アメリカの写真家、テリ・ワイフェンバックの写真集。 画面のごく一部だけにフォーカスして背景ボケを思い切り広く取り込んだ光豊かな写真たちは、取り立てて特殊な被写体でなくても、いかようにでも美しく見ることはできるのだ、ということを主張しているようである。 どのページも、幻想的で色彩豊か、瞑想的で夢見るような感覚があるというか、ゆっくりとページを繰っているだけで、なんとも穏やかで幸福な気分になってしまう。
『ミケル・アルテタ アーセナルの革新と挑戦』/チャールズ・ワッツ
ミケル・アルテタがアーセナルの監督に就任してから22-23シーズンの終わりまでの歩みと、その背景について描いた一冊。ヴェンゲル→エメリ→アルテタという監督の変遷のなかで発生していた組織内部の混乱、パンデミック対応、エジル問題,オーバメヤン問題を経てのスカッドの若返り、ジャカの復活、22-23シーズンの大躍進と後半での失速…といった、グーナーにとってはおなじみの、ほんの少しだけ懐かしいトピックが取り扱われている。アマプラの『オール・オア・ナッシング』の期間とも被っているので、合わせて見るとより楽しめるだろう。(まあわざわざ本書を手に取るような人は、AONはとっくに視聴済みという人がほとんどだろうけれど。) ワッツによれば、アルテタのいちばんの強みは、その信念にあるという。たしかに本書を読んでいると、組織を強くするためにはリーダーがブレないでいることが何より肝要なのだ、ということがよくわかる。まず妥協できないライン、これという価値観をしっかりと明示し、その基準、規律をメンバー全員に守らせる。そしてそのようなリーダーのあり方をメンバーが信じ、各自が自分自身の責任を全うしていく。それこそがマネジメントの根幹であり、それができて初めて組織というのは本当に団結できる、ということがアーセナルの混乱から復活までのどたばたを通して感じられるようになっているのだ。
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アメリカの写真家、テリ・ワイフェンバックの写真集。 画面のごく一部だけにフォーカスして背景ボケを思い切り広く取り込んだ光豊かな写真たちは、取り立てて特殊な被写体でなくても、いかようにでも美しく見ることはできるのだ、ということを主張しているようである。 どのページも、幻想的で色彩豊か、瞑想的で夢見るような感覚があるというか、ゆっくりとページを繰っているだけで、なんとも穏やかで幸福な気分になってしまう。
アガサ・クリスティの長編第2作。おっさんふたりによる謎解きミステリだった前作とは異なり、トミー&タペンスという若いカップルを主人公にした、スリラーというか冒険小説という感じの一冊だ。とくにクオリティの高い作品ではないとはおもうけれど、バンドのデビューアルバム的な初期衝動というか、若さゆえの勢いや輝きみたいなものが感じられて、そこがなかなか素敵な一冊になっている。
タイトルのテーマについて、1932年にアインシュタインとフロイトとのあいだで交わされた往復書簡。 人間は、根源的に暴力的な傾向や攻撃性を持っているので、それらを取り除くことは難しい、とフロイトは言う。できるとしたら、エロス(愛や絆)に訴えかけるとか、文化の発展に期待するくらいだろう、と。
80年代後半、ポンピドゥー・センターからの依頼を受けたヴェンダースが、山本耀司のパリコレに向けた準備の様子を追ったドキュメンタリー映画。フィルムカメラとビデオカメラ、パリと東京、アイディンティティとイメージ、永遠のクラシックと刹那的なモード、オートクチュールとプレタポルテ、芸術とビジネス、生活道具としての衣服と消費文化財としてのファッション…といった要素たちを対置したり、それらが互いを内包し合ったりしている様を映し出したりしながら、そのすべてを一息に丸呑みしてしまう怪物、山本耀司の思考に迫っていこうとする。
