以前ペイントで描いた絵が永らく開けなかった記憶媒体から見つかったので、掲げます。ケーブルが不良で使えなかったので新しく買い替えて中身が見られるようになりました。 16世紀の想像図です。絵の左上に高崎山、別府湾の向こうに別府背後の山並みから国東半島を描きました。丁度南蛮船が浮かんでおり、大分川の先には地震で海の藻屑となった瓜生島もまだ存在した状況です。 次は江戸初期頃に描かれた当時すでに消滅していた豊後府内を復元した絵図です。上の推定図の道路網は下の絵図を念頭に置いて描きました。
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以前ペイントで描いた絵が永らく開けなかった記憶媒体から見つかったので、掲げます。ケーブルが不良で使えなかったので新しく買い替えて中身が見られるようになりました。 16世紀の想像図です。絵の左上に高崎山、別府湾の向こうに別府背後の山並みから国東半島を描きました。丁度南蛮船が浮かんでおり、大分川の先には地震で海の藻屑となった瓜生島もまだ存在した状況です。 次は江戸初期頃に描かれた当時すでに消滅していた豊後府内を復元した絵図です。上の推定図の道路網は下の絵図を念頭に置いて描きました。
今日、後藤博文さんと白木峠に行った。自分にとっては白木峠に行くのは三回目です。高橋長一著「臼杵物語」に峠には茶屋が設けられ、その跡には石垣があると書いていた、初めて行ったときは石垣を見つけられずにいたが、後藤さんが先日出かけて石垣を発見したというので再度出かけることにした。ついでに台場跡2基も発見したというのだがこれは自分が先日二回目に行って確認・略図化したのと同じだった。 ▢その前に広内越というのに挑戦した。これは後藤さんも初めて行くという。江戸時代、臼杵から大分に行くには上通から白木峠へ、さらに生首谷を通り広内集落へ行くのが大通りだった。 Sに1台が駐車し、北西に歩き、高速道路橋脚下付近に…
僕の「西南戦争前後の軍用水筒」も土器や石器に混じって掲載してもらいました。よろしかったら一冊買ってください。
大橋寺だいきょうじに西南戦争の銃弾の痕があるのは知っていたが、これまでまだ見ていなかった。2025年4月10日、先哲史料館の展示室で新年度の展示替えがあったので覗いてみたら小川鼎三の中学生時代の日記の一部が活字化されていた。そこに大橋寺の銃弾痕の記述があった。 大橋寺だいきょうじの位置と銃弾痕 以前、西南戦争時に官軍が大迫山と呼んだ山の東部に展望所や付近の登山道を整備している三角台を守る会の村上中造さんが大橋寺の役員をしているので、今日(2025.4.13)待ち合せて銃弾痕のある場所を案内して頂いた。偶然、門の中で親戚の河村陽子さんに遇った。毎朝ここまで散歩していると。 ▢この日は丁度本堂で法…
川瀬巴水の絵のような写真が撮れました。 - 西南戦争之記録
臼杵市歴史資料館蔵の元禄国絵図(1701年)の白木峠周辺です。拡大して展示室の床に貼り付けた複製ですが。拡大図。左上に通村(かよいむら)大分市に続く屈曲した路線が描かれています。点々は関所でしょうか? 先日歩いた地図を中央、左に絵図、右に国土地理院地図を置いて古道を推定すると右図のようになる。白木峠から南側、特にその南半分は旧道らしき道を歩いたのでほぼ正しいと思う。現在地図には、上通の直ぐ西から白木峠に向かう道筋が描かれているが、これらは絵図にある正式の路線ではないだろう。推定路線と絵図の路線を比べると、絵図の方はくねくねしすぎている。上通の上流に凝灰岩製の石橋があるが、明治時代には遡るだろう…
先日来の課題だった臼杵市白木峠に後藤博文さんと行ってみた。9時半に九六位峠で落ち合い、臼杵市上通(かみがよい)に後藤さんの車を置きに行く。 引き返し、下図の上部から出発。ここは北西に下がると広内峠に至るが、それは後日。今日は九六位峠の北東側から谷に降りる。この谷は高橋長一「臼杵物語」によると生首谷と呼ばれる。古い山道やその後の作業道が交差するのでどれが古い道か悩みながら進んだ。 広内峠入口後藤さんの右奥に竪堀状の道が始まる。 生首谷に入るとすぐ下の写真のように溝状の古道がある。 標高427mの峯の北西側で谷を渡る。この山には登らず中腹を南下する。歩いた所は作業道が多い。 目指す白木峠の山頂上の…
昨日「西南戦争前後の軍用水筒」という12頁の投稿が活字になって、手にする事が出来ました。これで図面を公開できるようになったけど、まだPDFにしてないので手元のパワポにある図を掲げます。 1~4は胴体がブリキ製で薄い板材からできており、簡単に押し潰れそうです。
