chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
游々子の俳句的生活 https://chigasaki-haiku.com

プレバト俳句添削の添削、各種句会での添削、新聞に入選した游々子の俳句、 茅ケ崎の地誌・歴史を紹介しています。

游々子
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2023/04/16

arrow_drop_down
  • 添削(51)-あすなろ会(6)令和5年8月ー

    据花さん原句 湯舟より右肩越しの十三夜十三夜は旧暦9月13日で、その月は ”後の月” とも呼ばれています。そして十三夜は ”湯” と相性の良い季語で、その理由はやや涼しくなった季節での一日を了える時の ”湯” に、例えそれが言葉であっても、気持ちがリラックスするからでしょう。原句は「より」と「越し」の繋がりが説明的であるので、上句を「や」で切ってみることにします。参考例 仕舞湯や右肩越しの十三夜原句 桐一葉手に終活の始まりぬ”桐一葉”

  • 山小舎だより(16)-令和5年8月17日ー

    1700mの高地は平地と比べて、春は2か月遅く秋は2か月早くやってきます。山ではお盆が過ぎるともう秋と言われていますが、今回の滞在で最後となる試歩をしているときに、そのことに気付きました。楓の葉が一部紅くなっていたのです。盆過ぎて山の楓の紅ひとつ 游々子一度紅葉が始まるとそれは一気に進んでいきます。9月にまた来たときは相当紅葉した箇所が広がっていると思います。そういえば夜明けに目覚めたとき、いつの間にかに鶯の鳴き声が聞こえなくなっていました。

  • 山小舎便り(15)-令和5年8月16日ー

    台風7号、はじめの予想は小笠原から北上して東海・関東に上陸するというものでしたが、予報円の最も西のコースを辿り、関西や四国・山陰に大きな被害をもたらしてしまいました。幸いにしてというか、長野県の中部にあたる当地は風も雨もたいしたことなく、無事に過ぎていきました。今、多少気持ちがざわついているのですが、それは台風のせいではなく、茅ケ崎に戻る日が近づいているからです。明後日の18日に戻ることにしていて、翌19日の大神神社主催の古代史セミナに間に合わせるためです。大神は

  • 俳句的生活(242)-虚子の詠んだ京都(20)産寧坂-

    京都清水に産寧坂と呼ばれる土産店がずらりと並んだ坂があります。通常は三年坂と呼ばれている坂ですが、この坂が二年坂と交わる所に、かって天田愚庵という人が結んだ草庵がありました。産寧坂草庵を愚庵と名付けたことにより、自分の名前を天田愚庵とするようになった人ですが、子規や虚子が交わった人の中で最も異色の人でした。なんと清水の次郎長の養子となった人で、彼が書いた「東海任侠伝」こそ、その後の講談や浪曲・映画の一次資料となり、次郎長のイメージを作り上げているのです。

  • 俳句的生活(241)-虚子の詠んだ京都(19)御忌詣-

    学生時代、私は下鴨神社の西側に下宿していて、大学への通いは糺の森の参道を通り出町柳に出て、百万遍に至るというコースでした。学生時代の百万遍交差点当時は百万遍とは面白い地名だなとしか思っていなかったのですが、今、「御忌詣(ぎょきもうで)」というのを調べるために、浄土宗の公式サイトを見たところ、法然上人は毎日6万遍から7万遍も南無阿弥陀仏を唱えられたということで、それに由来した地名でないかと想像したのですが、念のため ”百万遍知恩寺” のサイトをチェックしてみる

  • 山小舎だより(14)-諏訪大社大祝(令和5年8月12日)ー

    一昨日のことになりますが、食料の買い出しで山を下りたついでに、茅野の図書館へ行き10冊ほど本を借りてきました。帰途は5km諏訪方面に戻るのですが、前々から関心があった諏訪大社上社の大祝諏方氏の邸まで足を伸ばしました。大祝(おおほおり)は下社にもありましたが、そちらは神職のトップ即ち宮司という職で、上社の方は五官の神職の上に立つ ”現人神” という位置づけでした。諏方氏と呼ばれるのは中世以降で、それまでは神氏(ごうし)と名乗っていました。宮川には今も神橋という名の橋が