ミケル・アルテタがアーセナルの監督に就任してから22-23シーズンの終わりまでの歩みと、その背景について描いた一冊。ヴェンゲル→エメリ→アルテタという監督の変遷のなかで発生していた組織内部の混乱、パンデミック対応、エジル問題,オーバメヤン問題を経てのスカッドの若返り、ジャカの復活、22-23シーズンの大躍進と後半での失速…といった、グーナーにとってはおなじみの、ほんの少しだけ懐かしいトピックが取り扱われている。アマプラの『オール・オア・ナッシング』の期間とも被っているので、合わせて見るとより楽しめるだろう。(まあわざわざ本書を手に取るような人は、AONはとっくに視聴済みという人がほとんどだろうけれど。) ワッツによれば、アルテタのいちばんの強みは、その信念にあるという。たしかに本書を読んでいると、組織を強くするためにはリーダーがブレないでいることが何より肝要なのだ、ということがよくわかる。まず妥協できないライン、これという価値観をしっかりと明示し、その基準、規律をメンバー全員に守らせる。そしてそのようなリーダーのあり方をメンバーが信じ、各自が自分自身の責任を全うしていく。それこそがマネジメントの根幹であり、それができて初めて組織というのは本当に団結できる、ということがアーセナルの混乱から復活までのどたばたを通して感じられるようになっているのだ。
今回は、ウィーン少年合唱団と巡る四季、的なコンセプトということで、各季節をモチーフにした曲たちを取り揃え、秋冬春夏と順に進んでいく構成になっていた。正直言ってよく知らない曲もまあまああったものの、どんな曲であっても天使の歌声のクオリティが素晴らしすぎるということに変わりはない。一年に一度、この美しすぎる歌声を耳から注入して、魂の浄化を図るのは良いことだ…!と今年も思ったのだった。 とくに好きだったのはドビュッシーの《春の挨拶》。あと、アンコールのマシュ・ケ・ナダもとてもよかった。(観客席にいた小さい男の子が曲に合わせて踊りまくっていたのもよかった。) ちなみに、今回はチケットを取ったタイミングが遅かったこともあって、ケチってB席――3階の右列端、ちょうど舞台の真横あたりという位置――を選択してしまったのだけれど、これは正直言って失敗だった。舞台がろくに見えないのは別にいいとしても、なんというか、音がぐしゃっと塊になって届いてくるような感じで、各声部を細かく聞き取るなんてことは到底無理、という席なのだった。(去年は早々とS席を取っていたことで、それはもう極上の体験ができたので、やはりここは本当に惜しまない方がいいポイント…!と反省したのだった。)
久しぶりにヒラリー・ハーンのバイオリンを聴きにいったところ(このブログの過去記事によると、11年振りになるらしい…)、やっぱりとても良かったので感想を残しておく。今回は、アンドレアス・ヘフリガーというピアニストとのデュオによる、ブラームスのソナタ3つのプログラム。 ハーンの演奏は以前と変わらず、端正とか精密とかいう言葉がぴったりくる感じで、やっぱりこの人の音はぜんぜん違うな!と思わせてくれるものだった。各音符が極めて規律正しく整列しながら、しかしそこにまったく窮屈さはなく、あくまでも自然に音楽を形作っている…というその美しさは、本当にハーン独特のものだと思う。もっとも、昔と比べると、緊密さよりはナチュラルさを重視した演奏になっていたような気もする。(いや、11年という歳月を考慮すれば、以前の記憶など頼りにはならなさそうだ。単に自分が歳を取ったために、そんなふうに感じたというだけのことかもしれない。) 対して、ヘフリガーの演奏は、ちょっと大味というか音の粒立ちがはっきりしないところがあるというか、ハーンとは結構異なるタイプであるように思えた。ハーンが極細筆なら、ヘフリガーは太筆、というか。ふたりのテンポが噛み合っていないタイミングなんかもちょこちょこあったように思えた、というのが正直なところではある。まあ、ハーンがさしたる意図もなしに共演の相手を決めるはずもないだろうし、このふたりのテイストの違いにも、おそらく自分には汲み取れていないような理由があったのだろう…とは思う。
ぺぺ・トルメント・アスカラールのライブ。全編とおして大変素晴らしく、うっとりしてしまうクオリティの演奏だった。いや、正直に言うと、最初の3曲くらいまでは音量のバランスがいまいちかな、などと細かいことをいろいろ考えていた気がするのだけれど、気合いの入ったソロやびしっと決まったユニゾン、くらくらするようなポリリズムに怒濤のパーカッション、ベスト盤的と言ってもよさそうな盛り上がりまくる曲の連続を前に、いつしか分析的な気持ちは消え失せてしまっていたのだった。そうして、ただただ美しい音の奔流とグルーヴとに脳内を揉みほぐされていく感覚を堪能しているうちに、2時間あまりが経過していた…という感じだった。 とくに印象的だったのは、弦四の美しさが際立っていた"嵐が丘"、"キリング・タイム"、"ルペ・ベレスの葬儀"あたり。アンコールの"大空位時代"の天上的なムードも最高に格好良くて、岸辺露伴のサントラ、チェックしなくては!と思わされた。
