Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。
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Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。
明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…
これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…
鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。
数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。
花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。
福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。
このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com
最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…
桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。
今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。
チューリップの花が開いた。まだたくさんツボミが待ち構えている。
数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。
急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。
気が付けば赤い花がひとつ開き始めた。この調子なら次々に開花しそうだ。 くるくる回してみてください。
範囲を広げて撮影。 一番上のつぼみが色づいた。開花するのも まもなくだろう。
大塚進也「白河戊辰戦争における野戦陣地についてー金勝寺山、笹久保山を例にしてー」を読んで
「福島史学研究」第102号2024年3月25日に掲載の論文を頂いた。 福島県白河市の白河城は奥羽越列藩同盟軍が守っていたが1868年5月1日に新政府軍が奪取して以降、何度も同盟軍が奪い返そうと攻撃をかけたが新政府軍が7月まで守り抜いている。 大塚氏によると従来、兵数で劣る新政府軍が守り抜けた理由は新政府軍側が装備で優っていたと指摘されてきたが、白河城周囲の山地に新政府側が築いた野戦陣地の存在が勝利の要因だったという。これまでの説明では周辺の山上に新政府側が築造した野戦陣地の存在を重視していなかったが、現地を踏査して金勝寺山で2基と笹久保山で4基の台場跡(大塚氏は野戦陣地と称している)を確認して…
つぼみが7個。 立体が重なると写らない部分が多くなる。単純な箱状ならきれいに写るのだろう。
単なる2Dの写真。数日前からつぼみが目立ち始めた。
2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などに美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山のカルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが 道の駅阿蘇 ブログ 西南戦争の激戦地 二重峠台場跡(阿蘇市)に行ってきました! を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ…
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Xを見ていたら鹿児島県伊佐市高熊山頂上にある岩の写真を載せて、弾痕がついているとあった。これは従来言われているとおりです。しかし、この山の斜面にもいくつも同様の岩があり、なぜこの頂上の岩だけを強調するのか疑問です。 皆さんもここを訪問する機会があったら、前後左右や上から観察してみてください。また、周辺の岩も。
