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  • 縄文人の「本然の性」

    (1)「本然の性」とは、本来からの当然の「性質=身魂(みたま/体を支える心/様態を支える精神)」であり、縄文人の「本然の性」とは、次のようなものである。 ①食料不足防止のため余分に動物を殺すことはしない・出来ないのと同様に、〈生きていくうえで不可欠な仲間である人間〉を殺すことはしない・できない。 ②狩猟採集という獲得経済のもとでは、農耕牧畜という生産経済に不可欠な土地の所有が必要ないため、「所有」という概念がないので争いの元となる物の「所有」がないため、争いに勝つために「他の人間を殺す」という概念も生まれないため、人間を殺すことはしない・できない。(2)(1)のことから、縄文人の「本然の性」を一言でいうと、「殺戮しない・出来ない精神」となる。...

  • 生駒の神話<最新版>

    ~図はクリックで拡大できます。~ これは、24.2.4の第15回らら まつり<ミラー>で、大事なことは皆で考え決めよう会がパネル展示した〈生駒市「神話と里山の都市」構想 〉 .pdf〉のために書いたものです(パネル展示の文に若干追記したところあり)。 「最新版」である事由 ⇨(5)のパート:「命を頂く道具」と「命を奪う武器」を明確化しました/(7)のパート:「国譲り」の定義を補修しました/(8)のパート:和(倭)魂の移動という折口信夫の見解を基に補修しました。(1)海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)を治めていたイワレヒコ(のちの神武天皇)は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現大阪平野/生駒の神話が生まれた縄文時代から弥生時代への移行期、まだ大部分は海<右写真ご参照>)にいたり、そこより生駒山を越えようとした。 (2)このとき、内つ国ではナガスネヒコが、イワレヒコより先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒと共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネヒコたちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったので、侵攻軍を撃退するために、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、物理的な障壁をつくるために。ナガスネヒコたちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)。(3)内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退されたと思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国に侵攻せんとした。(4)侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネヒコたちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うことなど知らない狩猟採集民を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。(5)侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネヒコたちは、再び侵攻軍と会いまえた時(トミの戦い)、侵攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、食べるために動物の命をいただく狩猟の道具である弓矢を人間の命を奪う武器に変え、彼らは軍隊に変質した。(6)ナガスネヒコ軍が、

  • 鶏(にわとり/ニワトリ)

    生駒検定<全国版><問21>生駒伝承の解答・解説に戻る (1)から(8)は始発記事で昇順(数の小さいものから大きいものへ進む)、(9)以後は後発記事で降順(数の大きいものから小さいものへ進む)です。(9)【23.7.21】<唐古・鍵では権力のステータス・象徴たる鶏を飼育していた> ①<この記事(ミラー)より/太字は引用者による> 弥生時代で最大規模の集落跡として知られる唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で発掘された鳥のヒナの骨・・・・・日本最古のニワトリのものだとわかった。権力の象徴として、集落で飼育されていたらしい。ニワトリの主な祖先は東南アジアの森林に生息するセキショクヤケイ。ニワトリは約3千年前には欧州やオセアニアにもいたとわかっているが、飼育がいつごろ始まったかは謎だ。日本列島には弥生時代、朝鮮半島や中国を通じて入ってきたと考えられているが、詳細な年代は不明だった・・・・・唐古・鍵遺跡の弥生時代中期初頭のものと見られる溝から1995年に見つかった、ニワトリ、キジ、ヤマドリのいずれかとみられていたキジ科のヒナの骨2点を分析。わずかに採取した骨に含まれるコラーゲンたんぱく質の構造を質量分析という手法で調べたところ、ニワトリのヒナの骨だとわかった。炭素の放射性同位体の割合を調べる年代測定法で、この骨は紀元前3~同4世紀のものと確定した。年代が特定された日本最古のニワトリのヒナの骨になるという・・・・・弥生時代の日本にいたのは、骨の形状からほとんどが雄。繁殖させられなかったのだろうと考えられてきた。朝鮮半島や中国からもらってくるほかなく、ニワトリは鏡や剣といった宝物と同じく権力の象徴だった可能性が高い・・・・・家の中で飼っていても、鳴き声で存在を示せる。鏡や剣はずっと残るが、ニワトリは死んでしまう。新しいニワトリをもらい続けるのは大変で、「すごい」とわからせやすかったのではないか・・・・・今回の研究で唐古・鍵にニワトリのヒナがいたことがわかり、ここでは他の集落と違い、雌雄をそろってもらってきた可能性が高いという・・・・・弥生時代最大の集落である唐古・鍵だからこそ、ニワトリを雌雄で飼育することができたのかもしれない・・・・・。 ②<この記事(ミラー)より/太字は引用者による>日本列島で稲作が根付いた弥生時代、すでに養鶏も行われていたことが・・・・・科学分析で分かった・・・・・「唐古・鍵遺跡」(国史跡)から出土した弥生中

  • 大嘗祭は縄文と弥生の共生を示す祭祀

    大嘗祭に戻る(1)「大嘗祭は縄文と弥生の共生を示す祭祀」であることを説明する資料 ①・・・・・麻と粟が優先されるのは、それらがこの国にまず先にあったからである。つまり、麻と粟は縄文人の象徴であり、稲と絹は弥生人の象徴であるのだ。大嘗祭は、この両者の共生を示す祭祀である・・・・・。<この記事より/太字は引用者による> ②・・・・・粟は、稲の栽培が盛んになる前から食料として利用され、大地の恵みの最たるもの。すなわち神前に供えて感謝する産物だった。考古学的には、日本には縄文時代から存在していたことが分かっている。この「縄文」とは、表面に縄目を記した土器に由来する。この「縄」は麻縄で付けられた。縄文時代において「麻」はそれほどポピュラーな植物だった。麻は神事でも、きわめて重要な役回りがある。神具のいくつかには必須であり、大麻でつくられた巨大なハタキのようなものによるお祓いの儀式は今も地鎮祭などで見られる。そして大嘗祭。そこでは麻の織物「あらたえ」と、絹の織物「にぎたえ」が献納される。神前に供える食物は「粟」と「稲」をともに献上する。一般的には、「大嘗祭は稲の祭祀」と思われているが・・・・・「粟+麻」と「稲+絹」の儀式・・・・・「粟」と「麻」は縄文の、「稲」と「絹」は弥生の象徴であり、「大嘗祭は、この両者の共生を示す祭祀」・・・・・麻は大麻でもあり、古代の人びとは麻を単に縄や衣服で用いただけではなく、「麻酔い」で神がかり状態になったり、薬にもなるという特別の効能についても知っていたはず・・・・・今度の大嘗祭に使う麻は、そのためにわざわざ徳島で種を撒かれ栽培されたもの。麻織物を手掛けるのは古代の職能集団「阿波忌部」の末裔だという。「大麻比古神社」を一宮とする徳島(阿波)における「粟」や「麻」、神事とのつながりは今も続いている・・・・・。<大嘗祭は「稲の祭祀」ではなかった!(ミラー)より/太字は引用者による >(2)(1)を踏まえた考察 ①弥生の精神は「水田耕作を中心とする国(瑞穂の国)づくり」であり、縄文の本然の性は「非戦・避戦の精神(殺戮はできない・しない)」である。〈この弥生の精神と縄文の本然の性を併せ持つ者〉、つまり、〈殺戮を含む強制力を属性とする「国家=世俗権力の統治機構」の時代にあって世俗権力をけん制しながら「瑞穂の国」づくりをする天皇〉を誕生させるのが大嘗祭である。 ②「天皇を誕生させる」ことは大嘗祭のページによ

  • 「生駒の神話研究会」の訴え

    「国家はなにがしかの国民の物語を必要とする」<日本人が意外と知らない「戦前の正体」…「神話」からみる戦前の「本当の姿」(ミラー)より>そのため、戦前では「神武東征神話」(西からやってきた神武天皇がまつろわぬ者たちを征服して即位され建国された、とするもの)が「国民の物語」(国民のアイデンティティの物語)とされ、これに加えて、天皇は現人神であり「日本は神国」で、その栄光は世界に及んでいるという物語がつくられ、それがアジア侵略を正当化・推進し、あげく亡国(大日本帝国の崩壊)をもたらした。 かかる「征服(侵略)」を正当化する「神武東征神話」は「記紀」を創作した時の世俗権力者によって、それまで言い伝えられてきた神話を改ざんして捏造された神話である。「征服(侵略)」を正当化する「神武東征神話」は戦後になっても「国民の物語」 であることが否定されていない。それは、再び戦前の誤りを繰り返す要因となる。「新しい戦前」が始まった今、一刻も早い、改ざんされる前の神話である「生駒の神話」を復活・普及させ、これを日本の未来を切り開く「国民の物語」にしなければならない。 <生駒の神話は、以下のことを物語にしたものである> 西からやってきた(侵略してきた)後期渡来人が、先住民と前期渡来人を征服して国家を建設せんとした。先住民と前期渡来人は侵略者を殲滅(殺戮)することもできた。しかし、2つの理由でそれはできなかった。①「殺戮は不可能」というのが先住民の「本然の性」であったこと。②先住民が「本然の性」を捨て去って侵略者を一旦殲滅しても、歴史の流れ(必然性)は「国家建設」の時代の到来であり、この流れは 、国家(殺戮を含む「強制力=暴力・武力」を属性とする)をつくろうとする者を何回殲滅しても止めることは不可能であったこと。 ならば、国家をつくろとする者に、先住民の「本然の性」を受け継ぐことを条件に国づくり(これは現実的には「国家」づくりとなってしまう)を委ねた(これを「国譲り」という/出雲神話では、先住民の「本然の性」を受け継ぐという条件の見える化として、国を譲るかわりに出雲大社をつくれという条件がつけられたことは有名)。 こうして、後期渡来人は先住民の「本然の性」を受け継ぐという約束の下に国家をつくっていったが、それは、矛盾する行為だった。「殺戮は不可能」という「本然の性」を保持しながら「殺戮を属性」とする国家をつくるという行為だったからだ。 し

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    建国神話<ミラー>...

  • 工藤隆「大嘗祭と天皇制」<抜粋>

    全文はこちら.pdf (太字・番号・< >は引用者による/・・・・・は省略部分)<語句の定義>天皇存在を、武力王(軍事行使力)、行政王(行政権限行使力)、財政王(財政力)など現実社会的威力の面と、神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面とに類別しながら分析する<185頁><皇室の特性> ・・・・・イギリス王室など西洋近代社会における王室の場合は、武力王・行政王・財政王(多くの私的財産を保持できた)として君臨していた過去を持っているのは普通だが、しかし、日本の皇室のように、神話世界(『古事記』『日本書紀』の高天原神話のような神話)に発する起源を語り、かつアニミズム系文化の呪術とも密接に結びついた過去を持っていて、しかもその神話王・呪術王の側面を1946年公布の民主主義憲法においてさえも継承して21世紀にまで維持している王室は無い<185頁> <万世一系>・・・・・「万世一系」は・・・・・明治政府による新たな“神話”の創出である<186頁> <男系・女系の継承/女性天皇> ・・・・・〈古代の古代〉(縄文・弥生時代、古墳時代)・・・・・の時期には、男系(父系)と女系(母系系)が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていて、王位継承にもその性格は及んでいたと思われる。それに対して、500年代くらいには大王位の男系優位観念が出始め、さらに・・・・・700年前後の時期の場合には、古代中国国家の皇帝制度の模倣によって男系優位観念が一段と強化されたと考えられる。国家体制の強化のためには先進国家唐の皇帝の、男系男子継承主義を模倣するのが得策と考えられたのであろう。しかしその場合でも、女性天皇は、四一代持統天皇以後も、元明天皇(四三代、即位708年)、元正天皇(四四代、即位716年)、孝謙天皇(四六代、即位749年)、称徳天皇(四八代、孝謙天皇が重祚、即位 765年)、明正天皇(一〇九代、即位1629年)、後桜町天皇(一一七代、即位1762年)と登場したのであるから、唐の皇帝制度の模倣が強化されたあとでも、 〈古代の古代 〉以来の、女性リーダー 違和感を感じない伝統は生き続けていた<186頁>・・・・・しかし、明治22年(1889) に大日本帝国憲法が発表され、同年同日に施行された旧皇室典範の第1条、に天皇の男系男子絶対主義が法律として明文化されたことによって、天皇

  • 生駒の神話<提要>

    生駒の神話のTOP PAGEに戻る(これまでの最新の研究成果をコンパクトにまとめています。) 【1】記紀(古事記・日本書紀)に記されている「神武東征」神話のあらすじ 九州にいたイワレヒコは、ニギハヤヒが治めている内つ国(うちつくに/生駒山の向こうにある日本の中心/現在の生駒から奈良盆地)に国をつくるため、瀬戸内海を東に向かい難波の海の東海岸に上陸して生駒山を越えようとした。しかし、ニギハヤヒの盟友である長髄彦(ナガスネヒコ/別名登美彦・登美毘古)によって撃退された(クサカの戦い)。東に向かって進軍したのは太陽に逆らうことになったので敗退したと考え、紀伊半島を迂回して熊野付近より太陽を背にして侵攻せんとした。迂回の先々で、先住民を平定しながら、内つ国の南東に到着し、再度長髄彦と会いまみえた(トミの戦い)が、今度も苦戦した。そのとき、金色の鵄(トビ)が生駒の地を飛び立ち突然に飛来して閃光を放って長髄彦をして戦わさせなくし、ニギハヤヒが国を譲り、イワレヒコは神武天皇として即位した(長髄彦は、紀ではニギハヤヒに殺害されたことになっているが、記ではその最後の記載がない)。【2】「神武東征」神話については、次のような意見があります。 ①〈神武天皇の方が侵略者という見方もできる〉<右記の画面(この動画より)ご参照> ②〈金色の鵄は、本来は長髄彦の側のトーテム(神)〉(「生駒市誌Ⅰ」P.79) ③〈神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか(略)この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている〉(谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」)/〈神武天皇にもっとも頑強に抵抗し(略)たほどの登美毘古の最後がはっきりしない〉(直木孝次郎 「日本神話と古代国家」)【3】「生駒の神話研究会」で「神武東征」神話の登場人物・その舞台等について記された資料を読んで(2)の意見を念頭に考察を進めたところ、次のような見識を得ました。(1)3つの人々がいた。 ①長髄彦は先住民(縄文人)・・・食料不足防止のため余分に動物を殺すことは出来ないのと同様に、‹生きていくうえで不可欠な仲間である人間を殺すことはできない〉というのが「本然の性(根本の性質)」である人々で、国家(統治機構/「権力=強制力」の機構)をつくること(つくる必要)はなかった人々。 ②ニギハヤヒは早期

  • 生駒神話の概説(2023.1)

    TOP PAGEに戻る 日本人にとって最も大切な神話が「生駒神話」。これは、日本国家確立期に、当時の世俗権力者(=祭祀権力者たる天皇と区別してこういわれる)によって「神武東征神話」へと改ざんされた上で古事記・日本書紀に記された。元の姿の詳細は、生駒の神話に記載されているが、簡潔に述べると、下記の<骨子>の通りである。 この神話は、日本が、縄文時代(国家のない時代)から弥生時代(殺戮を属性とする国家が成立していった時代)に移行していく中にあって、人々の今後の歩むべき道を示し、それを後世にも伝えるために成立した。 この神話の主人公は3人。ナガスネヒコ(国家意識は皆無で、殺戮を知らない・出来ないが本然の性の先住民たる縄文人を人物化したもの)、ニギハヤヒ(国家意識はあるが小さい前期渡来人ー前期弥生人-を人物化したもの)、イワレヒコ(国家意識が強烈で、国家をつくり維持強化するためなら殺戮はいとわない後期渡来人ー後期弥生人- を人物化したもの/即位して初代天皇となる)生駒神話の<骨子>(1)ニギハヤヒが海のかなたから現在の生駒北部に渡来し、ナガスネヒコに自分たちの居住地を提供してくれるように依頼した。ナガスネヒコはそれに応え、両者は話し合い、縄文人はこれまで通り山や川で狩猟漁労採集を主とする生活を営み、前期渡来人は田畑に適した場所で水田耕作を主とする生活を営み、両者はお互いの恵みを交換していくことにした。このような人々の結びつきは、古代的・封建的な「服従と保護」や資本主的な「貨幣・商品の媒介」ではない「互酬(贈与と返礼) 」と呼ばれる(ご参照.jpg)。この神話が後世に伝えたいことの1つに、本来の人間の交換様式(結びつきの様式)は「互酬(贈与と返礼) 」であり、それを未来の人類は再び取り戻すだろう、ということである。なお、この様式は、縁起の法(すべてのものはつながり互いに助け合っている、との法)の風がそよぐ中で行なわれる。(2)こうして両者は共存・共栄していくことで日本人が形成されていった。それをこの神話は、ナガスネヒコの妹の縄文人たるミカシキヤヒメ(ミカシキヤは漢字で「御炊屋」で 「山の木で田でとれた米を煮たきする大切な所」の意)と弥生人たるニギハヤヒが婚姻し、いわば縄文人と渡来人のハーフたる日本人としてのウマシマジが誕生した話を添えることで見える化している。そして、縄文人と渡来人(弥生人)が共存・共栄することで縄文的要素

  • 縄文人の「本然の性」

    縄文と弥生に戻る(1)「本然の性」とは、本来からの当然の「性質=身魂(みたま/体を支える心/様態を支える精神)」であり、縄文人の「本然の性」とは、次のようなものである。 ①食料不足防止のため余分に動物を殺すことはしない・出来ないのと同様に、〈生きていくうえで不可欠な仲間である人間〉を殺すことはしない・できない。 ②狩猟採集という獲得経済<注1>のもとでは、生命の源たる食を生産する必要はなく、従って農耕牧畜という生産経済<注2>とは違って土地の所有が必要ないため「所有」という概念がないので、争いの元となる物の「所有」がないため、物を取りあいする争いに勝つために「他の人間を殺す」という概念も生まれないため、人間を殺すことはしない・できない。 <注1>獲得経済 ⇨食は神が授けてくれるもので、それを「獲得する=得る」ことで生きることができるという経済。この経済の下で縄文人は食・土地を含むすべてのものは神からの授かりものと考えていた。ピュシス的経済。 <注2> 生産経済 ⇨ 食は「生産する=作ることを自然に強制する」という経済。これは「強制=暴力」的な経済であり、現代農業では、農薬で土を苦しめていることでそれを見える化している。ロゴス的経済。(2)(1)のことから、縄文人の「本然の性」を一言でいうと、「殺戮しない・出来ない精神」となる。*******...

  • 内つ国(うちつくに)/中洲(なかつくに・なかす・ながす)

    〇内つ国とも中洲ともいう 〇国の中心(のち、大和やまと/ヤマトと呼ばれる)/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺) ⇨ 右地図ご参照〇都のある国(大和国/倭やまと)、都に近い地方(畿内・近畿地方)や外国に対して日本の国をいうときもある〇南北2つの鳥見とみ(登美とみ)は中洲(大和)の入り口にあたる(この地図.jpgご参照)。この2つを抑えることで中洲(大和)を治めていた首長が鳥見(登美)彦・中洲根なかすね/ながすね(長髄ながすね/なかすね)彦であった。「根」は根本・基礎という意で、中洲根彦というのは、中洲(国の中心)の根(根本・基礎)をつくった彦(おおいなるひと・すぐれたひと)という意味を持つ。 なお、北の鳥見(登美)は長髄彦の本拠地であり、その守護神(金の鵄トビ)の発祥の地であり、南の鳥見(登美)は長髄彦軍とイワレヒコ軍が再度あいまみえ、金の鵄が飛来したところである。******* ...

  • 鬼...

  • 命をないがしろにする者は罰を受ける

     日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」に戻る 生駒の神話では、ナガスネヒコがイワレヒコを殺戮せんとして打ちのめされるという「罰」を受けた。 これは、①命をないがしろにする者は罰を受けるという教えとなり、それはその後、〈命にかかわるモノ〉や〈命にかかわるコト〉をないがしろにしたことでわざわい(禍・災 い・厄)を受けてきた体験の蓄積が、②〈命にかかわるモノ〉や〈命にかかわるコト〉をないがしろにすると怒りをかって「罰」を受けるという教えとなり、①と②は、日本人の集団的無意識となっていった。 この無意識は、 日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」と連動したもの。 この無意識が顕現化した事例として、「太陽の塔」の永久保存がある(岡本太郎「太陽の塔」はなぜ永久保存されることになったのか?.pdfご参照)。**************...

