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高橋信武
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2022/09/15

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  • 福聚寺の絵 2024.4.24

    昨日の段階がこれです。 そして今日がこれ。空は曇天とした。畑の野菜が増えた。崖にひび割れと影を入れた。その他若干ちょこちょこと。

  • 福聚寺の絵 2024.4.23

    少しだけ手を入れました。畑の地面色をなるべく統一。後で草や野菜を書き加えたら地面も見えにくくなるけど。 下は昨日の段階。 そして次が今日の状態です。凝灰岩の崖の縁にある植物に影を加えました。題字の修正もまだ未完成。久し振りに大分県立埋蔵文化財センターに鉄道展示と新規報告書を見に行った。綿貫俊一さんと話し、次に遇った横沢慈さんがいつも絵を見てくれているとのことだった。新人の古屋さんとあいさつ。(なんか日記みたいになりました。)

  • 福聚寺の絵2024.4.22

    先日の段階がこれ そして今日朝。題字の「之」(古筆風にしてみた。他の字もそのうち)・遠景左の白山の稜線(船底のような稜線は南が高いが、いつも大分市から見てるので逆になっていた)・水田など。

  • 明治11年の軍用水筒 Military canteen from 1878

    明治11年の軍用水筒 に関する記録を掲げる。 C04028260200「明治十一年自三月十九日至五月十日 大日記 自第二百七十二号至第五百三十六号 乾各鎭臺 第五局第八課」防衛研究所蔵0094~0097 第二百八十八号 安乙第二百四拾二号ヲ以武力面桶及水飲蓋之義ニ付御照會之趣致承知候右者御臺於而 修理応用相成度候修理費及ヒ但書ハ御異見之通ニ而可▢候此段及御回答候也 (※分かり易く言い換えてみる。「安乙第242号でブリキ製弁当箱と水筒の蓋について問い合わせがあったことは了解しました。これはそちらの鎮台で修理してください。修理費と但し書きはあなたの御異見の通りです。この件について御回答いたします。…

  • 福聚寺の絵 つづき

    上が前回までの状態。これに左上の山並み輪郭線を加え、寺に鐘撞き堂を描き込んだり。まだ終わりは見えない。

  • 高熊山の岩

    Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。

  • 明治9年の軍用水筒

    明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…

  • 明治8年の軍用水筒

    これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…

  • 鬱金香(tチューリップ )

    鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。

  • 紫つつじ

    数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。

  • 黄色い花が咲いた

    花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。

  • 福聚寺戦闘復元図

    福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。

  • 注立冨(当て字)ちゅーりっぷ

    このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com

  • 軍用水筒 ※つづき

    最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…

  • 今日のチューリップ

    桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。

  • 大分市の春

    今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。

  • チューリップ

    チューリップの花が開いた。まだたくさんツボミが待ち構えている。

  • 大分市は桜が満開になった

    数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。

  • チューリップが二輪

    急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。

  • チューリップが開いた。2024.3.26

    気が付けば赤い花がひとつ開き始めた。この調子なら次々に開花しそうだ。 くるくる回してみてください。

  • 今日のチューリップ

    範囲を広げて撮影。 一番上のつぼみが色づいた。開花するのも まもなくだろう。

  • 大塚進也「白河戊辰戦争における野戦陣地についてー金勝寺山、笹久保山を例にしてー」を読んで

    「福島史学研究」第102号2024年3月25日に掲載の論文を頂いた。 福島県白河市の白河城は奥羽越列藩同盟軍が守っていたが1868年5月1日に新政府軍が奪取して以降、何度も同盟軍が奪い返そうと攻撃をかけたが新政府軍が7月まで守り抜いている。 大塚氏によると従来、兵数で劣る新政府軍が守り抜けた理由は新政府軍側が装備で優っていたと指摘されてきたが、白河城周囲の山地に新政府側が築いた野戦陣地の存在が勝利の要因だったという。これまでの説明では周辺の山上に新政府側が築造した野戦陣地の存在を重視していなかったが、現地を踏査して金勝寺山で2基と笹久保山で4基の台場跡(大塚氏は野戦陣地と称している)を確認して…

  • チューリップ2024.3.15

    つぼみが7個。 立体が重なると写らない部分が多くなる。単純な箱状ならきれいに写るのだろう。

  • 2024.3.11 今日のチューリップ

    単なる2Dの写真。数日前からつぼみが目立ち始めた。

  • 田原坂西南戦争資料館の水筒調査

    2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などに美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山のカルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが 道の駅阿蘇 ブログ 西南戦争の激戦地 二重峠台場跡(阿蘇市)に行ってきました! を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ…

  • 豊後口征討之内臼杵福聚寺戦記 ※復元図

    「豊後口征討之内」臼杵福聚寺戦記という木版錦絵。全ての錦絵を調べたわけじゃないから、こういう題名の錦絵があったかも知れないし、なかったかも知れない。もしあったなら、こんな絵柄じゃなかったか、という一案で描きます。 復元図の作成過程を掲げます。鉛筆描きなので薄くて見にくい。 次は俵を使った台場図の途中。柵列の築造途中に戦闘になったので、作業員は材料・道具をほったらかして消えてしまった図。少しずつ変化していく画面が楽しい、と思ってください。

  • 今日3月4日のチューリップ

    葉っぱが大きくなると幹の方がうまく撮影できないが、内部の底につぼみができている。 https://scaniverse.com/scan/clk6uiu5ekhcvrvg

  • 大分県臼杵市福聚寺の石垣に残る銃弾痕

    自分の生まれ育った家(臼杵市井村)の背後に臨済宗妙心寺派の福聚寺がある。西南戦争時の銃弾痕があると宗順住職(写真に写る人)から聞いていたのだが、今回再びその場所を教えていただき撮影した。北から南を向いて撮影し、遠景の山は臼杵で一番高い姫岳である。 最近本堂を建て直して東側に廊下を一間拡げたとのことで、写っている門は戦争当時はなかった。漆喰塀は新たに造ったもので、昔はなかったように思う。戦争当時もなかっただろう。 つづく

  • これが本当の健康な空だ(画像2枚を掲げたつもりだったけど、ツイッターも15画面附属してしまった。)

    ひとに指摘された改めて気づく。空がきれいだ。大分県臼杵市の朝。 Tweets by Yui_basssist twitter.com 親戚がライブやるので観てください。上の写真は彼が散歩中に撮ったもの。しかし世の中には汚い空でも美しいと思う人がいる。・・・それは汚れた空ですよ・・・。

  • 今日のチューリップ

    コメントありがとうございます。花屋では温室栽培したチューリップが咲いているが、自然状態では花はまだです。背丈はだいぶ伸びてきました。 scaniverse.com

  • 熊本市内でブリキ製水筒調査

    2023.2.20。初め田原坂西南戦争資料館で同館の作田さんの所蔵ブリキ製水筒を実測。西南戦争時とみられるのは3点あり、2点だけ実測できた。以前、資料館の北側にあった「弾痕の家」で展示していた遺物である。4代前の先祖が収集したとのことを先日電話で伺った。今日は勤務の関係で作田さんには会えず。小宮計則(かずのり)館長が西南戦争に詳しそうだった。写真は館長(右)と高橋(左)。水筒は3点で三種類に分類すべきものだった。 その後、約束の時間もあるので実測を切り上げ、熊本城調査研究センターへ。伝統工芸館の東側。南西側を見上げると壊れた石垣の上方に天守と小天守が。 増田直人さん(下の写真)がこちらが希望し…