久々に年末の豊田道倫ソロライブを見る。たぶん2年ぶりくらいだろうか。やはり年の終わりにはこれがないとね、と豊田の年末ライブに行くたびにおもうのだけれど、そのわりにこのブログに感想を書いたのは2011年が最後だった。毎年行っているわけではないとはいえ、12年前…!ブログのサボりっぷりがひどすぎる。 神田のPolarisには初めて訪れたのだけれど、小さくてクリーンなイベントスペースという印象。以前豊田が年末ライブをやっていた渋谷のO-nestと比べるとぐっと小さな箱だ。二面がガラス張りになったビルの一階に位置しているので、横や後ろを向けば街路が見える開放的な空間になっている。座ってじっくり聴ける環境で、音も良い感じだった。あと、演者と客席の距離がほとんどないので、ライブハウスだと何を言っているのかいまいちよくわからないことも多い――喋り声がもごもごしていて聞き取りにくいのだ――豊田のMCもよく聞こえるのがよかった。 本編はギターで十数曲を、アンコールではピアノとギターでそれぞれ数曲を演ってくれた。久々に生で聴く豊田の音楽は、ボーカルの味わいも独自の間合いも、歌詞のムードも全体に滲み出まくっているDIY感もやっぱり好きで、本当に単純にすごくいいなあとおもう。音楽を聴いていて単純にいいなあと感じられることというのは年とともにどんどん減ってきている気がするので、こういう感覚は貴重なのだ。
料理を題材にした映画というのは多々あるけれど、本作で扱われているのは、美食、ガストロミーというかなり芸術寄りの内容である。そのため、料理対決とか料理修行とか料理を通じた登場人物の成長といったものが描かれることはない。あくまでも、美食の探求に魅せられたふたりの男女の生き様、をシンプルに描いた物語になっているのだ。彼らのあいだにはいわゆる男女の愛情もあるけれど、それ以上に大きいのは、美食家と料理人としての互いの情熱や能力へのリスペクトだと言っていい。彼らは、美食という営みを通して愛し合っているのだ。
1991年生まれ、ガーナ出身の両親を持つ、アフリカ系アメリカ人作家のデビュー短編集。各作品に通底しているのは、黒人差別や人間の醜さに対する怒りと、ブラックユーモア、暴力性、シュールさ、デフォルメ感といったもので、そういった各要素に真新しさがあるわけではない。けれど、それらがこの作家独自の、ドライでキレのよい、スピード感溢れる文体で書かれていくことで、ヘヴィでダークでパンチの効いた一冊に仕上がっている。 何と言っても、冒頭の「ファンケルスティーン5」のインパクトが圧倒的だ。図書館の外にいた5人の黒人の子供たちが、白人男性にチェーンソーで殺害される。「自分の子供に危害を加えられそうな気がした」という白人男性は、裁判の結果、「自衛の範囲内」ということで無罪になる。主人公の青年は、理不尽すぎる事件に憤りを感じつつも、自らの「ブラックネス」をコントロールしながら日々の生活を送っていこうとするのだが、ふとしたきっかけからそのたがが外れ、それまで押さえつけられていた怒りのエナジーが爆発してしまう…!という話。黒人が日常的に受けている差別的な振る舞いと、それがまったく正しく裁かれることがないし、それに対して正しく怒りを表明することすらできない、ということへのフラストレーションと怒りと悲しみとがなんとも生々しくリアルに描かれており、読者は主人公の姿を通して、その感情を擬似的に体験させられることになる。