  • 「天皇の約束」の実現

    生駒の神話<提要>に戻る【1】明治・大正・昭和天皇は「天皇の約束」を果たすため苦悩した。 ①そのことがこの文<開戦の詔書 天皇の真意は何だったのか(ミラー)> に、次のように示されている(・・・は省略部分) 昭和天皇・・・は・・・詔書の文中に「豈(あに)朕(ちん)が志ならんや」との字句を入れ、自らの本意ではないとして開戦への葛藤の意を示した・・・「朕が志ならんや」との文句は・・・日清、日露戦争時の詔書にもあった・・・開戦の詔書が天皇の「真意に背いて」出された・・・。 ②〈この国は、江戸時代には、ただの一度も国家として対外戦争を体験していないという、世界に冠たる名誉を持っていた。・・・・・朝廷は、江戸時代には戦争と縁遠い存在であった。その余韻もあって、明治天皇が日清戦争時には当初、いわば、「これは朕(ちん)の戦争ではなく、政府の戦争だ」と述べたのは有名な話である。日露戦争の時も、感情を表さず、推移を見ていたという。・・・・・大正天皇にしても、むしろ「武」よりも「文」の天皇であった。その漢詩は、近代日本では最高峰に位置しているともされるほどだ。大正天皇は大正7(1918)年頃に詩作をやめたが、それは第一次大戦などでの人々の苦労を実感していたからであろう。昭和天皇も、戦争に当初は極めて臆病であった。しかし大元帥としての教育を受け、軍事上は神格化した存在となって、見事に戦争へ取り込まれたのである。昭和天皇を反戦とか平和の天皇だと言いたいわけではない。歴代の天皇は、江戸時代の歴史を踏まえて見ると、戦争に懐疑的だったと分かるのである。・・・・・NHKが探し出したとされる海軍側の2・26事件についての記録などからも、天皇がこの種の事件に本能的な恐怖感を持っていたことがうかがえる。・・・・・。〉<・・・・・は中略部分/この記事(ミラー)より>【2】明治~戦前における開戦の詔勅・・・天皇は、日清戦争は「せざるをえない」というように消極的反対に態度をとったが、日露戦争・アジア太平洋戦争については、明確に「天皇の意志・本意ではない」と宣言している。 ②と③の「開戦の詔勅(宣戦布告)」を読むと、天皇は「天皇の約束」(国家の殺戮という属性を制御して平和を維持すること)を果たそうと努力してきたことが分る。宣戦布告の中でさえ「戦争は天皇の意志・本意ではない」と言い切っている。この2つの文中の青字部分は、現平和憲法の精神とまったく同じである

  • 三種の神器

    生駒神話の小辞典に戻る(1)<「三種の神器 —〈玉・鏡・剣〉が示す天皇の起源」(ミラー)より/太字は引用者による>・・・・・ 「三種の神器」とは・・・・・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)。天皇践祚、つまり天皇職を引き継ぐときにこれらを所持することが皇室の正統たる帝の証で同時に継承される。しかし実物が天皇の手元にあるわけではなく八咫鏡本体は伊勢の神宮の皇大神宮に、草薙剣は名古屋の熱田神社にご神体として奉斎されているため、形代という分身が皇居に置かれている。唯一、玉璽と言われる八坂瓊曲玉のみ本体が宮中にあるとされている・・・・・草薙剣の由来は・・・・・スサノヲ命(須佐之男命)が出雲国で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)の尾から出てきた太刀、天叢雲剣が後に名を変えて草薙剣となった。スサノヲからアマテラスへ奉納され、天孫降臨のさい、ニニギ尊(瓊瓊杵尊)に手渡されたもの・・・・・敵方の、それも負けた剣が天皇家いや日本を守る宝となった・・・・・八坂瓊曲玉は勾玉とも書く。しかし“勾”という字は本来の意味で「曲る」だが、白川静の『字統』によると骨の屈折を著し「死体」を意味するという。古事記では勾玉と書かれているものが日本書紀では曲玉に書き換えられている。こういう例は倭と大和があり、卑字・凶字が吉字・好字として書き換えられた・・・・・祀るという行為は、本来「祟られないように奉る」ことである。三種の神器それぞれも、害を成したことによって祀られ、それでも祟りを恐れて八咫鏡と草薙剣は第10代天皇崇神天皇により皇居の外へ出され、やがて伊勢神宮、熱田神宮に祀られることになる・・・・・日本の基礎を築いた最大の傑物は天武天皇・・・・・新たな身分制度と、体系的な律令制を確立し、古事記・日本書紀を編纂した。そしてこの時に初めて三種の神器が制定された・・・・・。(2)(1)の太字部分を踏まえて考察 ①曲(勾)玉とは「死体」と「タマ(魂=霊)」、つまり「死者」のことである。 ②草薙剣は負けた、つまり殺戮された者たちの剣である。 ③鏡は古墳の副葬品であることから、八咫鏡は「死者への捧げもの」と考えられる。 ④三種の神器は、それぞれ、害を成したことによって祀られている。 ⑤生駒の神話(生駒の神話<提要>ご参照)によれば、大和国家が後発渡来人が先住縄文人と先発渡来人の殺戮の上に立って成立するとき、

  • 大嘗祭は縄文と弥生の共生を示す祭祀

    大嘗祭に戻る(1)「大嘗祭は縄文と弥生の共生を示す祭祀」であることを説明する資料 ①・・・・・麻と粟が優先されるのは、それらがこの国にまず先にあったからである。つまり、麻と粟は縄文人の象徴であり、稲と絹は弥生人の象徴であるのだ。大嘗祭は、この両者の共生を示す祭祀である・・・・・。<この記事より/太字は引用者による> ②・・・・・粟は、稲の栽培が盛んになる前から食料として利用され、大地の恵みの最たるもの。すなわち神前に供えて感謝する産物だった。考古学的には、日本には縄文時代から存在していたことが分かっている。この「縄文」とは、表面に縄目を記した土器に由来する。この「縄」は麻縄で付けられた。縄文時代において「麻」はそれほどポピュラーな植物だった。麻は神事でも、きわめて重要な役回りがある。神具のいくつかには必須であり、大麻でつくられた巨大なハタキのようなものによるお祓いの儀式は今も地鎮祭などで見られる。そして大嘗祭。そこでは麻の織物「あらたえ」と、絹の織物「にぎたえ」が献納される。神前に供える食物は「粟」と「稲」をともに献上する。一般的には、「大嘗祭は稲の祭祀」と思われているが・・・・・「粟+麻」と「稲+絹」の儀式・・・・・「粟」と「麻」は縄文の、「稲」と「絹」は弥生の象徴であり、「大嘗祭は、この両者の共生を示す祭祀」・・・・・麻は大麻でもあり、古代の人びとは麻を単に縄や衣服で用いただけではなく、「麻酔い」で神がかり状態になったり、薬にもなるという特別の効能についても知っていたはず・・・・・今度の大嘗祭に使う麻は、そのためにわざわざ徳島で種を撒かれ栽培されたもの。麻織物を手掛けるのは古代の職能集団「阿波忌部」の末裔だという。「大麻比古神社」を一宮とする徳島(阿波)における「粟」や「麻」、神事とのつながりは今も続いている・・・・・。<大嘗祭は「稲の祭祀」ではなかった!(ミラー)より/太字は引用者による >(2)(1)を踏まえた考察 ①弥生の精神は「水田耕作を中心とする国(瑞穂の国)づくり」であり、縄文の本然の性は「非戦・避戦の精神(殺戮はできない・しない)」である。〈この弥生の精神と縄文の本然の性を併せ持つ者〉、つまり、〈殺戮を含む強制力を属性とする「国家=世俗権力の統治機構」の時代にあって世俗権力をけん制しながら「瑞穂の国」づくりをする天皇〉を誕生させるのが大嘗祭である。 ②「天皇を誕生させる」ことは大嘗祭のページによ

  • 鶏(にわとり/ニワトリ)

    生駒検定<全国版><問21>生駒伝承の解答・解説に戻る 生駒神話の小辞典に戻る (1)から(8)は始発記事で昇順(数の小さいものから大きいものへ進む)、(9)以後は後発記事で降順(数の大きいものから小さいものへ進む)です。(9)【23.7.21】<唐古・鍵では権力のステータス・象徴たる鶏を飼育していた> ①<この記事(ミラー)より/太字は引用者による> 弥生時代で最大規模の集落跡として知られる唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で発掘された鳥のヒナの骨・・・・・日本最古のニワトリのものだとわかった。権力の象徴として、集落で飼育されていたらしい。ニワトリの主な祖先は東南アジアの森林に生息するセキショクヤケイ。ニワトリは約3千年前には欧州やオセアニアにもいたとわかっているが、飼育がいつごろ始まったかは謎だ。日本列島には弥生時代、朝鮮半島や中国を通じて入ってきたと考えられているが、詳細な年代は不明だった・・・・・唐古・鍵遺跡の弥生時代中期初頭のものと見られる溝から1995年に見つかった、ニワトリ、キジ、ヤマドリのいずれかとみられていたキジ科のヒナの骨2点を分析。わずかに採取した骨に含まれるコラーゲンたんぱく質の構造を質量分析という手法で調べたところ、ニワトリのヒナの骨だとわかった。炭素の放射性同位体の割合を調べる年代測定法で、この骨は紀元前3~同4世紀のものと確定した。年代が特定された日本最古のニワトリのヒナの骨になるという・・・・・弥生時代の日本にいたのは、骨の形状からほとんどが雄。繁殖させられなかったのだろうと考えられてきた。朝鮮半島や中国からもらってくるほかなく、ニワトリは鏡や剣といった宝物と同じく権力の象徴だった可能性が高い・・・・・家の中で飼っていても、鳴き声で存在を示せる。鏡や剣はずっと残るが、ニワトリは死んでしまう。新しいニワトリをもらい続けるのは大変で、「すごい」とわからせやすかったのではないか・・・・・今回の研究で唐古・鍵にニワトリのヒナがいたことがわかり、ここでは他の集落と違い、雌雄をそろってもらってきた可能性が高いという・・・・・弥生時代最大の集落である唐古・鍵だからこそ、ニワトリを雌雄で飼育することができたのかもしれない・・・・・。 ②<この記事(ミラー)より/太字は引用者による>日本列島で稲作が根付いた弥生時代、すでに養鶏も行われていたことが・・・・・科学分析で分かった・・・・・「唐古・鍵遺跡」(

  • 日本の建国神話

    【1】(従来の)日本の建国神話とは、記紀(古事記・日本書紀)に記された神々による日本の建国と神武天皇の即位の物語である。【2】(従来の)日本の建国神話の問題点(1)<この記事(ミラー)より>・・・・・神話である以上、歴史的な出来事(史実)ではないにもかかわらず、建国神話は事実として教えられ、ときには暴走を伴ってきた過去がある。そして、その過去は「教育勅語」をめぐる議論がくすぶり続けるなど、いまに至るまで決して一掃されていない。他方、『古事記』『日本書紀』の研究は、それらが成立した八世紀の政治情勢が投影されていることをあきらかにし、神話学も他の神話との比較をおこない、日本の建国神話を特別視しない。こうしたなか、あらためて建国神話に、いかに向き合うことが可能であるのか・・・・・そもそも根拠が薄弱な建国神話が、建前上「事実」とされ、筆禍事件などの「波紋」を引き起こし、「矛盾」をもたらす・・・・・建国神話が教科書に・・・・・に記述され・・・・・うに学校で教えられた・・・・・そして、一九二六年には建国祭が開始され、満州事変後には建国神話が「排除の論理」となっていき、戦争動員に利用される・・・・・また、オリンピックや万博の誘致・開催にも建国神話が「活用」された・・・・・このとき、「史実でない話」を、史実を話題とする教室で、史実として教えなければならない矛盾に直面する教師・・・・・建国神話を「民主的な愛国行事」に活用しようという動き・・・・・戦時体制のもとで書かれた『国体の本義』や『臣民の道』・・・・・「紀元二千六百年祭」・・・・・建国神話の解釈や活用、その影響・・・・・建国神話の強行に、虚構でも人びとに通用するはずである、という為政者の愚民観を見いだす・・・・・。(2)<この記事(ミラー)より> 天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)に降り(天孫降臨)、その曽孫である彦火火出見(ひこほほでみ)が紀元前660年に橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位した――『日本書紀』は以上のように建国の由来を語っている。王政復古の大号令から始まった明治政府、そして大日本帝国は『古事記』・『日本書紀』の建国神話を正統性の根拠とした。もちろん天孫降臨うんぬんがあくまで神話であることは、当時の日本人も理解していた。神話を歴史の教科書に載せるべきではないという意見が教育現場で公然と語られた。神武天皇の即位

  • 〇工藤隆「大嘗祭と天皇制」<抜粋>

    大嘗祭に戻る 天皇制/天皇の約束に戻る 参考文献等に戻る全文はこちら.pdf (太字・番号・< >は引用者による/・・・・・は省略部分)<語句の定義>天皇存在を、武力王(軍事行使力)、行政王(行政権限行使力)、財政王(財政力)など現実社会的威力の面と、神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面とに類別しながら分析する<185頁><皇室の特性> ・・・・・イギリス王室など西洋近代社会における王室の場合は、武力王・行政王・財政王(多くの私的財産を保持できた)として君臨していた過去を持っているのは普通だが、しかし、日本の皇室のように、神話世界(『古事記』『日本書紀』の高天原神話のような神話)に発する起源を語り、かつアニミズム系文化の呪術とも密接に結びついた過去を持っていて、しかもその神話王・呪術王の側面を1946年公布の民主主義憲法においてさえも継承して21世紀にまで維持している王室は無い<185頁> <万世一系>・・・・・「万世一系」は・・・・・明治政府による新たな“神話”の創出である<186頁> <男系継承・女系継承/女性天皇> ・・・・・〈古代の古代〉(縄文・弥生時代、古墳時代)・・・・・の時期には、男系(父系)と女系(母系系)が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていて、王位継承にもその性格は及んでいたと思われる。それに対して、500年代くらいには大王位の男系優位観念が出始め、さらに・・・・・700年前後の時期の場合には、古代中国国家の皇帝制度の模倣によって男系優位観念が一段と強化されたと考えられる。国家体制の強化のためには先進国家唐の皇帝の、男系男子継承主義を模倣するのが得策と考えられたのであろう。しかしその場合でも、女性天皇は、四一代持統天皇以後も、元明天皇(四三代、即位708年)、元正天皇(四四代、即位716年)、孝謙天皇(四六代、即位749年)、称徳天皇(四八代、孝謙天皇が重祚、即位 765年)、明正天皇(一〇九代、即位1629年)、後桜町天皇(一一七代、即位1762年)と登場したのであるから、唐の皇帝制度の模倣が強化されたあとでも、 〈古代の古代 〉以来の、女性リーダー 違和感を感じない伝統は生き続けていた<186頁>・・・・・しかし、明治22年(1889) に大日本帝国憲法が発表され、同年同日に施行された旧皇室典範の第1条、に天

  • 女神信仰

    生駒神話の小辞典に戻る(1)・・・・・縄文時代にはじまり、弥生時代を経て古事記・日本書紀の神話へと続く女神信仰・・・・・日本文化の本質・・・・・アマテラス大御神という女神を天上の最高神として位置づける日本の王権神話は、ギリシャ神話をはじめ、バビロニア・北欧・古代エジプトなど、男神を支配神として残忍な殺戮(さつりく)をくり返す他の王権神話とは違う・・・・・その理由として、女神信仰の深層心理には、対立があったとしても「一方が他方を排除したり抹殺したりせず(略)共存し共生することができる文化」があるからではないか・・・・・・。<「女神信仰と日本神話」(ミラー)より>(2)近代天皇制国家におけるアマテラス...

  • カミ・神

    生駒神話の小辞典に戻る 現代用語に戻る(1)カミ・神⇒隠れていて見えない「力」を古代人は「カミ」といった。それがのちに漢字の「神」が当てられ、人格化を通じて神格化されて神話の神となった。(2)(神話に登場の)神 ① 神々の総称いろいろ ②日本の神の一覧(リンク) ③ 日本の神々の特徴:〈人間をつくらない。既に人間のいる地上に降りてきて、人間のように暮らしはじめてしまう。そしていつの間にか天皇家の先祖の話とつながってしまう。神話と歴史のあいだに厳密な線が引けない。〉(日本語論より) ④「日本の神様 解剖図鑑」<ミラー> 左の文書より:日本には、物に宿る「付喪神(つくもかみ)」もおられる。(3)(民俗学の)神⇒「外部性」の力(民俗学でいう神/鬼)へ(4)関連 ①魂・霊・霊魂・霊的なもの・神・神的力(見えざる不思議な力)・物神 ②スピノザ・マルクス・〈霊として見られるほかないような「力」〉・天皇制/アニミズム**************...

  • 〈日本国憲法に触る(〈暴力=強制〉的に損ねようとする)者は破滅する〉という(法理的というより神話的)定理

    この文は、憲法9条・憲法前文の(9)として記載されたものです。神話は人々を一気に真実に導くアジテーションである(この記事の【1】ご参照)(1)〈#アジア太平洋戦争等の戦争で殺された日本やアジア・欧米の死者への弔いを背景に制定された、殺戮を戒める #日本国憲法に触る(一方的に物的に関わる=暴力的に損ねようとする)者は破滅する〉という(法理的というより神話的な)定理は言い換えると、〈死者への弔いを背景に制定された日本国憲法を憎悪するものは戦死者を冒涜することとなり、死者からの罰を受けることとなる。〉という(法理的というより神話的な)定理となる、 (2)この定理が正しいと実証されるのは次の場合。 ①改憲の是非を問う国民投票が強行され、改憲派が敗北し、#改憲阻止派が勝利する。 ②現在の日本において最も強硬に改憲を唱える「強硬団体」を背後に持つ元首相が死亡したぐらいで改憲を志向する勢いが弱化したという理由で、また、元首相を英雄化しその意志を受け継いで改憲しようというムードをつくることも目的とする国葬が強行されても国葬反対の声が大きい等のためその目論見がはずれたという理由で、など、何らかの理由で国民投票が実現できない。 ③改憲4党が国民投票を強行をせんとするが、公明分裂などの理由で結局は断念。(3)60年安保闘争のとき全国から結集した政治運動勢力(野党、学生運動、戦闘的労働運動)が国会を包囲した。このとき、政府は自衛隊を出動させて鎮圧せんとしたが、政治運動勢力はそれを阻止した。国家権力の「武力的強制力」 の行使を政治運動勢力の「非権力(言論)闘争」 に支えられた広範な「非武力的強制力(立法府包囲・デモ等)」 が抑えたのである。こうして、違憲の安保条約の改定強行により憲法9条・憲法前文を暴力(強制)的に損ねた岸内閣は打倒された(崩壊した)。これは、このが正しいことを実証しているのはないか。(4)この定理は正しいと予測させる事象 ③自民・安倍派ついに崩壊危機!<ミラー> ②<この記事(ミラー)より>夏の参院選の遊説で岸田文雄首相はどんな「単語」を多く使っていたのか・・・・・自民党が公約で掲げたものの、演説でほぼ言及しなかったのが「憲法改正」。発言は全期間で5回にとどまった。ところが、投開票翌日の11日に開いた記者会見で、首相は「憲法改正は結党以来の党是。国会での議論をリードしていきたい」と強調した。だとするなら、街頭でも正面から

  • 神話・伝承

    (1)〈より根源的なところで人間を動かしているのは歴史でも政治的イデオロギーでもなく、古代から語り継がれてきた神話であり、民間伝承である。〉(この記事<ミラー>より) これによると、憲法9条を制定せしめたのは、大和王権によって「神武東征神話」に改ざんされた形で日本人に語り継がれてきた生駒を舞台とする神話(生駒の神話)である。<憲法9条・生駒の神話・ウクライナ侵略戦争、そして、縁起の法より>(2)〈現代のさまざまな物事が、おそらく無意識の内に神話とつながっている。 〉(この記事<ミラー>より)(3)神話・伝承など言い伝えをもとにイマジネーションを加えることで真実・真理が見えてくる。ポスト真実(post-truth<ポスト・ツゥルース>/世論の形成において事実や真実が、感情や個人的信念への訴えかけより影響力に欠けている状況/事実や真実が重視されなくなった時代)の時代を突破する鍵は神話・伝承にある。 (4)現代人にもプログラムされている神話的思考 ・・・・・世界の歴史を考えた時、ヨーロッパはいち早く合理的で科学的なものの考え方に突入した地域です。けれども、そうしたヨーロッパやアメリカでも医科大学のエンブレムにはみんな蛇を使っている・・・・・こんな近代医療が発達しても、人を救うお医者さんだとか製薬会社といったところのマークにはほぼ100%と言ってもいいほど、蛇が使われています。日本の医科大学も・・・・・ほぼことごとく蛇のマークを使っています。それは蛇が死なないものの存在だからです。これだけ科学が発達したとしても、私たちは最後に月、水、あるいは蛇といった死なないものに頼っているんだということを知るべき・・・・・日本に限らず、世界中の人たちがまさに月、水、蛇といった神話的世界観の中でまだまだ生きている・・・・・神話的世界観というのは、自分たちホモ・サピエンスの脳の中に遺伝的にプログラミングされたもの・・・・・縄文人は敢えて合理的なものの考え方をしないで、神話的思考をして暮らそうと決めた人たち・・・・・人間が人間であるためには合理的思考だけではダメ・・・・・神話的思考とちゃんとバランスを取ることが、何よりも私たち人類にとっては必要・・・・・この先、人類が滅亡するとしたら多分間違いなく神話的思考をなくした時・・・・・。 (*)参考・・・示唆に富む資料・言葉 **************...

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  • 生駒神話と憲法9条

    生駒神話が描く国譲り神話は、世界に類を見ない「戦いを否定する神話」であり、侵略についての解決の道を示している神話といえます(生駒の神話と現代ご参照)。生駒神話に見られる日本人の、「何より命を大切にし、知恵により争いを解決せんとする「戦いを忌避する精神」は、世俗権力が戦い・戦争を繰り返す時代には抑え込まれてきましたが、多くの内外の人々が殺戮された先のアジア太平洋戦争を経てよみがえり、戦後日本人の集団的無意識となりました(戦後日本人の戦争忌避精神は集団的無意識ご参照)。この精神が、憲法9条を日本に根付かせ、戦後の改憲(憲法9条廃止)の動きを抑えてきました。また、戦争法制定に際しての広汎な反対運動を引き起こしました。2015年9月19に戦争法は強行制定されてしまいましたが、この精神の集団的無意識は粉砕されたわけではなく、いずれ、「何より命を大切にし、知恵により争いを解決せんとする戦いを忌避する精神」の集団的無意識が戦争法を粉砕するでしょう。**************...

  • 神話

    生駒神話の小辞典に戻る 現代用語に戻る(1)・・・・・より根源的なところで人間を動かしているのは・・・・・神話であり・・・・・、現代のさまざまな物事が、おそらく無意識の内に神話とつながっている・・・・・。<憲法9条・憲法前文より >(2)(1)のことに人々(特に若い人)が気づき始めたことが、単なる物語りではなく、「神話を背景とした物語」あるいは「神話的な物語」をヒットさせている。以下、そのことが分かる事柄。 ①「君の名は。」新海誠監督が凱旋講演会<ミラー> ②『鬼滅の刃』『天気の子』のルーツは神話にあった?<ミラー> ③これは物語ではなく神話であるーー宮台真司が『進撃の巨人』を称賛する理由<ミラー> ④「風の谷のナウシカ 」のアシタカがナガスネヒコ、「千と千尋の神隠し 」のハク(ニギハヤミコハクヌシ)がニギハヤヒ、をそれぞれモデルにしているとされている。************** ...

  • v1 BU

    v1(神話)jpg「15.jpg」をダウンロード「14.jpg」をダウンロード「13.jpg」をダウンロード「12.jpg」をダウンロード「11_1893.png」をダウンロード「10.jpg」をダウンロード「10.jpg」をダウンロード「09.jpg」をダウンロード「09.jpg」をダウンロード「09.jpg」をダウンロード「08.jpg」をダウンロード「08.jpg」をダウンロード「08.jpg」をダウンロード「07.jpg」をダウンロード「07.jpg」をダウンロード「07.jpg」をダウンロード「07.jpg」をダウンロード「06.jpg」をダウンロード「06.jpg」をダウンロード「06.jpg」をダウンロード「06.jpg」をダウンロード「06.jpg」をダウンロード「05.jpg」をダウンロードv1(神話)pdf「16.pdf」をダウンロード「14.pdf」をダウンロード「13.pdf」をダウンロード「12.pdf」をダウンロード「112.pdf」をダウンロード「112.pdf」をダウンロード「112.pdf」をダウンロードダウンロード - 10e6aebae688ae.pdf「10.pdf」をダウンロード「09.pdf」をダウンロード「09.pdf」をダウンロード「08.pdf」をダウンロード「07.pdf」をダウンロード「06.pdf」をダウンロード「05.pdf」をダウンロード「04.jpg」をダウンロード「03.pdf」をダウンロード「02.pdf」をダウンロード「01.pdf」をダウンロード修正分⇒「2.pdf」をダウンロードダウンロード - 1e7949fe9a792e381aee7a59ee8a9b1efbc88e59bbde8adb2e3828ae7a59ee8a9b1e381a8e995b7e9ab84e5bda6e7a59ee8a9b1efbc89efbc9ce6a682e8a681efbc9e.pdf「1.pdf」をダウンロード ...

  • V! BU

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  • 旧くさえ坂駅

    クサカ(草香・日下)・孔舎衙(クサカ)の坂・草香山(饒速日山)に戻る(1)神武東征伝承に記載されている古戦場の「孔舎衛坂(クサエのさか)」の衛は衙の誤字といわれている。従って「孔舎衙坂(クサカのさか)」が正しく、駅名にはかつて孔舎衛坂駅はあったが、実際にはクサエの坂という地名は存在しない。<進藤 治「縄文言語からのアプローチ 『長髄彦』の実像」.pdfご参照> 近畿日本鉄道も混乱していた⇒「孔舎衙坂」表記の切符<→(このページより引用)>と「孔舎衛坂」表記の切符<→(このページより引用)>の2つを発行していた(読みは、両方とも「くさえざか」)。(2)いろいろな意味で興味深い駅。 ①孔舎衛坂(正しくは孔舎衙坂)は生駒の神話の舞台。 ②くさえざか駅は孔舎衛坂駅とも孔舎衙坂駅とも表記されたが、もともとは日下(くさか)駅で、鷲尾駅と改称され、最終的にくさえ坂駅となった。もともとは日下(くさか)駅だったのだから、最終的にも「孔舎衙(くさか)坂駅」にすべきだったのだが、なぜか、そうはならなかった。なお、近隣の学校名は、孔舎衙小学校・孔舎衙東小学校・孔舎衙中学校。 ③この駅の名称も変遷があるが、駅自体の変遷にも歴史がある・・・ご参照(ミラー)<リンク> ④この駅は、生駒山越直行の道(旧くさえ坂駅~生駒駅)の西の出発点。**************...

