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游々子の俳句的生活 https://chigasaki-haiku.com

プレバト俳句添削の添削、各種句会での添削、新聞に入選した游々子の俳句、 茅ケ崎の地誌・歴史を紹介しています。

游々子
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2023/04/16

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  • 俳句的生活(277)-平塚(12)ヤマトタケルの東征ー

    平塚駅のほぼ真北、真土(しんど)という地区には、真土大塚山古墳と呼称されている古墳があります。4世紀前半に築造されたもので、この地区の豪族のものであろうと言われています。昭和35年までに二度部分的な発掘調査がされたのですが、その後工場建設のために盛土が全て削られてしまい、現在ではどのような形状のものであったのかすら解明できなくなってしまいました。最初の調査となる昭和10年に出土した三角縁神獣鏡は、神奈川の古墳の中ではここだけからのものとなっていて、畿内の王権と特別の関係があ

  • 俳句的生活(276)-平塚(11)老中を輩出した平塚の氏族ー

    平安時代の末期、相模川の西側から小田原の酒匂川に至る地域に、中村党と呼ばれる武士団がいました。平塚の土屋に居た中村氏の分流は、領地の土屋を家名にして土屋姓を名乗り、その初代は頼朝の旗揚げに参じた土屋宗遠となっています。土屋という地域は平塚の北部で、伊勢原に近い処です。今その土屋には、一族の墓と昭和54年にまだ19歳であった浩宮徳仁殿下が見学訪問された記念碑が遺されています。土屋一族の墓浩宮殿下の見学記念碑土屋宗遠は頼朝より10歳年上で、90歳まで生き

  • 俳句的生活(275)-浜松旅行ー

    3月中旬、関西と東海に居住する学友と私を合わせての4人で、奥浜名のホテルで一泊する小旅行を行いました。一日目は浜松城を見学。江戸時代、浜松からは老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を出していて、”出世城” と呼ばれていたそうです。天保改革の水野忠邦もこの5人の老中のひとりです。松魚は ”かつお” と読みます。松島十湖という人は江戸末期に浜松で生まれた俳人です。生涯に創った句は八千と言われています。現在の浜松城天守は戦後に再建されたもの

  • 俳句的生活(274)-平塚(10)平塚に居た大庭氏ー

    源平の争乱時、大庭氏には兄の景義、弟の景親という兄弟がいて、それぞれ源氏と平家に分かれて戦ったということはNHK大河にも描かれていて、割と知られているのですが、彼等には更に二人の弟が居て、その内の一人は平塚に荘園を持ち、館を構えていたということは殆ど知られていません。弟の名は景俊といい、荘園が平塚の豊田にあったことから、豊田景俊と呼ばれています。その荘園があった場所は、豊田本郷という平塚から伊勢原へ行く途中で、今そこに大庭四兄弟の父親であった大庭景宗の墳墓が大庭塚と

  • 添削(57)-あすなろ会(13)令和6年3月ー

    裾花さん原句 ランニング背中に陽受く遅日かな上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング原句 花守りも花見客の一人かな岐阜県根尾谷の薄墨桜中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要

  • 俳句的生活(273)-平塚(9)三浦氏の館

    平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。石碑には次のような文面が彫られています。この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を

  • 俳句的生活(272)-平塚(8)相模国府ー

    古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女

  • 俳句的生活(271)-平塚(7)中原街道ー

    前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。

  • 俳句的生活(270)-平塚(6)中原御殿ー

    私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家

  • 添削(56)-あすなろ会(12)令和6年2月ー

    裾花さん原句 貝寄風や小貝にまじり小石飛ぶ四天王寺の聖霊会貝寄風(かいよせ)とは、大阪四天王寺の聖霊会(旧暦二月二十二日)のころに吹く季節風のことです。四天王寺の聖霊会では、供華の筒花を住吉の浜に吹き寄せられた貝殻で作ることから、この名前が使われるようになっています。この風は、長くは続かないが、かなり強いことが特徴です。原句はその風の強さを詠んだものですが、動詞を二つ使い、結果としてリズムが悪くなっています。動詞を一つにしてリズムを良くしてみます。

  • 俳句的生活(269)-平塚(5)平塚宿(2)旅籠ー

    平塚宿の名前が初めて文書に現れるのは、鎌倉時代の後期、亀山天皇の皇子で仁和寺の門跡となっていた益性法親王という人が、鎌倉から京都に戻るときに、自分のための雑役を務めていた下法師を、「平塚宿」で返した、と手紙に記述したものです。鎌倉時代には未だ現在のような東海道は出来てなく、箱根を越えるのは、平塚から大磯の海岸を酒匂川まで進み、川沿いに北上して足柄峠を越えるというものでした。従って平塚は古くから交通の要衝だったのです。(余談になりますが、亀山天皇は後醍醐天皇の

  • 俳句的生活(268)-平塚(4)平塚宿(1)見附ー

    平塚宿は、JR平塚駅の少し西の処から大磯町との境まで、東海道に沿って1.5kmの間に約50軒の旅籠を連ね、両端には見附と呼ばれる施設が作られていました。私が治療を受けている歯科クリニックの診察台から見える、富士山を遮るように建ってしまったマンションを見てきました。マンションの名前になっている「平塚見附」は、この辺りの地名が見附町なので、そこから採ったマンション名ということです。この町名は、宿場の東端に作られていた「江戸見附」に由来しています。

  • 添削(55)-あすなろ会(11)令和6年1月ー

    裾花さん原句 遠近(おちこち)の鐘の響きや去年今年大晦日の夜、年が変わろうとする頃、除夜の鐘音があちこちの寺院から響いてきます。音量に差があったり、テンポのずれで、幻想的な響きとなります。中句を単に ”鐘の響き” とせずに、混ざり合った響きを表現する言葉にした方が深みが出ると思います。参考例 遠近の鐘の合唱去年今年原句 大山を借景宿の牡丹鍋牡丹鍋窓から大山が見える宿の一室で、伯耆名物の牡丹鍋を頂く、という情景がよく見えます。た

  • 俳句的生活(267)-平塚(3)須賀村ー

    須賀千軒と称された須賀は、中世から江戸期を通じ、相模の表玄関の地位を占めていました。その繁栄振りを『平塚の地誌』では、アメリカのミシシッピー川の河口の港湾都市ニューオーリンズに準えて、次のようなイメージ図を掲載しています。相模の内陸の物資は相模川の水運で須賀湊に集積され、それが400石船に積み替えられて江戸を含む近隣に輸送され、その逆のルートでも、物資を内陸に運んでいたのです。須賀村の戸数は平塚宿と平塚新宿を合わせたものよりも多く、その経済力の豊かさによって

  • 俳句的生活(266)-平塚(2)馬入村ー

    江戸時代、平塚は58の村落から構成されていて、そのほとんどは旗本の知行地でしたが、重要な地域は幕府ならびに小田原藩によって支配されていました。馬入村は幕府の支配した処で、村高375石の内、旗本の知行地はわずかに17石あるだけで、残りは全て幕府の直轄領となっていました。馬入村の区域は現在の馬入地区よりも遥かに大きく、小字の構成は次のようになっています。馬入村小字絵図この地図で興味深いのは、赤の矢印で示したとことに堤防が築かれていることです。馬入橋脇からララポー

