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ブログタイトル
風の記憶
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/yo88yo
ブログ紹介文
風のように吹きすぎてゆく日常を、言葉に残せるものなら残したい…… ささやかな試みの詩集です。
更新頻度(1年)

60回 / 365日(平均1.2回/週)

ブログ村参加:2014/10/31

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風の記憶
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風のyo-yoさんの新着記事

1件〜30件

  • 見知らぬ街を歩いていると

    夢の中でしばしば屋根や塀の上を歩いていたりするがこれって猫にでもなってるんかなあ昔の人なら前世はきっと猫だったよと言いそうだが周りは見知らない街や人ばかりでとりあえず駅までの道順を尋ねたりするところはまるっきりの猫でもないらしく猫が迷子になったりもしないだろうからいやいや猫以下になってるのかもしれないがそれにしてもなんでこんな夢を見たりするんだろうか見知らぬ土地の初めての街を歩いたりするのって楽しいことのはずなのに迷子になって歩き回った感覚は疲労感ばかりが残ってしまい目覚めたあともまだ迷いの感覚が漂っていてその朦朧としたなかでキーボードを叩きながら言葉を探っていると夢と現実が混濁したり過去と現在が交錯したりしてその混沌としたものをそのまま言葉に変換しようとしたり浮かんだ言葉を繋げたりしながらそのときどきの記録を...見知らぬ街を歩いていると

  • 古い記憶の断片を拾ってみると

    6歳まで大阪で育ったので幼児期の記憶は大阪にあるがその時期の古い記憶というものは断片しかなくてそれでいて鮮やかに存在していて何故こま切れのその部分だけが蘇ってくるのかもはやそれはスナップ写真に似たものかもしれなくて何らかの深い意味が含まれているとも思えないのに1枚の写真のようなものが幾枚かあって1枚目の記憶の写真は2階に上がる階段の一番上で父とふたりで黙って座っているもうすぐ妹が生まれるらしかったそれだけの静かなシーンがぽつんとある祖父に押さえつけられ灸をすえられて泣き叫んでいる祖父の家に泊まると敷布の糊がばりばりに効いていてそれが嫌だった小さなボートに乗っていて父は魚釣りをしているらしくぼくはボートの縁で水中を覗いている船べりに小さな蟹が無数にへばりついているそれをじっと見つめているそれだけのことで前後は何も...古い記憶の断片を拾ってみると

  • あしたの朝顔 はないちもんめ

    朝顔の花には朝がある朝顔姫の挨拶はオハヨーだけもしもし姫よ花さんよ花はどこからやって来るのかよくもぱあっと突然に次から次と咲けるもの日ごとに小さくなってはいるがそれでも形は朝顔のまま空に向かって花びら全開そのアンテナは何を受信するのか混線模様で開けないのもあり閉じた傘のような蕾のままで大事な朝が終わってしまうのもあり誰かの一日もそんな朝顔で天気が気になって咲けなかったり茂みのなかで閉じこもったまま大きな葉っぱを押しのけられずこの朝はこれっきりの朝なのに咲けない朝顔が哀れになってすこし手助けしてやろうとしたが花には花の道理があるようでうまくいかずに気分一新といつものウォーキングへいざ発進さくら落葉の遊歩道黄色い帽子の通学路黒猫にゃんこの池畔の道の水面には亀の頭がポカリスエッとよくよく見ると周りでいくつもどれも揃っ...あしたの朝顔はないちもんめ

  • ふと星の数をかぞえてみたら

    夏の夜はベランダに出て夜空を見上げることもしばしばこの街では星はたったの三つしか見つからなくて満天の星なんてすでに死語で星明かりの下でなんていうほのかな情緒もなくなった都会は地上ばかりが明るすぎて天空の光は消えてしまって暗い夜空の奥の方でいまも星の時間が流れているとしたらそんな星の過去へと舞い戻って記憶の中の星を拾い集めてみたくなっていつだったかは言葉の遊びでガラス玉のように星を集めてポケットをいっぱいにしたこともあり夜道を自転車に乗って友人に会いにいった頃は星空なんてとんと関心もなくぼくらは夜の深みに溺れていたのかやはりホントのことは見えていなくて美しすぎて神秘すぎてなんて全部うそばっかりだと友情も壊してしまいそうになってそれきり星のことなど忘れてしまっていたが初めて本物の星空を見たのは23歳のぼくが初めて登...ふと星の数をかぞえてみたら

