そろそろ2年目の山小舎生活が近づいて来ました。蓼科高原の標高1700mの処にある山小舎、この五月連休に3泊で行って来ました。昨年10月以来のことで設備のチェックを兼ねたものですが、幸いに何も問題は起きてなく一安心しました。途中、標高1300mの蓼科湖の近辺の桜は既に終わっていましたが、標高1700mは流石にまだ寒く、普通の桜は満開、山桜はこれからという状態でした。昨年10月に植えたヨツバヒヨドリの苗は、茅ケ崎に持って帰り鉢植えした一株は芽出しをしたのですが、山荘で植えた二株
「旅を棲処」とした芭蕉と異なり、蕪村は53歳で讃岐から帰洛した後、亡くなる68歳までの間、遠方に旅をすることはなく、出かける処は近郊に限られていました。そんな蕪村でしたが、大阪には弟子や俳友が多く、画材を仕入れることからも、蕪村自身出向くことも多くなっていました。当時、京ー大阪の交通は、淀川を上下する三十石船が利用され、京都の乗り場は伏見、大阪の乗り場は天満橋近辺となっていました。伏見の乗り場船の運航距離は45kmですが、京都から大阪への下りは約6時
裾花さん原句 司馬遼を一冊読み切る夜長かな中句が8音になっているので、7音になるよう工夫してみます。参考例 一冊の司馬遼を読む夜長かな原句 色褪せどきりりと立てり野菊かな中句の「立てり」は完了を表す助動詞「り」が付いた動詞で、終止形となっています。そうすると中句で一度切れて、更に下句の「かな」で二度目の切れを起こすことになります。二度切れを避けるために、中句は「立ちし」あるいは「立てる」として、下句に繋がるようにしなければいけません。
京大俳句会は虚子も参加した「京大三高俳句会」をルーツとするものです。この会の設立大会は大正9年3月に京大の学生集会所で行われています。明治40年に作られたこの建物は、建て替えられることなく現在に至っています。京大学生集会所1 ああ昭和愛を捩じって情死に果てる 武史「ああ昭和」なのか「ああ昭和愛」なのか、とちらかと迷うが、先の方でいただくのが自然だろう。恋愛に昭和のカタチなどというものがあるのだろうか、「情死」つまり不倫の恋の果てこ
ウイキペディアに、各時代ごとの鴨川の断面が表示されたものがあります。現在のような「みそそぎ川」が鴨川右岸の河原上に作られて、そこに先斗町の料亭から川床が張り出されるようになったのは近代になってからで、江戸から明治初期までは、鴨川の自然の傍流の上で ”川涼み” が行われたことが判ります。鴨川の断面(ウイキペディアより)元禄3年(1690)6月、芭蕉は「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過るころまで、川中に床をならべて、夜すがら酒のみ、もの喰ひ遊ぶ、、、流
俳句的生活(256)-虚子の詠んだ京都(22)京大三高俳句会ー
虚子の京都、いったん閉じたのですが、大事な項目を抜かしていたので、追加することにします。虚子が三高に在籍していたことは、本稿で何度も触れてきましたが、そのことが縁となり、ホトトギスに投句をしていた京大生や三高生が創設した俳句会の設立大会や句会に、虚子も参加していたのです。20歳そこそこの後輩たちが設立した「京大三高俳句会」という名称の俳句会、その名前からも虚子は大いに惹きつけられたに違いありません。京大三高俳句会の創立大会は、大正9年3月、京大の学生集会所で三高生の
京都で冬を過ごしてみると、空はどんよりと曇り、寒さは骨身にしみて、改めてここは日本海性気候であることを痛感するものです。一方でそれは、”籠り居の詩人” である蕪村には、格好の季題を与えることとなりました。「冬ごもり」という季題です。蕪村にはまた、”冬ごもり” あるいは ”籠り居” にぴったりと当て嵌まる絵を描いています。国宝「夜色楼台図」です。空は黒い墨が塗られ、雪の積もった山と屋根は無地の白で表現し、楼閣や二階建ての商家からは灯りが漏れています。この絵には