  • 俳句的生活(265)-平塚(1)茅ヶ崎市との境界線ー

    俳句的生活というブログを始めて3年目となりました。主に茅ヶ崎の地誌や歴史、人物について記してきましたが、200回近くのブログで茅ヶ崎についてはほぼ書き尽くした感があります。そこでお隣の平塚に足を伸ばして、気になる事柄を記していきたいと思います。私事になりますが、私は歯の治療を平塚の歯科クリニックで受けていて、ビル5階の治療の席からは西の方角に高麗山がみえます。数年前までは安藤広重の浮世絵のように、高麗山の脇に富士山が見えていたのですが、いつの間にかにマンションが建ち

  • 添削(55)-あすなろ会(10)令和5年12月ー

    裾花さん原句 若水の汲みて新生八十路かな八十路を力強く生きていこうとする決意を詠んだ句です。助詞の使い方ですが、「若水」が汲むという動詞の目的語ですので、上句の「の」は「を」でなければなりません。「若水を汲みて新生八十路かな」 若水は汲むものですから、この動詞を省略することを考えてみます。参考例 若水や闘志の八十路浜に立つ原句 箱根路や茶店開かず山眠る箱根の旧道の茶店を詠んだ句です。山の休眠に合わせるように、茶屋も閉まっている

  • 俳句的生活(264)-蕪村の詠んだ京都(20)王朝趣味

    蕪村の句のカテゴリーの一つに、実生活とはかけ離れた古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味の句を挙げることができます。主に平安朝の京都を素材にしたものですが、空想句ではない写生句においてすら、ことさらに「平安城」と詠み、王朝時代に結びつけようとしたものもあります。ほととぎす平安城を筋違に (明和8年 蕪村56歳)蕪村が自賛句として最高点を付けたものは次の句です。行く春や同車の君のさゝめごと (安永9年 蕪村65歳)「同車の君」とは貴族

  • 俳句的生活(263)-蕪村(19)郷愁の詩人ー

    蕪村の俳句については、それを評するものが幾つかありますが、私にとって一番ぴったりするものは、昭和11年に書かれた萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝野蕪村』というものです。”郷愁” という言葉は、ヘルマン・ヘッセの処女作『ペーター・カーメンチント』の最初の邦訳のタイトルとなったもので、別の邦訳タイトルとなった『青春彷徨』が示すように、たゆたゆとした青春時代を描いた作品です。朔太郎はこの評論の「序」で、子供の頃より俳句というものに馴染めず、唯一例外であったの

  • 俳句的生活(262)-蕪村の詠んだ京都(18)漱石の草枕ー

    蕪村を発掘した正岡子規は、以後子規門を蕪村派と称するようになりましたが、子規自身は ”写生” を作句での基本としたので、皮肉なことに彼自身の句は蕪村調にはなっていきませんでした。そして子規以上に蕪村を憧憬し蕪村調の句を作ったのは、子規の盟友である夏目漱石でした。漱石は松山に中学の英語教師として赴任中、東京に戻った子規に俳句を送り、子規は添削をして返すという関係でしたが、子規の返書は手厳しいもので、「君の俳句は写実ではない」といった難陳に対して漱石は、小生の写実に拙な

  • 俳句的生活(261)-蕪村の詠んだ京都(17)子規による評価-

    蕪村は子規によって評価され、芭蕉と並ぶ俳聖として現代に至っていますが、芭蕉の句と対比した『俳人蕪村』という評論では、芭蕉よりもむしろ高く評価しています。冒頭の一節では、芭蕉は実に敵手なきか。曰く、否。と記しています。子規たちが蕪村の句を集めた方法ですが、始めは類句集と呼ばれる題材別に分類して編集された句集で俳句を学んでいたところ、蕪村の句が散在していて、それがまた非凡なものであることに気付き、蕪村の句を徹底的に収集することにしたのです。その方法とは、子規が主催する会

  • 京大俳句会(14)-第177回(令和5年11月)-

    「京大俳句会」は大正9年2月に、三高生や京大生によって創設された「京大三高俳句会」をルーツとする俳句団体です。京大学生集会所で行われた2月23日の発起大会の3か月後の5月10日には、再び虚子を招いて円山公園の ”あけぼの楼” で大会を催しています。この時の様子は、高浜赤柿という人が、大正9年6月の「ホトトギス」に寄稿しています。赤柿氏は三高生であった日野草城よりも2歳年上で、当時は京大の2回生、京大側での世話役を務めていました。ホトトギス(大正9年6月号)同

  • 俳句的生活(261)-虚子と漱石の京都ー

    「まだ居ます。すぐいらっしゃい。但し男世帯だから御馳走は出来ませぬ。御馳走御持参は御随意。」これは明治四十年、京都下鴨の狩野亨吉方の漱石より、京都三条の万屋旅館の虚子に宛てた手紙です。この年漱石は東京帝国大学での教職を辞して朝日新聞に入社し、専属作家として六月より新聞連載を始めることになっていました。京都にはそのための取材旅行で、三月二十八日に入洛し、親友の狩野亨吉が借りていた家に滞在していました。小説の名は「虞美人草」です。一方虚子の方も小説「塔」の取材のために奈

  • 添削(54)-あすなろ会(9)令和5年11月ー

    裾花さん原句 袋田の崖を包みし大氷柱氷結した袋田の滝中句の ”包みし” が過去形になっているので、現在形の ”包める” にした方が良いでしょう。袋田の氷瀑の写真をみると、氷はぴったり岩に張り付いているので、参考例では ”氷柱” ではなく ”鎧” にしてみました。参考例1 袋田の崖を包める大氷柱参考例2 神ます滝をおほふ氷の鎧かな原句 小春日や八十路4人のパトロール小春日の中、元気な80歳代が、防犯パトロールしている姿が浮かんで

  • 俳句的生活(260)-蕪村の詠んだ京都(16)芭蕉庵ー

    芭蕉は時雨を愛し、その忌日は時雨忌と称されています。蕪村の芭蕉への敬愛の情は深く、蕪村の「時雨」を詠んだ句には、芭蕉を踏んだものがいくつか見られます。しぐるゝや堅田へおりる雁ひとつ (明和7年 蕪村55歳)これは芭蕉を踏んだ蕪村の時雨の句の一例です。堅田は近江八景「堅田落雁」で名高い琵琶湖畔の地です。蕪村のこの句は、芭蕉の 堅田にてと前書きされた 病雁の夜寒に落ちて旅寝かな を踏んだものです。芭蕉の句は暗いイメージを宿していますが、蕪村の方は摸したとはいえ

  • 京大俳句会(13)-第176回(令和5年10月)-

    京大俳句会は「京大三高俳句会」をルーツとするものです。京大三高俳句会の発起大会は、大正9年2月23日に、虚子も招待されて、京大の学生集会所で行われました。会創設の中心になったのは、当時三高生であった日野草城でしたが、彼はこの日の大会の様子を、次のようにホトトギスに寄稿しています。ホトトギス大正9年4月号虚子は三高在学中の2年間に下宿を5回代えていて、聖護院の下宿は2回目のもので、京大の学生集会所からは近くの処にありました。草城は、京大三高俳句会を設立して1年

  • 俳句的生活(259)-蕪村の詠んだ京都(15)雪ー

    『蕪村全句集』には季題「雪」の句が40句掲載されています。これは「花」と「時雨」に次ぐもので、京都の土地柄を示したものと言えるでしょう。雪見を詠んだ芭蕉の句に、いざ行む雪見にころぶ所まで というのがあり、貞享4年(1688)芭蕉44歳、名古屋での作となっています。私は当初この句は江戸で作られたもので、”ころぶ” ということに違和感があったのですが、名古屋でのものと知り、納得しています。この「笈の小文」の芭蕉の句を踏んだ蕪村の雪見の句に、次のようなものがあります。いざ