  • 西南戦争前後の軍用水筒3

    ガラスで検索すると明治6年には次の一件があった。 C09111477200「明治6年 公文類纂 十二」防衛研究所蔵0186・0187 甲套第五百三十八号 別紙之通鹿児島縣大砲製造所ヨリ申越候ニ付相廻シ候間御回答被下度也 明治六年四月四日 造 兵 司 海 軍 省 御中 記 海軍省依頼之硝子器於當所差支無之ニ付直様製造方為取掛申候諸入費別紙積書之通相及候間若直段之義ニ付差止メニ相成候義モ有之候ハヽ至急御申越有之度此段同省へ御答置被下度候也 鹿児島(※この字はもっと右にあるが移動できない) 明治六年三月廿二日 大砲製造所 造 兵 司 御 中 この場合の硝子器は水筒ではないと思う。

  • 大塚進也さんのXを見て奈良文化財研究所の全国遺跡報告勌総覧で検索

    大塚進也さんのXを見ていたら宇都宮城跡の発掘調査報告書に戊辰戦争時の遺物があるかも、と書いてあったので上記の検索をしたら報告書全文を閲覧できたが遺物は何もなかった。検索の方法は「奈良文化財研究所」⇒どこかにある「全国遺跡報告総覧」⇒「宇都宮城」です。ただし総覧とあるがPDF化してないのも多く、それらは読めない。 PDF化されていない報告書でも国会図書館に行けば見られるだろうが、そこは遠くにあるので「全国遺跡報告総覧」は便利です。 時々「銃弾」・「戊辰戦争」・西南戦争」・「スナイドル」・・・などの単語で検索しています。下の画面では下から七番目です。

  • チューリップ3

    まだ冬なので目立った成長はないが、一つだけ葉っぱに包まれた中にツボミが現れています。 scaniverse.com

  • 西南戦争前後の軍用水筒2

    明治7年、台湾征討という明治政府としては初めての海外出兵があった。この時の水筒に付いて記す。 発端となったのは明治4年10月に年貢を輸送していた琉球御用船が台風の為に遭難し3人が溺死、69人が台湾南東部に漂着し救助を求めたが、原住民により54人が殺害されるという事件である。清国や欧米との協議など途中経過は略すが、明治7年4月政府は大隈重信参議を台湾蛮地事務局長、西郷従道陸軍中将を台湾蛮地事務都督に任命し出兵準備に入った。 4月7日、海軍の軍艦孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵が命じられ、5月6日には台湾南部に上陸し、間もなく戦闘を交えて占領…

  • チューリップ2

    成長しないので栄養を与えているところです。白い石は間違えて踏まないための用心のため。 scaniverse.com 撮影範囲を拡大してみました。なかなか成長しません。 scaniverse.com

  • 3Dの失敗例;川原内峠北部

    川原内峠の県道よりも北部地域。遺構分布図はまだ載せてないので、分かりにくいと思うが溝状の登山道と台場跡2基、角礫が意味ありげに分布する平場(画板のある周辺)がある。木の影が多すぎる。草木を掃除せずに撮ったうえに二階建てで写った所があり、より分かりにくくしている。曇天に撮影すべきだと分かった。 scaniverse.com

  • 鞆の浦の絵

    誰が描いたのか分からない絵葉書大(16.0㎝×10.9㎝)の水彩肉筆画です。3/1'76と記されている。1976年3月1日のことです。かつて吉田博の版画「鞆之港」を見て現地を見たくなり何かのついでに立ち寄ったことがあった。街並みや歴史民俗資料館なども見て歩き、絵の構想をしてみたけど出来なかった。その後、この絵を見つけて購入した。上手なのに感心しています。

  • 大迫山で3D

    以前紹介した臼杵市大迫山の台場群の一部で3D撮影してきました。今日は二日目。これまでは4基の台場跡を確認していたが、二日前に4号の3D化に出かけて5号を確認した。位置は要再確認。以前は草に覆われていたので台場跡らしいと思いつつそのままになっていた。今回行ってみたら除草されていたので台場跡であることが明確になった。しかし、少しでも草があるときれいに映らないと分かったので、初日は根切りバサミ持参で4時間作業。途中、一団体10人位の人たち(福岡から)と単独の4人が通り過ぎた。うち一人はこの周辺の三角台を守る会の人。その高野美恵子さんと小話。昨日は小雨で、行かず、今日は快晴なので出かけた。二時間ほど除…

  • チュウリップ1 2枚目の小さい写真をクリックすると3Dが見られます。

    踏みつけないように白い石で囲ったチュウリップ。3D記録を開始。 scaniverse.com

  • 3D写真 大分市吉野越(よしのごえ)の台場跡2基

    以前、ブログで紹介した大分市吉野越の台場跡を3D化してみた。車を降りてだらだら坂を上り、10分以内に到着。 背の低い草や枯れたススキなどがあると、地面が写らないことが分かった。次は根切りバサミを持参する必要がある。立ち枯れた木も、どけた方がいい。画面の白い部分は日光。写っている最も高い所が2点とも台場跡の背後となっている。自然に地形の傾斜の通りに写るらしい。※下の地図に間違えて台場印を入れてしまった。3号の左下。 scaniverse.com 画面をくるくる回してみると半円形の台場跡がぼんやり分かってくる。立木が途中で折れて、戦場の跡みたいに見えるが立木の中くらいから上の部分を撮影しなかったし…

  • 熊本城跡飯田丸(いいだまる)で出土した時限(じげん)爆弾(ばくだん)陶器

    一本足でやっと崩壊ほうかいを免まぬがれていた飯田丸の復元櫓やぐら。それを建てる前の発掘調査でこれまで存在が知られていなかった陶器が破片としていくつも出土した(鶴島俊彦他 2014熊本城調査研究センター報告書第1集−「飯田丸の調査」熊本市熊本城調査研究センター熊本城跡発掘調査報告書1)。数年前、陶芸教室で習っていた際、これを復元してみた。 最下段は報告書にある復元図。外面四ヶ所に穴があり、胴部中位の内側に筒状の空間が回る。壺の内側とは一ヶ所の穴で通じている。外側の穴から火縄を入れ、筒を経て内部に詰めていたであろう火薬に点火する仕組みだったとみられる。点火時間を四段階に変えることができる。 出土し…

  • 3D写真第4弾:印鑑

    自刻印鑑「信武」。武の字は戈を両手に持って、歩く(足)形を示す。右手は蛇足で追加。 scaniverse.com

  • 3D写真第3弾:型紙刷り皿(かたがみ ずり さら)

    3D化が面白いので第3弾を投稿します。 型紙刷りの皿。直径約18㎝、高さ約3㎝。この1枚はやや歪んでいる。畳付(たたみつき)の内側にハリ支えが4個。計4枚ある。一つはバコウハンで補修。17世紀前半頃。おそらく型紙刷りとしては大型で希少(きしょう)。30年以上前に小浜市で購入。写真では傷があるように撮れたが、それは写真がそう見えるだけで、実物は無傷。 scaniverse.com scaniverse.com

