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高橋信武
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2022/09/15

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  • 臼杵市白木峠3

    今日、後藤博文さんと白木峠に行った。自分にとっては白木峠に行くのは三回目です。高橋長一著「臼杵物語」に峠には茶屋が設けられ、その跡には石垣があると書いていた、初めて行ったときは石垣を見つけられずにいたが、後藤さんが先日出かけて石垣を発見したというので再度出かけることにした。ついでに台場跡2基も発見したというのだがこれは自分が先日二回目に行って確認・略図化したのと同じだった。 ▢その前に広内越というのに挑戦した。これは後藤さんも初めて行くという。江戸時代、臼杵から大分に行くには上通から白木峠へ、さらに生首谷を通り広内集落へ行くのが大通りだった。 Sに1台が駐車し、北西に歩き、高速道路橋脚下付近に…

  • 小畑弘己先生退任記念論文集を日本考古学協会5月総会の会場で販売します。

    僕の「西南戦争前後の軍用水筒」も土器や石器に混じって掲載してもらいました。よろしかったら一冊買ってください。

  • 臼杵市大橋寺の西南戦争銃弾跡

    大橋寺だいきょうじに西南戦争の銃弾の痕があるのは知っていたが、これまでまだ見ていなかった。2025年4月10日、先哲史料館の展示室で新年度の展示替えがあったので覗いてみたら小川鼎三の中学生時代の日記の一部が活字化されていた。そこに大橋寺の銃弾痕の記述があった。 大橋寺だいきょうじの位置と銃弾痕 以前、西南戦争時に官軍が大迫山と呼んだ山の東部に展望所や付近の登山道を整備している三角台を守る会の村上中造さんが大橋寺の役員をしているので、今日(2025.4.13)待ち合せて銃弾痕のある場所を案内して頂いた。偶然、門の中で親戚の河村陽子さんに遇った。毎朝ここまで散歩していると。 ▢この日は丁度本堂で法…

  • 川瀬巴水の絵のような写真が撮れました。

    川瀬巴水の絵のような写真が撮れました。 - 西南戦争之記録

  • 臼杵市白木峠2

    臼杵市歴史資料館蔵の元禄国絵図(1701年)の白木峠周辺です。拡大して展示室の床に貼り付けた複製ですが。拡大図。左上に通村(かよいむら)大分市に続く屈曲した路線が描かれています。点々は関所でしょうか? 先日歩いた地図を中央、左に絵図、右に国土地理院地図を置いて古道を推定すると右図のようになる。白木峠から南側、特にその南半分は旧道らしき道を歩いたのでほぼ正しいと思う。現在地図には、上通の直ぐ西から白木峠に向かう道筋が描かれているが、これらは絵図にある正式の路線ではないだろう。推定路線と絵図の路線を比べると、絵図の方はくねくねしすぎている。上通の上流に凝灰岩製の石橋があるが、明治時代には遡るだろう…

  • 白木峠へ つづく

    先日来の課題だった臼杵市白木峠に後藤博文さんと行ってみた。9時半に九六位峠で落ち合い、臼杵市上通(かみがよい)に後藤さんの車を置きに行く。 引き返し、下図の上部から出発。ここは北西に下がると広内峠に至るが、それは後日。今日は九六位峠の北東側から谷に降りる。この谷は高橋長一「臼杵物語」によると生首谷と呼ばれる。古い山道やその後の作業道が交差するのでどれが古い道か悩みながら進んだ。 広内峠入口後藤さんの右奥に竪堀状の道が始まる。 生首谷に入るとすぐ下の写真のように溝状の古道がある。 標高427mの峯の北西側で谷を渡る。この山には登らず中腹を南下する。歩いた所は作業道が多い。 目指す白木峠の山頂上の…

  • 西南戦争前後の軍用水筒 ※少しずつ追加します。

    昨日「西南戦争前後の軍用水筒」という12頁の投稿が活字になって、手にする事が出来ました。これで図面を公開できるようになったけど、まだPDFにしてないので手元のパワポにある図を掲げます。 1~4は胴体がブリキ製で薄い板材からできており、簡単に押し潰れそうです。

  • 白木峠と広内峠・九六位峠は違う場所らしい

    以前、このブログで「大分市と臼杵市の境にある官軍台場跡」と題して書いたことがある。その時は大分市と臼杵市の境にある峠地名がどこに該当するのかを推定して書いたのだが、最近、大分県内の古道や山城跡多数を踏査している大分市在住の後藤博文さんからより詳しい情報を提供して頂いた。お礼を申し上げたい。 打ち合わせて現地を今日案内して頂いた。午前中、小雨だったので車で見て回っただけ。 九六位峠は新設道路だった! 北西の方向から九六位峠を越えて臼杵に南下する路線があるが、峠部分は旧道を踏襲するもの、九六位峠は昔からあるものと思い込んでいたのだが、なんと昭和49年に自衛隊が建設した道路と教えた頂いた。これまでの…

  • 甲骨文字の掛軸 李白 趙雲龍書

    甲骨文字の存在が知られたのは19世紀初頭頃なのですが、面白いので眺めています。この詩は明朝体などの字体で書かれた方がかっこいいと思います。

  • 熊本城跡飯田丸(いいだまる)で出土した用途不明陶器壺について

    以前投稿した表記の遺物について再度述べたい。最近、佐倉桜香さんのXで自分が読んだことのない西南戦争関係の本を紹介していたので、購入して読んでみた。すると標題の遺物に関係するとみられる記事があるのに気付いた。その本は小西四郎編現代日本記録全集3「士族の反乱」1970の中の出石猷彦氏が書いた「熊本籠城の実況」pp.214-pp.244である。 出石猷彦と彼の戦記 出石猷彦いずいしみちひこ嘉永1年1月―昭和9年4月4日。 嚮導団砲(22人)工(10人)科卒業の37人は明治7年3月21日に士官学校入学。出石は砲科だった。明治8年2月12日陸軍少尉試補から陸軍少尉に任官。「戦記稿」戦記部分には出石猷彦の…

  • 桐野利秋・篠原国幹書状掛軸 ※少しずつ加筆します。

    昨年、桐野利秋と篠原国幹とがそれぞれ海老原穆に出した書状をひとつにまとめた掛軸を入手したので年末に大分県先哲史料館の松尾大輝さんに解読して頂いた。何字か不明が残ったので幕末明治に詳しい長野浩典さんにも見ていただいたが、難字は解決しなかった。まずお二人に感謝申し上げたい。 1月下旬から2月初頭まで県立図書館が資料整理期間で休館だった。今月4日に開館してもさして進展させることができなかったので、現状の段階の解読と解釈を紹介することにした。 掛軸各部の寸法は上に示す。一番下の軸先は木製で黒漆塗り。最大直径3.05cm。 書状二枚は直接 褐色気味の絹地に表面から貼っているので、書状の寸法が分かる。