明治9年の軍用水筒に関する記事から。 C07060070600「明治九年四月 大日記 諸黌教導團裁判所之部 防衛 陸軍省第一局」防衛研究所蔵0727・0728 同六日 学第百八十九号 肆第九百四十四号 一水箇 弐百拾個 一食噐菜入付「ガソール 弐百拾個 一輸車 参 輌 右ハ行軍演習施行之儀御許可相成候ハヽ前書之通演習中御渡相成度此段相伺候也 九年三月廿七日 士官学校長代理 中佐長阪昭徳 卿代理 鳥尾大輔殿 伺之通 四月六日 五局ヘ相達ス 明治9年3月以降に士官学校で行軍演習を行うので水筒210個その他を渡して欲しいとの伺い。ガソールは意味不明。弁当箱か。行軍の目的地は次の史料で分かる。 C07…
これまで軍用水筒について何回か書いてきたが、今回は防衛研究所の史料から明治8年の軍用水筒関係の記録を掲げる。前年は台湾出兵とそれに伴うと考えられる事前の野外演習が複数の部隊で行われたが、この年は関連する記録が少ない。 C04026560600「明治八年十又二月大日記 諸局参謀近衛病院軍馬教師之部 水 陸軍第一局」防衛研究所蔵1731 ※上記の中で「教師之部」の部は不確実。 局二百六十二号 参二千四百六十九号 今般雑司ヶ谷ニ於テ對抗運動 天覧被為在候ニ付ブリツキ面桶及水筒各隊へ御渡シ相成度此段申出候也 指揮長官 十二月廿五日 東伏見嘉彰 山縣有朋殿 申出之通 但各所管ゟ員数ヲ以第五局ニ而可受取候…
鬱金香 赤桃黄色の 順に咲き 根ずっちのように即座になぞかけができるのは、詩人に似ている。冒頭のは単に事実を述べただけ。集めて球根を植えておくと、全てが同時に咲くのではないと分かる。
数日前からムラサキつつじが いちりんだけ咲いている。葉が三枚なので、みつばツツジともいう。宇目町の梓山北西尾根から帰りがけに桜の樹形に似た満開の花を見たのは5月下旬だった。その時一緒に行った槙島隆二さんといつか酒を飲みたい、などと思った。
花が散る 昨日の雨が なかりせば 花びらが散り始めた。ソメイヨシノが散るのも早いがチューリップも負けていない。でも、次の黄色い花が咲いた。
福聚寺戦記絵の進行途中の状態。 まだこれから色や形が変化していく予想です。へたうま(実は上手だが、へたくそに見える絵)を目指しています。寺のまわりには現在と違って民家はなく、畑の中にポツンとある。竹藪を切って柵を作り、畳を立てかけて銃弾を防ぐ。季節は田植え準備の頃。
このひと群れに十個ぐらいつぼみができたけれど、枯れてしまったのが多い(矢印)。水が足りなかったのか?花の重さと風で折れたのが一個、それは花びらが散り始めた。 scaniverse.com
最近まで西南戦争頃の軍用水筒を調べていたが、結論をまとめ終えた。12頁の制限があったので写真を掲げる余裕はなかった。活字になるまで1年かかるのでここで簡単に紹介したい。 画像が薄いけどこれしかないので我慢してください。熊本城跡出土の水筒です。報告書から転載。 上は熊本城百閒櫓跡出土水筒で、欠損し穴が空いています。押し潰されてぺしゃんこです。図示されてないけど青い四角部分には吊具(紐通し)やその痕跡が残っています。 上は熊本城本丸御殿跡出土品を報告書から掲げた。御殿は西南戦争初期に焼けている。他にもかなりの数の破片が出土した。上図の上は水筒が二つ重なった状態である。本体は口部分と胴体部分をハンダ…
桜の季節になり、チューリップも次々に花が見られるようになった。3Dは不完全だが。 下の画像をクリックして回すと3Dになります。
今日の大野川右岸、九六位山から麓。杉の植林地帯には桜はない。田んぼの緑が美しい。 背後の標高450m前後の山脈はプレートの付加体で1億年前とかの地層、手前の標高150m前後の低山は100万年前頃の河川堆積層。 山際の集落名は「火降」(ひふり)、古代の狼煙(のろし)は官道のそばの低い山に設けられた。隣の狼煙台が応答しなかったら直ちに駆け付けねばならなかった。それで狼煙台は低い山で、かつ見通しの良い立地が選ばれた。写真中央の小高い山に遺跡があるのだろうか。 少し下流から右岸戸次(へつぎ)の近郊農業地帯。
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数キロ離れた山を見たら桜が目立つので、佐賀の関に眺めに出かけた。いつの間に咲いたんだろうか? 人の手が加わった桜、染井吉野の開花予想は行われているけど、本来の桜については予想しないのか。 染井吉野は種子がないので、一つ一つ人の手で植えない限り増えない。山に自然に生えるという事はあり得ない。 途中、田んぼが広がる所の緑と菜の花の緑と黄色、空の色が美しい。