  • 3D第二弾 珠洲焼の壺

    以前買った珠洲焼の壺。口部分に一ヶ所欠けがあるが他は欠けていない。3Dでは胴部下半に穴が開いているが、現物には穴はない。高さ約19㎝、胴部幅約18㎝。scaniverse.com 中世の珠洲焼によくある外面の横方向叩き痕が特徴的だ。おそらく13世紀頃、鎌倉時代のものだろう。

  • 大分市松原峠の台場跡の立体写真

    携帯の硝子にひびが入りまくっていたのでiphone15pro に買い替えた。それで今日、以前ブログで紹介した大分市と臼杵市との境界尾根にある松原峠の台場跡を撮ってきた。想定のようには撮れなかったが二番目の写真か下のリンク先(青字)をクリックしていただきたい。 3D scan by @goldenempire on Scaniverse 作成できた3D写真よりも広範囲に周囲を何度も回って撮ったつもりだったが、完成品は狭い範囲のものになっていた。3Dよりも写真の方が分かりやすい気がする。そのうち上達するだろう。

  • 新年おめでとうございます

    新年のごあいさつ代わりに大分県臼杵市の写真を投稿します(年賀状を出さなかったので)。臼杵川に架かる橋は大橋寺橋、右岸に大橋寺、向こう側に仏舎利塔の建つ諏訪山と大迫山。左奥は九六位くろくい山脈(自称)。

  • ラーメン

    昔、どことは言わない某所でラーメンを食べたことがある。カウンターの前にすだれがあり、その向こうに小さい隙間があり、調理室がわずかに見える。カウンターの席に着くと両側に仕切りがあり、左右の客と隔てられている。すぐ隣に左右の客がいるのだが。目の前の小さい隙間から一杯のラーメンが差し出される。そうしたら客はひたすら食べることに集中する仕組みになっていた。 その場で思ったのだが、一つずつ仕切られた狭いケージが並び、目の前に餌が配られたらひたすら食べることしかできない養鶏場の鶏になった気がした。 食べ終わって早々に店を出た。二度と行きたくないと思った。こんな状態で食べておいしいと思うのは鈍感なニワトリ脳…

  • 臼杵関連・高原士族田口敬之助

    薩軍兵士田口敬之助は西南戦争の際、大分県臼杵で6月10日に負傷し、翌日官軍熊本鎮台に降伏している。彼は薩軍の状況を自供し、薩軍内部の規律を記した書類一枚を所持していた。防衛研究所にその際の彼に関する資料が残っている。臼杵で降伏した薩軍側の供述等は他にないので、彼らの面影を伝えるものとして掲げておきたい。 原文で二段書きの部分はこのブログではその通りに表示できないので小文字の一段として示す。 C09084044200「戦闘報告原書 明治十年五月一一日~七月十七日 第二旅団」防衛省防衛研究所蔵1059~1068 二号 生捕人 鹿児島縣下日向國諸縣郡高原村 士族 什長南方押伍改称田口敬之助 一旧正月…

  • 重野安繹(しげの やすつぐ)の漢詩軸紹介

    重野安繹の漢詩掛軸2点を紹介したい。2点とも以前購入したもので、読めない字がいくつかあるので先日、大分県立先哲史料館の松尾大輝さんに解読をお願いした。その場でも読めない字は残ったが、読めないまま紹介する。松尾さんには以前もお世話になったが、今回もお礼申し上げたい。 重野安繹について松沢裕作2012「重野安繹と久米邦武」山川出版社から見ておきたい。太陽暦となった明治6年以前は陰暦で書いているらしいが。 重野安繹(1827.11.24-1910.12.6)薩摩藩士。字名は子徳、通称厚之丞、号は成斎。 1839 年藩校造士館入学、1848年―1854年昌平坂学問所。1854年島津斉彬に抜擢され造士館…

  • 中原幹彦2023.12西南戦争「熊本鎮台首脳部」古写真の再検討ー一枚の古写真がつなぐ物語ー の抜刷りをいただきました。

    「歴史玉名」第105号の抜刷りです。 この写真は熊本城内、宇土櫓南側にある広場で撮影されたもので、10人が写っている。そのうち一人は従来誰であるのか不明だったとされていたが、中原さんは陸軍服制図・帽子・正衣・正袴・飾帯・飾緒・臂章(ひしょう)・正剣・軍刀・勲章のほか、異動状況などから考察を加え、不明人物が堀内利國一等軍医正だと推定している。 また、撮影時期は明治11年5月から11月の間であった可能性があるとする。その中でも可能性が高いのは4月頃の籠城開放一周年行事、9月頃の西南戦争終結一周年行事、11月3日の天長節が考えられるなかで、天長節の可能性が最も高いと結論している。 高橋は不明人物はそ…

  • 廣瀬雄一著「対馬海峡をめぐる先史考古学」同成社 2023年11月30日発行

    表題の本をいただきました。 著者の廣瀬雄一さんは慶応大学大学院を卒業。韓国の釜山女子大学客員教授の頃、九州縄文研究会でお会いして以来の交際ですが、近年の高橋は西南戦争戦跡の方に興味が向いたので縄文研究会から足が遠ざかっており最近はお会いすることもなくなった。彼はまもなく佐賀県教育委員会(名護屋城博物館に長く勤務)に勤めていたが定年前に退職し、釜山大学に転職した。その間、ずっと日本の縄文時代と韓国の新石器時代の研究を続け、時々論文の抜き刷りをいただいていた。 日韓の先史時代、特に縄文時代頃に通じた研究者は少なからず存在するが、我が国の考古学だけでなく常時韓国にいてあちらの考古学情報にも精しい人は…

  • 川ナシ峠の記事追加

    先に臼杵市甲﨑山の戦跡②で1977年6月9日に官軍が臼杵攻撃の前に野営した川ナシ峠の所在地について検討し、下図の位置、2基の台場跡がある所付近に想定したが、当時の大分県民はその所在地について知らなかった、という史料が2件あったので掲げる。 その記録は2点とも「明治十年騒擾一件」に記載がある。同書は1972年頃、大分県武徳殿が壊されるとき処分される廃品の山の前を県警吏員であった藤丸正見氏が通りかかり、西南戦争その他に関する古文書が捨てられそうになっているのに気づき回収し、後日出版されたものである。本書の内容を同書凡例から引用する。 (本書は)明治十年西南戦争の勃発から城山陥落の終局後まで、当時の…

