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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • 千住新古細工#11/すべて百姓持ちの地たるべし

    明治元年、太政官布告を以て明治政府は「村々ノ地面ハ素ヨリスベテ百姓持チノ地タルベシ」と宣言した。「土地は王のものではなく民のものである」という宣言だ。なんと!バター臭い宣言か? まるで西欧の人民革命を思わせるような宣言である。なぜかここに革命を成功させたサムライたちの匂いはない。 同時に、明治政府はすぐさま廃藩置県を行い、すべての大名籍を無き者にした。(革命政府は、自らの出自である薩摩藩/長州藩をも同じく解体へ追い込んだのである。まさに軒下貸りて母屋乗っ取り"解体"したわけだ)。もちろん、大名→知事という横滑りを用意して内乱を抑えることは忘れていない。・・それにしても不満は出たはずで

  • 千住新古細工#10/二転三転する郡区分

    慶応4年9月8日、慶応は明治となった。 明治政府は、東京近郊へ3名の武蔵知県事を配置した。それは現在の東京・埼玉・千葉にまたがる350余ヵ村、かなり広範囲なものだった。しかし置県としては短命で明治4年11月で廃止。現在の足立区に充たる村々は舎人村を除いてすべて東京府へ移管された。同時に江戸社会を支えていた街道宿駅制は明治5年に駅逓制度に替えられ、その機能が止まった。千住宿とそれに繋がる街道筋は徐々に衰退の方向へ進んだ。 そして街道そのものも、奥州街道は陸羽街道に、水戸海道は陸前浜街道と名前を替えられた。 しかし貨客の輸送は有る。 浅草・千住間、千住・宇都宮間に乗合い馬車が運行されたのは

  • 千住新古細工#09/将軍江戸を去る

    向こう岸の喧嘩は、見てる分には楽しいが自分ンちの庭でやられちゃたまらない。 幸いなことに、薩長公家と徳川幕府の喧嘩は足立あたりまでは及ばなかった。民は飄々と畑に傅き地祇の恵みを得た。 千住はロジスティクの中心であり文化の中心地でもあった。意外に知られていないのだが、同地は和算が最も興隆した地なのだ。千住が如何に商いの地として栄えたかが伺い知れる。 足立の和算大家の名前を列挙する。 小泉寧夫/押田邦/村越向栄/太田広信/小泉伝蔵/青木萬吉 いずれも寺子屋を興し、子弟を育てた。商ん人は、育てるのに時間とお金がかかるものなのだ。足立という地にはその余裕があった。千住宿のおかげだ。 その千住

  • 蕎麦は身の丈に有ったものが良い

    寿司屋の勘定は一万円perPだと思ってる。御あいそに「五万也」なんぞと書いてあると、寿司なんて重さから言ったって米90%に魚10%だろ。俺は米に4万5千円払うのか?!と思っちまう。娘に言わせると「料理1万円/ホスピタリティ4万円」だというが・・それにしても納得できなかったりするなぁ。フレンチにそんなコスパの悪いものは無い!です。はい。 で。返す刀で・・そば屋。 むだに尖ンがった蕎麦屋には正直ヘキヘキします。ソバって、そういうもンじゃないだろって思うンです。 ガキの頃は5円で食べてたもんじゃ屋に行って「お勘定16,000円です」とか言われちゃうと、そのインフレぶりにあきれ返っちまう・・ア

  • 千住新古細工欄外/利根川・荒川の東遷#02

    ところで「利根」だが「日本歴史地名事典」の「とねがわ【利根川】」の項をひくと「『万・三四一三』に「刀禰河伯」で初見とある。 これは万葉集第十四巻「刀禰河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敝流伎美可母とねがはの かはせもしらず ただわたり なみにあふのす あへるきみかも」ここでは利根を刀禰(とね)と謡っている・・とすると、僕はそのまま神武東征の船頭「等禰直(とねのあたい)」を連想してしまう。速吸門渡海のとき亀に乗って現れた神だ。水神ですな。 もっとも「刀禰」の呼び名は以降の文献にはない。すべて「利根」になっている。「刀禰」の名前が使われるのは、江戸時代に入ってから現れる

  • 千住新古細工欄外/利根川・荒川の東遷

    ・・人は川の許に寄りそして生きる。古来から川は人の命の一部だ。北関東の広大な平野を走る二つの大河「利根川」と「荒川」は、この地に人が生きる地を与えると共にしばしば人の命をうばう敬愛と畏怖の対象だった。荒川は、その名の通り「荒ぶる川」であり、しばしば奔流氾濫を起こし川筋を変えた。それは「坂東太郎」と呼ばれた利根川もそうだった。この二つの大河は、恵みの女神であると共に気紛れな人々を翻弄する鬼神でもあったのだ。 この気紛れな二神、荒川は奥秩父を源流として、利根川は群馬県の北端を源流としていた。そして二神は関東平野の東部地域低地で合流し東京湾に注いでいた。 古来、水を司る地祇を鎮魂し総べるこ

