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2025/04/19

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  • 彦根・圓常寺

    彦根城の西側にある圓常寺は、1611年(慶長16年)井伊直孝が母の菩提のため建立したお寺です。 直孝は初代・井伊直政を引継ぎ、彦根城を完成させた第2代彦根藩主です。 ご本尊は快慶作の阿弥陀如来立像。 快慶作の仏像は滋賀県内に石山寺の大日如来坐像と2体しか現存してないとのこと。表面に施されてていた漆や下地がはく落し、木材の損傷も進行していたことから、2013年から修理が行われたそうです。(滋賀彦根新聞より) 鐘楼また、境内の閻魔堂には13体の仏像が1安置されています。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 彦根・大信寺(2)井伊直孝の歯を祀る御廟

    直政の次男である2代藩主・井伊直孝は大変信心深い方で、井伊直政の法事の毎に大信寺に参詣されたといわれています。 万治2年(1659)に死去。遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られましたが、直孝の歯骨の一部が、大信寺の御廟に祀られています。 歯のお墓としては随分立派な御廟です! 地蔵堂本堂平成大修復記念の瓦こちらにも井伊家の家紋が見えます。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 彦根・大信寺(1)井伊直政が創建した大信寺

    彦根の夢京橋キャッスルロードから少し入ったところにある大信寺の創建は、井伊直政が開いたのが始まりと伝えられています。 直政は、天正18年(1590)の徳川家康の関東移封に伴い、高崎城主になっていましたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの戦功により、佐和山城主となり、慶長8年(1603)、現・群馬県高崎市の大信寺の住職・照誉和尚が現在地を寺領として大信寺を建立。元禄6年(1693)、元禄14年(1701)の大火により全焼しますが、元禄から寛永年間に5代藩主・井伊直通が本堂を再建しています。本堂山門の両脇の石垣は、彦根城の残石を利用した牛蒡積みで築城時のものだといいます。 観音堂 ブログランキン…

  • 大酒神社

    広隆寺を見学し、太秦映画村に向かって歩いていた途中に通りかかった大酒神社。 気になったので、覗いてみることに。 広隆寺を創建した秦河勝を祖神とする秦氏の神社なのですね。 大酒神社は、仲哀天皇の頃、秦始皇帝の子孫の功満王(くまおう)が来朝し、「秦始皇之祖神」を勧請したたのが始まりとされています。 秦の始皇帝と聞いて、真っ先にキングダムの嬴政を思い浮かべました(^^ゞ 祭神は、秦始皇帝、弓月君(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)、呉織神(くれはどりのかみ)、漢織神(あやはどりのかみ)。 現在は広隆寺の東隣にありますが、明治の神仏分離以前は、広隆寺の桂宮院内に鎮座していたとのこと。 ブログラ…

  • 広隆寺(3)霊宝殿

    霊宝殿は、広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、昭和57年(1982)に建てられました。 国宝の弥勒菩薩(半跏思惟像)をはじめ寄木造の千手観音(藤原期)、聖徳太子16歳像(鎌倉期)など、飛鳥、天平、貞観、藤原、鎌倉それぞれの時代を代表する仏像が安置されています。霊宝殿前の庭桂宮院本堂への入口※桂宮院本堂は通常非公開奥の院。境内の西側、塀で囲まれた一画にあり、聖徳太子が建てた楓野別宮(かえでのべつぐう)が起こった所とされる。聖徳太子像を祀る堂で法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂…

  • 広隆寺(2)上宮王院太子殿(本堂)

    広隆寺の本堂である上宮王院太子殿は、享保15年(1730年)建立されました。 入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、厨子内にはご本尊の聖徳太子立像が安置されています。 木造聖徳太子立像 - 像高148センチメートル。像内に元永3年(1120年)、仏師頼範作の造立銘があり、聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像で、下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている。その着衣は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)で、広隆寺では天皇より贈られたその袍を本像に着せるならわしが平安時代より現代まで続いている。上皇明仁も天皇時代に袍を下賜されており、この像に…

