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游々子の俳句的生活 https://chigasaki-haiku.com

プレバト俳句添削の添削、各種句会での添削、新聞に入選した游々子の俳句、 茅ケ崎の地誌・歴史を紹介しています。

游々子
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2023/04/16

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  • 添削(57)-あすなろ会(13)令和6年3月ー

    裾花さん原句 ランニング背中に陽受く遅日かな上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング原句 花守りも花見客の一人かな岐阜県根尾谷の薄墨桜中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要

  • 俳句的生活(273)-平塚(9)三浦氏の館

    平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。石碑には次のような文面が彫られています。この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を

  • 俳句的生活(272)-平塚(8)相模国府ー

    古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女

  • 俳句的生活(271)-平塚(7)中原街道ー

    前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。

  • 俳句的生活(270)-平塚(6)中原御殿ー

    私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家

  • 添削(56)-あすなろ会(12)令和6年2月ー

    裾花さん原句 貝寄風や小貝にまじり小石飛ぶ四天王寺の聖霊会貝寄風(かいよせ)とは、大阪四天王寺の聖霊会(旧暦二月二十二日)のころに吹く季節風のことです。四天王寺の聖霊会では、供華の筒花を住吉の浜に吹き寄せられた貝殻で作ることから、この名前が使われるようになっています。この風は、長くは続かないが、かなり強いことが特徴です。原句はその風の強さを詠んだものですが、動詞を二つ使い、結果としてリズムが悪くなっています。動詞を一つにしてリズムを良くしてみます。

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