  • 千住新古細工#08/千住の新田開発"02

    もう一歩入りこんで、千住周辺武蔵国足立郡の新田開発についてみてみよう。 ネタは相変わらずの「新編武蔵風土記稿」である。正保年間の改定図のなかに村名と新田名が記載されている。図でみると、古くからあった村は全て毛長川南緑と日光街道筋の西側に固まっている。例外は、千住・大谷田・花火・保木間・・ 新田は綾瀬川新川(内匠橋以南)に沿った東部に並んでいる。鹿浜新田・掃部新田は例外。 そして、この地域は江戸初期の文禄・慶長・元和に開拓されたと記載されている。開拓者の多くは他国の武家だったとある。しかし干拓に赴いた武士の大半が旧姓を残していない。なぜなのか?・・知見を俟ちたい。・・となると、尋ねるは各

  • 千住新古細工#07/千住の新田開発

    「利根川の東遷、荒川の西遷」は、水ったまりみたいな江戸湊を人の住める乾いた地面にした。・・まあ、そのせいで乾きすぎちゃって、これ以降江戸・東京は現代にいたるまで水不足に悩まされるのだが・・そこまで話は広げないでおこう。水中、蝦蛄と穴子の天国だった武蔵の国が、湿原地じゃなくなったところから始めよう。 ・・ところで、本所あたりは未々湿原のままだった話は以前書いた。噺の「骨釣り」の情景を紹介したことを思い出してください。今回のステージはもう少し隅田川上流、千住の北・荒川の向こうの話である。この辺り、武蔵国足立郡は、家康の「利根川所払い」が敵面に効果として現れ、暫時湖沼/干潟が姿を消していった

  • AVIREXと共に40年、来ちゃった

    AVIREXと共に40年、来ちゃった。 半世紀の付き合いをしてるブランドは・・あとはリーバイスだけだなぁ。 僕の最初のA-2はタイランドU-TAPAOのペースに在ったPXで買ったものだった。馬革製だった。・・これはそのまンま50年ちかくも前の話だ。大事に着てたンだけどね。たび重なる引っ越しの間にどっか行方不明になっちゃった。というか、僕がいないウチに、臭いとか言われてオフクロが捨てちゃってたことが後に判明。ありゃショックだった。まあ・・馬革だったから、確かに臭かった。 ベトナムから帰ってきたときに着てたのは忘れもしないCW-36/P。これは今でもある。リブが伸びきって、ちょっとダラし

  • ムカシ見たことある道・英国病

    大変乱暴な言い方をさせてください。 僕は日本政府が財政破綻することが、必ずしも「絶対に避けるべき事態」とは思っていない。政府の破綻=国家の破綻ではない。それは官吏の慢心です。 杜甫の「春望」國破山河在, 国破れて山河在りは、永遠の真実です。ヒトなるものの強靭さを示す。 1997年、アジア通貨危機はマレーシア、タイ、インドネシア、韓国を疑似的なデフォルトへ落とし込んだ。しかしそのあとの成長ぶりは目を見張るものです。 いま、日本は「ムカシ見たことある道・英国病」に陥っている。第二次世界大戦の戦費負担による経済危機を越えるために英国が行った施策をそのまま「安倍黒田・金融緩和政策」で再現してい

  • 嵐五郎のLAX居合抜き顛末

    貧乏侍/田舎侍のことを江戸っ子は「りゃんこ」と言ってバカにした。りゃんこ=二本差しのことである。 「二本差しが怖くて田楽は食えねぇや!」というのは噺の中の箍屋(たがや)の啖呵。 「りゃんこ」という言葉を聞くといつも役者の嵐五郎を思い出す。時代劇でよく悪役で出ていた。大映の人だね。 僕とは仲が良くて、彼がハリウッドでオーデションを受けることになった時、たまたまLAにいた僕が空港まで迎えに行くことになった。 ところがいくら待っても出てこない。諦めてホテルに戻ると二日ほどしてエージェンシーから電話が来た。これからLAXへ嵐五郎の迎えに行くんだが同道してくれと・・びっくりして迎えに行った。 そ