  • 富来隆(とみくたかし)

    (1)略歴<(2)の奥付による> 大正七年東京に生まれる。昭和十七年九月、東京大学文学部国史科を卒業し、史料編纂所員となる。戦後しばらく大分県臼杵高女に奉職し、ついで東京大学文学部大学院に入学。二十四年、父の死に会して、大分師範教授に奉職。ついで大分大学助教授となり、現在同教授(教育学部、社会学担当)。著書・論文としては、『社会経済思想史-物神性-』『邪馬台・女王国』などのほか、「日本史における地域性-西船・東馬-」「古代社会における聖地」「丹生・旧石器」「「海部考」「「社会理解の方法論的基礎」「など多数。いずれも、歴史社会学を指向したもの。(2)著書 「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf 」 この著書に「金色の鵄は、本来は登美彦のトーテム―生駒山の山ノ神-」という画期的な論考が銘記されています。(3)論文 「古代社会におけるトビとカリ」 ①「生駒史誌」からの抜粋 ②全文 参考 神話の鳥と蛇を追って*******...

  • 憲法9条

    (1)〈より根源的なところで人間を動かしているのは歴史でも政治的イデオロギーでもなく、古代から語り継がれてきた神話であり、民間伝承である。〉(この記事<ミラー>より)これによると、憲法9条を制定せしめたのは、大和王権によって「神武東征神話」に改ざんされた形で日本人に語り継がれてきた生駒を舞台とする神話(生駒の神話)である。<憲法9条・生駒の神話・ウクライナ侵略戦争、そして、縁起の法より>(2)...

  • イワレヒコ

    生駒神話の小辞典に戻る・神武東征 ・弁証法で読み解く「イワレヒコの高貴な精神の獲得」**************...

  • 金の鵄(金鵄)はニギハヤヒの神話的表現

    困った時には弁証法に戻る 生駒の神話の主人公は3人である。ナガスネヒコ、イワレヒコ、ニギハヤヒ。うち、ニギハヤヒは、これまでどうも影が薄い、といわれてきた。(1)それは、彼が何者かを十分にとらえていないからだと思い、弁証法を発動して、彼が何者かをつぎのようにとらえた。 縄文人の指導者ナガスネヒコは「非戦・避戦の精神」を本然の性としていた(本然の性とは持ってうまれたものであり、それが大切なものだという認識はナガスネヒコにはなかった)<テーゼ>→「非戦・避戦の精神」を本然の性とはしていない前期弥生人の指導者ニギハヤヒが、渡来してナガスネヒコと相対した<アンチテーゼ>→両者の対立・矛盾の統合・統一・相互浸透が展開されてアウフヘーベン(ステップアップ)が起こり<ジンテーゼ>が導き出された。つまり、ニギハヤヒは「非戦・避戦の精神」(殺戮しない・できないこと)こそ異なる人間が共に生きる上での絶対条件であることを悟り、ナガスネヒコはそれが大切なものだと認識した。(2)こうして「非戦・避戦の精神」(殺戮しない・できないこと)こそ異なる人間が共に生きる上での絶対条件であることを悟ったニギハヤヒは、ナガスネヒコが侵略(殺戮によりことをなそうと攻め込んでくること)してきたイワレヒコを、怒りのあまり本然の性を喪失し「非戦・避戦の精神」が大切なものだとの認識を忘れて殺戮せんとしたとき、それを諫め停止したのであるが、神話では、ニギハヤヒは金の鵄とび(金鵄きんし)となってナガスネヒコを打ちのめしたと表現されている。**************...

  • 敬宮愛子(としのみやあいこ)内親王の女性天皇への道は切り開かれるか

    天皇制に戻る 戦後天皇家の「生命・環境・人権よりも経済・軍事・統制を優先する」動きとの闘いに戻る<資料>〇・・・・・基本史料である日本書紀が・・・・・編纂(へんさん)された8世紀は、中国から父系(男系)制度が公的に導入された直後でした。中国に合わせる政治的必要があった・・・・・そのため書紀は、実際にはそれまでの日本は父系の継承も母系の継承もある「双系」社会だったのに、皇位が一貫して父系で継承されてきたように記しています・・・・・。<この記事(ミラー)より)><経過>【22.3.28】成年会見で示した強さと賢明さ.pdf【22.3.17】敬宮愛子内親王は、その20歳の記者会見(下記はその一部引用)を聞くと、「天皇の約束」を自覚していることが分かる。ここから、現天皇は敬宮愛子内親王は次期天皇となるべき資格を持つとみなしており、内親王も即位するとの意思を持っていると判断できる。からして、敬宮愛子内親王の即位を妨害するものは、〈・・・承久の乱の時の・・・北条義時・泰時・・・の奇妙な例外を除くと、天皇や朝廷に反抗して政治的に生き延びた者は、日本史の中には誰もいない・・・天皇制 より〉より考えてみれば、政治的に敗北する。 〈記者〉・・・ウクライナの多くの方が犠牲を強いられ、核の脅威にさらされている・・・〈内親王〉・・・私は中学3年生の時に広島を訪れ、原爆ドームとそれに併設する平和記念資料館を訪れましたが、そのときに見た、その、目を覆いたくなるほどのとても凄惨な、凄惨なその、光景を今でもはっきりと覚えております。そのときに平和の尊さを改めて強く感じまして、私は今でも平和への強い願いを持っております・・・。<この記事(ミラー)より> なお、もう一方の次期天皇(または次々期?)候補の悠仁親王は、「皇族特権、“裏口”ルート」なる批判を受け(ご参照<ミラー>)、天皇となるべき資格を早くも失ったと思われる。【20.9. 1】国連次長が感動した愛子さまの作文「平和は人任せにしない」<ミラー>【16(H28).10.17】有識者会議の初会合は、 天皇が「お気持ち表明」(ご参照)の中で女性・女系天皇の即位容認と女性宮家創設を求めていると思われるにもかかわらず、小泉政権時代にも検討された女性・女系天皇の是非は論議の対象から外すことにした(報道記事)。 これでは、いつまでたっても、皇太子妃・愛子内親王は、自己のアイデンティティ(自分は将来

  • 憲法9条・生駒の神話・ウクライナ侵略戦争

    (22.4.8 記)〈より根源的なところで人間を動かしているのは歴史でも政治的イデオロギーでもなく、古代から語り継がれてきた神話であり、民間伝承である。〉(この記事<ミラー>より) 憲法9条を制定せしめたのは、大和王権によって「神武東征神話」に改ざんされた形で日本人に語り継がれてきた生駒を舞台とする神話(生駒の神話)である。 生駒の神話はいう。侵略者といえども殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)してはならない。殺戮を惹起しない非武力的方法で、侵略を撃退せよ。それが叶わぬときでも、あくまでも非武力的方法で侵略行為をやめさせよ。具体的には、(無条件降伏でなく、条件付き)降伏し、和平協議にて平和(殺戮が起こらない状態)を実現せよ。かつて、弥生人が海のかなたから侵略してきたとき、縄文人は苦悩しながらかかるやりかたで問題を解決した。その結果生まれたのが、縄文人の本然の性である「非戦・避戦の精神」を属性とする存在である。(その存在は、今日、天皇と呼ばれている。) 願わくは、ウクライナは生駒の神話が伝えてきたやり方(=憲法9条がいうやり方)をとってほしい、つまり、条件降伏し、和平協議によって平和条約を締結することで平和を実現してほしい。条約の内容は。①ウクライナはNATOに加盟せず中立国となることによって永久にロシアに脅威を与えることはしないと約束する。②そのかわり、ロシアは永久にウクライナに脅威をあたえず、侵略しないことを約束する。 今ウクライナは湿季で地面がぬかるんでおり、ロシア軍は進撃をとめ次に向けて体制を整えている。そして、4月下旬に乾季となって地面が乾くのを待って、国民の高い戦争支持を背に、一気に全面侵攻を断行せんとしている。もしそうなれば、ウクライナは、いつまでも降伏しなかったために無条件降伏に追い込まれた大日本帝国と同じ運命をたどることになる。これは、最悪事態の想定である。 ウクライナと大日本帝国とを同じにするな。前者は一方的に侵略され、後者は一方的に侵略したのであって、前者は降伏してはならない。という意見もあるが、しかし、ウクライナは、そもそも、非武力的方法で侵略行為をやめさせようとした努力が弱かった。つまり、ロシアの侵略を防ぐために「NATOに加盟せず中立国となること(戦争の原因となる軍事同盟を否定すること)」をロシアに伝えず、逆に、「NATOに加盟する」こともあるかのような態度をとり続けた。これは、ウクラ

  • 物語り

    「物語り」とは、様々な出来事と関係しあうネットワークの中に存在している、「私たちはどんな未来へと進んでいくべきか」という思いが反映されている「実在」のこと。それは、「唯一無二の真実の歴史」ではないが、「物語=虚構」ではない。<以下、この記事(ミラー)からの抜粋/太字は引用者による> ・・・・・「物語り」とは、過去のさまざまな史料や出来事同士の関係性、結びつきのことだ。古戦場を訪れても、私たちが目にするのは草木の生い茂る野原だけだ。しかし、そこから出土する武具や人骨、残された文書や絵画などを相互に関係づけることで、私たちは過去の戦いの「実在」を確信できる・・・・・歴史的出来事は単独で存在しているわけではなく、ほかの様々な出来事と関係しあうネットワークの中に存在している。その相互関係のネットワークを「物語り」と呼べば、歴史的出来事の存在は物語りの文脈に依存し、それに支えられている・・・・・歴史的出来事が「実在した」と認められるには、他の出来事や史料と整合的であることが求められる。それが虚構である「物語」との決定的な違い・・・・・「ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)はなかったという新たな証拠を見つけた」と主張する人がいたとしても、部分的な証拠では、膨大な史料から専門家集団が築き上げた、歴史のネットワークの中で根拠づけられた「ホロコーストの実在性」は覆せない。織物の中にほつれた糸が何本かあっても、全体の図柄は変わらないのと同じ・・・・・都合のよい史料や出来事だけを継ぎ合わせた主張が「歴史」の名に値しないのは当然です。と同時に、いかに史料と整合的であっても「唯一無二の真実の歴史」なるものも、実は存在しません・・・・・歴史には紡ぎ手の「私たちはどんな未来へと進んでいくべきか」という思いが反映されているからこそ、意味があります・・・・・。**************...

  • 古代倭国(日本)の通史・・・3世紀の邪馬台国から、6世紀の欽明大王まで

    <全文.pdf> ・・・・・3世紀の邪馬台国から、6世紀の欽明大王まで・・・・・古代倭国(日本)の通史・・・・・多くの史書が、時代を下った8世紀に編纂(へんさん)された日本書紀の、天武朝の正統性強調を意図した記述の解釈にばかり深入りしがちなのとは、真逆のアプローチ・・・・・の分析・・・・・邪馬台国の勢力圏は北部九州限定だった・・・・・魏志倭人伝にある卑弥呼の勢力圏は29カ国であり、近畿から北部九州までの広い領域に対応するものではない・・・・・大和盆地では、3世紀の後半に纏向(まきむく)遺跡(桜井市)を拠点とする勢力が勃興し、箸墓古墳を残す。しかしそこから北に6キロも離れていない布留(ふる)(現天理市)には、百済から七支刀を得るなどしていた、別の勢力があった。4世紀になると纏向の勢力は、奈良盆地北部(現奈良市)や大阪平野(現藤井寺市)にも拠点を築くが、その拠点同士が古墳の大きさなどを競い合う。つまり諸勢力を統一する大きな王権はまだなかった。 5世紀には、「倭の五王」が南北朝時代の中国の宋に朝貢する。そのうち讃(オオサザキ=仁徳天皇)と珍は上町(うえまち)台地(現大阪市)に拠点を置いて百舌鳥(もず)古墳群(堺市)に葬られ、済は飛鳥(現明日香村)、興は布留、武(ワカタケル=雄略天皇)は初瀬(現桜井市)を拠点とした・・・・・だが同じ5世紀には、奈良盆地南西部(現御所市)に「かづらぎ」の王がおり、現在の岡山県、群馬県、宮崎県などにも大規模な古墳が築かれていた。つまり畿内の覇権は拠点を異にする諸勢力の間で動き、列島各地にも王がいた。彼らは銅鏡や鉄剣などの威信財の贈与や、前方後円墳を巡る儀礼などを通じて、相互に連合や同盟を結んでいた・・・・・6世紀になると、みしま(現淀川流域)に拠点を置き、コシ(現福井県)、オウミ(現滋賀県)、オワリ(現愛知県)などの勢力の支持を得たオオド王(男大迹王=継体天皇)が、ヤマトにも勢力を浸透させて、キ(現和歌山県の紀の川流域)を牽制(けんせい)しつつ、ツクシ(現福岡県)の王の磐井を屈服させる。その死後にはまた混乱があるものの、朝鮮半島西南部から渡来し飛鳥を開発して勢力を築いた蘇我氏が、オオド王の子の欽明大王を迎え入れ、畿内から北部九州の間の諸勢力の上に乗っかる王権を確立していく・・・・・万世一系神話を脇に置き、物証からの考察から入れば、このように生産力開発をバックにした権力者たちの生々しい歴史が浮

  • 大澤真幸「天皇制の謎と民主主義『基盤装置』の危うい未来」

    <全文> <作成途中>天皇はー制度としての天皇はー謎である。天皇制はなぜあるのか。何のためにあるのか。日本人は、それを明晰に説明することはできない・・・・・天皇制の歴史を振り返ると、謎が幾分かは小さくなるだろうか。逆である。謎は深まるばかりだ・・・・・ 日本の歴史を振り返ってみると、その大半の期間において、天皇や朝廷は、たいした機能果たしていないように見える。一見、ほとんど無用である。 それどころか、ときの最高権力者にとって、天皇制は、ないほうがよい障害物だったのではないか、 と推測したくなる期間が実に長い・・・・・武家政権は、天皇制を完全に打倒し、撤廃することもできたように見えるのに。そうはしなかったーそうできなかったのだ・・・・・ これほど無用に見えるのになお日本人がそれを棄てることができないのだとすれば、日本人は天皇制をよほど必要としてきたのだ・・・・・天皇制のもうひとつの顕著な特徴は 直属の軍隊を持たないということである 古代の天皇は 直接的に納品しよる軍事力を持っていた しかしある時期平安時代のごく初期行こう 天皇は 軍事力とは切り離された 軍隊とのこのような無関係という伝統は 今日の天皇制にも受け継がれているもちろん現代の象徴天皇が軍隊 自衛隊 から切り離されているのは 直接的には 大日本帝国憲法の下で 天皇が 統帥権を持っていた ことに対する 安静からである が今述べたようにむしろ 天皇自身が 軍隊の最高 指揮権を握っていた 天皇以降の体制は天皇制の歴史にとっては例外である 軍隊から切り離されている戦後の天皇は 天王星の状態への復帰 日本国憲法 によれば 天皇は 象徴である 日本国と 日本国民統合 の象徴だ と だが これが 何を意味しているのかは確定できない どこにも 明確に 規定されていないからだ 鹿橋 戦後天皇制は 日本の政治に対して ある重要な機能を果たしていた 天王星が 民主主義が可能であるための最小限の条件を整えた 振り返ってみると 敗戦後の 反省金雀 は天皇は天皇制に対する 批判や反対を公然と視聴できた 日本市場 唯一の期間であろう日本史には一つの法則がある 天王家 朝廷の敵とみなされたものは必ず政治的な歯医者になるのだ 天皇 競艇の 全面的な適当ないながら なお政治的に生き延びたケースは たったひとつしかない 承久の乱の時の関東節 北条義時泰時 に率いられた鎌倉 の武士勢力が その唯

  • 寺沢薫著「弥生国家論―国家はこうして生まれた」~部族的国家は九州北部から/他との差別化の幻想 統合を促す~

    「生駒の神話」のストーリー【解説付版】に戻る 国家=権力に戻る 〈「国家=権力」とは何か〉にかかる3つの宿題に戻る【1】<全文(ミラー)> ・・・・・弥生時代をやる以上、国家論は避けて通れない・・・・・まず紀元前の北部九州で最初の国家形態である「部族的国家」が生まれた・・・・・中国の史書、漢書地理志にいう「百余国」のごときものが集散離合を繰り返して「部族的国家」ができ、やがて魏志倭人伝や後漢書倭(わ)伝が「倭国」と呼ぶものに発展していく・・・・・その生成メカニズムは?・・・・・在野の政治学者、滝村隆一が主張した「外的国家」という対外的な視点(引用者:ご参照 )を援用(引用者:半世紀前に唱えられた論の再発見ではないか!これに驚いた人も多いのではないか!あ!待てよ。これは再発見ではなくて、寺沢さんは、この論が提唱されたときからこの論に注目されていたのだろう!) 。人々の集団が一体感を通して共同体へのまとまりを促すのは、自分たちの仲間と他との差別化という共同幻想であり、その過程で政治的行為である「戦争」が発生し、それがより広い統合と階級分化や支配・被支配関係を進める・・・・・弥生時代の日本列島内には自他を区別しようとする個別集団が各地にある一方、海を隔てては中国・漢王朝という巨大な外圧が存在した。なかでも、いくつもの部族的国家がひしめき最も外圧を受けやすかった北部九州で、まず国家成立のプロセスが急速に進んだ――。言い換えれば、国家への胎動は北部九州で始まっ過酷な闘争を繰り広げてまとまっていった北部九州に比べ、もうひとつの弥生文化の中核、近畿社会は祭祀(さいし)や経済でゆるやかにつながる広域コミュニティーだった。だから大和政権の前身となる強力な勢力は見当たらず、〈卑弥呼の共立は北部九州や出雲地方、吉備をはじめとする瀬戸内沿岸部を加えた有力勢力による合議の結果だ〉(引用者:〈 〉の部分はやや強引ではないだろうか?)・・・・・その舞台こそ纒向の地であり、ここを都とした大和政権へとつながっていく・・・・・もちろん、これも数ある国家誕生論のひとつ・・・・・国家の起源を語るとき、多かれ少なかれエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』が影響を与えてきたが・・・・・『起源』は「外的国家」の視点を捨て去った“欠点”がある。にもかかわらず、いまなお呪縛は残る。それと決別することで(引用者:これは言い過ぎではないだろうか?) ・・・・

  • 弁証法で読み解く「天皇制の起源」(弁証法の活用による、天皇制の起源を伝える生駒の神話の復元)

    弁証法とは 弁証法の活用(2-1)に戻る 天皇制に戻る 正〈ナガスネヒコ=殺戮を知らない存在〉(ナガスネヒコが生きた殺戮がないところでは、ナガスネヒコの本然の性である「非戦・避戦の精神」は無価値なものであった〉ー反〈殺戮できるし、する存在であるイワレヒコが正と衝突し、正を「否定=殺戮」しようとした〉ー金の鵄とび(金鵄きんし)(ニギハヤヒの神話的表現とも考えられる)が飛来し、または、ニギハヤヒがが登場し、ナガスネヒコがイワレヒコに反撃してそれを殺戮せんとするのを阻止した、のを契機に合が実現し、正と反が合わさった。つまり、イワレヒコは、ナガスネヒコの意思を受け継いでいくことで、殺戮などしないで平和な国づくりをする存在である天皇に上昇して初代天皇神武として即位し、「非戦・避戦の精神」は最大価値を持つものにアウフヘーベン(ステップアップ)した。 なお、日本書紀に記されている金の鵄とびは「非戦・避戦の精神」が見える化したものである(戦前の軍部は金鵄勲章なるものをつくって、それを正反対のものとした。つまり、記紀がナガスネヒコを賊としたのと同様の改ざんである)。 また、「天皇制の起源」 を弁証法で読み解くことは、 大和王権という国家(殺戮をもいとわない強制力による統治機関)により改ざんされていた生駒の神話を弁証法を活用して復元することである。 国家(=権力)は疎外物である。疎外とは「よそよそしい」ということで、人間がつくったものでありながら、人間にそよそしくなり時には歯向かうこともある、ということである。この権力が殺戮しないように制御する(縄文時代の「非戦・避戦の精神」を継承する)ために成立したのが天皇制である。そのため、殺戮を属性とする権力と「非戦・避戦の精神」を属性とする天皇とは対抗関係にあった。日本の歴史において、多くの時期は前者が後者を抑えてきたが、時には、それが逆転することもあった(その事例が、「非戦・避戦の精神」に記載)。「左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった」「斉明天皇崩御にあたっても(中大兄)皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津を司令官に任命して全面的に支援した」(いずれも白村江の戦いより/太字強調は引用者)も、この文脈でのことである。殺戮を属性とする国家(=権力) が消滅するとき、天皇制もその役割(ナガスネヒコがイワレヒコに国譲

  • BU

    (1)この道は、神話の山である生駒山の東麓にある生駒駅と同じく西麓にある旧孔舎衛坂くさえざか駅を、生駒山北嶺(生駒山上から北へ続く尾根と峰)を越えて、直行で結ぶ道です。生駒駅を発して旧孔舎衛坂駅に向かう場合は「生駒駅から旧孔舎衛坂駅へ 直行の道」、その逆の場合は「旧孔舎衛坂駅から生駒駅へ 直行の道」となります。 (2)直行で結ぶということは最短で結ぶということで、この道は「生駒山越え一本道」とも呼べます。この道の東部(生駒駅から生駒山北嶺まで)はほぼ一直線、西部(旧孔舎衛坂駅から生駒山北嶺まで)は直線ではない部分がいくらかあります。(3)全行程において、公認ハイキングコースの各一部も含み (西部での、東大阪市のあけびの路・まつかさの路・すぎこだちの路・くさかハイキング道、東部ではない)、また、それ以外の歩き良い道もありますが、気軽には歩けない道(一方が崖の狭隘な箇所、人の歩くのが少なくなると笹が生えそうな箇所、急峻で歩くというよりも這い上がるずり降りるといった方がよい箇所、などがあり)が多いです。ですが、要所要所にはテープマーイング(テープによる道標)があり、また、2020年12月の現在ではよく踏み固められており、迷うことはないでしょう。幅の広い道と幅の狭い道へとの境(入り口・登り口・降り口)が分かりづらい箇所もありますが、そこには必ずテープマーキングがあるので、最初は、冒険の一種であるルートファンディング(どういけばよいかを探る・見つける)を楽しむ感覚で探り見つけてください。必ず見つけられます。(4)この道は、かつての「近鉄高圧鉄塔 生駒山越線(生駒山越送電線)」に沿った道です。この線は役割を終え廃線となっていますが、下記の、この道の「概念図」の地図(国土地理院地図)にはまだ記載が残っています。「概念図」の地図に東西に走っている線がそれで、その線に沿って東西に延びているのがこの道です。かつてこの線に沿って巡視路があり、この道は、「今も保全されている、または残存している巡視路」「消滅、または消滅しかかっていた巡視路を復活整備した道」「巡視路はこの辺りを通っていたと見なして整備された道」からなります。また、この線にそって通称「近鉄マーク石標」<写真.jpg(このページより)>が設置されましたが、この道の通り道や側部に今も見ることができます。東部では51カ所でみることができ、2個いち(数メートル離れてペアで設置)と思

