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なんとなく過ごす日々 https://nantohibi.blog.ss-blog.jp/

間質性肺炎と白血病、連れ合いは多発性骨髄腫。そんなものには負けません。元気に療養。旅にも出ます。

病気を抱えながらも、元気に過ごそうとしています。そのための努力も惜しみません。酸素ボンベかついで、夫婦であちこち。海外旅行にも行きます。

おら
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茨城県
出身
京都府
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2015/02/14

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  • 冬過ぎて春が来るのにまた入院

    随分長くブログを書いていない。リハビリに励み、今頃はスタスタ歩いているはずだったのだが、思惑が外れた。だんだんと呼吸が苦しくなり、リハビリどころか起き上がることもままならない。しかし先生は楽天的で一月の健診でも、膿胸は良くなっている。体力の回復に時間がかかっているだけだろうと言う事だった。 そんなものだとは思えない。状況はますます悪化して、完全寝た切り状態だ。なんとか持ちこたえて2月の受診日になったが、車椅子に乗るのも苦しく、病院に行けない。連絡を取ると救急車で来いと言う事だった。救急扱いだと、ICUに入れられ心電図などの一連の検査がされるので、膿胸以外の疾病があればそれもわかるだろう。 結果はネガティブだったらしい。むしろ、今まで右肺だけだった膿胸が今度は左肺に発生していることがわかった。早速入院になり、ドレンが始まった。今回、感覚的には今までの膿胸とは違うような気がする。ド..

  • さいなら三角またきて四角

    家の傍に小高い丘があった。丘よりも急峻なところがあったから山である。雑木が茂り、曲がりくねった山道がいくつもあった。ここが僕らの遊び場だ。腰に刀を差して連れ立って歩いた。もちろん、おもちゃを買ってもらえるものでもなく、自分で木を削って刀の形にしあげたものだ。時折、「曲者!」と叫んで、手裏剣ならぬ木片を投げて見る。 「なあ、今黒い影が走っただろ」 必ず調子をあわせる奴がでてくる。「そこにも!」と叫んで手裏剣を投げる。 「うむ、仕損じたか」「素早い奴だ」 「あれは伊賀者だ」 「僕たち甲賀だもんね」 やがて道はちょっとした広場に出る。そこは一面ススキ野原になっていた。遊びは鬼ごっこに切り替わる。身の丈ほどものススキが生い茂っているから、身を隠すことが出来る。かがんで素早く動けば、鬼が来たころには、もうそこにはいない。神出鬼没の忍者を演ずることができるのだ。 遊んでいると時間が経..

  • ちょっとまし、回復基調になったのか

    ときおり出る高熱に悩まされて来たが、ここ2週間は微熱だけで済んでいる。呼吸も少し楽で息切れもましになって来たような気がする。痰も量が減って色が白くなっている。回復基調になって来たのならいいなあ。 そんな思いで行った外来受診。胸水が増えているという兆候はない。しかし膿胸から離脱出来たと考えるのは早計だそうだ。今後の悪化も十分考えられる。肺の状況はと言えば、やはり左が広範囲にわたって白い。12月と変わらない。抗生剤の効果はなかったと言う事なのか。先生曰く、レントゲンだけでは判断が難しい。明確に効いたと言うわけではないから継続しての投与はないことになった。 血液検査の結果では、crpが4まで下がったのは朗報だ。しかしこれでもまだ非常に高い。いったいこの炎症はどこで発生しているのだろうか。気になるのは心筋への負担の指数NTproBNPで900以上は心不全の治療が必要と言うことになってい..

  • 車椅子いろんな機種があるんだね

    退院しても、歩けるようになるまでにはしばらくリハビリが必要だ。一方で免許証の更新とか、すぐにも出かけなければならない用件もあった。そこで車椅子をレンタルした。じきに要らなくなると思ったのだが、もう一度入院したりして、なかなか歩けるようにはならない。結局、もう半年もレンタルしたままである。 出かけるときは車椅子なのだが、これがどうも楽ではない。体幹が弱い僕には座位を保つのが苦しい。とても長時間乗っておられるものではないのだ。病院では備え付けの車椅子を使うのだが、こちらの方が少し楽だと気が付いた。どうも背もたれの高さがわずかに違うせいらしい。病院のものよりもう少し背もたれが高ければよほど楽だろう。さらに少しリクライニングがあればもっと楽になる。 そう思って調べて見たら、あるある。車椅子には随分いろんな種類があることがわかった。片足用とか入浴用、中にはスポーツ用というのまである。大き..