  • 寿司は職人。板前は調理人

    ママがNYCから戻ってからは、昼夜とも食事はお伴を申し付かる。彼女のご指名のものを頂くことになってる。「お昼、何にする?なんでもいいわよ」とは言われるが、何でもよかったことなんぞ、ここ10年あまり一度だってない。 まあ、いいんだけどね。着るものも食べるモノも、どっちかってぇと自分で選ぶのは面倒なほうだからね。だから独りでいると、着るものは一種類か二種類、食べるモノもそんな感じになってしまう。 娘にもママにも「それがよくない」といわれるんだけどね、在職中はホテルを転々とすることが続いたから、自然についてしまった習慣で、べつに困ったことぁないから、なんとも思っていないんだが、言われれば「

  • 千住新古細工#06/千住河岸の隆盛

    江戸湊開墾と共に、江戸の北の市場・千住河岸の主要取扱品目は木材になっていった。その木材のための荷揚げは、南千住側に置かれた。北千住側は米穀や野菜などを扱ういわゆる「やっちゃ場」を中心として隆盛した。 広重の描く江戸百景「千住の大はし」でも、手前の南千住岸には材木問屋の材木、対岸の北千住岸にはっちゃ場と橋戸河岸が描かれている。橋戸河岸はこれらを運ぶ船着き場である。 この「やっちゃ場」という呼び名は古い。せりのときの掛け声からきていると云う。真偽は判らない。しかし活きの良い「せり声」が聞こえてきそうな呼び名である。きっと自然発生的に生まれた名前に違いないと僕は思う。同地は既に、上杉氏の時代

  • 千住新古欄外/千住・千寿。浅草から差す影

    千住大橋の袂、南千住側を少し歩くと「千住熊野神社(南千住6丁目70番)」に辿り着く。 神社前にある縁起を見ると「創建は永承五年、源義家の勧請によると伝えられる。大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交叉して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった」とある。永承五年は1050年、文禄三年は1594年だ。 比較的小ぶりな神社である。いまは素戔嗚神社の

  • ロシアにおけるCIPSの稼働率について

    ぶつぶつと独り言・・それにしても気になるのはロシアにおけるCIPS(Cross-border Interbank Payment System)の稼働率だ。いかほどロシアはコルテス・バンクの池から出ているか・ということ。 コルテスの池は、広くて深いからね。 ロシアは貿易黒字国である。主たる貿易先は中国だ。中国とはCIPS経由とユーロ建ての二本で決済を実行している。 ・・余談だが、日本はCIPSの最大協力国だ。中国経済圏と日本経済は既に金融的チョコレート食パン状態なのです。 それに、すでにロシアの外貨保有額の中でUSDの占有率は20%近くまで落ちている。2/3はドルだったというのに・・

  • 千住新古細工#05/千住大橋

    さて。再度、千住大橋に戻ろう。日光街道(国道4号)はこの橋を渡って都内に入る。現在の千住大橋は昭和2年に架設されたものだ。関東大震災まで、この橋は木製の橋だった。それを後藤新平が今の鋼製タイドアーチ橋へ架け替えたのである。後藤新平の偉業の一つに数えてもいいと僕は思う。 現在は、昭和48年(1973)に日光街道の拡幅工事が行われたときに、下流側に隣接して「千住新橋」を架設し、旧大橋は下り車線/新大橋は上り車線とした。千住大橋・南北詰めには、古い「千住大橋の親柱」がある。これは必見だ。ちなみに旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋「千住水管橋」があるのは余談。 この千住大橋だが、最

  • 千住新古細工#04/古代からの交易センターだった千住

    香取の海は、早くから西国と東北/北関東を繋ぐ拠点として機能していた。富士山塊を避けた諏訪ルートも早くから開かれていたが、陸路は険しくまとまった物量をこなすのは至難だった。そして江戸浦は広芒と広がる葦原である。いきおい三浦半島と房総半島を繋ぐ海洋ルートが商いの道として確立していったのは必然だったと言えよう。この二つの間は思いのほか短い。充分荷役は小舟でも運べた。 そして房総半島の中央には「香取の海」が有った。広大な湿地地帯だが、江戸浦ほど扱い難くはない。三浦半島から持ち込まれた荷役/あるいは三浦半島へ運ばれる荷役は、いちどこの地に集荷された。その香取の海を収めるように鹿島神宮/香取大社が

  • 千住新古細工#03/千住宿から南足立郡を見る

    奥州街道に繋がる道はふたつ。 ひとつは中間に「浅草・島」を挟むもの。日本橋/室町3丁目/浅草橋/蔵前/駒形/浅草/吉野町/山谷経由で千住へ向かう道。もうひとつは、御成道から五條天神門前を過ぎ下谷二丁目に沿って右折したあと、三路の集中した上野山下を起点として東叡山下寺(上野停車場構内)と下谷正法院門前、御徒組屋敷、車坂町等のある間を北へ坂本一丁目に突き当たって左折、右折して坂本二、三、四町目、金杉上、下町を経て三ノ輪町に至り、通新町を過ぎ、小塚原町通、千住大橋手前に出るという道だ。 前述したように、前者が最初に有ったものだろう。後者は幕府によって干拓が進んだのちに確立したコースに違いない