  • 海軍の臼杵・津久見攻撃報告

    6月8日から10日前後の海軍による臼杵・津久見攻撃についての報告があるので掲げる。下記では振り仮名部分をその通りに表示できないので( )内に入れている。 CO9080860100「密事探偵報告口供書類」防衛研究所蔵0328~0331 臼杵及津久見攻擊実况御届 本月八日臼杵ノ賊攻撃ノ実况大畧御届仕置候後同日ハ陸兵モ近傍ニ攻メ寄セ昼夜對戦之處同九日早暁陸兵諸道ヨリ盛ニ進擊砲聲ハ遠近ニ響キ素ヨリ當艦ニ者兼テ陸地賊営ノ方向ヲ見計ラセ戦備致シ居候ニ付不絶攻擊折柄日進艦於テハ津久見佐伯等警邏ノ末入湾直ニ陸地間近ク進ミ一層進擊湾内両艦之回轉自由ナラス跡ヨリ回轉日進左ニ砲坐シ當艦右ニ出テ共ニ激發此ノ時陸兵ハ縦…

  • 大分市高崎山の城跡付近で新発見遺構群が報告されました

    2023.11.19、県立図書館に行ったら、埋蔵文化財センター勤務の吉田寛さんに遭遇。9:20から山城の研究会があるというので、午前中参加してみた。 一番興味深かったのは大分市高崎山の城跡付近でこれまで誰も知らなかった中世の山城遺構群の発表(中津市教育委員会の浦井直幸さん)だった。彼が三年か四年前に発見したという。発表の題は「高崎城と加判衆の城郭~豊後・豊前南部を中心に~」。写真は浦井さん。会場が暗かったので鮮明に撮影できなかった。 資料集から図を転載する。 浦井さんは山城と呼ばずに田ノ浦城塞と呼んでいる。今まで誰も気づかなかったとは。県南部も踏査しているというから、そこでも新たな発見があるか…

  • 川原内峠の戦跡➂

    2023.11.12。少し寒くなったので略図作成に出かけた。現地の作業は9時から13時まで行ったが、その間、すぐそばの県道を通過した車は1台だった。ずっと曇天で、帰途で太陽が出る天気になった。 今日は県道の東側、上部にある山みちの台場跡2基と尾根筋を図化した。その前に初めに山みちを利用した台場跡を新たに県道寄りで1基確認。これは今日は図化できなかった。前回見ていなかった尾根の上も少し登ったが、そこには台場跡はなかった。略図はこの調子ではあと何回か出かける必要がある。 峠道の標高は約410m。姫岳は619m。 緑線は尾根上面よりも低い位置を通る山みち。県道で切断されている。 峠の東側。略図化の基…

  • 6月11日前後の姫岳から警固屋村までの官軍哨兵線

    1877年6月10日、臼杵から薩軍が津久見・佐伯方面に敗走した後、官軍は薩軍の再来に備えて哨兵線を布いて備えた。その範囲は津久見市警固屋村前面の山脈から場所不明の建岩、姫岳までである。どの部隊が担当したのか、期日は、などについて分かる範囲で記しておきたい。 先ず前回も引用したが、野津道貫大佐が哨兵線部署を山縣参軍に報告した史料がある。 C09085041300「明治十年三月 探偵書綴 出征別働第一旅團ノ二」防衛省防衛研究所蔵 昨日臼杵ニ屯集スル処ノ賊ヲ掃攘セントスルニ右翼ヨリ大迂回ヲ行ンカ為メ其前夜ヨリ林少佐及ヒ諏訪少佐ノ二大隊ハ深田村ヨリ出発シ「川ナシ峠」ヘ配兵シ露営ス亦海軍ノ艦長伊藤大佐ニ…

  • 川原内(かわらうち)峠の戦跡②

    昨日の報告だけ。まだ図化は半分くらいしか終えていない。 昨日(10月29日)、台場跡の略図作成に行き県道の西側(姫岳側)を不完全ながら図化した。3枚に分けて作図したのを帰って複写し接合したら県道まで含んでいない状態なので分かりにくいと気付いたので、再度出かけるつもりだ。昨日は、県道の反対側を図化しようと調べてみたら、先日見つけておいた残り具合のいい台場跡1基(下の写真。巻き尺を土塁の外裾と土塁上面の外側に置いて撮影。改めて杉山だったと思う)の他に小さな谷の向こう側にももう1基見つけた。二つ並んで下る細尾根に一つずつ台場を築いたのだ。 この二つは山の斜面の途中にあり、背後から襲われたらどうしよう…

  • 川原内峠の戦跡(姫岳の南東側、臼杵市と津久見市の境界) ※追加します。

    1877年6月10日、臼杵の戦いが終わった後、薩軍は津久見を通り抜けて佐伯に移動した。彼らの再来を警戒した官軍は津久見市警固屋南方の山から始まり場所不明の建岩から姫岳までに哨兵を配布している。その時の推定哨兵線は下図に赤破線で示す。前回の投稿でその際、官軍が築いたと考えられる台場跡2基を姫岳で紹介した。今回は姫岳の南東側にあって、臼杵と津久見の境界をなす峠付近の戦跡を探してみた。峠には県道が通過している。 峠の臼杵側にある川原内には数軒の民家があり、偶々路傍の家で石垣作りをしていた男の人二人に峠の名前を訊いたところ、名前はない、昔は隧道があったが今は切通の道になったとのことだった。川原内峠とい…

  • 姫岳の遺構 ※未完。追記中です。

    大分県臼杵市と津久見市に跨る姫岳に残る中世と西南戦争時の遺構に付いて略図を作成したので紹介したい。姫岳は標高619mで周囲から頭一つ飛び出た峰として遠くからでも見分けが容易で、臼杵市内では一番高い山である。 北西側の掻懐から見た姫岳 前回、臼杵市甲﨑山の戦跡②で掲げた姫岳の遺構図作成では、既存の縄張り図に西南戦争時の遺構を書き加えればいいかと考えていたのだが、縄張り図が存在しなかった。前回の踏査では中世の遺構確認を後回しにしたため、今回新たに曲輪を2基確認し、それらも加え図化した(2・3)。 大分県森林基本図5000分の1図の等高線と今回(昨日)作成した遺構配置図とを合成したのだが、森林基本図…

  • 「鞠智城跡内に残存する西南戦争時の塹壕跡 」岡本 真也氏執筆の紹介

    熊本県山鹿市の古代(7世紀)城跡「鞠智城 きくちじょう跡」に存在する西南戦争時に薩軍・官軍が築造した台場群が紹介されています。奈良文化財研究所の「全国遺跡発掘総覧」で検索するとたどり着けます。 (熊本県立装飾古墳館研究紀要 第15集 20222.3.31) 明治10年3月に第三旅団と薩軍が交戦した際の遺構です。これまでほとんど存在が知られていなかったのを、同館勤務の岡本真也さんが探し回って図化し、報告しています。 岡本さんは熊本県内を中心に多数の台場跡を確認しており、今後の発表が楽しみです。

  • 臼杵市甲﨑山の戦跡② ※長くなると読みづらいので②とした。

    6月10日、官軍右翼が大迂回を行い薩軍の背後を攻撃し、これが契機となり臼杵の戦いは官軍の勝利で終わった。その際、迂回した官軍は川ナシ峠へ配兵、露営したとのことだが地名から川ナシ峠がどこにあるのか分からなかったので、今日、下図の南下する矢印の尾根を歩いて調べた。距離にして1.6㎞。楽な方法をあれこれ考えた結果、尾根沿いに走る舗装道路の所々に駐車し、少しずつ尾根に台場跡がないか調べてみた。8時に出発し、16時半に帰宅した。なお、鎮南山と姫岳を結ぶ尾根筋の西半分も今日の後半に歩いた。 上図の赤破線が歩いた尾根。立石山の少し南側から撮ったのが下。 つづく