  • 熟田津に船乗りせむと月待てば

    うちつづく灼熱の太陽に焼かれたコンクリートの部屋を逃げ出し行く川の流れに身を任せて浮袋になって水に浮かんでいると氷河の白熊ほどではなくとも流し素麺くらいの生き心地は味わえ川には瀬もあり淀みもありダムがあり吊り橋もあったり笹舟を浮かべて世の泡沫(うたかた)と戯れボートに寝ころんでいと麗しき人をおもい虚しく空ばかり眺めているうちに雲は変幻自在に形相を変えて八方その手が伸びてくるのでこちらの手も水から引き剥がそうとしてみるがなかなか水の手が離してくれなくて手の平は水かきになったようでだが魚のようにスイスイとはいかずいっそ体を空っぽにしてみると浮袋の体は軽くなって良いのだけれどもしも魚であれば沈む力がなくなると浮かんだままで終わってしまいそのとき魚は魚でなくなってしまうから水面に浮いて喜んでいる身はいまは人でもなく魚で...熟田津に船乗りせむと月待てば

  • わたくし的歩き身体改造論

    わたくしは私であり僕でありあたしでありおれでありあたいでありおいらでもあるがひげの吾輩ほど偉くもなく猫ほどに賢くもないわたくしの身体の査定はほぼポンコツでガタビシ足はガクガク心臓はパクパクおまけにハートはビクビクヒヤヒヤこれまで暢気にとんとん拍子で坂を下ってきたのは老ノ坂だったのかこの青息吐息で四苦八苦のくたびれた身体を今更ながら心機一転の補修でなんとか南無三宝おんあぼきゃ曼斗羅虫の神さま草の神さま八百万の見えないちっちゃな神さまとも談合し弱った臓腑には陀羅尼助丸やら正露丸をぶっかまし冷水摩擦で皮膚をしばいて靴ひもしめてやっこらえっこら息継いで坂をのぼる朝夕公園の鉄棒は腕は伸びきりただぶら下がるだけ地面と足とのこのブランクが伸ばしてみても縮めてみても運動不足の怠惰が分銅に掛かり針は動かず塵芥も舞わず汗はぽたぽた...わたくし的歩き身体改造論

  • 眠りの道は暗中模索支離滅裂

    眠りに入るということは日常の意識がなくなるということで生きていながら一時的に死んでいるのではないかなどと考えたりすることがあるが寝床に入ってすぐに眠ってしまうことはまれでしばらくは体は静かに横たわっているが頭の中では無意識に何かの思考が巡っていたりしていて考えたり想ったりしていることがいつのまにか飛躍するというか沈降していくというかふとなんでそんなことを考えたりしていたのかそんな脇道のようなところへ彷徨いだしていたのかと我に返ったりしてそのときはすでに夢の淵を浮遊していたのだがあらためて枕の位置を変えたり体を横向きにしたりして本格的な睡眠の舟底に思考を沈め夢の波間へ漂い出すのに身を任せようとするとすでに自分は自分ではなく覚醒や睡眠の感覚も失われていきその瞬間をここちよく受け入れていることもあるしその境目もわから...眠りの道は暗中模索支離滅裂

  • 泥の中にも四季はあったかも

    ぼくはときどき泥んこになって泥と夢中で遊んでいたけれどあるいは無心で泥を見つめていたりしたけれど泥は土と水がいいあんばいに混じりあいやわやわでぬるぬるでつるっと滑りやすくその感触というか体感というかは触れていると気持ちが良かったり悪かったりするのでいっそ裸になって泥の上を滑走してみたが体じゅうが泥まみれになって自分の体が自分の体ではないような体の皮がひび割れて粘土みたいで乾くと人の埴輪になってしまいびっくりして目と口を開いているものだから見るものは空と雲とぼんやりと霧だったり口にするものは味のない綿毛のようなものばかりで吐いても吸っても体の中は空洞なので古い言葉で語りかけてくる風が吹き抜けていくとそれが埴輪になった人間の記憶なのだけれどなかなか埴輪の気持はイメージできず春は泥の中からどじょうが目とヒゲだけを出し...泥の中にも四季はあったかも