  • 千住新古細工欄外/渥美二郎とおもいで北千住

    所用が有って北千住に出かけた。昔、取引があった化粧品OEMの会社をウチのスタッフに紹介するためだ。もう30年ほど前の話だから、まだあるのかなぁと思って調べたら・・あった。で、アポを取って訪ねてみたんだ。北千住までは日比谷線で一本である。懐かしかったこともあって僕も同道することにした。駅前でTAXIを拾った。僕の記憶では町工場地帯にある会社だったが、今は連々と続く低層住宅街の間に埋もれていたンでびっくりした。対応してくださったのがその会社の事業部長さんで年齢的には40代だろうか、僕がそのことをお話しすると、笑って「そうですねぇ、どんどん住宅地になりましたからねぇ。町工場ももうこの辺りだと

  • 千住新古細工#02/浅草から北へ走る道#02

    吾妻橋を浅草側に立って馬車道を歩くと、浅草高校前を抜けて吉野橋にぶつかる。橋の下は山谷掘り公園が走っている。山谷堀は王子の音無川から隅田川に注ぐ水路だった。吉野橋は元々山谷橋という名前だったと云う。明治2年に「浅草吉野町」と改名。この辺りが浅草区に取り込まれたのは明治11年からである。江戸の御代、この辺りはご府内ではなかった。鳥越村である。今の浅草新鳥越町だ。なぜ「鳥越町」にしなかったのか?浅草元鳥越町との混同を嫌ったと「東京府志料」にある。そしてこの「浅草吉野町」という名前だが同じく「東京府志料」に拠ると、もともとはこの辺りは「浅茅野が原」と呼ばれていたので、これから"野"の字を採っ

  • 千住新古細工#01/浅草から北へ走る道#01

    昨年9月、嫁さんの誕生日旅行で道東チミケップ湖を訪ねた。朝一番の飛行機で女満別へ飛んで、そこからバスTAXIを乗り継いでの旅である。ホテルに着いたのは夕方近かった。オーベルジュ・チミケップである。そして翌日は、屈斜路湖を回りオーベルジュsoraへ寄った。嫁さんは何れの料理にもご満悦だったが、オーベルジュsoraの如何にも南仏の片田舎にありそうな瀟洒なフレンチスタイルが、えらくお気に入り遊ばしたようだった。 「ここのフラッグ・シップが支笏湖に有るんだ。ほんとはそっちをメインで予約しようかなとも思ったんだ。千歳空港からも近いしな。」 「そうなんだ。じゃ今度はソッちへ行こ」 「・・それに“キ

  • ジロラーモ・ダイナーのナオミ#02

    ところが。ある日、猛烈に怒っているナオミに出食わした。アビゲイルが妊娠したのだ。 「あんなにいつも言ってたのに! アタシがロクでもない男のせいで、どんなに苦労したか話してたのに! まったく同じアナに堕ちるなんて信じられないよ。"愛してるから"なんぞと言うんだ。まったく薄ら馬鹿なTVや映画のせいさ。そんな話を信じさせて、あとは野となれ山となれだかンね。 アタシはいつも言ってたんだ。男が愛してる"から"愛してる"なら"と云う時は、必ずお前に何かを押し付けようとするときなんだよって。それなのに、アタシに"愛してるから"なんぞとノウノウというんだ。」 きっと家でもナオミは、こんな感じで怒鳴りつ

  • ジロラーモ・ダイナーのナオミ#01

    80年代の初め。92st.のアパートメントホテルが立ち退きになって、僕は行き場所を失った。ウエストサイドは開発の手が入り始めて、少しずつ住みやすい場所ではなくなっていた。紹介してくれる人があってアルファベットst.トンプキンスパークのアパートを見に行ったが「この近くをね、銃を持たないで歩くのはやめたほうが良い」と言われて、さすがに諦めた。家賃はべらぼうに安かったけど。そのままマンハッタンブリッジの近くロアー・イーストサイドも見て歩いたが、風呂がないアパートが普通にあってびっくりした。そのことを聞くと「銭湯があるよ」と言われて、再度びっくりした。「貧乏な移民たちが蟠るところだからな、風呂

  • ジブリールダイナーのナオミ#03

    「すごく馴れ馴れしく話しかけてる人が出て来たんです。他のウエイトレスがあの人ナオミのことが好きなのよ、と言って笑ったけど、そんな風には思わなかったんです。だから普通に接客していたんですけど、そのうち好きだとかデートしようと言うようになって、仲間のウエイトレスに断るならきちんと断らないとコジれるわよって言われたんだけど、そのままにしちゃいました。そしたらついには仕事が終わるのを店の前で待ち伏せされたんです。びっくりしました。 そのとき、決心してはっきり付き合えないと言いました。どうして!と言うから・・私、男なのと言ったんです。」 「勇気がいったね」僕が言うとナオミが深く頷いた。 「はい、