以前、このブログで「大分市と臼杵市の境にある官軍台場跡」と題して書いたことがある。その時は大分市と臼杵市の境にある峠地名がどこに該当するのかを推定して書いたのだが、最近、大分県内の古道や山城跡多数を踏査している大分市在住の後藤博文さんからより詳しい情報を提供して頂いた。お礼を申し上げたい。 打ち合わせて現地を今日案内して頂いた。午前中、小雨だったので車で見て回っただけ。 九六位峠は新設道路だった! 北西の方向から九六位峠を越えて臼杵に南下する路線があるが、峠部分は旧道を踏襲するもの、九六位峠は昔からあるものと思い込んでいたのだが、なんと昭和49年に自衛隊が建設した道路と教えた頂いた。これまでの…
甲骨文字の存在が知られたのは19世紀初頭頃なのですが、面白いので眺めています。この詩は明朝体などの字体で書かれた方がかっこいいと思います。
以前投稿した表記の遺物について再度述べたい。最近、佐倉桜香さんのXで自分が読んだことのない西南戦争関係の本を紹介していたので、購入して読んでみた。すると標題の遺物に関係するとみられる記事があるのに気付いた。その本は小西四郎編現代日本記録全集3「士族の反乱」1970の中の出石猷彦氏が書いた「熊本籠城の実況」pp.214-pp.244である。 出石猷彦と彼の戦記 出石猷彦いずいしみちひこ嘉永1年1月―昭和9年4月4日。 嚮導団砲(22人)工(10人)科卒業の37人は明治7年3月21日に士官学校入学。出石は砲科だった。明治8年2月12日陸軍少尉試補から陸軍少尉に任官。「戦記稿」戦記部分には出石猷彦の…
昨年、桐野利秋と篠原国幹とがそれぞれ海老原穆に出した書状をひとつにまとめた掛軸を入手したので年末に大分県先哲史料館の松尾大輝さんに解読して頂いた。何字か不明が残ったので幕末明治に詳しい長野浩典さんにも見ていただいたが、難字は解決しなかった。まずお二人に感謝申し上げたい。 1月下旬から2月初頭まで県立図書館が資料整理期間で休館だった。今月4日に開館してもさして進展させることができなかったので、現状の段階の解読と解釈を紹介することにした。 掛軸各部の寸法は上に示す。一番下の軸先は木製で黒漆塗り。最大直径3.05cm。 書状二枚は直接 褐色気味の絹地に表面から貼っているので、書状の寸法が分かる。
表記の本を頂きました。十分に理解する能力はないので、興味を抱いた点に絞って紹介します。吉川弘文館・全243頁。 著者の藤木さんは宮崎県西都原考古博物館や同埋蔵文化財センターで遺跡の発掘調査や保存対策を行っている人です。出土した火打石に興味が湧いたのは2004年前頃とのことで、以来資史料集積に努め、今回本書の出版に至ったそうです。その間にはいくつも火打石(ひうちいし)・火打金(ひうちがね)などに関する論文・報告を書いています。 日本列島で明白な発火具が登場するのは弥生時代です。往復運動や回転運動と組み合わせて板と棒で火起こしするものです。その後、8世紀になると鉄と石をぶつけて発火させる方法が列島…
去年の春、チューリップが咲いた場所から年末の12月に芽が出てきました。 以前作った陶器の縄文土器と一緒に写してみました。湯飲み茶碗大です。一部には青磁色が抹香臭(マッコウくさ)いという意見もあるけど、実は傑作です。 後期の御領式土器に続く天城(あまぎ)式土器を作ってみました。3000年前の九州地方の土器です。
新年おめでとうございます。皆様にとっていい年でありますように。 正月を迎え、桐野と篠原の書状を紹介しようと思っていたが、解読が進まないので、 替わりに以前作った自分の像を掲げます。画板を肩に下げ、長靴を履き、麦わら帽子を被り、水分を補給する像です。本当は脚はもっと長いけど、この点だけが不正確です。
篠原国幹の書状、投稿準備中です。
3d写真を撮っていたけど、貼り付けることができない状態でしたが、できるようになったので貼り付けます。西南戦争の際、墓石を台場の一部に転用したためこの墓地では銃弾痕が残る墓石が沢山あります。撮影は草を除去し、枯れ枝をどけ、各墓石ごとに周囲から撮影しつづけ30分位かかってグルグル回って撮りました。 https://scaniverse.com/scan/ogevv3h243qwtj3n
Xとつなぐ練習中 - 西南戦争之記録
僕から年賀状が来なかったと言って気にする人もいないと思いますが、例年通り年賀状は書きません。あしからず。
