前回の連句でも述べましたが、ラインをツールとしての連句は、旅行しているときでも有効であることが、今回実証されました。このブログはパソコンで記していますが、インターネットへの接続は携帯のテザリングで可能で、速度面でも問題はなく、快適に作業をしています。連句(20)『七夕の巻』令和7年 5.25(日)〜5.27(火)連衆 二宮 紀子 典子 游々子(発句) 七夕や進化宇宙の語り聞く 二宮(脇句) 光年を煌めく星涼し 紀子(第
前回の連句でも述べましたが、ラインをツールとしての連句は、旅行しているときでも有効であることが、今回実証されました。このブログはパソコンで記していますが、インターネットへの接続は携帯のテザリングで可能で、速度面でも問題はなく、快適に作業をしています。連句(20)『七夕の巻』令和7年 5.25(日)〜5.27(火)連衆 二宮 紀子 典子 游々子(発句) 七夕や進化宇宙の語り聞く 二宮(脇句) 光年を煌めく星涼し 紀子(第
今、この連句はラインを使用して進めていますが、この方法が、我々の日常生活において如何に時宜を得たものであるかは、対面で連句を行った場合を想像してみれば、一目瞭然です。もし一句を詠むのに、平均して10分かかるとすれば、36吟を巻き終えるのに6時間を必要とします。そして一句ごとに、成程 とか それはちょっと駄目だよ と批評やら鑑賞が混じってくると、相当に疲れてしまい、一泊旅行で温泉に浸かり休憩し、酒でも飲みながらでないとやっていけないものではないかと思ってしまいます。その点、ラ
遥香さん原句 風に揺れ鈴の聞こえむ藤の花原句は「風」「音」「花」という3つの美しい要素が組み合わされていて、ポテンシャルが高い句です。難点は原句では鈴の正体が何であるのかが不明であることと、動詞が2つ使われていることで、句に緩みが出来ていることです。この2つを解消したものを参考例1,2とします。参考例1 藤棚に 風鈴ひとつ 風渡る参考例2 風渡る 藤のかげより 鈴の音もう一つ別のアプローチとして、静逸の中の藤の花を詠もうとするのであれば、要素
連句は月3回のペースで順調に進んでいます。発句、脇、挙句を詠む順番は、4回に一度、自分の番が廻ってくるようにしています。季節が進むのが早く、連句はそれを追っていく感じがしています。連句(18)『野点の席の巻』令和7年 5/13(火)〜5/15(木) 連衆 典子 二宮 游々子 紀子(発句) 新緑や野点の席の白茶碗 典子(脇句) 影は短くまぶしきみ空 二宮(第三句) 百獣の王に四つ子の生まれ来て 游々子(第四句)
この5月の連休、3泊4日で四国旅行をしてきました。高知での1泊を挟んで香川県の高瀬と善通寺で1泊ずつという行程でした。高瀬で泊まった処は「千歳旅館」という昭和の初めからのお遍路宿で、二組のお遍路さんとの同宿となりました。また、善通寺は「いろは会館」という宿坊で、20数組が宿泊していました。時間的に一番長く過ごしたのは丸亀で、お城の内堀の周囲を廻ったり、京極藩の二代目の藩主が築いた中津万象園を巡ったりしましたが、本ブログでは蕪村が明和三年(1766年) から六年(17
連句では春夏秋冬の季節、あるいは無季を一定の規則で配置して詠むことになっていますが、テーマとして恋・花・月は特別あつかいされていて、定座(じょうざ)と呼ばれる処で詠むことがルール化されています。花は桜のことで巻の中で二か所、月は三か所となっている一方、恋は二か所で二句続けて詠むことが規則となっています。本会の式目はある連句の解説本を参考にしているのですが、その解説本ではどういう訳か、恋の二句は短句長句の順になっていました。本会でも前回まではその順にしていたのですが、何となく
本ブログでは既に何度も紹介してきましたが、円蔵の鶴田栄太郎、この人抜きには明治~昭和の茅ケ崎の俳句・郷土史を語ることは出来ません。最近彼の遺した『街道の文芸』という随筆のシリーズに、面白い記事を二つほど見つけたので、本稿ではそれを紹介することにします。最初の一つは小澤白羊の系図です。『街道の文芸 その四』より白羊が茅ケ崎赤羽根村の名主である小澤市左エ門に、戸塚宿の中出氏から嫁いだことは、茅ケ崎の俳人(1)で記しましたが、この系図からは、白羊の
本ブログの初期の頃、茅ケ崎八景について数回のブログを書いていますが、そこでは茅ケ崎館が発行した絵葉書の八枚の内の一枚が見つかってなく、「○○の夜雨」となっていました。それが今年の2月に、市内中島在住の郷土史研究家によって発見されたとタウンニュースに載り、ちょっとした話題となっていました。今回発見された「真崎の夜雨」長年、○○に該当するところは何処だろうと詮索されてきましたが、漸くそれが「真崎」であることに決着がつきました。ところが次に問題となったのが
今回より発句の季題を「夏」にすることでスタートしました。早速「入道雲」という、いかにも夏を象徴する季題が出てきました。今回の連句を始めるに当たっては、末尾に添付しましたが、遅まきながらこの会で踏襲している式目を、"式目十訓" と名付けて明文化してみました。事物ごとに、何回連続して使ってよい(句数(くかず))とか、一度離れると次に使うには何句間を開けなければならない(句去(くさり))とかのようなものは式目には入れず、簡単なものにしています。連句(16)『入道雲
連句(15)『行く春の巻』令和7年4月15日(火)~4月18日(金)連衆: 紀子 游々子 二宮 典子行く春を惜しむ間もなく、季節は夏へと進んできました。発句を春の季語で始める連句はこの回が最後で、次回からは「夏」に移ることにします。連歌・連句の世界では、春と秋の句を多く詠むようになっているのですが、夏の期間が昨今のように長くなってくると、この辺りの考え方も変える必要が出てくるのかと思ってしまいます。我々の連句の会には、宗匠のような指導者は居なく、本を頼りに暗
茅ヶ崎萩園の番場という地区に、鈴木という幕末から昭和にかけて多くの俳人を輩出した旧家があります。番場の北に位置する島入という処には鈴木一族の本家・分家の墓地が連なっています。本家の墓地と思われる箇所には、新たに墓誌が作られていて、その最初の人として鈴木松風郎という俳人の名前が記されています。鈴木家の墓誌この人については萩園八景を定めた人として、一度ブログで取り上げています(こちらより)が、今回、より詳しく紹介してみたいと思います。五月雨の音なく降るや
怜さん原句 逃水の如く生きたや我が余生逃水(にげみず)は春の季語で、春の陽炎のように、手に届きそうで届かない蜃気楼のような水影を表したものです。句意は、逃水のように、つかまえようとせず、自然に、ふっと自由に、そんなふうに余生を送りたい、というもので、静かな憧れがにじみ出ています。問題は中句の「生きたや」で、「や」では余生への願望よりも、今までの人生への詠嘆・感動と解釈されてしまいます。参考例 逃水の如く生きたき我が余生原句 春昼や弥勒の指も
今回の連句は、4月1日から7日まで、一週間かかって仕舞いましたが、これには訳があって、4月1~6日の間、私が京都と吉野に花見に行っていたことと、更に悪いことにその間持参していたタブレットに不具合が生じてラインが使えず、スマホのSMSで代用せざるを得なくなったことに依っています。今回の旅行の目的の一つには、関西の連衆の方々と初にお目にかかることがありましたが、(第25句)と(第26句)に詠まれているように、これは京都大学の時計台にある "La tour" というレスト
江戸時代、茅ケ崎には24の村があり、村高で最大のものは現在の茅ヶ崎駅周辺を村域とした茅ヶ崎村でした。2番目の村高は萩園村で、面積や戸数では茅ヶ崎村の2割にしかなりませんでしたが、村高はほぼ同じで、このことは農村という視点で見た時、萩園村がいかに突出していたかを物語っています。必然的に村役人層は豊かで、俳句熱も盛んな地域でした。萩園で最も名の知られた俳人は和田篤太郎という人で、この人のことは既にブログにしています(こちら)このブログには、彼が旅先で詠んで父親に
蒼草さん原句 忘れ雪鈍色放つ喪の真珠本句は、忘れ雪があった時に喪で付けた真珠を見ると、それが鈍色を放っていた、と詠んだものです。「忘れ雪」という季語は、忘れたころに降って来た春の雪のことですが、ニュアンスとしては、何かが過去に消え去った、またはその記憶が薄れていく、というものがあります。それを「喪の真珠」という美しくも切ないものに取り合わせたのはユニークさがあります。ただ問題なのは語順で、原句だと雪が鈍色を放っているとも解釈されるので、語順を変えて
連句も早13回目を迎えることになりました。4人での順番を決めることはいつも難問になっています。ポイントを①各自9句とする ②発句および挙句は4回に一度廻ってくるようにする ③恋は必ず詠む ④花の2句および月の3句は別の人を割り当てる に置いていたところ、今回は長句短句の割り振りに酷い偏りが生じてしまいました。次回は⑤割り当てが長句短句に偏らないようにする を新たな指針として、完成形のものを作ってみたいと思います。連句(13)『竹送りの巻』令和7年
