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生駒の神話
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生駒の神話/縄文と弥生/日本書紀・古事記/記紀神話/
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生駒の神話さんの新着記事

1件〜30件

  • BU

    (1)この道は、神話の山である生駒山の東麓にある生駒駅と同じく西麓にある旧孔舎衛坂くさえざか駅を、生駒山北嶺(生駒山上から北へ続く尾根と峰)を越えて、直行で結ぶ道です。生駒駅を発して旧孔舎衛坂駅に向かう場合は「生駒駅から旧孔舎衛坂駅へ 直行の道」、その逆の場合は「旧孔舎衛坂駅から生駒駅へ 直行の道」となります。 (2)直行で結ぶということは最短で結ぶということで、この道は「生駒山越え一本道」とも呼べます。この道の東部(生駒駅から生駒山北嶺まで)はほぼ一直線、西部(旧孔舎衛坂駅から生駒山北嶺まで)は直線ではない部分がいくらかあります。(3)全行程において、公認ハイキングコースの各一部も含み (西部での、東大阪市のあけびの路・まつかさの路・すぎこだちの路・くさかハイキング道、東部ではない)、また、それ以外の歩き良い道もありますが、気軽には歩けない道(一方が崖の狭隘な箇所、人の歩くのが少なくなると笹が生えそうな箇所、急峻で歩くというよりも這い上がるずり降りるといった方がよい箇所、などがあり)が多いです。ですが、要所要所にはテープマーイング(テープによる道標)があり、また、2020年12月の現在ではよく踏み固められており、迷うことはないでしょう。幅の広い道と幅の狭い道へとの境(入り口・登り口・降り口)が分かりづらい箇所もありますが、そこには必ずテープマーキングがあるので、最初は、冒険の一種であるルートファンディング(どういけばよいかを探る・見つける)を楽しむ感覚で探り見つけてください。必ず見つけられます。(4)この道は、かつての「近鉄高圧鉄塔 生駒山越線(生駒山越送電線)」に沿った道です。この線は役割を終え廃線となっていますが、下記の、この道の「概念図」の地図(国土地理院地図)にはまだ記載が残っています。「概念図」の地図に東西に走っている線がそれで、その線に沿って東西に延びているのがこの道です。かつてこの線に沿って巡視路があり、この道は、「今も保全されている、または残存している巡視路」「消滅、または消滅しかかっていた巡視路を復活整備した道」「巡視路はこの辺りを通っていたと見なして整備された道」からなります。また、この線にそって通称「近鉄マーク石標」<写真.jpg(このページより)>が設置されましたが、この道の通り道や側部に今も見ることができます。東部では51カ所でみることができ、2個いち(数メートル離れてペアで設置)と思

  • TOP PAGE 

                  お断り:2019年3月19日にココログが全面リニューアルされました。それにより、スマホでは見やすくなったかもしれませんが、パソコン画面では字が小さくなるなど見にくくなってしまいました。リニューアルに対応するよう努めていますが、それが不十分な点がありましたらご容赦ください。 ご訪問、ありがとうございます。このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。右のカテゴリー(これが表示されない時⇒ここをクリック)よりお入り下さい。通読される場合は下へお進みください(下へ進めない時⇒ここをクリック)。書き足しを重ねています。その際、新しい記載と古い記載との齟齬は修正するように努めていますが、記事の量の増加により、それが出来ていない場合もあるかと思いますがご寛容ください。<このHPまとめの記事> ~このHPは書き足すうちに大量の情報が載るものとなってしまいました。すべての情報をお読みいただくことは時間がかかります。お時間のない方にもお読みいただきたいものとしてこのまとめの記事を記載いたしました。~(1)「生駒の神話」とは、生駒を舞台にした神話です。生駒を舞台にした神話には、いわゆる「神武東征」と呼ばれているものがありますが、日本書紀に書かれたその神話の内容の概略は、次の通りです。 九州にいたイワレヒコは、ニギハヤヒが治めている内うちつ国(生駒山の向こうにある日本の中心/現在の生駒から奈良盆地)を奪うために、瀬戸内海を東に向かい難波の海の東海岸に上陸して生駒山を越えようとした。しかし、ニギハヤヒの盟友であるナガスネヒコによって撃退された。東に向かって進軍したのは太陽に逆らうことになったので敗退したと考え、迂回して太陽を背にして侵攻せんとした。迂回の先々で、先住民を殺しながら、内うちつ国に到着し、再度ナガスネヒコと会い見えたが、今度も苦戦した。そのとき、金色の鵄が突然に飛来して閃光を放ってナガスネヒコをして戦わさせなくし、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して国を譲ったので、イワレヒコは内つ国を手に入れ、神武天皇として即位できた。 この神話は、一見するだけだと、次のように疑問の多いものとなっています。  ①古代の日本人は、他者が暮らしている国をかってに奪うことを肯定していたのか。  ②古代の日本人は、 先住民の生存権を認めていなかったのか。  ③古代の日本人は、 盟友を裏切る行為を肯定していたのか

  • 生駒の神話のストーリー  

    【1】これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)。【2】【1】の枠組みに沿って打ち出した生駒の神話のストーリーの骨子 ①生駒の神話のストーリーの骨子の改訂版(最新版)  ②①の【解説付版】  ③改訂前のものを生駒検定<全国版>の第1問の問題文としています⇒そのWEB版/その文書版.pdf    【3】【1】の枠組みに沿ってとりまとめた青写真⇒「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf (一分改訂予定)【4】生駒の神話のストーリーの背景⇒邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 【5】各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に『新編 生駒の神話』を創作中。 【6】ストーリー各種(1)石切劔箭神社の由緒 (2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg / ②.jpg / ③.pdf (3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大> **************...