  • 広隆寺(1)南大門~薬師堂

    京都市右京区太秦蜂岡町にある広隆寺は、 渡来人系の氏族である秦氏の氏寺で、平安京遷都以前から存在した京都府下最古の寺院とされています。 本尊は聖徳太子、国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られています。 蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれています。 楼門(南大門) 元禄15年(1702年)建立と伝わります。 楼門を入り、参道を進むと、右手に講堂、左手に薬師堂などがあります。 講堂(赤堂、重要文化財) 永万元年(1165年)再建。正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺き。瓦銘や近世の絵図によれば元は「金堂」と呼ばれていた[16]…

  • 三輪明神 大神神社(4)摂社

    続いて、大神神社の摂社をお参りしました。 活日神社(いくひじんじゃ) 祭神:高橋活日命 崇神天皇の時代に大神神社の掌酒を務めた名人を祀っています。 酒の神として知られています。 磐座神社(いわくらじんじゃ) 祭神:少彦名神 三輪山周辺に点在する辺津磐座(神が鎮まる岩)の中心。 狭井神社 (さいじんじゃ) 御神体である三輪山への登拝口が境内にある三輪の神様の荒魂(あらみたま)をまつる神社。 祭神:大神荒魂神 病気平癒の神様として信仰が篤い。 撮影日:2024年4月28日 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 三輪明神 大神神社(3)銀竜草

    ※昨年の春お参りした大神神社の記事の続きです。 この日、大神神社の境内では、摂社の神宝(かんだから)神社や狭井(さい)神社の周辺で 銀竜草(ギンリョウソウ)が白い花を咲かせていました。 銀竜草は、薄暗く落ち葉のたまった湿り気のある場所に生える多年草で、光合成をせず菌類などから栄養を得るそうです。 ツツジ科の多年草で高さは10~15センチほどで、その姿からユウレイタケ とも呼ばれています。 初めて見た銀竜草の姿に感動!! 撮影日:2024年4月28日 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 三輪明神 大神神社(2)

    それでは、大神神社の拝殿にお参りしましょう! 神体山三輪山を拝する原始信仰から出発したとされ、拝殿・神門(三つ鳥居)のみで神殿をもたず、山を含めた境内には古杉が茂り、多数の摂社・末社がある。大神神社境内として国指定史跡。参道脇を古く馬場ばば村という。わが国最古の神社とされ、古代より朝野の尊崇厚く、平安時代には二十二社の一として大和国一宮となった。「延喜式」神名帳にみえる城上しきじよう郡「大神大物主神社名神大、月次相嘗新嘗」にあたり、現在、倭大物主櫛玉やまとおおものぬしくしみかたま命を祭神とし、大己貴おおなむち神・少彦名すくなひこな神を配祀。(コトバンクより) 拝殿(重要文化財) 寛文4年(16…

  • 新年の挨拶

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  • 三輪明神 大神神社(1)

    大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある日本最古の神社の一つ。 三輪山を御神体とするため、本殿はなく、拝殿から三ツ鳥居を通して山に向かってお参りします。 三輪山は国を造られた大物主大神(大国様)が御魂を留めたという霊山で、昔から「神の宿る山」として崇められてきました。 二の鳥居をくぐり、参道を進むと最初に鎮座するのが祓戸神社です。 末社 祓戸神社 祓戸の四神、瀬織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神が祀られています。 心身を祓い清める神様を祀っていますので、まずはここでお参りをしましょう。 夫婦岩 三輪の神と人間の女性の恋物語を伝える二つの岩。 夫婦のように寄り添い、縁結…

  • 瑞龍寺 家康の正室・旭姫の墓

    静岡浅間神社から5分ほど北に行ったところに瑞龍寺というお寺があります。 1560年(永禄3年)、能屋梵藝によって開山され、徳川家康が居城を駿府城に定めた際に寺領が与えられました。天下取りを目指した豊臣秀吉は、家康と同盟関係を築くため、天正1586(14)年、自分の妹である旭姫を、夫の佐治日向守(さじひゅうがのかみ)離縁させ、 築山御前の死後、正室を持たなかった家康に嫁がせました。 同年、旭姫は、家康と共に浜松城から完成した駿府城に移り、駿河御前と呼ばれました。旭姫は、1588(天正16)年に自分の母である大政所の病気見舞いのために上洛しますが、1590(天正)18年京都・聚楽第で 病気のため、…