花(桜)を詠んだ蕪村の句は、俳諧宗匠になった時と、前稿の灯火で既に二句ほど紹介しています。花守の身は弓矢なき案山子かな花の香や嵯峨の燈火きゆる時蕪村の桜の句は、100句程度ありますが、本稿では詠まれた地名がわかるものに絞って紹介することにします。花を詠んだ句というと、虚子の場合もそうでしたが、嵐山や円山公園など実際に桜の樹が植わっている処を詠んだものが多いのですが、蕪村には京都の繁華街である木屋町での出来事を詠んだものがあります。それはなには人の木や
前回、山小舎便り(16)を8月16日に書いてから50日近く、山小舎便りを書かない日が経ってしまいました。この間、9月前半と9月下旬から今日まで、2回ほど山には来ているのですが、猛暑のせいか山の景観は8月の時とほとんど変わっておらず、ブログの方も虚子や蕪村の京都について書くのに夢中になっていて、山の生活を書くことに関心が向かなくなっていたためです。ところが昨日より急に気温が下がり、山小舎の外の気温が10度を下回るようになり、室内ではストーブを焚くほどになってきました。
本稿より、蕪村の俳句をジャンルに分けて、代表的な句の幾つかを紹介していくことにします。最初に取り上げるのは、蕪村の俳句と絵画において大きな比重を持つ ”灯火” からです。この絵は嵯峨野の夜を描いたものです。民家の灯りが消えてあたりは真っ暗になっているのですが、あたかも真昼のような描き方になっています。そのことが判るのは、賛に書かれている次の句からです。花の香や嵯峨の燈火(ともしび)きゆる時 (安永6年 蕪村62歳)絵の右手前には嵯峨野の竹林
蕪村の足跡を辿り、前稿で俳句宗匠になるところまで来ましたが、蕪村の名句中の名句である「月天心」の句を紹介し忘れていたので追記しておきます。月天心貧しき町を通りけり (明和五年)この句は蕪村が夜半亭二世を継承した年の二年前、蕪村53歳のときの作です。一般にこの句の解釈は、石田郷子の名句即訳の空の真ん中に名月がかかっているその下を、ただ独り歩いて行く。貧しげな町並みの中を通ってのように、人が通っていくとなっているのですが、私は、月が貧しい町並みを照らしながら通
裾花さん原句 新米の惣菜少なき夕餉かな中句の「惣菜少なき」が説明的描写になっているので、映像の伴った言い方で詠んでみます。参考例1 新米来(く)一汁だけの夕餉かな 参考例2 新米の湯気の圧せる夕餉かな原句 新酒汲む友の土産の九谷焼この語順だと、一番強調されているのは ”九谷焼” となっています。作者が詠みたいのは、九谷焼が ”友の土産” であったことと、その九谷焼で新酒を汲んでいることであるので、語順を替えてそれを明確にします
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そろそろ2年目の山小舎生活が近づいて来ました。蓼科高原の標高1700mの処にある山小舎、この五月連休に3泊で行って来ました。昨年10月以来のことで設備のチェックを兼ねたものですが、幸いに何も問題は起きてなく一安心しました。途中、標高1300mの蓼科湖の近辺の桜は既に終わっていましたが、標高1700mは流石にまだ寒く、普通の桜は満開、山桜はこれからという状態でした。昨年10月に植えたヨツバヒヨドリの苗は、茅ケ崎に持って帰り鉢植えした一株は芽出しをしたのですが、山荘で植えた二株
裾花さん原句 クラス会待たずに咲きし花杏故郷で毎年行われているクラス会、例年はクラス会に合わせて杏の花が咲いていたのが、今年は早く咲いてしまったという句で、内容のよくわかる句です。ただ、”待たずに” と詠嘆することが、この句の場合、詩情を増すことになっていませんので、花杏やクラス会を補強する別の言葉にした方が俳句としての味わいが深まるでしょう。参考例 花杏咲きし故郷のクラス会原句 知らぬ間に遠く去り行く春の雷この句の問題点は、
大正9年に、日野草城ら三高生や京大生によって創設された京大三高俳句会をルーツとする当会は、令和6年3月をもって閉会する運びとなりました。閉会に当たり、今次の京大俳句会の15年の歩みを総括した会誌を3月に発刊しました。イラストは会員でもあった漫画家のうらたじゅん氏によるもので、今出川通りの喫茶店「新々堂」が描かれています。市電が走っているころの風景で、私が学生であったころの乗車賃は15円というものでした。この会誌は現在、京大付属図書館、国会図書館、茅ケ