  • 臼杵市甲﨑山の戦跡

    「西南戦地取調書 豊後」の臼杵市部分も現地を確認していない戦跡がいくつもある。今日は旧野田村(臼杵市福良と野田の境界?)の山を一つ歩いてみた結果台場跡を1基発見した。写真は目的地の少し手前で大迫山・臼杵川下流を撮ったもの。青空がきれいだった。 まず、同書掲載の絵図を掲げる。以前にこのブログで紹介したことがあるが、再び取り上げる。文章の後に絵地図があり、地名がいくつも書き込まれている。文章に登場する地名を青色で示す。 北海部郡野田村 舊四月廿日ヨリ同月廿九日マテ(※「六月一日ヨリ七月九日マテ」の付箋)薩軍隊長姓名不詳四百余十人ヲ率テ臼杵町ニ滞在 但大野郡地方ヨリ襲来リ南海部郡地方ニ去ル 舊四月廿…

  • 西南戦争前後の軍用水筒 ※明治初期・中期・後期に分けて少しずつ加筆修正します。☆を付けてくれたふひとべのべさん感謝

    西南戦争の頃の水筒に興味があって時々調べてきた。整理整頓された話にはならないが、所有する水筒紹介を兼ねて関連事項を書き連ねてみたい。 まず所有する硝子製水筒2個の写真。二つ以上あったと思うが見つからないので、発見したら追加したい。 右をイ、左をロと呼ぶことにする。どちらもガラス瓶を革で両側から包んで縫い付けている。表面尾黒色は漆塗であると理解されている。下部にコップ状の容器がはまっており、固着して外れない。イにはひもと栓が付いているが、ひもは本来の物ではなく、栓の木質部は桐材のようであり、補修して本来の材と交換したのだろう。 現在、ネット情報を閲覧するとこのような水筒は西南戦争から日清戦争の途…

  • 臼杵市望月の尾根を歩く

    絵図に台場が記録されていると何か勘違いをして臼杵市望月の山を歩いてみました(赤い矢印)。臼杵石仏の火祭りの際に北側斜面に京都の如く「王」(大ではない)の字を焼く山の尾根続きです。 杉山になっていて、地表に草がなく歩きやすい往復1時間の運動でした。北部には直径20㎝前後の竹も混じり、特に北斜面は枯れた竹が折り重なって歩きにくい状態でした。 終始、下を通行する車の音が聞こえる状態で、帰りに方向を間違えないだろうか、という恐れは全く抱かない楽な歩きでした。所々に石英の円礫が転がり、中には赤いチャートもみられた。 写真は直径3m位の石英円礫(台場跡を確認した場合に備えて画板に方眼紙を持参) 上の拡大 …

  • 臼杵市井村山の写真を撮ってきました

    臼杵市井村山で以前見つけた台場跡の遠景写真を撮る序に、その北東側の大字井村字桑尾に初めて行ってみました。 桑尾でも例の絵図に一ヶ所薩軍台場があると●が落とされており、それを確認するのも目的でした。途中、まだ大分市の所で、前方の佐賀の関(さがのせき)連山が濃淡で奇麗だったので撮影。帰宅後パノラマにしようとしたら容量が大き過ぎると拒否されたので、単に繋いでみた(次の写真)。佐賀の関連山という名は勝手につけた名称で、他に九六位(くろくい)山脈と呼んだりしています。 次の写真は桑尾に行く途中、南西方向の井村山北部を撮ったもの。手前の道は臼坂BP。6号台場跡と名付けた長大な塹壕の手前まで伐採された状態で…

  • チャット(Bing)で遊んでみました。

    最近、PCに新しい機能が出現しているので、外国語の単語やらを質問して遊んでいます。今回は「明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのか」という質問をしてみたところ、その答えは以下の通りでした。 こんにちは、これはBingです。😊 明治7年の台湾征討の時、日本軍はどのような水筒を使ったのかという質問にお答えします。 台湾征討は、明治維新後の日本としては初めての海外派兵であり、約3,600人の兵士が参加しました1。台湾は亜熱帯地域であり、水分補給は重要な課題でした。しかし、当時の日本軍には水筒という装備品はまだありませんでした2。そこで、日本軍は台湾出兵に際して、西洋式の水筒を参考に…

  • 宮崎県の西南戦争調査報告書(概要報告であり、本報告はこれからの予定)

    2020年度から三年間、宮崎県埋蔵文化財センターが西南戦争遺跡の調査を行った分の成果の一部が報告書として公開されています。 確認した台場跡の数は521基、他に墓地や慰霊碑なども調査対象にしています。大分県内では900基前後発見していますが、調査は続いており、確認数で追い越されるのは時間の問題でしょう。実測した台場跡の図はまだ一部しか掲載していないので本格的な報告はこれからのようです。 今年度の報告では8月上旬に両軍が対峙した日向市耳川流域の鳥川台場群が報告されています。 鳥川台場群の周辺では上図には図示されていないが実は多数の両軍の台場跡が確認されている。 上は薩軍の台場跡です。台場跡相互の間…

  • Xを始めました。

    ツイッターを時々拝見していた人達が今何をしているのか、どういう情報発信しているのか知りたくなってX(見るだけ)に参加しました。 そしたら佐倉桜香さんが新たに「しさつ」について投稿しているのが分かったり、その他色々の事が分かり再開してよかった、と思っているところです。

  • 「絵入りロンドン新聞」354 THE ILLUSTRATED LONDON NEWS ARRIL 14、1877の紹介

    日本で「絵入りロンドン新聞」と呼ばれるこの情報誌は1842年に創刊し、1971年までは週刊紙だった。その後は月間や隔月に刊行されていたが2003年に休刊したという。題名の如くロンドンで発行されていた。 西南戦争の記事と絵がある資料の存在は皆さん御存知だろうが、あえて紹介したい。この号は1877年4月14日刊行である。冒頭の354の意味は不明。通巻番号かも知れないが。裏と表に印刷され、文字面を表とすると裏面には上下に版画が置かれ、どちらも西南戦争関連の絵柄である。 西南戦争に関する記事が表面冒頭にあり全体の1/5以上の面積を占めているが、他にもLEGAL EDUCATION. (法学教育)・TH…

  • 「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」7月から ※少しずつ追加・加筆していきます。

    しばらく遠ざかっていたが、前回の続きとして7月からの小川日記「陣中日誌稿(明治十年戰争日記)」を跡付けていく。 七月一日晴天夜第四中隊ノ左小隊長田村エ出張ス ※長田村は場所不明 七月二日晴天賊下赤及矢立峠ニ出没ス ※下赤は佐伯市宇目の水ケ谷の南側にある宮崎県の集落で、8月中旬には熊本鎮台の川上操六が宿泊していた。矢立峠は宮崎県の桑原山を南東側に下った尾根にある峠。大分県側にある梓山他に官軍が陣取っており、北川の谷を挟んで矢立峠の薩軍が対峙していた。 七月三日晴天午前第三時頃第二中隊持塲梓峠ニ賊兵五百計リ暁霧ニ乗シ襲來ス依テ我兵奮擊之ヲ防クト雖ノモ衆寡敵セス終ニ守リヲ失フ是ヨリ先キ急戰ノ報ヲ得若…