  • 俳句的生活(258)-蕪村の詠んだ京都(14)淀川ー

    「旅を棲処」とした芭蕉と異なり、蕪村は53歳で讃岐から帰洛した後、亡くなる68歳までの間、遠方に旅をすることはなく、出かける処は近郊に限られていました。そんな蕪村でしたが、大阪には弟子や俳友が多く、画材を仕入れることからも、蕪村自身出向くことも多くなっていました。当時、京ー大阪の交通は、淀川を上下する三十石船が利用され、京都の乗り場は伏見、大阪の乗り場は天満橋近辺となっていました。伏見の乗り場船の運航距離は45kmですが、京都から大阪への下りは約6時

  • 添削(53)-あすなろ会(8)令和5年10月ー

    裾花さん原句 司馬遼を一冊読み切る夜長かな中句が8音になっているので、7音になるよう工夫してみます。参考例 一冊の司馬遼を読む夜長かな原句 色褪せどきりりと立てり野菊かな中句の「立てり」は完了を表す助動詞「り」が付いた動詞で、終止形となっています。そうすると中句で一度切れて、更に下句の「かな」で二度目の切れを起こすことになります。二度切れを避けるために、中句は「立ちし」あるいは「立てる」として、下句に繋がるようにしなければいけません。

  • 京大俳句会(12)-第175回(令和5年9月)-

    京大俳句会は虚子も参加した「京大三高俳句会」をルーツとするものです。この会の設立大会は大正9年3月に京大の学生集会所で行われています。明治40年に作られたこの建物は、建て替えられることなく現在に至っています。京大学生集会所1 ああ昭和愛を捩じって情死に果てる 武史「ああ昭和」なのか「ああ昭和愛」なのか、とちらかと迷うが、先の方でいただくのが自然だろう。恋愛に昭和のカタチなどというものがあるのだろうか、「情死」つまり不倫の恋の果てこ

  • 俳句的生活(257)-蕪村の詠んだ京都(13)川涼みー

    ウイキペディアに、各時代ごとの鴨川の断面が表示されたものがあります。現在のような「みそそぎ川」が鴨川右岸の河原上に作られて、そこに先斗町の料亭から川床が張り出されるようになったのは近代になってからで、江戸から明治初期までは、鴨川の自然の傍流の上で ”川涼み” が行われたことが判ります。鴨川の断面(ウイキペディアより)元禄3年(1690)6月、芭蕉は「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過るころまで、川中に床をならべて、夜すがら酒のみ、もの喰ひ遊ぶ、、、流

  • 俳句的生活(256)-虚子の詠んだ京都(22)京大三高俳句会ー

    虚子の京都、いったん閉じたのですが、大事な項目を抜かしていたので、追加することにします。虚子が三高に在籍していたことは、本稿で何度も触れてきましたが、そのことが縁となり、ホトトギスに投句をしていた京大生や三高生が創設した俳句会の設立大会や句会に、虚子も参加していたのです。20歳そこそこの後輩たちが設立した「京大三高俳句会」という名称の俳句会、その名前からも虚子は大いに惹きつけられたに違いありません。京大三高俳句会の創立大会は、大正9年3月、京大の学生集会所で三高生の

  • 俳句的生活(255)-蕪村の詠んだ京都(12)冬ごもりー

    京都で冬を過ごしてみると、空はどんよりと曇り、寒さは骨身にしみて、改めてここは日本海性気候であることを痛感するものです。一方でそれは、”籠り居の詩人” である蕪村には、格好の季題を与えることとなりました。「冬ごもり」という季題です。蕪村にはまた、”冬ごもり” あるいは ”籠り居” にぴったりと当て嵌まる絵を描いています。国宝「夜色楼台図」です。空は黒い墨が塗られ、雪の積もった山と屋根は無地の白で表現し、楼閣や二階建ての商家からは灯りが漏れています。この絵には

  • 俳句的生活(254)-蕪村の詠んだ京都(11)桜

    花(桜)を詠んだ蕪村の句は、俳諧宗匠になった時と、前稿の灯火で既に二句ほど紹介しています。花守の身は弓矢なき案山子かな花の香や嵯峨の燈火きゆる時蕪村の桜の句は、100句程度ありますが、本稿では詠まれた地名がわかるものに絞って紹介することにします。花を詠んだ句というと、虚子の場合もそうでしたが、嵐山や円山公園など実際に桜の樹が植わっている処を詠んだものが多いのですが、蕪村には京都の繁華街である木屋町での出来事を詠んだものがあります。それはなには人の木や

  • 山小舎便り(17)-令和5年10月3日ー

    前回、山小舎便り(16)を8月16日に書いてから50日近く、山小舎便りを書かない日が経ってしまいました。この間、9月前半と9月下旬から今日まで、2回ほど山には来ているのですが、猛暑のせいか山の景観は8月の時とほとんど変わっておらず、ブログの方も虚子や蕪村の京都について書くのに夢中になっていて、山の生活を書くことに関心が向かなくなっていたためです。ところが昨日より急に気温が下がり、山小舎の外の気温が10度を下回るようになり、室内ではストーブを焚くほどになってきました。

  • 俳句的生活(253)-蕪村の詠んだ京都(10)灯火ー

    本稿より、蕪村の俳句をジャンルに分けて、代表的な句の幾つかを紹介していくことにします。最初に取り上げるのは、蕪村の俳句と絵画において大きな比重を持つ ”灯火” からです。この絵は嵯峨野の夜を描いたものです。民家の灯りが消えてあたりは真っ暗になっているのですが、あたかも真昼のような描き方になっています。そのことが判るのは、賛に書かれている次の句からです。花の香や嵯峨の燈火(ともしび)きゆる時 (安永6年 蕪村62歳)絵の右手前には嵯峨野の竹林

  • 俳句的生活(252)-蕪村の詠んだ京都(9)蕪村開花ー

    蕪村の足跡を辿り、前稿で俳句宗匠になるところまで来ましたが、蕪村の名句中の名句である「月天心」の句を紹介し忘れていたので追記しておきます。月天心貧しき町を通りけり (明和五年)この句は蕪村が夜半亭二世を継承した年の二年前、蕪村53歳のときの作です。一般にこの句の解釈は、石田郷子の名句即訳の空の真ん中に名月がかかっているその下を、ただ独り歩いて行く。貧しげな町並みの中を通ってのように、人が通っていくとなっているのですが、私は、月が貧しい町並みを照らしながら通

  • 添削(52)-あすなろ会(7)令和5年9月ー

    裾花さん原句 新米の惣菜少なき夕餉かな中句の「惣菜少なき」が説明的描写になっているので、映像の伴った言い方で詠んでみます。参考例1 新米来(く)一汁だけの夕餉かな 参考例2 新米の湯気の圧せる夕餉かな原句 新酒汲む友の土産の九谷焼この語順だと、一番強調されているのは ”九谷焼” となっています。作者が詠みたいのは、九谷焼が ”友の土産” であったことと、その九谷焼で新酒を汲んでいることであるので、語順を替えてそれを明確にします

  • 京大俳句会(11)-第174回(令和5年8月)-

    今月の兼題は「朱夏」です。京大俳句会のオフィシャルサイトはこちらです。1 京の朱夏心静かに身も涼し 幸男2 コロナ明け米寿の友と肩を組む 幸男 高齢でコロナに罹ると命にかかわる、それもいちおう下火と言われる時期がきた。生き延びたなあ、米寿(88歳)の祝いと病気に勝つた快癒が重なり方を組み合う。二重の喜びです。でも、まだ流行の恐れあり。ご用心下さい。(吟)3 朱夏暮れて河原の涼風脛白し