  • わかるかな貸し間が普通と言う時代

    寝てばかり、PCいじる元気もなく、youtubeで著作権切れの古い映画を見た。内容はともかく、50年代の生活が随所に反映されていて、それだけでも面白い。どの映画でも庶民は貸し間に住んでいる。このことが今の若い人たちに理解できるだろうか。 アパートとかマンションはない。絶対的に住宅が不足し、戦死などで家族が減った家は、空き部屋を賃貸していたのだ。トイレも台所もない部屋借りが普通で、家人の台所から水を貰って、窓際においた七輪とかで調理していた、 僕が生まれた頃、両親が住んでいたのは病院の一室だ。食糧難で患者に給食することなどできず、病室はがら空きだった。駆け出しの医者だった父の本務は大学だったのだが、アルバイトの宿直医を兼ねて病院に住み込んでいたのである。他にも住んでいる人たちがいて病室は貸し間になっていた。畳敷きの布団で寝るタイプの病室だから普通の部屋と同じだ。 学位論文が..

  • 外来の意外な結果で年を越す

    体調は下り坂。息切れが酷い。高熱も出る。膿胸の復活は間違いない。ただ痰の色がきれいだから、胸水は溜まっているがまだ炎症は抑えられていて膿にはなっていないかも知れない。それならやがて胸水が減っていく事も無きにしも非ず。 そう期待して臨んだ外来受診だが、全く逆の事を言われると戸惑ってしまう。レントゲンで見ても胸水は溜まっていない。しかし、炎症は激しくcrpは10にも跳ね上がっていると言うのだ。一体なぜ? 主治医にもよくわからないようだが、膿胸とは反対側の左肺の白っぽい部分が広がっている。左肺に炎症が出来ているのかも知れないとして抗生剤を処方された。自覚症状としては膿胸が酷かった時と同じだし、crp10と言うのは尋常な値ではない。 何か全く別の所たとえば循環器に問題があるのではないかと思えて仕方がない。現にNT-proBNPは1000を超えている。膿胸が酷い時には7000もあっ..

  • やばいかな、またも体調下り坂

    リハビリを頑張ろうとしていた矢先にまた発熱だ。38.5度だと、もう寝ているしかない。幸いなことに一日で終わった。しかし、翌週また発熱だ。今度は微熱が2,3日残った。明らかに呼吸は苦しくなってきている。退院当初は足腰が非常に不安定で、転ぶこともあったが、一応平気でトイレまで行けた。今は伝い歩きが安定してきたにも拘わらず息切れが激しい。トイレまでたどり着いても、息が整うまで用便どころでは無い。 原因は膿胸の復活だろう。完治したわけではなく、ドレンチューブが限界にきてcrp2.5で炎症が残ったまま退院したのだから懸念はあった。しかし、crp6と言った前回の退院の時より炎症のレベルはかなり低いし、ステロイドは3㎎も減らしている。事実、退院時点での体調はすこぶる良く、息切れなどあまり感じなかった。僕の免疫力・治癒力に期待しての退院だったのだが、今の所少し旗色が悪い。 このまま、もう少し耐..

  • ともかくもリハビリ計画立ててみる

    連れ合いの多発性骨髄腫は自家幹細胞移植から半年、今の所順調だ。ポマリストで地固めをしているが大きな副作用もない。絶好調とも言える。それに引き換え僕の方は退院して来てもまだ自由に動けない。連れ合いの世話になるばかりなのが情けない。去年は寝たきりの連れ合いの世話を僕がしていたのがウソみたいだ。 僕の足腰の弱さには2つ原因がある。1つは入院で寝た切りが続いたための弱体化で、もう一つはステロイドによるミオパシー(Myopathy)つまり筋肉が無くなってきたことだ。これは加齢と共に進行して行く。かつて太かった足も、いまはほとんど骨と皮だけだ。体重はなんと83キロから51キロに減った。 だからそう簡単にリハビリが成就するとは思えない。しかし他には手立てがあり得ないないので頑張るしかない。目標は杖を突いてでも短距離が歩けることだ。今の所、よろけながら、何とか壁伝いでトイレまで行けるばかりだ。..