  • PCのメール機能復活

    outlook で送受信できなかったメールが今日から復活した。ワンドライブとか何とかに保存されていたけど、容量が一杯とかで新たに受け入れなかったとか何とか。デスクトップのアプリワード・エクセルなどに×印が付いていたのもなくなり、元通りになった感じがする。 2023.8.16

  • 「yamantamantarouの日記」を読む

    上記のブログに明治42年、熊本県人吉と鹿児島県吉松を結んでいた馬車の乗車券が紹介されている。大分県佐伯市宇目の赤松峠を大正2年に徳富蘆花が家族と共に馬車越えしているが、このような切符を購入したのだろうと想像できる。鉄道がまだない地域の、まだない時代の珍しい資料で面白い。

  • 台風前の九六位山遠景

    SDカードを買いに行ったついでにサッカードームから東側の遠景写真を撮った。パノラマにしたかったが、PCから重なる部分が少ないと文句を言われ断念した。中央が再進峠、右の窪んだ付近が九六位峠(白木越)。台風が来る前の青空と山の緑が鮮やかだ。

  • 飯田山へ

    今日、熊本平野の南東側にある益城町飯田山に岡本真也さんと登った。彼の誘いに喜んで応じた。熊本平野の南東部に目立つ山だがまだ登ったことがなかった。西南戦争戦跡の踏査を重ねている人なので、もちろん台場跡探しである。 車で9合目よりも上まで行き、そこから歩き。帰宅してから写真を再生しようとしたら無かった。容量が超過したらしい。昨日の分はあったのだが。 下図の破線が歩いた経路で、頂上は伐採済で丈の低い草に覆われているが、赤線範囲を観察したが台場跡はなかった。 常楽寺 常楽寺は初めて知ったが益城町のHPを貼り付けてその説明に替える。 飯田山の八合目に位置する天台宗寺院。平安時代末期(1140~1150年…

  • 一太郎からワードへ

    以前、勤めていた時職場の文書は一太郎で作成した。 しかし、初期は起案文をタイプライターで清書してもらっていたので、職場にタイプを叩く音が鳴り響いていた。発掘調査報告書原稿は緑色の線が引かれた罫紙を使ったように思う。その後、卓上テレビのような大きさのワープロ(当時100万円以上した)を使う人が現れ(悪字の人が使っていた)文書束の背中に印刷した字を貼っているのを見た。やがてノートパソコンのような厚いワープロが流行り、そのころはフロッピーデイスというのに記録させていた。さらにワープロ機能を有するパソコンが現れた。職場では一太郎が推奨されていたが中にはワードの人もいた。 このような変遷だったと思うが、…

  • 昨日借りた本

    文庫本を四つ借りてきた。 〇宮崎市定「史記を語る」:史記について特別に知識はないが、著者は司馬遷を神格視せず、語るのが面白い。 〇井田進也校注「幕末維新パリ見聞記」:まだ読んでない。 〇早稲田大学編「大隈重信自叙伝」:まだ。 〇森銑三著「新編明治人物夜話」:明治天皇の軍服・海舟邸の玄関・狩野亮吉先生・陸羯南遺聞などが面白い。 文庫本は字が小さいので普通の本がいいなと思う。

  • 市来四郎文書の薩英戦争の火箭 ※少しずつ加筆します。絵を描くように。

    先日、大分県立図書館で新刊の棚に「鹿児島県史料市来四郎 三」があったので、パラパラっとめくったら薩英戦争時の火箭が出ていた。この本は市来四郎編「旧邦秘録」文久3年巻五~巻一六を活字化したものである。 薩英戦争で英国海軍が火箭を使ったことは知っていたが、この史料では着弾した火箭の寸法を記しており、このような記録があることは知らなかった。当時の英国火箭だから長い棒付きのコングリーブ火箭であることは分かるが、参考までに英国の火箭(ロケット)について詳述したC・Eフランクリン著2005「英国火箭」の内容と比べてみたい。 薩英戦争 概要については鹿児島県のHPから薩英戦争の項目を貼り付けることにする。 …

  • 中井弘の漢詩掛軸

    中井弘(ひろむ)は鹿児島出身のひとで、幕末・明治に活躍している。彼の漢詩掛軸を紹介したい。フランスで詠んだ詩であり、当時の日本人が西洋に行ってどのような漢詩を作ったのか興味がわいたので購入した。掛軸の高さは220㎝、軸先を含まぬ横幅は67㎝と縦に長いので横向きに掲げる。次に分割して示す。 彼はいくつも名前をもっていたが中井桜洲というのも知られている。屋敷茂雄2010「中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀」幻冬舎ルネサンスに中井の欧州紀行「漫遊記程」上・中・下巻があると知り、国会図書館デジタル史料を覗いてみた。 すると幸いなことにこの漢詩と同じものが載っていたので、解読するまでもなかった。 …

  • 「西南戦地取調書 豐後」の内、佐伯市旧宇目町 ※追加・修正します。つづく

    6月24日の説明まで来た段階で、上記を紹介しておきたいと考えた。この史料は前にも述べたが明治16年に参謀本部吏員が関係各県を巡り、市町村に戦跡の報告を求め、各県が県毎にまとめて提出したものが世の中に流失したものの内、大分県関係の史料である。 大野郡 重岡村 大平村 新四月十二日薩軍隊長大山丈一郎賊兵凢三百余人ヲ率テ来リ四手ニ別レ一ハ本道鹿乗通一ハ伏部野管ノ諸峯及田野河内ノ各所ヨリ乱入其后相続テ進入ス其数知レス 但鹿児島縣日向國臼杵郡熊田地方ヨリ進入本郡千束村通北海部郡臼杵地方及直入郡竹田地方ニ乱入スト云ヘリ 同日進入ノ賊軍當村禅宗長昌寺巡査出張所ニ乱入小銃ヲ連発スル甚シク屯集ノ巡査僅ニ廿七八名…

  • 「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」 臼杵の戦い以降、6月11日から※加筆します。

    少し前に小川又次の表題の日記全文を掲げたが、時間がたったので何をしていたのか忘れてしまいそうだった。本文の紹介は繰り返しになるのを承知で臼杵の戦い以降について逐一見ていきたい。臼杵を占領した薩軍だったが、6月10日までに官軍により追い出されてしまう。その後の動向について述べたい。 六月十一日雨天本日長野村☐☐ニ滞陣賊跡ヲ探シ旦諸兵ノ整頓アリ 六月十二日晴天午前六時長野村出発鐘山ヲ跋渉リ同十時頃床下村ノ内荒打村エ着長野村ヨリ凡ソ二里仝處ニ警備ス 六月十三日晴天荒打村ニ滞陣夜第四中隊ノ于小隊及第一中隊佐泊エ出張スルニ賊逃走シテ一名モナシ 六月十四日晴天此日荒打村滞陣ス第四中隊右小隊及第一中隊佐泊ヨ…

