すべての古道は、非日常(解放区)としての寺社をめざす
(1)生駒の古道は、すべて、伊勢街道(伊勢神宮をめざす)または熊野街道(熊野大社をめざす)または宝山寺参詣道(宝山寺をめざす)です。(2)<次の文>を読むと、江戸時代、一度に何百万人もの人々が、日常の封建的な束縛から解放されて自分を取り戻すための非日常(解放区)を得るために伊勢街道を伊勢神宮に向かったことがわかります。このように、人々は、非日常を得るために、伊勢街道と同様に、熊野街道を熊野大社に向かい、宝山寺参詣道を宝山寺に向かったのでしょう。そのために、現在では古道となっている街道・参詣道はつくられたのです。今でも、ところどころに古道標・石仏・茶屋跡などが残っている古道を歩くと解放的な気分に浸れるのはそのためなのでしょう。なお、民俗学では「黄泉(よみ)の国から帰ったイザナギが目を洗うと神々が生まれるとされたように、けがれが祓(はら)われると逆転して神になるという民間伝承は多い。寺院や神社も、けがれの吸引・浄化装置として働いてきました。」<この文書(ミラー)より/太字は引用者による>としています。日本では人々は古来、ケ(=日常を生きる力)のカレ(=枯れてしまうこと)の時には、「ケのカレ=ケガレ(穢れ)」(古代日本では、彦や比古をビコともヒコともいうように、濁点があってもなくても同じでした)を祓はらう(生きる力を復元する)ための非日常(解放区)の場・時間(=ハレ)を寺社に求めたのです。(下に<注>) <次の文> 「おかげでさ するりとな ぬけたとさ」。こう歌い踊りながら歩いたという。江戸時代の伊勢参りの集団、「おかげ参り」の一行である。親や主人に無断で抜け出した子どもや奉公人の「抜け参り」も多かった▲何度か発生した大規模なおかげ参りは一度に何百万という人数に達したという。着の身着のままで抜け出した人々はまず施(せ)行(ぎょう)を受ける印となるひしゃくを与えられ、食物や路銀(ろぎん)、寝場所などを道筋の家々から施されて伊勢へ向かった▲ちなみに勝海舟(かつかいしゅう)の父親・小吉(こきち)は少年時代に家出したおり、ひしゃくを持って家々を回り、1日で米麦5升と120文の銭を施されたと記している。庶民の旅へのあこがれと、その夢をかなえた江戸時代の旅文化には本当に驚かされる<この文.pdfより/太字は引用者による > <注>本来は民俗学の用語であった「ハレ」や「ケ」は、近年は、まちづくり用語や政治用語としても使用されてい