  • 『新編 生駒の神話』<創作途中> 

    ~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に、文献リテラシー(※)を用いて、これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)に沿って、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>を青写真にし、これを骨子にしてとりまとめ創作したものです。~     (※)リテラシー・・・適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力。 (1)饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。 ①天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕

  • 解 説 

    『新編 生駒の神話』についての解説 【1】この昔の物語の名前 (*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。  【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照【3】主人公・舞台(1)主人公 長髄彦  饒速日(2)舞台 奈良(大和)湖・河内(古大阪)湾  豊秋津洲とよあきつしま      長髄彦と饒速日の本拠地・・・生駒神話ゆかりの古蹟が集中している生駒四河川の源流・分水嶺地帯(生駒の地図・写真ご参照)とそ周辺      神武東征の目的地・・・当初は長髄彦と饒速日の本拠地であったが、のち、移行した(神武東征ご参照)。  【4】物語の構成 (1)【3】を主人公・舞台とし、できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 (2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。    ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。  (3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努め

  • 参考文献等  

    【1】生駒市誌  富雄町史  大和志料 【2】古事記 (古事記<リンク>/原文<リンク>/現代語訳<青空文庫>) 日本書紀 (日本書紀<リンク>/原文<リンク>)  先代旧事本紀  古語拾遺  万葉集(原文・訓読・仮名)<リンク>(ミラー)  記紀について/先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf  古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の存在と正統性を主張するもの」【3】新撰姓氏録<新撰姓氏録概要.pdf>  各地の風土記.pdf【4】各地の神社伝承・民間伝承 【5】海外の文献【6】学者・研究者の説(1)小林達雄「縄文人の世界」/「縄文の思考」   谷川健一「白鳥伝説」 / 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」/「列島縦断地名逍遥」/「古代史と民俗学」.pdf  古田武彦「真実の東北王朝」/「古代通史」/「邪馬一国への道標」.pdf /「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf/古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。>   喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」   梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」/「神々の流竄」   森浩一「日本神話の考古学」   鳥越憲三郎「神々と天皇の間」   井上光貞「日本国家の起源」/「神話から歴史へ(日本の歴史1)」   直木孝次郎 「日本神話と古代国家」   上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」   上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf  金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」   関裕二 諸著作   折口信夫の著作   原田常治「古代日本正史」   前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 」   樋口清之「逆・日本史 3」.pdf/「逆・日本史 4」.pdf /「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)    竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf/「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf   武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf   長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdf (リンク)  富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf  松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.

  • 正邪逆転の妄想

    (1)神武東征神話は、殺戮者を英雄とし、クニを奪われようとした人々、ずっと平和に暮らしていた先住の人々、盟友に裏切られる者、自分や愛すべきもの(自分が暮らすクニの人々)の尊厳を守ろうとする者、を賊とする正邪逆転の神話です。この神話は現在に至るまで日本に生き続けて、知らず知らずのうちに一部の人々に正邪逆転を疑問に思わないよう感性に悪影響を与え、「正邪逆転の妄想」を植え付けてきました。(邪と悪の違い・・・悪は正に立ち返ることはないが、邪はイワレヒコや邪鬼のように、改心によって正に立ち返ることができる。) 妄とは善悪の分別が欠けること、妄想とは誤った確信のことで、「正邪逆転の妄想」 とは、正を邪とし邪を正とする、誤った確信のことで、抑圧する者・侵略する者・支配する者・力の強い者を正とし、それらに抵抗する者を賊(反逆者)として邪とする妄想で、侵略戦争を正当化し、人々を侵略戦争に駆り立てる役割を果たしました。(2)今日の日本では、「正邪逆転の妄想」 は、権威主義(「権威=力」ある者を正としてそれに従うべきとし、それに抵抗する者は「賊=反逆者」とする思想・行動)として多くの国民が受動し、権威主義<ご参照.jpg>が「空気」になってしまっています。それを見える化した分かりやすい事例として、次のことが挙げられます。 ①大阪府の維新知事に私学助成のお願いをしに来た高校生に対し、維新知事は「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」と冷たく言い放ち、勇気を出して請願しに来た高校生を泣かせた<詳細⇒ご参照(ミラー)> 。このことについて、「知事はわがまま高校生をよくぞ叱ってくれた」と、純粋な高校生を冷酷に扱った維新政治家を批判するどころか、逆に称賛する府民が少なからずいた。正邪逆転の妄想は、暴力・不寛容・無関心の衣ともなっている。  なお、この維新知事が大阪市長だったときに導入した公募民間校長制度で採用された民間校長は、きっちり「正邪逆転の妄想」を児童に浸透させようという犯罪(違憲行為)を犯しています(この記事.jpgご参照)。 ②<自分をホームレスにし生活保護を受けざるを得ない社会状況を作り出した勢力に抵抗するどころか、逆にその勢力を正として支持応援する、という正邪逆転> 参院選の投票日前日の20日夜。東京・秋葉原の駅前は、日の丸で揺れていた。30メートル先でマイクを握る安倍晋

  • 「生駒の神話」(という物語)はなぜつくられたのか。 

    (1)縄文から弥生への移行の時代は、次の2つの点で日本列島に暮らす人々にとって根本的な転換期だった。 ①これまでの「狩猟採集漁労」経済(神から授けられたものを取得するが、食べる分しか取得しないし、また、取得したものはすぐに食べないといけない、つまり備蓄・保存しない・できないこともあって平等に分配)から「農耕=水田耕作」経済(生産手段を用いて作ったものを収穫し、全員が生きていくのに必要な量以上に生産できる余剰生産物が生じる余地が生まれ、また、農耕作物は備蓄・保存が可能であることから不平等分配がもたらされる)へ。 ②これまでの狩猟採集漁労経済では生産手段と不平等分配がなかったが、農耕=水田耕作経済では生産手段(生産に必要な土地や農具など)と不平等分配された備蓄物の所有化に伴い私有財産制が生まれた。それは、貧富の差=格差を生じさせ、「私有財産を多く持つ者」と「それを持たない者や多くは持てない者」という階級が生まれ、前者が後者を従属化する(支配・抑圧する)必要性を生じさせ国家(支配・抑圧機構のこと/従わせる力<強権国家の場合は武力>を属性に持つ/従わせる力や支配・抑圧をおこなう力やそれらの力を行使する主体が権力)が作られていった。 (2)人々は、(1)のようなこれまで体験したことのない事態を共通理解し、これからどうすべきかを共有する必要に迫られた。そこで、「人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」として成立したのが「生駒の神話」という物語であった。 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。」と言っている。 また、作家の村上春樹さんは、「村上春樹さん、村上文学を語る」というインタビュー記事のなかで「神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」と述べています。 ご参考・・・記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか? **************   ...

  • すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす   

    (1)生駒の古道は、すべて、伊勢街道(伊勢神宮をめざす)または熊野街道(熊野大社をめざす)または宝山寺参詣道(宝山寺をめざす)です。(2)<次の文>を読むと、江戸時代、一度に何百万人もの人々が、日常の封建的な束縛から解放されて自分を取り戻すための非日常(解放区)を得るために伊勢街道を伊勢神宮に向かったことがわかります。このように、人々は、非日常を得るために、伊勢街道と同様に、熊野街道を熊野大社に向かい、宝山寺参詣道を宝山寺に向かったのでしょう。そのために、現在では古道となっている街道・参詣道はつくられたのです。今でも、ところどころに古道標・石仏・茶屋跡などが残っている古道を歩くと解放的な気分に浸れるのはそのためなのでしょう。なお、民俗学では「黄泉(よみ)の国から帰ったイザナギが目を洗うと神々が生まれるとされたように、けがれが祓(はら)われると逆転して神になるという民間伝承は多い。寺院や神社も、けがれの吸引・浄化装置として働いてきました。」<この文書(ミラー)より/太字は引用者による>としています。日本では人々は古来、ケ(=日常を生きる力)のカレ(=枯れてしまうこと)の時には、「ケのカレ=ケガレ(穢れ)」(古代日本では、彦や比古をビコともヒコともいうように、濁点があってもなくても同じでした)を祓はらう(生きる力を復元する)ための非日常(解放区)の場・時間(=ハレ)を寺社に求めたのです。(下に<注>)  <次の文> 「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」。こう歌い踊りながら歩いたという。江戸時代の伊勢参りの集団、「おかげ参り」の一行である。親や主人に無断で抜け出した子どもや奉公人の「抜け参り」も多かった▲何度か発生した大規模なおかげ参りは一度に何百万という人数に達したという。着の身着のままで抜け出した人々はまず施(せ)行(ぎょう)を受ける印となるひしゃくを与えられ、食物や路銀(ろぎん)、寝場所などを道筋の家々から施されて伊勢へ向かった▲ちなみに勝海舟(かつかいしゅう)の父親・小吉(こきち)は少年時代に家出したおり、ひしゃくを持って家々を回り、1日で米麦5升と120文の銭を施されたと記している。庶民の旅へのあこがれと、その夢をかなえた江戸時代の旅文化には本当に驚かされる<この文.pdfより/太字は引用者による >  <注>本来は民俗学の用語であった「ハレ」や「ケ」は、近年は、まちづくり用語や政治用語としても使用されてい

  • 生駒神話の小辞典  

         【神々の総称いろいろ】【日本の神の一覧(リンク)】【ア】〇 葦原中国(あしはらのなかつくに)〇 阿弖流為(アテルイ)⇒Wikipedia / 高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 /不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~〇 天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。〇 天津神・天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ 「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照〇「生駒」の語源・由来〇 生駒山地(生駒連峰)〇 生駒山⇒生駒山のこと /古代日本における生駒山の不思議と謎/新日本風土記 生駒山/万葉神事語辞典より〇 生駒山越の峠道〇 伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf〇 出雲勢力(出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照 〇 出雲系の神々 ⇒神々の総称いろいろへ〇 磐座(いわくら)祭祀の対象となった巨石〇 磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。 〇 内つ国(うちつくに)都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国  中洲(なかつくに・なかす・ながす)国ともいう。 〇 愛瀰詩えみし.pdf〇 縁起の法・・・前5世紀前後に唱えられたこの法に生駒の神話が影響を受けているとの指摘がある。〇 大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲・八島・八嶋。  【カ】〇(民俗学の)神・・・谷川健一さんの民俗学の定義は「神と人間と自

  • 記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか?

     人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。事実や統計に基づいて、ではありません」といっています<この記事(ミラー)の中で>。現在においてもそうですから、事実を記録した文書や統計等がない時代においては、なおさらそうであったでしょう。縄文から弥生への移行という激動の世界を理解するためにつくられていた「物語=神話」は、記紀の作者によって神武東征神話へと改竄されたのです。その理由は以下の通りです。(答1)記紀には、二つのフィルターがかかっている .pdfご参照(答2)「ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』によると、人間が『カリスマ』を生んでしまうのは現在の人類と同じホモ・サピエンスが身につけた認知的能力に由来するらしい。我らホモ・サピエンスは神話や守護神といった虚構を生み出し、共通の虚構を信じることで何百人、何千人という規模の協力を可能にした。」<毎日新聞(19.9.22)/今週の本棚 より>とのことであり、神武天皇をカリスマとし、金鵄はその守護神、ナガスネヒコは賊という虚構を生み出し、それらを共通の虚構として信じこませることで人民を統治するためであった。この虚構は、金鵄勲章なるものが端的に示しているように戦前の戦争期に大いに利用され、今日に至ってもその役割を維持しています。  (答3)のちの大和王権に連なる後期渡来人は、縄文人や前期渡来人が住む領域に侵入して国家づくりを進めた。それを正当化するためには、侵入される側の縄文人(ナガスネヒコが体現)は賊、前期渡来人(ニギハヤヒが体現)はその仲間、 侵入する側の後期渡来人(イワレヒコが体現)は解放者という虚構(改ざんされた神話) を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(抑圧・侵略する者を正当・正統とし、それに抵抗する者を邪悪・賊とした)。(答4)大和王権やそれに連なる勢力は、母系制・双系氏族による生産経済(農耕・牧畜)を否定し、父系制・父権制氏族、更には部族による生産経済への移行を進め、ついには、氏族単位で田畑が占有・使用される土地制度を解体し、小さな地縁集団(戸)に土地を分配する班田収受を断行しながら、中央集権国家を形成していったことを正当化するために、スサノオ(日本に渡来して農耕・牧畜を紹

  • なぜイワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか?   

    <随時、補筆いたします。>〇縄文から弥生への移行は、縄文経済(狩猟採集漁労中心経済)から弥生経済(農耕中心経済)への移行であった。①前者は国家を不要としたが、後者は国家を成立させた。②弥生経済国家の長にとって最重要は「(豊作を祈念する)祭祀」であった。〇イワレヒコは弥生人であり、国家の長となり得、「祭祀」を執り行うことができたが、ナガスネヒコは縄文人であり、国家の長とはなり得ず、「祭祀」を執り行うことは」できなかった。これが、イワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか、の理由である。〇なお、天照大神も卑弥呼・壱与も女性であったことで分かるように、「祭祀」は「女性性」が行うもので、折口信夫は「大嘗祭の天皇は神の前で女だ」としている。父権制のなかで天皇は男性が務める場合が多いが、「祭祀」のときは、男性天皇であっても「女性性」になるのである。**************...