以前紹介したことがあるが銃弾の軌跡が分かるように撮影したので再度掲げます。鎌谷涼平さんが同行しました。最初の写真は前回のものです。銃弾痕のある燈籠は向かって右側のもので、これには年号は刻まれていないが、対になる左側の燈籠には安政二年と刻まれています。形も似ているので同時期の物でしょう。 次は石の祠の銃弾痕です。
はじめに 上記の題名の写本を入手した。このブログで前にサンフランシスコの要塞に付いて解説資料を紹介したが、最近たまたまこの写本が売りに出されているのを発見し、購入したものである。同じ販売者には「聞書 五 彦根一件」という同様の体裁・字形のものもあることからして、題名の三は勝氏米國紀行全体を含むようである。 ネットで調べたら和田勤2023「万延元年遣米使節随行艦咸臨丸艦長勝海舟渡米記録の諸写本について」というのがあった。それによると、海舟が記録した渡米記録は「海軍歴史」に活字化されているが、彼自身が自身の記録を抜粋したものを含めその他20数点存在するという。中には公式報告として海舟が作成したもの…
昨日の段階がこれです。 そして今日がこれ。空は曇天とした。畑の野菜が増えた。崖にひび割れと影を入れた。その他若干ちょこちょこと。
少しだけ手を入れました。畑の地面色をなるべく統一。後で草や野菜を書き加えたら地面も見えにくくなるけど。 下は昨日の段階。 そして次が今日の状態です。凝灰岩の崖の縁にある植物に影を加えました。題字の修正もまだ未完成。久し振りに大分県立埋蔵文化財センターに鉄道展示と新規報告書を見に行った。綿貫俊一さんと話し、次に遇った横沢慈さんがいつも絵を見てくれているとのことだった。新人の古屋さんとあいさつ。(なんか日記みたいになりました。)
先日の段階がこれ そして今日朝。題字の「之」(古筆風にしてみた。他の字もそのうち)・遠景左の白山の稜線(船底のような稜線は南が高いが、いつも大分市から見てるので逆になっていた)・水田など。
明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。 C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097 第二百八十八号 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也 (※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。…
上が前回までの状態。これに左上の山並み輪郭線を加え、寺に鐘撞き堂を描き込んだり。まだ終わりは見えない。
Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。
明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…
これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…
鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。
数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。
花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。
福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。
このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com
最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…
桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。
今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。
チューリップの花が開いた。まだたくさんツボミが待ち構えている。
数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。
急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。