  • 日々をつくす夏はあったか

    この夏もあの夏も夏は暑すぎておろおろおろちけろけろカエルのお腹は白くてやわやわばらあだばらあ緑陰のふかい影ばかり探して薄暗いところに籠っているとこれまでずっと日向を避けるガマだったようなともすれば暗くて湿った蛇穴に落ちて反省ガエルで悔いたくなってしまうがどれも些細なことばかりとぐろを巻いて巻き戻すとトンボの羽を半分切って飛ばして遊んだことだったりあのときトンボは半分の空しか飛べなかったのかなと絵日記を半分残してしまった虚しさ悔しさオニヤンマの通り道で待ち伏せし竹のムチを振りかざしたら気絶して落下したヤンマは羽と目玉を開いたままで見上げるとむくむく入道雲が百面相になっていつかどこかで会った人の顔に似ていたりすみませんすみませんと謝ってしまうばらあだばらあそろばん教室の帰り道で下駄の鼻緒が切れて片足けんけんしていた...日々をつくす夏はあったか

  • いまは燃えよう

    美しいものは美しいすばらしいものはすばらしい真夏の夜の夢をみる輝くものには感動しよういまは燃えよういまは歓喜しようだが熱い祭りが終わったら燃やしつくせない朝がくる安心ではない安全でもない不安な朝に目を覚まそういまは燃えよう

  • 光の朝は光の虫をおって

    あさベランダの手すりにきれいな虫が止まっていた久しぶりのタマムシだあの法隆寺の玉虫厨子の玉虫だったもう絶滅したのではないかと思っていたそれが光っている輝いているカポックの葉っぱに止まらせて写真をとったじゅうぶん撮ったところで虫は翅をぱっと開いてすばやく飛び去ったこの朝からずっとさぼっていたウオーキングを再開した玉虫が集まるという榎のある公園をあるくその木は大きくて空まで広がっている光の朝は光の虫をおって

  • そのとき人は風景になる(10)

    ごんしゃん、ごんしゃん、何処へゆくいちどだけ、エムの家に泊めてもらったことがある。朝食の味噌汁にソーメンが入っていたのが珍しかった。奈良ではそのような食べ方をするのかと思ったが、それがにゅうめんというものだと、だいぶ後に知った。彼の家はまだ新しく、子供らも小さくて盛んにはしゃいでいた。その後、ぼくはエムとは幾度も会っているが、彼の家を訪ねたことはそれ以後ない。通夜のときに久しぶりに会った彼の子供らは、小さかった頃の面影もないほど成人していた。二人の息子の一人は長身で体格がよく個性的な顔立ちは母親に似ているようだった。それに対してもう一人の息子は、背も低くほっそりしていて病弱そうで、その容姿は郷里にいた頃のエムの姿を彷彿とさせた。そのせいか彼の所作が気になって仕方なかった。小柄でひ弱そうだった青少年期のエムの姿が...そのとき人は風景になる(10)

  • そのとき人は風景になる(9)

    石の舞台でうたう人は日毎に高原の記憶は遠くなっていく。3人で名前を刻んだ岩も、ふたたび確かめることは出来なかった。奈良飛鳥の石舞台古墳に初めて案内してくれたのも、友人のエムだった。その頃は田んぼの中に、とてつもなく大きな石がただ積まれてあるだけだった。なんであんなものが、あんなところにあるのだという驚きは、容易に解かれることのない、飛鳥という古い風土そのものの巨大な謎の塊りにみえた。石舞台古墳は、『日本書紀』の記述や考古学的考察から、蘇我馬子の墓だという説もあるが、真相は未解明のままらしい。この石の舞台で、狐が女に化けて舞いをしたとか、この地にやって来た旅芸人が、この大石を舞台代わりにしたとか、そんなエムの話の方がしっかりと記憶に定着していて、そこから今でも、ぼくの幻想は広がりつづけている。そのときエムは、あの...そのとき人は風景になる(9)

  • そのとき人は風景になる(8)

    サインはパンの匂いがするケイくんがピッチャーでぼくはキャッチャーサインはストレートとカーブだけあの小学校も中学校もいまはもうないケイくんはいつも甘いパンの匂いがした彼の家がパン屋だったからだがベーカリーケイもいまはもうない最後のサインはさよならだったさよならだけではさみしくてもういちどさよならをしてそれでもさみしくてまたねと言ったサインは変わらない左の掌をポンポンとたたいてみるいつもの朝がひとりぼっちでやってくる食卓にはパンと牛乳とマーガリンベーカリーケイのパンではないけれどパンには賞味期限がある(1)そこには風が吹いているそのとき人は風景になる(8)

  • そのとき人は風景になる(7)