  • 藤木聡「火打石と火打金の文化史 ー考古学からみた火起こしの研究ー」

    表記の本を頂きました。十分に理解する能力はないので、興味を抱いた点に絞って紹介します。吉川弘文館・全243頁。 著者の藤木さんは宮崎県西都原考古博物館や同埋蔵文化財センターで遺跡の発掘調査や保存対策を行っている人です。出土した火打石に興味が湧いたのは2004年前頃とのことで、以来資史料集積に努め、今回本書の出版に至ったそうです。その間にはいくつも火打石(ひうちいし)・火打金(ひうちがね)などに関する論文・報告を書いています。 日本列島で明白な発火具が登場するのは弥生時代です。往復運動や回転運動と組み合わせて板と棒で火起こしするものです。その後、8世紀になると鉄と石をぶつけて発火させる方法が列島…

  • 今年も又チューリップの季節がやってきた。

    去年の春、チューリップが咲いた場所から年末の12月に芽が出てきました。 以前作った陶器の縄文土器と一緒に写してみました。湯飲み茶碗大です。一部には青磁色が抹香臭(マッコウくさ)いという意見もあるけど、実は傑作です。 後期の御領式土器に続く天城(あまぎ)式土器を作ってみました。3000年前の九州地方の土器です。

  • 新年おめでとうございます

    新年おめでとうございます。皆様にとっていい年でありますように。 正月を迎え、桐野と篠原の書状を紹介しようと思っていたが、解読が進まないので、 替わりに以前作った自分の像を掲げます。画板を肩に下げ、長靴を履き、麦わら帽子を被り、水分を補給する像です。本当は脚はもっと長いけど、この点だけが不正確です。

  • 篠原国幹の書状

    篠原国幹の書状、投稿準備中です。

  • 竹田市鬼ヶ城墓地全形

    3d写真を撮っていたけど、貼り付けることができない状態でしたが、できるようになったので貼り付けます。西南戦争の際、墓石を台場の一部に転用したためこの墓地では銃弾痕が残る墓石が沢山あります。撮影は草を除去し、枯れ枝をどけ、各墓石ごとに周囲から撮影しつづけ30分位かかってグルグル回って撮りました。 https://scaniverse.com/scan/ogevv3h243qwtj3n

  • Xとつなぐ練習中

    Xとつなぐ練習中 - 西南戦争之記録

  • 今年も年賀状は欠礼します

    僕から年賀状が来なかったと言って気にする人もいないと思いますが、例年通り年賀状は書きません。あしからず。

  • 臼杵市野村御霊神社の銃弾痕

    以前紹介したことがあるが銃弾の軌跡が分かるように撮影したので再度掲げます。鎌谷涼平さんが同行しました。最初の写真は前回のものです。銃弾痕のある燈籠は向かって右側のもので、これには年号は刻まれていないが、対になる左側の燈籠には安政二年と刻まれています。形も似ているので同時期の物でしょう。 次は石の祠の銃弾痕です。

  • 臼杵市陣坂の官軍台場群の全体図を作成しました

    いままで1号から7号までの図化を終えていましたが、8号と9号を加筆しました。図の北端少し上が頂上で、9号との比高差は1.5m位です。略図化の当日は車の両側面をこすりそうにしながら進んで、後は落ち葉を踏み、枯れ木を蹴とばしながら目的地に到着。官軍右翼が配置についたもう一ヶ所、武山は未踏査です。 次は9号台場跡の南から(左上)・西南から(右上)・西から(左下)・北西から(右下)。 4号台場跡の数十m南を旧道が斜めに横切り、東側の若山神社がある所に通じている。写真はジグザグに曲がる屈折点から。

  • 明治10(1877)年官軍の臼杵攻撃時の右翼部隊の戦跡(2)

    2024.11.29、9時前に陣坂に台場跡略図化に出かけた。板碑の先に駐車し、歩き出したが違う尾根に入ってしまい時間を無駄にした。同じような雑木林で前回の山と区別出来なかった。スマホのアプリ地図で再確認し、11時に台場跡のある場所に到着した。14時頃に空が暗くなり小雨が降りそうになったので帰ることにした。今日は1号と2号の2基の略図を作成した。下は陣坂を北から撮影。 2024.12.2、前回の続きで台場跡の図化をした。目的地には尾根を通らず林道を歩いて行った。1号の南の3号・4号と北側の5号・6号・7号である。前回、6号までを台場跡と考えたが、6号の北の怪しいのを7号とした。さらに北に2基怪し…

  • 明治10(1877)年官軍の臼杵攻撃時の右翼部隊の戦跡

    表題の臼杵攻撃の際、左翼と中央部隊は大分市方面から臼杵に近寄り、市境の尾根筋を中心に警備についていた。その痕跡は(このブログで前に紹介した)台場跡の分布により示されているが、右翼については現地調査をしていなかったので、今日出かけてみた。下表は官軍全体の部署表である。細かいので見にくいから、今回対象にした右翼だけ拡大しておきたい。 今日踏査したのは、援隊の第十三聯隊第二大隊第四中隊が6月8日に警備したとされる臼杵市陣坂である。表では右から三個目の枠内にあたる。同隊は陣坂の北側約1,5kmにある武山も担当地域だったが、そこはまだ踏査していない。 1600年に竹田の中川氏が臼杵の太田氏を攻撃したさい…

  • 熊本大学構内の西海道

    熊本大学埋蔵文化財調査センターで展示中の写真を掲げます。先日、延岡長尾山一本松などに同行した岡本さんから頂きました。二枚目の図を御覧ください。 不勉強で初めて知ったのですが、古代の西海道が熊本大学構内を縦断していたのを初めて知りました。大学構内は旧地形を無視して全く新たに造られていますが、一番北の9次調査区付近の民有地の区画が古道と同じ方向であるのが興味深い所です。 万葉集に熊本平野のことともされる歌があります。 託馬野(たくまの)に 生ふる紫草(むらさき) 衣に染め いまだ着ずして 色に出でにけり 古代の人が通った同じ所をそれと知らずに千年後に歩く今の人、発掘調査は時間旅行に似ていると思いま…

