲しみ
「人と神が出会うのは苦難に耐えている時」(私)神はいつもいるわけではない。困って苦しんでいる時に神は現れるものだ。昨日は神の存在を知った。奇跡のような事をしてくれた。感謝しています。神の存在
川面(かわも)の月。ゆったりと大河を流れる川。急流になって谷間を流れる川。月は流されずいつも川面に映っている。月はあなたの心です。流されることのない不動の心あなたはあなたでいいのです。(私)どんな世間の波がたとうとも、自分は流されない不動なのだ。あなたはあなたなのだから。少しの波でも心動揺する私です。こうなりたいと思って日々努力しています。川面の月
「道に迷うことこそ道を知ることだ。」(東アフリカの諺)「人生に迷うことこそ人生を知ることだ。迷わぬ者に悟りはない。」(私)本当に迷ってばかりです。申し訳ない。迷う
日本でつくられた言葉に「躾(しつけ)」があります。身につく美しさと書いて躾。長い間の行いで無意識に身についた姿をいいます。日本人の美意識です。世界に誇れるひとつです。ここもそんな美意識を育てています。躾
一昨日看取りの人が亡くなった。水だけを良く欲しがっていた。イエスも十字架で「私はのどが渇いた」と発言されたことを知りマザーテレサは泣いたといいます。たしか、誰か布にワインを湿らせて唇に付けたと聞いた。そこから浮かんだ言葉です。「渇いた者へ」生きるのに渇いた者はここに来なさい。誰でも心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになるから。(私の天使の言葉より)渇いた者へ
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所もまほろばという安らぎの場所です。まほろば
「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。空海の言う自利利他は幸福の始まりのキーワードです。幸せのキーワード
あと数日の命。看取りの可愛いおばあさん。神田の生まれと自慢していた。しかし、母親からいつもあんたはぐずだと叱られてばかり。妹はチャキチャキの神田っ子。私はだめだ。何やってもノロマ。今何考えているの?「いい思い出ばかり思い出しているよ。」僕なんかいい思い出なんてないよ。「私もそうだよ少ししかないいい思い出を何度も何度も思い出しているよ。」そうなんだね。だけどね悪い思い出もいい思い出になるんだよ。だからすべて思い出していいんだよ。「そうだね」と笑ってくれました。(もうすぐお別れだね)いい思い出
朝の散歩中に竹やぶからうぐいすの鳴く声がしました。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励ましました。勇気が出たと帰っていきました。皆様も人...うぐいす
人は重荷を背負って坂道を行くがごとし。(徳川家康)私は毎日10キロのリュック背負って出掛けてる。墨や絵筆や半紙が結構重いから。50年続けたら120トン。「私の人生120トン雨の日も長靴はいて120トン雪の日も足跡残して120トン風の日も帽子飛ばされ120トン心の重さだ120トン泣いて笑って120トンソーレソレソレ120トン」120トン
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。皆様も今までの自粛生活の苦難の中でも小さな楽しみを見つけて来ましたね。私は物を補修する楽しみを見つけました。苦しい、悲しい、体中痛い毎日の中で楽しみを見つけた時、この言葉が浮かんで来ました。苦中の楽
「人間は死を約束された動物である。人は死んでもその人の影響は消えない。自分は何を残せるだろうか。」聖路加病院故日野原先生生きる力になる言葉をたくさん残した!と自信もっていいましょう。何を残すか
私の作った言葉です。「不幸無感」Idon'tfeelittobeunhappy.(自分を不幸だと思わないこと。)幸福や不幸は心のもちようで変わるもの。不幸にならないためには不幸と感じないことです。不幸無感(ふこうむかん)皆様に届きますように。不幸にならない
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家でありますように。まほろばの家
蛍は遠い故郷を思い出させてくれます。ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。蛍になる
今朝の新聞記事より、日本外科学会定期学術集会の「人にない武器をどう身につけるのか?」というテーマに特別講演を行った元プロ野球選手の松井秀喜さんは元巨人監督の長嶋茂雄さんから誰にも負けない素振りの武器を作ってもらったと披露して、医療関係者1500人を沸かせました。私の武器は誰にも負けない鈍感でドジ。努力しなくて身につけた。皆様の武器はどう身につけましたか。あなたの武器は
「道とは遠くからははっきり見えるけれど近づいたら消えた幻のようなもの。」「晴れた天気に外に出たら急に雨が降る。喜びの歌がまだ終わらない内に悲しみの歌が聞こえて来る。それを道と呼ぶのだ。」(私)退院して来たお年寄りを喜びの拍手で迎えた。その時、心臓が苦しいと、救急車で搬送されたおばあさんが亡くなった。「喜びも悲しみも同時にあるのが道なのだ。」すべてが幻のように去っていく。今の時期を「土(つち)休み」という。春の花が枯れたから、夏の花を植えましょう。土を休めてから。素敵な言葉です。土も生きているのだ。仕事を変える時、迷った時、人も休みましょう。ひと(人)休みひと休み。土やすみ
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。「み」は水。「だ」は垂れる。泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。「瞳の中にも空がある澄みきった空がある晴れ渡った空がある時折涙雲になり涙の雨が降るそのあとはまぶしい空がやってくる涙雲のあとは瞳の空が晴れ輝きを取り戻すのだ。」もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉です。涙雲