江戸時代も中期を過ぎると、茅ケ崎のような農村地帯にも、村役人層を中心に文芸、ことに俳句を学ぶということが盛り上がってきました。その中でも赤羽根で代々名主を務めた小澤家は、天明・寛政・文政期にかけて家族全員が歌人ならびに俳人であるという、特筆すべき家柄となっています。”鴫立庵三世鳥酔” の稿(こちらより)で少し触れましたが、鴫立庵は相模俳壇を指導する地位にあって、小澤家の白羊という人が鳥酔の門弟となっています。白羊の俳句系譜白羊(文化十年(1813)没
連句(12)『雛祭りの巻』令和7年 3/6(木)〜3/8(土)連衆 二宮 典子 紀子 游々子連衆四人での連句が続いています。それぞれの関係は女性二人が高校の、男性二人が大学の同級生で、女性と男性はまだ直接顔合わせをしたことがなく、「未央」という結社の同人・誌友という関係になっています。ラインで連句を進めることは、場所が離れている連衆にとっては最適の手段で、用があるときはそれを通知して進行を中断し、3日で一回の連句を巻きあげるというペースで進めています。対
令和7年も、はや2か月が経ち、この間に6回の連句を実施しました。10日に一度のペースです。連句(9)より巻に名前を付けるようにしましたが、巻の名の付け方を調べてみると、最も一般的なのは発句において印象的な言葉を付けるのが多いようです。勿論、旅行先で仲間と歌仙を巻いたような場合には、その土地の名前を付けるのもあります。例えば『吉野山の巻』といったような具合です。発句から採る場合は、それは季語であってもそうでない語句を選んでも良く、連句(7)では季語から「春灯の巻」、連
遥香さん原句 春灯や三味の音滲む祇園路地本句は、春の温かい灯りの中に、祇園の静かな路地に流れる三味線の音が滲み出る様子を詠み、視覚と聴覚が交わる印象を狙ったものです。また、中七で「滲む」という動詞を使い、しっとりした空気感を出そうとした工夫も覗われます(但ししっとり感を出そうとするならば春灯よりも適切な季語は他にあります。参考例1)問題なのは、祇園の路地に三味の音が流れている、という叙景では在り来たりのことを述べているだけで、意外性・発見的なものがありません
歌仙は巻いた人数、すなわち連衆の数に吟を付けて呼ぶことがあります。2人で巻いた時は両吟歌仙、3人で巻いた時は三吟歌仙、といった具合です。以前は2人や3人で行うことは珍しくなく、明治31年には子規と虚子が2人だけで、明治37年には虚子、漱石、四方太が三人で歌仙を巻いています。現在の我々の連句は4人で行っているので、四吟歌仙ということになります。実感としては4,5人というのが多過ぎも少な過ぎもなく、丁度良く廻る数ではないかと思っています。連句(10)『人力車の巻』令和7
立春を過ぎ、春を発句とする三回目の連句を実施しました。今回より「巻」に名前を付けることにし、発句で詠まれた季題を巻の名前とすることになりました。よって今回の巻は「春灯の巻」となります。回数の連番はIDとしても必要なので、併記していくことにしました。ひと月に3回の実施は、ネットを使ってのことに依るもので、連句に没頭している時間は快適そのものです。連句(9) 『春灯の巻』令和7年 2/9(日)〜2/10(月) 連衆 游々子 典子 紀子 二宮
芳如の人柄についてですが、彼女は多くの人を惹きつけ慕われる女性でした。その人柄は大磯郷土資料館に収蔵されている人形からも窺えます。鈴木芳如の人形(昭和30年代)昭和20年に入って戦局は更に悪化し、江東を焼き尽くした3月10日の東京大空襲の後、芳如は3月末に宮城県丸森町に姉を頼って疎開しています。東京への再度の空襲は5月24日にあって、今度は山の手が標的となり、家業の店舗・工場が焼失してしまいました。幸いにして麻布の自宅は無事で、日本が降伏した8月15日の1か
俳句的生活(319)-鴫立庵(7)十八世庵主鈴木芳如(1)ー
十八世庵主鈴木芳如は、鴫立庵初の女性庵主でした。就任に当たっては多分にピンチヒッター的なものだったと思うのですが、結果としては想定以上の功績を鴫立庵にもたらしたと言えます。そして彼女は何度も茅ケ崎を訪れていて、私が気付いているだけで3か所の寺社に石碑が置かれています。長福寺 忘れ傘して梅の香が偲ばるる こちらより鶴嶺神社 今もなほ朝恵の松の若みどり こちらより浄見寺 花守りとならばや月も夜頃とて こちらより芳如は明治17年に東京麹町で生を享けています
発句を「春」とした二回目の連句を行いました。四日掛かっていますので、一日平均で九句進んだことになります。それだけの時間が掛かっているのは、途中に買い物その他でラインから離れることがあるからで、スマホやタブレットが手元にあるときは、せいぜい10分かそこらで1句進んでいます。対面での連句で歌仙を巻くときは、5,6時間かかっているようなので、それと比べれば楽なやり方であるといえます。途中チャット的にラインでコメントを入れたりしていますので、やりづらさということは一切ありません。
蒼草さん原句 蕉翁の夢より始む初暦この句は、芭蕉(蕉翁)が夢をみて新たな年(初暦)の始まりを迎えたという解釈と、芭蕉を年の最初の夢としてみた、という二つの解釈があり得ます。中句の "始む" が二つの解釈を生じる表現となっていますので、後者の解釈となるよう別の動詞を使ってみます。参考例 蕉翁の夢より開く初暦原句 潮の音に竜神の立つどんど焼きこの句の問題点は中句の "の立つ" が俗的表現になっていることです。これを「立ちし」という過去形を
新年を発句とする二回目の連句を行いました。一回ごとに参考とする本の読み進みが深まり、順番などは、どの連句の句座でも問題になっていることが分かり、この会での順番もまあまあのものかと思っています。連句の会(7) 月日: 令和7年1月13日(月)~17日(金)連衆: 游々子、二宮、典子、紀子(発句) 遺跡野の暁闇開き初明り 紀子(脇句) 野守の鳴らす鹿の角笛 游々子(第三句) 雪柳小
三世鳥酔から幕末の十世立宇まで、五色墨派の俳人が鴫立庵主を代々務めるという伝統も、明治になって大きな変革の波にさらされることになります。その契機となったのは、明治4年に施行された地租改正でした。江戸時代の鴫立庵は、俳諧堂宇として、税を課されない寺院と同じ扱いの除地(よけち)となっていました。ところが明治4年の地租改正では、田畑に対しては収穫高に年貢を課すというのではなく、土地の生産力(地価)に応じて税を課すという方式に改められ、商家や寺社にも税が課せられ、鴫立庵もそ
年が明け、新年の季題を発句とする連句を行いました。脇までの2句が新年で、3句目から春の句を3句続けるという式目です。これまで順番は試行錯誤して決めていったのですが、前回よりAI(チャットGPT)に、条件を与えて決めてもらおうとしています。ところがどういう訳か正しくない回答を示して来て、それを手作業で修正しなければならないという状態です。人間にはいくつかの条件を満たした最適順番をみつけることは至難の技で、AIが最も得意とする分野であると思うのですが、チャットGPTにそ
信州千曲市に長楽寺という天台宗の古刹があります。千曲市とは更科と呼ばれていた処で、芭蕉の更科紀行の舞台となった北信の地域です。長楽寺には、「芭蕉面影塚」という更科紀行で詠まれた姨捨の句の巨大な石碑が置かれています。おもかげや姥一人なく月の友 芭蕉この碑を建てた人物こそ加舎白雄(かやしらお)という、後に鴫立庵五世庵主となり、庵主中最も技量が高いと評された俳人でした。長楽寺の芭蕉面影塚加舎白雄が生きた時代は 丁度蕪村と重なっていて、文学
蒼草さん原句 大枯野虚空に広ぐ子の叫びいきなり文法の話になるのですが、中句で使われている "広ぐ" は「広げる」という他動詞の古語での終止形です。ここは "叫び" に繋がる「広がる」という自動詞の古語の連体形でなければいけません。それは「広ごる」で、それを使った句は「大枯野虚空に広ごる子の叫び」となります。しかしながら、虚空は無の空のことで、寂しいイメージを持つ言葉です。そこに子供たちの声が広がっていくというのは、句のイメージが分裂したものになります。子供の
第五回目となる連句を行いました。第一回が11月2日でしたから、2か月足らずで5回も行うことが出来ました。今回の新しい試みは、恋の句を2か所に入れることでした。このように少しずつ式目を増やしていっています。連句の会(5) 月日 :令和6年12月21日(土)~24日(火)連衆: 游々子、紀子、典子、二宮(発句) 時雨るるや四百年の一里塚 游々子(脇) 紀州街道木の葉舞い散る 紀子
三千風によって再興された鴫立庵は、彼の死後、再び危機の状態になりました。三千風の後を継いだ二世庵主朱人は、活動の記録がほとんど残っておらず、朱人没後33年、漸く三世として庵主となったのが白井鳥酔という人物です。彼の出自は旗本で、父親は代官を務めるという家柄でしたが、彼はそうした家風に馴染めず、24歳の時に家督を弟に譲り、俳諧の道に進んでいます。彼の生まれは元禄十四年(1701年)で、芭蕉死後7年を経ていました。当時俳界は、芭蕉の高弟であった宝井其角といった人