  • 生駒の古道等の概念図のまとめ(一覧)  

    (地図を印刷される場合、一旦保存してから印刷する方が周囲の余白が小さく印刷できるかも知れません。) 【1】生駒山系(生駒山脈)(1)概念図<善根寺越・日下越・古堤街道南道(一部)・八丁門越(一部)・宮山周辺.jpg>  添付写真.jpg    別紙(くさか園地)  別図A.jpg(四道集中分岐付近の概念図)  別図B.jpg(宮山(石切神社元宮)周辺の概念図)   別図C.jpg (生駒駅発着の生駒山登山道)< 添付写真(その1).jpg / 添付写真(その2).jpg / 添付図「生駒駅~鷲尾山山道入口図」.jpg  / 添付図「鷲尾山頂上付近図」.jpg / 添付図「生駒縦走歩道~鷲尾山間の近道」/c(直線ルート)の「概念図」jpg  / 添付図 a・b(直線ルート)の「概念図」.jpg >(2)概念図<辻子谷越宝山寺参詣道主要部(石切~宝山寺)>  添付写真(3)概念図<庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号)/暗峠・宝山寺道(暗峠~宝山寺).jpg >  添付写真(4)概念図<生駒山上~暗峠~「鳥見霊畤趾磐座」の碑~南生駒駅/庄兵ヱ道南部(国道308号~千光寺)>  添付写真(5)生駒山越直行の道(6)「朝日地藏・中倉さん~鷲尾山」をめぐる道の「概念図」(*)参考・・・おしゃれな生駒山越の道.pdf【2】矢田丘陵(後生駒山脈)  ①北部北半分・・・概念図<北部北半分(生駒白谷~市総合公園)>  添付写真  ②北部南半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップが案内役になリます。ただし、椚峠(県道との出合い)での出入り口がわかりにくいので「椚峠 案内」.pdfをご活用。     ③南部北半分・・・、矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップと歩く・ならのページに掲載のルートマップの両方に記載があり、この両方が案内役になります。ただし、矢田峠付近は道が入り組んでいて迷いやすいので、矢田峠に設置の道標に記載の案内図.pdf(19.12現在、道標は倒れて横たわっている)をご活用。    ④南部南半分・・・歩く・ならのページに掲載のルートマップ(3分割されていますが、くっつけて1枚ものにすればぐっとわかりやすくなります)が案内役になります。ただし、松尾山・白石畑とその一帯は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいのので、松尾山・白石畑の概念図 北.jpg・同 南.jpg(この南

  • 資 料     

    (*)縄文と弥生  ミニ知識  アイヌ語辞典   地名由来辞典  ポリネシア語で解く日本の地名・・・  物語の作り方/物語のでき方(33)神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)<抜粋>  神武天皇聖蹟顕彰碑・伝承碑まとめ<リンク> (32)三角縁神獣鏡国産説.jpg(31)『世界神話学入門』(30)「邪馬台国=富雄川流域」説(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。 (28)異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった(27)「皇后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)のJ-SHIS Mapで生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか (23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdf /ご参照2(22)現代人にもプログラムされている神話的思 (21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦(20)古代地名検索システム(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg  考古学から神武を探る.pdf (15)トビ・トミ=ナガ=蛇神(14)保津川の曳

  • 「生駒の神話」のストーリー(その骨子)【解説付版】<初版 2020.4/随時改訂>   

     【解説付版】でない方(図版はクリックで拡大できます。)<生駒の神話が生まれた時代とその舞台> ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。  ② その舞台⇒右地図ご参照    ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。   ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。   ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。<「生駒の神話」の元になった神話の骨子> あとから海の向こうからやってきた者たちは、以前に海の向こうからやってきて元から住んでいた者たちと共に暮らしていた者たちとは違って狂暴であった。元から住んでいた者たちは侵入せんとした狂暴なる者たちをいったんは「殺戮」することなく撃退した。しかし、狂暴なるものは、再度、侵入せんとした。元から住んでいた者たちは動揺し対応をめぐり分裂した。彼らにとって弓矢は命を得るものであって命を奪うものではなく武器はなかったし、そもそも「殺戮」ということを知らない人々であったが、狂暴なるものを前にして「殺戮」というものを知り、それにより狂暴なる者たちを撃退しようと主張する男たちが現れた。もちろんそれに反対しあくまで「殺戮」 することなく撃退しようと主張する者も多くいたが、結局、男たちは、命をいただくものとして神<下に(注)>から授かった弓矢を命を奪うものに変質させて自ら軍隊となり、狂暴なる者たちを「殺戮」によって殲滅せんとし、矢を一斉に放とうとした。が、その瞬間、すさまじい閃光と暴風が、殲滅せ

  • 「生駒の神話」のストーリー(その骨子)<2020.4>

    【解説付版】(図版はクリックで拡大できます。) この文は2020.4に作成したもので、その後、「生駒の神話」のストーリー(その骨子)は添削しております。添削後のそれについては、【解説付版】 をお読みください。(1)海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現大阪平野/生駒の神話が生まれた縄文時代から弥生時代への移行期はまだ大部分は海)にいたり、そこより生駒山を越えようとした。(2)このとき、内つ国ではナガスネ彦が、イワレ彦より先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒと共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネ彦たちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネ彦たちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)。 ただ、イワレ彦の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷したが、他者の幸せを祈ることで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着心を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。(3)内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退されたと思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。(4)侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネ彦たちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。(5)侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネ彦たちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、進攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。(6)ナガスネ彦軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのと

  • 生駒三山系の城砦 

    <生駒三山系とは、生駒四河川源流・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)に収れんしている生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵のことである。>各城砦の位置については、生駒の地理を把握してから、右の「城砦位置地図」をご参照ください。  (1)生駒山地の城砦<北から順に>(mは標高/比高) 西麓の平城たる交野(私部)城(現交野市私部6丁目)<リンク>、 山中山城の天王畑城(現京田辺市天王高ヶ峯)<リンク>・高山城(現生駒市高山町)(217/40)<Wikipedia>・打田城(現京田辺市打田宮前)<リンク>、西麓の丘城たる岡山城(現四條畷市岡山2丁目)(40/30)<リンク>、山中の小松(山)城(現ゴルフクラブ四條畷内)<リンク・リンク>、東麓の田原谷入口東側の八丁岩にあった田原砦(現生駒市北田原町) 、 山中の清滝城(場所不特定)<リンク・リンク>、西麓の山城たる茶臼山砦(現四條畷市南野6丁目)(83/30)<リンク>、東麓の田原谷の山城たる北田原城(現生駒市北田原町)(196/45)<リンク>、 生駒山地北西枝にある飯盛山上の山城たる飯盛山城(現四條畷市市野)(314/260)、西麓の山城たる野崎城(現大東市野崎2丁目)(114/65)<Wikipedia・リンク> 、 東麓の田原谷の丘城たる田原城(現四條畷市上田原八の坪)(180/30)<Wikipedia・リンク> 、山中の竜間砦(不詳)、東麓の生駒谷の、丘城たる田原(俵)口城(現生駒市俵口町)<長福寺の裏山に所在/リンク>・丘城たる菜畑城(現生駒市西菜畑町)(155/15)<リンク>・東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/矢田丘陵西麓の生駒谷にあったかもしれない) ・萩原城(不詳)、東麓の平群谷の、丘城たる下垣内城(現平群町字古城 平群中央公園内)<リンク>(78/20)・丘城たる大和西宮城(現平群町西宮 平群中央公園内)(92/30)<リンク> 、東側中腹の久安寺の山城たる赤坂城(現平群町久安寺)<リンク>、 山中の、山城たる高安城(現平群町久安寺) (487/-)・山城たる信貴山城(現平群町信貴畑)(433/340)、高安山と信貴山の中間部の山城たるクズレ川南城(現平群町久安寺) <リンク>、朝護孫子寺境内の丘城たる南畑城現平群町信貴畑) <リンク>、西麓の恩智神社近くの山城たる恩智城(現八尾市恩智中町5丁目)(44/20)<リンク>、南端部分の山城たる立野城(現三郷町

  • 長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵   

    (1)トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について / 矢田丘陵のこと (2)<生駒市誌より>矢田山脈(引用者:矢田丘陵ともいう)の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 /長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し(引用者:白谷バス停近くに 「鳥見白庭山」の碑が建てられている)之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟(引用者:「金鵄発祥之處」の碑が建てられている)と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。   引用者:古跡(哮峰・「鳥見白庭山」の碑・「金鵄発祥之處」の碑 )の位置については、古跡地図をご参照。(3)「(矢田丘陵の)神武峯(峰)<引用者注>は、神武天皇が長髄彦との戦いで進入した道筋と伝えられています」(生駒の古道)とのことも、矢田丘陵と長髄彦との関係の深さを今に伝えている。    <引用者注>神武峰については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照**************...

  • 生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形がわかる写真   

    (いずれの図もクリックで拡大できます)(1)生駒の地理   〇生駒山が列島中心部にあることを示す地図(生駒検定<全国版><問5>不思議な旅する蝶の解説より)→(2)生駒の古道(3)生駒の神話ゆかりの古蹟(4)生駒三山系の城砦(5)地名の位置がわかる地図 〇桧窪山・白谷・住吉神社・・・生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照    長弓寺・真弓塚・素盞嗚神社・・・長弓寺・真弓塚ご参照   天照山てんしょうやま・旗立山はたたてやま・・・「生駒山の飛火が岡」の「高見の烽」 または生駒検定<問2>ご参照   (富雄川源流の)龍王山りゅうおうざん・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照   トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照   〇三国境・・・大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照(6)地形がわかる写真・図 〇司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望・・・生駒山のことご参照 〇生駒山上から見た大阪平野の夜景・・・生駒山のことご参照 〇トンボの目線の高さから見た大阪の街並み ・・・生駒山のことご参照  〇作家の森見登美彦さんの故郷にある真弓塚のすぐ下から見た生駒山の遠景・・・劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真ご参照 〇貝原益軒が「桃源郷」と讃えた(生駒検定<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照)景観の面影が今も残っており優れた景観形成のモデル<となっている北田原地区の写真・・・生駒検定<問18>の解答・解説ご参照 〇般若窟<ミラー>(*)参考資料 〇瀬戸内海-大阪湾ー生駒山    ・・・・・瀬戸内海・・・・・内海が育む精神性・・・・・似たような形の地中海は、大陸と大陸の間(メディ)にある海。瞑想(めいそう)(メディテーション)という言葉にどこか通じる・・・・・日本にもし瀬戸内海がなくて、この海に沈んだ平家の悲劇がなかったら、いまと同じ日本文化の成熟があっただろうか・・・・・<この記事(ミラー)より> 〇日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ / 奈良盆地歴史地理データベース  〇生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)/ 富雄街道の歴史.pdf  〇遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf / 神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf / 記紀神話の舞

  • 饒速日(ニギハヤヒ)

    〇wikipedia〇生駒市誌は、生駒の神話の主人公のナガスネヒコと矢田丘陵(矢田山脈・矢田山系)と饒速日のことを次のように記しています(一部修正して引用)。   矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺(ながそね)―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 / 長髄は長背嶺の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷(現在は生駒市の白庭台住宅地になっている)<※1>を以て鳥見白庭山とみはくていざん<※2>と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/生駒市上町(引用者 : この上町の一部が白庭台住宅地となった)一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。 <※1> 引用者:白谷の位置は、この地図ご参照。  白谷バス停(付近一帯が白谷)・「鳥見白庭山 」の碑・哮峰・「金鵄発祥の處」の碑(「トビ山」に立つ)の位置は、このページの「古蹟地図」ご参照。 <※2>引用者 : 鳥見白庭庭は、哮峰いかるがだけ・いかるがのみね(現岩船神社の少し北にあり)に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座した(移り住んだ)ところ。神話で「天あま下った」は歴史的には「(海あまを南に下って)渡来した」こと(ご参照)。  〇この記事によれば、  ①白庭山は鳥見谷の上かみにある。  ②南田原や高山や上村かみむらを鳥見谷と称したとある。また、この記事によれば、住吉神社も白庭山の候補地とある。従って、鳥見白庭山は、住吉神社~白谷の地域、つまり生駒四河川の水源・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)にあったとできるのではないか。 〇リンク・・・饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ)   折口信夫のニギハヤヒ 〇可美真手命(ウマシマデのミコト)が饒速日命を祀ったとも、その両者が祀られているとも、饒速日命が降臨したとも言い伝えられている石切神社の元宮がある宮山の位置とそこへの行き方については、この概念図をご参照 〇饒速日=ニギ ハヤ ヒ=和(ニギとも読む/和合) 速 太陽=速やかに 争いを治める太陽神=和魂を付与する神 ともいえる。〇「先代旧事紀」に、ニギハヤヒは三十二神を伴って河内に降り立