  • 延岡市長尾山一本松に登る

    宮崎県延岡市の戦跡で宮崎県埋蔵文化財センター(堀田孝博・中島寛・上野哲矢の三氏)が測量調査しているのを見学しました。ここは別働第二旅団が1877年8月15日から数日間在陣したところです。以前自分が「西南戦争之記録」で戦跡の分布状態を報告した場所です。いくつもある台場跡は下の写真のように弧状で比較的に大きいのが特徴です。同行した岡本真也さん(写真)によると人吉盆地付近にある同隊の台場跡も同じような規模だという事です。一部に細い試掘溝を入れて掘り下げているのを聞くと、内側は深さ10㎝位しか埋まっていないという事で、意外でした。 その後Xに情報があったのを見に行きました。盗掘者は和田越周辺で5年間に…

  • 津久見峠を歩いてみました

    今日2024.11.6は暑からず寒からずのいい日なので、臼杵と津久見の境界にある津久見峠に初めて行ってきました。 ほとんど林道を走行し、峠の南側から歩いて少し登る。尾根上にアマチュア無線塔のようなものがいくつもある傍を抜けるとすぐに「津久見峠」の標識が標高427mの頂上にありました。画板のそばの三角点は東西南北の方向に設置されている。 樹木のため遠くの景色を見通すことはできない。古い径にあるような溝状の窪みが北から頂上へ、さらに東にジグザグに下る。東に100m位歩いて台場跡を探したが確認できなかった。帰って再度地図を見直して考えたが臼津トンネルの方向にもう少し歩いてみるべきだったかも。でも多分…

  • Xに同じのを連投してしまった。

    Xに同じのを連投してしまった。 - 西南戦争之記録

  • 最近読んだ本。黒田日出男2002年「謎解き 伴大納言絵巻」

    黒田日出男氏による絵巻や屏風絵の解説は面白い。これまでも「江戸図屏風の謎を解く」・「豊国祭礼図を読む」・「江戸名所図屏風を読む」・「洛中洛外図・舟木本を読む」を読んだことがある。この「謎解き伴大納言絵巻」も以前読んだのを最近また読んでいる。黒田氏は研究史を追いかけて、今どこまで分かっているのか、他の人はどのように解釈したのか、何が問題なのかを把握したあとに検討に入る方法をとっている。正攻法である。つまり突然自分の解釈を繰り広げる、というやり方ではない。研究史を無視したやり方はそれに関する問題点や研究の到達点を理解する事などなしの検討を行う 事であり、独りよがりの主張を展開することになる。研究と…

  • 明治12年の水筒

    防衛研究所にある明治12年の水筒関係記事は陸軍が次の1件で、海軍は軍艦がそれぞれ増加配給を請求した文書がある。 C04028722300明治12年 「大日記 近校団所軍馬囚獄 自9月1日至10月31日 第5局第8課」(防衛省防衛研究所)」0076~0078 第八百三拾四号 第五局 別紙伍第二千五百卅七号東京鎭臺ゟ伺出之通及指令候条可相渡此旨相達可候事 明治十二年八月三十日 陸軍卿西郷従道 実地行軍或ハ野営演習用ニ御備付相成候武力面桶及ヒ水筒不足之分ハ増渡之義ニ付伺 一武力製面桶 千九百六拾弐□ 一硝子製水筒 三千〇〇壱個 右ハ実地行軍或ハ野営演習等ニ兼テ両品若干御備附相成候處各隊実人員ニ比スレ…

  • 西南戦争時の薩軍青銅製銃弾

    どこかでパワーポイントを使って紹介したことがあるけど、マンチカン帝國さんやたまやさんのXを見たので思い出しました。 県立図書館の新刊本棚に復刻本が置かれていたので、見たら画像のような写真がありました。枝弾と称したもののようです。素材については書かれていませんが、青銅製だと思います。2点とも曲がった状態です。靖國神社にある枝弾例に加え、このようなものが1937年には存在していました。第四旅団司令長官だった曽我祐準が宮崎県のどこかで分捕ったものでしょうか?

  • 阿蔵山を歩く

    熊本鎮台が鬼ヶ城や崩れ岩・茶屋の辻を攻撃する前、5月23日竹田市街西方の玉来たまらいの街に滞在した。その際、無防備で滞在することは考えられず、野津報告でも玉来街ノ周囲ヲ扼守スとある。また、24日には玉来の東側にある阿蔵山から薩軍のいる方面を観察したことが書かれている。阿藏山ヨリ地理ヲ窺フニ鬼ヶ城茶屋ノ辻ノ地タルヤ山麓ニ川ヲ帯ヒ嶮岨尤甚タシク阿藏村ニ通スル古橋ト云フ板橋アリである。鬼ヶ城と玉来との中間にあるのが阿蔵山だろう。その山は歩いた記憶がなく、調べる必要があると思い、行ってみた。 赤線が歩いた路線。往路45分、復路20分。ただし復路は尾根筋の5m位下にある車には狭すぎる径を通った。地図の黄…

  • 大塚進也さんのX投稿

    白井雅明氏が「戦争遺跡から見る朝日山古戦場」を発表したことを大塚進也さんがXで熱く語っている。

  • 野津大佐発竹田攻撃電文 ※少しずつ追加します。

    5月23日から始まった官軍の竹田攻撃について、参謀長 野津道貫大佐が発した電報がある。只さっと読み進むのではなく、何を書いているのか、地図を睨みながら読んでみたい。以前書いたことと重複するかもしれないが理解を容易にするため、日付を区切って地図や説明を入れておきたい。 ここで竹田での西南戦争の概略を述べておきたい。大分県に薩軍が初めて侵入したのは5月12日だった。この日、宮崎県延岡市熊田から県境を越えて佐伯市宇目の重岡に薩軍奇兵隊数百名が現れ、彼らはこれから大分市への経路上にある三重町を通るので人馬の用意をせよと通知し、言葉とは逆に翌13日北西側の竹田を急襲し占領した。 重岡仮警察署の大分県警部…