  • 家康ゆかりの大楠のある若宮八幡宮

    駿府城公園から臨済寺へ向かう途中にある若宮八幡宮。 こちらもも徳川家康ゆかりの神社として知られています。 境内の大楠は、樹齢1000年以上と伝えられています。 家康は、鷹狩りの道中に度々ここに立ち寄り、大楠の木陰で休息をとったと伝えられています。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 竹千代ゆかりの小梳神社

    静岡市葵区の紺屋町に鎮座する小梳神社(おぐしじんじゃ)は、奈良時代以前の由緒をもつ古社です。 静岡駅からわずか200m。繁華街の一角にあります。竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府に来たとき、まずはこの神社に立ち寄り、服装を改め武運長久の祈願をしてから、今川義元と対面したと伝えられています。その後、徳川家康が天下を統一し駿府城にとどまるにあたり、代々徳川家の守り神である大己貴命と天照大神の2柱を合祀して、駿府城の守護神として尊崇されてきました。平安時代初期のころから少将井神社とも呼ばれました。 小梳神社 小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇…

  • 於愛の方(西郷局)の菩提寺(3)宝台院

    宝台院は、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所となりました。本堂は、旧国宝でしたが、1940年(昭和15年)1月15日の静岡大火で焼失。現在は、モダンな建物となっています。 本堂内陣は、天井の高い本堂で、本尊の両脇には徳川家康の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。若き日の家康像として注目されている家康公の自画像(市・重要文化財)も所蔵しています。(宝台院HPより)かしく坊の辞世唄がうまかっ…

  • 於愛の方(西郷局)の菩提寺(2)宝台院

    また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。 江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。これにより、徳川家による政権は幕を閉じ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となりました。徳川慶喜公謹慎之地石碑には、当時の緊迫した状況が記載さ…

  • 於愛の方(西郷局)の菩提寺・宝台院(1)

    JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。 山号は金米山。寺号は龍泉寺。 宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母の菩提を弔うため寺を現在の場所(常磐町)に移し、その時に寺号も龍泉寺から宝台院と改称しました。以来、宝台院と呼ばれるようになりました。西郷局(さいごうのつぼね、天文2…

  • 華陽院(2)市姫の墓

    源応尼の墓の隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。 市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日[1](1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康(市姫は五女)。母は側室のお梶の方(遠山氏)。徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康はかつて、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。…

  • 華陽院(1)家康の祖母・源応尼の墓

    静岡市葵区鷹匠の華陽院 境内には、徳川家康の祖母・源応尼の墓があります。源応尼の実名は「お富の方」、または「お万の方」といいます。明応元年(1492年)誕生した源応尼は、はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生みました。しかし、岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれています。清康の死後、三河の諸豪族に次々に嫁ぎましたが、夫に先立たれ、駿河国の大名・今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗ります。竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質として駿府に送られると、竹千代が元服するまでの8年間、そ…

  • 徳川家康公出陣キット

    駿府城公園外堀沿いにある駿府ホリノテラスに「徳川家康公出陣キット」のモニュメントがあります。 徳川家康が身に着けた金色の鎧「金陀美具足(きんだみぐそく)」をモチーフにしたものです。 大河ドラマ「どうする家康」でも松本潤さんが身に着ける場面がありましたね。 このモニュメントは、静岡市で盛んなプラモデル生産に因んだ「静岡市プラモデル化計画」の一環でつくられたもので、「徳川家康公出陣キット」と題し、兜や袖、小手など十一のパーツに分かれています。 駿府城公園に行くついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか?😊 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 静岡駅前の竹千代・今川義元・徳川家康の銅像

    静岡駅北口駅前広場にある銅像を紹介します。 徳川家康にとって駿府は、最長約25年を過ごした地です。今川家の人質として過ごした幼少期と江戸に移るまでの数年間、晩年の大御所時代の3度を駿府城で過ごしました。竹千代像は、家康が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿。 竹千代像 この隣には、今川義元公生誕五百年祭を記念し、令和2年に設置された今川義元の甲冑姿の銅像もあります。 今川義元像 そして、こちらは、壮年期の家康像です。徳川家康像平成19年度に家康の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」展開してきた事業の一環として平成21年3月19日、銅像が設置され、像台座の題字は、徳川宗…