アニー・エルノーの自伝的な作品。若くして離婚し、パリでひとり暮らす「私」は、かつて東欧の若い外交官A(妻子持ち)と不倫の関係にあった。その当時に感じていた情熱(パッション)について振り返る、という物語。 自身の不倫が題材ではあるけれど、それをまったくセンセーショナルに扱っていないところが特徴的だ。むしろ、多くの人が経験したことがあるであろう感情の揺れ動きを、衒いなく率直に語っているという意味において、非常にストレートで誠実な作品だと言えるだろう。そもそも、全編通して、不倫というか、倫理にもとることをしているという感じがまったくないのだ。欲望や情熱は倫理の問題ではない、ということは、エルノーにとっては自明の前提であるようだ。 「私」はパッションに溺れているとも言えるような状態ではありつつも、しかし、それを書き記す筆致はあくまでも冷静で安定しており、ヒステリックなところ、感傷的になって流されるようなところは少しもない。「情熱(パッション)を生きる」という状態ーー訳者曰く、「自我の昂揚でありながら同時に自律性の喪失であり、尊厳からの失墜」であるような状態ーーを扱いながら、その手つきはどこまでも冷静で淡々としており、自分を突き放したようなところさえある。不倫ものにありがちなどろっとした雰囲気は皆無で、どちらかと言うと洗練とかクリーンとかクールといった言葉の方が似合うくらいなのだ。 だからこそ、本作は、極めてパーソナルな内容を語っているのにも関わらず、というか、そうであるからこそ、読者にとって開かれており、ある種の普遍性を獲得し得ているのだろうとおもう。
ダイナソーJr.がオリジナルメンバー3人で復活した後、2011年6月にワシントンDCで行われた、3rdアルバム『BUG』全曲再現ライブの映像。抽選で選ばれたファンたちの手によって撮影された素材が用いられている。だから映像自体はだいぶ粗いのだけれど、それだけに臨場感は十分だし、バンドのインディーな雰囲気にはこのざらっとしてチープな感じがよく似合う。 演奏はアルバムに忠実な感じで、クオリティは文句なし。マーシャルアンプ6台を背にしたJはジャズマスターをかき鳴らしまくり、よれよれの声で歌い叫ぶ。ルー・バーロウは独特なアクションが激し過ぎて、もはやどう弾いているのかもよくわからない。マーフは全編に渡ってスネアをキンキンと打ち鳴らし続ける。見ていて疲れてしまうくらい、ひたすらテンションの高いライブが続いていく。『フリークシーン』の直後に見たものだから、いやーよかったよ3人がちゃんと仲直りしてくれて…とおもわずにはいられなかった。
ダイナソーJr.のドキュメンタリー映画。バンドにがっつりと密着して作成したというよりは、軽く関係者にインタビューしながらいままでの流れを追ってみた、というような作りになっており、とにかく全体的に淡々とした作りになっている。好意的な見方をすれば、観客におもねるようなところがぜんぜんない映画だ、と言うこともできるだろう。 作中では、彼らの音楽性であるとか、バンドサウンドの特徴といったことについては大して触れられていない。では何が語られているのかというと、それはもっぱらメンバー3人の関係性についてである。
ロビイストの主人公(ジェシカ・チャステイン)の姿がとにかくやたらと格好いい、社会派サスペンス。大手ロビー会社で、目的のためなら手段を選ばない敏腕として知られていたエリザベス・スローンは、ある日、新たな銃規制法案を廃案にするよう依頼される。しかし、信念に反する仕事はやらない主義だという彼女は、部下を引き連れて小さなロビー会社に移籍、全米ライフル協会とかつての同僚たちを相手取って、銃規制派としての活動を繰り広げていくことに。エリザベスの読みは恐ろしく鋭く、取る手段は常に緻密だが、非常に計算高い上にどこまでも冷徹、倫理観などといったものはまるで持ち合わせていないように見える。彼女は誰もがおもいもかけないような手段で勝利に近づいていくのだったが…! アメリカの銃規制とロビー活動を扱った政治ものという要素はあれど、本作はあくまでもミス・スローンという一人の女の、己の信念を貫くための孤独な戦いの物語だと言っていいだろう。もっとも、彼女の内面そのものについて明確に語られるようなシーンがあるわけではないので、彼女の信念が具体的にどういったものであるのかは、作中の他の登場人物たちと同様に、観客にも最期までよくわからない。 まあとにかく一貫して、よくわからないけれど異様なまでに強い意思力とタフネス、心の闇と勝利への執着心とを持ち続けている、恐ろしく強い女であり続けるのだ。かなりハードボイルドな作風だと言っていいだろう。それだけに、彼女の信ずるものや弱さといったものが一瞬だけ垣間見えるようにおもえたとき、観客は心揺さぶられることになる。