  • 鬼ヶ城の中世城郭遺構と墓地

    鬼ヶ城の模式図を作成してみました。縄張り図という程のものじゃなく、こんな感じ、という程度の略図です。鬼ヶ城には高い場所が三ヶ所あり、今日初めて東端の高まりまで行ってみました。東から➊・➋・➌と仮称します。 中世の遺構 三ヶ所を比べると平坦に加工した地面、曲輪くるわは➊に最も多くみられると共に、ここには縦方向に斜面を溝状に掘った竪堀が二ヶ所あります。また、東端で最高所の曲輪の南東斜面は凝灰岩の切り立った崖面になっています。ただしこの崖面は上図には表わされていません。現実は曲輪面から直接崖面になっています。➋は曲輪が三ヶ所、➌は曲輪が図示した三ヶ所に加え、もう少し細長いのが斜面にあります。また、堀…

  • お兼様山の名前の由来について

    西南戦争に登場するお兼様山のことが、北村清士 校注1969「中川史料集」に出ているので紹介します。 中川神社のある丘の西の方にお兼様おかねさま山という場所があり、10年以上前にこの丘を歩いて戦跡を探していた際に、ポツンとお兼様の墓があるのを見たことがありました。今回、先の本を斜めに読んでいるとお兼様の事が出てきたので、書き留めておきます。 貞享四年岡藩第6代中川久恒公の部分に次のように記しています。 一、十一月二十七日、田近喜八郎良武室病死、諱は兼、享年三十歳、岡城の西、拝田原山に葬る。法号光厳院心月高英鑑大姉、久清公御弐女、御母は御侍女姓名詳ならず。万次元年戊戌月日欠江戸に御誕生、寛文十二年…

  • 鬼ケ城の墓地略図 ※途中ですが。

    銃弾痕のある墓石を調べる際、墓石の分布図があると便利なので略図を作成しました。 左図は頂上にある曲輪1とした部分の右半分です。地面はコンクリートで固められており、周囲はコンクリートブロックで区画されています。墓石は密集して整然と並んでいるので、いつの時点でか並び変えられ、西南戦争時の状態を留めていないようです。曲輪1の左三分の一は1m程度下げられ、現代の野溝家の墓石が建てられており、曲輪1全体の墓石は野溝家のものが大部分のようです。江戸時代の墓石の中には野溝と彫り込まれたものもあります。 曲輪2にも近世の墓石が多く存在し、銃弾痕を残すものが少なからず存在します。 台場跡とした部分は東・南・西が…

  • 鬼ヶ城のある墓石

    2024. 9.24。 鬼ヶ城頂上の墓石群をスマホで3D写真をきれいに撮ったのだが、パソコンへ飛ばして保存する方法が変更されていて、飛ばせなかった。スマホも紙の説明書が欲しい。 冒頭に掲げたある墓石の場合、屋根型の部材に真上から雨でも降ったかのように複数の銃弾痕が残っていた。赤線が銃弾の軌跡。絶対、上図のように台場に持ち込んで弾除けとして利用したはずだ。中間材と基礎石材にも銃弾痕がある。この二つも台場に持ち込まれたと思う。

  • 鬼ヶ城あれこれ

    実質3時間ほど鬼ヶ城の墓石群分布図を作成し、頂上のを半分くらい平面位置だけ記録した。赤白棒を持参したのだが、どこもここもコンクリートで覆われていることが分かった。地表は腐植土で覆われているが、すぐ下はコンクリートだった。墓石群がいやに整然と並んでいるなと思っていたが、二次的な移動が行われた可能性があると確信した。 切通し道と北側の土塁状のもの 今日、気づいた点を記す。切通し道の北側に東向きに土塁状のものが一列ある。北向きの尾根筋の東端に一直線に土塁のようなものが続いている。東側の道に面した崖面を観察すると土塁状のものは厚さ50㎝前後の土層であり、直下に旧表土らしき黒土層が見られる。その下は黄褐…

  • 崩れ岩はどこか?

    下は1965年北村清士著「西南戦争血涙史」に載る竹田市崩れ岩の写真とされるものである。最近、竹田市鬼ヶ城の戦跡観察に何度か出かけたり、記録を読んだりしているのだが、果たして崩れ岩はここでいいのだろうかと疑問をいだくようになった。 次は現在ほぼ同じ方向から撮った写真。 下図は以前、このブログで使用したもので、北村氏にならい崩れ岩の位置を中川神社の東に隣接するとした。 次は「西南戦地取調書 豊後」所収の絵図で、鬼ヶ城や崩れ岩・茶屋の辻などの戦場地名が記されている。 上図を拡大したのが下図。クズレ岩が現在のどこか分かるように矢印で示した。以前、崩れ岩と考えた場所を点線で示すが、場所が全く違う。絵図の…

  • 「西南戦地取調書 豐後」の内、竹田町 ※少しずつ続けようと思ったのですが、これはすでに紹介済だったので撤回します。

    絵図を見ていて既視感があるので、以前のブログを遡ったらやっぱり紹介済でした。

  • 竹田市鬼ヶ城(蛇塚)の戦跡2

    二日続けて鬼ヶ城跡の略図化作業をした。 地図では三ヶ所に頂上があるように見えるが、北側の頂上に約35基の墓石があり(本丸)、そこから南南西に下がる尾根に第二墓地(曲輪2)が、さらにその先に台場跡的な部分(曲輪3)がある。曲輪3と2の平面図略図はほぼ終えた。曲輪2にも主に江戸時代の墓石が多く、明治中頃のも2基ある。曲輪2にも銃弾痕のあるものがいくつかある。 頂上の西に接して一段低くなった墓域があるのは、下図では同じものとして示した。 帰りがけに北部にある堀切も70m程歩いてみた。舗装道路部分から20m西に進むとそこで堀底は少し右折し、50mまっすぐに続く。そこで左折するが左折点まで歩いた。枯れた…

  • 竹田市鬼ヶ城(蛇塚)の戦跡

    臼杵市掻懐の3D写真を撮ったことを契機に、竹田市蛇塚別名鬼ヶ城の銃弾痕も撮りたくなった。今日、久しぶりに出かけ撮影してきた。 岡城を初め一帯は9万年前に阿蘇凝灰岩が埋め尽くし、浸食を経て残ったのが現在の地形となっている。鬼ヶ城の東北側には鴻巣台、北側には茶屋の辻(ここは運動場に造成されたため調査せずに消滅した。地図参照)という西南戦争激戦地がある。鬼ヶ城は北西から南、東側を川がめぐり頂上には江戸時代を主とした墓地がある。頂上には今日数えたところ約35基の墓石が建ち、周辺にも分布する。そして西南戦争時に薩軍側が守り、官軍が攻撃し激戦となった所である。墓石の中には複数の銃弾痕を残すものがある。 墓…