  • ジブリールダイナーのナオミ#02

    14st.は地下鉄Lが横に走っている。ブルックリンとマンハッタンを繋ぐ通勤路線である。あまり豊かな人々は乗って来ない路線だ。マンハッタン区内で働くブルックリンで暮らす人々が利用する路線である。あるとき、14st.駅構内でナオミを見かけた。僕は思わず声をかけた。「これから仕事?早いね」日本語だった。ナオミは微笑みながら返してくれた。 「母に頼まれものがあって、ウチの近くじゃ買えないから」そこはかとなく関西のイントネーションだった。でも流暢な日本語である。「もし時間あれば」僕は彼女を食事に誘った。ナオミは戸惑いながら受けてくれた。 それで、8st.にあるアヱスタスaestas「夏」という名

  • ジブリールダイナーのナオミ#01

    グリニッジヴィレッジが好きだ。僕がアパートを8ave.と14st.の交差点のすぐ裏に選んだのは、通りにでればそのままグリニッジストリートが斜めに走るショートカットとして6ave,E6st.に繋がっているからだ。まだ家内と出会う前だ。僕が恋したのNYCは、92st.の西の外れにあったボロアパートメントホテルとロアーマンハッタン/ナッソーのボロアパート、そしてこのグリニッジヴィレッジの西の外れの・・これまた決して瀟洒とは言えないアパートだった。 僕のNYCの原風景はウエストヴィレッジだ。NYCという言葉を聞けば連想するのはウエストヴィレッジのビルが密集する、そして緑豊かな、春と夏は新緑が

  • 欄下の機獣を見つめて思うこと

    小沢昭一の「ぼくの浅草案内」の中にこんな一文がある 浅草には川がある。 東京にも昔は川が縦横に流れていたが、バカが寄ってたかって埋めつくし、みんな道路にしてしまった。日本中で東京だけだろう川を失ってしまった町は。人間がかつて川のほとりに住みついたのは、生活上の便宜だけではなかったろう。 人間の心が、本来、川を求めているに違いあるまい。人と川を結びつける宗教的な習俗も多いが、「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず……世の中にある人と栖とまたかくの如し」と、われわれは川に心を反映させ、水の流れを見て……暮してきたのである。 なんという深い哀しみが透ける挽歌だろう。小沢昭一

  • 上野浅草新古細工#13/終わりに・江戸東京気質(かたぎ)について

    「大江戸八百八町と、よく言うだろ?川崎房五郎という人が書いた本で「江戸八百八町」というのがある。」 帰りの地下鉄の中である。田原町から乗った。意外に乗客が多かった。 「まんまのタイトルね」 「ん。それによると江戸は正徳3年には900町を越えてたそうだ。正徳3年って1713年だ。その32年後は1,400町以上になっていたそうだ。そしてその47年ごの寛政4年1792年には1,668町、人口は100万に達していた。世界一の大都市になっていたんだ。構成要員は武士と僧籍と町人職人、農民が僅か。大雑把に比率で云うと50%が武家、40%が町民、5%/5%で僧侶と農民という感じだ。大雑把だがな。ではそ

  • 上野浅草新古細工#12/上野浅草話おわりに向けてのマクラ#02

    観光客のいない浅草を歩く。人通りは少ないがそれでも閑散とした寂しさはない。それは此処が生活の街だからだろう。街に生きている人たちは、時の揺らぎに関係なくその街を歩くもんだ。そんな街に、勢いで作られちまったシャッター商店街のような末路はない。もちろん時の流れの中で次第に歩みを落し路傍の忘れ物のように置かれた店屋はある。でもそれは古びた優しさに満ちている。けっして荒廃したシャッター商店街とは同じ類のものではない。 境内へ入るのにちょっと遠回りして伝法院から「浅草きんぎょ」の前をとおって「花やしき通り」から境内に入ろうした。嫁さんが言った。「この通りって、ほんと昭和のままね。時間が止まって

  • 上野浅草新古細工#11/上野浅草話おわりに向けてのマクラ#01

    僕が唐突に「釜めし春」へ行くと言い出して、冬晴れの雷門前に立った。人通りは少ない。外国人観光客も殆どいないから閑散とした感は否めない。朱塗りの山門横に並んで立つ阿吽の仁王像も何か寒々しそうだ。こうなっちゃ阿吽でいるしかないからだろう。 「雷門はな、東京大空襲で燃え落ちたんだ。しばらくなかった。浅草はずいぶん燃えたんだ。」 「東京大空襲って、3月10日の?」 「ああ、一晩で10万人の無辜の人々が死んだ。カーチス・ルメイCurtis Emerson LeMay将軍の命令だ。彼の作戦は念がいっててな、まず焼こうとする街の周囲を囲むように焼夷弾を落とす。そして人々が逃げられないようにしてから