  • 「西南戦地取調書 豐後」の内、臼杵市

    1877年の西南戦争時、6月に大分県臼杵市で戦いがあった。このブログで大分市・臼 杵市の戦跡と戦記について書いてきたが、表記の史料にある臼杵関係の部分を掲げるべきだと考え、紹介したい。臼杵関係のブログに入れてもよいが煩雑になるので独立させることにした。なお、本書の一部、竹田市部分と臼杵市諏訪村はすでにブログで紹介済みであり、本書の概要についてはそちらをご覧いただきたい。 また、史料中に小文字でフリガナのように記している部分はこのブログではその通り表示できないので、( )に入れて示すことにする。初めはワードのまま貼り付けるのでぐじゃぐじゃのままのところがあり、後で修正する。文章の後にそれぞれ絵地…

  • 臼杵攻撃関係の戦記 ※大分市・臼杵市境界付近の戦跡を調べたので、次は記録類を調べてみます。

    大分市・臼杵市境界付近の戦跡を調べたので、次は記録類を調べてみたい。この地域にかかわったのは主に熊本鎮台だったので、「熊本鎭臺戰鬪日記」6月8日部分に掲げられた臼杵進撃目的の概略を示す。長くなるが詳しく知りたい人のために。 六月八日 本營 馬見原 出張參謀部 竹田 牧口 臼杵進擊目的ノ概略 左翼 白木再進峠ノ諸兵ハ黎明ニ末廣村ノズツボウ及ヒ井村ノズツボウ山ボハニ達ス ル如ク時間ヲ期シ各哨處ヲ發程ス尤モ白山越ノ兵ハ此ノ途中或ハ龍王山ニ達ス ルノキト雖ノモ始終左翼的兵ノ動静ヲ注意スヘシ各ズツボウ山ニ達スルヤ中央ノ 模樣ニ應シ之ト齊ク進テ無田橋ヲ攻擊スル動作ヲナスヲ要ス※ノキはブログでは表示できずト…

  • 九六位山の西・南を少し歩いてみました。

    今日も青空に誘われ、近場の山に出かけてみました。 図の左半分が歩いた所です。駐車したところで道端でアマ無線をしている人を横に見て道の脇の尾根に入り、頂上で鹿の角を拾い、帰りがけに無線の人に上げました。宇目町の山中で鹿の骨や全身骨格のばらけたのなどいっぱい見たことが思い出されます。ついでに夜明け城跡にも行って、遠景写真を撮ってみた。黄砂が去らず、ややかすんでいる。 今日は台場跡なし。10秒待ちの写真を撮ったので掲げます。いわゆるセルフ。

  • 大分市と臼杵市の境にある官軍台場跡

    西南戦争の最中、竹田市の東にある三重町から臼杵市内に薩軍が侵入し、一週間ほど後に官軍が臼杵を奪い返しに行くという事態があった。この時の戦跡を調べることを以前から繰り返してきたが、最近やっと大方の分布調査が終わったので少しずつ加筆して紹介したい。 初めに記録類を掲げ、後でそれを日毎に分断して記述しようと思う。

  • 白山東側尾根を踏査

    大分市と臼杵市の境界にある吉野越・松原峠・白木越・再進峠・白山越の記録を読んでいて、白山越東側がまだ未踏査であることが気になっていた。今日は青空なので行ってみることにした。 詳しくは後日説明するが、第六聯隊の北川大尉の部隊は1877年6月8日、「当日臼杵ノ賊攻擊ニ付午前第二時市尾村ヲ発シ白山峠ニ登リ直ニ斥候若干員ヲ以テ賊情ヲ探リ續テ田口村ニ至リ諸口官軍ノ左翼山林ニ拠リ以テ迂回セシ賊ヲ遮蔽ス」という記録を残しており、大分市市尾から白山峠に登ったことが分かる。 今日、市尾の三叉路で左に進み、御所峠から白山方向に進んだ。写真は市尾から白山を撮影。最近、黄砂がひどい。 市境の尾根を縫って車道が通るので…

  • 豊薩戦争の頃の山城跡か?

    最近、西南戦争に関して小川又次日記に関連し大分市戸次から吉野に至る「吉野越」、あるいは「吉野峠」を踏査している。熊本鎮台が1877年6月に臼杵攻撃のために通過し、たった一日だけ露営しているので、台場跡があるかもしれないと考えたからである。ずっと前も何回か探してみたが台場跡は見つからなかった。 明日の天気予報が雨らしいので、今日も出かけた。午前中は25度、晴れ。薬草のサド(アクセントの位置は佐渡と同じ。いたどり)が沢山あった。子供の頃、食べたことがあるので、何本かちぎって皮を剥いて食べた。一週間早ければ最盛期だっただろう。下の地図で戸次の南西側に大分市吉野があり、それへの路線のどこかを戸次から官…

  • 竹田市鏡東部の戦跡

    「戦地取調書」に官薩両軍の陣地があると記録のある竹田市鏡の東部に行ってみた。数年前に自動車専用道が新設され、問題の地域を切り開いて横断しており、もっと早く気付くべきだった。台場跡の可能性があるものを見つけたので作成した図面を原図のまま掲げる。 原図が見づらい。破線が通過場所。尾根を断ち割る新道の上をコンクリート橋がつないでいる。それを車で渡って、突き当りに駐車し、そこからU字形に急傾斜の路面を登るとそこにあるコンクリート吹付面を登って原地形の尾根にたどり着く。下はグーグルマップ3D。 なだらかな尾根の水平部分を過ぎて登りきると平面三角の頂上が現れる。頂上は8m×5.5mの平地で、南東側に削り出…

  • 竹田市川向の戦跡

    先日竹田市西光寺の北東側背後の凝灰岩丘陵地帯を歩いてみたが、今回はその続きです。時々引用する「戦地取調書」に薩軍の陣地があったと記録があるので確認に行ったわけです。 ちょっと見にくい地図だが画面右半分、川の北側に青い破線で示したのが歩いた軌跡。竹田市役所一帯は原地形が削られ、平地が造成されている。平坦地の南西部から山に登り、尾根筋を台場跡を求めて歩いてみた。そして台場跡2基を確認した。山に入った場所から台場跡を確認したところまでは西南戦争当時の地形が残っているのは、人工的な平坦面や削った場所がないので明らかだった。清書する前の図面を掲げる。 二つの遺構を貫くように巻き尺を張り、直角に1m毎に上…

    地域タグ:竹田市

  • 高鼻公園の台場跡

    先日の小富士山踏査のところで触れた高鼻公園の台場跡略図を作成したので後日清書して投稿します。南側から遠景写真を撮ったのでこれを掲げます。 左奥の崖の上に戦跡があります。 高鼻公園の突端から北西方向を写したもの。遠景中央の屋島のような山が法師山です。法師山以外は阿蘇山から9万年前に流れてきたものが埋めています。高鼻公園もそうです。