平塚駅のほぼ真北、真土(しんど)という地区には、真土大塚山古墳と呼称されている古墳があります。4世紀前半に築造されたもので、この地区の豪族のものであろうと言われています。昭和35年までに二度部分的な発掘調査がされたのですが、その後工場建設のために盛土が全て削られてしまい、現在ではどのような形状のものであったのかすら解明できなくなってしまいました。最初の調査となる昭和10年に出土した三角縁神獣鏡は、神奈川の古墳の中ではここだけからのものとなっていて、畿内の王権と特別の関係があ
平安時代の末期、相模川の西側から小田原の酒匂川に至る地域に、中村党と呼ばれる武士団がいました。平塚の土屋に居た中村氏の分流は、領地の土屋を家名にして土屋姓を名乗り、その初代は頼朝の旗揚げに参じた土屋宗遠となっています。土屋という地域は平塚の北部で、伊勢原に近い処です。今その土屋には、一族の墓と昭和54年にまだ19歳であった浩宮徳仁殿下が見学訪問された記念碑が遺されています。土屋一族の墓浩宮殿下の見学記念碑土屋宗遠は頼朝より10歳年上で、90歳まで生き
3月中旬、関西と東海に居住する学友と私を合わせての4人で、奥浜名のホテルで一泊する小旅行を行いました。一日目は浜松城を見学。江戸時代、浜松からは老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を出していて、”出世城” と呼ばれていたそうです。天保改革の水野忠邦もこの5人の老中のひとりです。松魚は ”かつお” と読みます。松島十湖という人は江戸末期に浜松で生まれた俳人です。生涯に創った句は八千と言われています。現在の浜松城天守は戦後に再建されたもの
源平の争乱時、大庭氏には兄の景義、弟の景親という兄弟がいて、それぞれ源氏と平家に分かれて戦ったということはNHK大河にも描かれていて、割と知られているのですが、彼等には更に二人の弟が居て、その内の一人は平塚に荘園を持ち、館を構えていたということは殆ど知られていません。弟の名は景俊といい、荘園が平塚の豊田にあったことから、豊田景俊と呼ばれています。その荘園があった場所は、豊田本郷という平塚から伊勢原へ行く途中で、今そこに大庭四兄弟の父親であった大庭景宗の墳墓が大庭塚と
裾花さん原句 ランニング背中に陽受く遅日かな上句と下句を入れ替えて、陽を受けるのはランニングとした方が合っています。中句の ”背中” は文語では ”背(せな)” と表現されるので、それを使うのが良いでしょう。参考例 遅き日や背(せな)に陽を受くランニング原句 花守りも花見客の一人かな岐阜県根尾谷の薄墨桜中句が6音になっています。「の」を入れて「花見の客の」とすれば7音になります。また上句の ”花守り” の ”り” は要
平塚のことを調べている中で、1昨年放映されたNHKの大河「鎌倉殿の13人」に準主役で登場していた三浦義村の館が平塚の田村にあったことを知り、昨日自転車を走らせて、その跡地へ行ってきました。跡地には石碑と案内板が置かれていました。石碑には次のような文面が彫られています。この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の館の跡である。承久元年七月、鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間、この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を
古代史において長年論争のテーマであったものが、新しく遺跡が発掘されたことによって、大きく進展することがマゝ起こります。その最大のものは邪馬台国の場所を特定するもので、奈良県桜井市の纏向遺跡において、C14という放射性炭素の半減期による年代測定で、遺跡の年代が魏志倭人伝に記述されている年代と、誤差10年の範囲で一致したことです。これにより、纏向が邪馬台国の中心地であったことが揺るぎないものとなり、大和王権がここから始まったと推定されるようになりました。卑弥呼は大和王権の初代女