  • 臼杵市掻懐のある仏像

    台風一過といっても予想よりも大したことなかったのですが、今日は先日見に行った臼杵市掻懐の仏像(西南戦争時の銃弾痕が向かって左側の仏像の右目付近にあるとされるもの)の3D撮影に行っってきました。一番下の写真をクリックして、くるくる回したり拡大したりすると面白いのでやってみてください。 scaniverse.com https://scaniverse.com/scan/6icxeoogpowj4psj

  • 「北東方面陸軍航空作戰經過」昭和二十年十一月十五日 第一飛行師團司令部 1

    はじめに 父の遺品を紹介します。父は終戦時には第一飛行師団参謀でした。僕が小さかったころに防衛研究所(当時は別の名称)の人が二人自宅に来て、聞取り調査していたのを覚えています。当時中学生だったかな。数年前、遺品をみた際にこの冊子が出てきたのですが、周知の事実しか書かれていないと思っていました。末尾に終戦時の軍用機数が書かれており、これには興味が沸き、ちょっと図書館で他書を見たりした結果、数値が異なるので、そのうち紹介しておきたいと思いました。今現在も全く調べが進んでいないのですが、単に資料紹介するだけでも世の中には喜んでくれる人が現れるんじゃないかと思い、今回公開します。何回かに分けて少しずつ…

  • (自分の)Xとブログが連結しました。

    練習として上手くいくかこの短文を投稿します。なぜか盆とか 年末年始になると自分のネット環境が改善します。

  • 臼杵史談会での話を終えて

    8月15日に臼杵史談会で二回目の西南戦争の話をしたが、その際会員の方達から史料に登場するもののそれがどこにあるのか分からなかったいくつかの地名の場所を教えていただいた。それらを再検討した結果、今までの想像と異なる部分が生じたのでそれについて述べたい。 川ナシ峠・山ナシ峠・松川越について 西南戦争の際、薩軍が臼杵に侵入したのが6月1日、官軍が北西側の大分市方面から数路線に分かれて進軍し、臼杵攻撃を始めたのが8日だった。9日まで決着がつかなかったので、官軍は薩軍の背後、南側からも攻撃することにした。それが右翼迂回部隊である。陸軍の正式戦記に位置づけられる「征西戰記稿」の記述を引用する。 十日右翼兵…

  • 臼杵史談会での話を終えて

    8月15日に臼杵史談会で二回目の西南戦争の話をしたが、その際会員の方達から史料に登場するもののそれがどこにあるのか分からなかったいくつかの地名の場所を教えていただいた。 川ナシ峠・山ナシ峠・松川越について 西南戦争の際、薩軍が臼杵に侵入したのが6月1日、官軍が北西側の大分市方面から数路線に分かれて進軍し、臼杵攻撃を始めたのが8日だった。9日まで決着がつかなかったので、官軍は薩軍の背後、南側からも攻撃することにした。それが右翼迂回部隊である。陸軍の正式戦記に位置づけられる「征西戰記稿」の記述を引用する。 十日右翼兵ハ大迂回ヲ爲シ臼杵ノ賊ヲ夾擊セン爲メ姫嶽ニ露營シ天明ヲ待ツ午前五時 左翼及ヒ中央ハ…

    地域タグ:臼杵市

  • 臼杵市掻懐の銃弾痕

    8月15日、臼杵史談会で二回目の話をした。場所は臼杵交流プラザ。その際、聴講に来ていた人(織田金一郎さん)から掻懐の仏像に西南戦争時の銃弾痕があると教えてもらったので、翌日の本日、見学に出かけた。 大体の場所は聞いていたが、現地に行くと発見できなかったので付近の民家を訪ね質問してみたところ、現地を案内してくださった。小野ナツ子さんという。小野さんによると昔は現在所在する場所にはなく、道路を挟んだ南側の、今は公民館がある所にあったという。仏像の向きは同じだとの事。 小野さんと仏像。大きさが分かると思う。向かって左側の像に銃弾痕と伝わる傷がある。 基部に「文政云々」と刻まれているので、西南戦争当時…

  • 工作をしてました。

    ブログの更新をしてなかったので、こんな物でも。 臼杵史談会の話は7月18日に第一回目が終了し、その際、各種の銃弾類を持参した。第二回目が8月15日にあるので、以前、山本達也さんから頂いた薩軍の枝弾復元品を見やすいように工作した。

  • 17日、蝉が鳴き始めた

    16日、木の幹に蝉が止まっているのを見つけ、翌17日初めて鳴き始めた。今朝は蝉時雨状態。

  • 臼杵の西南戦争と姫岳・陣山 ※つづく

    臼杵史談会で話す機会を頂いたので最近、話の原稿をパワポで作成している。自分にとってこの数年で西南戦争についてよかった点は「西南戦地取調書 豊後」を入手できたことである。これは明治10年の西南戦争のあと、明治16年に参謀本部員が関係各県を回り、県を窓口として今でいう市町村に戦地の記録を作成させ、その後提出させた原本である。おそらくポツダム宣言受諾直後に焼却される間際に外部に持ち出されたものと考えられ、今は自分が所有している。 パワポにはこの原本を部分的に使用したり、最近積み重ねてきた戦跡分布調査の成果(ほとんどはブログで公開してきた)を取り入れ作成している。 まあ、誰も問題にしないことだが、臼杵…

  • 1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊 ※8月14日から。

    (8月)十四日午前第二時過キ篝火ヲ消滅シテ松明ニ変シ土人ヲ🔲シテ此地ヲ発シ山谷ヲ蝸🔲ノ如ク行進シ曲折シタル谷川ニ出タリ此両岸ハ峩々タル巌石聳ヘ樹木ハ日光ヲ覆ヒ粛然トシテ人ノ入ルヘキ地ニ在ラサレハ各人ハ茫然トシテ一言ヲ発スル者ナシ亦此川中ニ數株大小ノ岩石稠密シテ凸凹ナラサル処ナク是ヲ右ニ渉リ或ハ左リニ越ヘ大木ノ倒レタル上部ヲ通過スレハ亦渓ニ入リ丘ニ登レハ深淵ヲ渡ル其數敢テ枚挙スルニ遑アラスト雖モ概子(※おおむね)北越ノ千曲川ニ彷彿タリト亦草ハ伸長シテ全身ヲ覆フカ如ク亦何者ノ此叢ラニ伏臥セシヤ各処ニ三尺余円形ニ草ノ倒レタルヲ見亦足趾ノ各処ニ有ルヲ視メタルカ遁賊ノ此間道ヲ経過スル際倦労シテ如斯ナセシ…