  • 平群の山越(矢田丘陵越)の道   

    矢田丘陵は、記紀・万葉集では「平群の山」、また、以前は「後生駒山脈」とも呼ばれていました。(1)平群の山越やまごえは、生駒山地と矢田丘陵の間を流れる竜田川流域(その上流は生駒谷、下流は平群谷という/この流域を通るのが清滝街道)と、矢田丘陵と西之京丘陵の間を流れる富雄川流域(鳥見谷)を結ぶ峠道です(生駒の地理ご参照)。 (2)平群の山越(矢田丘陵越)の道の定説はありませんが、北から記すと次のようになるでしょう。   <生駒山地と矢田丘陵の峠道はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図 ご参照>  〇 白谷しらたに越・・・これだけは、竜田川流域と富雄川流域を結ぶ道ではなく、天野川源流域の田原谷の南部(西部が現四条畷上田原、東部が現生駒市南田原)と富雄川流域を結ぶ道。白谷(現生駒市上町・白庭台)を越える。なお、白谷は鳥見白庭山とみはくていざんに比定されており、白庭台はそれに由来するといわれている。 天野川源流域・富雄川・白谷の記載ある地図 〇 王龍寺越・・・生駒谷の小明~王龍寺~西村(長弓寺の近く) 〇 椚くぬぎ越・・・生駒谷の菜畑の傍示の辻(現菜畑駅東側) ~椚峠(標高 171m/データベース)~三碓の上鳥見かみつとみ橋(本来は中鳥見橋にすべき。富雄町史では「中鳥見庄は三碓」と明記されている) 〇 岩鼻いわのはな越・・・生駒谷の一分~神武峰(標高 259m)<生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>の北側~黒谷・中村(現奈良市中町) この道は現在、矢田丘陵遊歩道(矢田丘陵の当該記事ご参照)の途中下山ルート(西側は生駒市福祉センター方面、東側は奈良市帝塚山住宅地方面)となっています。前者を示す道標の写真.jpg。後者を示す道標の写真.jpg 〇 榁木むろのき越・・・生駒谷の小瀬~榁木峠(標高 268m)~砂茶屋の下鳥見しもつとみ橋  〇 金剛山寺(矢田寺)越(矢田越)・・・複数あった。暗越をして生駒谷に入り、乙田から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。榁木峠を越え、現在のこどもの森辺りを大回りして矢田寺へ。平群谷の元山上口から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。 矢田寺からは大和郡山へ下る道があった。 〇 松尾越・・・十三越・おうと越・立石越・信貴越などの生駒越をして平群谷に入り、椿井(写真)・平等寺から白石畑を経て松尾寺へ。松尾寺からは、矢田寺や大和小泉に下る道vがあった・ (3)平群の山越(矢田丘陵越)

  • 谷川健一さんの説・・・「草香・日下」「日の下」「直越」「草香山(饒速日山)」

    (1)谷川健一「白鳥伝説」より引用凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ  文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49)  勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山(引用者:ヤマレコさんによればここ)がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越ただごえ/じきごえと呼んでいる。 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。       (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照(2)谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思い

  • 生駒山のこと

    生駒山地(連峰/山脈)についてはこちら (地図・写真はクリックで拡大できます )◎生駒山の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照<生駒山は、生駒山地(連峰/山脈)の全部または部分をいう場合、その主峰(wikipedia) とその近くの峰々をいう場合、標高642mの主峰のみをいう場合、の3通りがありますが、このサイトでは、主に生駒市域の生駒山地のことについて記載します。> 以下、<問〇〇>とあるのは、生駒検定<全国版>の問の番号です。◎古来、生駒山は、膽駒山、射駒山 、伊駒山 、伊古麻山 、伊故麻山 、生馬山 、往馬山などさまざまな字があてられてきたが、語源は、縄文語(現アイヌ語)で「鹿がそこにいる」山・・・<問17>「生駒」の語源・由来ご参考◎日本神話でイザナギ・イザナギの男女2神がつくった豊秋津洲とよあきつしまは生駒山のこと・・・<問15>神話の里(その2)~「国生み神話」の舞台~ ご参照  ◎生駒山は、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台・・・<問1>神話の里(その1)~生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)~     神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」(日本書紀<現代語訳> より) ◎生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右写真<クリックで拡大/以下同じ> )<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>◎司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdfより   司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望(→右写真)<この平野が広がるところかつては海原であり、この写真を撮ったあたりで、生駒山に向かって進攻してくるイワレヒコ軍をナガスネヒコは睥睨へいげいしていたのではないか。>  この写真は、この阪奈道路の地図に「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真)で撮影(ここは車を止める場所がなく、撮影チャンスは後続車両がない一瞬ですが、近くに徒歩道があるので、それを利用すれば