四回目の連句を実施しました。今回留意したことは、脇を発句と同じ場所、同じ時刻のものとし、脇が発句を補完する関係にすることでした。つまり最初の二句だけは、これでもって短歌となるようにすることでした。また花の座の花は俳句での花と同じように、桜となるようにしました。連句の会(4) 月日 :令和6年12月12日(木)~15日(土)連衆:典子、二宮、紀子、游々子(発句) 冬晴や雲より出づる富士の山 典子(脇) 遠く伊豆より眺めし記憶 二宮
鴫立庵の始まりは、前稿で紹介した小田原の外郎家の崇雪が、寛文初めの頃(1660年頃)に、草庵を結んだことによると言われています。これは、一世庵主である大淀三千風が著した「鴫たつ庵縁起」を典拠として伝えられているものです。三千風が鴫立庵に入庵したのは元禄八年(1695年)で、崇雪が草庵を開いてから30年余りが経過していました。崇雪の造った草庵は既に廃屋になっていて、現在に残っている庵主の住まい(東住舎)や俳諧道場(秋暮亭)は全て三千風が創建したとされています。
前回と前々回の連句は自由連句というもので、何の規則(式目)も入れずに実施したのですが、今回は発句が冬の句であったときに、それ以降の長句の季節をどうするかということと、花と月を入れる処を決め、この二つの式目で実施してみました。連句の会(3) 12月2日(月)~12月5日(木)連衆 (二宮 典子 游々子 紀子)(発句) 師走来てジングルベルの花赤し 二宮(脇) 永遠に燃え立つ私の心 游々子(第三句) 玉霰降つてしじ
現在 "湘南" という言葉から直に連想されるのは、葉山から茅ケ崎に至る湘南海岸で、これは多分に昭和30年代以降の石原慎太郎や加山雄三・桑田佳祐らのイメージに依ったものと思われますが、発祥の地は大磯で、現在の鴫立沢あたりが西行の和歌のイメージに最も添うものと、ここに最初に庵を結んだ崇雪(そうせつ)という人が命名した地域名なのです。鴫立庵から一国に出た所には次のような案内板と石碑が立てられています。案内板に書かれている「著藎湘南清絶地」は「清らか
江戸時代の川柳に西行を詠んだものが何句もあります。西行は江戸の庶民の間で人気が高かったのです。西行も野郎の時は北を向き西行の俗名は佐藤義清といって、鳥羽上皇の北面の武士であったことを詠んでいます。もし鴫が居ぬと二夕(せき)になるところ西行が詠んだ和歌は、心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ 西行というもので、この他に次の二首があり、西行のと合わせて三夕の歌と称されていました。見渡せば花ももみじもなかりけり
メールを駆使しての連句、その二回目を実施しました。今回はメンバーが一人増えて、五人での連句となりました。私以外の四人の方は全て関西在住の方です。メンバーの数が奇数になると、自動的に長句と短句が入れ替わって詠むことになるので好都合です。現代の俳句が芸術性を求めるのに対して、連句は軽妙で知的な言葉の遊戯であると言えます。自分が発した句に対して、次の人がどのように展開していくのかを、わくわく感を持って待つことになります。複数の人で共同で作品を作り上げていくような気持になり
小春日和に恵まれた先日の日曜日(11月17日)、あすなろ会は大磯の鴫立庵で11月の例会を行いました。午前10時に庵に集合し、庵の周囲に点在する円位堂などの建築物や数多の句碑などを見て廻った後、十畳の道場和室に設えられたテーブルに着座し、会を始めました。俳諧道場は、元禄の時代に初代庵主となった大淀三千風によって開かれたもので、京都の落柿舎と近江の無名庵と並んで、三大俳句道場の一つになっています。俳諧道場の外観俳諧道場の脇には、西行像が祀られている円位堂
俳句結社「未央」の同人と語らい、今月上旬に四人でネットを使い、一週間かけて三十六吟の連句を実施しました。連句では、A B C と3句並んだ時に、AとB、および、BとCに関連性があることと、AとCが同じ内容のものにならないことが重要です。その点に注目して後半部分に付けた赤字を含めて、三十六吟を示します。知的好奇心の盛り上がり、歌仙を巻いた、楽しい一週間でした。連句の会(1)連衆:紀子 沙耶香 二宮 游々子月日:令和6年11月2日~9日(発句) 冠雪の山を映
怜さん原句 山行きのザックに去年の赤い羽根兼題の「赤い羽根」にたいして、議員が胸に付けた羽根を詠んだ句が多い中、この句はユニークな視点で赤い羽根を詠んだ面白い句です。ただ、「去年の赤い羽根」が時間の経過を示す表現としては平板なので、色や形が変化したことを叙述した方が良いでしょう。参考例 山行きのザックに褪せた赤い羽根原句 爽やかや軽き一人身語る人この句は一人でいることの自由さを詠んだもので、その中での心のゆとりを感じさせる素晴らしい句
怜さん原句 菊の酒献杯として同窓会菊の酒とは陰暦9月9日に食用の菊を盃に浮かべて長寿を願おうとする儀式です。本句はたまたま9月9日に同窓会があり、例年参加していた友人がこの一年で物故となり、先ずはその友に献杯しようという状況を詠んだ句です。原句は上句と中句の繋がりが悪いので、助詞「を」を上句につけて滑らかにしました(参考例1)。また、菊の酒の "酒” と献杯の "盃” のイメージが重複していますので、献杯を使わない句を参考例2としました。参考例1と2
更科紀行で最後となる句は、浅間山を詠んだ次の句です。吹き飛ばす石は浅間の野分かな更科紀行での日付ではっきりしているのは* 8月11日 美濃出発* 8月15日 姥捨ての句* 8月下旬 江戸到着の三つだけで、この句は8月20日頃に詠まれたと推測されます。野分で吹き飛ばされる石というのは、浅間山の噴火で地表に溜まっていた軽石のことで、ちょうどこの時期に台風が北信を襲ったのか、あるいは芭蕉が地元の人の話として聞いただけのものなのかは不明です。
2024年の仲秋の名月は9月17日で、私がそれを鑑賞したのは茅ヶ崎ででした。翌18日は十六夜の月、翌々日の19日は立待ちの月で、今年の関東地方では三夜とも隈なく空に現れました。貞享五年八月十五日夜、芭蕉は更科(現千曲市)に到着し、念願の姨捨の月を眺めることが出来ました。美濃から更科までの約200kmを4泊5日で踏破したことになります。芭蕉は、十五日の名月を俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友十六夜の月をいざよひもまだ更科の郡哉
芭蕉は岐阜を八月十一日に発ち、四泊五日の木曽路の旅をへて、八月十五日に更科に到着しています。芭蕉が東海道を旅する時は、門弟の宅に泊まることが多いのですが、木曽路にはそのような門弟がいなく、門人一人と下僕を含めた芭蕉の一行は、旅籠に宿を取っています。旅籠は基本的に相部屋であり、芭蕉は夜には矢立を出して、その日に浮かんだ俳句を記していこうとするのですが、色々と話しかけられて気持ちが集中できないとこぼしています。そんな中、宿の人たちに誘われて芭蕉は外に出て月見したことが、
本稿も旧聞となりますが、さる8月10日、山の中の広場にテントを張って、山小舎生活をしているメンバーで親睦会が行われました。山の中での生活は、お互いに利害関係が全くなく、お付き合いする人も気の合う人だけで良いので、快適そのものです。この集まりは以前は六月に ”山菜祭” と称して、コシアブラ、タラの芽 などを天婦羅にして楽しんでいたものですが、最近はそうした山の食材が採れなくなってきてしまい、普通のBBQのようなものに変貌してきています。
聊か旧聞に属しますが、8月4日午前、「三井の森」の一角にある恵泉女学園大学が運営している恵泉蓼科ガーデンのツアーが催され、参加してきました。茅ケ崎に恵泉幼稚園というミッション系の保育施設があるので、この学校はその系列かと思いきや、繋がりはないとのことでした。当学園のHPでは、次のような説明がされていました。恵泉蓼科ガーデンは「園芸と結びついた自然とのかかわり」をテーマに、1985年に造られました。敷地面積3200坪、標高1150mの蓼科の高原に位置す
芭蕉は晩年の10年の間に、通算で4年9か月を旅に暮らしています。その中で、木曽路を歩いたのは、この『更科紀行』が唯一のものとなっています。『更科紀行』は、貞享四年(1687年)10月25日に江戸を発ち貞享五年8月下旬に江戸に帰着するまでの10か月の旅を記した『笈の小文』の中の、帰路に選んだ木曽の旅路を記した紀行文です。更科紀行のルート(Skima信州HPより)岐阜から軽井沢までの約300kmは、島崎藤村の『夜明け前』の書き出しにあるように、ほとんどが山の中の
貞享五年八月十一日、芭蕉は信州更科の仲秋の月を愛でる目的で美濃を出立します。更科紀行の始まりです。姨捨山で名月を詠んだ八月十五日、和暦のこの日が西暦ではいつだったかを調べてみると、1688年9月9日となっています。9月9日といえば今日の日付。重陽の節句で菊の酒を嗜むのは陰暦でないと食用菊が手にはいらないので、今日はそれは諦めて、折角の機会ですので、芭蕉の旅の日付を追って本稿を記してみようと思います。貞享五年という年は、9月30日に元禄と改元されていて、奥の細道に旅立
