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廃線 武蔵野連絡線 10―多福寺 埼玉県所沢市東部を南北に走る「オリンピック道路」を北上し、更にそこから「けやき並木通り」を北上する。 私にとっては、もう武蔵野連絡線残置鉄塔訪問でお馴染みのルートだが、前回、残置鉄塔7号付近から遠望した、同じ残置鉄塔3号を目
廃線 武蔵野連絡線 11―砂川堀 三富山多福寺の北に建つ、武蔵野連絡線残置鉄塔3号にやって来た。武蔵野連絡線3号 小説「鉄塔 武蔵野線」中では、本鉄塔―旧武蔵野線47号―を訪ねた少年たちは、ゲートボール場の隣の空き地でバドミントンに興ずる女の子たちと出会う
廃線 武蔵野連絡線 12―オリンピック道路 武蔵野連絡線残置鉄塔3号は、のんびりと風に運ばれる雲の影に包まれてしまった。ので、太陽が現われてくれるまで、待ちである。 初秋の残暑厳しき中、水分補給したり、堀を覗いたり(やや濁った水だ)、遠くを眺めたりと雲の
番外 武蔵野連絡線―「平和」 武蔵野連絡線16号を辞し、武蔵野連絡線16号ランチ場所を探して走る。あちらこちらと適当に道をチョイスして行くうち、たまたま行き着いた「東所沢公園」(標高56.7m)を選択。ヴォリュームのある緑が目についた。16号からは、直線にして
廃線 武蔵野連絡線 9―歴史の道 旧島田家住宅から上富小学校へと試みに行ってみると、校門前から見えるではないか、間近く武蔵野連絡線7号鉄塔が。上富(かみとめ)小学校と7号 校庭越しに7号だ。7号 学校脇の砂利道(一枚目画像の左端、相方の止めてあるその奥
廃線 武蔵野連絡線 8―古民家と火の見櫓 さて、武蔵野連絡線7号を望んだ佐川急便さん営業所横から通りに戻り、通り向こうに8号、9号7号は向こう側からも見えそうなのでもう少し北へと行ってみる。 また、けやき並み通りへと戻り北上すれば、7号だ「メディカル
廃線 武蔵野連絡線 7―けやき並木 武蔵野連絡線9号を取材して後、先ほど走って来た東側のけやき並木通りに戻り北上。8号鉄塔を目指す。 「六間道」(ろっけんみち。幅約10.8m)とも呼ばれる、このけやき並木通り、けやき並み通り南を見る路傍の解説板によると、凡
廃線 武蔵野連絡線 6―元交差点 前回の武蔵野連絡線鉄塔訪問後、Googleマップで探すと、16号から北北西3km前後の畑中に、まだ三基鉄塔が残っていた。「TinySlope」さんを参照させて頂くと、7・8・9号の様だ。何れも畑の奥深くで接近は不可の様だが、遠望はできそうだ。
「永遠の出発点」―痛々しい こんな事になっているとは、全く気付かなかった。武蔵野線10号(標高43.6m)手前は嵯峨山通り あの「永遠の出発点」武蔵野線10号(旧75-1号)が、斯様なお姿になっていようとは、夢にも思わなんだ。迂闊であった。御無残な・・・
廃線 武蔵野連絡線―JM 野火止平林寺の北にある新座変電所を終点とする廃止となった武蔵野連絡線は、幾つかの鉄塔が架空線・碍子連を外された状態で残っている。それらを目指す。 痛々しいお姿の「永遠の出発点」を辞し、平林寺に寄り道し、関越自動車道沿いに戻って旭
廃線 武蔵野連絡線―清柳橋 武蔵野連絡線22号に続き残存する鉄塔は20号、武蔵野線時代は64号であった。 22号からJR武蔵野線下を潜り、広大な清瀬内山運動公園の正南縁から北西縁に沿って、荒れた道路を行く。すれば、右手公園端の木立の中に、20号は建っている。20号
廃線 武蔵野連絡線―E17 武蔵野連絡線20号下の清柳(せいりゅう)橋を渡り、次なる19号へは大分住宅地内を迂回する。途中、久しぶりに火の見櫓を発見。火の見だ(標高23.2m) 近頃は滅多に見かけなくなった、古き櫓である。 しかし残念ながら、半鐘はない。半鐘
廃線 武蔵野連絡線―城 関越自動車道(E17)の上を陸橋で越え、田園地帯へと突入。さっきの19号が建つ場所もそうだが、この辺りは「城(しろ)」と呼ばれる地域だ。通称ではなく、オフィシャルな地名である。柳瀬川北岸、その断崖に沿って作られた「滝の城」が嘗てあったこ
廃線 武蔵野連絡線―墓標 今回最後の訪問鉄塔は、武蔵野連絡線16号。「鉄塔 武蔵野線」では、旧61号(現17号)から自転車を抱えて水路を渡って行った鉄塔だ。実際は、東川を越えて行くのだが、近くに橋はなく可なり遠回りが必要だ。 17号から、再び畑中の道を紆余曲折し
紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人 歌田年(宝島社文庫)
今年になって「紙鑑定士」シリーズの第二弾が出版された。それを読む下準備として一作目の「模型の家の殺人」(宝島社)を再読するところから始めて、書評も書いた。そうこうするうちに、SeeSaaブログでは、ツイッターなどのSNSと連動して投稿記事の紹介ツイートができる事に遅ればせなが…