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    お断り:2019年3月19日にココログが全面リニューアルされました。それにより、スマホでは見やすくなったかもしれませんが、パソコン画面では字が小さくなるなど見にくくなってしまいました。リニューアルに対応するよう努めていますが、それが不十分な点がありましたらご容赦ください。 ご訪問、ありがとうございます。このHPは、「生駒の神話研究会」(連絡先)の公式HPです。右のカテゴリー(これが表示されない時⇒ここをクリック)よりお入り下さい。通読される場合は下へお進みください(下へ進めない時⇒ここをクリック)。書き足しを重ねています。その際、新しい記載と古い記載との齟齬は修正するように努めていますが、記事の量の増加により、それが出来ていない場合もあるかと思いますがご寛容ください。<このHPまとめの記事> ~このHPは書き足すうちに大量の情報が載るものとなってしまいました。すべての情報をお読みいただくことは時間がかかります。お時間のない方にもお読みいただきたいものとしてこのまとめの記事を記載いたしました。~(1)「生駒の神話」とは、生駒を舞台にした神話です。生駒を舞台にした神話には、いわゆる「神武東征」と呼ばれているものがありますが、日本書紀に書かれたその神話の内容の概略は、次の通りです。 九州にいたイワレヒコは、ニギハヤヒが治めている内うちつ国(生駒山の向こうにある日本の中心/現在の生駒から奈良盆地)を奪うために、瀬戸内海を東に向かい難波の海の東海岸に上陸して生駒山を越えようとした。しかし、ニギハヤヒの盟友であるナガスネヒコによって撃退された。東に向かって進軍したのは太陽に逆らうことになったので敗退したと考え、迂回して太陽を背にして侵攻せんとした。迂回の先々で、先住民を殺しながら、内うちつ国に到着し、再度ナガスネヒコと会い見えたが、今度も苦戦した。そのとき、金色の鵄が突然に飛来して閃光を放ってナガスネヒコをして戦わさせなくし、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺害して国を譲ったので、イワレヒコは内つ国を手に入れ、神武天皇として即位できた。 この神話は、一見するだけだと、次のように疑問の多いものとなっています。 ①古代の日本人は、他者が暮らしている国をかってに奪うことを肯定していたのか。 ②古代の日本人は、 先住民の生存権を認めていなかったのか。 ③古代の日本人は、 盟友を裏切る行為を肯定していたのか

  • 「生駒の神話」のストーリー(骨子)【解説付版】 <初版 2020.4/随時改訂>

     【解説付版】でない方(新情報を反映した改訂はなく、作成当時のまま)お断り:このページは、新情報を反映した改訂を随時に行なっております。そのため、「生駒の神話」のWEBページの他の箇所と整合性のとれない記載がある場合は、このページの記載が最新のものであります。(図版はクリックで拡大できます。)<生駒の神話が生まれた時代とその舞台> ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。 ② その舞台⇒右地図ご参照 ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。 ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。 ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。<(記紀により作り変えられる前の)「生駒の神話」の概要> 「あとから海の向こうからやってきた者たち」は、「以前に海の向こうからやってきて元から住んでいた者たちと共に暮らしていた者たち」とは違って狂暴であった。「元から住んでいた者たち」は侵入せんとした狂暴なる者たちをいったんは「殺戮」することなく撃退した。しかし、狂暴なるものは、再度、侵入せんとした。元から住んでいた者たちは動揺し対応をめぐり分裂した。彼らにとって弓矢は命を得るものであって命を奪うものではなく武器はなかったし、そもそも「殺戮」ということを知らない人々であったが、狂暴なるものを前にして「殺戮」というものを知り、それにより狂暴なる者たちを撃退しようと主張する男たちが現れた。もちろんそれに反対しあくまで「殺戮」 すること

  • 生駒の神話のストーリー

    【1】これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)。【2】【1】の枠組みに沿って打ち出した生駒の神話のストーリーの骨子 ①生駒の神話のストーリーの骨子の改訂版(最新版) ②①の【解説付版】  ③改訂前のものを生駒検定<全国版>の第1問の問題文としています⇒そのWEB版/その文書版.pdf 【3】【1】の枠組みに沿ってとりまとめた青写真⇒「生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>.pdf (一分改訂予定)【4】生駒の神話のストーリーの背景⇒邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 【5】各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に『新編 生駒の神話』を創作中。 【6】ストーリー各種(1)石切劔箭神社の由緒 (2)歴史街道・人物往来<神武天皇>: ①.jpg / ②.jpg / ③.pdf (3)いこま歴史探訪 神話の里生駒-長髄彦伝説‐<→その一場面(左が長髄彦軍 ・ 右が神武軍)<クリックで拡大> **************...

  • 『新編 生駒の神話』<創作途中>

    ~『新編 生駒の神話』とは各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」を原案に、文献リテラシー(※)を用いて、これらの立脚点に立ち、これらの留意点を踏まえ、これらの資料を根拠に設定した「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)に沿って、生駒の神話(国譲り神話と長髄彦神話)<概説>を青写真にし、これを骨子にしてとりまとめ創作したものです。~ (※)リテラシー・・・適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現し、その真意を把握する力。 (1)饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より)・・・この部分は添削する。 ①天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕

  • 解 説

    『新編 生駒の神話』についての解説 【1】この昔の物語の名前 (*)昔の話の呼び方には、説話・民話・昔話・伝説・伝承・神話・俗話・寓意などがあり、それらを基にしながら創作した話は、新訳・新編・翻案・訳編などといいますが、取り敢えず、『新編 生駒の神話』といたします(今後、変更することがあるかも知れません)。  【2】この物語を記すにあたって依拠・参考にしたもの⇒参考文献等ご参照【3】主人公・舞台(1)主人公 長髄彦 饒速日(2)舞台 奈良(大和)湖・河内(古大阪)湾 豊秋津洲とよあきつしま 長髄彦と饒速日の本拠地・・・生駒神話ゆかりの古蹟が集中している生駒四河川の源流・分水嶺地帯(生駒の地図・写真ご参照)とそ周辺 神武東征の目的地・・・当初は長髄彦と饒速日の本拠地であったが、のち、移行した(神武東征ご参照)。  【4】物語の構成 (1)【3】を主人公・舞台とし、できるだけ【2】の依拠・参考にしたものに記されたものから、物語を構成する上で最適な記述を選び、それらを組み合わせて筋の通った物語を構成するように努めました(このような、既述の文献に記されたものを組み合わせて神話を構成していく方法は記紀と同様のやり方です)。 (2)その際、生駒の神話は郷土生駒の人物・神を魅力的に描かねばならないことは当然であり(それが郷土の昔の話というもの)、そのような人物・神について、魅力を減じさせるような通説・記述※は、できるだけ荒唐無稽にならないように、あるいは、異説があればそれに沿って、魅力が減じないように解釈・記述し直しました。神話というものは本来、口から耳へ、耳から口へと語り伝えられた、口頭による伝承として存在し、記録のさいに、筆録の目的、あるいは筆録者の条件によって、整理されることが多く、削除・省略があったり、逆に付加があったりもし、そこには潤色や作為が作用するものとされています(上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdfご参照)。 ※例えば、長髄彦は性質がよくなく、義理の弟(妹の婿)である神または甥(妹の息子)に裏切られて殺されてしまうのが通説(書紀や旧事紀の記述)で、そのように通説は長髄彦やその義理の弟(妹の婿)である神や甥(妹の息子)を悪く描いています。  (3)普遍性(多くの人が理解できる内容)を得るため、まったくの創作(【2】に記したものにまったく依拠しないもの)はできるだけ避けるように努め

  • 参考文献等

    【1】生駒市誌 富雄町史 大和志料 【2】古事記 (古事記<リンク>/原文<リンク>/現代語訳<青空文庫>) 日本書紀 (日本書紀<リンク>/原文<リンク>) 先代旧事本紀 古語拾遺 万葉集(原文・訓読・仮名)<リンク>(ミラー) 記紀について/先代旧事本紀・古語拾遺 概要.pdf 古事記と日本書紀はどう違うか(リンク) / 古事記と日本書紀の違い(リンク)「古事記は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、日本書紀は外国向けに日本という国の存在と正統性を主張するもの」【3】新撰姓氏録<新撰姓氏録概要.pdf> 各地の風土記.pdf【4】各地の神社伝承・民間伝承 【5】海外の文献【6】学者・研究者の説(1)小林達雄「縄文人の世界」/「縄文の思考」 谷川健一「白鳥伝説」 / 「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」/「列島縦断地名逍遥」/「古代史と民俗学」.pdf 古田武彦「真実の東北王朝」/「古代通史」/「邪馬一国への道標」.pdf /「盗まれた神話 記・紀の秘密」.pdf/古代は輝いていたⅡ 日本列島の大王たち.pdf <古田武彦氏のいくつかの著作はここで読むことができます。> 喜田貞吉「本州における蝦夷の末路」 梅原猛「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」/「神々の流竄」 森浩一「日本神話の考古学」 鳥越憲三郎「神々と天皇の間」 井上光貞「日本国家の起源」/「神話から歴史へ(日本の歴史1)」 直木孝次郎 「日本神話と古代国家」 上田正昭・鎌田純一 「日本の神々 「先代旧事本紀」の復権」 上田正昭「日本人“魂”の起源」.pdf 金関恕+大阪府弥生文化博物館 「弥生文化の成立」 関裕二 諸著作 折口信夫の著作 原田常治「古代日本正史」 前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 」 樋口清之「逆・日本史 3」.pdf/「逆・日本史 4」.pdf /「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)  竹村公太郎「『地形から読み解く』日本史」.pdf/「日本史の謎は『地形』で解ける」3部作.pdf 武光 誠「地図で読む「古事記」「日本書紀」.pdf 長野正孝「古代史の謎は『海路』で解ける」.pdf (リンク) 富来隆「卑弥呼-朱と蛇神をめぐる古代日本人たち-.pdf 松木武彦「日本の歴史一 列島創世記」.

  • 正邪逆転の妄想

    (1)神武東征神話は、殺戮者を英雄とし、クニを奪われようとした人々、ずっと平和に暮らしていた先住の人々、盟友に裏切られる者、自分や愛すべきもの(自分が暮らすクニの人々)の尊厳を守ろうとする者、を賊とする正邪逆転の神話です。この神話は現在に至るまで日本に生き続けて、知らず知らずのうちに一部の人々に正邪逆転を疑問に思わないよう感性に悪影響を与え、「正邪逆転の妄想」を植え付けてきました。(邪と悪の違い・・・悪は正に立ち返ることはないが、邪はイワレヒコや邪鬼のように、改心によって正に立ち返ることができる。) 妄とは善悪の分別が欠けること、妄想とは誤った確信のことで、「正邪逆転の妄想」 とは、正を邪とし邪を正とする、誤った確信のことで、抑圧する者・侵略する者・支配する者・力の強い者を正とし、それらに抵抗する者を賊(反逆者)として邪とする妄想で、侵略戦争を正当化し、人々を侵略戦争に駆り立てる役割を果たしました。(2)今日の日本では、「正邪逆転の妄想」 は、権威主義(「権威=力」ある者を正としてそれに従うべきとし、それに抵抗する者は「賊=反逆者」とする思想・行動)として多くの国民が受動し、権威主義<ご参照.jpg>が「空気」になってしまっています。それを見える化した分かりやすい事例として、次のことが挙げられます。 ①大阪府の維新知事に私学助成のお願いをしに来た高校生に対し、維新知事は「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」と冷たく言い放ち、勇気を出して請願しに来た高校生を泣かせた<詳細⇒ご参照(ミラー)> 。このことについて、「知事はわがまま高校生をよくぞ叱ってくれた」と、純粋な高校生を冷酷に扱った維新政治家を批判するどころか、逆に称賛する府民が少なからずいた。正邪逆転の妄想は、暴力・不寛容・無関心の衣ともなっている。 なお、この維新知事が大阪市長だったときに導入した公募民間校長制度で採用された民間校長は、きっちり「正邪逆転の妄想」を児童に浸透させようという犯罪(違憲行為)を犯しています(この記事.jpgご参照)。 ②<自分をホームレスにし生活保護を受けざるを得ない社会状況を作り出した勢力に抵抗するどころか、逆にその勢力を正として支持応援する、という正邪逆転> 参院選の投票日前日の20日夜。東京・秋葉原の駅前は、日の丸で揺れていた。30メートル先でマイクを握る安倍晋

  • 「生駒の神話」(という物語)はなぜつくられたのか。

    (1)縄文から弥生への移行の時代は、次の2つの点で日本列島に暮らす人々にとって根本的な転換期だった。 ①これまでの「狩猟採集漁労」経済(神から授けられたものを取得するが、食べる分しか取得しないし、また、取得したものはすぐに食べないといけない、つまり備蓄・保存しない・できないこともあって平等に分配)から「農耕=水田耕作」経済(生産手段を用いて作ったものを収穫し、全員が生きていくのに必要な量以上に生産できる余剰生産物が生じる余地が生まれ、また、農耕作物は備蓄・保存が可能であることから不平等分配がもたらされる)へ。 ②これまでの狩猟採集漁労経済では生産手段と不平等分配がなかったが、農耕=水田耕作経済では生産手段(生産に必要な土地や農具など)と不平等分配された備蓄物の所有化に伴い私有財産制が生まれた。それは、貧富の差=格差を生じさせ、「私有財産を多く持つ者」と「それを持たない者や多くは持てない者」という階級が生まれ、前者が後者を従属化する(支配・抑圧する)必要性を生じさせ国家(支配・抑圧機構のこと/従わせる力<強権国家の場合は武力>を属性に持つ/従わせる力や支配・抑圧をおこなう力やそれらの力を行使する主体が権力)が作られていった。 (2)人々は、(1)のようなこれまで体験したことのない事態を共通理解し、これからどうすべきかを共有する必要に迫られた。そこで、「人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」として成立したのが「生駒の神話」という物語であった。 人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。」と言っている。 また、作家の村上春樹さんは、「村上春樹さん、村上文学を語る」というインタビュー記事のなかで「神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの」と述べています。 ご参考・・・記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか? **************   ...

  • すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす

    (1)生駒の古道は、すべて、伊勢街道(伊勢神宮をめざす)または熊野街道(熊野大社をめざす)または宝山寺参詣道(宝山寺をめざす)です。(2)<次の文>を読むと、江戸時代、一度に何百万人もの人々が、日常の封建的な束縛から解放されて自分を取り戻すための非日常(解放区)を得るために伊勢街道を伊勢神宮に向かったことがわかります。このように、人々は、非日常を得るために、伊勢街道と同様に、熊野街道を熊野大社に向かい、宝山寺参詣道を宝山寺に向かったのでしょう。そのために、現在では古道となっている街道・参詣道はつくられたのです。今でも、ところどころに古道標・石仏・茶屋跡などが残っている古道を歩くと解放的な気分に浸れるのはそのためなのでしょう。なお、民俗学では「黄泉(よみ)の国から帰ったイザナギが目を洗うと神々が生まれるとされたように、けがれが祓(はら)われると逆転して神になるという民間伝承は多い。寺院や神社も、けがれの吸引・浄化装置として働いてきました。」<この文書(ミラー)より/太字は引用者による>としています。日本では人々は古来、ケ(=日常を生きる力)のカレ(=枯れてしまうこと)の時には、「ケのカレ=ケガレ(穢れ)」(古代日本では、彦や比古をビコともヒコともいうように、濁点があってもなくても同じでした)を祓はらう(生きる力を復元する)ための非日常(解放区)の場・時間(=ハレ)を寺社に求めたのです。(下に<注>) <次の文> 「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」。こう歌い踊りながら歩いたという。江戸時代の伊勢参りの集団、「おかげ参り」の一行である。親や主人に無断で抜け出した子どもや奉公人の「抜け参り」も多かった▲何度か発生した大規模なおかげ参りは一度に何百万という人数に達したという。着の身着のままで抜け出した人々はまず施(せ)行(ぎょう)を受ける印となるひしゃくを与えられ、食物や路銀(ろぎん)、寝場所などを道筋の家々から施されて伊勢へ向かった▲ちなみに勝海舟(かつかいしゅう)の父親・小吉(こきち)は少年時代に家出したおり、ひしゃくを持って家々を回り、1日で米麦5升と120文の銭を施されたと記している。庶民の旅へのあこがれと、その夢をかなえた江戸時代の旅文化には本当に驚かされる<この文.pdfより/太字は引用者による > <注>本来は民俗学の用語であった「ハレ」や「ケ」は、近年は、まちづくり用語や政治用語としても使用されてい

  • 生駒神話の小辞典

    【神々の総称いろいろ】【日本の神の一覧(リンク)】【ア】〇 葦原中国(あしはらのなかつくに)〇 阿弖流為(アテルイ)⇒Wikipedia / 高橋克彦「火怨 北の燿星ようせいアテルイ」 /「アテルイの悲劇」については、生駒の神話と現在の(2)をご参照 /不屈の英雄 アテルイ ~古代東北の底力~〇 天降り(あまくだり)「天」と「海」は共に「あま」という言葉で同一視されていたので、「天あま降り(降臨)」は、「海あま降り(渡来)」のこと。〇 天津神・天津族(あまつかみ・あまつぞく)⇒神々の総称いろいろへ 「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照〇「生駒」の語源・由来〇 生駒山地(生駒連峰)〇 生駒山⇒生駒山のこと /古代日本における生駒山の不思議と謎/新日本風土記 生駒山/万葉神事語辞典より〇 生駒山越の峠道〇 伊耶那岐(イザナギ)・伊耶那美(イザナミ).pdf〇 出雲勢力(出雲民族・出雲族・出雲神族) 出雲に渡来した渡来人で、出雲を本貫ほんがん(出身地)とする。播磨・摂津・近江・大和・紀州・越こし方面にも耕作地を拡大(出雲勢力が各地に進出したルートは、日本海から丹後を通って近江、近畿へ。もう一つは吉備経由で瀬戸内海へ)。先住民(縄文人)と協力・協同、住み分けて形成した国を「出雲の国」という。記紀神話では、彼らの長はスサノオ-大国主(農耕を広めたので、農耕地の神社で祀られること多し)。なお、協力・協同した先住民(縄文人)も出雲勢力という場合も多い。「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)もご参照 〇 出雲系の神々 ⇒神々の総称いろいろへ〇 磐座(いわくら)祭祀の対象となった巨石〇 磐舟(いわふね)船底に、船の重心を低くして転覆を防ぐための重石おもしにする大きな石を敷き詰めていた船。重心が低くなると浸水したら沈没してしまうので気密性が高くて浸水しにくかったと考えられる。 〇 内つ国(うちつくに)都のある国(大和国/倭やまと)/都に近い地方(畿内・近畿地方)/外国に対して日本の国 中洲(なかつくに・なかす・ながす)国ともいう。 〇 愛瀰詩えみし.pdf〇 縁起の法・・・前5世紀前後に唱えられたこの法に生駒の神話が影響を受けているとの指摘がある。〇 大八洲国(おおやしまぐに) 多くの島からなる国の意で、日本の異称。略称は大八洲・八島・八嶋。  【カ】〇(民俗学の)神・・・谷川健一さんの民俗学の定義は「神と人間と自

  • 記紀の作為(神武東征神話の捏造)はなぜおこなわれたか?

    人類の歴史を描いた「サピエンス全史」や人類の行く末を占った「ホモ・デウス」を著した世界的に著名な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「大多数の人にとって世界を理解するのは『物語』を通じてです。事実や統計に基づいて、ではありません」といっています<この記事(ミラー)の中で>。現在においてもそうですから、事実を記録した文書や統計等がない時代においては、なおさらそうであったでしょう。縄文から弥生への移行という激動の世界を理解するためにつくられていた「物語=神話」は、記紀の作者によって神武東征神話へと改竄されたのです。その理由は以下の通りです。(答1)記紀には、二つのフィルターがかかっている .pdfご参照(答2)「ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』によると、人間が『カリスマ』を生んでしまうのは現在の人類と同じホモ・サピエンスが身につけた認知的能力に由来するらしい。我らホモ・サピエンスは神話や守護神といった虚構を生み出し、共通の虚構を信じることで何百人、何千人という規模の協力を可能にした。」<毎日新聞(19.9.22)/今週の本棚 より>とのことであり、神武天皇をカリスマとし、金鵄はその守護神、ナガスネヒコは賊という虚構を生み出し、それらを共通の虚構として信じこませることで人民を統治するためであった。この虚構は、金鵄勲章なるものが端的に示しているように戦前の戦争期に大いに利用され、今日に至ってもその役割を維持しています。  (答3)のちの大和王権に連なる後期渡来人は、縄文人や前期渡来人が住む領域に侵入して国家づくりを進めた。それを正当化するためには、侵入される側の縄文人(ナガスネヒコが体現)は賊、前期渡来人(ニギハヤヒが体現)はその仲間、 侵入する側の後期渡来人(イワレヒコが体現)は解放者という虚構(改ざんされた神話) を人々に信じさせることが必要だったから、正邪を逆転させました(抑圧・侵略する者を正当・正統とし、それに抵抗する者を邪悪・賊とした)。(答4)大和王権やそれに連なる勢力は、母系制・双系氏族による生産経済(農耕・牧畜)を否定し、父系制・父権制氏族、更には部族による生産経済への移行を進め、ついには、氏族単位で田畑が占有・使用される土地制度を解体し、小さな地縁集団(戸)に土地を分配する班田収受を断行しながら、中央集権国家を形成していったことを正当化するために、スサノオ(日本に渡来して農耕・牧畜を紹

  • 天皇制

    【1】天皇制はなぜ成立したか⇨歴史的真実を物語という形で伝えているのが神話であるが、生駒の神話によれば、それは、イワレ彦が「殺戮の無い平和なクニづくりをしていく」とのナガスネ彦との約束を果たすために天皇となったためである<生駒の神話のストーリー(骨子)【解説付版】の(7)ご参照>。【2】【1】に記載されている「ナガスネ彦とイワレ彦との約束」、つまり、「殺戮の無い平和なクニづくり」という約束(これを「天皇の約束」と呼べる)が果たされたとき、天皇制は歴史の舞台から退場する。従って、天皇制は廃止するものではなく、役割を終えて退場できる条件づくりを要請しているものである。【3】「天皇の約束」実現を妨害している者達との天皇自らの闘い⇒戦後天皇家の「生命・環境・人権よりも経済・軍事・統制を優先する」動きとの闘い【4】足利義満や織田信長さえも天皇を廃位したり、天皇に譲位させたりすることはできなかった。彼らといえども、「天皇の約束」を廃棄させたり、それを簒奪することは出来なかったためである。<自己を神格化せんとした信長さえ天皇になれなかった.pdfご参照>【5】「長髄彦とイワレヒコの戦い」と「象徴天皇制」 /生駒の神話と天皇制 【6】天皇制関連 ◎<女>としての天皇 ◎ ・・・・・推古は・・・・・期待に応える治世を馬子とととに実現した。群臣の間にあった男王へのこだわりは、彼女の長年の統治実績によって払拭されたのだる・・・・・以後、男女がひぼ同数即位する双系的継承が八世紀半ばまで続く・・・・・<書評「女帝の古代王権史」(毎日新聞 21.5.1)~Web掲載なし~より>  ◎ 象徴天皇制についての論議 ◎ 天皇制の歴史<ミラー> ◎「これからの天皇制」 ①著書紹介・・・その1<ミラー>/ ②講座・・・第1回<ミラー>/第2回<ミラー> /第3回<ミラー> /第4回<ミラー>/ 第5回<ミラー>/ 第6回<ミラー>  ◎ 天皇と戸籍.jpg ◎ 令和問題 ①令和フィーバー考⇒「大日本帝国時代に戻ったつもりですか」 “浮かれ た”メディアの罪.pdf/美智子さまの「良妻賢母」像が隠した女性蔑視.pdf/皇位継承を議論しないことに危機感.pdf/非正規雇用と貧困 「平成の課題は何も解決していな い」.pdf ②元号を否定しない私が令和の使用を拒否するワケ.pdf ③民衆を苦しめ腐敗しきった政治に我慢できず田舎に帰るという「帰田

  • なぜイワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか?