  • 俳句的生活(251)-蕪村の詠んだ京都(8)俳諧宗匠ー

    丸亀より帰京して2年、明和7年(1770)、蕪村は師の宋阿が名乗っていた夜半亭を二世として継承しました。宋阿の夜半亭は、江戸日本橋での宋阿の庵名を以て一門の名称にしたものですが、蕪村の場合は、住居とは関係なく、一門の名称を二世として継承したものです。蕪村の住居については、讃岐から戻ったときには、四条烏丸の東側でしたが、夜半亭二世を継承したときは、烏丸通の西側の室町通綾小路下ル町に住居を移しています。ここに5年住み、最終の住居は仏光寺烏丸西へ入町となっています。位置関

  • 俳句的生活(250)-蕪村の詠んだ京都(7)京都での定住-

    明和5年(1768)4月下旬、蕪村は妻と娘の待つ京都の自宅に戻りました。この時より亡くなるまでの25年間、蕪村は大阪などに赴く以外、自宅を留守にすることはありませんでした。讃岐に出立する前に蕪村は「三菓社」という俳句同好会を作っていましたが、帰京するや数日にして、三菓社による句会を再開しています。年末までの半年間で実に18回もの句会を催しているのです。狩衣の袖の裏這ふ蛍かな (5月6日)川狩や帰去来といふ声すなり (5月16日)鮎くれてよらで過行く夜半の門 (6

  • 俳句的生活(249)-蕪村の詠んだ京都(6)讃岐ー

    結婚して6年後、明和3年(1766)、蕪村は妻子を京都に残して讃岐に赴いています。その理由として、屏風講のメンバーに絵がほぼ行き渡り、新たに販路を開拓する必要があったためです。蕪村の絵はまだ地方から注文が集まるほど著名にはなっていなかったからでした。行き先として讃岐を選んだのは、それまでの交遊によって讃岐には知己が何人もいて、絵の注文が得やすいと判断したためです。当時讃岐へは、大阪から金毘羅船で兵庫や岡山の港に寄港しながら、丸亀に向かうものでしたが、蕪村は同

  • 俳句的生活(248)-蕪村の詠んだ京都(5)帰京ー

    宝暦七年9月、蕪村42歳のとき、3年余り滞在した宮津を離れ、京都に戻ることになりました。このとき宮津真照寺に橋立の松並木を描いた天橋立図を残して来ています。蕪村の天橋立図図の上部には長い賛が書かれていますが、ここには宮津で最後の作となった次の句が含まれています。せきれいの尾や橋立をあと荷物この句は、”尾やはし” が「尾をはやく振る」という意味で橋立にかけているのと、”あと” が橋立をあとにするのと、後荷物(後から送る荷物)にかけるという、相変

  • 俳句的生活(247)-蕪村の詠んだ京都(4)丹後ー

    上洛後3年を経た宝暦4年、蕪村37歳の時、ようやく足場を固めつつあった京都を離れ、俳友の竹渓が住職として赴任した宮津の見性寺という浄土宗の寺院に、雲水として寄寓することになります。竹渓が丹後に下るときに蕪村が贈った句は、たつ鴫に眠る鴫ありふた法師というものです。ふた法師とは竹渓と蕪村のことです。友達の後を追うとはいえ、何故に蕪村が宮津にまで赴いたかというと、蕪村は京都に居る間、各所の寺院を巡り襖絵などを見て、絵画の勉強をしていたのです。私の推測ですが、そうし

  • 俳句的生活(246)-蕪村の詠んだ京都(3)俳諧宗匠への道(3)上洛ー

    20歳で江戸に上り、16年間江戸および関東で暮らした蕪村でしたが、36歳となった夏に上洛することになりました。この上洛が蕪村にとっては初めての京都で、2回ほど地方へ行くことがありましたが、68歳で亡くなるまでの約30年間、蕪村は京都で過ごすこととなりました。この間の略譜は次のようになります。宝暦元年(1751年) 蕪村36歳 上洛(8月)宝暦4年(1754年) 蕪村39歳 丹後に赴き3年間滞在 宝暦10年(1760年) 蕪村45歳 結婚 明和3年(1766年) 蕪

  • 俳句的生活(245)-蕪村の詠んだ京都(2)俳諧宗匠への道(2)江戸ー

    蕪村が江戸に来たのは20歳ごろと推測されているのですが、はっきりとその足跡が辿れるのは、22歳のとき、夜半亭宋阿(巴人)に ”拾ひたすけ” られて、日本橋石町の宋阿の家で住み込みの内弟子になってからです。宋阿の人柄は、”その情、質朴にして世知に疎く、道人の風儀あり” と追善集に記されていて、蕪村に対しては、あたかも父親であるかのように慈しんでいます。22歳の蕪村に対して宋阿62歳という関係でした。宋阿は芭蕉の高弟である宝井其角・服部嵐雪の門人なので、当然芭蕉の流れを

  • 俳句的生活(244)-蕪村の詠んだ京都(1)俳諧宗匠への道(1)少年時代ー

    19歳から21歳までの2年間を三高で過ごした虚子にとって、京都はつねに青春を懐旧する土地でありました。一方蕪村にとっての京都は、京都生まれでない京都人として30年を過ごした、春や秋だけではないゆるやかな四季の古都であったといえます。蕪村が生まれたのは享保元年(1716年)で、徳川吉宗が8代将軍に就いた年、松尾芭蕉よりも72年後の生誕。場所は大阪近郊の淀川に面した毛馬村というところで、生家は庄屋を務める農家でした。毛馬村は幕府の直轄地で、村高は925石となっています。

  • 俳句的生活(243)-虚子の詠んだ京都(21)蕪村の寺ー

    京都洛北一乗寺に金福寺(こんぷくじ)という臨済宗南禅寺派のお寺があります。少し北には詩仙堂があるという地区です。このお寺は蕪村の墓があるということで知られていて、また蕪村が再建した芭蕉庵が残されています。金福寺芭蕉庵昭和10年5月2日、娘の立子を伴った虚子は、嵐山の後に金福寺を訪れ、句会を開いています。その時の出句は徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころというものです。桜は既に散っていて、さすがの虚子も花の句は詠めなかったようです。中句の

  • 添削(51)-あすなろ会(6)令和5年8月ー

    据花さん原句 湯舟より右肩越しの十三夜十三夜は旧暦9月13日で、その月は ”後の月” とも呼ばれています。そして十三夜は ”湯” と相性の良い季語で、その理由はやや涼しくなった季節での一日を了える時の ”湯” に、例えそれが言葉であっても、気持ちがリラックスするからでしょう。原句は「より」と「越し」の繋がりが説明的であるので、上句を「や」で切ってみることにします。参考例 仕舞湯や右肩越しの十三夜原句 桐一葉手に終活の始まりぬ”桐一葉”

  • 山小舎だより(16)-令和5年8月17日ー

    1700mの高地は平地と比べて、春は2か月遅く秋は2か月早くやってきます。山ではお盆が過ぎるともう秋と言われていますが、今回の滞在で最後となる試歩をしているときに、そのことに気付きました。楓の葉が一部紅くなっていたのです。盆過ぎて山の楓の紅ひとつ 游々子一度紅葉が始まるとそれは一気に進んでいきます。9月にまた来たときは相当紅葉した箇所が広がっていると思います。そういえば夜明けに目覚めたとき、いつの間にかに鶯の鳴き声が聞こえなくなっていました。

