覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、カリスマであった覚鑁が不在でも、一朝一夕になくなるものではなかった。彼の教えは、引き続きこの大伝法院において引き継がれていくことになる。 この時期の大伝法院を率いていたのは、先に記事で少しだけ触れた隆海であるが、彼が大伝法院座主の座に就いたのは、なんと19歳の時である。彼は覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子であった。 数多いる直弟子を差し置いて、孫弟子に過…