    <随時、補筆いたします。>〇縄文から弥生への移行は、縄文経済(狩猟採集漁労中心経済)から弥生経済(農耕中心経済)への移行であった。①前者は国家を不要としたが、後者は国家を成立させた。②弥生経済国家の長にとって最重要は「(豊作を祈念する)祭祀」であった。〇イワレヒコは弥生人であり、国家の長となり得、「祭祀」を執り行うことができたが、ナガスネヒコは縄文人であり、国家の長とはなり得ず、「祭祀」を執り行うことは」できなかった。これが、イワレヒコは天皇となり、ナガスネヒコは去ったのか、の理由である。〇なお、天照大神も卑弥呼・壱与も女性であったことで分かるように、「祭祀」は「女性性」が行うもので、折口信夫は「大嘗祭の天皇は神の前で女だ」としている。父権制のなかで天皇は男性が務める場合が多いが、「祭祀」のときは、男性天皇であっても「女性性」になるのである。**************...

  • 生駒の古道等の概念図のまとめ(一覧)

    (地図を印刷される場合、一旦保存してから印刷する方が周囲の余白が小さく印刷できるかも知れません。) 【1】生駒山系(生駒山脈)(1)概念図<善根寺越・日下越・古堤街道南道(一部)・八丁門越(一部)・宮山周辺.jpg> 添付写真.jpg 別紙(くさか園地) 別図A.jpg(四道集中分岐付近の概念図) 別図B.jpg(宮山(石切神社元宮)周辺の概念図) 別図C.jpg (生駒駅発着の生駒山登山道)< 添付写真(その1).jpg / 添付写真(その2).jpg / 添付図「生駒駅~鷲尾山山道入口図」.jpg  / 添付図「鷲尾山頂上付近図」.jpg / 添付図「生駒縦走歩道~鷲尾山間の近道」/c(直線ルート)の「概念図」jpg  / 添付図 a・b(直線ルート)の「概念図」.jpg >(2)概念図<辻子谷越宝山寺参詣道主要部(石切~宝山寺)> 添付写真(3)概念図<庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号)/暗峠・宝山寺道(暗峠~宝山寺).jpg > 添付写真(4)概念図<生駒山上~暗峠~「鳥見霊畤趾磐座」の碑~南生駒駅/庄兵ヱ道南部(国道308号~千光寺)> 添付写真(5)生駒山越直行の道(6)「朝日地藏・中倉さん~鷲尾山」をめぐる道の「概念図」(*)参考・・・おしゃれな生駒山越の道.pdf【2】矢田丘陵(後生駒山脈) ①北部北半分・・・概念図<北部北半分(生駒白谷~市総合公園)> 添付写真 ②北部南半分・・・矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップが案内役になリます。ただし、椚峠(県道との出合い)での出入り口がわかりにくいので「椚峠 案内」.pdfをご活用。   ③南部北半分・・・、矢田丘陵遊歩道のページに掲載のハイキングマップと歩く・ならのページに掲載のルートマップの両方に記載があり、この両方が案内役になります。ただし、矢田峠付近は道が入り組んでいて迷いやすいので、矢田峠に設置の道標に記載の案内図.pdf(19.12現在、道標は倒れて横たわっている)をご活用。  ④南部南半分・・・歩く・ならのページに掲載のルートマップ(3分割されていますが、くっつけて1枚ものにすればぐっとわかりやすくなります)が案内役になります。ただし、松尾山・白石畑とその一帯は、道標があるところでもわかりにくく、道標がないところでは迷いやすいのので、松尾山・白石畑の概念図 北.jpg・同 南.jpg(この南

  • 資 料

    (*)縄文と弥生 ミニ知識 アイヌ語辞典 地名由来辞典 ポリネシア語で解く日本の地名・・・ 物語の作り方/物語のでき方(33)神武天皇聖蹟調査報告(編集:文部省/1942年)<抜粋> 神武天皇聖蹟顕彰碑・伝承碑まとめ<リンク> (32)三角縁神獣鏡国産説.jpg(31)『世界神話学入門』(30)「邪馬台国=富雄川流域」説(29)Q.草の舟での3万年前の航海(与那国島→西表島)再現実験(16.7.17~16.7.18)の失敗(ご参照)の原因は? A.3万年前の海と陸が今と同じだったはずだという思い込みが原因です(ご参照)。 (28)異国から訪れた旅人がもたらす風聞は、娯楽であり、情報でもあった(27)「皇后と鶏」の生駒伝承(戦い忌避伝承)の真意は、長髄彦が堕落しないよう彼が神武天皇と戦う(殺戮する=命あるものを食べるため以外の目的で殺す)のを金の鵄(鳥)が止めたという生駒神話のそれと符合しています(生駒検定<全国版>問21 生駒伝承ご参照)。「神功皇后と鶏」の生駒伝承は「戦い忌避伝承」であり、生駒神話は「戦い忌避神話」と」いえます。(26)J-SHIS(地震ハザードステーション)のJ-SHIS Mapで生駒周辺.pdf<→右図(クリックで拡大)>を見ると、縄文~弥生時代に島・半島であった生駒と海であった大阪湾・奈良盆地・京都盆地との対比が明確です。(25)海のない信州になぜ「御船祭り」があるのか⇒信州の御船祭りをご参照。(24)ヒトと同様にクニも発生的(中心からではなく周縁から生成されていく)といえるのではないか (23)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdf /ご参照2(22)現代人にもプログラムされている神話的思 (21)佐保姫と竜田姫、そして登美彦(20)古代地名検索システム(19)この記事によればこの地図の櫛羅くじら(海抜約122m)付近まで海だったとのこと(地図の櫛羅表記の南西にある神社が海抜145mの鴨山口神社)。(18)創られた建国神話と日本人の民族意識──記紀神話と出雲神話の矛盾から.pdf(17)「山人」の「協同自助」的な生活に未来の可能性が見られる.pdf(16)「国生み」は海洋民の伝承・「出雲」の「雲」に道教思想.jpg 考古学から神武を探る.pdf (15)トビ・トミ=ナガ=蛇神(14)保津川の曳

  • 「生駒の神話」のストーリー(その骨子)【解説付版】<初版 2020.4/随時改訂>

     【解説付版】でない方(図版はクリックで拡大できます。)<生駒の神話が生まれた時代とその舞台> ①この神話が生まれた時代は、弥生時代、つまり、海の向こうからやってきた渡来人がもたらした水田耕作が西から東に伝 播した、縄文(狩猟採集漁労)から弥生(水田耕作が主業で狩猟採集漁労は副業)への移行期。 ② その舞台⇒右地図ご参照 ・大阪(河内)平野・・・弥生時代の中頃(2000年前ごろ)までまだ海(河内湾)でした。淀川と大和川が土砂を運ぶことで潟化(外海との隔離化)が進み(河内潟)、弥生時代の後期の1700年前ごろにはまだ海と繋がる湖(河内湖)となり、その後も湿地化・乾地化が徐々に進行し、江戸時代には湖は池(深野池ふこうのいけ)となりました(河内湾・河内潟・河内湖 ご参照)。 ・奈良盆地・・・大阪(河内)平野が河内湾であったころは奈良盆地は海と繋がる奈良湖(海水湖)でしたが、大阪(河内)平野の湿地化・乾地化に歩調を合わせて、海水湖→海ときり切り離された淡水湖→湿原盆地→乾地盆地と姿を変えていきました(奈良湖ご参照)。 ・日本神話の「国生み神話」においてイザナギ・イザナミが産んだ豊秋津洲とは生駒のこと(豊秋津洲とは、まだ島・半島であったときの生駒のことご参照)で、ここが生駒の神話の舞台となりました。<「生駒の神話」の元になった神話の骨子> あとから海の向こうからやってきた者たちは、以前に海の向こうからやってきて元から住んでいた者たちと共に暮らしていた者たちとは違って狂暴であった。元から住んでいた者たちは侵入せんとした狂暴なる者たちをいったんは「殺戮」することなく撃退した。しかし、狂暴なるものは、再度、侵入せんとした。元から住んでいた者たちは動揺し対応をめぐり分裂した。彼らにとって弓矢は命を得るものであって命を奪うものではなく武器はなかったし、そもそも「殺戮」ということを知らない人々であったが、狂暴なるものを前にして「殺戮」というものを知り、それにより狂暴なる者たちを撃退しようと主張する男たちが現れた。もちろんそれに反対しあくまで「殺戮」 することなく撃退しようと主張する者も多くいたが、結局、男たちは、命をいただくものとして神<下に(注)>から授かった弓矢を命を奪うものに変質させて自ら軍隊となり、狂暴なる者たちを「殺戮」によって殲滅せんとし、矢を一斉に放とうとした。が、その瞬間、すさまじい閃光と暴風が、殲滅せ

  • 「生駒の神話」のストーリー(その骨子)<2020.4>

    【解説付版】(図版はクリックで拡大できます。) この文は2020.4に作成したもので、その後、「生駒の神話」のストーリー(その骨子)は添削しております。添削後のそれについては、【解説付版】 をお読みください。(1)海の向こうからやってきて日向(ひむか/現宮崎県)の国を治めていたイワレ彦は、九州を征したのち、内つ国(うちつくに/国の中心/生駒山の東側/現在の生駒~奈良盆地周辺)を征服せんと瀬戸内海を東進して難波(なにわ/現大阪平野/生駒の神話が生まれた縄文時代から弥生時代への移行期はまだ大部分は海)にいたり、そこより生駒山を越えようとした。(2)このとき、内つ国ではナガスネ彦が、イワレ彦より先に海の向こうから内つ国にやってきたニギハヤヒと共に、戦う(人間を殺す)ことのない平和なクニづくりをしており、狩猟採集漁労に生きるナガスネ彦たちは、武器でない狩猟用の弓矢しか持たなかったが、侵攻軍を撃退するため、雨のように矢を放った。侵攻軍を射抜くためではなく、前進してくる侵攻軍の眼前に天から降ってくる矢で鉄壁の壁をつくることで、侵攻を許さない意思を突きつけ、侵攻を阻むために。ナガスネ彦たちは、投石や落岩等も駆使して、侵攻軍を殺すことなく撃退した(クサカの戦い)。 ただ、イワレ彦の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、流れ矢に当たってひじを負傷したが、他者の幸せを祈ることで回復力を高めることをせず、逆に、他者に報復するとの執着心を捨てなかったことで体力を低下させ、重傷ではない傷が原因となってのちに死亡した。(3)内つ国征服に執着する侵攻軍は、太陽に向かって進んだので撃退されたと思い、迂回して南東方向から太陽を背に内つ国を攻撃しようと考えた。(4)侵攻軍は迂回ルートを進む途上、その先々で、食糧・寝所・休養所等を得るために、ナガスネ彦たちと同様にこれまで戦う(人間を殺す)ことのない世界に生きてきて戦うということなど知らなかった人々を一方的な攻撃や謀略によって殺戮(食べるため以外の目的で殺すこと)した。(5)侵攻軍が殺戮しているという知らせを受けて怒りをたぎらせたナガスネ彦たちは、再び侵攻軍と会い見まえた時(トミの戦い)、進攻軍をせん滅(殺戮)せんとして、狩猟(食べるために動物の命をいただくこと)のために神から授けられた弓矢を武器に変え、彼らは軍隊に変質した。(6)ナガスネ彦軍が、侵攻軍をせん滅するため矢を一斉に放とうとしたまさにそのと

  • 生駒三山系の城砦

    <生駒三山系とは、生駒四河川源流・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)に収れんしている生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵のことである。>各城砦の位置については、生駒の地理を把握してから、右の「城砦位置地図」をご参照ください。  (1)生駒山地の城砦<北から順に>(mは標高/比高) 西麓の平城たる交野(私部)城(現交野市私部6丁目)<リンク>、 山中山城の天王畑城(現京田辺市天王高ヶ峯)<リンク>・高山城(現生駒市高山町)(217/40)<Wikipedia>・打田城(現京田辺市打田宮前)<リンク>、西麓の丘城たる岡山城(現四條畷市岡山2丁目)(40/30)<リンク>、山中の小松(山)城(現ゴルフクラブ四條畷内)<リンク・リンク>、東麓の田原谷入口東側の八丁岩にあった田原砦(現生駒市北田原町) 、 山中の清滝城(場所不特定)<リンク・リンク>、西麓の山城たる茶臼山砦(現四條畷市南野6丁目)(83/30)<リンク>、東麓の田原谷の山城たる北田原城(現生駒市北田原町)(196/45)<リンク>、 生駒山地北西枝にある飯盛山上の山城たる飯盛山城(現四條畷市市野)(314/260)、西麓の山城たる野崎城(現大東市野崎2丁目)(114/65)<Wikipedia・リンク> 、 東麓の田原谷の丘城たる田原城(現四條畷市上田原八の坪)(180/30)<Wikipedia・リンク> 、山中の竜間砦(不詳)、東麓の生駒谷の、丘城たる田原(俵)口城(現生駒市俵口町)<長福寺の裏山に所在/リンク>・丘城たる菜畑城(現生駒市西菜畑町)(155/15)<リンク>・東菜畑城(生駒市壱分町)(不詳/矢田丘陵西麓の生駒谷にあったかもしれない) ・萩原城(不詳)、東麓の平群谷の、丘城たる下垣内城(現平群町字古城 平群中央公園内)<リンク>(78/20)・丘城たる大和西宮城(現平群町西宮 平群中央公園内)(92/30)<リンク> 、東側中腹の久安寺の山城たる赤坂城(現平群町久安寺)<リンク>、 山中の、山城たる高安城(現平群町久安寺) (487/-)・山城たる信貴山城(現平群町信貴畑)(433/340)、高安山と信貴山の中間部の山城たるクズレ川南城(現平群町久安寺) <リンク>、朝護孫子寺境内の丘城たる南畑城現平群町信貴畑) <リンク>、西麓の恩智神社近くの山城たる恩智城(現八尾市恩智中町5丁目)(44/20)<リンク>、南端部分の山城たる立野城(現三郷町

  • 長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵

    (1)トミのナガスネヒコ<単に長髄彦(ナガスネヒコ/ナガスネビコ)または登美彦(トミヒコ/トミビコ)ともいう>について / 矢田丘陵のこと (2)<生駒市誌より>矢田山脈(引用者:矢田丘陵ともいう)の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦・・・・・は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 /長髄は長背嶺ながそねの転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷を以て鳥見白庭山(引用者:哮峰に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座したところ)と推当し(引用者:白谷バス停近くに 「鳥見白庭山」の碑が建てられている)之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟(引用者:「金鵄発祥之處」の碑が建てられている)と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/(生駒市)北地区の上町一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。 引用者:古跡(哮峰・「鳥見白庭山」の碑・「金鵄発祥之處」の碑 )の位置については、古跡地図をご参照。(3)「(矢田丘陵の)神武峯(峰)<引用者注>は、神武天皇が長髄彦との戦いで進入した道筋と伝えられています」(生駒の古道)とのことも、矢田丘陵と長髄彦との関係の深さを今に伝えている。  <引用者注>神武峰については、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照**************...

  • 生駒の地理、古道、古蹟、地名の位置がわかる地図、地形がわかる写真

    (いずれの図もクリックで拡大できます)(1)生駒の地理  〇生駒山が列島中心部にあることを示す地図(生駒検定<全国版><問5>不思議な旅する蝶の解説より)→(2)生駒の古道(3)生駒の神話ゆかりの古蹟(4)生駒三山系の城砦(5)地名の位置がわかる地図 〇桧窪山・白谷・住吉神社・・・生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照 長弓寺・真弓塚・素盞嗚神社・・・長弓寺・真弓塚ご参照 天照山てんしょうやま・旗立山はたたてやま・・・「生駒山の飛火が岡」の「高見の烽」 または生駒検定<問2>ご参照 (富雄川源流の)龍王山りゅうおうざん・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照 トミ(鳥見)地域(現在の生駒市上町から奈良市石木町にかけての地域)・・・生駒検定<問20>の解答・解説ご参照 〇三国境・・・大和・河内・山城の三国境の謎(疑問)ご参照(6)地形がわかる写真・図 〇司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望・・・生駒山のことご参照 〇生駒山上から見た大阪平野の夜景・・・生駒山のことご参照 〇トンボの目線の高さから見た大阪の街並み ・・・生駒山のことご参照 〇作家の森見登美彦さんの故郷にある真弓塚のすぐ下から見た生駒山の遠景・・・劇場アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の場面・美術設定等 VS その実物写真ご参照 〇貝原益軒が「桃源郷」と讃えた(生駒検定<問18>生駒に「桃源郷」があった!ご参照)景観の面影が今も残っており優れた景観形成のモデル<となっている北田原地区の写真・・・生駒検定<問18>の解答・解説ご参照 〇般若窟<ミラー>(*)参考資料 〇瀬戸内海-大阪湾ー生駒山 ・・・・・瀬戸内海・・・・・内海が育む精神性・・・・・似たような形の地中海は、大陸と大陸の間(メディ)にある海。瞑想(めいそう)(メディテーション)という言葉にどこか通じる・・・・・日本にもし瀬戸内海がなくて、この海に沈んだ平家の悲劇がなかったら、いまと同じ日本文化の成熟があっただろうか・・・・・<この記事(ミラー)より> 〇日本列島をユーラシア大陸からみると : 環日本海諸国図Ⅰ ・ 環日本海諸国図Ⅱ / 奈良盆地歴史地理データベース 〇生駒の散歩道 北生駒 神話コース(リンク)/ 富雄街道の歴史.pdf 〇遺蹟案内図(『生駒市史』より).pdf / 神武東征説明図(『生駒市史』より).pdf / 記紀神話の舞

  • 饒速日(ニギハヤヒ)

    〇wikipedia〇生駒市誌は、生駒の神話の主人公のナガスネヒコと矢田丘陵(矢田山脈・矢田山系)と饒速日のことを次のように記しています(一部修正して引用)。   矢田山脈の如く長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦 (ナガスネヒコ)と言い、鳥見彦(トミヒコ)とも呼んだ。/ 長髄彦は、その名の示す通り、長いすねの様な形―長背嶺(ながそね)―をした矢田山系一帯を支配していた実に強力な首長であった。 / 長髄は長背嶺の転訛にして南北に連亘せる山脈の嶺背に在るの謂なれば矢田山脈の北端に位する白谷(現在は生駒市の白庭台住宅地になっている)<※1>を以て鳥見白庭山とみはくていざん<※2>と推当し之と東西相対せる「トビ山」を以て金鵄発祥の史蹟と為すことは典拠精確事理に於て撞着する所あることなし。/生駒市上町(引用者 : この上町の一部が白庭台住宅地となった)一帯は、記紀に記されている「金鵄発祥」の伝説地である。 <※1> 引用者:白谷の位置は、この地図ご参照。 白谷バス停(付近一帯が白谷)・「鳥見白庭山 」の碑・哮峰・「金鵄発祥の處」の碑(「トビ山」に立つ)の位置は、このページの「古蹟地図」ご参照。 <※2>引用者 : 鳥見白庭庭は、哮峰いかるがだけ・いかるがのみね(現岩船神社の少し北にあり)に天下った饒速日命が長髄彦に擁立されて遷座した(移り住んだ)ところ。神話で「天あま下った」は歴史的には「(海あまを南に下って)渡来した」こと(ご参照)。  〇この記事によれば、 ①白庭山は鳥見谷の上かみにある。 ②南田原や高山や上村かみむらを鳥見谷と称したとある。また、この記事によれば、住吉神社も白庭山の候補地とある。従って、鳥見白庭山は、住吉神社~白谷の地域、つまり生駒四河川の水源・分水嶺地帯(生駒の地理ご参照)にあったとできるのではないか。 〇リンク・・・饒速日(ニギハヤヒ)とは?(まとめ) 折口信夫のニギハヤヒ 〇可美真手命(ウマシマデのミコト)が饒速日命を祀ったとも、その両者が祀られているとも、饒速日命が降臨したとも言い伝えられている石切神社の元宮がある宮山の位置とそこへの行き方については、この概念図をご参照 〇饒速日=ニギ ハヤ ヒ=和(ニギとも読む/和合) 速 太陽=速やかに 争いを治める太陽神=和魂を付与する神 ともいえる。〇「先代旧事紀」に、ニギハヤヒは三十二神を伴って河内に降り立

  • 平群の山越(矢田丘陵越)の道

    矢田丘陵は、記紀・万葉集では「平群の山」、また、以前は「後生駒山脈」とも呼ばれていました。(1)平群の山越やまごえは、生駒山地と矢田丘陵の間を流れる竜田川流域(その上流は生駒谷、下流は平群谷という/この流域を通るのが清滝街道)と、矢田丘陵と西之京丘陵の間を流れる富雄川流域(鳥見谷)を結ぶ峠道です(生駒の地理ご参照)。 (2)平群の山越(矢田丘陵越)の道の定説はありませんが、北から記すと次のようになるでしょう。 <生駒山地と矢田丘陵の峠道はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図 ご参照>  〇 白谷しらたに越・・・これだけは、竜田川流域と富雄川流域を結ぶ道ではなく、天野川源流域の田原谷の南部(西部が現四条畷上田原、東部が現生駒市南田原)と富雄川流域を結ぶ道。白谷(現生駒市上町・白庭台)を越える。なお、白谷は鳥見白庭山とみはくていざんに比定されており、白庭台はそれに由来するといわれている。 天野川源流域・富雄川・白谷の記載ある地図 〇 王龍寺越・・・生駒谷の小明~王龍寺~西村(長弓寺の近く) 〇 椚くぬぎ越・・・生駒谷の菜畑の傍示の辻(現菜畑駅東側) ~椚峠(標高 171m/データベース)~三碓の上鳥見かみつとみ橋(本来は中鳥見橋にすべき。富雄町史では「中鳥見庄は三碓」と明記されている) 〇 岩鼻いわのはな越・・・生駒谷の一分~神武峰(標高 259m)<生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照>の北側~黒谷・中村(現奈良市中町) この道は現在、矢田丘陵遊歩道(矢田丘陵の当該記事ご参照)の途中下山ルート(西側は生駒市福祉センター方面、東側は奈良市帝塚山住宅地方面)となっています。前者を示す道標の写真.jpg。後者を示す道標の写真.jpg 〇 榁木むろのき越・・・生駒谷の小瀬~榁木峠(標高 268m)~砂茶屋の下鳥見しもつとみ橋 〇 金剛山寺(矢田寺)越(矢田越)・・・複数あった。暗越をして生駒谷に入り、乙田から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。榁木峠を越え、現在のこどもの森辺りを大回りして矢田寺へ。平群谷の元山上口から矢田峠を越えて矢田寺へ下る。 矢田寺からは大和郡山へ下る道があった。 〇 松尾越・・・十三越・おうと越・立石越・信貴越などの生駒越をして平群谷に入り、椿井(写真)・平等寺から白石畑を経て松尾寺へ。松尾寺からは、矢田寺や大和小泉に下る道vがあった・ (3)平群の山越(矢田丘陵越)