  • 生駒山地のこと

    「生駒山のこと」はこちら(1)生駒山地(連峰/山脈)の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照    生駒山地(wikipedia)は、北端は淀川にせまる男山おとこやま丘陵(甘南備かんなび丘陵の北端をなす/主峰の男山<標高143m>山頂には石清水八幡宮あり)をなし、南端は大和川(この川で南の金剛山地と区切られる)に至る。 ②山容は、標高642mの主峰(wikipedia)付近は蓋形をなし、その北側につづく北嶺は平均320mの嶺をなし、清滝峠(247m)を経て飯盛山付近で北東に張って淀川に至り、南側につづく南嶺は、455mの暗峠で高さを減じ、522mの大原山.jpgをはさんで、鳴川峠(402m)からは平均450~430mの嶺をなし、十三峠(431m)、高安山(488m)・信貴山(437m)を経て大和川に至り、そこに亀の瀬渓谷をつくり、それをはさんだ南側の金剛山地に連なる。 ④この画面の山岳マップから生駒山地の航空写真をみることが出来ます。  ⑤3Dの生駒山地・・・飯盛山~信貴山(ヤマレコ<18. 4.14>より)/私市~恩智峠(ヤマレコ<19. 3.31>より)/信貴山~私市」(ヤマレコ<11.12. 3>より) /生駒山~信貴山」(ヤマレコ<18.12. 2>より)/同左(ヤマレコ<18. 4. 1>より)/飯盛山~鳴川峠(ヤマレコ<19. 8.12>より) (2)古くから、生駒山地を東西に越える峠道である生駒山越の(峠)道(いこまの古道ご参照)が多くつくられてきた。  (3)(2)以外の道  ①生駒山地東側中腹を南北に走る道として、「宝山寺の湛海さんから頼まれて、鬼取村の庄兵ヱが荒れ果てていた宝山寺から鳴川の千光寺までの道を整備した」との言い伝えが残っている庄兵ヱ道(生駒南北の古道ご参照)もつくられた。  ②宝山寺参詣道   生駒山系の東の中腹にある「東の聖天さん」と呼ばれる宝山寺の正式名称は「生駒山宝山寺」であることで分かるように、「生駒山」は信仰の対象で聖なる山です。一方、生駒山系の西の中腹にある「西の聖天さん」と呼ばれる興法寺の正式名称は「鷲尾山興法寺」であることで分かるように「鷲尾山」は「生駒山」と互角の信仰の対象で聖なる山です (右に、このページより引用の河内名所図絵の鷲尾山)が、頂上直下を生駒山系の尾根を走る自動車道が通るようになってから、歩いて頂上へ向かう道が廃

  • 矢田丘陵(記紀・万葉では「平群の山」)のこと 

    (1)矢田丘陵の地理など ①生駒の地理ご参照    矢田丘陵(wikipedia)は、生駒山地(生駒山脈)と並立していることから、以前は、後生駒山脈と呼ばれることもありました。また、生駒山は第1ヴァイオリン、平群の山は第2ヴァイオリンといえます。 ③古くは、「斑鳩いかるが三十六峰」、「いかるかみねつづき」といわれました。そのゆえんは、法隆寺が立地する矢田丘陵南端付近は斑鳩と呼ばれ、矢田丘陵は、そこから北へ伸びる、36の峰続きであるからです。  ④矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいたのが平群の山越(矢田丘陵越)の道で、それと結ばれていたのが、生駒山地を越えて生駒谷・平群谷と河内(現大阪府)とを結んでいた生駒山越の峠道です。 ⑤3D矢田丘陵全山縦走路(ヤマレコさん<16. 2.28>より)  3D矢田丘陵全山縦走路一覧・・・各縦走路を3D画面に切り替えることができます。  ⑥この画面の山岳マップから生駒山地・矢田丘陵の航空写真をみることが出来ます。 ⑦写真地図/基準点(三角点等)地図 ←画面中央の山地が矢田丘陵です。 (2)矢田丘陵も生駒山とともに、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台 長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵神武東征の当初の目的地は、矢田丘陵北端に位する白谷を中心とする生駒四河川源流・分水嶺地域と思われます(神武東征の目的地は移行したご参照)。 (3)矢田丘陵の山中や麓には生駒神話ゆかりの古蹟があります 北から順に、「鳥見白庭山」の碑、「長髄彦本拠」の碑、ひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>、住吉神社、夫婦塚、王龍寺、神武峰、矢田坐久志玉比古神社 <これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照> 矢田丘陵東麓には日本最大の円墳である富雄丸山古墳もあります。 (4)矢田丘陵の城砦・・・生駒の城塞ご参照  (5)日本書紀<景行紀>に登場 (・・・・・は省略部分) 天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。   愛はしきよし※ 従吾わぎへの家方かたゆ 雲くも居い起たち来くも   倭やまとは 国の真区まほらば 畳たたなづく 青垣あをがき 山やま籠こもれる 倭や

  • 「生駒山の飛火(とぶひ)が岡」の「高見の烽(とぶひ)」/ 旗振山・旗立山   

    (1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い「生駒山の飛火とぶひが岡 」に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。  また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり山(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。<参考>江戸時代、大坂堂島の米市場は全国の米価に影響を与えた。相場情報を各地に伝えるための最も速いやり方が、旗振り通信だった。見通しのいい山から山へ旗を振って数字を伝え、情報のリレーをする。明治に入ってからも続いた。高槻泰郎著『大坂堂島米市場』によると、明治期に旗振りで情報を伝える時間は京都へ4分、岡山へ15分、広島へ40分弱だったというから、なかなかの高速だ。そんな手作業の通信は、やがて電話に取って代わられる・・・・・。<この記事(ミラー)より>(3)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。  烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の

  • 生駒山越(いこまやまごえ)の峠道  

    (地図はクリックで拡大できます) (1)ルート地図 生駒山越の(峠)道(生駒山地を越える峠道)と平群の山越(矢田丘陵越)の道 (矢田丘陵(記紀では「平群の山」)を越える峠道)はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図ご参照>  なお、山越の道は川沿の街道に合流していた。(2)生駒山越の峠道(生駒山地を越える峠道) <北から順> 〇荒坂越(荒坂街道)・・・枚方~荒坂峠(約80m)~宇治  最北端の生駒山越の峠道    〇 尊延寺(普賢寺)越(田辺街道)・・・淀川(枚方)~尊延寺峠(約100m) ~南山城 /尊延寺越の記載ある地図.jpg/資料.pdf 〇 傍示越(峡崖かいがけ道)・・・▲現交野市の寺(これは地名)~河内側の傍示~傍示峠(285m)~現生駒市の(大和側の)傍示の道。中世鎌倉期には熊野詣にも利用され、江戸期には奈良参りや伊勢参りなどの道にもなった。京街道を枚方で分かれて磐船街道を南下し、途中で東高野を横切り、私市から東にとって、寺で傍示越に入り、両傍示を通って傍示越を抜けて富雄川に出て南下、現奈良市の法融寺前の月見橋東の分岐から東進して一条通りに入るか、同奈良市の砂茶屋の分岐から東進して三条通りに入るかして奈良に至り、更に伊勢へ向かう 。また、月見橋や砂茶屋で東進せずそのまま南下し、郡山を経て高野や熊野に向かうこともできた。生駒山地では、荒坂越も尊延寺越も峠の標高が低くて100m前後しかないが、この傍示越にきてやっと300mの高さになって峠らしくなる。▲「高山八幡宮古記録」に、「おかげまいり、四国阿波から30万人が高山を経過(3~5月)」とある。この参詣団は傍示越、つまり、阿波→大阪湾→淀川→枚方→交野→かいがけ道<交野から傍示を越えて高山へ>→高山→奈良→伊勢のルートで伊勢神宮までいった。   〇 磐船(岩船・岩舟)越(磐船街道)・・・枚方から交野を経て私市へ。そこより天野川を遡り、磐船神社・新茶屋を経て天野川源流の出店へ(ここより、上鳥見かみつとみ路ともいう)、そこより富雄川に出て(出店から富雄川へは白谷を越えるので白谷越という)南下、二名の法融寺前の月見橋東の分岐で一条通りに合流し、東南に進み、一条通りに至る。なお、大和の清滝街道も磐船街道ということがある。磐船越の記載ある地図.jpg /磐船峠(約130m)には磐船神社がある。 *磐船越と清滝越は、天野川源流