  • 山小舎便り(15)-令和5年8月16日ー

    台風7号、はじめの予想は小笠原から北上して東海・関東に上陸するというものでしたが、予報円の最も西のコースを辿り、関西や四国・山陰に大きな被害をもたらしてしまいました。幸いにしてというか、長野県の中部にあたる当地は風も雨もたいしたことなく、無事に過ぎていきました。今、多少気持ちがざわついているのですが、それは台風のせいではなく、茅ケ崎に戻る日が近づいているからです。明後日の18日に戻ることにしていて、翌19日の大神神社主催の古代史セミナに間に合わせるためです。大神は

  • 俳句的生活(242)-虚子の詠んだ京都(20)産寧坂-

    京都清水に産寧坂と呼ばれる土産店がずらりと並んだ坂があります。通常は三年坂と呼ばれている坂ですが、この坂が二年坂と交わる所に、かって天田愚庵という人が結んだ草庵がありました。産寧坂草庵を愚庵と名付けたことにより、自分の名前を天田愚庵とするようになった人ですが、子規や虚子が交わった人の中で最も異色の人でした。なんと清水の次郎長の養子となった人で、彼が書いた「東海任侠伝」こそ、その後の講談や浪曲・映画の一次資料となり、次郎長のイメージを作り上げているのです。

  • 俳句的生活(241)-虚子の詠んだ京都(19)御忌詣-

    学生時代、私は下鴨神社の西側に下宿していて、大学への通いは糺の森の参道を通り出町柳に出て、百万遍に至るというコースでした。学生時代の百万遍交差点当時は百万遍とは面白い地名だなとしか思っていなかったのですが、今、「御忌詣(ぎょきもうで)」というのを調べるために、浄土宗の公式サイトを見たところ、法然上人は毎日6万遍から7万遍も南無阿弥陀仏を唱えられたということで、それに由来した地名でないかと想像したのですが、念のため ”百万遍知恩寺” のサイトをチェックしてみる

  • 山小舎だより(14)-諏訪大社大祝(令和5年8月12日)ー

    一昨日のことになりますが、食料の買い出しで山を下りたついでに、茅野の図書館へ行き10冊ほど本を借りてきました。帰途は5km諏訪方面に戻るのですが、前々から関心があった諏訪大社上社の大祝諏方氏の邸まで足を伸ばしました。大祝(おおほおり)は下社にもありましたが、そちらは神職のトップ即ち宮司という職で、上社の方は五官の神職の上に立つ ”現人神” という位置づけでした。諏方氏と呼ばれるのは中世以降で、それまでは神氏(ごうし)と名乗っていました。宮川には今も神橋という名の橋が

  • 俳句的生活(240)-虚子の詠んだ京都(18)謡ー

    虚子が謡を嗜んでいたのは夙に有名で、その系譜は松山藩士であった父や祖父にまで遡ることができます。そしてそれは漱石にも影響を与え、漱石もまた謡を趣味とするようになりました。「吾輩は猫である」の中で、猫は主人である苦紗弥先生の性癖を次のように述べています。俳句をやって、ほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝こったり、謡うたいを習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれ

  • 俳句的生活(239)-虚子の詠んだ京都(17)花篝ー

    虚子は円山公園の枝垂桜をことのほか愛でていますが、それは夜桜にも及んでいます。当時は今のようにライトアップする技術がなく、篝火を焚いて花を照らすというものでした。そうした篝火は、花篝と称されています。円山公園の花篝昭和6年4月、虚子は四国からの帰りに京都に立ち寄り、わずか2日の滞在ですが、円山公園の夜桜を見物し、次のような花篝を季題とした句を詠んでいます。花篝衰へつゝも人出かな 虚子(昭和6年4月)この時期のライトアップは花篝しかありません

  • 俳句的生活(238)-虚子の詠んだ京都(16)宇治ー

    江戸名勝図絵に、今は西日暮里公園となっている道灌山が描かれています。道灌山ここに明治28年12月、子規は虚子を呼び出し、虚子に俳句における自分の後継者とならないかと打診しています。虚子と子規はともに ”写生” なるものを提唱し、同じ俳句観を持っていたと思われがちですが、実は根本的なところで意見を異にしていて、子規の申し出を虚子は拒絶することとなりました。その違いとはいかなるものか、虚子は子規が亡くなった後の明治37年3月の「ホトトギス」で次のように説明してい

  • 山小舎だより(13)-令和5年8月4日ー

    昨日は三日に一度の買い出しで山を下り、14km離れているAコープまで車を走らせました。ここは農協が経営しているスーパーで、夏場は別荘に来ている人が大勢利用しています。Aコープの隣にJAファームという主に農業用のグッズを販売しているかなり大きい店舗があり、昨日は苗を2鉢ほど買ってきました。というのも、山小舎での熊笹刈りが一通り終わり、出現したスペースに、高地に適した花を植えていこうと思い立ったのです。幸いなことにJAファームの植物売り場には花に詳しい人が居て、アドバイ

  • 京大俳句会(10)-第173回(令和5年7月)-

    今回の兼題は「祇園会」です。祇園会の鉾建て(令和5年7月10日)日経新聞より「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 天の川地球の大河は濁りけり のんき2 枝(え)に眠る一羽鴉や夏の月 遥香この句から私(游々子)は、夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で、寒月くんが俳劇論を展開する場面を連想しました。それは、俳人虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼

  • 俳句的生活(237)-虚子の詠んだ京都(14)大原ー

    ”祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり” で始まる「平家物語」は、壇之浦のあと大原寂光院に入った建礼門院を、後白河法皇が訪ねる「大原御幸」で終わっています。このとき最初に法皇の応対をする元女官は ”阿波の内侍” という崇徳上皇の寵愛を受けた人です。このとき既に60歳になっていましたが、寂光院での生活費の足しにするために、大原の産物を洛中にまで運び行商をした、その時の装束が大原女の装束の原点であると言われています。私が京都で学生生活を送ったのは、昭和40年代の

  • 俳句的生活(236)-虚子の詠んだ京都(13)平八茶屋ー

    鴨川を構成するY字の右肩の部分、八瀬から流れる高野川を、出町柳から約3km遡ったところに、400年の歴史をもつ「平八茶屋」という高級料亭があります。修学院と宝ヶ池の中間地点です。平八茶屋の門虚子は明治40年4月、虞美人草の執筆準備のために京都を訪れていた夏目漱石を、この料亭に連れてきて川魚料理の昼食をしています。虞美人草の冒頭、甲野さんと宗近くんの二人が比叡山に登る場面で、平八茶屋は次のように描かれています。「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだほうがよ

  • 俳句的生活(235)-虚子の詠んだ京都(13)虚桐庵(その2)-

    虚桐庵とは三高時代の虚子の最後の下宿で、河東碧梧桐もここに下宿したことで、二人が自分たちの名をつけて勝手に呼称した下宿です。ここには松山出身で虚子よりも1年後輩である寒川鼠骨(本名:陽光(あきみつ))という人も下宿していました。彼も子規門下の俳人で、子規庵の保全に尽力した人です。晩年の写真が残されていますが、いかにも面倒見のよさそうな風貌をしています。鼠骨が三高在学中に、三高は現在の京都大学の吉田南キャンパスに移転する準備として、虚桐庵は取り壊されることにな

  • 山小舎便り(12)-令和5年7月28日ー

    山の天気は不安定で、午前中は快晴であったのが、今は激しい雨が降り注いでいます。今日は試歩を午前中にやったのが正解で、しかも独活(ウド)が花を咲かせているのに出会いました。ことわざに ”ウドの大木” というのがあって、ウドは木であると思われがちですが、実は多年草の草花で、冬には枯れて地上から姿を消し、春にまた芽を出すというものです。今年は5月初めに他の山菜と天婦羅にして食べたものです。この花は、秋には果実となり中に種が入っているので、今年は採種して、茅ケ崎で栽