  • 谷川健一さんの説・・・「草香・日下」「日の下」「直越」「草香山(饒速日山)」

    (1)谷川健一「白鳥伝説」より引用凡例:(上P.17)=「小学館ライブラリー版」上巻の17ページ 文中の太字部分と小文字のふりがなは引用者による。( )内のふりがなは原文の通り。 太陽の昇る難波、その東の日下(上P.49) 勝井(純)は「日下の直越」を実地に踏査している(下に引用者注)。それによると、日下の直越の路は現在の東大敗市善根寺の春日神社の前を東北にむかって、尊上山の中腹を斜めにのぽり、その頂上から東南に走る低い尾根伝いの道をたどる。 そこから八幡山の頂上である旧神社のあたりを通って、恵比須山から厄山にいたる。厄山から国見山方面に通じている道に饒速日山(引用者:ヤマレコさんによればここ)がある。それは生駒山の北にそばだっていて、その頂上には、底無しの井戸と称するものが八つある。その饒速日山から生駒市の俵口にいたる道路を、現地では直越ただごえ/じきごえと呼んでいる。 饒速日山は一名草香山ともいわれている。先述の万葉歌の中で、草香山が重要な意味をもつのは、そこが太陽信仰の対象となっていたためである。饒速日山は神体山として礼拝されていた。もとは社殿もなかった。おそらくそれは天照御魂(あまてるみたま)神社の原型であった。つまり草香山にのばる太陽が礼拝されていたのではないか。 勝井によれば(下に引用者注)、のちにニギハヤヒを祀る上ノ社が饒速日山の頂上にもうけられ、それに対して、奈良県生駒郡富雄村(現在生駒市上町)の長弓寺にある登弥神社と、東大阪市の石切剣箭(つるぎや)神社を下ノ社と呼んだのだという。そのあと、物部氏がほろぶと、山上のニギハヤヒの神霊はそれぞれ下ノ社に移されたのだという。 饒速日山に源を発し、西北に流れて、善根寺の車谷を下って、春日神社の付近を通り、旧の日下池にそそぐ川を今日でも「日の川」と称している。このことは、「日の御前」という呼称とともに、そこが太陽信仰とふかい関連をもつことを如実に示している。 (引用者注)勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』をご参照(2)谷川健一「隠された物部王国『日本(ひのもと)』」(2008)より引用 『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。・・・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思い

  • 生駒山のこと

    生駒山地(連峰/山脈)についてはこちら (地図・写真はクリックで拡大できます )◎生駒山の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照<生駒山は、生駒山地(連峰/山脈)の全部または部分をいう場合、その主峰(wikipedia) とその近くの峰々をいう場合、標高642mの主峰のみをいう場合、の3通りがありますが、このサイトでは、主に生駒市域の生駒山地のことについて記載します。> 以下、<問〇〇>とあるのは、生駒検定<全国版>の問の番号です。◎古来、生駒山は、膽駒山、射駒山 、伊駒山 、伊古麻山 、伊故麻山 、生馬山 、往馬山などさまざまな字があてられてきたが、語源は、縄文語(現アイヌ語)で「鹿がそこにいる」山・・・<問17>「生駒」の語源・由来ご参考◎日本神話でイザナギ・イザナギの男女2神がつくった豊秋津洲とよあきつしまは生駒山のこと・・・<問15>神話の里(その2)~「国生み神話」の舞台~ ご参照 ◎生駒山は、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台・・・<問1>神話の里(その1)~生駒神話(生駒を舞台とする日本神話)~   神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」(日本書紀<現代語訳> より) ◎生駒山のてっぺんから見た大阪平野の夜景(→右写真<クリックで拡大/以下同じ> )<この夜景が広がるところ、かつては海原であった>◎司馬遼太郎「城塞」生駒山記述部分抜粋.pdfより 司馬遼太郎さんが日本のどこよりも好きだった摂河泉の大眺望(→右写真)<この平野が広がるところかつては海原であり、この写真を撮ったあたりで、生駒山に向かって進攻してくるイワレヒコ軍をナガスネヒコは睥睨へいげいしていたのではないか。> この写真は、この阪奈道路の地図に「摂河泉の眺望」と印字したところ(その写真)で撮影(ここは車を止める場所がなく、撮影チャンスは後続車両がない一瞬ですが、近くに徒歩道があるので、それを利用すれば

  • 生駒山地のこと

    「生駒山のこと」はこちら(1)生駒山地(連峰/山脈)の生駒全体の地形におけるその位置とそれをとりまく地理環境・・・生駒の地理ご参照   生駒山地(wikipedia)は、北端は淀川にせまる男山おとこやま丘陵(甘南備かんなび丘陵の北端をなす/主峰の男山<標高143m>山頂には石清水八幡宮あり)をなし、南端は大和川(この川で南の金剛山地と区切られる)に至る。 ②山容は、標高642mの主峰(wikipedia)付近は蓋形をなし、その北側につづく北嶺は平均320mの嶺をなし、清滝峠(247m)を経て飯盛山付近で北東に張って淀川に至り、南側につづく南嶺は、455mの暗峠で高さを減じ、522mの大原山.jpgをはさんで、鳴川峠(402m)からは平均450~430mの嶺をなし、十三峠(431m)、高安山(488m)・信貴山(437m)を経て大和川に至り、そこに亀の瀬渓谷をつくり、それをはさんだ南側の金剛山地に連なる。 ④この画面の山岳マップから生駒山地の航空写真をみることが出来ます。 ⑤3Dの生駒山地・・・飯盛山~信貴山(ヤマレコ<18. 4.14>より)/私市~恩智峠(ヤマレコ<19. 3.31>より)/信貴山~私市」(ヤマレコ<11.12. 3>より) /生駒山~信貴山」(ヤマレコ<18.12. 2>より)/同左(ヤマレコ<18. 4. 1>より)/飯盛山~鳴川峠(ヤマレコ<19. 8.12>より) (2)古くから、生駒山地を東西に越える峠道である生駒山越の(峠)道(いこまの古道ご参照)が多くつくられてきた。  (3)(2)以外の道 ①生駒山地東側中腹を南北に走る道として、「宝山寺の湛海さんから頼まれて、鬼取村の庄兵ヱが荒れ果てていた宝山寺から鳴川の千光寺までの道を整備した」との言い伝えが残っている庄兵ヱ道(生駒南北の古道ご参照)もつくられた。 ②宝山寺参詣道 生駒山系の東の中腹にある「東の聖天さん」と呼ばれる宝山寺の正式名称は「生駒山宝山寺」であることで分かるように、「生駒山」は信仰の対象で聖なる山です。一方、生駒山系の西の中腹にある「西の聖天さん」と呼ばれる興法寺の正式名称は「鷲尾山興法寺」であることで分かるように「鷲尾山」は「生駒山」と互角の信仰の対象で聖なる山です (右に、このページより引用の河内名所図絵の鷲尾山)が、頂上直下を生駒山系の尾根を走る自動車道が通るようになってから、歩いて頂上へ向かう道が廃

  • 矢田丘陵(記紀・万葉では「平群の山」)のこと

    (1)矢田丘陵の地理など ①生駒の地理ご参照   矢田丘陵(wikipedia)は、生駒山地(生駒山脈)と並立していることから、以前は、後生駒山脈と呼ばれることもありました。また、生駒山は第1ヴァイオリン、平群の山は第2ヴァイオリンといえます。 ③古くは、「斑鳩いかるが三十六峰」、「いかるかみねつづき」といわれました。そのゆえんは、法隆寺が立地する矢田丘陵南端付近は斑鳩と呼ばれ、矢田丘陵は、そこから北へ伸びる、36の峰続きであるからです。  ④矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいたのが平群の山越(矢田丘陵越)の道で、それと結ばれていたのが、生駒山地を越えて生駒谷・平群谷と河内(現大阪府)とを結んでいた生駒山越の峠道です。 ⑤3D矢田丘陵全山縦走路(ヤマレコさん<16. 2.28>より) 3D矢田丘陵全山縦走路一覧・・・各縦走路を3D画面に切り替えることができます。 ⑥この画面の山岳マップから生駒山地・矢田丘陵の航空写真をみることが出来ます。 ⑦写真地図/基準点(三角点等)地図 ←画面中央の山地が矢田丘陵です。 (2)矢田丘陵も生駒山とともに、生駒を舞台とする日本神話(生駒の神話)の舞台 長髄彦(ナガスネヒコ)と矢田丘陵神武東征の当初の目的地は、矢田丘陵北端に位する白谷を中心とする生駒四河川源流・分水嶺地域と思われます(神武東征の目的地は移行したご参照)。 (3)矢田丘陵の山中や麓には生駒神話ゆかりの古蹟があります 北から順に、「鳥見白庭山」の碑、「長髄彦本拠」の碑、ひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>、住吉神社、夫婦塚、王龍寺、神武峰、矢田坐久志玉比古神社 <これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照> 矢田丘陵東麓には日本最大の円墳である富雄丸山古墳もあります。 (4)矢田丘陵の城砦・・・生駒の城塞ご参照  (5)日本書紀<景行紀>に登場 (・・・・・は省略部分) 天皇は・・・・・子湯県こゆのあがた(現宮崎県児湯郡)においでになり・・・・・そのとき東方を望まれて、お側のものにいわれるのに、「この国は真直に日の出る方に向いているなあ」と。それでその国を名付けて日向ひむかという。この日、野中の大石にのぼって、都をしのんで歌をよまれた。 愛はしきよし※ 従吾わぎへの家方かたゆ 雲くも居い起たち来くも 倭やまとは 国の真区まほらば 畳たたなづく 青垣あをがき 山やま籠こもれる 倭や

  • 「生駒山の飛火(とぶひ)が岡」の「高見の烽(とぶひ)」/ 旗振山・旗立山

    (1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い「生駒山の飛火とぶひが岡 」に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。 また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり山(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。<参考>江戸時代、大坂堂島の米市場は全国の米価に影響を与えた。相場情報を各地に伝えるための最も速いやり方が、旗振り通信だった。見通しのいい山から山へ旗を振って数字を伝え、情報のリレーをする。明治に入ってからも続いた。高槻泰郎著『大坂堂島米市場』によると、明治期に旗振りで情報を伝える時間は京都へ4分、岡山へ15分、広島へ40分弱だったというから、なかなかの高速だ。そんな手作業の通信は、やがて電話に取って代わられる・・・・・。<この記事(ミラー)より>(3)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。 烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の

  • 低山の祭祀場→行場/低山歩きの意義

    生駒の古道に戻る〈ご参照記事.pdf〉【1】上記の〈ご参照記事〉には、次のようにあります(太字は引用者による)。 ・・・・・<縄文人・・・・・は・・・・・平地と奥山の中間にあたる端山(はやま)に祭祀場を設けて、そこでイニシエーションの儀礼をおこなった。この儀礼で、若者は「二度目の誕生」を体験しなければならなかった。たんに生物としてこの世界に生まれてくるだけでは不十分で・・・・・もういちど自分を覆っている殻を破って、精神的存在として生まれてくる必要がある、というのが、縄文の思想である・・・・・平安時代の後期あたりから、文化や政治の日本化が進んでくると、この土着の縄文的な儀礼を、高級な仏教文化で組み立て直した、「修験道」というものが生まれてきた。これを担ったのが山伏と呼ばれた人々で、彼らは・・・・・縄文時代以来の各地のイニシエーション祭祀場に行場を設けて、修験道を始めた。日本の登山はそこから始まった。 ここで山伏たちは・・・・・「二度目の誕生」 をめざす修行を行った・・・・・そうやって生まれ直したあと・・・・・山伏たちは高山へ登山した。低山である端山での生まれ変わりをへなければ、神の領域である高山に踏み込むことはできない、というのが山伏思想である・・・・・平地と奥山と、二つの領域の中間を歩くのが。低山歩きである。二つの領域のどちらにも属さず。双方に適度に距離を取りながら、どちらのものでもない稜線を歩いていく、日常の暮らしが「生」のものならば、奥深い自然は「死」の領域に属する。低山歩きでは、生と死の中間を歩いていく感覚が得られる。 この「中道」の感覚を、日本文化は大事にしてきた。いきなり0か1かに分別してしまうのではなく、0と1の中間に広がっている無限に豊かな自然の世界を、大切にしようとした。こういう低山歩きに比較してみると、〈はじめから高山・名山を目指す登山は、合理的なデジタル思考に近い。そうなると高山も名山も、日常世界をそのまま延長した空間に属してしまって、登山の喜びは日常生活を拡張したものになってしまう。〉低山歩きの復活が、日本人の世界観をもう一度蘇らせるきっかけになれば良いと思う。低山歩きの喜びは、現在世界が見失ってしまった大切なものを、いっぱい保存している。【2】【1】から、次のようにいえます。(1)縄文時代の低山(端山)に設けられた「祭祀場」が、のち「修験道の行場」になった。(2)「低山の行場<注1>

  • 生駒山越(いこまやまごえ)の峠道

    (地図はクリックで拡大できます) (1)ルート地図 生駒山越の(峠)道(生駒山地を越える峠道)と平群の山越(矢田丘陵越)の道 (矢田丘陵(記紀では「平群の山」)を越える峠道)はだいたいこのあたりを通っていただろうということを示す地図は生駒の古道を示す地図ご参照> なお、山越の道は川沿の街道に合流していた。(2)生駒山越の峠道(生駒山地を越える峠道) <北から順> 〇荒坂越(荒坂街道)・・・枚方~荒坂峠(約80m)~宇治 最北端の生駒山越の峠道 〇 尊延寺(普賢寺)越(田辺街道)・・・淀川(枚方)~尊延寺峠(約100m) ~南山城 /尊延寺越の記載ある地図.jpg/資料.pdf 〇 傍示越(峡崖かいがけ道)・・・▲現交野市の寺(これは地名)~河内側の傍示~傍示峠(285m)~現生駒市の(大和側の)傍示の道。中世鎌倉期には熊野詣にも利用され、江戸期には奈良参りや伊勢参りなどの道にもなった。京街道を枚方で分かれて磐船街道を南下し、途中で東高野を横切り、私市から東にとって、寺で傍示越に入り、両傍示を通って傍示越を抜けて富雄川に出て南下、現奈良市の法融寺前の月見橋東の分岐から東進して一条通りに入るか、同奈良市の砂茶屋の分岐から東進して三条通りに入るかして奈良に至り、更に伊勢へ向かう 。また、月見橋や砂茶屋で東進せずそのまま南下し、郡山を経て高野や熊野に向かうこともできた。生駒山地では、荒坂越も尊延寺越も峠の標高が低くて100m前後しかないが、この傍示越にきてやっと300mの高さになって峠らしくなる。▲「高山八幡宮古記録」に、「おかげまいり、四国阿波から30万人が高山を経過(3~5月)」とある。この参詣団は傍示越、つまり、阿波→大阪湾→淀川→枚方→交野→かいがけ道<交野から傍示を越えて高山へ>→高山→奈良→伊勢のルートで伊勢神宮までいった。   〇 磐船(岩船・岩舟)越(磐船街道)・・・枚方から交野を経て私市へ。そこより天野川を遡り、磐船神社・新茶屋を経て天野川源流の出店へ(ここより、上鳥見かみつとみ路ともいう)、そこより富雄川に出て(出店から富雄川へは白谷を越えるので白谷越という)南下、二名の法融寺前の月見橋東の分岐で一条通りに合流し、東南に進み、一条通りに至る。なお、大和の清滝街道も磐船街道ということがある。磐船越の記載ある地図.jpg /磐船峠(約130m)には磐船神社がある。 *磐船越と清滝越は、天野川源流

  • 邪馬台国

    (1)邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 ⇒ 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征(2)早期(先発)渡来人(早い時期に渡来)が日本列島に渡来して以後、日本列島各地に部族連合の国(地域小国家の連合体)が形成されていきましたが、中国の史料では、そのうちのいくつかに邪馬台国・狗奴国などの名を与えています(「生駒の神話」の枠組み(パラダイム)ご参照)。 (3)邪馬台国の位置がいまだに分からない理由の1つは、古代日本の地形を考慮に入れていないからです(古代日本の地形ご参照)。海面が今より60m高い時の日本列島(取り分け九州)の地形をこれ(Sea level rise : +60m)で見てください。             ...

  • 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征

    お断り:邪馬台国については、日本ではそれらしき記録がほんのわずかしかなく、中国の文献でも伝聞的なもの(実際に日本に来て記録したものではないようなもの)しかないので、逆に数えきれないほどの諸説がありますので、この記事も確定したものではなく、添削することがあります。(1)邪馬台国の「台」は、この国名の出所である魏志倭人伝では「壹」(現在の漢字では「壱」)とあり、 後漢書では「臺」とあります。これまでは、学会の主流では、「壹」 が誤りで「臺」が正しいとされ、これと「台」は別の漢字ですが、当用漢字には「台」しかないので便宜的に「台」を充てて、この国は教科書等では「邪馬台国」と表記されてきましたが、本当のことは不確定です。従って、この国の本来の呼び方も不確定で、今日では「ヤマタイコク」 と呼ぶのが普通になっていますが、「ヤマイチコク」「ヤマイコク」「ヤマダイコク」「ヤマトコク」とも呼ぶことも可能です。不確定といえば、この国の所在地も不確定で、北九州と大和(奈良県)とを2大候補地として、全国にその候補地があります。(2)(1)のように、この国について不明なことが多いのは、大和政権が701年の大宝の律令制定をもって、古代天皇制国家(律令国家=中央集権国家)を完成していくプロセスにおいて、この国と大和政権との関係を、中国に対して誤魔化す必要があったからです。その必要があったことは、国内向けに天皇の正統性を訴えるために作成された記(古事記)と外国向けに日本という国の正統性を主張するために作成された紀(日本書紀)のいずれにも、この国の名前が出てこない(これが、記紀の謎の1つ)ことでわかります。記紀にこの国のこと(名前やその位置)が記録されなかったことが、邪馬〇国名称論争・邪馬〇国位置論争が起こった理由です。今日、いまだに「天皇稜」の多くが未発掘の「謎」もこれに関係あるとの説もあります。 (3)では、なぜ、誤魔化す必要があったのか。それを説明する説は次の様です。 ①大和政権は、元々、半島から渡来した弥生人が日向(現在の宮崎県)に居住し、やがて、魏志倭人伝がいう狗奴国を立てた日向政権であった。 ②日向政権(狗奴国)は、日向周辺の南九州に勢力を拡大した(球磨くまにも版図を拡大したので、中国からはクヌ国・クナ国と呼ばれたのではないか)のち、北九州の邪馬〇国と戦い、これを支配下に入れた。この戦いの際、247年に邪馬

  • 日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」(戦い・殺戮・暴力を否定する精神)

    PDF版.pdfもご参照【1】縄文人は、「食べるため以外のために殺す」(これを殺戮という)ことは不可能な人々でした (この記事の中の「<日本列島先住民族=狩猟採集民族=縄文人> について」をご参照) 。【2】そのため、1万年にわたる縄文時代に、日本人には、「殺戮しない・できない精神」が形成され、列島先住民(縄文人)と半島からの渡来人(弥生人)とが出会い衝突した縄文時代から弥生時代への移行の時代に「国譲り」<注1>が行われる中で形成された日本民族にも、それは「非戦・避戦の精神」(殺戮をおこなう「戦争=武力」と、それを引き起こす「強制力=有無を言わさない無理やりの力=暴力=実力」に頼る愚劣さ、を忌避する精神) として継承され、集団的無意識<注2> として今日に至るまで受け継がれてきました。 <注1>国譲り・・・縄文人が弥生人を受け入れ、両者が共存・融合することで、里山(注)がひろがる日本国土が形成されていったこと(更に詳しくは国譲りへ) (注)里山・・・お花見に象徴される弥生的な要素と紅葉狩りに象徴される縄文的な要素とが共存・融合した生産様式・生活・文化・景観のある地域(更に詳しくは小辞典へ) <注2>集団的無意識・・・集合的無意識・普遍的無意識ともいう。無意識のうち、個人を越えて、集団・民族・人類の心に普遍的に、祖先の経験した行動様式や考え方が遺伝的・本能的に受継がれてきたもの。消滅することのない基層文化(異文化との接触,被征服などによる外来文化の受容や内在的な文化的発展などの変動にもかかわらず,長期にわたって持続しその地域や民族の文化の固有性の中核になっている文化)と言い換えることも可能。また、ほとんど遺伝子のようになった文化ともいえる。なお、文化とは、遺伝子が運びきれない知恵(長い時間の中で見つけられ育くまれ伝えられてきた人の命を守るしくみ)を運ぶもの 。【3】縄文人の即自(=否定されるという試練をまだ受けていない状態/独りよがりかも知れない普遍性を持たない状態/テーゼ)として形成された本然の性(=非戦・避戦の精神)は、縄文時代から弥生時代への移行時に、渡来人による国家(=抑圧機構)建設という対自(=自己を否定されるという試練/独りよがりか否かが試された状況/アンチテーゼ)を受けました。しかし、それを克服する(=止揚する/即自且つ対自に至る/いかなる時代・地域・民族にも通じる普遍性を持つに至った/ジン

  • 「日本書紀」は「非戦の書」でもある。

    日本書紀は外国向けに日本という国の正統性を主張するためにつくられましたが、「非戦・避戦、または、平和友好」の要素・精神が付与されています(下記の記事ご参照)。これは、日本書紀の謎の1つとなっています。(1)生駒の神話は非戦・避戦の精神に貫かれています。(2)「生駒検定<全国版>」の『<問21>生駒伝承』の問題文と解説の(1)(3)「生駒検定<全国版>」の『<問24>生駒ゆかりの諸群像」』の(11)の問題/解答・解説(4)「生駒検定<全国版>」の『<問24>生駒ゆかりの諸群像」』の(13)の問題/解答・解説 (5)このページの五瀬命のエピソードをご参照 以上の文書を踏まえて、日本人の集団的無意識たる「非戦・避戦の精神」(戦いを否定する精神)を作成しました。       ...