前稿で、道路標識での中原街道の行き先が、平塚でなく茅ヶ崎になっていることを紹介しましたが、多少補足をしておきたいと思います。虎ノ門を起点とする中原街道は、多摩川を越えて神奈川県に入った所より、名称が県道45号線となり、寒川町で大山街道とクロスします。そこまでは略々旧中原街道と一致しているのですが、県道45号線は、大山街道から田村の渡しへ向かうのではなく、南へと向かい茅ヶ崎駅北口に通じているのです。そのために標識では中原街道の向い先を「茅ケ崎」としたのだと思います。
私が大学を卒業して就職した所は、南武線武蔵中原の駅前にあるコンピューターを製作する会社の工場だったのですが、当時の私は、武蔵中原という地名は昔の武蔵野に由来し、傍らの中原街道という道も、武蔵中原に依ったものと思っていました。ところが後年、それらは全て平塚の中原御殿を源流とするものであることを知り、愕然としたものです。中原街道は、かつては相州道(そうしゅうどう・そうしゅうみち)と呼ばれ、武蔵国と相模国を結ぶ道として、古代では東海道の一部であったと言われています。徳川家
裾花さん原句 貝寄風や小貝にまじり小石飛ぶ四天王寺の聖霊会貝寄風(かいよせ)とは、大阪四天王寺の聖霊会(旧暦二月二十二日)のころに吹く季節風のことです。四天王寺の聖霊会では、供華の筒花を住吉の浜に吹き寄せられた貝殻で作ることから、この名前が使われるようになっています。この風は、長くは続かないが、かなり強いことが特徴です。原句はその風の強さを詠んだものですが、動詞を二つ使い、結果としてリズムが悪くなっています。動詞を一つにしてリズムを良くしてみます。
平塚宿の名前が初めて文書に現れるのは、鎌倉時代の後期、亀山天皇の皇子で仁和寺の門跡となっていた益性法親王という人が、鎌倉から京都に戻るときに、自分のための雑役を務めていた下法師を、「平塚宿」で返した、と手紙に記述したものです。鎌倉時代には未だ現在のような東海道は出来てなく、箱根を越えるのは、平塚から大磯の海岸を酒匂川まで進み、川沿いに北上して足柄峠を越えるというものでした。従って平塚は古くから交通の要衝だったのです。(余談になりますが、亀山天皇は後醍醐天皇の
平塚宿は、JR平塚駅の少し西の処から大磯町との境まで、東海道に沿って1.5kmの間に約50軒の旅籠を連ね、両端には見附と呼ばれる施設が作られていました。私が治療を受けている歯科クリニックの診察台から見える、富士山を遮るように建ってしまったマンションを見てきました。マンションの名前になっている「平塚見附」は、この辺りの地名が見附町なので、そこから採ったマンション名ということです。この町名は、宿場の東端に作られていた「江戸見附」に由来しています。
裾花さん原句 遠近(おちこち)の鐘の響きや去年今年大晦日の夜、年が変わろうとする頃、除夜の鐘音があちこちの寺院から響いてきます。音量に差があったり、テンポのずれで、幻想的な響きとなります。中句を単に ”鐘の響き” とせずに、混ざり合った響きを表現する言葉にした方が深みが出ると思います。参考例 遠近の鐘の合唱去年今年原句 大山を借景宿の牡丹鍋牡丹鍋窓から大山が見える宿の一室で、伯耆名物の牡丹鍋を頂く、という情景がよく見えます。た
須賀千軒と称された須賀は、中世から江戸期を通じ、相模の表玄関の地位を占めていました。その繁栄振りを『平塚の地誌』では、アメリカのミシシッピー川の河口の港湾都市ニューオーリンズに準えて、次のようなイメージ図を掲載しています。相模の内陸の物資は相模川の水運で須賀湊に集積され、それが400石船に積み替えられて江戸を含む近隣に輸送され、その逆のルートでも、物資を内陸に運んでいたのです。須賀村の戸数は平塚宿と平塚新宿を合わせたものよりも多く、その経済力の豊かさによって