  • 上野浅草新古細工#10/江戸市中に飲み込まれていく上野浅草

    1590年、家康が江戸へ入った。1603年征夷大将軍となった家康は幕府を江戸に置いた。江戸は日本の中心地になった。 家康と共に大量の配下の人々が江戸に入った。駿府の人々であり、大阪の地域の人々である。この家康に従う領民によって江戸浦の人口は瞬く間に倍増した。 江戸浦。太田道灌が武蔵の外れ。四方の葦原を天然の要塞と見極め城を置いた地が江戸・・である。 僅かに西に品川湊があり東海道のドン詰まりとして陸海の交易所として機能していた。東は檜前氏が開いた門前町浅草が北関東奥羽地方への交易の・・これもドン詰まりとしてあった。しかし有体に言えば、それだけの地にである。そこへ主に関西の民が移住者とし

  • 上野浅草新古細工#09/延喜式から漏れ聞こえること

    延喜式は平安時代に作られた法施行例集で全50巻、約3300条ある。 弘仁格式/貞観格式/延喜格の三大格式の総称だ。 巻8が祝詞集。巻9・10は神名帳になってる。神名帳というのは神社の一覧表ね。載ってるのは祈年祭で奉幣を受ける2861社。 ここに浅草におわします神社があるかどうか確認しようと思ってヒモ解いてみた。 ヒモ解いたらバラバラになっちゃうけど・・ 延喜式神名帳に名前が載ってるということは中央に社格が認められているということ。式内社と言う社格に入ってるということだ。 もちろん見当たらない。つまり浅草あたりに神社は、中央にとっては「よそ様」ってぇことだろう。 「よそ様」ったって、大所

  • 駆け回る 犬も不満な からっ風

    「ちょっと!どうなってるのよ。ぜんぜん降らないじゃない!」と文句を言いつつ、朝一番、嫁さんが魚河岸へ出かける支度をしています。 今日の仲間内の食事会、仕込みです。まだ店は休みのまま。それでもマメに色々試作している。その情熱には、ほんと足向けて寝られないね。しかたないからケツ向けて寝てるけど。 「降らなくて良かったじゃんか。ふぶいたら大変だったぜ。買い物」 と言いつつ。僕も炬燵ならぬベッドから抜け出して窓の外を見てみた。 「いいのよ!ちょっとくらい大変でも。楽しみにしてたんだから!」 おやおや楽しみにしてたんですか・・雪が楽しみなんて・・ずいぶんお若いことで。 駆け回る 犬も不満な か

  • オオカミ天気予報のこと

    オオカミ天気予報ですが、雪がくるぞ雪がくるぞと、二日過ぎましたな。 そこで発句 かけごえは 畑だけにと 心得よ えっと~なぜ面白いかと言いますとぉ~「掛け声」と「掛け肥」をかけましてぇ~ああ、やめとこ でも対句 田んぼにも かけごえ撒くは 大たわけ もうひとつ 予想屋と 風呂屋のカマは ゆぅばかり

  • 上野浅草新古細工#08/霊的結界の再構築

    江戸浦の姿を定めていたのは坂東太郎(利根川)だった。滔々と流れ込むこの大河が江戸湊を広大な湿地地帯にしていた。その水は淡水でありながら汽水に近い。この地では灌漑が発達しなかった理由はおそらくそれだろう。人々は葦の間へ小さな丸木舟を出して、小魚魚介類を獲って生活していたに違いない。 その湊の中、唐突に浅草(アーシャ・クッチャ)の島が有った。渡来人によって干拓され、周辺から宗教的にも経済的にも独立した特異な地区だった。ちなみに前回、田村栄太郎の「浅草→アーシャ・クッチャ」説を紹介したが、築地本願寺の大谷光瑞もこの説を説いている。彼は僧侶籍の有能なチベット学者だ。 なぜ浅草(アーシャ・クッチ

  • 上野浅草話欄外書き散らかし/地域資料室という宝の山

    台東区中央図書館の2階に、郷土・資料調査室がある。ここは宝の山なんだが・・大半が禁帯で閲覧は出来るが借りだせない。おお~い、見るだけじゃ、私的な資料としてアーカイブできないんだよぉ~もっとデジタルアーカイブを進めてくれぇ~というのが、ワタクシの魂の叫びでございます。 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/1310615100 ちなみにここの髙相嘉男コレクションが面白い。見ているだけでドキドキする。こういう財宝は我が中央区にもあるはずなんだが・・ウチらンとこには未だない。何名か同じ方の撮られた写真は有るんだが、ある方(松川前区議・名前出しち