  • 二ヶ月でやっと退院まあいっか

    やっと退院出来て久々にシャバの空気を吸っている。といってもまだ家の中だけで、外出は出来ていない。伝い歩きでトイレに行く事などは出来ているのだが、外出するには車椅子を使うとしても玄関前の数段のステップを乗り越える筋力がいる。今少しリハビリが必要だ。 今回の入院は膿胸治療のためだ。間質性肺炎自体は悪くなっていないのに、息苦しく。高熱も出た。この原因が胸水が溜まって炎症で膿になってしまっていることがわかった。どろどろに固くなった膿が肺の動きを妨げている。ドレンチューブを差し込んで膿を出してしまう治療は5月の入院の時もやった。今回の入院はこの治療が不十分だったということによる。 5月の入院では、時間をかけてどろどろの膿を吸引し、水を入れて洗浄し、もう膿が出て来なくなったところで終了した。まだcrpが7(炎症反応、0.3が正常値)という状態で、微熱もあったのだが、残っている炎症は自力で治..

  • 病院で食べるミカンの味気無さ

    病院食に蜜柑が出たから食べたのだが何か違和感がある。なぜだろうか。実は蜜柑は独特のシチュエーションを想定した食べ物なのである。山陰の冬は暖かい日が照る事がない。雪解けのぬかるみでは外でも遊べず、冬ごもりといった感じで家族は炬燵の周りに集まる。そんなとき、必ず食べたのが蜜柑だ。蜜柑は一家団欒と切り離せないものだ。断じて病院のベッドの上で一人食べるものではない。 どこの家でも冬には蜜柑を箱買いして常備していたと思う。我が家では父の同僚の実家が有田だったので、毎年大きな箱に入った蜜柑をもらった。廊下の端の冷え込んだ所にある箱から蜜柑をもってくる。蜜柑は4っつに割り、底の方を右手の指で押さえて、左手で身をくるりと回すように取り外す。こうするとスジが皮の方に残ってとれてしまう。これが普通のミカンの剥き方だと思っていたが、どうもそうではないらしい。 「有田剥き」などと言われてYouTube..

  • 一ヶ月病院暮らしも飽きてきた

    早いもので入院してから一ヶ月になろうとしている。胸水のドレンで随分楽になり、入院当初の苦しさはない。寝てばかりも飽きてきたなあと思えるのも回復があったなればこそだ。crpも24、12,6,4と下がって行き見た目にも出てくる胸水の色は薄くなって来た。順調に膿胸から脱出できるかのように思われたのだがそうは甘くなかった。crpは3で足踏みになってしまった。高熱はなくなったが、時々現れる微熱がとれない。 crpが1を切れば炎症はなくなったと言えるのだが、3ではまだしつこく炎症が残っていると見るしかない。膿胸はなかなかしつこいのだ。胸水を排出して圧力が無くなれば肺が膨れてきて、胸水溜まりの空間を埋めるはずなのだが、僕の場合、1cmくらいの隙間ができたままだ。間質性肺炎のために繊維化してしまって固くなった肺はうまく膨れてくれないのだ。 先生の意見では肺が膨れてこない以上、このままドレンを続..

  • 老人のパソコン使いはどのくらい

    もう一息なのだが、まだ入院は続いている。膿胸はなかなかしつこい。そこに持って来て来週は連れ合いも入院することになった。我が家はダブル入院になる。連れ合いの入院は白内障の手術だからたいした事はない。しかし、連れ合いの入院中に寝た切りの僕が退院になればどうなるのだろう。施設にでも入れてもらうしかないのだろうか。施設に入るとどうなるのかブログ検索をして見て驚いた。一件も見つからない。 母がちょっとお世話になって、特養に出入りしたことがあるが、特養の入居者はコミュニケーション力が弱い。鋭敏な聞き取りが出来ないと何を言っているのかわからないので会話はヘルパーさんとしかできず、入居者どうしでの会話はほとんどない。談話室にずらっと並んでボケーとテレビをの方向を見ている光景は異常だった。この人たちがブログを書いたりしないことはわかる。 特養は入居基準が厳しいから高度に活動力が低下した人でないと..