  • 生駒市誌

    引用者 : 参考<「生駒」の語源・由来・いわれ>  全5巻・・・次の各太字の全部または一部を抜粋しました。  Ⅰ 第一巻 資料編<71(S46).11.1>   ○概説篇:生駒市のあゆみ     ○資料編:第一章 地質時代の生駒 第二章 神話時代の生駒 第三章 行基と竹林寺 第四章 生駒神社 第五章 茶筅の高山 第六章 湛海律師と宝山寺 第七章 生駒陣屋と矢野騒動    Ⅱ 第二巻 資料編 <74(S49). 5.1>     ○概説篇:明治までの生駒のあゆみ 第一章 維新の生駒 第二章 地租改正 第三章 徴兵制度 第四章 大区、小区と戸長役場 第五章 三町村の成立 第六章 行政村の七章発達 第 富国強兵への協力 第八章 教育の普及 第九章 風俗誌にみる生駒 第十章 門前町の発達 第十一章 生駒新地の今昔 第十二章 交通の変遷 第十三章 太平洋戦争と生駒 第十四章 戦後の生駒 第十五章 部落解放のあゆみ 第十六章 町村合併と生駒市の成立   ○資料編:文献と記録/沿革と現況/新聞と広報  Ⅲ 第三巻 資料編 <77(S52). 5.1>    ○郷土の産業・文化の担い手 ○郷土の日記類 ○郷土の文芸   Ⅳ 第四巻 資料編 <80(S55).12.1>    ○生駒市の概要 ○自然環境 ○生活環境 ○民俗と民習 ○社寺・文化財   Ⅴ 第五巻 通史・地誌編 <85(S60). 3.1>    ○通史篇:生駒地方地史 第一章 伝承の生駒 第二章 上古の人々 第三章 中世の社会 第四章 近世の生駒 第五章 生駒の近代化 第六章 現代の生駒    ○地誌編:北部地域/中部地域/南部地域 ******************* ~抜 粋~   (文中の太字は引用者による。)  Ⅰ 第一巻 資料編   ○概説篇:生駒市のあゆみ 藤本寅雄   <その一 生駒のはじまりと神話>    生駒谷(引用者:生駒山系と矢田丘陵にはさまれた大きな谷間)がまだ馬鍬(まぐわ)の淵(引用者:竜田川中流域にあり)の峡谷をとざして湖水であったとき、その岸辺に狩猟生活をした原住民の繩紋文化は小平尾遺跡と言われて、大字萩原の地から食器の一部らしい土器の断片がわずかに発掘されているが、隣接する交野、枚岡地方のように多くは見当らない。また少量である

  • 各文献をつなぎ合わせた「生駒の神話」

    (1)饒速日尊、葦原の中国に降臨す(『先代旧事本紀』より) ①天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。 瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。 高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。 天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みし

  • 古代日本の地形

    魏志倭人伝に「倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島さんとうに依りて国邑くにむらをなす」となっているように、卑弥呼の時代(弥生時代後半)になっても、「山島」(山が海ぎわまで迫っていて平地に乏しい地形)と呼ばれる地形が日本の地形であった(古代日本の地形想定地図・奈良湖・河内湾ご参考)。 つまり、日本列島は島と海辺と川と山だけで、のちの平野部分はほとんど海水で覆われていた(現在の平野を流れている川は、海水が引いたのちの海の跡である)。そのため、「国生み神話」(ご参照)にも平野(平地)を生んだという表現はない。 現在とは異なり、平地に乏しい分ぶん海は内陸深く入り込み入江となっており、現代人の想像以上に、船を使えば、短時間で遠くでもどこへでもいくことができた(陸路はほとんど、必要なかったし、なかった。現在でも近江八幡などでは田んぼにいくのに船で行く。そんな感じだった)。 現在の平野部分はほとんど海水で覆われていて、海は内陸深く入り込み入江となっていた。このことを押さえておかないと古代の日本のことは理解できない。 その例として、玄界灘と有明海の間は、現在では陸地になって船は通行できないが、魏志倭人伝が書かれた時代には水道となっており船が行き来していた(ご参照)。現在の地形だけを考慮して魏志倭人伝の記載に従って邪馬台国の位置を探すことをしている(古代には玄界灘と有明海の間は水道となっていて船が通行していたなど古代の地形を考慮していない)から、邪馬台国はどこにあったかがいつまでたっても分からないのである。 なお、現在内陸にありながら「津」「崎」「浦」「櫛羅くじら」(注)など海にかかわる文字を含む地名のつくところや貝塚のあるところは古代は海辺であったところである。 (注) 葛城山への登山者は登山口付近に櫛羅という地名がある(ご参照)ことをいつも疑問に思っている。 最近頻発している水害の被害地の多くは古代に海水で覆われていたところで、防災についても、古代の地形を考慮すべきとの意見が出されていて、古代に海水で覆われていたところでは、そのことを考慮すべきときにきている。 古代の地形を重視しようという機運は、古代史研究、防災事業のほか、まちづくり・観光等の分野でも高まってきており、それを背景に人気番組となったのがブラタモリである。 なお、気候についても考慮しなければ疑問が増える。たとえば、現在冬になれば雪で覆われるようなところにな

  • 日本古代の謎・疑問 <作文中>

    【2】【1】以外の謎(3)アマテラスは江戸時代までは男だった、というのは本当?(2)卑弥呼、蘇我蝦夷・蘇我馬子という侮蔑的な名前がなぜ付けられているのか。(1)伊勢神宮はなぜ、日向、出雲、大和から遠い伊勢に建てられているのか。関連して、天皇はなぜ明治になるまで、伊勢神宮に参拝しなかったのか。【1】記紀の謎(9)八幡伸は、全国約八万神社の半数をしめながら記紀に記載がないのはなぜか?(8)八世紀初頭に成立した記紀に“富士山”がまったく登場しない。それにもかかわらず、七五九年頃に集成された「万葉集」には、富士が霊峰として華々しく登場しているのはなぜか。⇒ このページの『いま蘇る縄文王国の全貌』に答あり。 (7)皇軍の悪行を堂々と誇らしげに述べる(講談社学術文庫版P.96など)のはなぜか?(6)日本書紀には「長髄というのはもと邑(むら)の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人は鵄の邑(とびのむら)と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。 」とあるが、なぜ長髄の邑を鵄の邑と改名されたのか?⇒鵄は長髄彦(=長髄の邑の指導者の意)の守護神であった(ご参照)から。  (5)日本書紀の一書に古事記が出てこないのはなぜか。 (4)なぜ、ツクヨミの出番は少ないのか。(3)なぜ、今日では口に出して読めと言われればセクハラになる(=女神を辱めて殺すという口に出しては読めない)ような記述がなされているのか。(2)「記」と「紀」に食い違う記述があるのはなぜか。(1)なぜ、次のことを語っていない(隠している)のか? ①邪馬台国、卑弥呼<下に注> ②奴国または伊都(委奴/イト)国 ③奴国王または委奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらったこと ④倭国王または伊都(委奴)国王の帥升スイショウが後漢み遣使したこと ⑤卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらったこと ⑥銅鐸⇒<答>天孫族(天津族)は、中国に朝貢していた邪馬台ヤマタイ国を滅ぼしたことが不利益(中国に攻められるなど)にならないようにするため、それを隠すため、自らの国を邪馬台ヤマト国と称し、自らが作成した記紀には邪馬台ヤマタイ国およびそれにかかわること(①~⑤)は一切記さなかったから。記紀は自分たちに都合の悪いことは記さない(隠している)。なお、同じ理由(都合の悪いことを隠すため)で記紀は、かつて出雲族が日本列島中央部

  • 西之京丘陵(京阪名丘陵)のこと

    〇wikipedia 〇西側を富雄川、東側を秋篠川に挟まれた丘陵で、北端は、北部で北東に向きを変える生駒山地と山田川で区切られ(現在は北大和住宅地になっている)、南端には大和郡山城がある・・・その他、西之京丘陵の地理環境については生駒の地理ご参照。 〇秋篠川は地形の変動により上流部の流域を北部にある山田川に奪われた「河川争奪地形」として国土地理院の「日本の典型地形」に認定されており、山田川に奪われた地域に降った雨水は大和川でなく、木津川を経て淀川に流れていくことになった、とのことである。 〇多くの部分が住宅地となり<この地域の住宅開発の例(ミラー)>、北端にある生駒市立真弓小学校区(上町・真弓・真弓南・北大和)で育った作家の森見登美彦さんが、同学区内に作られたばかりの北大和住宅地を舞台に小説「ペンギン・ハイウェイ」(生駒検定<全国版><問22>ご参照)を書いた。 なお、森見さんのペンネームの登美彦は、西之京丘陵をも本拠地とする生駒神話の主人公の長髄彦ナガスネヒコの別名である登美彦に由来する。  〇万葉集等では跡見とみの岳おかとして詠まれている・・・生駒検定<全国版><問2>の(5)をご参照。 〇西之京丘陵には次のような生駒神話ゆかりの古蹟がある(いずれも、富雄川流域東側、つまり、鳥見谷東側にある)・・・これらについては、生駒の神話ゆかりの古蹟ご参照 北部西麓には・・・(北から順に)「金鵄発祥之處」の碑、長弓寺(その東に真弓塚) 、「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑」の碑 中央部西麓には・・・(北から順に) 添御縣坐神社、大倭神宮、登彌神社 〇西之京丘陵越の道・・・西之京丘陵を越えて、高山谷・鳥見谷と平城京・奈良方面を結んでいた・・・このページの「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」の地図とその地図の北側の地図ご参照 ・高山谷を通ってきた清水道の終点である仏坂を起点に西之京丘陵を越えて平城京を経て転害門に至る一条街道 ・田原谷の出店を起点とし白谷を越えて鳥見谷の法融寺前の月見橋に至り、そこより西之京丘陵を越えて一条街道に合流する上津鳥見路かみつとみじ(磐船街道〔の延長〕ともいう) ・暗越奈良街道は鳥見谷の砂茶屋の下鳥見橋より西之京丘陵を越える。**************...

  • 生駒の神話ゆかりの古蹟

    <生駒の神話ゆかりの古蹟は、生駒山地、矢田丘陵、西之京丘陵にあります。>(*)円滑な位置把握のため生駒の地理を確認してください。 【1】<北から順>・・・位置は右の「古蹟地図」をご参照(各項目の番号は地図中の赤丸番号に対応)①生駒山地北部の哮峰(峯)(たけるがみね/古くはいかるがだけと呼んだとも)・・・饒速日命 (ニギハヤヒノミコト)が天降った場所との伝承地。天(あま)降(くだ)るとは、渡来人が半島より海(あま)を渡って、つまり南に下(くだ)って、列島に渡来することで、この古蹟は、饒速日命(=早期渡来人を体現)が、日本海または瀬戸内海方面から淀川を経て天野川上流まで遡ってきたことを伝えています。鳥越憲三郎「神々と天皇の間」ご参照  ②生駒山地北部の磐船神社・・・哮峰に天降ったとされる饒速日命を祀っています。「登美毘古大神」の碑もあり。 ③西之京丘陵北端西麓の「金鵄発祥之處」の碑・・・金鵄発祥の地であるとの伝承地(トビ山)に建てられています。金鵄については金の鵄とび(金鵄きんし) ご参照。 ④矢田丘陵北端の入山口(にゅうざんぐち)付近にある「鳥見白庭山」(とみはくていざん)の碑・・・白庭山は、哮峰に天降った饒速日命が遷り住んだところ。鳥見の地名については、トミ(鳥見・登美・富)・トビ・富雄ご参照。 ⑤④のごく近くにある「長髄彦本拠」の碑・・・長髄彦の本拠地であるとの伝承地に建てられています。長髄彦については、 長髄彦ご参照。⑥西之京丘陵北端西麓の長弓寺・伊弉諾(登彌)神社・真弓塚 ⑦矢田丘陵北部山中のひのくぼやま<桧窪山・檜の窪山・日の窪山>・・・饒速日命と命が持っていた天羽々矢あめのはばや(神器の矢)を葬っているとされる山伏塚(「山主やまぬし塚」の訛とも)と「饒速日命墳墓」の碑があります。山伏塚は、発達早期の古墳が簡単なものとして破壊されたものといわれています。 この古蹟の場所⇒白谷バス停西すぐの北の入山口(ここは、矢田丘陵縦走路北の入口でもある/写真.jpg/写真.jpg)と総合公園のグランド奥右側の南の入口(写真.jpg/写真.jpg)を南北に結ぶコースの中ほどあたりにあります。両入口を結ぶコースはしっかりと踏み固められているので、できれば磁石を持参して、南北の方角を維持して進めば到達することができます。ただし、当該古蹟(碑文面を真南とする「饒速日命墳墓」の碑とその背後の山伏塚と、 その左後の赤白鉄塔を映

  • 生駒の地理

    (地図はすべてクリックで拡大できます。) 〇生駒の地理の最大の特徴は、4つの川(天野川・山田川・竜田川・富雄川)と3つの山系(生駒山地・矢田丘陵・西之京丘陵)が生駒四河川の水源・分水嶺地帯に収れんしていることです。それを踏まえながら、まず、右の生駒市~奈良市中西部の地形図を見て、以下の説明文をお読みください。  〇生駒市西部の奈良県と大阪府の府県境沿いには、生駒山地(連峰/山脈) が南北に走っている。その東側の生駒市と奈良・大和郡山両市の市境沿いには南北に矢田丘陵(記紀・万葉では「平群の山」)が並立している。この山地と丘陵の間には竜田川が流れ、その上流域は生駒谷、現壱分・有里より南の下流域は平群谷と呼ばれる。矢田丘陵の東側には西之京(京阪奈)丘陵があり、この2つの丘陵の間には富雄川が流れ、その流域は鳥見とみ(富雄)谷と呼ばれ、その最上流地域は高山谷(古くは鷹山谷)と呼ばれる。なお、高山谷と天野川最上流地域の田原谷南部をも鳥見谷ということもあった。西之京丘陵の東側には秋篠川が流れる。  〇生駒山地は、北は淀川、南は大和川に至る、東西4~5km、南北35kmの細長い山地。矢田丘陵は、北端を白谷(現生駒市上町・白庭台)、南端を法隆寺付近とし、南北約13㎞。西之京丘陵は、北端を北大和、南端を大和郡山城付近とし、南北約10㎞。 。 〇生駒は4つの河川(竜田川・富雄川・天野川・山田川)の誕生地であり、生駒北部は、それら生駒四河川の源流・分水嶺地帯となっている。  〇生駒山は、生駒山地の全部または部分をいう場合、その主峰(標高642m)とその近くの峰々をいう場合、主峰のみをい う場合、の3通りがある。 〇生駒山地は、古くは、西側に、海の向こう方面への門戸的役割を果した河内湾・河内潟・河内湖、東側南部には生駒谷・平群谷、その東側に並立している矢田丘陵をはさみ、大和湖(奈良湖)を擁していた(右の地図 ご参照)。   〇生駒山地・矢田丘陵をめぐる行政区地図⇒     〇生駒四河川の水源・分水嶺地帯をとりまく水系・・・(この地図ご参照)近畿地方の一級水系/大和川水系/奈良県の水系/淀川水系 /古代、京都は瀬戸内海と日本海の陸内港(「逆・日本史 3」.pdfの第一章をご参照) ・山田川は木津川と合流、その合流地点より、遡れば伊賀を経て伊勢湾・東国と、宇陀など大和深部地域へと通じ、下れば淀川と合流する。天野川は淀川と合流、

  • 生駒の古道

    (1)円滑な位置把握のため、生駒の地理を確認してください。 (2) 生駒の古道を示す略図・地図⇒上から順に①~⑥ ①「生駒山越の(峠)道」の略図<その1> ②「生駒山越の(峠)道」の略図<その2>(生駒山系と歴史路の観光資源展開より) ③「生駒山 直越」と「矢田丘陵(越)の(峠)道」の略図 ④③の地図の北側(尊延寺越・傍示越あり)の略図 ⑤「生駒山越の(峠)道」と「矢田丘陵(越)の(峠)道」の地図   ⑥「生駒の古道(荒坂越・尊延寺越・傍示越・亀瀬越を除く)」の略図 <この概念図に記載の生駒(山地)縦走路の詳細ルートはこちら(リンク)> *注 : 地図中の「出店」・・・「店」は「見世」とも表され、人が集まる所に棚を置いて品物を売る所で、それが出たここは、人々が行き交う交通の要衝であった。(3)生駒の古道一覧 <1>生駒山越の峠道・・・生駒山地を越えて河内(現大阪府)と生駒谷・平群谷とを結んでいた。このうち、河内と大和を結ぶ近道は(生駒山)直越(の道) ※直越・・・一般には「ただごえ」と読まれていますが、東大阪市役所など地元では「じきごえ」と読まれています。 <2>平群の山越(矢田丘陵越)の道 ・・・矢田丘陵を越えて生駒谷・平群谷と鳥見谷とを結んでいた。 <*>西之京丘陵越の道・・・西ノ京丘陵を越えて高山谷・鳥見谷と平城京・奈良とを結んでいた。このページ(西之京丘陵のこと)に記載しているが、現生駒市内を通る西之京丘陵越の道はない。 地図 ⇒(2)の③「生駒山 直越」と「矢田丘陵(越)の(峠)道」の略図 と ④③の地図の北側(尊延寺越・傍示越あり)の略図 <3>生駒南北の古道・・・生駒地域を南北に通る道 <*>宝山寺参詣道(4)生駒の古道等の概念図のまとめ(一覧)(5)すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす(6)ご紹介・・・「生駒の古道」(↓ 表紙 )<紹介記事・報道資料> (7)参考 ①ハイキングマップ一覧 ②<大阪府の自然歩道には、東海自然歩道、生駒縦走歩道、ダイヤモンドトレール、近畿自然歩道などがあり、途中を一般道でつなげば周辺山系を環状に約300kmにおよぶ長距離ハイキングコース「環状自然歩道」になります。 >(大阪府のHPより) ③現代の生駒越えメインルートは、これ.pdfではないだろうか。 ④大阪府民の森のマップ<ミラー>()************** ...

  • 神武東征の目的地は移行した

    (1)日本書紀(現代語訳) には、次のように記されています。  神日本磐余彦天皇カムヤマトイハレヒコノスメラミコト(神武天皇)いわく「塩土の翁しおつちのおじに聞くと『東の方(引用者注 : 生駒山の向こう側)によい土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日にぎはやひというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる。」 (2)(1)に記された、「饒速日」が「天の磐舟いわふねに乗って、とび降ってき」て住まいした「大業をひろめ天下を治めるによい」「この国の中心地 」とは、矢田丘陵の北端の白谷にある「鳥見白庭山」(現在「鳥見白庭山 」の碑が建立されている地一帯)でした(「鳥見白庭山 」の碑の場所は、このページ記載の「古跡地図」ご参照)。ここは、生駒四河川源流・分水嶺地域(こページ記載の生駒市~奈良市中西部の地形図ご参照)にあたり、川・海路が人・物・情報を運ぶルートであった先史時代・古代、そのルートが集中しており、人・物・情報のネットワークの結束点となっていた(生駒の地理ご参照)ので、神武から「この国の中心地」とみなされたのです。 (3)当初、神武がめざした「国の中心地」は生駒四河川源流・分水嶺地域でしたが、その後、弥生時代が進み、水田耕作が葦の生い茂る大阪平野・奈良盆地・京都盆地に拡大することにより葦原中国が形成される中で、人・物・情報のネットワークの結束点、つまり、「この国の中心地」は生駒四河川の水源・分水嶺地帯より葦原中国(狭くは、奈良盆地)と呼ばれた地域に拡大・移行したといえます。  (4)「この国の中心地」 が奈良盆地に拡大・移行したことで、神武東征の目的地も移行・拡大し、結局、神武は、ナガスネヒコとの2回目の会戦の場の奈良盆地東南部にあるもう⒈つの鳥見である鳥見山(この地図ご参照)で霊畤れいじ(生駒神話の小辞典ご参照)おこなったのです。 (5)以上のように、「この国の中心」の移行が、生駒の神話の背景にはあり、鳥見という地名が奈良盆地の西北部と東南部の2か所にある理由です。**************...

  • 和魂(わこん/にきたま・にぎたま・にきみたま・にぎみたま とも読む)

    「倭わの魂たま」は「和わの魂たま」(和魂わこん)と言い換えることができます。「和魂」とは、「敵対するものを融和させる」「争いを治める」魂のことで、「敵対するものを融和させ、争いを治める英知」(=非戦・避戦の精神)と言い換えることができます。これは神話では、最初、ニギハヤヒとして登場します。「和魂=ニギハヤヒ」はナガスネヒコと共にありましたが、ナガスネヒコが「殺戮」 の意思をもった瞬間にナガスネヒコを離れ、金の鵄を遣わして、または、自身が金の鵄に化身してナガスネヒコを打ちのめしました。そして、改心した(つまり、2度と「殺戮」はしないと決意した)イワレヒコにつき、倭を治める資格を与えました。そして、歴代の天皇に付与されていきました。<以上は、この見解を参考にして記しました> 「倭わ=和わ」は、穏やかで仲良くすることで、「大倭やまと=大和やまと」はみんなが仲良くすることであり、「大和の国=日本」は、「和魂」を付与された(身につけた)天皇が治めるクニです。神話でいう「和魂」を付与された(身につけた)イワレヒコが神武天皇として即位したことは、歴史的には「大和の国=日本」というクニがつくられたことを示しています。しかし、クニに、「武力=暴力=強制力」を属性とする国家が確立していくと、上記したように、当初はクニを統(す)べり(争いなくまとめ)治める(ととのえる)者であった統治者は、国家を統治する(「権力=強制力」でおさえととのえる)者となっていき、統治者としての天皇は「和魂」と「権力」とのはざまに置かれ苦悩することになります。 その苦悩を最も見える化した天皇が聖武天皇です。彼が、縁起の法<全てのものは支え合っている(ので殺戮などありえない)という教え>を根本の教えとする仏教を信奉し、大仏造立の詔を発し、行基に命じて大仏を建立させ、各地に寺院を建てさせたことは、それを見える化させました。また、彼が遷都を繰り返した背景には、その苦悩があったという見方も可能です(遷都が繰り返されたことによる平城京の荒廃を嘆く声については、万葉集 巻6-1047の歌をご参照) 天皇の苦悩は思いがけないかたちで解消されます。鎌倉幕府3代執権・北条泰時が「(日本史上唯一の)革命」、つまり「朝廷=天皇権力」の打倒を断行し、現在に至る象徴天皇制(武士や国民など何らからの後ろ盾やお墨付きによって日本の象徴的

  • 平成天皇は、戦争を準備する恐れのある「国旗・国歌の強制」に明確に反対した。

    (1)  天皇「国旗・国歌 強制でないのが望ましい」 .pdf/天皇諌める.jpg<天皇のみごとな切り返しを写した写真→(クリックで拡大)> :  違憲行為(国旗・国歌強制)の動きを牽制。 (2)日本国憲法の下で、初代天皇より天皇が受け継いできた「和魂」(=非戦・避戦の精神)が見える化したのが、右上の写真の場面でした(この場面の解説記事.pdf)。**************...

  • 嶋恵さんのブログ「歴史探訪」

    嶋さんのブログは、元はYahooブログでしたが、Yahooブログ の廃止に伴いlivedoorブログに移行したため、元のブログを閲覧するのはできなくなりなりました。そこで、下記の太字の記事については現在のブログで読めるようにしましたが、他の記事はまだ読めるようにはできていません。 (1)歴史探訪(09.4.13 最初)/ 歴史探訪(現在) ←すごい調査力と筆力(2)(1)の抜粋 ①(コメント欄)崇神と応神/上と下/百舌鳥・古市古墳群 /塩湖が淡水湖になってしまった理由/右の続き/ギリシャ神話と日本神話が似ていると思うところ/(コメント欄)「縄文時代が素晴らしかった」の意味/『記紀』は、応神系王族を隠すためにウソのオハナシを並べ立てた/江戸時代までの相撲は興業 /世界の神話と『古事記』の神話の相似 /「約束の地」/元号について/カタクリと鹿と塩と人間 /『古事記』の仕掛け /先住民の辿らされた運命 /成人T細胞白血病(ATL)ウィルス」の分布 /国家の成立過程/歴史に見る人口変動 /カバネと骨品制(右の続き)/カバネについて(右の続き)/古代の姓について/ミシマミゾクイの人物像プロファイリング/靖国神社/国家神道の成り立ち/万世一系について/高天原について/5世紀後半のクーデターによる王統の交代(崇神系から応神系へ)/瀬戸内海は元は、現在の奈良盆地のこと/日本海と琵琶湖を結ぶ船越/奈良の海とクジラ /(コメント欄)ここは田舎で何にもない /渡来の波/韓国ドラマを見れば古代日本のことがよくわかる(この記事のコメント欄ご参照)/河内湖 ②トミのナガスネヒコ(ナガスネヒコ・ナガスネビコ/トミヒコ・トミビコ)に言及あり 2014.10.11~2014.10.25 /まとめ(10.6.30) /「夫須美(結)大神」は最後の大国主・ナガスネビコである ************** ...