今日も朝から好天、6月以来となる女神湖に、秋の草花の様子を見に行きました。女神湖は周囲が遊歩道になっていて、入口近くの湿地帯には木道が整備されています。その木道の処々には写真つきで花の解説板が設えられていて、山野草の初心者には御誂えの遊歩コースです。湿地帯にはその環境に適した植物が群生を為しています。サラシナショウマはその内の一つで、運よくヒョウモン蝶がその一房に止まったので急いでシャッターを切りました。サラシナショウマとヒョウモン蝶サラシナショウマ
本州を縦断しようとしていた台風10号も、上陸後は中心気圧が急速に上がり、信州の山小舎では連日驟雨に見舞われたこと以外は、大した被害もなく過ぎていきました。東京での最高気温は30度を下回るようになり、標高1650mの当地では、午前9時30分現在の室温は19度と、秋めいたものに変化してきました。久しぶりに早朝からの好天、先ほどの試歩でご近所の山荘の庭に花が咲いているのを見つけ、写真を撮って来ました。キタザワブシ山小舎に戻り図鑑で調べてみると、キタザワブシ
俳句的生活(297)-芭蕉の詠んだ京・近江(21)最後の旅立ち(6)終焉-
九月八日の夕に一日早く重陽の節句を奈良で祝った芭蕉一行は、翌九日の朝に大阪に向けて出立し、その日の内に到着しています。木津川で船に乗り、京都伏見で三十石船に乗り替えて淀川を下るコースです。大阪の門弟が二派に分かれて対立していたのを調停するための大阪下向でしたが、体調の勝れていない芭蕉にとって、大阪への旅は負担が大きく、幻住庵を提供してくれた近江の門弟には、この大阪での滞在を ”おもしろからぬ旅寝” と手紙で伝えています。大阪到着直後から芭蕉は発熱し、寒気や頭痛に襲われること
怜さん原句 山清水室堂の星と語りをり黒部アルペンルート室堂は立山黒部アルペンルートの最高地点で標高2450mの平らなスペース、室堂平と呼ばれている処です。そこには宿泊施設もあり、夜には空を流れる天の川や流れ星など満天の夜空を楽しむことができます。作句者はそこに一泊し、星を眺めたところには清水が湧いていて、あたかも清水が星と話をしているようだと詠んだ句です。”語りをり” の主語が岩清水なのでそれを上五に置いたのですが、ここは倒置して下五に置き更に岩清水
俳句的生活(296)ー芭蕉の詠んだ京・近江(20)最後の旅立ち(5)奈良-
菊の香や奈良には古き仏達 (元禄七年九月九日)京都嵯峨の落柿舎に6月15日まで滞在した芭蕉は、近江そして故郷の伊賀上野を経て9月8日朝、奈良に立ち寄り大阪に向かいます。大阪に出向こうとしたのは門弟間のいざこざを仲裁するためでした。冒頭の句はその折に奈良で詠まれたものです。当時、伊賀上野から大阪へ向かうのは、木津川と淀川の水運を利用するのが最も快適なルートでした。この時の芭蕉は、笠置で木津川の船に乗り、二里ほど下って加茂で下船し、奈良街道を奈良へと向かってい
俳句的生活(295)-芭蕉の詠んだ京・近江(19)最後の旅立ち(4)蓮台野ー
瓜の皮剥いたところや蓮台野 (元禄七年六月上旬)この句も芭蕉の落柿舎滞在中の俳事でのものです。この時期の句には瓜を詠んだものが多く、朝露や撫でて涼しき瓜の土 という句もあります。冒頭の句の前書きには、「人々集ひ居て、瓜の名所(などころ)なん数多(あまた)言ひ出でたる中に」と記されていて、句座の連衆が、どこの瓜が一番だとワイワイやってる中で、今食べようとしている処は蓮台野、だと詠んだ句です。この当時、蓮台野は大根の産地ではありましたが、瓜ではなかったために、
俳句的生活(294)-芭蕉の詠んだ京・近江(18)最後の旅立ち(3)清滝-
落柿舎に滞在中のある日、芭蕉は去来の遠縁にあたる人の居宅に招かれて俳事を行っています。次の二句はその折に創られたものです。すずしさを絵にうつしけり嵯峨の竹 (元禄七年六月上旬)嵯峨の竹はすずしさを絵に描いたほどに新鮮に見える、という句です。嵯峨の竹はただ見るだけのものではなく、筍の供給源となっていて、今では朝に収穫された筍は新鮮なうちに時間をかけず、京都市中の料亭に届けられています。清滝の水くませてやところてん (同上)高雄付近の清滝川
俳句的生活(293)-芭蕉の詠んだ京・近江(17)最後の旅立ち(2)-
六月や峯に雲置く嵐山 (元禄七年六月初旬)”六月” は当時は「みなづき」と読み、水の無い月というものでしたが、芭蕉はそれでは句に勢いがなくなるとして、”六”にロクと仮名を付けています。季題は入道雲である「雲の峰」ですが、芭蕉は ”峯に雲置く” と倒置して使っています。門弟への手紙に、この中句の表現に苦心したことを記しています。陰暦六月は梅雨のあけた真夏で、緑に包まれた嵐山の峰の上に入道雲が湧き立っている、と力強く大きな景を詠んだ句です。この句は落柿舎
俳句的生活(292)-芭蕉の詠んだ京・近江(16)最後の旅立ち(1)-
元禄四年九月末、半年ほど関西に滞在した芭蕉はいよいよ江戸へ戻ることとなりました。この京・近江での芭蕉は、主として落柿舎、無名庵、幻住庵に滞在し、密に門弟たちと交わり、芭蕉の人生で最も輝いた時期でした。二年半ぶりに戻った江戸でしたが、芭蕉にとって江戸はもはや心地よい場所ではなくなっていました。それというのも、奥の細道を経て芸道を高めた芭蕉に対して、其角や嵐雪といった江戸での古くからの門弟がついていけず、離反する事態が生じてきたのです。江戸での滞在はわずか二年半で終わり
元禄四年は閏年で、八月に閏八月が挿入されたので、陰暦での九月以降が1カ月だけ冬の方向にずれて、西暦との対応は次のように差が開くことになりました。元禄四年8月15日ーー>西暦1691年9月7日 差は23日元禄四年閏8月15日ー>西暦1691年10月6日 差は22日元禄四年9月9日ーーー>西暦1691年10月29日 差は40日九月九日は重陽の節句、奇数月の月と日の数が同じとなる最後の節句です。古来中国では九という数字が一番大きな数字として崇められてきていて、例え
俳句的生活(290)ー芭蕉の詠んだ京・近江(14)二度の名月ー
元禄四年は閏年で、八月が二度ほど暦のなかに組み込まれました。二度目の八月は閏八月と呼ばれています。仲秋の名月が1年に2度生じた年です。次に旧暦で閏八月が出来るのは西暦2052年となっています。そもそも閏月はどのようにして決められるのかは興味あるところです。次の図は24節気を地球の公転軌道で表現したものです。国立天文台HPより地球の公転軌道を15度づつに24等分し、春分、夏至、秋分、冬至は実際のものに合わせています。これが旧暦を太陽太陰暦といったときの
怜さん原句 試歩急ぐ水蓮咲くと聞く池へ本句の問題点は、”急ぐ” ”咲く” ”聞く” と動詞が3つ使われていることです。その数を減らす工夫をしてみます。参考例 睡蓮の咲くとラインや試歩はずむ原句 虫干しや捨てねばならぬ物ばかり確かに虫干しをしてみると、不要のものが多いことに気付かされます。ただそうした「事実」を述べるだけでは俳句の妙味はありませんので、表現に「ひねり」が必要になってきます。参考例 断捨離のことの始めは土用干原句
今年の4月から6月にかけて、NHKのEテレで、『3か月でマスターする世界史』という番組が放映されました。従来のヨーロッパからみた世界史ではなく、ユーラシア大陸全体を俯瞰した視点となっており、近年まれにみる面白い番組でした。例えば、ローマ帝国が衰退した原因として、シルクロードを経由しての交易で税収の4割にもなる収益をあげていたのが、気候の寒冷化で「後漢」を始めとしたシルクロードの通過する帝国が乱れ、交易収入が途絶えたと指摘するようなこと、更に「後漢」の乱れは日本にも影響を与え
茅ヶ崎には10日間滞在して、1週間前にこちらに戻って来ました。茅ケ崎の自宅では花鉢を100個ほど置いて夏の花を育てていたのですが、不在中の水やりが問題で、今年は夏の花の植え付けはせずに山に戻って来ました。今季のテーマは縄文時代に通じている(と思われる)ミシャグチ神信仰の調査に置いているのですが、その前にこの地域が ”鉄” で特色づけられていることに気付き、先ずその調査から始めることにしました。茅野市の北山の地域、一般には蓼科と謂われている処は北八ヶ岳連峰の西
今年のNHK大河は、「光る君へ」というタイトルで紫式部を主人公としたドラマになっています。視聴率は今ひとつのようですが、私自身は面白く見ています。NHKはプロモーションも兼ねているのか、ラジオの「古典講読」では「名場面でつづる『源氏物語』」という番組を放送しています。この講義では、江戸時代に著された『源氏物語湖月抄』というのを基に進められています。私はこの講義を聴くまで、著者が芭蕉の俳諧の師匠であった北村季吟という人であったことを知りませんでした。北村季吟