  • 入院中インターネットはこっそりと

    入院して3日目になる。になる。金曜日からの入院だったのでどうせ治療は月曜からだろうと思っていたらえらく対応が早かった。車椅子で座っているのは手続き待ちの時間がつらいのでストレッチャーをお願いしたら救急扱になったのかも知れない。病棟から看護師さんがやってきて、連れ合いが事務手続きをしている間に、レントゲン検査と心電図をすましてしまった。病室は緊急個室だ。いずれ大部屋に移ることになるだろう。 先生がやってきて、すぐに右脇腹を切開してのドレン管の挿入になった。ただし今回は、先生が指導しながら弟子の若い女の先生が執刀した。どろどろと膿が出てきて、夕方には、もう随分と呼吸が楽になって来た。しかし、少し下がって来たものの発熱は続き、食欲は全くない。発熱があるとおしっこの出は悪く、1時間ごとに50ccと言う状態が続いた。夜中に解熱剤の処方をお願いしたら、38度を超えないと病棟の判断では処方できない..

  • 涼しくはなったけれどもまた入院

    7月末に退院して以来、歩けるようになる事を目指してのリハビリは、少しの進捗と発熱による寝込みでの中断・後退を繰り返して来た。発熱の原因が不明で、打つ手なしだったのだが、胸水が再び増加して膿化していることがわかった。外来でドレンしてもらって随分と楽になった。しかし、それも束の間、2週間で再度、発熱が始まった。案の定また胸水が増えて来ている。 それならまたドレンすれば良い。そう思ったのだが、先生の意見は、単なる繰り返しでなく、胸膜の炎症を止めなくてはならないから入院治療が必要だと言う事だった。外来でのドレンは注射針のようなものを刺すが、入院してのドレンは切開して少し大きなチューブを挿入する。おそらくチューブから抗生剤などを注入することを考えているのだろう。胸膜は血管が行き渡っていないから、注射や服薬では抗生剤が届かないからだ。 またあの病院生活が始まるかと思うと憂鬱だ。病棟に閉じ込..

  • リハビリをやりたいけれどなかなかね

    寝たきり引きこもりから脱却するためにはリハビリが必要だ。誰でも入院生活で足萎えるが退院して一ヶ月もすれば、自由に歩き回っているのが普通だ。しかし僕の場合、心してリハビリに励まなければならないようだ。根本原因はもともとステロイドミオパシーで筋肉が無くなって来ていることだ。太かった足は見るも無残にやせ細っており、いずれ歩けなくなることは予告されていた。今がその時かもしれない。しかし、半年前には曲りなりにも歩けていた。入院生活による筋力の低下が重なっているのだ。 入院前から杖をたよりに100m歩くのがやっとだったから自由に歩き回るなどと言うことは望むべくもない。しかし、「歩けない」と「少し歩ける」には天と地の違いがある。少し歩けるなら一人でで出かけることが出来るし、温泉の大浴場に入ることもできる。歩けないとなるとすべて介助頼みだ。なんとか、「少し歩ける」になりたい。しかし、酸素ボンベ必須で..

  • 無理やりの温泉行きは楽じゃない

    少し歩けるようになったら温泉に行きたいと思っていた。しかし、なかなかリハビリは思うように進まない。しびれを切らせて強行することを思いついた。車椅子でのお出かけになるが致し方無い。久しぶりに息子が帰ってきたから温泉行きのチャンスなのである。連れ合いでは男湯に入れないので介助を頼む訳に行かないからだ。夏休みでどこも混んでいるのだが、うまく日光湯元に予約を取ることが出来た。 とは言うものの、道中4時間、車に座っているのが辛いのではないかと懸念される。普段はすぐに横になる。まあ寝たきりみたいな状態だからだ。しかし、4時間は免許更新の時の実績があるから、やれないことではない。体調次第の冒険ではある。 息子に運転させて出発したのだが、彼は日本に帰って来てまだ3日目だ。ウインカーとワイパーを必ずと言っていいほど間違える。僕にも経験があるが鬼門は一車線から二車線の道に入る所だ。うっかりすると右..