急に撮影が忙しくなった。実際の花色はもう少し黄色味が強いんだが。
気が付けば赤い花がひとつ開き始めた。この調子なら次々に開花しそうだ。 くるくる回してみてください。
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「福島史学研究」第102号2024年3月25日に掲載の論文を頂いた。 福島県白河市の白河城は奥羽越列藩同盟軍が守っていたが1868年5月1日に新政府軍が奪取して以降、何度も同盟軍が奪い返そうと攻撃をかけたが新政府軍が7月まで守り抜いている。 大塚氏によると従来、兵数で劣る新政府軍が守り抜けた理由は新政府軍側が装備で優っていたと指摘されてきたが、白河城周囲の山地に新政府側が築いた野戦陣地の存在が勝利の要因だったという。これまでの説明では周辺の山上に新政府側が築造した野戦陣地の存在を重視していなかったが、現地を踏査して金勝寺山で2基と笹久保山で4基の台場跡(大塚氏は野戦陣地と称している)を確認して…
つぼみが7個。 立体が重なると写らない部分が多くなる。単純な箱状ならきれいに写るのだろう。
単なる2Dの写真。数日前からつぼみが目立ち始めた。
2024.3.9。田原坂で展示中の水筒(これは前回の3点とは別の人、作田さん寄贈)を実測に行った。6時半に大分市を出発し、それなりの時間がかかって到着した。今回は岡本真也さんも合流。調査依頼文の提出などに美濃口雅朗さんに、また現物の観察には作田徹さんにお世話になった。 写真は室内で撮影すると色が不自然になったので外で撮影した際のもの。 その後、玉名市の骨董屋に立ち寄った後、阿蘇山のカルデラ西部縁辺部にある二重峠の台場跡を見に行った。これは岡本さんが 道の駅阿蘇 ブログ 西南戦争の激戦地 二重峠台場跡(阿蘇市)に行ってきました! を読んで台場跡があるらしいと知り、一緒に行こうと誘ってくれたためだ…
最近、西南戦争に関して小川又次日記に関連し大分市戸次から吉野に至る「吉野越」、あるいは「吉野峠」を踏査している。熊本鎮台が1877年6月に臼杵攻撃のために通過し、たった一日だけ露営しているので、台場跡があるかもしれないと考えたからである。ずっと前も何回か探してみたが台場跡は見つからなかった。 明日の天気予報が雨らしいので、今日も出かけた。午前中は25度、晴れ。薬草のサド(アクセントの位置は佐渡と同じ。いたどり)が沢山あった。子供の頃、食べたことがあるので、何本かちぎって皮を剥いて食べた。一週間早ければ最盛期だっただろう。下の地図で戸次の南西側に大分市吉野があり、それへの路線のどこかを戸次から官…
「戦地取調書」に官薩両軍の陣地があると記録のある竹田市鏡の東部に行ってみた。数年前に自動車専用道が新設され、問題の地域を切り開いて横断しており、もっと早く気付くべきだった。台場跡の可能性があるものを見つけたので作成した図面を原図のまま掲げる。 原図が見づらい。破線が通過場所。尾根を断ち割る新道の上をコンクリート橋がつないでいる。それを車で渡って、突き当りに駐車し、そこからU字形に急傾斜の路面を登るとそこにあるコンクリート吹付面を登って原地形の尾根にたどり着く。下はグーグルマップ3D。 なだらかな尾根の水平部分を過ぎて登りきると平面三角の頂上が現れる。頂上は8m×5.5mの平地で、南東側に削り出…
先日竹田市西光寺の北東側背後の凝灰岩丘陵地帯を歩いてみたが、今回はその続きです。時々引用する「戦地取調書」に薩軍の陣地があったと記録があるので確認に行ったわけです。 ちょっと見にくい地図だが画面右半分、川の北側に青い破線で示したのが歩いた軌跡。竹田市役所一帯は原地形が削られ、平地が造成されている。平坦地の南西部から山に登り、尾根筋を台場跡を求めて歩いてみた。そして台場跡2基を確認した。山に入った場所から台場跡を確認したところまでは西南戦争当時の地形が残っているのは、人工的な平坦面や削った場所がないので明らかだった。清書する前の図面を掲げる。 二つの遺構を貫くように巻き尺を張り、直角に1m毎に上…
先日の小富士山踏査のところで触れた高鼻公園の台場跡略図を作成したので後日清書して投稿します。南側から遠景写真を撮ったのでこれを掲げます。 左奥の崖の上に戦跡があります。 高鼻公園の突端から北西方向を写したもの。遠景中央の屋島のような山が法師山です。法師山以外は阿蘇山から9万年前に流れてきたものが埋めています。高鼻公園もそうです。
