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風の記憶 https://blog.goo.ne.jp/yo88yo

風のように吹きすぎてゆく日常を、言葉に残せるものなら残したい…… ささやかな試みの詩集です。

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2014/10/31

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  • 春の匂いがしてくる

    春はかすみに包まれる。かすみを吸ったり吐いたり、見えるものや見えないものが、夢の続きのように現れたり消えたりする。風はゆっくり温められて、うっすらと彩りもあり、やわらかいベールとなって、あまい匂いで包み込まれそうだ。記憶の淀みからじわじわと滲み出してくる、曖昧に覚えのある匂いがある。いままた何処かで、花のようなものが咲いているのか。子どもの頃の私はそれが、まだ春浅い川から立ちのぼってくる水の匂い、だと思っていた。水辺が恋しくなる頃、大きな岩の上から巻き癖のついた釣り糸をたれ、岩から顔だけ突き出して水面のウキを睨みつづける。はっきり川底が見えるまで水は澄みきっていて、魚の姿は見えるが動く気配もなく、誘っても餌には寄ってこない。まだ水の季節はひっそりとしているが、水の冷気とかすかに甘い匂いが顔を濡らしてくる。...春の匂いがしてくる

  • 白い花が咲いてた

    白い花が咲いてたふるさとの遠い夢の日……そんな古い歌を思い出した。遠い夢の日に、どんな白い花が咲いていたのだろうか。近くの小学校で卒業式が行われていて、遠い夢の日の、小学生だった頃に引き戻された。梶原先生、おげんきですか。小学校の卒業式の日に、担任の梶原先生が『白い花の咲く頃』という歌を歌ってくれた。いかつい大きな顔をした男の先生だったけれど、歌の声は低くて優しかった。ふだん怒ると顔が真っ赤になったけれど、歌っている顔も真っ赤だった。声が少しかすれていた。クラスのみんな、うつむいて泣いた。最後の日、先生は黒板に「心に太陽を持て」とチョークで大きく書いた。クラスのみんなに贈る、それが最後の言葉だと言った。国語の教科書に載っていた、詩人のだれかの詩のことばだった。白い花の歌と太陽の詩と、この季節になると、最後...白い花が咲いてた

  • まだ虫だった頃

    寒さにふるえているあいだに、時だけが木枯らしのように走り去っていった。短い2月の、アンバランスな感覚に戸惑っていたら、いつのまにか3月も終わろうとしている。3月だからどうということもないのだが、急き立てられる思いが、やはり日常の感覚と歩調が合っていない。3月のカレンダーで、啓蟄という言葉が目にとまった。日付のところに小さく「啓蟄」(けいちつ)とあった。地中の虫が這い出してくる日だという。暖かくなったということか。地中にいても、虫は季節の変化をちゃんと知っているんだと感心する。季節のことも曖昧で、啓蟄という言葉も知らなかった頃、九州の別府で、結核療養所に閉じ込められていたことがある。22歳から23歳の頃だった。あのころはまだ地上の明るさも見えない、地中の虫だったかもしれない。療養所での生活は、閉じ込められて...まだ虫だった頃

  • 水が濡れる

    春の水は、濡れているそうだ。水に濡れる、ということは普通のことだ。しかし、水が濡れているというのは、新しい驚きの感覚で、次のような俳句を、目にしたときのことだった。春の水とは濡れてゐるみづのことこれでも俳句なのかと驚いたので、つよく記憶に残っている。たしか作者は、俳人の長谷川櫂だったとおもう。水の生々しさをとらえている、と俳人の坪内稔典氏が解説していた。「みづ」と仮名書きして、水の濡れた存在感を強調した技も見事だ、と。散歩の途中、そんなことを思い出して改めて池の水を見た。日毎に数は減っているが、あいかわらず水鳥が水面をかき回している。池の水がやわらかくなっているように見えた。池面の小さな波立ちも、光を含んで艶っぽい。真冬の頃のように、冷たく張りつめた硬さはない。水が濡れる、という言葉がよみがえってきて、こ...水が濡れる

  • だったん(春の足音がする二月堂)

    ちょうど阪神大震災が起きた年だった。東大寺二月堂の舞台から、暮れてゆく奈良盆地の夕景を眺めているうちに、そのままその場所にとり残されてしまった。いつのまにか大松明の炎の行が始まったのだ。舞台上でまじかに、この壮烈で荘厳な儀式を体感することになったのだった。はるか大仏開眼の時から欠かさずに行われてきたという、冬から春へと季節がうごく3月初旬の、14日間おこなわれる修二会(お水取り)の行である。眼下の境内のあちこちに点灯された照明が、集中するように二月堂に向かっていて眩しい。その頃には、明かりの海と化した奈良盆地から、透明な水のように夜の冷気があがってくる。欄干から下をのぞいてみると、境内はいつのまにか人で埋め尽くされていた。7時ちょうどに大鐘が撞かれると、境内の照明がすべて消された。芝居の拍子木のように鐘が...だったん(春の足音がする二月堂)

  • 風邪と闘う

    風邪を引いたくらいでは、私は医者にはかからないことにしている。けれども、そうするには、それなりの覚悟と体力、忍耐力なども必要になってくる。容赦なく攻めてくる敵に対して、孤軍奮闘するようなものだから、勝つためには、まずは敵を知らなければならない。昼間は咳や鼻みずの責苦があることはもちろんだが、私が苦戦するのは夜の方だ。敵は私が眠った隙をついて襲ってくる。無防備な夢の中で、敵の猛攻を受けることを覚悟しなければならない。まず第一夜は水攻めである。私の脳みそが、桶のようなものに入れられて水漬けになっている。ただ、それだけのことだが、受け取り方によっては、湯船にでも浸かっているような、浮遊感覚をともなった快い眠りに思われるかもしれない。ところが、これが苦痛なのだ。快眠を得るためには、体が適度に弛緩した状態で、夢の内...風邪と闘う

  • 蜜の季節があった

    梅が咲いた。枯木のようだった枝のどこに、そんな愛らしい色を貯えていたのか。まだまだ寒さも厳しいが、待ちきれずにそっと春の色を吐き出したようにみえる。溢れでるものは、樹木でも人の心でも喜びにちがいない。懐かしい香りがする。香りは花の言葉かもしれない。春まだきの梅は控えめでおとなしい。顔をそばまで近づけないと、その声は聞き取れない。遠くから記憶を呼び寄せてくる囁きだ。ぼくは耳をすましてみるが、香りも記憶も目に見えないものは言葉にするのが難しい。たぶん言葉になる前のままで、漂っているのだろう。メジロが花の蜜を吸っている。小さな体が縦になったり横になったり、逆立ちしたりして、花から花へととりついている。花の間に見え隠れする緑色の羽が、点滅する至福の色にみえる。周りは山ばかり、木ばかり草ばかり、そんなところで育った...蜜の季節があった

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