江戸時代、平塚は58の村落から構成されていて、そのほとんどは旗本の知行地でしたが、重要な地域は幕府ならびに小田原藩によって支配されていました。馬入村は幕府の支配した処で、村高375石の内、旗本の知行地はわずかに17石あるだけで、残りは全て幕府の直轄領となっていました。馬入村の区域は現在の馬入地区よりも遥かに大きく、小字の構成は次のようになっています。馬入村小字絵図この地図で興味深いのは、赤の矢印で示したとことに堤防が築かれていることです。馬入橋脇からララポー
俳句的生活というブログを始めて3年目となりました。主に茅ヶ崎の地誌や歴史、人物について記してきましたが、200回近くのブログで茅ヶ崎についてはほぼ書き尽くした感があります。そこでお隣の平塚に足を伸ばして、気になる事柄を記していきたいと思います。私事になりますが、私は歯の治療を平塚の歯科クリニックで受けていて、ビル5階の治療の席からは西の方角に高麗山がみえます。数年前までは安藤広重の浮世絵のように、高麗山の脇に富士山が見えていたのですが、いつの間にかにマンションが建ち
裾花さん原句 若水の汲みて新生八十路かな八十路を力強く生きていこうとする決意を詠んだ句です。助詞の使い方ですが、「若水」が汲むという動詞の目的語ですので、上句の「の」は「を」でなければなりません。「若水を汲みて新生八十路かな」 若水は汲むものですから、この動詞を省略することを考えてみます。参考例 若水や闘志の八十路浜に立つ原句 箱根路や茶店開かず山眠る箱根の旧道の茶店を詠んだ句です。山の休眠に合わせるように、茶屋も閉まっている
今週の出場者は、フルポン村上と梅沢富美男の、永世名人二人だけです。お題は「無人駅」。梅沢さんの句集「一人十色」は早くも2刷になっているそうです。夏井さん: 私の句集、そんなに売れてない。梅沢さん: 夏井先生あっての梅沢富美男でございます。夏井さん: それはよく知っています。フルポン村上 青き踏む影の少なき無人駅村上さん: 意地悪なお題だしてくるな~と。「無人駅」だけで詩っぽいんです。その詩っぽさに寄りかかると、ダッさとなる!梅沢さん:
万緑の峡にこだます姐御唄 游々子先日のGWに、長駆、中央道を車で下り、天竜川の船下りを体験してきました。保津峡、長瀞についで3番目の船下りです。両岸は万緑のみどり、上下が空と川に挟まれ、自然だけの世界を船は下っていきました。乗船したガイドさんが唄ったのは、懐メロ番組でよく聴いた、市丸姐さんの ”天竜下れば” という唄でした。ハアー 天竜下れば ヨーホホイノサッサしぶきにぬれてヨ 咲いたさつきにエエー 咲いたさつきに 虹の橋ホンイアレハサノ
草笛や小諸古城の紅浅間 游々子小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ の詩で知られる信州小諸の懐古園、この園内の一角に、茅ケ崎でアトリエを構えていた小山敬三画伯の美術館があります。この美術館は、画伯の死後に茅ケ崎のアトリエを解体して、その木材を使用して作られたものだそうです。画伯の別荘は、南湖の「六道の辻」の南にありました。画伯の別荘での生活は、”茅ケ崎の煌めき” の中で、次のように描かれています。茅ヶ崎への思い小山敬三は海
臥薪嘗胆から暴支膺懲まで、半世紀近くに亙るわが国の満蒙への進出と瓦解を新聞記事を切り口にして浮き彫りにしようとした本稿も、漸く終章を迎えることになりました。当初、筆者(游々子)が抱いた問題意識、即ち、終戦50年目の村山談話ーどの内閣のいかなる国策が日本を誤らせたのかー そして日本は今後どのように未来に向かっていくべきか、について答えは得られたであろうか。 やはり、と筆者が思わざるを得ないのは、日露戦争後に強欲(greed)が日本を蔽ったことが最大の誤りだったというこ
“-皇軍遂に膺懲の兵を進む 全29軍掃滅を期し総攻撃開始さる- (北平特電28日発)我が最期通牒において27日正午を期限とせる盧溝橋、八宝山第37師撤退は遂に支那側において何等の誠意を示さざりしため(中略)是亦遂に支那側の誠意ある実行を見るを得ず、却って市中に兵力を増大し抗日準備を厳にする等交戦の気構え明らかとなったため、ここに我軍は29軍全体に対し愈々総攻撃を行ふべき最期の事態に到達、膺懲の火蓋を切った。(下略)” {