  • 邪馬台国

    (1)邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 ⇒ 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征(2)早期(先発)渡来人(早い時期に渡来)が日本列島に渡来して以後、日本列島各地に部族連合の国(地域小国家の連合体)が形成されていきましたが、中国の史料では、そのうちのいくつかに邪馬台国・狗奴国などの名を与えています(「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)ご参照)。 (3)邪馬台国の位置がいまだに分からない理由の1つは、古代日本の地形を考慮に入れていないからです(古代日本の地形ご参照)。海面が今より60m高い時の日本列島(取り分け九州)の地形をこれ(Sea level rise : +60m)で見てください。             ...

  • 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 

                  お断り:邪馬台国については、日本ではそれらしき記録がほんのわずかしかなく、中国の文献でも伝聞的なもの(実際に日本に来て記録したものではないようなもの)しかないので、逆に数えきれないほどの諸説がありますので、この記事も確定したものではなく、添削することがあります。(1)邪馬台国の「台」は、この国名の出所である魏志倭人伝では「壹」(現在の漢字では「壱」)とあり、 後漢書では「臺」とあります。これまでは、学会の主流では、「壹」 が誤りで「臺」が正しいとされ、これと「台」は別の漢字ですが、当用漢字には「台」しかないので便宜的に「台」を充てて、この国は教科書等では「邪馬台国」と表記されてきましたが、本当のことは不確定です。従って、この国の本来の呼び方も不確定で、今日では「ヤマタイコク」 と呼ぶのが普通になっていますが、「ヤマイチコク」「ヤマイコク」「ヤマダイコク」「ヤマトコク」とも呼ぶことも可能です。不確定といえば、この国の所在地も不確定で、北九州と大和(奈良県)とを2大候補地として、全国にその候補地があります。(2)(1)のように、この国について不明なことが多いのは、大和政権が701年の大宝の律令制定をもって、古代天皇制国家(律令国家=中央集権国家)を完成していくプロセスにおいて、この国と大和政権との関係を、中国に対して誤魔化す必要があったからです。その必要があったことは、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された記(古事記)と外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された紀(日本書紀)のいずれにも、この国の名前が出てこない(これが、記紀の謎の1つ)ことでわかります。記紀にこの国のこと(名前やその位置)が記録されなかったことが、邪馬〇国名称論争・邪馬〇国位置論争が起こった理由です。今日、いまだに「天皇稜」の多くが未発掘の「謎」もこれに関係あるとの説もあります。 (3)では、なぜ、誤魔化す必要があったのか。それを説明する説は次の様です。 ①大和政権は、元々、半島から渡来した弥生人が日向(現在の宮崎県)に居住し、やがて、魏志倭人伝がいう狗奴国を立てた日向政権であった。 ②日向政権(狗奴国)は、日向周辺の南九州に勢力を拡大した(球磨くまにも版図を拡大したので、中国からはクヌ国・クナ国と呼ばれたのではないか)のち、北九州の邪馬〇国と戦い、これを支配下に入れた。この戦いの際、247年に邪馬

  • 日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」(戦い・殺戮・暴力を否定する精神) 

    PDF版.pdfもご参照【1】縄文人は、「食べるため以外のために殺す」(これを殺戮という)ことは不可能な人々でした (この記事の中の「<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について」をご参照) 。【2】そのため、1万年にわたる縄文時代に、日本人には、「殺戮しない・できない精神」が形成され、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した縄文時代から弥生時代への移行の時代に「国譲り」<注1>が行われる中で形成された日本民族にも、それは「非戦・避戦の精神」(殺戮をおこなう「戦争=武力」と、それを引き起こす「強制力=有無を言わさない無理やりの力=暴力=実力」に頼る愚劣さ、を忌避する精神) として継承され、集団的無意識<注2> として今日に至るまで受け継がれてきました。  <注1>国譲り・・・縄文人が弥生人を受け入れ、両者が共存・融合することで、里山(注)がひろがる日本国土が形成されていったこと(更に詳しくは国譲りへ)    (注)里山・・・お花見に象徴される弥生的な要素と紅葉狩りに象徴される縄文的な要素とが共存・融合した生産様式・生活・文化・景観のある地域(更に詳しくは小辞典へ)  <注2>集団的無意識・・・集合的無意識・普遍的無意識ともいう。無意識のうち、個人を越えて、集団・民族・人類の心に普遍的に、祖先の経験した行動様式や考え方が遺伝的・本能的に受継がれてきたもの。消滅することのない基層文化(異文化との接触,被征服などによる外来文化の受容や内在的な文化的発展などの変動にもかかわらず,長期にわたって持続しその地域や民族の文化の固有性の中核になっている文化)と言い換えることも可能。また、ほとんど遺伝子のようになった文化ともいえる。なお、文化とは、遺伝子が運びきれない知恵(長い時間の中で見つけられ育くまれ伝えられてきた人の命を守るしくみ)を運ぶもの 。【3】縄文人の即自(=否定されるという試練をまだ受けていない状態/独りよがりかも知れない普遍性を持たない状態/テーゼ)として形成された本然の性(=非戦・避戦の精神)は、縄文時代から弥生時代への移行時に、渡来人による国家(=抑圧機構)建設という対自(=自己を否定されるという試練/独りよがりか否かが試された状況/アンチテーゼ)を受けました。しかし、それを克服する(=止揚する/即自且つ対自に至る/いかなる時代・地域・民族にも通じる普遍性を持つに至った/ジン

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