  • 俳句的生活(234)-虚子の詠んだ京都(12)桜-

    桜は千年以上日本人にとって特別の花となっていて、和歌や俳句では、単に花が美しいと詠んだのでは物足りず、例えば伊勢物語では、世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし と捻った言い方で桜を愛でています。虚子も京都に詣でるのは春の時期が多く、それは桜を見物するのが主目的ですが、俳句では、満開のものから遅桜に至る時間というものを主題にして詠んでいるのがあります。咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 虚子(昭和3年4月)この句は、昭和3年4月8日、鎌倉の稲村ケ

  • 山小舎便り(11)-令和5年7月26日ー

    昨日より、試歩=リハビリ・ウオークを始めました。登山用のスティックを2本使っての、ゆるりゆるりとした針葉樹と落葉広葉樹の混じった樹林帯の中での試歩です。朝ドラで主人公の牧野万太郎が飛ぶように走っているのを見ると、かっては自分もと思ってしまうのですが、ゆるりゆるりでも歩けることは幸せなことだと思うようにしています。ウオークでは万太郎と同じように、何か目新しいことはないかと、眼を光らせるのですが、今日は珍しいものを発見しました。ヨツバヒヨドリを育てている山小舎が

  • 俳句的生活(233)-虚子の詠んだ京都(11)龍安寺ー

    龍安寺は洛西の金閣寺と仁和寺の間にある臨済宗の禅寺です。他の二寺が室町将軍や天皇による創建に対して、龍安寺は室町幕府の管領によるもので、創建者の格式は相当に劣るのですが、今では他の二寺と肩を並べる程の観光名所となっています。それはひとえに哲学的様相の石庭に依っています。龍安寺石庭虚子は、昭和2年4月、前稿の北野と同じく松山の句会からの帰途に、これら三つの寺で花を愛でています。龍安寺では次の二句を詠んでいます。この庭の遅日の石のいつまでも 虚子(昭和

  • 山小舎便り(10)-令和5年7月24日ー

    先週土曜日、関東が梅雨明けするのを待って、再び北八ヶ岳西麓の山小舎に戻ってきました。標高が1700mの処なので茅ヶ崎より気温が10度低く、今部屋の温度は22度です。まだ山小舎の周辺の散策はしていないのですが、昨日は久しぶりに清里の清泉寮と野辺山の電波望遠鏡のある処まで足を伸ばしました。清泉寮本館清里は、駅前に雨後の竹の子のように出来た安っぽい建物が、バブルがはじけた後、軒並み潰れたと聞いていたのですが、清泉寮だけは別物で、新館が新たに作られていて、大勢の人で

  • 添削(50)-あすなろ会(5)令和5年7月ー

    裾花さん原句 串焼きにならぬ小鮎を放しけり鮎釣り解禁日の相模川(2022.6.1)作者の裾花さんは鮎釣りを趣味にしています。釣った鮎が小さいとリリースしているとのことです。リリースする理由として、串焼きにするしないの他に成魚になってないことがあるはずなので、上句にあえて助詞「も」を付け、本当は小鮎への慈しみであるのだがそれを表に出さず、串焼きにもならないと照れた表現にすると、句に味がでてきます。参考例 串焼きにもならぬ小鮎を逃がしけり

  • 京大俳句会(9)-第172回(令和5年6月)-

    今回の兼題は「夏草、夏の草」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 葵祭馬も濡れ行く賀茂の道 のんき馬が・人が・道が、お祭り全体が雨の中で行われているのである。かえって涼しく楽しい。(吟)2 青黒き比叡は霧の吐息する 楽蜂樂蜂さん得意の擬人化。「吐息」にこめているものを想像する。山全体が暗い緑に繁っている、つまり夏の霧の気配がある。(吟)3 荒武者の相五月雨の芦屋川

  • 俳句的生活(232)-虚子の詠んだ京都(10)北野

    桜の樹は日本全国どこにもあるものですが、京都の桜の花の美しさの所以は、人工造形物を含めた自然景観と花との一体性にあると言って良いでしょう。虚子の時代、関東大震災で、まだ濃厚に残っていた江戸の名残りは消滅してしまい、東京は潤いのない都市になってしまいました。昭和2年6月の「ホトトギス」に虚子は、だんだん年を取るに従って、此春は一つ春らしい感じで過ごしてみたい、其にはどうも此ごみごみした東京では駄目である。静かな山で花が見たい静かな寺で春の行衛が眺め度い、と念願する心が

  • 俳句的生活(231)-虚子の詠んだ京都(9)祇園一力茶屋ー

    京都四条通り、花見小路に入った南東の角に、紅殻色の壁の構えをした祇園屈指の高級料亭 ”一力茶屋” があります。祇園一力茶屋仮名手本忠臣蔵七段目祇園一力茶屋の場、大石内蔵助が目隠しをして大勢の芸妓と戯れる場面で、劇中もっとも華やかな舞台となっています。広重の浮世絵この料亭は ”一見さんお断り” で夙に有名ですが、虚子はなんと常連客になっていました。そして手を打って「鬼さんこちら」と呼ぶ芸妓を 目隠しをして追う ”鬼ごっこ” 遊びも、虚子は内蔵助

  • 俳句的生活(230)-虚子の詠んだ京都(8)祇王寺ー

    嵯峨野散策の奥に位置する祇王寺は、瀟洒な茶室風の庵と繊細な樹木・苔の庭が、祇王・祇女の物語と相まって、京都で最も人気あるスポットの一つとなっています。祇王寺大正11年12月、虚子たちは天龍寺から野々宮、落柿舎、祇王寺、二尊院と歩き、天龍寺に戻り、「即景十句」と呼ばれる現在の吟行に相当する句会を開いています。そこでの出句の一つに、祇王・祇女、更には仏御前の木像に ”若さ” を見つけたというものがあります。木像に若き面ざし冬日影 虚子(大正11年12月

  • 俳句的生活(229)-虚子の詠んだ京都(7)落柿舎ー

    京都市中から嵐山・嵯峨野を見物するときに利用する交通機関は、通常はJRではなく京福嵐山線が大半であろうと思います。終点駅が嵐山により近いからです。電車を降りたあと渡月橋で嵐山を臨み、次に向かうところは天龍寺。そのあと源氏物語に興味ある人は野宮神社に寄り、竹林の小径を抜けて最初に目にするのは、落柿舎の遠景です。俳句に関心のある人は中に入りますが、そうでない人は外観を見るだけで素通りしていきます。近づいてみると、庵の名前に違わず、柿の木が植わっています。

  • 俳句的生活(228)-虚子の詠んだ京都(6)平安京ー

    京都で桜をめでる最も風情ある方法の一つは、蹴上で琵琶湖疎水を運航する十石舟に乗り、岡崎の川辺に伸びた桜の枝の下を、ガイド嬢の説明を聴きながら巡っていくことでしょう。東京の隅田川の船からの桜見物とは違ってここでは、桜の枝が手に触れんばかりのところにまで、近寄ってきているのです。そして十石舟は平安神宮の大鳥居の前を進んでいきます。この平安神宮こそ、虚子が三高に居た時分に平安遷都1100年を祝う目玉事業として企画され、明治28年(1895年)に、京