前稿で紹介した水野の所見は、満州事変こそが日米関係を破局に導く最悪の行為であるとするものでした。一方、満州事変の立役者となった石原莞爾は、満州を領有することこそが積年の満蒙問題を解決する途であると考えていました。彼は東條と対立し省部から離され、隊付将校となっていくのですが、京都の師団長であった昭和15年5月29日に京都義方会というところで講演したのが速記されて、8月に「世界最終戦論」のタイトルで出版されています。この本は、軍事戦術史と呼べるもので、古くはプロ
筆者(游々子)はこの5月の連休に信州を旅し、南信の阿智村に10年前に作られた満蒙開拓記念館に寄って来ました。ここには平成28年に現上皇ご夫妻が訪れていて、御製の和歌を詠まれています。渡満すれば20町歩の地主になれるという触れ込みで、27万人が開拓民として応募し、不可侵条約を破って侵攻してきたソ連により、8万人もの人たちが命を落としています。満州事変の直後より、日本が満州を領有することは極めて危険であることを述べた日本人がいます。それは
英語俳句については、俳句的生活(128)の ”芭蕉に恋した英国人” の稿で、芭蕉の英訳句をいくつか紹介しましたが、今回は自作句を、英語圏の俳句愛好家にも見てもらいたい、という気持ちが起こり、本HPの ”作品集” 全体を、今話題となっているチャットGPTの助けを借りて英訳してみました。HPメニューの ”Haiku in English" から入ることが出来ます。俳句そのものの、日本語俳句から英語俳句への転換は、はじめは自分で英訳し、それをチャットGPTにrefineし
現在の日米関係からは想像も出来ないことですが、日露戦争後の日米関係は、民間ジャーナリズムをも巻き込んで、将来における日米戦争は必至であるとする著作が、盛んに世に出回るようになりました。その口火を切ったのはアメリカ側で、1909年、ホーマー・リーという中国系の冒険家が「無知の勇気」という本を書いています。そして、ドイツ皇帝のウイルヘルム二世がこの本を読んだということを、ニューヨーク・タイムズは次のように伝えています。-カイザーはリーの著書が好き-『無知
昨日のことになりますが、寒川図書館に本を返しに行く必要があり、何気なくYahoo地図で自転車のコースを見ていると、寒川町立南小学校の脇を一直線の長い道に、水道道と記載されているのが眼に入りました。寒川浄水場から、横浜に水道水を提供していることは知っていたので、てっきりその水道管が埋められた道であろうと思い、それを確認してみようと、現場に到着後、右にハンドルを切り、行けるところまで行ってみようと自転車を走らせました。その道は瀟洒なブロックタイルで舗装されていて、ところ
A子さん原句 水戸学の桜蕊降る築地塀水戸学の道水戸市では、弘道館・水戸城跡周辺を歩いて楽しめる散策ルート「水戸学の道」を整備しています。原句は「道」に沿っての白壁や築地塀に ”桜蕊が降る” という秀麗な光景を詠んだものです。ただ原句の上句 ”水戸学の” だけでは、知っている人以外はこれが「道」を表していることに辿り着けないので、字余りになりますが、上句は「水戸学の道」と言い切った方が良いと思います。参考例 水戸学の道桜蕊降る築地塀原句
3位 梅沢冨美男 鞦韆に退職の日の花束と梅沢さん: 給与明細をもらったことがないので、イメージが湧かないんです。ふと思いました。私のような年齢になれば、定年するしかないんですよ。ブランコに乗っているように、毎日毎日会社に行っていたんです。いつかは降りなきゃならない、それを私の気持ちとして詠みました。この「鞦韆」、この季語をみんな知っていたか?村上・ジュニア: 知ってました。歳時記に載ってました。梅沢さん: そうかい、知ってたのかよ(会場爆笑)