    彼はエムでありエム君でもあったどうでもいいことを、だらだらと書き続けている。ただ書いている、と言われそうだ。が書いてしまう。エムとはずっと関わりがあった。さほど深くはなかったが、小学生の頃から大人になってからも、どこかで懐かしさのようなもので繋がっていた。中学時代、ぼくはエムのことを「エ厶」と呼び捨てにしていた。そのことを別の友人から、どうして「エム君」と呼ばないのかといって咎められたことがある。そのとき初めて、それまでのエムとの関係を意識したような気がする。エムとはそれだけ親しかったともいえる。小学生の頃からずっと彼は「エム」だったのだ。体が小さくて弱々しそうだった彼に対して、少年のぼくにとっては「エム君」ではなく「エム」と呼ぶのが自然だったのだ。兄弟のような親密さとともに、少年特有の威圧的な感情も含まれてい...そのとき人は風景になる(7)

  • そのとき人は風景になる(6)

    フランスへ行きたいと思うけどアテネ・フランセのフランス人のきれいな先生あなたをおもうと胸が苦しいですジュ・テームあなたが好きですだけどぼくのフランス語は通じません日本語も通じませんあなたのフランス語は歌のようその香りの風にのってフランスへ行きたいと思うけどフランスはあまりにも遠いセーヌ川はミラボー橋の下を流れているそうですねぼくの苦しみも川に似ています中央線御茶ノ水駅の下を流れているのは神田川です(1)そこには風が吹いているそのとき人は風景になる(6)

  • そのとき人は風景になる(5)

    そこにはいつも風景があったぼくの東京行きは3月15日に決まっていた。ちょうど前日が18歳の誕生日だった。これまでの生活の習慣から解き放たれて、中途半端な境界域の上に立たされているような気分だった。何かを始めようにも、始めた途端に終わらなければならないような、スタートの場所がゴールの場所でもあるような、いまはまだ何も始まらず、何も完結できない、そんな状態の中で新しい生活への心構えがなかなか出来ないのだった。日常生活の変化に戸惑っていた。考えてみれば、それまで親の手から解き放たれたことはなかった。巣箱の中で羽をばたつかせてみるが、なかなか飛び出せない臆病なひな鳥だったのだ。ぼくは毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。まわりの風景はいつも、春の霞みにぼうっと包まれていた。遠くの活火山のやわらかな噴煙が、薄い雲の中に...そのとき人は風景になる(5)

  • そのとき人は風景になる(4)

    海をわたって風のくにへ西へとみじかい眠りを繋ぎながらうず潮の海をわたる古い記憶をなぞるように島々はとつとつと煙りの山はゆったりと風の声を伝えてくる雲は思いのままに夏の空は膨らみつづけるいつかの風に誘われてぼくは眠り草に手を触れてみる憶えているのは土の匂いと水の匂いそして古い遊び風のくにでは生者よりも死者のほうが多い山の尾根でふかく花崗岩とともに眠っている竹やぶの暗い洞窟では白い百合になった切支丹が風の祈りを刻みつづける迎え火を焚いたら家の中が賑やかになった古い人々は古い言葉をつかった声が遠いと母がぼやく耳の中に豆粒が入っているといくども同じことばかり言うので子供らも耳の中に豆粒を入れた送り火を焚いて夏をおくる耳の豆粒を取り出すと母の読経が聞こえたひぐらしの声で一日が明けてひぐらしの声で一日が暮れる日がな風ばかり...そのとき人は風景になる(4)

  • そのとき人は風景になる(3)

    帰途はシェエラザードの海を漂ういつか確認する日のために、岩に3人の名前を刻印したあと、展望台の麓の草むらで弁当を食べた。母が作ってくれた弁当は、卵焼きがたっぷり入っていた。かつての貧しい弁当とは違っていた。最後の弁当だと思うと胸がいっぱいになった。食べ終わると、いつもの頭痛が始まったので、ぼくは展望台に登るのはやめて、ひとり残って草の中で寝ていることにした。ぼくの頭痛はしばしば起きた。映画を観たあとだったり寝不足だったりすると起きた。草むらを抜けてくる風の音に混じって、しばらくの間、ふたりの話し声が聞こえていたが、それも次第に遠くなって、あとは草がそよぐ音だけになった。きゅうに周りの風が静寂の音に変わった。少しだけ伸び始めた髪の毛をくすぐるように風が吹いていた。髪はほんの数日前に伸ばし始めたところだが、手で触れ...そのとき人は風景になる(3)

  • そのとき人は風景になる(2)