  • 俳句的生活(227)-虚子の詠んだ京都(5)祇園会ー

    NHK・BS3の京都を扱った番組に ”京都人の密かな楽しみ” というドラマがありました。基本的に5人の若者の青春群像を追ったドラマでしたが、このなかで祇園祭を詳細にドキュメント化したものがあり、京都人ですら初めて知るようなことが盛り込まれた番組でした。まして京都人でない私には、7月いっぱいの祇園会に先立って、山鉾を持つ町内ごとに新稚児のコンチキチンの鉦たたきの練習がされていることなど、知る由もありませんでした。宵山の打重なりて見ゆるかな 虚子(昭和3年)宵

  • 俳句的生活(226)-虚子の詠んだ京都(4)鴨川ー

    京都市中を南北に流れる鴨川、その堤は東京の隅田川のようにコンクリートで固められることなく、全域が親水公園のように整備されていて、鴨川原はアベックが語らう恰好の場所となっています。頻繁に京都を訪れた虚子にとってそれは、納涼の川床であり、大文字の送り火を見物する堤であり、葵祭の行列を見送る場所でありました。浅き水に灯のうつりけり床涼み 虚子(明治31年)先斗町の納涼床の下を流れるみそそぎ川京都の夏の最大の風物詩は、三条から五条にかけて鴨川沿いに

  • 俳句的生活(225)ー虚子が詠んだ京都(3)四夜の月-

    万葉の昔から現在に至るまで、月を詠んだ和歌や俳句がどれだけあるのか、興味あるところです。母集団を決めればその数は勘定でき、手っ取り早く「百人一首」をサンプルにすれば、月を詠んだ歌は12首となっています。昔の夜は、今よりずっと闇に包まれた世界でした。そんな夜空に輝く月の光は、人々にいろいろな想いを搔き立てたからこそ、沢山の和歌や俳句が出来上がったのでしょう。一夜ごと、月に名前がついているのは世界の中で日本だけです。俳句の世界では、旧暦8月15日の前後に連続して

  • 俳句的生活(224)-虚子が詠んだ京都(2)虚桐庵ー

    虚子が京都で選んだ最後となる5番目の下宿は、当時の三高の正門の前の、吉田神社から東大路に向かって伸びる参道の対面にある農家でした。三高は、戦後に出来た京大教養部のある吉田南キャンパスに、最初からその敷地があったように思われがちですが、最初は現在時計台がある本部キャンパスに位置していました。それが、明治30年に京都帝国大学が設立されるというときに、建物と設備を大学の方に譲り、自らは南側に移動したのです。従って虚子の時代の三高の正門とは現在の京都大学の正門であり、虚子の

  • 俳句的生活(223)-虚子の詠んだ京都(1)嵐山ー

    世間一般には余り知られていませんが、高浜虚子は19歳から21歳までの多感な青春時代の2年間を京都で過ごしています。京都は虚子が郷里松山を出ての初めての異土で、彼の文学的心象に多大な影響を与えたことは、以後60年間、京都を訪れない年は無かったことでも明らかです。明治25年、松山の中学を卒業した虚子が向かった先は、京都の第三高等学校、現在の京都大学教養学部です。すでに京都帝国大学の創立は決まっていて(明治30年創立)その布石として位置づけられていた学校です。校舎は次の写

  • 京大俳句会(9)-第172回(令和5年6月)-

    今回の兼題は「夏草、夏の草」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 葵祭馬も濡れ行く賀茂の道 のんき2 青黒き比叡は霧の吐息する 楽蜂3 荒武者の相五月雨の芦屋川 つよし4 瓜冷す水に溢るるうすみどり 遥香新鮮な瓜はうすみどり色をしていますが、本句はそれを水の色として表現し、揺らぐ水に益々のうすみどりを強調しています。作者は今回初めての投句ですが、素晴らし

  • 添削(49)-あすなろ会(4)令和5年6月ー

    裾花さん原句 夏椿狭庭の女王(ぬし)におさまりぬ夏椿は6~7月に椿に似た白い花を咲かせる落葉樹です。剪定せずにいれば高さ10mを越えて育つという樹で、原句はそのような樹が、庭の女王然として白い花を咲かせている、という句です。”おさまる” という動詞は使わずに、中句以下を ”狭庭の女王(ぬし)の夏椿” として、上句に映像を持たない時候の季語を添えて、本季語の「夏椿」を引き立ててみてはどうでしょうか。参考例 若夏や狭庭の女王(ぬし)の夏椿

  • 俳句的生活(222)-茅ヶ崎最古の古刹ー

    茅ケ崎小和田に上正寺という浄土真宗の古刹があります。このお寺が茅ケ崎最古のものというので、昨日現場を訪れて、写真を撮って来ました。山門は鎌倉の寺に見劣りしないほど、風情ゆたかで立派なものでした。右脇の像、同行二人の言葉をどこかで見ていたので、てっきり空海像と思ったのですが、近寄ってみると、親鸞像でした。親鸞の像は空海の生誕地である善通寺の境内にもあって、日本の宗教は一神教の世界と異なり、おおらかで良いものと常々思っています。山門を入り

  • 俳句的生活(221)-相模川の堤防ー

    線状降水帯が出来て100年に一度の大雨が降った時、相模川左岸(茅ケ崎側)の堤防は大丈夫なのか、ずっと気になっていました。それというのも、次の写真のような工事の案内が長らく続き、一向に工事の進展がされていなかったからです。工事の遅れの原因は、相模川の茅ケ崎側にマリーナがあり、そこへの出入口への堤防を作ることが、業者との折り合いで難しかったからです。もし作るとすれば、河川敷に入る入り口に閘門のようなものしかないのかと思っていましたが、今日久々に自転車を走らせたと

  • 山小舎便り(9)-令和5年6月9日ー

    今回の山小舎暮らしは、一人でする長期滞在の第一回目で、いよいよ明日、茅ケ崎に戻ることになりました。最後の試歩で坂道を杖をつきながらゆっくり歩いていると、山からの贈り物というべきか、雨に打たれて益々透明感を高くしている二つの花を見つけました。ギンリョウソウとササバギンランです。ギンリョウソウササバギンラン花図鑑に依ると、ギンリョウソウは白くて竜の形をしていることから、漢字では銀竜草と書くそうです。ササバギンランの方は、名は葉が笹を思わせ、花色を銀に例え

  • 山小舎便り(8)-令和5年6月8日ー

    15年ほど前になりますが、山小舎所有の有志でプライベートのトレッキング・コースを開削していて、今日はそこを登ってきました。北横岳やピラタスのロープウエイにまで通じているトレッキング・コースですが、今日行ったところは、レンゲツツジが群生して見晴台になっている処です。山小舎がある標高1700mのところでは、レンゲツツジが今を盛りと咲き誇っていますので、期待して登ったのですが、わずか150m高いだけの標高1850mの処では、まだ蕾の状態でした。駐車

  • 山小舎便り(7)-令和5年6月7日ー

    今日は山から下りることはせず、山小舎の中で過ごしました。昨日下った時、スーパーで肉や魚を調達して来ているので、2日は食料に事欠かないのです。私の車はトヨタのハイブリッド車で、一度ガソリンを満タンにすると1000km走行できるのですが、スーパーまで片道13kmあって、つづら折りの山道でもあることから、そう簡単に山を下る訳にはいきません。いつまでもボーっと呆けてばかりいる訳にもいかないので、今日は茅ケ崎から持参した家庭用の高圧洗浄機で、ベランダの隙間に入っている落葉の屑