立花隆や福田和也が提唱する、速読・多読といったものに対して、ほとんどの人は(彼らのような職業上の必要性に駆られているのではないのだから)そういった読書法は必要ではないだろう、と主張する一冊。 たとえば立花の言う、「本を沢山読むために何より大切なのは、読む必要がない本の見きわめをなるべく早くつけて、読まないとなったら、その本は断固として読まないことである」といった主張に対し、山村は反対するわけではないが、どうしてもどこかに違和感を覚える、と言う。 立花や福田の言う「読む」といわゆる世間一般で言う「読む」とではそもそも基準が違うだろう、ということだ。これはまったくそのとおりで、立花/福田と山村とでは、そもそも読書とは何か、というかんがえ方も違えば、読書に求めるもの、期待するものだってぜんぜん違っているのだから仕方ない、というところではあるのだけれど、それでも文章を書きながらテンションが上がってきてイラついている感じが出ているのがおもしろい。
歴史研究部に所属する高校2年生の「ぼく」は、部活の研究で皆川城址を訪れた際、怪しげな中年の男に出会う。こてこての大阪弁がいかにも胡散臭い男だったが、その異様な博識は「ぼく」を否応なしに惹きつけていくのだった。男は、「ぼく」が入手した旧家の蔵書目録を眺め、そこに載っている「皆のあらばしり」という本はこれまでどこにも記録されていないものだ、と言う。もしそれが本当であれば、これはなかなかの大発見ということになる。ふたりは同書を手に入れようと計画を練るのだが…! ほとんど全編が「ぼく」と男の会話のみで成り立っている本作は、会話劇のような性格を持っている。基本的に、ふたりの会話のおもしろさのみによって物語が牽引されていくのだ。古文書や郷土史が主題になっているだけあって、なかなかややこしい内容を語っていたりもするのだけれど、男の怪しげな饒舌と「ぼく」の冷静なツッコミはどこか漫談のような雰囲気を醸しており、良いグルーヴ感が生み出されているので、ぐんぐん読み進んでいける。 男に不信感を抱いていた「ぼく」が、やがて男に憧れるようになり、認められたい、対等になりたいとおもうようになる、という展開は、爽やかな王道の青春文学のようでもある。それを、地方の旧家に眠る古文書の真贋や郷土史を巡るちょっとしたミステリ、というかなり渋い要素と混ぜ込んでいるあたり、うまいな、と感じた。「皆のあらばしり」探求のなかで、男は「ぼく」をからかったりおちょくったりしつつも、近代史の蘊蓄やら人生訓やらを語ったりもするのだ。
読書はいいですよ、たくさん本を読むことはあなたの人生に絶対に有益ですよ、というシンプルな主張のもと、いろいろなエピソードを語っている一冊。まあよくあるタイプの本で、取り立てて斬新なところはないのだけれど、新聞の論説委員だった轡田の文章は軽妙で嫌味なところがまったくなく、たのしく読める。タイトルには「1000冊読む」とあるが、具体的に1000冊読むための技術や方法論が扱われているわけではなく、まあたくさん読もうぜ、くらいの意味だと言えそうだ。
NHKの番組の内容を新書化した一冊。1,2章には、マルクス・ガブリエル訪日時の発言や講義(哲学史の概説と、その流れのなかに位置づけられる新実在論の解説)を文字起こししたものが、3章には、ロボット工学科学者の石黒浩との対談が収められている。元がテレビ番組というだけあって、1,2章の内容的はかなり薄めで退屈だったけれど、3章の対談にはそれなりに盛り上がりが感じられた。 石黒が、「日本人は同質性が高く、表現に細心の注意を払わなくてもすぐにアイデアを共有できるという特長があるとおもうが、ドイツ人はどうか?」と尋ねると、ガブリエルは、「ドイツの場合、1871年にはじめてひとつの『ドイツ』という国家になったのであって、それまで『ドイツ人』は存在していなかった、だからドイツ社会というのは実際のところまったく同質性が高くないわけだが、まさにそういった環境こそが、ドイツ人に厳格な論理構造を求めさせることになった」…といったことを語る。
資本主義が生の全体を覆い尽くしているこの世界、金こそが人の生きる尺度であり、商品価値によって人が選別されるこの世界で賢く生き、成功するための知恵や行動規範について書かれた一冊。世に数多存在する大富豪本や人生の成功法則本、ビジネス書の原型とも言われる本書は、資本主義の優秀な奴隷になるためにはいかなる意識を持つ必要があるか、について語っている本だと言ってもいいだろう。