怜さん原句 空だけを泰山木の花は見て泰山木は常緑高木の1種で、ときに高さ20メートルになる大木です。花は白い9枚の花被片からなり上向きに咲くのが特徴です。泰山木の花本句は、花が上向きに咲くことを ”空だけを見る” と表現した句です。”見る” という動詞を使った擬人法で、”空だけ” の ”だけ” で強い意志を感じさせるものとなっています。また、下句を ”見て” と連用形で終えているのも、本句においては、ほんわかとした語感になっていて成功していま
明日は予定通り茅ケ崎に戻る日です。そこで今回まだ行っていなかった女神湖に、この時期の花の咲き具合をみようと、車を走らせてみました。この湖は昭和41年に完成した灌漑用のため池で、分水嶺の北側にありますから、蓼科山の北麓の台地を潤すことに使用されています。女神湖には入口付近に木道が作られていて、ちょっとしたウオーキングには最適の場所です。女神湖の木道木道には、此処かしこに花の案内板が設えられていて、もし咲いている花があれば案内板の写真と見比べて名前を知る
俳句的生活(287)-芭蕉の詠んだ京・近江(12)無名庵と幻住庵-
江戸時代、近江の国は10の藩より成っていて、総石高は80万石という面積の割には石高が多く、豊かな国でありました。最大の藩は近江の北半分を占める彦根藩の35万石で、残りは9つの藩で分割されていました。芭蕉が近江で滞在したのは膳所(ぜぜ)という処で、それは9つの藩で一番大きく7万石を領有する藩でした。当時の膳所城は琵琶湖に張り出した土地に造られた水城でしたが、明治に廃城となり、再建されることなく現在は城址公園となっています。膳所城址芭蕉は「奥の細道」に旅立つに当
俳句的生活(286)-芭蕉の詠んだ京・近江(11)-詩仙堂ー
元禄四年5月5日、芭蕉は落柿舎を出て洛中の凡兆宅に移ります。野沢凡兆は、加賀藩士の家に生まれ、当初四代藩主前田光高に仕えましたが、武士を嫌って京都に出て、医師になったという人です。凡兆の洛中の家は、”小川椹木(さわらぎ)町上ル” という処にあり、大きな通りで言うと、堀川丸太町の交差点から少し東北東に進んだ処になります。元禄四年という年は、芭蕉や門弟たちが8月に近江で三夜の月を愛でた年です。芭蕉は『猿蓑』の発刊を終える7月までは京の凡兆宅で過ごしていますが、落柿舎に居
70代も後半になってくると、身体に変調が生じることがママあるものですが、私の場合は股関節の痛みと高血糖という、外科と内科の両方に問題を抱えることになってしまいました。山の生活はその二つにも有益なもので、適度な有酸素運動を可能にさせてくれます。山路を歩くのは、ケーニヒスブルグのカントを見習って、毎日定刻に山小舎を出るのを常としています。カントの場合は思索・執筆という一日の仕事を終えた午後3時でしたが、私は一日が始まろうとする爽やかな午前10時にしています。今回来荘した
俳句的生活(285)-芭蕉の詠んだ京・近江(9)嵯峨日記(3)ー
4月下旬から5月初めにかけての京都、初夏の爽やかな時節ですが、芭蕉はほとんど市中に出掛けることをせず、もっぱら落柿舎に籠ったままの生活を送り、代わって凡兆と去来がさかんに落柿舎を訪ねて来ています。その訳は当時『猿蓑』の編集が佳境に入っていたからで、三人は落柿舎で編集会議をしていたのです。猿蓑はこの年の7月に出版されています。作者の総数は118人、382句が収められています。このうち芭蕉の句は40句、編集長を務めた凡兆は最多となる41句が入集しています。蕉門の弟子の一
俳句的生活(284)芭蕉の詠んだ京・近江(8)嵯峨日記(2)-
4月20日は愛宕権現の例祭(嵯峨祭)があり、凡兆が妻を同伴して来訪して来ました。渡月橋と愛宕山愛宕山は落柿舎からは一里あまり北に聳えています。この日は去来も加わり、四人での一日となりました。日記には落柿舎についての描写がされています。落柿舍は昔のあるじの作れるまゝにして、処々頽破す。中/\に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁 、畫がける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるに、竹縁の前に袖の木ひと本
俳句的生活(283)-芭蕉の詠んだ京・近江(7)嵯峨日記(1)-
嵯峨野散策の定番コースは、先ず嵐山の渡月橋辺りをぶらついたあと天龍寺に向かい、大方丈からの曹源池の眺めや枝垂桜を愛でて竹林に入り、源氏物語ゆかりの野々宮神社で斎宮についての案内板を読み、最後は平家物語の清盛の愛妾たちの祇王寺に向かおうとするものです。その途中、野原越しに見えてくる庵が落柿舎です。落柿舎落柿舎は元々は京都の富豪が建てたものを、元禄の初めに向井去来が買い取り、去来の死の66年後に一度建て替えられ、明治になって再々建されたものが現在に引き継がれてい
4日前のことになりますが、先週の木曜日に再び山小舎にやって来ました。新緑の芽吹きに間に合うようにと、茅ケ崎での句会が済めば直ぐにと思っていたのですが、結局は昨年より2日早いだけになってしまい、標高1700mのこの地でも、すっかり緑の世界になっていました。今年は10月中旬まで、ひと月の内、山での生活を3週間とし、茅ケ崎へは句会のある週にだけ戻ることにしています。その為に郵便物は転送してもらうよう手配をし、小舎の入口には郵便受けを置きました。滞在の翌日、
芭蕉の「近江で詠んだ句」を5回ほど続けましたので、目先を変えるために京都に移ろうと思います。29歳で江戸に渡った芭蕉は9年間を都心で過ごし、桃青の俳号でもって俳諧宗匠の仲間入りをしていきます。そのころ詠んだ句に次のようなものがあります。天秤や京江戸かけて千代の春 (延宝四年(1676年)7月 芭蕉33歳)句意は、「天秤に京と江戸をかけてみてもどちらが栄えているとも言い難い。まことにめでたい新春だ」というものです。”天秤にかける” という表現が、当時の滑稽さ
怜さん原句 風薫る仏と我のみ秋篠寺秋篠寺山門秋篠寺は平城京の北西に位置し、奈良時代の後期に創建されたお寺で、技芸天女で有名な処です。作者は風薫る季節にここを訪れて、自分以外に人が居なかったことを詠みました。この寺には堀辰雄が昭和16年10月、伎芸天を見るために訪れていて、「大和路・信濃路」では次のように叙述しています。此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、
20年前のことになりますが、家内と車を駆って京都まで行ったことがあります。車があると色々な処へ行けるもので、この時は帰途、大津に寄り、三井寺の近くにある大津絵師の工房で、額に装丁された絵を一つ買って来ました。「鬼の念仏」と称されるもので、江戸時代に上方に来た人が買っていく大津絵の中で最も人気の高かった図案です。この鬼の念仏を描いた絵師は、高橋松山(しょうざん)という当代大津絵を代表する絵師です。芭蕉は元禄四年の正月を、大津で迎えていて、次のような大津絵の句を
芭蕉が生涯で詠んだ句の総数は980句で、そのうちの1割は ”月” を詠んだものとなっています。俳句の世界では、旧暦8月15日の前後に連続して月を詠むという ”遊び” が江戸の頃より行われていました。それが三夜続いた場合は、”三夜の月” と呼ばれていました。芭蕉は ”三夜の月” を2回ほど行っています。1回目は1688年(貞享5年)更科(現千曲市)で仲秋の名月を初日にして3日間、2回目は1691年(元禄4年)琵琶湖畔で仲秋の名月を挟んでの3夜となっています。元禄四年8
明和五年(1768年)、芭蕉の75回忌が膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)で行われました。このとき回忌を仕切った蝶夢法師という京都寺町の阿弥陀寺の住職が、顕彰事業の一つとして「三十六俳仙」というものを編み、36人の芭蕉門の俳人を挙げています。これを地域別で分けてみると、近江は12人で、2位の江戸の5人を大きく離しています。これより芭蕉がどれほど深く近江の地に根を降ろしていたのかを窺い知ることが出来ます。芭蕉の近江での門弟の顔ぶれは、医者や商人、僧、武士といった多彩なものとな
貞享2年(1685年)3月の旅、芭蕉は「野ざらし紀行」で、”大和より山城を経て、近江路に入りて美濃にいたる” と記しています。この時初めて近江で二人の門人を得て、芭蕉はそうした門人宅に宿泊し、5句を詠みました。辛崎の松は花より朧にて (貞享2年3月 芭蕉42歳)辛崎の松は湖岸にあり、その松は背後の山の桜よりも朧で風情がある、という句です。唐崎の松現在の松は明治20年に植えられたもので、3代目ということになっています。今DNAを引き継ぐ形で4
松尾芭蕉の人生を大まかに振り返ってみますと、生まれ故郷である伊賀上野に居たのは29歳まで、その後江戸に庵を構え、時々は西国や郷里への旅をし、奥の細道に出かけたのは46歳、大阪で客死したのは51歳のときで、この5年間は京・近江、伊賀上野、江戸と、3か所を行き来していました。芭蕉俳句の真髄である ”不易流行” や ”軽み” といったものは、奥の細道の後に辿り着いた境地で、この5年こそが、最も円熟した時期であるといえます。芭蕉はまた殊の外、京・近江を愛し、我々に馴染み深い