仏教の目的は『成仏』。すなわち「仏に成る」ことです。その方法の一つに「行い」「言葉」「考え方」という三つの活動において、仏さまの真似をするというものがあります。「皆が手伝ってくれたから無事に行事ができた」とか、「落ち込んでいた時に掛けてくれた言葉で頑張れた」とか、「上司の冷静な考え方があったから、窮地を乗り越えられた」といった経験ありませんか。「みんなが健(すこ)やかになれる」ような活動を通して、私たちは少しずつ仏さまに成っていきます。「行い」「言葉」「考え方」のどれか一つで結構です。「こんなとき仏さまならこうするんじゃないかな」そんなことを意識してその日を送ることができたならば、その一日はいつもと少し違った一日になるかもしれません。(真言宗・長寿院住職)素敵な説法ですね。このお話の根本にあるのは、思いや...神の子
14日間飲まず食わず。最期に残した言葉。耳元で『良く頑張ったねお疲れ様僕のこと忘れないでね』すると「忘れぬものか」と言って亡くなりました。この言葉を発する力に感動して涙が出ました。「生涯最期の言葉」皆様と共有しましょう。ありがとうの言葉返しで。忘れぬものか
「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「死ぬことは誰かの心に生きることなんだ」皆さんもいろんな悩み抱えているでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私達がそばにいますからね。そばにいるよ
あわてるな、落ち着きなさい。という意味の「且緩々(しゃかんかん)」。若いお坊さんが、師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったら、「且緩々」と言われた。『どの道も、急いで極めることはできません。まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい』。という時に使います。人生も同じです、ふと立ち止まって、これで良いのかとゆっくり考える時間が必要ですね。「且緩々」緊張した人を見たらこの言葉を掛けてみましょう。まずは一服
昨日緊急出勤のため7:00に家を出た。道路から離れた道をチャリで行くと竹やぶが燃えているのを発見。人がいるようないないような?風が吹く朝、すると消防車がやって来て道路に止まり隊員があたりを走り始めていた。私は掛けより竹やぶが火事と伝えた。わき道の奥だから分からないと思ったから。私はその場を去った。帰りに現場に行ったら竹やぶが綺麗な更地に変わっていた。地面は水の跡が染み込んでいた。きっと誰かがたき火(焼き畑)をして竹やぶに火が回り通報したのだと思った。外車の並ぶ販売店の裏だから大事にならないで良かったです。神のお告げか不思議な火事
「神の国は君たちの中にあるんだよ」(聖書ルカ17-21)神の国はいつ来るのかとパリサイ人に尋ねられた時、イエスは答えて言われた言葉。神の国とは、神の思いが実現するところ。それは、夢のような特別の場所にあるのではなく、私たちの中にもうすでにあるんだよ。苦しむ人、悲しむ人、助けを求める人に自分ができることをしていくこと。お互いのあやまちを許し、受け入れてそれぞれみんな中にいる神の存在に気づくこと。その時そこにもう神の国はあるんだよというメッセージです。空海も同じような事を言ってました。「仏は外にいるのではなく、丹田(たんでん)にいる」と。丹田とはへそ下で気力が集中する所です。神の国はあなたの中にあるのです。神の国
施設のカウンターに飾られている日本人形。彼女が私がケアマネになって戻って来たことに感謝している夢を見ました。「私の頭にかぶせている帽子は可愛いくないから取って欲しい!」翌日行ってとりました。笑ってくれました。髪を撫でると願いが叶うと教えてくれました。足元にそれを書きました。誰かが撫でたのでしょうか?髪が茶色になったり、前髪が数本伸びてきました。気のせいかな?魂が宿っている人形です。不思議なことだと感じて報告しました。みんな導きで今があるのだと納得して受け入れましょう。少しは気が楽になりますように。導きの今がある
今年も桜が咲いて私達を楽しませてくれました。桜の絨毯ができました。川面には花筏(はないかだ)となって桜の花びらが流れて行きました。「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)咲こうとも散ろうともどんな桜も愛すべき桜なのです。桜を命に変えると「散る命残る命も散る命」どんな命も愛すべき命なのです。桜は痛み苦しみ乗り越えて精一杯生きよと教えています。残る命を精一杯生きましょう。残る命
再び皆様へ「刃物は物を切る言葉は心を斬る暖房は体を温める言葉は心を温める薬は病を治す言葉は全てを癒す言葉は生きる勇気の道標(みちしるべ)しかし、沈黙と傾聴を忘れてはならない言葉の力信じて共に歩もう。」言葉の力
この時期、樹木希林さんの会話を思い出しました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」晩年の希林さんがたどり着いた境地に「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」(良寛)「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」また、良寛の次の句も好んだ。「散る桜残る桜も散る桜」誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。という意味に「そう考えると心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいので...生と死
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。四体の心
「人は神によって生命を与えられ、あらゆる人の愛を受け育まれる。」しかし、「人間は愚かな生き物。日々誘惑に惑わされ、悪や欲に染まってしまうこともある。そのまま悪の道を行く人もいる。」「弱い人間は日々我を顧み生んでくれた神に喜ばれる生き方をして終わりたいものだ。」(自戒の言葉)誘惑の罠
人生は順風満帆ばかりではない。明日の希望もなく苦難の日々ばかりで、逃げたくなる事もある。「成長とは華やかな地上だけではない。地下にだって根を生やす事も成長というのだ。」足踏みしたって、かかとは減るのだから。いま辛い人は地上に出る前に、強い根を生やしていると思えばいい。私は人生の2/3はそうだった。地下の女神が見守っていますよ。地下の女神
「無事に生きる」という言葉があります。禅語では不要なことに振り回されないこととあります。不要とは「三毒」のことです。1.何でもむさぼるように欲しがる欲望。2.ささいなことで怒ること。3.道徳心や常識にかけた愚かさのこと。この三毒を出せば何事にも振り回されなくて、無事に過ごせると説いています。皆様には関係ない言葉ですね。三毒