    高原の、ただそこにある岩その高原はそこにあった。ただ大きくて、ただ広くて、ただそこにあった。以前に初めてその広い風景を眼にしたときの驚きが、ふたたび蘇ってきた。視界の果てまで、ほとんど人の手が加わっていない、原初の姿そのものが放置されてあった。広さは広さのまま、草は草のまま、土は土のまま、風は風のまま、人も人のまま、になりきれそうだった。その風景そのものが大きな感動としてあった。詩や小説のようなものを書いてみたくなっていたぼくは、何としても、その時の風景と感動を文章にしたかった。なにかが熱く体の中で燃えていた。その炎が消えないうちに書き留めたかった。けれども、書けば書くほど何かをただ浪費しているように思えてしまうのだった。ぼくには書けなかった。ぼくが感動しているものが何なのか、その実体が掴めなかった。まるで炎の...そのとき人は風景になる(2)

  • そのとき人は風景になる

    (1)いつも風が吹いているいつも、そこでは風が吹いている。いつも、春先の柔らかい風の記憶が、一番鮮烈な形で蘇ってくるのはなぜだろう。ある時、突然、そして偶然に、山々の姿を、草原のうねりを、大きな放物線をいくつも描きながら、懐かしい風景を運んでくるのは、いつも風だ。そのとき風は、草いきれと微かな草の擦れ合う音も運んでくるのだが、ぼくには思わず口ずさみたくなる、記憶の奥にある旋律にも聞こえる時がある。ぼくは東京にいて新聞を配達したりしながら、代々木の予備校に通っていた。九州の友人からは、長い手紙が届くこともあった。名前の判らない小さな花が入っていた。リンドウに似た高地に咲く丈夫そうな花で、咲いた状態が想像できる形がそのまま残っていた。彼はひとりで久住高原に行ってきた、そのときに摘んできたものだと書いてあった。かつて...そのとき人は風景になる

  • 作文教室

    あさおきて、かおをあらって、ごはんをたべて、それからがっこうへいきました……そこでもう、ただ鉛筆を舐めるばかり。その先へは、ちっとも進めない。楽しかったことや、辛かったことも書いたらいい、と先生。やすみじかんに、こうていで、やきゅうをしました……それは楽しかったことだ。しかし文章にしてみると、すこしも楽しくない。一日のあったことを、ありのままに書いたらいい、と先生。ありのままに書くとは、どう書くことなんだろう。楽しかったことを、楽しかったこととして書くとは、どう書くことなんだろう。そもそも、なぜ文章など書かなければならないのだろうか。ぼくは書くことが苦手だ。というか、文章というものが書けない。ありのままを言葉にする。本当にあると思えるものを言葉にする。でも言葉は、ありのままや本当にあると思えるものを、そのままな...作文教室

  • ぼくのトンボ

    ちびた鉛筆のようなトンボが風をひっかきひっかきぼくの背たけを測ろうとするきょうのぼくはすこし大きくなったかな朝ごとにぼくのトンボは生まれてくる水草の夢のどろんこの中から春の野は花ざかり甘い香りに満ちているのでトンボはしばしば風を見失うぼくは腕を伸ばして背伸びしてみるだが羽が濡れているのでまだ飛べないぼくのトンボ

  • ノルウェイの森へ(2)

    ↓前回(1)からの続きここでいきなり最終章へとぶね。「僕」の下宿の庭で、レイコさんと直子のお葬式をするシーン。ぼくはこのシーンがとても好きだ。心にあいた暗い穴に、ローソクの灯が一本一本ともっていくような気がする。この小説におけるクライマックスではないだろうか。レイコさんが療養所を出られたのは、あなたと直子のおかげよと言う。そして、直子との最後の夜のことを語りはじめる。直子がレイコさんに最後に語ったのは、一度きりの「僕」とのセックスのことだった。その時のすばらしかったことを仔細に語ったという。それは直子にとっても、生きていることの実感と愛することの喜びを感じた、彼女の人生の頂点だったんだね。レイコさんが、そんなに良かったんならずっとワタナベ君とやってればよかったのに、というと、直子は「何かの加減で一生に一度だけ起...ノルウェイの森へ(2)

  • ノルウェイの森へ(1)