そろそろ2年目の山小舎生活が近づいて来ました。蓼科高原の標高1700mの処にある山小舎、この五月連休に3泊で行って来ました。昨年10月以来のことで設備のチェックを兼ねたものですが、幸いに何も問題は起きてなく一安心しました。途中、標高1300mの蓼科湖の近辺の桜は既に終わっていましたが、標高1700mは流石にまだ寒く、普通の桜は満開、山桜はこれからという状態でした。昨年10月に植えたヨツバヒヨドリの苗は、茅ケ崎に持って帰り鉢植えした一株は芽出しをしたのですが、山荘で植えた二株
裾花さん原句 クラス会待たずに咲きし花杏故郷で毎年行われているクラス会、例年はクラス会に合わせて杏の花が咲いていたのが、今年は早く咲いてしまったという句で、内容のよくわかる句です。ただ、”待たずに” と詠嘆することが、この句の場合、詩情を増すことになっていませんので、花杏やクラス会を補強する別の言葉にした方が俳句としての味わいが深まるでしょう。参考例 花杏咲きし故郷のクラス会原句 知らぬ間に遠く去り行く春の雷この句の問題点は、
大正9年に、日野草城ら三高生や京大生によって創設された京大三高俳句会をルーツとする当会は、令和6年3月をもって閉会する運びとなりました。閉会に当たり、今次の京大俳句会の15年の歩みを総括した会誌を3月に発刊しました。イラストは会員でもあった漫画家のうらたじゅん氏によるもので、今出川通りの喫茶店「新々堂」が描かれています。市電が走っているころの風景で、私が学生であったころの乗車賃は15円というものでした。この会誌は現在、京大付属図書館、国会図書館、茅ケ
平塚駅のほぼ真北、真土(しんど)という地区には、真土大塚山古墳と呼称されている古墳があります。4世紀前半に築造されたもので、この地区の豪族のものであろうと言われています。昭和35年までに二度部分的な発掘調査がされたのですが、その後工場建設のために盛土が全て削られてしまい、現在ではどのような形状のものであったのかすら解明できなくなってしまいました。最初の調査となる昭和10年に出土した三角縁神獣鏡は、神奈川の古墳の中ではここだけからのものとなっていて、畿内の王権と特別の関係があ
俳句的生活(276)-平塚(11)老中を輩出した平塚の氏族ー
平安時代の末期、相模川の西側から小田原の酒匂川に至る地域に、中村党と呼ばれる武士団がいました。平塚の土屋に居た中村氏の分流は、領地の土屋を家名にして土屋姓を名乗り、その初代は頼朝の旗揚げに参じた土屋宗遠となっています。土屋という地域は平塚の北部で、伊勢原に近い処です。今その土屋には、一族の墓と昭和54年にまだ19歳であった浩宮徳仁殿下が見学訪問された記念碑が遺されています。土屋一族の墓浩宮殿下の見学記念碑土屋宗遠は頼朝より10歳年上で、90歳まで生き
3月中旬、関西と東海に居住する学友と私を合わせての4人で、奥浜名のホテルで一泊する小旅行を行いました。一日目は浜松城を見学。江戸時代、浜松からは老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を出していて、”出世城” と呼ばれていたそうです。天保改革の水野忠邦もこの5人の老中のひとりです。松魚は ”かつお” と読みます。松島十湖という人は江戸末期に浜松で生まれた俳人です。生涯に創った句は八千と言われています。現在の浜松城天守は戦後に再建されたもの
源平の争乱時、大庭氏には兄の景義、弟の景親という兄弟がいて、それぞれ源氏と平家に分かれて戦ったということはNHK大河にも描かれていて、割と知られているのですが、彼等には更に二人の弟が居て、その内の一人は平塚に荘園を持ち、館を構えていたということは殆ど知られていません。弟の名は景俊といい、荘園が平塚の豊田にあったことから、豊田景俊と呼ばれています。その荘園があった場所は、豊田本郷という平塚から伊勢原へ行く途中で、今そこに大庭四兄弟の父親であった大庭景宗の墳墓が大庭塚と
裾花さん原句 ランニング背中に陽受く遅日かな上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング原句 花守りも花見客の一人かな岐阜県根尾谷の薄墨桜中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要
平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。石碑には次のような文面が彫られています。この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を
古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女
前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。
私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家
裾花さん原句 貝寄風や小貝にまじり小石飛ぶ四天王寺の聖霊会貝寄風(かいよせ)とは、大阪四天王寺の聖霊会(旧暦二月二十二日)のころに吹く季節風のことです。四天王寺の聖霊会では、供華の筒花を住吉の浜に吹き寄せられた貝殻で作ることから、この名前が使われるようになっています。この風は、長くは続かないが、かなり強いことが特徴です。原句はその風の強さを詠んだものですが、動詞を二つ使い、結果としてリズムが悪くなっています。動詞を一つにしてリズムを良くしてみます。
平塚宿の名前が初めて文書に現れるのは、鎌倉時代の後期、亀山天皇の皇子で仁和寺の門跡となっていた益性法親王という人が、鎌倉から京都に戻るときに、自分のための雑役を務めていた下法師を、「平塚宿」で返した、と手紙に記述したものです。鎌倉時代には未だ現在のような東海道は出来てなく、箱根を越えるのは、平塚から大磯の海岸を酒匂川まで進み、川沿いに北上して足柄峠を越えるというものでした。従って平塚は古くから交通の要衝だったのです。(余談になりますが、亀山天皇は後醍醐天皇の
平塚宿は、JR平塚駅の少し西の処から大磯町との境まで、東海道に沿って1.5kmの間に約50軒の旅籠を連ね、両端には見附と呼ばれる施設が作られていました。私が治療を受けている歯科クリニックの診察台から見える、富士山を遮るように建ってしまったマンションを見てきました。マンションの名前になっている「平塚見附」は、この辺りの地名が見附町なので、そこから採ったマンション名ということです。この町名は、宿場の東端に作られていた「江戸見附」に由来しています。
裾花さん原句 遠近(おちこち)の鐘の響きや去年今年大晦日の夜、年が変わろうとする頃、除夜の鐘音があちこちの寺院から響いてきます。音量に差があったり、テンポのずれで、幻想的な響きとなります。中句を単に ”鐘の響き” とせずに、混ざり合った響きを表現する言葉にした方が深みが出ると思います。参考例 遠近の鐘の合唱去年今年原句 大山を借景宿の牡丹鍋牡丹鍋窓から大山が見える宿の一室で、伯耆名物の牡丹鍋を頂く、という情景がよく見えます。た
須賀千軒と称された須賀は、中世から江戸期を通じ、相模の表玄関の地位を占めていました。その繁栄振りを『平塚の地誌』では、アメリカのミシシッピー川の河口の港湾都市ニューオーリンズに準えて、次のようなイメージ図を掲載しています。相模の内陸の物資は相模川の水運で須賀湊に集積され、それが400石船に積み替えられて江戸を含む近隣に輸送され、その逆のルートでも、物資を内陸に運んでいたのです。須賀村の戸数は平塚宿と平塚新宿を合わせたものよりも多く、その経済力の豊かさによって
江戸時代、平塚は58の村落から構成されていて、そのほとんどは旗本の知行地でしたが、重要な地域は幕府ならびに小田原藩によって支配されていました。馬入村は幕府の支配した処で、村高375石の内、旗本の知行地はわずかに17石あるだけで、残りは全て幕府の直轄領となっていました。馬入村の区域は現在の馬入地区よりも遥かに大きく、小字の構成は次のようになっています。馬入村小字絵図この地図で興味深いのは、赤の矢印で示したとことに堤防が築かれていることです。馬入橋脇からララポー
俳句的生活というブログを始めて3年目となりました。主に茅ヶ崎の地誌や歴史、人物について記してきましたが、200回近くのブログで茅ヶ崎についてはほぼ書き尽くした感があります。そこでお隣の平塚に足を伸ばして、気になる事柄を記していきたいと思います。私事になりますが、私は歯の治療を平塚の歯科クリニックで受けていて、ビル5階の治療の席からは西の方角に高麗山がみえます。数年前までは安藤広重の浮世絵のように、高麗山の脇に富士山が見えていたのですが、いつの間にかにマンションが建ち
「ブログリーダー」を活用して、游々子さんをフォローしませんか?