6位 森迫永依 本採用朧夜の缶チューハイ森迫さん: バイトは最初、試用期間があると思うんですけど、それが終わったあとの本採用の給与明細を開いてみて、そのままちょっと嬉しくなって外で缶チューハイを買ってみた、という句です。千賀さん: 本採用と聞くと、すごく嬉しいことのイメージなんですけど、缶チューハイというのでちょっと切ないイメージが来るから、気になりますね。梅沢さん: 私はいいと思いますけどね。一つ言えることは、缶チューハイでなくレモ
前稿で大隈重信のナイーブな所感を紹介しましたが、本稿では、アメリカ側がどうであったかを紹介することにします。以下はGWFの横浜寄港の3週間後に書かれたニューヨークタイムズの記事です。“-DELIRIOUS TOKIO SCENES-TOKIO, Oct. 22 Fifty five years ago Commodore Perry reached the shores of Japan, with what was then termed by
日露戦争が終結するまで、日米の関係は、現在の日米関係と遜色がないくらい良好なものでした。ところが日露戦後、両国の関係は急速に悪化していき、両国の巷では日米の戦争は避けられないとする未来予測の本が数多出版されました。本稿より暫く、日米におけるそれらの戦記をみていくことにしますが、先ずはルーズベルト大統領の示威行動である ”白船艦隊” の日本への派遣から述べることにします。明治41年10月18日、スペリー少将に率いられたアメリカ艦隊が横浜港に到着しました。戦艦1
7位 キスマイ横尾 春光の起業ゲーミングチェア届くゲーミングチェアとはゲーム用の椅子で、背もたれが高く、長時間ゲームしても疲れにくい構造なので、最近は仕事で使用している人も増えている、というものです。横尾さん: 起業はとばしまして、ゲーミングチェアを使っている会社が増えてきた。あっ、これはいいなと思って使わせてもらいました。北山さん: ゲーミングチェア、長い文字を入れてきたっていうのは、横尾さん凄いなと思いました。ゲーミングチェアって
今回決勝に進んだのは、次の10人です。梅沢富美男(永世名人)フルポン村上(永世名人)フジモン(永世名人)千原ジュニア(永世名人)キスマイ横尾(名人10段)皆藤愛子(名人4段)立川志らく(名人6段)勝村政信(特待生5級)春風亭昇吉(特待生4級)森迫永依(特待生4級)お題は「給与明細」です。2位 皆藤愛子 ギャラ明細は二行療養の春皆藤さん: 数か月お休み頂いていた時に、事務所から届いたギャラ明細が衝撃的だったので、再放送しかなくて
1昨日のNHK大河「どうする家康」は、今川氏真にスポットライトが当てられた回でした。そして彼以上に輝いて描かれていたのは、正妻の早川殿でした。この晩年の肖像画は、夫妻の死後、下の氏真像と共に孫の代に描かれたもので、仲の良かった夫妻を象徴するように、向き合った姿となっています。彼女が早川殿と呼ばれる所以は、掛川城を出て実家の北条氏に身を寄せた処が、小田原近郊の早川郷であったからです。父である氏康は北条氏の三代目で、上杉謙信とも武田信玄とも戦って
お題はレトルトです。森口瑤子(名人3段) 白粥は三日目春の風邪飽きた森口さん: 風邪を引いちゃって体調が悪くて、まあレトルトの白粥ばっかりて食べていて、外は春で出かけたいのに、本当にもうだるい体も白粥も全部飽きちゃって、といような句で、コロナの今にもちょっと掛けていて、”飽きた” はそのまま詠んでいる感じはしますけど、”飽きた” には ”悲しい” ”切ない” 気持ちを込めて書きました。夏井さん: この句の評価のポイントは、この語順を選
先週の土曜日曜日、1泊2日で那須高原と日光を巡る家族旅行をしてきました。那須高原ではスキーが目的だったのですが、連日の温暖日和でゲレンデが雪不足となり、ハンドルのついた橇での雪遊びをするだけになってしまいました。翌日曜は快晴で、久々の日光見物を楽しみました。コロナが下火となってきたせいか、大勢の人出に賑わっていました。私の様な歴史好きの人間は、”どうする家康” のつながりで来たようなもので、家康が何故、日光を自らの終の墓所とするよう遺言したのか、そこが興味の