帯広で撮られた集合写真に三笠宮が写っているのを実家で見たことがある。高松宮の伝記は出版されているが三笠宮の伝記がなく、どういう状態で撮影されたものなのか分からないままだったが、「三笠宮崇人親王」が出版されたことを知った。大分県立図書館にはなかったので宮崎県立図書館から借りだしてもらった。 寸法を測り忘れたが横30㎝位の写真である。 三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会2022.12.2「三笠宮崇仁親王」吉川弘文館 全1323頁から1944年(昭和19年)8月末から9月の関係部分を掲げる。※引用はpp.391~392 ※は高橋が記入。 八月三一日 午前九時四〇分所沢飛行場御発、午後零時半札幌御着。三井倶…
今日、西南戦争時の官軍台場跡をいくつも確認済の臼杵市諏訪の山間部で活動している「三角台を守る会」の村上中造さんからTシャツをいただいた。 臼杵湾北側に臼杵市総合運動公園があり、その背後の低い山に歩道を造り、看板・遊具を設置し、身近な山歩きができるように活動している人たちが「三角台を守る会」である。
コロナの前年、サンフランシスコに行った。咸臨丸でサンフランシスコに着いた勝海舟が港の入口にある要塞を見学したことがあると書いていたのを思い出し、現地で「地球の歩き方」を開いてそれがどこにあるのか検討し、Fort Point(要所要塞)とアルカトラズ島に行くことにした。 勝の文章が何に書いていたのか思い出せなかったが、今日、たまたまそれが「勝海舟全集」だったことが分かったので、この二ヶ所について現地でもらった説明書や海舟の該当部分を紹介したい。 『勝海舟全集12』勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編1978 頸草書房 「海軍歴史 巻の八」 本文引用部分はpp.212~213。※は高橋の記入。 咸臨…
〇「茶の湯の表具千家十職・奥村吉兵衛の仕事」淡交社 まだ読んでいない。 〇楊暁捷「戯れる江戸の文字絵」マール社 まだ読んでいない。 〇江橋崇「百人一首」ものと人間の文化史 これは面白かった。が、若干分かりにくかった。 〇「海幸山幸」九州国立博物館 2021年発行の展示図録。 〇「造幣局150年のあゆみ」大蔵省造幣局 2022年11月発行。大蔵省は2001年に財務省になったがこの本の奧付は大蔵省造幣局のまま。大蔵省の名前が捨てがたく、こっそりと使用し続けているのだろうか。 〇ジェスティス「世界の美しい城」原書房 世界には中世の城の美しさに憧れて、ノイシュバンシュタイン城のように19世紀・20世紀…
図書館に時々行くので今日借りてきた本を備忘録のように記す。 〇町田市立国際版画美術館「謎解き浮世絵叢書 小林清親 東京名所図」 どこを描いたのか昔の地図と現在の地図とを示しているので面白そうだが、まだ読んでいない。 〇実方葉子「木島櫻谷 画三昧への道」東京美術 この画家は知らなかったが、日本画の描き方が気に入った。 〇丸山俊明「京都の歴史と消防」京都・大龍堂書店 なんとなく面白そう。 〇地方史研究協議会「日本の歴史を突き詰めるーおおさかの歴史」 パラパラっと見たら馬部隆弘さんの「淀川沿いに造られた軍事施設をめぐる謎ー文献史学的遺構論からみた楠葉台場」があったので、まずこれを読む。楠葉台場が計画…
2023.2.23竹田と緒方町を歩いた。 先ず、竹田市西光寺背後の尾根を歩いてみた。「戦地取調書」に台場があったと描かれているので確認に行った。尾根の上に江戸時代からの墓石がずらっとならんであり、竹田市の他の尾根でも同様だったなと思いだした。やや広い場所にキリスト教徒のピラミットのような墓石がある場所の東側に細尾根が突き出しており、その支尾根先端に土塁のようなものが東向きにあった。土塁の向こう末端は垂直に20mくらい落ちる凝灰岩の崖面となっていた。土塁?のこちら向きの面に画板を立てて撮影。 他には台場跡らしきものはなかった。満徳寺の北東尾根は小山のように南部とは区別できるがそこには行かなかった…