前回の連句でも述べましたが、ラインをツールとしての連句は、旅行しているときでも有効であることが、今回実証されました。このブログはパソコンで記していますが、インターネットへの接続は携帯のテザリングで可能で、速度面でも問題はなく、快適に作業をしています。連句(20)『七夕の巻』令和7年 5.25(日)〜5.27(火)連衆 二宮 紀子 典子 游々子(発句) 七夕や進化宇宙の語り聞く 二宮(脇句) 光年を煌めく星涼し 紀子(第
今、この連句はラインを使用して進めていますが、この方法が、我々の日常生活において如何に時宜を得たものであるかは、対面で連句を行った場合を想像してみれば、一目瞭然です。もし一句を詠むのに、平均して10分かかるとすれば、36吟を巻き終えるのに6時間を必要とします。そして一句ごとに、成程 とか それはちょっと駄目だよ と批評やら鑑賞が混じってくると、相当に疲れてしまい、一泊旅行で温泉に浸かり休憩し、酒でも飲みながらでないとやっていけないものではないかと思ってしまいます。その点、ラ
遥香さん原句 風に揺れ鈴の聞こえむ藤の花原句は「風」「音」「花」という3つの美しい要素が組み合わされていて、ポテンシャルが高い句です。難点は原句では鈴の正体が何であるのかが不明であることと、動詞が2つ使われていることで、句に緩みが出来ていることです。この2つを解消したものを参考例1,2とします。参考例1 藤棚に 風鈴ひとつ 風渡る参考例2 風渡る 藤のかげより 鈴の音もう一つ別のアプローチとして、静逸の中の藤の花を詠もうとするのであれば、要素
連句は月3回のペースで順調に進んでいます。発句、脇、挙句を詠む順番は、4回に一度、自分の番が廻ってくるようにしています。季節が進むのが早く、連句はそれを追っていく感じがしています。連句(18)『野点の席の巻』令和7年 5/13(火)〜5/15(木) 連衆 典子 二宮 游々子 紀子(発句) 新緑や野点の席の白茶碗 典子(脇句) 影は短くまぶしきみ空 二宮(第三句) 百獣の王に四つ子の生まれ来て 游々子(第四句)
この5月の連休、3泊4日で四国旅行をしてきました。高知での1泊を挟んで香川県の高瀬と善通寺で1泊ずつという行程でした。高瀬で泊まった処は「千歳旅館」という昭和の初めからのお遍路宿で、二組のお遍路さんとの同宿となりました。また、善通寺は「いろは会館」という宿坊で、20数組が宿泊していました。時間的に一番長く過ごしたのは丸亀で、お城の内堀の周囲を廻ったり、京極藩の二代目の藩主が築いた中津万象園を巡ったりしましたが、本ブログでは蕪村が明和三年(1766年) から六年(17
連句では春夏秋冬の季節、あるいは無季を一定の規則で配置して詠むことになっていますが、テーマとして恋・花・月は特別あつかいされていて、定座(じょうざ)と呼ばれる処で詠むことがルール化されています。花は桜のことで巻の中で二か所、月は三か所となっている一方、恋は二か所で二句続けて詠むことが規則となっています。本会の式目はある連句の解説本を参考にしているのですが、その解説本ではどういう訳か、恋の二句は短句長句の順になっていました。本会でも前回まではその順にしていたのですが、何となく
本ブログでは既に何度も紹介してきましたが、円蔵の鶴田栄太郎、この人抜きには明治~昭和の茅ケ崎の俳句・郷土史を語ることは出来ません。最近彼の遺した『街道の文芸』という随筆のシリーズに、面白い記事を二つほど見つけたので、本稿ではそれを紹介することにします。最初の一つは小澤白羊の系図です。『街道の文芸 その四』より白羊が茅ケ崎赤羽根村の名主である小澤市左エ門に、戸塚宿の中出氏から嫁いだことは、茅ケ崎の俳人(1)で記しましたが、この系図からは、白羊の
本ブログの初期の頃、茅ケ崎八景について数回のブログを書いていますが、そこでは茅ケ崎館が発行した絵葉書の八枚の内の一枚が見つかってなく、「○○の夜雨」となっていました。それが今年の2月に、市内中島在住の郷土史研究家によって発見されたとタウンニュースに載り、ちょっとした話題となっていました。今回発見された「真崎の夜雨」長年、○○に該当するところは何処だろうと詮索されてきましたが、漸くそれが「真崎」であることに決着がつきました。ところが次に問題となったのが
今回より発句の季題を「夏」にすることでスタートしました。早速「入道雲」という、いかにも夏を象徴する季題が出てきました。今回の連句を始めるに当たっては、末尾に添付しましたが、遅まきながらこの会で踏襲している式目を、"式目十訓" と名付けて明文化してみました。事物ごとに、何回連続して使ってよい(句数(くかず))とか、一度離れると次に使うには何句間を開けなければならない(句去(くさり))とかのようなものは式目には入れず、簡単なものにしています。連句(16)『入道雲
連句(15)『行く春の巻』令和7年4月15日(火)~4月18日(金)連衆: 紀子 游々子 二宮 典子行く春を惜しむ間もなく、季節は夏へと進んできました。発句を春の季語で始める連句はこの回が最後で、次回からは「夏」に移ることにします。連歌・連句の世界では、春と秋の句を多く詠むようになっているのですが、夏の期間が昨今のように長くなってくると、この辺りの考え方も変える必要が出てくるのかと思ってしまいます。我々の連句の会には、宗匠のような指導者は居なく、本を頼りに暗
茅ヶ崎萩園の番場という地区に、鈴木という幕末から昭和にかけて多くの俳人を輩出した旧家があります。番場の北に位置する島入という処には鈴木一族の本家・分家の墓地が連なっています。本家の墓地と思われる箇所には、新たに墓誌が作られていて、その最初の人として鈴木松風郎という俳人の名前が記されています。鈴木家の墓誌この人については萩園八景を定めた人として、一度ブログで取り上げています(こちらより)が、今回、より詳しく紹介してみたいと思います。五月雨の音なく降るや
怜さん原句 逃水の如く生きたや我が余生逃水(にげみず)は春の季語で、春の陽炎のように、手に届きそうで届かない蜃気楼のような水影を表したものです。句意は、逃水のように、つかまえようとせず、自然に、ふっと自由に、そんなふうに余生を送りたい、というもので、静かな憧れがにじみ出ています。問題は中句の「生きたや」で、「や」では余生への願望よりも、今までの人生への詠嘆・感動と解釈されてしまいます。参考例 逃水の如く生きたき我が余生原句 春昼や弥勒の指も
今回の連句は、4月1日から7日まで、一週間かかって仕舞いましたが、これには訳があって、4月1~6日の間、私が京都と吉野に花見に行っていたことと、更に悪いことにその間持参していたタブレットに不具合が生じてラインが使えず、スマホのSMSで代用せざるを得なくなったことに依っています。今回の旅行の目的の一つには、関西の連衆の方々と初にお目にかかることがありましたが、(第25句)と(第26句)に詠まれているように、これは京都大学の時計台にある "La tour" というレスト
江戸時代、茅ケ崎には24の村があり、村高で最大のものは現在の茅ヶ崎駅周辺を村域とした茅ヶ崎村でした。2番目の村高は萩園村で、面積や戸数では茅ヶ崎村の2割にしかなりませんでしたが、村高はほぼ同じで、このことは農村という視点で見た時、萩園村がいかに突出していたかを物語っています。必然的に村役人層は豊かで、俳句熱も盛んな地域でした。萩園で最も名の知られた俳人は和田篤太郎という人で、この人のことは既にブログにしています(こちら)このブログには、彼が旅先で詠んで父親に
蒼草さん原句 忘れ雪鈍色放つ喪の真珠本句は、忘れ雪があった時に喪で付けた真珠を見ると、それが鈍色を放っていた、と詠んだものです。「忘れ雪」という季語は、忘れたころに降って来た春の雪のことですが、ニュアンスとしては、何かが過去に消え去った、またはその記憶が薄れていく、というものがあります。それを「喪の真珠」という美しくも切ないものに取り合わせたのはユニークさがあります。ただ問題なのは語順で、原句だと雪が鈍色を放っているとも解釈されるので、語順を変えて
連句も早13回目を迎えることになりました。4人での順番を決めることはいつも難問になっています。ポイントを①各自9句とする ②発句および挙句は4回に一度廻ってくるようにする ③恋は必ず詠む ④花の2句および月の3句は別の人を割り当てる に置いていたところ、今回は長句短句の割り振りに酷い偏りが生じてしまいました。次回は⑤割り当てが長句短句に偏らないようにする を新たな指針として、完成形のものを作ってみたいと思います。連句(13)『竹送りの巻』令和7年
江戸時代も中期を過ぎると、茅ケ崎のような農村地帯にも、村役人層を中心に文芸、ことに俳句を学ぶということが盛り上がってきました。その中でも赤羽根で代々名主を務めた小澤家は、天明・寛政・文政期にかけて家族全員が歌人ならびに俳人であるという、特筆すべき家柄となっています。”鴫立庵三世鳥酔” の稿(こちらより)で少し触れましたが、鴫立庵は相模俳壇を指導する地位にあって、小澤家の白羊という人が鳥酔の門弟となっています。白羊の俳句系譜白羊(文化十年(1813)没
連句(12)『雛祭りの巻』令和7年 3/6(木)〜3/8(土)連衆 二宮 典子 紀子 游々子連衆四人での連句が続いています。それぞれの関係は女性二人が高校の、男性二人が大学の同級生で、女性と男性はまだ直接顔合わせをしたことがなく、「未央」という結社の同人・誌友という関係になっています。ラインで連句を進めることは、場所が離れている連衆にとっては最適の手段で、用があるときはそれを通知して進行を中断し、3日で一回の連句を巻きあげるというペースで進めています。対
令和7年も、はや2か月が経ち、この間に6回の連句を実施しました。10日に一度のペースです。連句(9)より巻に名前を付けるようにしましたが、巻の名の付け方を調べてみると、最も一般的なのは発句において印象的な言葉を付けるのが多いようです。勿論、旅行先で仲間と歌仙を巻いたような場合には、その土地の名前を付けるのもあります。例えば『吉野山の巻』といったような具合です。発句から採る場合は、それは季語であってもそうでない語句を選んでも良く、連句(7)では季語から「春灯の巻」、連