  • spring-8見学

    6月25日兵庫県の山の中にあるX線で研究する大規模な施設を見学した。案内の人が分かり易く簡単に説明してくれた。彼の声がイヤホーンから聞こえる仕組みが気に入った。概略説明の後、バスで見学に出かけたが広い敷地内に緑の植物が広がり、野生のシカが何頭も草を食んでいた。緑の草に混じる鹿の茶色がきれいだった。誰も邪魔をしないらしく、鹿は安心して現れるらしい。 ここでは世界一細いx線(最小の物質、原子よりも細いのでそれを透視できるということだった)を放射する放射口が60か所前後あり、それぞれを利用したいと手を挙げた研究者の内、合格した者が利用できるという。外国からも来ると。 こういうのがあるのも知らなかった…

  • 1877年8月の第十聯隊第三大隊第二中隊

    アジア歴史資料センター(アジ歴)史料を眺めていて、これまで存在に気付かなかった史料を見つけたので紹介したい。 8月上旬宮崎県内の美々津川の戦いから中旬の可愛岳の戦いまでを中心に、かつて「西南戦争之記録」や「西南戦争の考古学的研究」で述べたことと重複する部分もあるが内容を読んで新たな情報がないか検討したい。 C09084159300「明治十年 戰鬪景况 戰鬪日誌 第二旅團」1691~防衛省防衛研究所蔵 ※隊長は水野慎大尉 「大阪鎮台歩兵第十聯隊第三大隊第二中隊西南征討日誌」 記述は2月13日から始まるが、今回は8月3日からの部分を紹介する。読み易くするため日付の頭に(8月)を入れることにする。 …

  • 「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」(2) ※以前の続きをここから再開します。

    貨幣造製官舎ハ市中ニ有至り見る尓金銀分析法ハ初め鑛石を以て細粉となし古れを洗ひ王水或ハ猛水王水ハ硝石精ニ塩酸精を加へしもの猛水ハ則硝石精尓て能く阿らひ解可しめ銀盤塩水を注きて塩酸銀となす此塩酸銀となせしものハ水を入て稀弱セしめ後大桶▢▢行壱尺堅も同樣の中ニ集め水を注きて洗いて毎度もして塩氣の春るを見て大釜ニ入蒸気を用ひて蒸沸セしむ後熔壺経ハ九寸高壱尺斗ニ入連烈火ニ溶解セしめ銀を以て再大桶ニ水を入たる中ニ投して粒銀として純銀ニならしむ此溶解銀を壺より汲み水中ニ注瀉春る尓恰も水の如し試ニ掌を開きて斜ニ此銀を受る尓手ニ熱焼を覚恵須水と同し是工人此事をなして我等尓見せしめたり 金鑛も又大抵盤同様なり通…

  • 小林清親の版画「新聞 鹿児島水股風説」

    先日2月19日御届の版画を紹介したのに続き、20日御届の版画を掲げます。 2月20日はまだ本格的な戦いが始まらない段階でした。15日に鹿児島を出発した薩軍の一部が熊本市南方の川尻の町に到着し、熊本鎮台からは偵察部隊が接触し小戰が起こっています。 黄色い部分には次のように書かれています。 四海波静尓往返の船舶乃希武りも高く萬代楽を謡ふ御代者鹿児島希ん下者士族の暴行なれと実地を水股の其風セつも信用なら春殊尓雷機の私報も止り希春尓士族のヱレキもくづれ是鎮静の近キを記春と云〃 明治十年二月 上記の内、希春尓士族の部分は解読が不確かです。絵は右に官軍とみられる部隊が山中を進行し、海上には太平丸という外輪…

  • 臼杵市ツルガ山・三ツ頭踏査2024.6.1※図・写真を追加予定

    最近の課題だった標記の山を歩いてみた。結論は台場跡なし。 山の入口です。鹿用の金網が山を取り巻き、山道の入口に何か所も扉がある。 最初はこんな感じで緩やかに進む。 測量で入る人が迷わないように巻いたのだろうか木に桃色テープが20m間隔位で続く。黄色や赤もあった。先日の庚申塚手前で見たような幅1m位の平坦な尾根があった。山道はこの右下にある。一直線で登ってきた尾根の一番上に着く。次の写真は尾根を見上げて。ツルガ山の頂上には神社があるが、尾根を左に曲がる先にある。 200m位左に神社がある。正面は南向きで背の低い凝灰岩製の鳥居が前に建つ。裏側に銘文があるような、ないような。神社正面に向かって左側に…

  • 臼杵市水ケ城山南東尾根の踏査 2024.5.26

    一昨日臼杵市水ケ城山の南東にある尾根を歩いて台場跡を探した。 拡大する。水ケ城という山の一部に中世の山城跡「水ケ城 みずがじょう」があります。今回行くところは山の南東側の尾根です。 幸いなことに山の中腹以上まで車で接近できる舗装道路がある。この道の北側に中継塔があるのでそのために造ったようですが。車道を外れ破線の尾根を歩いてみました。なぜか。 下図は「西南戦地取調書」(以前にも何度か利用したが高橋所有の史料。明治18年に大分県が参謀本部の求めで提出した200頁位の冊子原本。ポツダム宣言受諾直後に陸軍は多量の記録を償却したが、その際、心ある人が持ち出したものらしい)にある該当ヶ所周辺地図です。方…

  • 西南戦争が始まったころの版画「鹿児島暴徒圖」

    珍しい西南戦争初頭に描かれた揚洲齊周延の版画を紹介します。 先ず、全体を見ていただくと、これでは文字が読めないので部分的に拡大します。入手した当初から三枚が糊付けされていたので、剥がさないままにしています。 全体の右上に四角で囲った部分があり。これを拡大。 この枠は巻物を模した状態で、このようなものは初めて見た気がします。(今まで気づかなかっただけで、世間には沢山あるのかも知れないナ。)次のように書いています。 鹿児島暴徒圖 河村海軍大輔林内務少輔のニ君暴徒説諭の為め鹿児島湾へ到たり既尓上陸せんとする際激(※人偏)徒四五名小舟尓て漕(※右が曹付け)乗移らんとする故是を斷りし尓数艘の小舟越浮べ来…