  • 上野浅草新古細工#07/既にあった街・浅草

    浅草という地名の初出は「吾妻鏡」だと思う。もしそうでなかったらぜひご教授ください。 吾妻鏡の治承五年(養和元年)七月三日のところに「若宮營作事。有其沙汰。而於鎌倉中。無可然之工匠。仍可召進武藏國淺草大工字郷司之旨。被下御書於彼所沙汰人等中。昌寛奉行之」とある。鶴岡八幡宮造営に際し、鎌倉に腕のよい大工がいないので、浅草の宮大工を召したというのだ。治承五年は1281年である。これが初だろう。 また建久三年五月八日のところには「建久三年(1192)五月小八日己夘。法皇四十九日御佛事。於南御堂被修之。有百僧供。早旦各群集。布施。口別白布三段。袋米一也。主計允行政。前右京進仲業奉行之云々。僧衆。

  • 今春には訪れるであろう大きな曲がり角について

    何回か書いていますが、今期岸田政権は22年の3月までに借換債を152兆円/赤字国債を63兆円を発行します。合計で215兆円。これで日本人が保有する資産と日本政府が同額になるという歴史的なイベントが今年の春にあるわけです。かならず時代は新しいステージへ進みます。 借換債152兆円の予定金利は0%です。金融機関は購入後これをすべて額面で日銀が引き取ります。パチンコ屋の三点方式ですね。これでお金を循環させる。つまり日本の国債は実質的な政府紙幣化しているわけです。 MMT信者が唱えている通り、政府はデフォルとしません。国債には金利がつくが、紙幣には金利はつきませんからね。結果何が起きるか? 円

  • ひとまわり 多い夜まわり 声自慢

    ムカシ音曲風呂というのがあったそうで、これに入ると歌が上手くなるということで随分流行ったそうですな。でも少なくても三週間は毎夜通わなけりゃいけなかったそうです。三まわりね。 そのことを思い出しました。 木挽町の冬の夜は、有志で「火の用心!」の木を入れながら夜回りが歩きます。・・軒先から小唄の稽古が聞こえたりね、佳い町です、裏銀座・木挽町。その木の音を聞きながら、円生師匠の音曲風呂を思い出しました。 で。 ひとまわり 多い夜まわり 声自慢 今夜も木枯らしが寒そうです。

  • 上野浅草新古細工#06/五臓六腑で考える

    山田 太一がまとめたアンソロジー「浅草―土地の記憶」の中に、前出・安房の碩学・鳥居龍蔵先生の「人文地理上より見たる江戸と浅草」が収録されている。ここに、こうある。 「浅草は沖積層デルタの出来ると共に出来た聚落で、ことに観音菩薩が中心として発達した所で、私はあたかもかのヨーロッパ中世紀の寺院都市と見たい。その発達の有様は同一であるように思う。そして観音が中心となってこれに工芸、商業などの付属して発達して来た、しかも宮大工の如きは鎌倉時代には鎌倉よりもここに居るなどは注意すべき事ではないか。 江戸は高台の聚落で、浅草は低地の聚落である。そして前者は政治的色彩を帯びた聚落であるが、後者は宗教

  • 上野浅草新古細工#05/浅草独立自治区

    反骨・在野の民間史学者だった田村栄太郎氏は「江戸東京風俗地理/浅草,吉原,隅田川(1964)」の中で、浅草観音発見三人組を「ゾロアスター教」の渡来人である看破する。ペルシャ人であると・・浅草という地名は宛字であって、チベット語/アーシャ・クッチャである。意味は"聖の在る所"である」と書いている。 江戸東京風俗地理〈第3〉浅草,吉原,隅田川 (1964年) www.amazon.co.jp Amazon.co.jpで購入する おやおやと思って書棚から日本書記を出して眺める・・大陸側から渡って来た渡来人は、大きな集団が三

  • 上野浅草新古細工#04/いい漁が あった三人 玉の輿

    阿波が生んだ碩学・鳥居龍蔵(徳島に鳥居龍蔵記念博物館がある)は、その書の中で浅草寺と善光寺の話をしている。 https://torii-museum.bunmori.tokushima.jp/default.htm 彼に拠ると、本邦の寺社の殆どは中央政府が建立したものであり、その持ち主は直下の僧家である。しかし浅草寺と善光寺は所有者が俗人の専頭・斎頭である。そして両寺院とも本尊が渡来人によって持ち込まれている。これが両寺院の際立った特徴だ・・と。 ちなみに善光寺の仏像は、諸々あって明日香村の難波池へ捨てられたものである。それを池のほとりを通りかかった者に仏像が声をかけて拾われ、そのまま