  • 俳句的生活(240)-虚子の詠んだ京都(18)謡ー

    虚子が謡を嗜んでいたのは夙に有名で、その系譜は松山藩士であった父や祖父にまで遡ることができます。そしてそれは漱石にも影響を与え、漱石もまた謡を趣味とするようになりました。「吾輩は猫である」の中で、猫は主人である苦紗弥先生の性癖を次のように述べています。俳句をやって、ほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝こったり、謡うたいを習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれ

  • 俳句的生活(239)-虚子の詠んだ京都(17)花篝ー

    虚子は円山公園の枝垂桜をことのほか愛でていますが、それは夜桜にも及んでいます。当時は今のようにライトアップする技術がなく、篝火を焚いて花を照らすというものでした。そうした篝火は、花篝と称されています。円山公園の花篝昭和6年4月、虚子は四国からの帰りに京都に立ち寄り、わずか2日の滞在ですが、円山公園の夜桜を見物し、次のような花篝を季題とした句を詠んでいます。花篝衰へつゝも人出かな 虚子(昭和6年4月)この時期のライトアップは花篝しかありません

  • 俳句的生活(238)-虚子の詠んだ京都(16)宇治ー

    江戸名勝図絵に、今は西日暮里公園となっている道灌山が描かれています。道灌山ここに明治28年12月、子規は虚子を呼び出し、虚子に俳句における自分の後継者とならないかと打診しています。虚子と子規はともに ”写生” なるものを提唱し、同じ俳句観を持っていたと思われがちですが、実は根本的なところで意見を異にしていて、子規の申し出を虚子は拒絶することとなりました。その違いとはいかなるものか、虚子は子規が亡くなった後の明治37年3月の「ホトトギス」で次のように説明してい

  • 山小舎だより(13)-令和5年8月4日ー

    昨日は三日に一度の買い出しで山を下り、14km離れているAコープまで車を走らせました。ここは農協が経営しているスーパーで、夏場は別荘に来ている人が大勢利用しています。Aコープの隣にJAファームという主に農業用のグッズを販売しているかなり大きい店舗があり、昨日は苗を2鉢ほど買ってきました。というのも、山小舎での熊笹刈りが一通り終わり、出現したスペースに、高地に適した花を植えていこうと思い立ったのです。幸いなことにJAファームの植物売り場には花に詳しい人が居て、アドバイ

  • 京大俳句会(10)-第173回(令和5年7月)-

    今回の兼題は「祇園会」です。祇園会の鉾建て(令和5年7月10日)日経新聞より「京大俳句会自由船」のオフィシャル・サイトはこちらです。1 天の川地球の大河は濁りけり のんき2 枝(え)に眠る一羽鴉や夏の月 遥香この句から私(游々子)は、夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で、寒月くんが俳劇論を展開する場面を連想しました。それは、俳人虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼

  • 俳句的生活(237)-虚子の詠んだ京都(14)大原ー

    ”祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり” で始まる「平家物語」は、壇之浦のあと大原寂光院に入った建礼門院を、後白河法皇が訪ねる「大原御幸」で終わっています。このとき最初に法皇の応対をする元女官は ”阿波の内侍” という崇徳上皇の寵愛を受けた人です。このとき既に60歳になっていましたが、寂光院での生活費の足しにするために、大原の産物を洛中にまで運び行商をした、その時の装束が大原女の装束の原点であると言われています。私が京都で学生生活を送ったのは、昭和40年代の

  • 俳句的生活(236)-虚子の詠んだ京都(13)平八茶屋ー

    鴨川を構成するY字の右肩の部分、八瀬から流れる高野川を、出町柳から約3km遡ったところに、400年の歴史をもつ「平八茶屋」という高級料亭があります。修学院と宝ヶ池の中間地点です。平八茶屋の門虚子は明治40年4月、虞美人草の執筆準備のために京都を訪れていた夏目漱石を、この料亭に連れてきて川魚料理の昼食をしています。虞美人草の冒頭、甲野さんと宗近くんの二人が比叡山に登る場面で、平八茶屋は次のように描かれています。「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだほうがよ

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、游々子さんをフォローしませんか?

ハンドル名
游々子さん
ブログタイトル
游々子の俳句的生活
フォロー
游々子の俳句的生活

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用