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游々子の俳句的生活 https://chigasaki-haiku.com

プレバト俳句添削の添削、各種句会での添削、新聞に入選した游々子の俳句、 茅ケ崎の地誌・歴史を紹介しています。

游々子
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2023/04/16

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  • 京大俳句会(11)-第174回(令和5年8月)-

    今月の兼題は「朱夏」です。京大俳句会のオフィシャルサイトはこちらです。1 京の朱夏心静かに身も涼し 幸男2 コロナ明け米寿の友と肩を組む 幸男 高齢でコロナに罹ると命にかかわる、それもいちおう下火と言われる時期がきた。生き延びたなあ、米寿(88歳)の祝いと病気に勝つた快癒が重なり方を組み合う。二重の喜びです。でも、まだ流行の恐れあり。ご用心下さい。(吟)3 朱夏暮れて河原の涼風脛白し

  • 俳句的生活(251)-蕪村の詠んだ京都(8)俳諧宗匠ー

    丸亀より帰京して2年、明和7年(1770)、蕪村は師の宋阿が名乗っていた夜半亭を二世として継承しました。宋阿の夜半亭は、江戸日本橋での宋阿の庵名を以て一門の名称にしたものですが、蕪村の場合は、住居とは関係なく、一門の名称を二世として継承したものです。蕪村の住居については、讃岐から戻ったときには、四条烏丸の東側でしたが、夜半亭二世を継承したときは、烏丸通の西側の室町通綾小路下ル町に住居を移しています。ここに5年住み、最終の住居は仏光寺烏丸西へ入町となっています。位置関

  • 俳句的生活(250)-蕪村の詠んだ京都(7)京都での定住-

    明和5年(1768)4月下旬、蕪村は妻と娘の待つ京都の自宅に戻りました。この時より亡くなるまでの25年間、蕪村は大阪などに赴く以外、自宅を留守にすることはありませんでした。讃岐に出立する前に蕪村は「三菓社」という俳句同好会を作っていましたが、帰京するや数日にして、三菓社による句会を再開しています。年末までの半年間で実に18回もの句会を催しているのです。狩衣の袖の裏這ふ蛍かな (5月6日)川狩や帰去来といふ声すなり (5月16日)鮎くれてよらで過行く夜半の門 (6

  • 俳句的生活(249)-蕪村の詠んだ京都(6)讃岐ー

    結婚して6年後、明和3年(1766)、蕪村は妻子を京都に残して讃岐に赴いています。その理由として、屏風講のメンバーに絵がほぼ行き渡り、新たに販路を開拓する必要があったためです。蕪村の絵はまだ地方から注文が集まるほど著名にはなっていなかったからでした。行き先として讃岐を選んだのは、それまでの交遊によって讃岐には知己が何人もいて、絵の注文が得やすいと判断したためです。当時讃岐へは、大阪から金毘羅船で兵庫や岡山の港に寄港しながら、丸亀に向かうものでしたが、蕪村は同

  • 俳句的生活(248)-蕪村の詠んだ京都(5)帰京ー

    宝暦七年9月、蕪村42歳のとき、3年余り滞在した宮津を離れ、京都に戻ることになりました。このとき宮津真照寺に橋立の松並木を描いた天橋立図を残して来ています。蕪村の天橋立図図の上部には長い賛が書かれていますが、ここには宮津で最後の作となった次の句が含まれています。せきれいの尾や橋立をあと荷物この句は、”尾やはし” が「尾をはやく振る」という意味で橋立にかけているのと、”あと” が橋立をあとにするのと、後荷物(後から送る荷物)にかけるという、相変

  • 俳句的生活(247)-蕪村の詠んだ京都(4)丹後ー

    上洛後3年を経た宝暦4年、蕪村37歳の時、ようやく足場を固めつつあった京都を離れ、俳友の竹渓が住職として赴任した宮津の見性寺という浄土宗の寺院に、雲水として寄寓することになります。竹渓が丹後に下るときに蕪村が贈った句は、たつ鴫に眠る鴫ありふた法師というものです。ふた法師とは竹渓と蕪村のことです。友達の後を追うとはいえ、何故に蕪村が宮津にまで赴いたかというと、蕪村は京都に居る間、各所の寺院を巡り襖絵などを見て、絵画の勉強をしていたのです。私の推測ですが、そうし

  • 俳句的生活(246)-蕪村の詠んだ京都(3)俳諧宗匠への道(3)上洛ー

    20歳で江戸に上り、16年間江戸および関東で暮らした蕪村でしたが、36歳となった夏に上洛することになりました。この上洛が蕪村にとっては初めての京都で、2回ほど地方へ行くことがありましたが、68歳で亡くなるまでの約30年間、蕪村は京都で過ごすこととなりました。この間の略譜は次のようになります。宝暦元年(1751年) 蕪村36歳 上洛(8月)宝暦4年(1754年) 蕪村39歳 丹後に赴き3年間滞在 宝暦10年(1760年) 蕪村45歳 結婚 明和3年(1766年) 蕪

  • 俳句的生活(245)-蕪村の詠んだ京都(2)俳諧宗匠への道(2)江戸ー

    蕪村が江戸に来たのは20歳ごろと推測されているのですが、はっきりとその足跡が辿れるのは、22歳のとき、夜半亭宋阿(巴人)に ”拾ひたすけ” られて、日本橋石町の宋阿の家で住み込みの内弟子になってからです。宋阿の人柄は、”その情、質朴にして世知に疎く、道人の風儀あり” と追善集に記されていて、蕪村に対しては、あたかも父親であるかのように慈しんでいます。22歳の蕪村に対して宋阿62歳という関係でした。宋阿は芭蕉の高弟である宝井其角・服部嵐雪の門人なので、当然芭蕉の流れを

  • 俳句的生活(244)-蕪村の詠んだ京都(1)俳諧宗匠への道(1)少年時代ー

    19歳から21歳までの2年間を三高で過ごした虚子にとって、京都はつねに青春を懐旧する土地でありました。一方蕪村にとっての京都は、京都生まれでない京都人として30年を過ごした、春や秋だけではないゆるやかな四季の古都であったといえます。蕪村が生まれたのは享保元年(1716年)で、徳川吉宗が8代将軍に就いた年、松尾芭蕉よりも72年後の生誕。場所は大阪近郊の淀川に面した毛馬村というところで、生家は庄屋を務める農家でした。毛馬村は幕府の直轄地で、村高は925石となっています。

  • 俳句的生活(243)-虚子の詠んだ京都(21)蕪村の寺ー

    京都洛北一乗寺に金福寺(こんぷくじ)という臨済宗南禅寺派のお寺があります。少し北には詩仙堂があるという地区です。このお寺は蕪村の墓があるということで知られていて、また蕪村が再建した芭蕉庵が残されています。金福寺芭蕉庵昭和10年5月2日、娘の立子を伴った虚子は、嵐山の後に金福寺を訪れ、句会を開いています。その時の出句は徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころというものです。桜は既に散っていて、さすがの虚子も花の句は詠めなかったようです。中句の

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