  • 岡本真也さん・宮崎拓さん「熊本県内に残存する西南戦争台場調査について」の資料「熊本県南西部の西南戦争台場跡分布図」九州近現代考古談話会で

    下図のような熊本県内の戦跡分布図を沢山使っての発表だった。 岡本さんに送っていただいた。今の段階で熊本県内では合計252基の台場跡を集計しているという。九州には金属探知機で見つけて掘り出した遺物をヤフオクに出品するような盗掘者がいるので、正確な場所は未公表だという。「田原坂で見つけた」とか言いながら、他の県まで盗掘に出かけるやつがいる。熊本県教育委員会としては分布調査をしてこなかったので、全て個人の努力で行われている。 この図の中で現地に行ったことがあるのは吉尾・屋敷野・鉾野峠・四本杉・大関山・ゴットン石・中尾山だけである。 近年では山の尾根筋に風力発電の装置が地形を大規模に壊して設置されるの…

  • 三島神社と姫岳遠望(2024年5月9日の臼杵) 福聚寺の銃弾痕追加

    順番からいうと、初めに姫岳遠景、そして三島神社、最後に福聚寺の順に撮影した。 姫岳 昨日撮影した姫岳と三島神社。山の緑が新しく、また、鯉のぼりの列があったので合わせて撮影した。 三島神社 それから熊崎の三島神社の写真。上とほぼ同じところから西側を向いて撮った。 中央の森が三島神社。画枠の左側に福聚寺がある。西南戦争当時、福聚寺の官軍と三島神社の薩軍が対峙したことがあった。神社には何回も行ったことはあったが、戦跡探しに行くの初めて。しかし、台場跡らしいものはなかった。小山の頂上に神社があり、 周囲は斜面となっている。頂上周囲には台場が築かれただろうが後世に消滅したのだろう。写真左部分に(手前の白…

  • 「安政七申年 聞書 三 勝氏米國航海紀行」 ※少しずつ続けます。

    はじめに 上記の題名の写本を入手した。このブログで前にサンフランシスコの要塞に付いて解説資料を紹介したが、最近たまたまこの写本が売りに出されているのを発見し、購入したものである。同じ販売者には「聞書 五 彦根一件」という同様の体裁・字形のものもあることからして、題名の三は勝氏米國紀行全体を含むようである。 ネットで調べたら和田勤2023「万延元年遣米使節随行艦咸臨丸艦長勝海舟渡米記録の諸写本について」というのがあった。それによると、海舟が記録した渡米記録は「海軍歴史」に活字化されているが、彼自身が自身の記録を抜粋したものを含めその他20数点存在するという。中には公式報告として海舟が作成したもの…

  • 福聚寺の絵 2024.4.24

    昨日の段階がこれです。 そして今日がこれ。空は曇天とした。畑の野菜が増えた。崖にひび割れと影を入れた。その他若干ちょこちょこと。

  • 福聚寺の絵 2024.4.23

    少しだけ手を入れました。畑の地面色をなるべく統一。後で草や野菜を書き加えたら地面も見えにくくなるけど。 下は昨日の段階。 そして次が今日の状態です。凝灰岩の崖の縁にある植物に影を加えました。題字の修正もまだ未完成。久し振りに大分県立埋蔵文化財センターに鉄道展示と新規報告書を見に行った。綿貫俊一さんと話し、次に遇った横沢慈さんがいつも絵を見てくれているとのことだった。新人の古屋さんとあいさつ。(なんか日記みたいになりました。)

  • 福聚寺の絵2024.4.22

    先日の段階がこれ そして今日朝。題字の「之」(古筆風にしてみた。他の字もそのうち)・遠景左の白山の稜線(船底のような稜線は南が高いが、いつも大分市から見てるので逆になっていた)・水田など。

  • 明治11年の軍用水筒 Military canteen from 1878

    明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。 C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097 第二百八十八号 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也 (※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。…

  • 福聚寺の絵 つづき

    上が前回までの状態。これに左上の山並み輪郭線を加え、寺に鐘撞き堂を描き込んだり。まだ終わりは見えない。

  • 高熊山の岩

    Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。

  • 明治9年の軍用水筒

    明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…

  • 明治8年の軍用水筒

    これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…

  • 鬱金香(tチューリップ )

    鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。

  • 紫つつじ

    数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。

  • 黄色い花が咲いた

    花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。

  • 福聚寺戦闘復元図

    福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。

  • 注立冨(当て字)ちゅーりっぷ

    このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com

  • 軍用水筒 ※つづき

    最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…

  • 今日のチューリップ

    桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。

  • 大分市の春

    今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。

  • チューリップ

    チューリップの花が開いた。まだたくさんツボミが待ち構えている。

  • 大分市は桜が満開になった

    数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。

  • チューリップが二輪

    急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。

  • チューリップが開いた。2024.3.26

    気が付けば赤い花がひとつ開き始めた。この調子なら次々に開花しそうだ。 くるくる回してみてください。

  • 今日のチューリップ

    範囲を広げて撮影。 一番上のつぼみが色づいた。開花するのも まもなくだろう。

  • 大塚進也「白河戊辰戦争における野戦陣地についてー金勝寺山、笹久保山を例にしてー」を読んで

    「福島史学研究」第102号2024年3月25日に掲載の論文を頂いた。 福島県白河市の白河城は奥羽越列藩同盟軍が守っていたが1868年5月1日に新政府軍が奪取して以降、何度も同盟軍が奪い返そうと攻撃をかけたが新政府軍が7月まで守り抜いている。 大塚氏によると従来、兵数で劣る新政府軍が守り抜けた理由は新政府軍側が装備で優っていたと指摘されてきたが、白河城周囲の山地に新政府側が築いた野戦陣地の存在が勝利の要因だったという。これまでの説明では周辺の山上に新政府側が築造した野戦陣地の存在を重視していなかったが、現地を踏査して金勝寺山で2基と笹久保山で4基の台場跡(大塚氏は野戦陣地と称している)を確認して…

  • チューリップ2024.3.15

    つぼみが7個。 立体が重なると写らない部分が多くなる。単純な箱状ならきれいに写るのだろう。

  • 2024.3.11 今日のチューリップ

    単なる2Dの写真。数日前からつぼみが目立ち始めた。

  • 田原坂西南戦争資料館の水筒調査

    2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などに美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山のカルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが 道の駅阿蘇 ブログ 西南戦争の激戦地 二重峠台場跡(阿蘇市)に行ってきました! を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ…