  • 静岡の蓮永寺(2)お万の方の供養塔

    蓮永寺の墓所には、お万の方の供養塔があります。 養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万。母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)ともいい、諸説ある。実父の正木頼忠は上総勝浦城主正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は後北条家家臣だった蔭山氏…

  • 静岡の蓮永寺(1)駿府城鎮護の寺

    静岡市葵区の沓谷(くつのや)にある蓮永寺は、文永11年(1274)、日蓮上人の高弟・日持上人によって庵原郡松野村(現在の富士川町)に開創されました。その後、衰退しましたが、徳川家康の側室・お万の方の発願により、元和元年(1615)、駿府城鎮護の寺として現在の沓谷に移し、再興されることになりました。山門仁王門実に広々とした境内です。 鐘楼庫裏客殿本堂 蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ) 蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。 お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左…

  • 大善寺の亀姫の墓

    JR飯田線「新城駅」から徒歩4分のところにある大善寺には、亀姫の墓とされる五輪塔があります。本堂 亀姫は、徳川家康との築山御前の長女で、兄は松平信康。奥平信昌の正室。永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)7月、信昌へ嫁いだ(「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』)[3] 。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保…

  • 本多忠豊の墓碑

    本多忠豊は、徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父にあたります。 1544年(天文13年)9月、安祥城は、織田信長の父・織田信秀に支配されました。 安祥城を奪還するため、岡崎城の徳川家康の父・松平広忠は、1545年(天文14年)9月、上条西で織田軍と交戦。(第二次安祥合戦) 織田軍の援軍によって挟み撃ちにされ、敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍(しんがり)を務めて討死したといわれています。 三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬されました。 墓碑は、討ち死にしたと考えられる場所に建立されています。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング

  • 本多忠高の墓碑

    安祥城の近くの住宅地の中に、本多忠勝の祖父と父の墓碑があります。 墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)にあり、戦死地の安城町赤塚にも墓碑が建てられています。 まずは、本多忠勝の父・本多忠高の墓碑から紹介します。 市指定史跡 本多忠高墓碑 天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。 天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげん そうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました…

  • 竹千代ゆかりの井戸「筒井泉跡」

    大乗寺から筒井泉跡へ。 筒井とは、安城城周辺の七つ井(筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、梅ノ井、風呂井)の一つです。 筒井は、中でも名井であったと言われ、安城城の城主がこの水を茶の湯に使ったとされています。 1549年(天文18年)に竹千代(後の徳川家康)が人質となっていた織田家から岡崎へ戻る際、筒井の水を飲み、この水を大変気に入ったので、竹筒に入れて持ち帰ったことが「筒井」の名の由来と言われています。 市指定史跡 筒井泉跡 昭和43年4月1日指定 安城城周辺の台地の縁から水が湧き出す地があり、そのうち筒井、浅黄井、中井、桜井、柳井、 梅ノ井、風呂井の七カ所は「七ツ井」と呼ばれてきました。天文1…

  • 安祥城(2)大乗寺

    安祥城の城跡は、現在安祥城址公園として整備され、本丸跡には大乗寺があります。 安祥山了雲院大乗寺は、延徳元年、安祥城主・松平親忠が勢誉愚底上人を開山として創建されました。 安祥合戦と享保の火災で荒廃しましたが、安祥城址に移転再建後は城跡のお寺として知られています。 市指定史跡 安祥城址 昭和36年10月1日指定 安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間 (1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城 (岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年 (1476) ころに安城城を奪い取った…

  • 安祥城(1)安祥城址公園

    愛知県安城市の安祥城(あんじょうじょう)は、永享12年(1440)、畠山一族の和田親平が築城したといわれ、別名を森城といい、天守を持たない平山城でした。 文明年間、松平信光が本拠地として以来、岡崎に移るまで徳川四代の居城となりました。現在城跡は安祥城址公園として整備され、本丸跡に大乗寺、二の丸跡に八幡社、周囲に堀や土塁などが残っています。 愛知県安城市にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。三河国碧海郡(あおみのこおり)周辺(現愛知県碧海(へきかい)郡)を支配していた和田親平が1440年(永享12)に築城したとされる。その後、1471年(文明3)に、岩津城(岡崎市)の松平信光(のぶみつ)が謀略を…

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