  • 懸案の免許更新できたぞワーイ

    たかが運転免許の更新くらいで何を喜んでいるのかと言われそうだが、僕にとってはなかなかの難事業だったのである。70歳になると教習所に行って「高齢者講習」を受けることが更新の条件になる。この事を通知されたのが入院の直前だ。当然のことながら入院していたのでは教習所に行けない。早い目に予約しないと定員オーバーで講習を受けられなくなってしまうとも書いてある。早く予約しなければと思うのだが、いつ退院できるともわからないのでは予約のしようがない。入院が長引けば運転免許はあきらめなければならない。 ステロイドミオパシーで筋肉が無くなって来ているから、達者に歩くわけには行かない。杖にすがって歩く身としてはバス停まで歩くのはつらい。電車のホームを延々と歩くなど思いもよらない。車あっての行動の自由だ。ここで運転免許を失うことはまさに死活問題なのだ。長期入院は困る。 なんとか期日前に退院はできたのだが..

  • 一ヶ月、いまだに寝たまま引きこもり

    退院から一ヶ月。元気になって今頃は温泉にでも出かけているはずだった。ところがそうは甘くない。いまだに寝たきりに近い生活が続いている。原因は正体不明の発熱だ。周期的に発熱が起こり、37度台半ばが3日ほど、続いて38度台半ばの苦熱が2日、そしてまた37度台にもどる。こうなると寝ているより仕方ない。crpは12.白血球は15000もある。ところがCTを撮っても肺に大きな変化はない。呼吸器、腎泌尿器、膠原病でそれぞれ原因を他科に押し付けあっている状態だ。 もともとステロイドミオパシーで筋肉がほとんど無くなってしまい、かろうじて杖にすがって歩ける状態だったのだが、寝込めば極端に筋力が落ちてしまう。熱が下がったらリハビリに励むことが必要なのだが、息切れがして有酸素運動は出来ない。そうこうしている内にまた発熱で寝込む。そんな事の繰り返しで一ヶ月が過ぎたというわけだ。 それでも負けてはおれない..

  • 退院で家での生活立て直し

    入院治療は膿化した胸水の排出を目的としたものだ。粘度が高いからチューブ挿入だけでは出てこないと懸念されたがドレン量が予想以上だったので、膿の粘度を下げる薬剤を注入することになった。結果としてさらに多くの膿をドレンするすることが出来た。注入・排出を繰り返して行けばよい。3回目の注入後、ドレン駅に血液が混じってきた。炎症個所を洗い流した結果だが、炎症を広げる恐れがあるので薬剤投入は中止した。それでも膿の排出は続き、結果的には1リットル以上の胸水を抜き取る事が出来た。治療は8割がた成功したと言える。 チューブを抜き、あとは自力で胸水状態の回復を図るということだ。胸水に圧迫されて肺が委縮しており回復には時間がかかる。入院して5週間、やっと家に戻れることになった。しかし、なぜ胸水が溜まるようになったのかはわからない。根本原因が不明なまま自力での回復がどれだけ期待できるのか心もとない。再発という..

  • この死だけはどうしても受け入れられない

    娘が亡くなった。 明るい陽ざしの中を、周り一面に、笑顔を振りまいて、 トパーズ色の風と共に駆け抜けて行ってしまった。 そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。 僕らに親として生きる事の幸せを教えてくれた。 素直で優しく、何事も一生懸命に取り組む素晴らしい子だった。 運動音痴の僕とは違い、体力にも恵まれていて駆けっこも早かった。 心身ともに健康とはお前のためにあるような言葉だった。 そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。 小さい時から器量が良かった。 周りの人が振り向いて、可愛いねと声をかけてくれる度に僕は鼻高々だった。 イリノイの古い田舎町に住んだ時、 初めてのアジア人に対する冷たい視線が 暖かく変わったのはお前の笑顔があったからこそだ。 「日本人の子はきれいだね」とあちこちで聞いた。 そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。 せっかく..