  • 生駒の神話と天皇制

    (1)生駒の神話のストーリーの1つは、ニギハヤヒに支持されてトミのナガスネヒコが保持していた内つ国(倭やまと/生駒山脈の東側/縄文時代以後、海湾→海水湖→塩分の残る湖と湿地の盆地→塩分の残る湿地にまず生い茂る葦原の湿地盆地→塩分の抜けた湿原盆地→葦原を切り開いてつくられた水田と湿地の盆地→水田と乾地の盆地へと変化した奈良盆地)を治める資格が、ニギハヤヒの支持がイワレヒコに移ることによりイワレヒコに移り、それによりイワレヒコは神武天皇として即位でき、その後の天皇は、ニギハヤヒの子孫であるモノノベ(モノノフともいう)が行う儀式(いつのころからか大嘗祭と呼ばれる)によりヤマトを治める資格を付与されてきた、というものです。(2)トミのナガスネヒコ(単にナガスネヒコまたはトミヒコともいう) の出自・本拠地は内つ国の北西にあるトミ(鳥見)で、ナガスネヒコとイワレヒコ の2回目の戦いの場所は内つ国の南東にあるトミ(鳥見)でした。トミヒコは、トミを出自とするヒコ(彦/優れた男子)の意で、その妹の名のトミヤヒメはトミを出自とするヒメ(媛/優れた女子)の意です。2つのトミ(鳥見)の位置はこの地図.jpgご参照。なお、トミはトビ(鵄)が変化したものです(ご参照)。(3)(1)は、天皇の権威(ヤマトを治める資格)は、天皇に先天的に内在するものではなく(=万世一系の天皇家の祖霊に源泉があるのではなく/そもそも万世一系の思想と体系を創作したのは藤原不比等で、「万世一系」の語は、慶応3年10月の岩倉具視の「王政制復古議」が初出<注> )、外付けであることを今に伝えています。外付けとは、ニギハヤヒの魂(=倭の魂/稲魂)が付与されることで、神武天皇以後の天皇は、いつのころからか大嘗祭と呼ばれるようになる儀式によってそれが付与されたことです。北条泰時の革命により天皇がヤマトを治める資格を失って象徴天皇制が始まる(ご参照)と、大嘗祭は形だけのものになり、日本の象徴という天皇の地位は、武士(モノノフ)の後ろ盾という外付けにより維持されていくようになりました。そして、明治維新政府と大日本帝国政府の天皇の政治利用(神格化させて国民の統治と戦争動員に利用)を経て、戦後、日本国憲法は天皇の政治利用を防ぐため、日本国民統合の象徴という地位は日本国民の総意に基づくという外付けによって天皇に付与されると規定したのです。 <注>皇位継承の歴史的変遷・・・「当初は奈良

  • 国譲り

    (1)神話でいう「国譲り」とは歴史上、水田稲作文化の渡来人を狩猟採集文化の縄文人が受け入れ、縄文時代以来の原生林(常緑広葉樹林)が切り開かれ、川の流域には 水田・畑と 村がつくられ、その周辺には、落ち葉肥料・山菜・炭等を供給する 雑木林(落葉広葉樹林)がつくられて ・ ・ の3要素からなる里山(生駒神話の小辞典ご参照)が成立していったことをいう(その受け入れるプロセスについては、このページご参照)。 なお、原生林の林は破壊された(=切り開かれた)ものの、その林は里山の林(雑木林)として復活していったことを描いたのが、映画「もののけ姫」である。(2)国譲り神話.pdf (3)参考 ①国譲り神話と憲法第9条 ②この記事,jpgを読むと、日本の歴史は、縄文的世界観は弥生的人間観に「国譲り」し、弥生的人間観は近代的価値観に「国譲り」してきた歴史といえます。そして今や、近代的価値観は縄文的世界観に「国譲り」すべき時期がやってきたのではないでしょうか ③ もう一つ(諏訪)の国譲り伝承 **************...

  • 「長髄彦とイワレヒコの戦い」「象徴天皇制」「大嘗祭」

    (1)新天皇が、新しく天皇の位についたことを公に告げる5つの儀式を総じて「即位の礼」といいます。それは、平成の天皇が令和の天皇に交代した際(2019年5月1日)は、次のような日程で行われます。 「剣璽等継承 (けんじとうけいしょう)の儀」(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位後朝見(そくいごちょうけん)の儀 」(5月1日/祝日/10分間/宮内庁担当の国事行為)→「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀 」(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為)→「祝賀御列(しゅくがおんれつ)の儀 」(10月22日/祝日/内閣府担当の国事行為) →「饗宴(きょうえん)の儀 」(10月22日<祝日>・10月25日・10月29日・10月31日/内閣府担当の国事行為) 以上で、天皇即位にかかる“法的”・“政治的”な手続きは完了します。にもかかわらず、11月14日~15日には、国事行為ではなく皇室の祭祀である「大嘗だいじょう祭」が予定されています。 これは、新天皇の身体に天皇霊を付ける儀式です。天皇霊とは、外来魂(身体に内在する魂ではなく外から来る魂/用例.jp)、つまり天つ国からの外来神まれびとのエッセンス(=「稲の魂」とする説が有力)で、天皇の権威の源泉です。天皇の権威の源泉は、万世一系の天皇家の祖霊ではないのです(「大嘗祭の本義」の解説.jpg ご参照 )。以上のように天皇の権威は外付けであって先天的なものではないということを周知させることは、神の子孫である (がゆえに「生まれながらにして=国民の意思に関係なく先天的に」国を治める権威を持つ)天皇のために団結するのが日本人のいいところ」などというカルト的言説を唱える人々が 改憲(=壊憲)運動を強めてきている中にあって、日本国民統合の象徴という地位は日本国民の総意に基づくという外付けによって天皇に付与されると規定する日本国憲法を守ることに役立ちます。 折口信夫の「大嘗祭の本義」のこの部分を読むと、大嘗祭によって天皇は「倭やまとを治める資格」を得ることになります。このことは、縄文時代から弥生時代への交代期に生まれた長髄彦伝承を基に成立したと思われる生駒の神話(長髄彦ながすねひこ物語 )を理解するうえで押さえておいてよいことです。(2)折口信夫の言によれば、もともと、天つ国(海の向こうを体現)からの外来神まれびと(=にぎはやひの命みこと~縄文人と住み分け・共存し

  • 大仏造立の詔

    大仏造立の詔は、下記のように「続日本紀」巻十五「聖武天皇 天平十五年正月ー十六年十二月」に記載されている。(1)原文冬十月辛巳。 詔曰。朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相。修万代之福業、動植咸栄。 粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。 夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成、心也難至。但恐徒有労人、無能感聖。或生誹謗、反墮罪辜。是故、預知識者。懇発至誠。各招介福。宜毎日三拝盧舍那仏。自当存念各造盧舍那仏也。如更有人、情願持一枝草一把土助造像者。恣聴之。国郡等司、莫因此事、侵擾百姓強令収斂。布告遐邇、知朕意矣。(2)現代語訳<講談社学術文庫版>(太字は引用者による)冬十月十五日 天皇は次のように詔された。 朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、努めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりとなさけ深い恩恵をうけているけれども、天下のもの一切がすべて仏の法恩に浴しているとはいえない。そこで本当に三宝(仏法僧)の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり、よろず代までの幸せを願う事業を行なって、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである。 ここに天平十五年(引用者:743年)、天を十二年で一周する木星が癸未みずのとひつじに宿る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏るしゃなぶつの金銅像一体をお造りすることとする。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙にひろめ、これを朕の智識ちしき(仏に協力する者)としよう。そして最後には朕も衆生しゅじょうも皆同じように仏の功徳を蒙り、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。 天下の富を所持する者は朕である。天下の権勢を所持する者も朕である。この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、その願いを成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることがができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。したがってこの事業に参加する者は心からなる至誠をもって、それぞれが大きな福を招くように、毎日三度盧

  • 生駒山と矢田丘陵(記紀・万葉では平群の山)は、古事記<雄略記>に登場

    古事記<雄略記>(抜粋) 初め大后日下くさかに坐いましし時、日下の直越ただごえの道より河内に幸行いでましき・・(中略)・・ここをもちて宮に還かへり上がります時、その山の坂に行き立たして歌曰うたひたまはく、「日下部くさかべの 此方こちの山と 畳薦たたみこも 平群の山の 此方此方こちこちの 山の峡かひに 立ち栄さかゆる 葉広はびろ熊くま白檮かし※ 本もとには いくみ竹だけ※生い 末すゑ方へには たしみ竹だけ※生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしみには率ゐ寝ず 後のちもくみ寝む その思ひ妻つま あはれ」と歌ひたまひき ※葉広熊白檮は葉の広い大きな樫の木。「熊」は「神」に通じる接頭語で、神聖なの意をそえたものであろう。 ※いくみ竹の「い」は接頭語で、「くみ」は「組み」。たしみ竹の「た」は接頭語で、「しむ」は密集している意。 <現代語訳> 始めのころ、皇后ワカクサカベノ王みこが日下におられたとき、天皇は日下へまっすぐに越える道を通って河内においでになった・・・・・こういう次第で天皇は朝倉宮にお帰りになったが、あの山の峠に通じる坂の上にお立ちになって、日下部のこちらの山※と、平群の山の、あちらとこちらの山の峡谷※に、繁茂している葉の広い樫。その木の根元には、こんもり茂って枝をさしかわした竹が生え、こずえのほうの斜面には、枝葉に密集した竹が生えているが、根元のいくみ竹のように組んでは寝もせず、こずえのたしみ竹のようにたしかには共寝もしない。が、将来はきっと組み合って寝よう。そのいとしい妻よ。ああ。(以上、講談社学術文庫版より、現代語訳は一部修正して引用/太字は引用者による ) ※日下・・・河内国日下のこと。狭義の日下と広義の日下がある(ご参照)。 ※日下へまっすぐに越える道・・・大和から日下を通って河内・難波方面へ行く、生駒山を「越える近道(直越ただごえという)」のことで、「日下の直越の道」と呼ばれるが、主な道が7つあり(ご参照)、この歌に出てくる道がいずれかは未確定。 ※朝倉宮・・・泊瀬はつせの朝倉宮のこと。所在地は未確定で、現桜井市の脇本・黒崎付近等にあったとされている。 ※「日下部のこちらの山」とは、生駒山・生駒山地のことで、「あちらとこちらの山の峡谷」とは、生駒山地と矢田丘陵に挟まれた峡谷で、竜田川上流域の生駒谷、同下流域の平群谷のこと(この地

  • 明治から戦前・戦中にかけての「非戦・避戦の精神」の顕現

    この文書は、非戦・避戦の精神(戦いを否定する精神)に掲載されています。 (1)1892(M25)年11月発刊の「万朝報」が反戦平和を主張。1903(M36)年11月結成の「平民社」が平民主義・社会主義・平和主義の三大綱領を掲げてたたかいを続けた。日露戦争(1904.2~1905.9)の最中、1904(M37)年8月には、片山潜が、アムステルダムで開催された第二インターナショナルの第六回大会でロシア代表のプレハーノフとともに万国労働者の反戦を訴え、翌月9月には、与謝野晶子が「明星 」に「君死にたまふことなかれ」(※)を発表し、大塚楠緒子くすおこは、雑誌「太陽」の1905年1月号に日露戦争に出征した夫の無事を祈る妻の心情を歌った「お百度詣おひゃくどまいり」を発表した。1910年、石川啄木は9月9日の日記に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。1914.8の第1次大戦参戦、1915.1の対華21か条要求、1918.8のシベリア出兵、1931.9の満州事変に対して、当時の最も有力な経済・政治雑誌「東洋経済新報」は厳しく批判した。1914.9の第34回帝国議会にて第1次大戦参戦(天皇の宣戦布告)に対する反対論が出された。1928.4~5の第55回と1928.12~1929.3の第56回の帝国議会にて山本宣治代議士は命を懸けてファシズム立法たる治安維持法に反対した(そのため、1929.3に刺殺された)。 1932.5の五・一五事件において、首相の犬養毅は銃弾を浴びながらも冷静に「話せばわかる」と対話を求めて暴力を否定し(ましたが、暴力を否定された軍人は激情して「問答無用!」と叫んで丸腰の首相を撃ちました。まだ息が残っていた首相は)、自分を撃った軍人と話をするからここへ連れて来なさいといいいながら息をひきとり、この五・一五事件の2週間前にはNHKラジオで「私が言う産業立国は、皇国主義じゃない。侵略主義じゃない。正反対のものである。わが大和民族は、海外に出ていっても一切の武装」をせず、平和なる工人、平和なる農民、平和なる商人で資材を確保すればいいじゃないか。侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい。決して外国に向かって侵略をしようとなどという考えは毛頭持っていない」と演説しました。<演説はこの記事より引用> 日中戦争が勃発した19

  • 里山(さとやま)

    (1)里山とは、お花見に象徴される弥生的な要素と紅葉狩りに象徴される縄文的な要素とが共存・融合した生産様式・生活・文化・景観のある地域のこと。(2)NHK番組「ニッポンの里山」の里山の定義 :「人と生き物が共に暮らす自然 生命(いのち)響き合う美しい世界」(3)里山とは / 「(学研高山)第2工区=里山」の過去・現在・未来 <いずれも奈良高山里山研究会より>(4)里山の形成とは、原生林(1次自然=照葉樹林)を切り開き(破壊し)て田畑をつくり、破壊された自然が2次自然=落葉広葉樹林として復活・再生することといえる(これを描いたのがもののけ姫)。**************...

  • 「邪馬台国=富雄川流域」説

    ~以下は、「邪馬台国=富雄川流域」説を支持する資料~(4)長髄彦ナガスネヒコは「「生駒地域の首長だっただけでなく、饒速日命にぎはやひのみことの率いる邪馬台国連合の総大将であった」<村井康彦著『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて』(岩波書店).pdf>(3)「卑弥呼=三炊屋媛」説 ・ 「長髄彦=卑弥呼の兄 」説 ・ 「長髄彦の意味=富雄の丘陵の大夫」説⇒神話語句(人名・地名等)を縄文語(アイヌ語)で読むと。 をご参照(2)「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説(1)前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 」参考:邪馬〇国の名称・所在地論争に終止符を打つ論 ⇒ 邪馬台国・狗奴国(日向政権)・大和政権・神武東征 この論によれば、富雄川流域にあった部族連合(国家)の名は、中国の史料が名付けた邪馬台国ではない。  * * * * * * * * * * * * * *...

  • 富雄丸山古墳

    「造り出し」が3段構造と判明.jpg  ⑦矢田丘陵中央部の榁木むろのき峠を越える暗越奈良街道(現国道308号/直越ただごえの道の1つ)を榁木峠から奈良方面に下った富雄川手前の矢田丘陵東麓にある(地図.jpg)。  ⑥直径109mと判明(報道記事.jpg/報道記事.jpg) ⑤最大の円墳 空から確認.jpg ④4世紀後半の富雄丸山古墳.jpg ③「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説(関連 : 「邪馬台国=富雄川流域」説) ②「最大の円墳」であることが判明(ミラー) ①②の以前(「円墳としては最大級の規模」といわれていたとき)の資料⇒出土品 ・ 説明  ・ 説明 ・ 所在地 ・ 説明 * * * * * * * * * * * * * *...

  • 「富雄丸山古墳=卑弥呼の墓」説

    <前田一武 「邪馬台国とは何か。 邪馬台国・富雄川流域説 」より引用> (参考:富雄丸山古墳/「邪馬台国=富雄川流域」説)(太字は引用者による)6「卑弥呼の墓」を探そう。 「卑弥呼の墓」は、少なくとも魏の明帝より賜った「親魏倭王」の印よりは見つけやすいでしょうが、しかし、(引用者: 魏志倭人伝が卑弥呼が葬られた墓の大きさとする)「径百余歩」のこの女王にふさわしい墓が、私たちの探索地域である生駒山周縁に存在するのでしょうか。わずかに残る考古学的物的証拠を手がかりに、この探索の旅に出かけてみましょう。  近鉄奈良線で大阪難波から三〇分ほど、準急列車に乗ります。大阪と奈良の県境、生駒トンネルをくぐると、ほどなく富雄駅に到着します。駅から徒歩で富雄川沿いに10分ほど北に行くと、バス停「出垣内(でかいと)」があります。その横一帯の影蒼とした小高い丘の中に、戦前の学者たちが定めた「神武聖蹟」があります。神武天皇が東征の最終局面において「本陣」を張ったところと言うのです。「聖林研究所」という私有地の中に苔むした小さな石碑と小規模の墳墓があります。  ここが「日本書紀」『巻三』における「神武東征」の最終戦争勝利の地として定められました。なるほど、地形的に見ると、「日本書紀」の記述にたいそうかなっています。  神武天皇は生駒山の大阪寄りの地「孔舎衛坂(くさえさか)」で緒戦を行いましたが、これが激戦で、総司令官でしょうか、長兄である五瀬彦を失う大敗北となります。その敗戦に懲りて、その後の戦いは常に敵軍の東に陣取ろうとします。東に陣を取るのが神意であると考えたので奈良盆地でも東側に陣を張り、三輪山を神体とし、「纏向遺跡」あたりを神域としたのです。この富雄川岸の「神武聖蹟」も敵陣の東岸であり「日本書紀」の記述にかなっています。  そして生駒山を背にして最後まで抵抗する敵将の長髄彦、ついに「決戦」に臨む侵攻軍。大和盆地を挟んで生駒の西軍と三輪の東軍が対峙したのです。  「決戦」はこの地で行われたと推理する戦前の学者の慧眼に、謙虚に敬意を表したいと思います。富雄川を挟んで西側にも小高い丘があり、そこが「まつろわぬ」最後の人物、長髄彦の軍陣と見た学者たちの判断は、地形上からも非常に納得できます。饒速日命の裏切りにあって、あえない最後となった敵将、長髄彦の伝承墓地がその丘の上にありますが、彼には源義経のように北に逃亡したという伝承もあり、今後と

  • 神話語句(人名・地名等)を縄文語(アイヌ語)で読むと。

    ~以下、このページを参照して記述~凡例 : 神話語句=「縄文語(アイヌ語)」=「現代語」=意味 (1)豊秋津洲=「ト・ヤ・アカテュル」=「ト(海/湖)・ヤ(岸の)・<アカ(尾根)テュ(峰)>(山稜)ル(路/跡)」(2)卑弥呼=「ヘル・メム・カ」=「光る・泉の・表面」=水鏡・・・(推論)北九州にあった地域集団連合体(邪馬台国)の巫女 三炊屋媛=「メム・カシ・キヤィ」=「泉の・表面の・光」=鏡媛・・・(推論)トミ(富雄川流域地域)にあった地域集団連合体(これを邪馬台国とする説もあり)の巫女 (倭)迹迹日百襲姫(やまと)ととひももそひめ=「(ヤマト・)タッタル・へル・モ・メム・ソ」=「踊り・光る・小さな・泉の・表面」=鏡の巫女 ⇒以上から、 卑弥呼=三炊屋媛=迹迹日百襲姫・・・ともに巫女という共通点を持つ(3)長髄彦=「ナィ・カ・シル・ニェ/シクル」=「川・岸の・崖の・林/大夫」・・・(推論)かかる地形のある地域の大夫(指導者)。かかる指導者は各地にいて、うち、トミ(富雄川流域地域)のそれを「トミのナガスネヒコ」というが、日本神話では「トミのナガスネヒコ」を略して「ナガスネヒコ」または「トミヒコ」という場合が多い。 ⇒(2)を考慮すると、トミの長髄彦=三炊屋媛の兄=倭迹迹日百襲姫と同様の巫女の兄=卑弥呼と同様の巫女の兄 ・トミの長髄彦は、 倭迹迹日百襲姫(という巫女)の兄である(欠史八代の中の)第八代孝元天皇と同様に巫女の兄である(4)(大日本)根子彦国牽(おおやまと)ねこひこ-くにくる(これは、日本書紀での和風諡号しごう/8世紀後半に淡海三船が撰進した漢風諡号が孝元天皇)=「ナィ・カ/シクル/クッ・ニクリ」=「川・岸/大夫/崖の・林」 ⇒ここから、トミの長髄彦=孝元天皇という説が出されている(5)(3)の「川・岸の・崖の・林」と(4)の「川・岸/崖の・林」は、トミの長髄彦=孝元天皇が拠点とした富雄川流域の丘陵を指すと考えられる。************** ...

  • 生駒南北の古道

    生駒南北の道とは、生駒地域(生駒の地理ご参照)を南北に通る主要道で、次のようなものがあります。 (1)清滝街道・・・竜田川の全流域(源流域から大和川に合流するまで)の川沿いの街道。田原谷の新茶屋以南は磐船街道ともいう。このページの「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」 の地図ご参照。 (2)上津鳥見路かみつとみじ・・・田原谷の出店を起点とし、白谷を越えたあと富雄川の川沿いの街道となり、鳥見谷の西村に至り(起点からここまでが現生駒市)、(現奈良市に入って)法融寺前の月見橋に至り、そこより西之京丘陵を越えたのち一条街道に合流した街道。磐船街道(の延長)ともいう。このページの「生駒山 直越」と「矢田丘陵越」 の地図 ご参照 。 (3)庄兵ヱ道・・・「宝山寺の湛海さんから頼まれて、鬼取村の庄兵ヱが荒れ果てていた宝山寺から教弘寺を経由して鳴川の千光寺までの道を整備した」との言い伝えが残っている道。宝山寺参詣道の1つ。このページの「生駒山越の(峠)道」と「平群の山(矢田丘陵)越の(峠)道」 の地図ご参照。 初めて庄兵ヱ道に行く方へ ①庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号線)について ・困難点・・・山道入口が8つもあります。 ・困難点を解消するため、このページに記載の概念図<庄兵ヱ道北部(宝山寺~国道308号)/暗峠・宝山寺道(暗峠~宝山寺).jpg>と磁石を併用して道標代わりにしてください。入口さえ分かればおおむね全ルートを通してよく踏み固められた道が続いています。他の生駒の古道もそうですが、篤志家の皆さんが藪・倒木払いやテープマーキング等の手入れをして下さっていることを感じさせてくれる道となっています。他の古道紹介の際にいちいち篤志家の皆さまにお礼を申し上げることができませんので、ここでまとめてお礼の言葉を述べさせていただきます。本当にありがとうございます。  ②庄兵ヱ道南部(国道308号線~千光寺)について ・困難点・・・国道308号線上の庄兵ヱ道が通っていた箇所に土砂堆積がなされたため、その箇所の道が失われ、その箇所が通行困難になりましたが、代替の入口がわかりにくくなっています。また、千光寺から北上する場合、この道の山道への入口がわかりにくくなっています。 ・困難点を解消するため、このページに記載の概念図<生駒山上~暗峠~「鳥見霊畤趾磐座」の碑~南生駒駅/庄兵ヱ道南部(国道308号~千光寺)>と磁石を併

  • 物語の作り方/物語のでき方

    (6)神話・伝承など言い伝えをもとにイマジネーションを加えることで真実・真理が見えてくる。ポスト真実(post-truth<ポスト・ツゥルース>/世論の形成において事実や真実が、感情や個人的信念への訴えかけより影響力に欠けている状況/事実や真実が重視されなくなった時代)の時代を突破する鍵は神話・伝承にある。(5)『君の名は。』大ヒットの理由⇒新海誠監督が自ら読み解く/大ヒットの理由を勝手に分析してみました/爆発的ヒットの秘密/大ヒットした3つの理由/大ヒットはなぜ“事件”なのか?/中国でも大ヒット その理由は/大傑作となった7の理由/NAVERまとめ(4)映画ヒットの方程式.jpg(3)普遍的に人類の心をとらえる英雄物語の基本パターン(ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」が明示)⇒ご参照1.pdf /ご参照2(2)現代人にもプログラムされている神話的思考(1)物語の組み立て方の参考例.pdf**************...

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