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風の記憶 https://blog.goo.ne.jp/yo88yo

風のように吹きすぎてゆく日常を、言葉に残せるものなら残したい…… ささやかな試みの詩集です。

風のyo-yo
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2014/10/31

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  • そのとき人は風景になる(7)

    彼はエムでありエム君でもあったどうでもいいことを、だらだらと書き続けている。ただ書いている、と言われそうだ。が書いてしまう。エムとはずっと関わりがあった。さほど深くはなかったが、小学生の頃から大人になってからも、どこかで懐かしさのようなもので繋がっていた。中学時代、ぼくはエムのことを「エ厶」と呼び捨てにしていた。そのことを別の友人から、どうして「エム君」と呼ばないのかといって咎められたことがある。そのとき初めて、それまでのエムとの関係を意識したような気がする。エムとはそれだけ親しかったともいえる。小学生の頃からずっと彼は「エム」だったのだ。体が小さくて弱々しそうだった彼に対して、少年のぼくにとっては「エム君」ではなく「エム」と呼ぶのが自然だったのだ。兄弟のような親密さとともに、少年特有の威圧的な感情も含まれてい...そのとき人は風景になる(7)

  • そのとき人は風景になる(6)

    フランスへ行きたいと思うけどアテネ・フランセのフランス人のきれいな先生あなたをおもうと胸が苦しいですジュ・テームあなたが好きですだけどぼくのフランス語は通じません日本語も通じませんあなたのフランス語は歌のようその香りの風にのってフランスへ行きたいと思うけどフランスはあまりにも遠いセーヌ川はミラボー橋の下を流れているそうですねぼくの苦しみも川に似ています中央線御茶ノ水駅の下を流れているのは神田川です(1)そこには風が吹いているそのとき人は風景になる(6)

  • そのとき人は風景になる(5)

    そこにはいつも風景があったぼくの東京行きは3月15日に決まっていた。ちょうど前日が18歳の誕生日だった。これまでの生活の習慣から解き放たれて、中途半端な境界域の上に立たされているような気分だった。何かを始めようにも、始めた途端に終わらなければならないような、スタートの場所がゴールの場所でもあるような、いまはまだ何も始まらず、何も完結できない、そんな状態の中で新しい生活への心構えがなかなか出来ないのだった。日常生活の変化に戸惑っていた。考えてみれば、それまで親の手から解き放たれたことはなかった。巣箱の中で羽をばたつかせてみるが、なかなか飛び出せない臆病なひな鳥だったのだ。ぼくは毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。まわりの風景はいつも、春の霞みにぼうっと包まれていた。遠くの活火山のやわらかな噴煙が、薄い雲の中に...そのとき人は風景になる(5)

  • そのとき人は風景になる(4)

    海をわたって風のくにへ西へとみじかい眠りを繋ぎながらうず潮の海をわたる古い記憶をなぞるように島々はとつとつと煙りの山はゆったりと風の声を伝えてくる雲は思いのままに夏の空は膨らみつづけるいつかの風に誘われてぼくは眠り草に手を触れてみる憶えているのは土の匂いと水の匂いそして古い遊び風のくにでは生者よりも死者のほうが多い山の尾根でふかく花崗岩とともに眠っている竹やぶの暗い洞窟では白い百合になった切支丹が風の祈りを刻みつづける迎え火を焚いたら家の中が賑やかになった古い人々は古い言葉をつかった声が遠いと母がぼやく耳の中に豆粒が入っているといくども同じことばかり言うので子供らも耳の中に豆粒を入れた送り火を焚いて夏をおくる耳の豆粒を取り出すと母の読経が聞こえたひぐらしの声で一日が明けてひぐらしの声で一日が暮れる日がな風ばかり...そのとき人は風景になる(4)

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