これは昨年12月10日付で田中茂氏(宮崎市在住)が出版された別働第二旅団伍長の従軍日記です。解説を合わせて全43頁。安田は浜田藩士であったが結婚後福島県士族となり、西南戦争勃発にあたり従軍し、各地を転戦して無事凱旋した記録です。 現在、若干部数が残っており、希望者には送料負担のみで配布できるそうです。 田中茂さん☎0985-28-7046
前の漫画風なのも気に入っていたけど、字が読みにくい面もあったので変更しました。
小川又次日記で竹田が登場したので、標記の史料の内、竹田市部分を掲げることにしました。荻町は後日追加。このブログでは本文の上部にフリガナがある場合にその通りに表示できないので該当部の直後に小文字で表示します。少しずつ訂正加筆します。 二十八ノ5 大野 直入 南海部 北海部(以上は表紙) 校合済 明治十年西南ノ役戦地取調書 大分縣(以上内表紙) 直入郡竹田町 新五月十三日午後五時頃薩軍凢八拾名鹿児嶋縣日向國臼杵郡ヨリ大分縣大野郡重岡村ヲ経テ竹田町ヘ乱入處々ニ屯ス仮リニ本營ヲ同町商加嶋吉郎宅ニ設ケ直ニ同町商後藤六平外三拾名ヲ召集シ市中火盗ノ警備ヲ命ス衆辞スレノモ許サス翌十四日ヨリ市街ヲ巡邏セシム且ツ…
六月一日晴天午後當隊宇田枝ヲ発同三時頃ヨリ牧口エ繰込ム此日熊本縣士八名当地ニ着当隊附属有志ノ列ニ加エ入ス 六月二日晴天午前本隊牧口引揚ケ久原村及髙寺村ノ間道ヨリ重岡街道賊背ニ出ントシ午前五時頃三重市ヲ攻撃ス到レハ賊ナシ野津市迠追進ス此日三重市ニテ熊本縣士二名当隊附有志輩ノ列ニ加入ス 六月三日晴天午前十一時頃当隊野津市ヲ引揚ケ午後五時頃ヨリ戸次ニ繰込ム 六月四日晴天終日休戰賊臼杵ノ官軍ヲ拂ヒ勢ニ乗シ府内ニ出ントス故ニ鶴崎嵜地方ニ探偵ヲ出シ亦タ枩原峠近傍ニ斥候ヲ出ス警備ス 六月五日晴天当戸次ニ滞陣ス午後ヨリ降雨探偵ヲ出シテ賊情ヲ候 六月六日晴天戸次ニ滞陣ス頃日炎暑ナレノモ病兵甚タ稀ナリ 六月七日晴…
「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」5月に浅ケ部が出てきます。
ブログの更新が時々あって、どうしてかわからないが手間取っていました。さっき挑戦したら更新できたので何かを載せようと思い、新しい甲骨文字を公開します。「止」は足跡の形からできた漢字(本当)です。「ひので」は旦に似ています。2023.1.15 ※小川又次日記5月の加筆を再開しました。
五月一日雨天当濱甼周圍エ更ニ胸壁ヲ築キ各所エ間諜或ハ斥候ヲ出ス 五月二日晴天諸(※方偏に者:誤字)方エ探偵ヲ出ス前日ノ如シ當濱町ニ着ス己来堅志田村及隈ノ庄ニ在ル官軍ト相通信ス 五月三日晴天朝鮎ノセ第二中隊出張午前第一中隊交代ス 五月四日雨天伍長片山岩太兼テ生死未明ノ処本日午后帰隊ス 五月五日雨天第三中隊兼テ霍ケ淵出張之處第二大隊第一中隊ト交代ス 五月六日晴天馬見原出張第一大隊第三中隊ヨリノ報ニ残賊宮ノ原ト申処ニ胸壁ヲ築キ五十二ン斗リ明松ヲ携ヘ奔走スル勢アリヨリ一里半余(此處馬見原)昨五日ノ報ニ日向海辺ニ残賊ノ患者乗舩ノ処半ハ海軍ヨリ狙撃ス病症ハ「痘」(※あばた)多シト云フナリ 五月七日晴天第二…
西南戦争の際、2月15日には薩軍が鹿児島を出発開始しており、19日には征討の命令が出ている。両軍が初めて戦火を交えたのは1877(明治10)年2月21日である。今回紹介するのはその間の2月20日に版行届が出された小林清親筆の三枚続き版画である。 新聞 鹿兒嶋水股風説と題し画中の詞書は次の通りである。 四海波静に往返の舶のけむりも高く万代楽を謡ふ御代に鹿兒島けん下に士族の暴行なれど実地を水股の其風せつも信用ならす殊に雷機の私報も止りさすかに士族のヱレキもくづれ是鎮静の近きを記すとそ 明治十年二月 この時点ではまだ戦闘が始まっていなかった。説明文は鹿児島県下で暴行が行われているが、鎮静は近いだろう…
本文がペンで書かれた「陣中日誌稿(明治十年 戰争日記)」を紹介したい。古本屋から購入したものである。 巻頭の附言によれば、本日記の筆者は熊本鎮台第十三聯隊第三大隊長の小川又次少佐である。巻頭で「陣中日誌稿」と称すけれども表紙の表記は「明治十年 戰争日記」と異なり、明治十年十一月に作成を終えたものである。素人目で検討すると、表紙の「戰」の字は本文中の同字と似ている。例えば2月27日に書かれた「戰」は左部下の十部分が上にある日の中央よりも右側に偏っている点は表紙字と同じである。また、その「田」であるべき部分がどちらも「日」になっている。表紙の「年」は横画が4本で、本文中の附言の字も同じである。他の…
今年も賀状は書かず、年初にも出しません。 - 西南戦争之記録