  • 体調はなかなか戻らず入院に

    退院して一ヶ月。連れ合いの体調回復は目覚ましい。幹細胞移植の効果は歴然で、現在、無治療で過ごしている。一時僕が担ったはずの家事一切は再び彼女の手中に収まってしまった。それにひきかえ僕の方はますます元気がない。発熱があり食欲はなく殆ど何も食べられない。かつて83㎏だった体重は53㎏まで減った。 難航した階段昇降機の設置が出来て、伝い歩きさえできれば家の中では不自由しないはずだったが、座っているだけでも辛くて、一日中寝て過ごすことになった。まさに寝たきり老人だ。PCを開く元気もなくブログの更新も滞ったままが続いた。 この状態では病院通いもままならない。病院から帰って来て車庫から玄関までの数メートルでガクッと膝が崩れて地面に転げてしまう事があった。こうなると立ち上がりが大変で連れ合いだけではどうにもならない。ご近所の人に助けてもらってやっと家に引きずり込んでもらうことが出来た ..

  • 夏空を見上げて口にかき氷

    気温が上がってきている。もうじき夏がやって来る。しかし、まだエアコンは点けていない。もう少し自然の空気の中に身を置いて人工的でない環境を味わいたいからだ。窓から入って来る風の心地よさを感じたい。 しかし、暑い。連れ合いが冷蔵庫から取り出した小豆アイスを渡してくれた。なんという贅沢だろうか。子供の頃アイスを食べるのはそう簡単なものではなかった。汗をかきかきアイスキャンデー屋に買いに行かなければならなかった。僕の町には一軒だけアイスキャンデー屋があった。 店先には、大きな箱状のアイスキャンデー機があり、その横でベルトドライブのコンプレッサーがガタガタ揺れていた。まだアンモニア冷凍機の時代だ。時々アイスキャンデー屋で爆発事故があった。アイスキャンデー作りは命がけの仕事だったのである。 八連くらいのブリキの容器に汁と棒を入れてしばらく箱の中に入れておくとアイスキャンデーができる。..

  • あの時代僕にはどんな生き方が

    人間は歴史の制約の中で生きている。大谷翔平がいくら優れた選手であっても野球のない時代に生まれたら活躍の仕様がない。僕が科学者としてやって来たささやかなことも、丁度、エレクトロニクスが発展し、コンピュータが使われだした時代に生まれたからこそである。 僕がもう少し早く、親の時代に生まれていたらどんな生き方があっただろうか。戦争の最中だ。戦死していた確率が高い。天皇陛下バンザイを叫んで死ぬほど単純ではなかっただろうと思う。しかし、この戦争が勝ち目のない馬鹿馬鹿しいものだと見抜くことが出来ただろうか。 アメリカは日本の10倍の国力があるから勝てるわけがないと思った人はいるようだが、これは説得力がなかった。日清戦争も日露戦争も10倍の国力を持つ相手と戦って勝ったのである。戦争は国力ではなく戦闘意欲であり、日本には大和魂があると言われればそれまでだ。 戦闘意欲の根源になっていたのは「..

  • 孫たちが大きくなるのは早いもの

    僕には3人の孫がいる。一人はサンフランシスコ在住だから、なかなか会うチャンスがないが、あとの二人は近くの町にいるから、つぶさに様子を知ることができる。 ついこの間生まれたばかりだと思っていたら一番上の子は、早くも中学生になった。入学試験に通って、我が家の近くにある学校に通い始めたから、立ち寄ってくれる機会が多くなると期待している。この子は「いい子」であることに熱心なことが特性だ。だからなんでも一生懸命やる。運動、音楽、勉強、遊び、お手伝い。小学校の時は結果的に何でもできるスーパーガールだった。しかし中学校ではそうもいくまい。勝手が違うだろうと思ったが、相変わらず学校行事には積極的で、新しい友達も出来て毎日が楽しくて仕方がないといった様子だ。これはいいことだろう。 妹の方は小学校2年生だ。本当についこのあいだまで赤ちゃんだった気がする。面白いものでこの子特性は言葉達者なことだ。一..