    地域タグ:竹田市

  • 三笠宮崇人親王の帯広視察写真

    帯広で撮られた集合写真に三笠宮が写っているのを実家で見たことがある。高松宮の伝記は出版されているが三笠宮の伝記がなく、どういう状態で撮影されたものなのか分からないままだったが、「三笠宮崇人親王」が出版されたことを知った。大分県立図書館にはなかったので宮崎県立図書館から借りだしてもらった。 寸法を測り忘れたが横30㎝位の写真である。 三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会2022.12.2「三笠宮崇仁親王」吉川弘文館 全1323頁から1944年(昭和19年)8月末から9月の関係部分を掲げる。※引用はpp.391~392 ※は高橋が記入。 八月三一日 午前九時四〇分所沢飛行場御発、午後零時半札幌御着。三井倶…

    地域タグ:帯広市

  • 臼杵市 三角台を守る会のTシャツ

    今日、西南戦争時の官軍台場跡をいくつも確認済の臼杵市諏訪の山間部で活動している「三角台を守る会」の村上中造さんからTシャツをいただいた。 臼杵湾北側に臼杵市総合運動公園があり、その背後の低い山に歩道を造り、看板・遊具を設置し、身近な山歩きができるように活動している人たちが「三角台を守る会」である。

  • 勝海舟が見た米国サンフランシスコの要塞

    コロナの前年、サンフランシスコに行った。咸臨丸でサンフランシスコに着いた勝海舟が港の入口にある要塞を見学したことがあると書いていたのを思い出し、現地で「地球の歩き方」を開いてそれがどこにあるのか検討し、Fort Point(要所要塞)とアルカトラズ島に行くことにした。 勝の文章が何に書いていたのか思い出せなかったが、今日、たまたまそれが「勝海舟全集」だったことが分かったので、この二ヶ所について現地でもらった説明書や海舟の該当部分を紹介したい。 『勝海舟全集12』勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編1978 頸草書房 「海軍歴史 巻の八」 本文引用部分はpp.212~213。※は高橋の記入。 咸臨…

  • 今借りている本

    〇「茶の湯の表具千家十職・奥村吉兵衛の仕事」淡交社 まだ読んでいない。 〇楊暁捷「戯れる江戸の文字絵」マール社 まだ読んでいない。 〇江橋崇「百人一首」ものと人間の文化史 これは面白かった。が、若干分かりにくかった。 〇「海幸山幸」九州国立博物館 2021年発行の展示図録。 〇「造幣局150年のあゆみ」大蔵省造幣局 2022年11月発行。大蔵省は2001年に財務省になったがこの本の奧付は大蔵省造幣局のまま。大蔵省の名前が捨てがたく、こっそりと使用し続けているのだろうか。 〇ジェスティス「世界の美しい城」原書房 世界には中世の城の美しさに憧れて、ノイシュバンシュタイン城のように19世紀・20世紀…

  • 今日、借りてきた本

    図書館に時々行くので今日借りてきた本を備忘録のように記す。 〇町田市立国際版画美術館「謎解き浮世絵叢書 小林清親 東京名所図」 どこを描いたのか昔の地図と現在の地図とを示しているので面白そうだが、まだ読んでいない。 〇実方葉子「木島櫻谷 画三昧への道」東京美術 この画家は知らなかったが、日本画の描き方が気に入った。 〇丸山俊明「京都の歴史と消防」京都・大龍堂書店 なんとなく面白そう。 〇地方史研究協議会「日本の歴史を突き詰めるーおおさかの歴史」 パラパラっと見たら馬部隆弘さんの「淀川沿いに造られた軍事施設をめぐる謎ー文献史学的遺構論からみた楠葉台場」があったので、まずこれを読む。楠葉台場が計画…

  • 豊後大野市緒方町小富士山踏査

    2023.2.23竹田と緒方町を歩いた。 先ず、竹田市西光寺背後の尾根を歩いてみた。「戦地取調書」に台場があったと描かれているので確認に行った。尾根の上に江戸時代からの墓石がずらっとならんであり、竹田市の他の尾根でも同様だったなと思いだした。やや広い場所にキリスト教徒のピラミットのような墓石がある場所の東側に細尾根が突き出しており、その支尾根先端に土塁のようなものが東向きにあった。土塁の向こう末端は垂直に20mくらい落ちる凝灰岩の崖面となっていた。土塁?のこちら向きの面に画板を立てて撮影。 他には台場跡らしきものはなかった。満徳寺の北東尾根は小山のように南部とは区別できるがそこには行かなかった…

  • 「安田 榮の西南戦闘日記」田中 茂氏編集・解説

    これは昨年12月10日付で田中茂氏(宮崎市在住)が出版された別働第二旅団伍長の従軍日記です。解説を合わせて全43頁。安田は浜田藩士であったが結婚後福島県士族となり、西南戦争勃発にあたり従軍し、各地を転戦して無事凱旋した記録です。 現在、若干部数が残っており、希望者には送料負担のみで配布できるそうです。 田中茂さん☎0985-28-7046

  • 表示を替えました。

    前の漫画風なのも気に入っていたけど、字が読みにくい面もあったので変更しました。

  • 「西南戦地取調書 豐後」の内、竹田市

    小川又次日記で竹田が登場したので、標記の史料の内、竹田市部分を掲げることにしました。荻町は後日追加。このブログでは本文の上部にフリガナがある場合にその通りに表示できないので該当部の直後に小文字で表示します。少しずつ訂正加筆します。 二十八ノ5 大野 直入 南海部 北海部(以上は表紙) 校合済 明治十年西南ノ役戦地取調書 大分縣(以上内表紙) 直入郡竹田町 新五月十三日午後五時頃薩軍凢八拾名鹿児嶋縣日向國臼杵郡ヨリ大分縣大野郡重岡村ヲ経テ竹田町ヘ乱入處々ニ屯ス仮リニ本營ヲ同町商加嶋吉郎宅ニ設ケ直ニ同町商後藤六平外三拾名ヲ召集シ市中火盗ノ警備ヲ命ス衆辞スレノモ許サス翌十四日ヨリ市街ヲ巡邏セシム且ツ…

  • 「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」6月 ※5月が終わってないが6月も始めます。

    六月一日晴天午後當隊宇田枝ヲ発同三時頃ヨリ牧口エ繰込ム此日熊本縣士八名当地ニ着当隊附属有志ノ列ニ加エ入ス 六月二日晴天午前本隊牧口引揚ケ久原村及髙寺村ノ間道ヨリ重岡街道賊背ニ出ントシ午前五時頃三重市ヲ攻撃ス到レハ賊ナシ野津市迠追進ス此日三重市ニテ熊本縣士二名当隊附有志輩ノ列ニ加入ス 六月三日晴天午前十一時頃当隊野津市ヲ引揚ケ午後五時頃ヨリ戸次ニ繰込ム 六月四日晴天終日休戰賊臼杵ノ官軍ヲ拂ヒ勢ニ乗シ府内ニ出ントス故ニ鶴崎嵜地方ニ探偵ヲ出シ亦タ枩原峠近傍ニ斥候ヲ出ス警備ス 六月五日晴天当戸次ニ滞陣ス午後ヨリ降雨探偵ヲ出シテ賊情ヲ候 六月六日晴天戸次ニ滞陣ス頃日炎暑ナレノモ病兵甚タ稀ナリ 六月七日晴…

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