久しぶりにヒラリー・ハーンのバイオリンを聴きにいったところ(このブログの過去記事によると、11年振りになるらしい…)、やっぱりとても良かったので感想を残しておく。今回は、アンドレアス・ヘフリガーというピアニストとのデュオによる、ブラームスのソナタ3つのプログラム。 ハーンの演奏は以前と変わらず、端正とか精密とかいう言葉がぴったりくる感じで、やっぱりこの人の音はぜんぜん違うな!と思わせてくれるものだった。各音符が極めて規律正しく整列しながら、しかしそこにまったく窮屈さはなく、あくまでも自然に音楽を形作っている…というその美しさは、本当にハーン独特のものだと思う。もっとも、昔と比べると、緊密さよりはナチュラルさを重視した演奏になっていたような気もする。(いや、11年という歳月を考慮すれば、以前の記憶など頼りにはならなさそうだ。単に自分が歳を取ったために、そんなふうに感じたというだけのことかもしれない。) 対して、ヘフリガーの演奏は、ちょっと大味というか音の粒立ちがはっきりしないところがあるというか、ハーンとは結構異なるタイプであるように思えた。ハーンが極細筆なら、ヘフリガーは太筆、というか。ふたりのテンポが噛み合っていないタイミングなんかもちょこちょこあったように思えた、というのが正直なところではある。まあ、ハーンがさしたる意図もなしに共演の相手を決めるはずもないだろうし、このふたりのテイストの違いにも、おそらく自分には汲み取れていないような理由があったのだろう…とは思う。
ぺぺ・トルメント・アスカラールのライブ。全編とおして大変素晴らしく、うっとりしてしまうクオリティの演奏だった。いや、正直に言うと、最初の3曲くらいまでは音量のバランスがいまいちかな、などと細かいことをいろいろ考えていた気がするのだけれど、気合いの入ったソロやびしっと決まったユニゾン、くらくらするようなポリリズムに怒濤のパーカッション、ベスト盤的と言ってもよさそうな盛り上がりまくる曲の連続を前に、いつしか分析的な気持ちは消え失せてしまっていたのだった。そうして、ただただ美しい音の奔流とグルーヴとに脳内を揉みほぐされていく感覚を堪能しているうちに、2時間あまりが経過していた…という感じだった。 とくに印象的だったのは、弦四の美しさが際立っていた"嵐が丘"、"キリング・タイム"、"ルペ・ベレスの葬儀"あたり。アンコールの"大空位時代"の天上的なムードも最高に格好良くて、岸辺露伴のサントラ、チェックしなくては!と思わされた。
久々に年末の豊田道倫ソロライブを見る。たぶん2年ぶりくらいだろうか。やはり年の終わりにはこれがないとね、と豊田の年末ライブに行くたびにおもうのだけれど、そのわりにこのブログに感想を書いたのは2011年が最後だった。毎年行っているわけではないとはいえ、12年前…!ブログのサボりっぷりがひどすぎる。 神田のPolarisには初めて訪れたのだけれど、小さくてクリーンなイベントスペースという印象。以前豊田が年末ライブをやっていた渋谷のO-nestと比べるとぐっと小さな箱だ。二面がガラス張りになったビルの一階に位置しているので、横や後ろを向けば街路が見える開放的な空間になっている。座ってじっくり聴ける環境で、音も良い感じだった。あと、演者と客席の距離がほとんどないので、ライブハウスだと何を言っているのかいまいちよくわからないことも多い――喋り声がもごもごしていて聞き取りにくいのだ――豊田のMCもよく聞こえるのがよかった。 本編はギターで十数曲を、アンコールではピアノとギターでそれぞれ数曲を演ってくれた。久々に生で聴く豊田の音楽は、ボーカルの味わいも独自の間合いも、歌詞のムードも全体に滲み出まくっているDIY感もやっぱり好きで、本当に単純にすごくいいなあとおもう。音楽を聴いていて単純にいいなあと感じられることというのは年とともにどんどん減ってきている気がするので、こういう感覚は貴重なのだ。
料理を題材にした映画というのは多々あるけれど、本作で扱われているのは、美食、ガストロミーというかなり芸術寄りの内容である。そのため、料理対決とか料理修行とか料理を通じた登場人物の成長といったものが描かれることはない。あくまでも、美食の探求に魅せられたふたりの男女の生き様、をシンプルに描いた物語になっているのだ。彼らのあいだにはいわゆる男女の愛情もあるけれど、それ以上に大きいのは、美食家と料理人としての互いの情熱や能力へのリスペクトだと言っていい。彼らは、美食という営みを通して愛し合っているのだ。