  • 京大俳句会(8)-第171回(令和5年5月)-

    今回の兼題は「麦秋、麦の秋」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 青梅に葉隠れの術ありさうな つよし2 アルプスは代馬消えて青田風 游々子北アルプスに白馬岳という山がある。春になり雪が溶けて岩肌が現れると、その形が馬に似ているというので、その山は白馬岳(代馬岳)と呼ばれるようになった。それが田植えをする合図でもあった。さらに季節が進み、雪解けと共に白馬も消えると、田植えした

  • 山小舎便り(6)-令和5年6月6日ー

    私が諏訪大社を、奥の深い謎めいた神社と思うようになったきっかけは、上社を取り仕切った神長官守矢という存在を知り、その資料館を訪れてからでした。この写真のように、建物からして縄文的でユニークなものです。更に内部での展示は、中世での御頭祭(おんとうさい)で生贄とされた鹿の頭部の剥製が壁に掛けられていて、既に農耕社会となっていた時代の神事として、違和感を抱かせるものでした。昨日訪れた ”御射鹿池” や ”御射山” という地名は、鹿を生贄とするために

  • 山小舎便り(5)-令和5年6月5日ー

    朝、目覚めたとき、特に今日何かをしなければいけないものが何も無いというのは、快適そのものです。今日一日何をしようかと考えるひと時は ”自由” そのものです。山小舎のメンテ、例えばクマザサを刈るという仕事は何も今日でなくても良く、シーズンの間に完了させれば良いのです。こんなにも ”自由” な気持ちでいられるのは、無粋な電話や訪問のコールが一切なく、自分の ”意思” が100%通るからでしょう。建物の脇に小さな花が咲いていたので、花図鑑で調べたところ、葉

  • 山小舎便り(4)ー令和5年6月4日ー

    今朝の目覚めは4時、鳥の鳴き声に起こされたというより、目覚めたときに鳥が鳴いていたというのが実情です。カーテン越しに見える外の世界は既に白んで来ています。茅ケ崎の自宅では真夜中でも、道路灯の明かりが小窓に映っているのですが、ここの夜は真の暗闇となり、小音ひとつもない静寂となります。したがって、少しばかり白んだことで目が覚める、極めて快適な朝を迎えています。鳥の鳴き声で聞き分けられるのは鶯だけです。鳥たちは群れで森の中を周回しているようで、鳴き声は周期的に巡って来ます

  • 京大俳句会(7)-第170回(令和5年4月)-

    今回の兼題は「春月、春の月」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 あの日の恋人の瞳桜咲く 竹明庵2 幾星霜我が家の亀は啼かざりき 楽蜂30年ほど前に京都市内で庭付きの古屋を購入した。その庭にクサガメが一匹すみ着いていた。おそらく、隣の真如堂の池から迷い込んで来たものであろ。普段、何を食べて暮らしているのか不思議だったが、人なっこい奴で、ときどきベランダに来て餌をねだったりし

  • 山小舎便り(3)-令和5年6月3日ー

    昨日の風雨は夜明け方に収まり、今日は絶好のお出かけ日となりました。蓼科山の麓に女神湖という人造湖があるので、そこへ行ってみることにしました。山小舎からは10kmのところで、昨日の今日ということでか、対向車も後続車もなく、下り道のところはアクセルを踏まず、時速35kmで新緑のトンネルを走る、文字通りのマイ・ウエイ・ドライブとなりました。女神湖の入り口には、女神像が立っていて、台座には伊藤左千夫の、信濃には八十の群山ありといへど女の神山の蓼科われはという

  • 京大俳句会(6)-第169回(令和5年3月)-

    今回の兼題は「野遊、野に遊ぶ」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 祈りの詞知らず見上ぐや花の雨 まめ何に祈っているのかはわからなくても、「花の雨」に込められている、情感。(吟)2 ウツ暗いな明るいニュースはジャパンV 嵐麿この書き出しが面白い。(吟)3 幼児も歩行器も積み野遊に 幸夫この歩行器が歩きはじめの幼児のモノか、老人用かリハビリ用か考え

  • 山小舎便り(2)-令和5年6月2日ー

    今日は山小舎ぐらしの2日目、昨夜より雨が降り始め、日中の今も小雨が続いています。元々今日は車を走らして山を下りる積りはなく、食事は茅ケ崎より持参した食材で賄うことにしていたので、予定通りの一日になっています。午前中、ピアノを弾いたりしましたが、ピアノを置いている部屋にまで暖気が廻らず、早々と切り上げてしまいました。今外気温は13度、室内は20度となっています。雨が降っているということからではありませんが、タブレットに地図をだして、川の流れと等高線から、今いる場所の地

  • 京大俳句会(5)-第168回(2023年2月)

    今月の兼題は「春夕焼、春の夕焼」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。京大俳句会自由船のサイトは、作品を鑑賞した人が自由に思ったこと・感じたことをコメントとしてインプットできるようになっています。本稿はそうしたコメントを句毎に貼り付けて読み易くしたものです。今話題になっている対話型AI「チャットGPT」に作品の鑑賞をお願いした。「次の俳句を鑑賞してください」と打ち込んで、クリックするとすぐに返答が返ってくる。問答を次々

  • 山小舎だより(1)-令和5年6月1日ー

    Morning after morning of late, I have taken my walk in the same direction, my purpose being to look at a plantation of young larches. There is no lovelier colour on earth than that in which they are now clad.最近、朝ごとに同じ方向に散歩に出かけています。私の目的

  • 京大俳句会(4)-第167回(2023年1月)

    今回の兼題は「雪関連」です。「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 ありがとうのうらに有りますしあわせが 恒雄ヒューマンリレーションの機微がそのままうたわれている。標語みたいですね。(吟)2 悴みて小銭握りし豆腐売り 明美大八車に豆腐の入った桶を乗せ、「トーフ」とラッパを吹きながら町内を廻っていたおじさんがいた。ラッパが聞こえると、子供達は小銭を持たさせれ買いに出された。冬の朝も

  • 京大俳句会(3)ー第166回(2022年12月)

    今回の兼題は「年の夜、除夜」です。オリジナルの「京大俳句会自由船」のサイトはこちらです。1 居間出でて闇やはらかきクリスマス 窓イヴ(前夜祭)のさわぎがおわり、イエスキリストの生誕の日、クリスマス本来の趣旨である、静かな穏やかな雰囲気をうたい上げた。(吟)2 今しがたきいた気がする除夜の鐘 恒雄これ、少しわかりにくいが、鐘音をきいてもうわすれたのかな?アブナイアブナイ。(吟)3 オーボエや肉柔らかき

  • 京大俳句会(2)-第164回(2022年10月)

    今回の兼題は百舌鳥です。オリジナルの「京大俳句会自由船」のサイトはこちらです。1 赤とんぼ姐や居しわが少年期 幸夫少年期の遠い日のメルヘン。ねえやへの初恋ーー既視感のあるところがいいのかも。(吟)2 秋の海水平線は僅かに弧 のんき「下五」で言いたいことにくっきりした形が見えてきた。(吟)中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」を本歌にしたものではないかと思う。草田男が大海原の面をとらえたのに対してこれは線をとら

  • 京大俳句会(1)ー序ー

    京大俳句会(自由船)は、毎月一回、京大周辺でさまざまな形の句会を行っています。落柿舎句会や連句会、吟行なども行っています。新しい参加者をお待ちしております。本会の設立は15年前にさかのぼり、京都大学の教職員の方々を中心として運営され、主に大学の施設を利用して句会が催されてきました。既に170回を超えて現在に続いています。参加者としての資格は、京都大学関係者に限定されることなく、広く一般に開放されています。活動の記録は「gooブログ」によって残されてい

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