  • 膿胸が息苦しさの奥にある

    連れ合いは、幹細胞移植が無事に終わり、退院して来たが、倦怠感と背中の痛みは取れない。回復にはかなりの日数がいるようだ。一日を殆ど寝て過ごしている状態だから、僕の一人暮らし体制はまだあまり変化がない。それでも、二人でいることはやはり心強い。横に連れ合いが寝ているというだけで、僕はぐっすり眠れるようになる。 僕の方は相変わらず労作時の息切れが強く、歩行が不安定だ。大学病院で循環器への負担が極めて大きいと言うことが指摘された。確かに脈拍がいつも高い。胸水のたまりが、肺だけでなく循環器系の圧迫にもなっているのだ。なんとか胸水を減らすために利尿剤を処方されていて、頻尿である。しかし、水分の摂取も制限しているのだがなかなか胸水は減らない。胸水の存在はレントゲンにもはっきりと見えている。 なぜ、なかなか胸水が取れないかというと、実はただの水ではなく、濃いどろっとした液体になっている。水と言う..

  • 幹細胞 移植はやっぱり甘くない

    抗がん剤の大量投与から幹細胞移植まで順調に進んだ連れ合いの骨髄腫治療。移植後、2日目になって少し食欲の減退が見え出したと思ったら、3日目には食べられなくなってしまった。倦怠感もあり、なかなかつらい状況だ。ルンルン軽い副作用なんてあるわけないよな。肩すかしと喜んだのは甘すぎた。 状況の急変にこちらは驚いたが、病院側は淡々とした扱いだ。想定内のことだから、別に騒ぐこともないと言われればその通りではある。倦怠感と食物不摂取が、生着までおそらく10日位も続くことになる。肩すかしどころではない。「我慢してくれ耐えてくれ頑張れ」これしか言えることはない。 5日目になると、下痢だ。娘があわてて着替えを持っていった。紙おむつとかいるのかと思ったけど、6日目になると下痢は少し治まってきた。それはそうだろう、食べていないのに出るはずがない。体力維持のための栄養補給は専ら点滴で行っている。食べられな..

  • 幹細胞 移植の苦しさ肩すかし

    連れ合いが入院して、いよいよ自家造血幹細胞移植の始まりとなった。様々な検査、そして中心静脈へのカテーテルの挿入、うまく入っているかどうかはX線で確認する。もちろん幹細胞はカテーテルから入れるのだが、輸血や栄養の補給もこのカテーテルを通して行うからこの装着は重要だ。抗がん剤メルファランの大量投与は副作用を伴い、強烈な吐き気、倦怠感、下痢などが起こるのが普通だ。口内もひどい炎症が起こるのであらかじめ氷を含んでしびれさしたりする。出来る限りの副作用対策をして移植に臨む手立てになっている。 覚悟して臨んだメルファランの大量注入一日目は30分くらいで終わった。どれくらいで副作用が現れてくるのだろうか。無菌室には入らないようにして、メールで連絡を待っていたが、「まだ何もない」が続いた。晩御飯も食べて、夜はぐっすり眠ったという。しいていえば血圧が低くなっているくらいのことだ。2日目も続いて投与が行..

  • 突然に入院決まり大慌て

    多発性骨髄腫の連れ合いは幹細胞採取を終えて、無菌室の空きを待っている状態だ。今度の入院は幹細胞の移植だから一ヶ月以上の長丁場になる。なかなか無菌室の空きがなく春以降になるだろうと言われていた。ところが昨日電話がかかって来て、明後日の入院になることが決まった。カイプロリスが効いて寛解を達成しているから、いいタイミングではある。 しかし、予定は大いに狂った。来週予定していた古希のお祝いは中止。孫の卒業式には卒業生代表に選ばれた姿を見に行く事を楽しみにしていたのだが、これも行けない。一番困るのはこの僕だ。年末の入院以来、体調がなかなか回復せず、歩行に困難をきたしている。生活の多くを連れ合いに依存する状態だから困ったことになった。一応、「伝い歩き」は出来るからなんとかなるだろうとは思う。息切れで、休み休みになって時間がかかるが、間質性肺炎の患者は何事も自分で出来ないわけではないのだ。 ..

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