遥香さん原句 春灯や三味の音滲む祇園路地本句は、春の温かい灯りの中に、祇園の静かな路地に流れる三味線の音が滲み出る様子を詠み、視覚と聴覚が交わる印象を狙ったものです。また、中七で「滲む」という動詞を使い、しっとりした空気感を出そうとした工夫も覗われます(但ししっとり感を出そうとするならば春灯よりも適切な季語は他にあります。参考例1)問題なのは、祇園の路地に三味の音が流れている、という叙景では在り来たりのことを述べているだけで、意外性・発見的なものがありません
20年前のことになりますが、家内と車を駆って京都まで行ったことがあります。車があると色々な処へ行けるもので、この時は帰途、大津に寄り、三井寺の近くにある大津絵師の工房で、額に装丁された絵を一つ買って来ました。「鬼の念仏」と称されるもので、江戸時代に上方に来た人が買っていく大津絵の中で最も人気の高かった図案です。この鬼の念仏を描いた絵師は、高橋松山(しょうざん)という当代大津絵を代表する絵師です。芭蕉は元禄四年の正月を、大津で迎えていて、次のような大津絵の句を
芭蕉が生涯で詠んだ句の総数は980句で、そのうちの1割は ”月” を詠んだものとなっています。俳句の世界では、旧暦8月15日の前後に連続して月を詠むという ”遊び” が江戸の頃より行われていました。それが三夜続いた場合は、”三夜の月” と呼ばれていました。芭蕉は ”三夜の月” を2回ほど行っています。1回目は1688年(貞享5年)更科(現千曲市)で仲秋の名月を初日にして3日間、2回目は1691年(元禄4年)琵琶湖畔で仲秋の名月を挟んでの3夜となっています。元禄四年8
明和五年(1768年)、芭蕉の75回忌が膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)で行われました。このとき回忌を仕切った蝶夢法師という京都寺町の阿弥陀寺の住職が、顕彰事業の一つとして「三十六俳仙」というものを編み、36人の芭蕉門の俳人を挙げています。これを地域別で分けてみると、近江は12人で、2位の江戸の5人を大きく離しています。これより芭蕉がどれほど深く近江の地に根を降ろしていたのかを窺い知ることが出来ます。芭蕉の近江での門弟の顔ぶれは、医者や商人、僧、武士といった多彩なものとな
貞享2年(1685年)3月の旅、芭蕉は「野ざらし紀行」で、”大和より山城を経て、近江路に入りて美濃にいたる” と記しています。この時初めて近江で二人の門人を得て、芭蕉はそうした門人宅に宿泊し、5句を詠みました。辛崎の松は花より朧にて (貞享2年3月 芭蕉42歳)辛崎の松は湖岸にあり、その松は背後の山の桜よりも朧で風情がある、という句です。唐崎の松現在の松は明治20年に植えられたもので、3代目ということになっています。今DNAを引き継ぐ形で4
松尾芭蕉の人生を大まかに振り返ってみますと、生まれ故郷である伊賀上野に居たのは29歳まで、その後江戸に庵を構え、時々は西国や郷里への旅をし、奥の細道に出かけたのは46歳、大阪で客死したのは51歳のときで、この5年間は京・近江、伊賀上野、江戸と、3か所を行き来していました。芭蕉俳句の真髄である ”不易流行” や ”軽み” といったものは、奥の細道の後に辿り着いた境地で、この5年こそが、最も円熟した時期であるといえます。芭蕉はまた殊の外、京・近江を愛し、我々に馴染み深い
そろそろ2年目の山小舎生活が近づいて来ました。蓼科高原の標高1700mの処にある山小舎、この五月連休に3泊で行って来ました。昨年10月以来のことで設備のチェックを兼ねたものですが、幸いに何も問題は起きてなく一安心しました。途中、標高1300mの蓼科湖の近辺の桜は既に終わっていましたが、標高1700mは流石にまだ寒く、普通の桜は満開、山桜はこれからという状態でした。昨年10月に植えたヨツバヒヨドリの苗は、茅ケ崎に持って帰り鉢植えした一株は芽出しをしたのですが、山荘で植えた二株
裾花さん原句 クラス会待たずに咲きし花杏故郷で毎年行われているクラス会、例年はクラス会に合わせて杏の花が咲いていたのが、今年は早く咲いてしまったという句で、内容のよくわかる句です。ただ、”待たずに” と詠嘆することが、この句の場合、詩情を増すことになっていませんので、花杏やクラス会を補強する別の言葉にした方が俳句としての味わいが深まるでしょう。参考例 花杏咲きし故郷のクラス会原句 知らぬ間に遠く去り行く春の雷この句の問題点は、
大正9年に、日野草城ら三高生や京大生によって創設された京大三高俳句会をルーツとする当会は、令和6年3月をもって閉会する運びとなりました。閉会に当たり、今次の京大俳句会の15年の歩みを総括した会誌を3月に発刊しました。イラストは会員でもあった漫画家のうらたじゅん氏によるもので、今出川通りの喫茶店「新々堂」が描かれています。市電が走っているころの風景で、私が学生であったころの乗車賃は15円というものでした。この会誌は現在、京大付属図書館、国会図書館、茅ケ
平塚駅のほぼ真北、真土(しんど)という地区には、真土大塚山古墳と呼称されている古墳があります。4世紀前半に築造されたもので、この地区の豪族のものであろうと言われています。昭和35年までに二度部分的な発掘調査がされたのですが、その後工場建設のために盛土が全て削られてしまい、現在ではどのような形状のものであったのかすら解明できなくなってしまいました。最初の調査となる昭和10年に出土した三角縁神獣鏡は、神奈川の古墳の中ではここだけからのものとなっていて、畿内の王権と特別の関係があ
平安時代の末期、相模川の西側から小田原の酒匂川に至る地域に、中村党と呼ばれる武士団がいました。平塚の土屋に居た中村氏の分流は、領地の土屋を家名にして土屋姓を名乗り、その初代は頼朝の旗揚げに参じた土屋宗遠となっています。土屋という地域は平塚の北部で、伊勢原に近い処です。今その土屋には、一族の墓と昭和54年にまだ19歳であった浩宮徳仁殿下が見学訪問された記念碑が遺されています。土屋一族の墓浩宮殿下の見学記念碑土屋宗遠は頼朝より10歳年上で、90歳まで生き
3月中旬、関西と東海に居住する学友と私を合わせての4人で、奥浜名のホテルで一泊する小旅行を行いました。一日目は浜松城を見学。江戸時代、浜松からは老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を出していて、”出世城” と呼ばれていたそうです。天保改革の水野忠邦もこの5人の老中のひとりです。松魚は ”かつお” と読みます。松島十湖という人は江戸末期に浜松で生まれた俳人です。生涯に創った句は八千と言われています。現在の浜松城天守は戦後に再建されたもの
源平の争乱時、大庭氏には兄の景義、弟の景親という兄弟がいて、それぞれ源氏と平家に分かれて戦ったということはNHK大河にも描かれていて、割と知られているのですが、彼等には更に二人の弟が居て、その内の一人は平塚に荘園を持ち、館を構えていたということは殆ど知られていません。弟の名は景俊といい、荘園が平塚の豊田にあったことから、豊田景俊と呼ばれています。その荘園があった場所は、豊田本郷という平塚から伊勢原へ行く途中で、今そこに大庭四兄弟の父親であった大庭景宗の墳墓が大庭塚と
裾花さん原句 ランニング背中に陽受く遅日かな上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング原句 花守りも花見客の一人かな岐阜県根尾谷の薄墨桜中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要
平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。石碑には次のような文面が彫られています。この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を
古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女
前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。
私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家
裾花さん原句 貝寄風や小貝にまじり小石飛ぶ四天王寺の聖霊会貝寄風(かいよせ)とは、大阪四天王寺の聖霊会(旧暦二月二十二日)のころに吹く季節風のことです。四天王寺の聖霊会では、供華の筒花を住吉の浜に吹き寄せられた貝殻で作ることから、この名前が使われるようになっています。この風は、長くは続かないが、かなり強いことが特徴です。原句はその風の強さを詠んだものですが、動詞を二つ使い、結果としてリズムが悪くなっています。動詞を一つにしてリズムを良くしてみます。
平塚宿の名前が初めて文書に現れるのは、鎌倉時代の後期、亀山天皇の皇子で仁和寺の門跡となっていた益性法親王という人が、鎌倉から京都に戻るときに、自分のための雑役を務めていた下法師を、「平塚宿」で返した、と手紙に記述したものです。鎌倉時代には未だ現在のような東海道は出来てなく、箱根を越えるのは、平塚から大磯の海岸を酒匂川まで進み、川沿いに北上して足柄峠を越えるというものでした。従って平塚は古くから交通の要衝だったのです。(余談になりますが、亀山天皇は後醍醐天皇の
平塚宿は、JR平塚駅の少し西の処から大磯町との境まで、東海道に沿って1.5kmの間に約50軒の旅籠を連ね、両端には見附と呼ばれる施設が作られていました。私が治療を受けている歯科クリニックの診察台から見える、富士山を遮るように建ってしまったマンションを見てきました。マンションの名前になっている「平塚見附」は、この辺りの地名が見附町なので、そこから採ったマンション名ということです。この町名は、宿場の東端に作られていた「江戸見附」に由来しています。