    『ノルウェイの森』やっと読み終わったよ。やっぱり深い森だったね。ぼくは二度目なので、もう迷うことはなかったけれど……。きみは、頻繁に出てくる性的表現にちょっと辟易したとのこと。ぼくも以前読んだときは、それに近い感想ももったけれど、こんど読み返してみて少し認識が変わった。村上春樹が扱っている性(セックス)は、ポルノ的な意味や倫理的な意味で受け取るのではなく、文学的・哲学的な意味で解したほうが良いかなと思った。もちろん小説なので娯楽的な一面はあるにしても、あそこまでしつこく性の表現に拘っているということは、作者が性(セックス)というものを通して表現したかった、特別な意図があったにちがいないと考えてみた。大江健三郎や村上龍など多くの現代作家にとっても、性(セックス)は人間を表現する上で、かなり重要なファクターになって...ノルウェイの森へ(1)

  • 桜とピアノ

    ぼくが通っていた小学校に、ピアノという楽器が入ったのは6年生の時だった。ピアノは広い講堂の隅っこに置いてあった。とても大きな楽器だった。それまではオルガンしかなかった。いろいろな形をしたオルガンが、いくつかの教室の隅に置いてあった。ときどき、いたずらをして弾いてみるのだが、足踏みペダルの板は重く、古いオルガンは鍵盤を押しても音が出ないこともあった。オルガンの音は、牛や蛙の鳴き声に似ていて楽しかった。ピアノの音はよく響いた。音楽のイメージが変わった。音楽の先生はふたりいた。どちらも女の先生だったが、若い方の先生は新参の先生で、ピアノがあまり得意ではないみたいで、放課後の講堂で、もうひとりの先生に指導してもらっていた。ピアノをよく弾ける方の先生は美人で快活だった。ぼくもその頃には、ひそかに好きな女子生徒がいたりして...桜とピアノ

  • 桜と三塁ベース

    ことしも桜が咲いた。と思うまもなく散ってしまった。桜の花を見ると、小学校を思い出すのはぼくだけだろうか。ぼくはいつも野球帽しか被らなかったが、友達が学帽の徽章を買いに行くというので、文房具屋までついていったことがある。新品の徽章には、中心に小学校の小という字が入っていて、五弁の桜の花びらがきらきらと光っていた。そういえば小学校の広い校庭の周りには、間隔を置いて桜の木が植わっていた。他の木もあったかもしれないが、とくに憶えているのは桜の木だけだ。そのうちの幾本かは、今でも脳裏に残っている。いつも三塁ベースの代わりになる桜の老木があった。出塁のあいだ、ベースを足で踏むのではなく、桜の木に手で触っているのだ。そのときの桜の木肌のざらざらとした感触が、いまだに手に残っている。セーフアウトといったかん高い声まで聞こえてき...桜と三塁ベース

  • ホーム

    その桜は日がな古びた木の椅子に腰かけていた風はゆるく吹いていた雲もゆったり流れていた小鳥も虫もいつもと変わらぬ春だけど出会っても別れても乾杯もなく送る言葉もなく記念撮影もなかった春だからすこしだけ化粧をしたひらひらと花びらとなって風となって雲となってその桜はやがて百年の山へと帰っていったホーム

  • どこへ行くのか

    目が覚めたら枕元にぼくのぬけがらが転がっていた昨夜のままで皺は皺くちゃのまま色褪せは色褪せたままなんたる奴だぼくはぬけがらをまとうぬけがらが腕を伸ばすぬけがらが膝を伸ばすぬけがらがよたよたと歩き始めるいつまでぬけがらのままでお前はどこへ行くのかぬけがらも知らないどこへ行くのか

  • 16歳の日記より(9)川

    春浅い川の水面は静かに澄みきっている。岩にくっついた川ニナは水垢を被ったままだし、ドンコの子は砂地にはりついて動かない。明るい陽ざしが川底の石の影までくっきりと見せている。やがて吹き荒れる春の嵐に水面は騒ぎ始め、川は目覚める。魚たちは温んできた流れに不吉な予感を覚え、岩陰を求めて激しく鱗を散らすだろう。雨が降り続くと、山や田圃から溢れてきた濁流で川は混乱する。魚たちは木の枝や葉っぱや草や虫や、外界のさまざまなものにもまれて厳しい洗礼を受ける。川は肥沃な流れとなり、どん欲な魚たちは丸々と太るだろう。やがて初夏の太陽のもとで魚たちは狂い、浅瀬は朱に染まる。鉤針に釣り上げられる魚の腹や鰭は、婚姻色で花びらのように美しく燃えている。魚は背びれを激しく水面で振るわせながら、いたるところ白い精液を放出し、白濁した川は祭りの...16歳の日記より(9)川

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