  • 豊後口征討之内臼杵福聚寺戦記 ※復元図

    「豊後口征討之内」臼杵福聚寺戦記という木版錦絵。全ての錦絵を調べたわけじゃないから、こういう題名の錦絵があったかも知れないし、なかったかも知れない。もしあったなら、こんな絵柄じゃなかったか、という一案で描きます。 復元図の作成過程を掲げます。鉛筆描きなので薄くて見にくい。 次は俵を使った台場図の途中。柵列の築造途中に戦闘になったので、作業員は材料・道具をほったらかして消えてしまった図。少しずつ変化していく画面が楽しい、と思ってください。

  • 今日3月4日のチューリップ

    葉っぱが大きくなると幹の方がうまく撮影できないが、内部の底につぼみができている。 https://scaniverse.com/scan/clk6uiu5ekhcvrvg

  • 大分県臼杵市福聚寺の石垣に残る銃弾痕

    自分の生まれ育った家(臼杵市井村)の背後に臨済宗妙心寺派の福聚寺がある。西南戦争時の銃弾痕があると宗順住職(写真に写る人)から聞いていたのだが、今回再びその場所を教えていただき撮影した。北から南を向いて撮影し、遠景の山は臼杵で一番高い姫岳である。 最近本堂を建て直して東側に廊下を一間拡げたとのことで、写っている門は戦争当時はなかった。漆喰塀は新たに造ったもので、昔はなかったように思う。戦争当時もなかっただろう。 つづく

  • これが本当の健康な空だ(画像2枚を掲げたつもりだったけど、ツイッターも15画面附属してしまった。)

    ひとに指摘された改めて気づく。空がきれいだ。大分県臼杵市の朝。 Tweets by Yui_basssist twitter.com 親戚がライブやるので観てください。上の写真は彼が散歩中に撮ったもの。しかし世の中には汚い空でも美しいと思う人がいる。・・・それは汚れた空ですよ・・・。

  • 今日のチューリップ

    コメントありがとうございます。花屋では温室栽培したチューリップが咲いているが、自然状態では花はまだです。背丈はだいぶ伸びてきました。 scaniverse.com

  • 熊本市内でブリキ製水筒調査

    2023.2.20。初め田原坂西南戦争資料館で同館の作田さんの所蔵ブリキ製水筒を実測。西南戦争時とみられるのは3点あり、2点だけ実測できた。以前、資料館の北側にあった「弾痕の家」で展示していた遺物である。4代前の先祖が収集したとのことを先日電話で伺った。今日は勤務の関係で作田さんには会えず。小宮計則(かずのり)館長が西南戦争に詳しそうだった。写真は館長(右)と高橋(左)。水筒は3点で三種類に分類すべきものだった。 その後、約束の時間もあるので実測を切り上げ、熊本城調査研究センターへ。伝統工芸館の東側。南西側を見上げると壊れた石垣の上方に天守と小天守が。 増田直人さん(下の写真)がこちらが希望し…

  • 西南戦争前後の軍用水筒3

    ガラスで検索すると明治6年には次の一件があった。 C09111477200「明治6年 公文類纂 十二」防衛研究所蔵0186・0187 甲套第五百三十八号 別紙之通鹿児島縣大砲製造所ヨリ申越候ニ付相廻シ候間御回答被下度也 明治六年四月四日 造 兵 司 海 軍 省 御中 記 海軍省依頼之硝子器於當所差支無之ニ付直様製造方為取掛申候諸入費別紙積書之通相及候間若直段之義ニ付差止メニ相成候義モ有之候ハヽ至急御申越有之度此段同省へ御答置被下度候也 鹿児島(※この字はもっと右にあるが移動できない) 明治六年三月廿二日 大砲製造所 造 兵 司 御 中 この場合の硝子器は水筒ではないと思う。

  • 大塚進也さんのXを見て奈良文化財研究所の全国遺跡報告勌総覧で検索

    大塚進也さんのXを見ていたら宇都宮城跡の発掘調査報告書に戊辰戦争時の遺物があるかも、と書いてあったので上記の検索をしたら報告書全文を閲覧できたが遺物は何もなかった。検索の方法は「奈良文化財研究所」⇒どこかにある「全国遺跡報告総覧」⇒「宇都宮城」です。ただし総覧とあるがPDF化してないのも多く、それらは読めない。 PDF化されていない報告書でも国会図書館に行けば見られるだろうが、そこは遠くにあるので「全国遺跡報告総覧」は便利です。 時々「銃弾」・「戊辰戦争」・西南戦争」・「スナイドル」・・・などの単語で検索しています。下の画面では下から七番目です。

  • チューリップ3

    まだ冬なので目立った成長はないが、一つだけ葉っぱに包まれた中にツボミが現れています。 scaniverse.com

  • 西南戦争前後の軍用水筒2

    明治7年、台湾征討という明治政府としては初めての海外出兵があった。この時の水筒に付いて記す。 発端となったのは明治4年10月に年貢を輸送していた琉球御用船が台風の為に遭難し3人が溺死、69人が台湾南東部に漂着し救助を求めたが、原住民により54人が殺害されるという事件である。清国や欧米との協議など途中経過は略すが、明治7年4月政府は大隈重信参議を台湾蛮地事務局長、西郷従道陸軍中将を台湾蛮地事務都督に任命し出兵準備に入った。 4月7日、海軍の軍艦孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵が命じられ、5月6日には台湾南部に上陸し、間もなく戦闘を交えて占領…

  • チューリップ2

    成長しないので栄養を与えているところです。白い石は間違えて踏まないための用心のため。 scaniverse.com 撮影範囲を拡大してみました。なかなか成長しません。 scaniverse.com

  • 3Dの失敗例;川原内峠北部

    川原内峠の県道よりも北部地域。遺構分布図はまだ載せてないので、分かりにくいと思うが溝状の登山道と台場跡2基、角礫が意味ありげに分布する平場(画板のある周辺)がある。木の影が多すぎる。草木を掃除せずに撮ったうえに二階建てで写った所があり、より分かりにくくしている。曇天に撮影すべきだと分かった。 scaniverse.com

  • 鞆の浦の絵

    誰が描いたのか分からない絵葉書大(16.0㎝×10.9㎝)の水彩肉筆画です。3/1'76と記されている。1976年3月1日のことです。かつて吉田博の版画「鞆之港」を見て現地を見たくなり何かのついでに立ち寄ったことがあった。街並みや歴史民俗資料館なども見て歩き、絵の構想をしてみたけど出来なかった。その後、この絵を見つけて購入した。上手なのに感心しています。

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西南戦争之記録
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