  • 上野浅草新古細工#03/浅草寺縁起

    では・・そんなトコに何故寺が出来たか‥という話だが、これは「浅草寺縁起」に聞くしかない。 「浅草寺縁起」は「応永縁起/承心縁起/寛文縁起」の計十巻で、なかで最古の資料は「応永縁起」だそうだ。「武蔵野国浅草寺縁起」と書かれている。 引用する。あとで抄訳するから飛ばしてもらってもOK 「推古天皇三十六戊子年三月十八日癸丑。碧落に雲きへて蒼溟に風しづかなる朝。江戸浦にて釣をたれ網を引業をなしけるに。おぼえず観音の像のみ網にかゝり給ひて。いと更に游魚の類は釣をもしづめざりけり。爰にあまのたぐ縄くり返し。又こと浦に浦づとふといへども。七浦の浦ごとにさながらおなじさまなる仏像のみかゝり給へり。此

  • 上野浅草新古細工#02/原江戸としての浅草#02

    駒形橋から真っすぐと迷いなく上野に奔る浅草通り辺りから、鳥の目線で俯瞰的に台東区を見つめる。それでカビみたいに生えてるビルや人々の生活の跡を全部剝がしてみる。そうすると眼前は、ほぼ数メートルの標高しかない低地地帯。左側が上野丘陵である。 上代・弥生/縄文の頃、眼前の低地は殆ど海中だったに違いない。蝦蛄(しゃこ)と穴子が闊歩する江戸湊海中大通りだったはずだ。もしかすると端っこのほうはハゼも歩いてたかもしれない。そして縫うように葦が覆う湿原の中に島が幾つもあったンだろうね。 浅草通り辺り・鳥の目/目線のまま振り返ると、江戸前島と日比谷入り江がある。他は同じく水っ溜まり。その葦の間から、人々

  • 上野浅草新古細工#01/原江戸としての浅草

    浅草が好きだ。 東京という街の中で「ここなら終生の地としてもいい」と思えるのは浅草だけだ。 佃でも勝どきでも、ましてや銀座でもない。魂の拠り所を感じるのは・・浅草だ。 そんなことをボソッと漏らすと、家内に「そうねぇ、あなたはチープなモノが好きだから」と一蹴されてしまう。 家内の中にある浅草の心象は、松屋と銀座線浅草を繋ぐ地下にある寂れ切ってしまった商店街なのかもしれない。 僕はあスこが何とも好きで、行けば必ずあの中のどっかの店に引っかかるからね。家内が同道しているときは露骨にヤな顔をされてしまうのです。「なにも買うものも食べるものもナイでしょ?」と言われる。たしかにない。でも「なくても

  • 本所新古細工#11/おわりに#02

    「両国橋は大川に架かった最初の大橋だったんだ」突き出しを突っつきながら言った。 「それまで橋はなかったの?」 「ん。舟渡しとか言って、舟を並べてそれを繋いで橋にしたり、そのまま渡し舟だったりした。 それがな、振袖火事がきっかけで大きく変わったんだ。江戸が大川越えてこっち側まで領地を広げてきたんだ」 「人が増えたから?」 「ん~それもあるが、火事が広がらないように建物の密集を避ける目的で、武家屋敷/寺社の多くをこっち側に引越しさせたんだ。元禄の頃だよ。それがきっかけで本所深川は、鄙びた郷から江戸に大変身したんだ。新興住宅地で中々おしゃれだったからな。往時の文化人は挙って大川端に住みたがっ

  • 本所新古細工#10/おわりに#01

    洋行帰りの荷風は自著「すみだ川」の序にこう書いた「新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒叢立つ都市の一隅に当ってかつては時鳥鳴き蘆の葉ささやき白魚閃めき桜花雪と散りたる美しき流のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖の詩人がいにしえの名所を弔らう最後の中の最後の声たらしめよ。」大正2年(1921)荷風41歳である。 「深川新古細工の「おわりに」に引用した芥川龍之介の「本所深川」はこうある。 「明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明

  • 本所新古細工#09/柴又の伊興遺跡

    ほんとはこのまま伊興遺跡の話まで区を跨いでしたい。伊興遺跡は、東京近隣の古墳群だし、なおかつ一部が保存されているからね。都内及び都周辺の遺跡は大半が度重なる開発によって破壊され尽くして見る影もないから・・その意味でも、すくなくとも「見る影」くらいは残ってる伊興遺跡は、過去への幻視の旅の強い縁(よすが)にはなる。だから足立区東伊興4丁目にある伊興遺跡公園展示館と園内に再現されてる(聊かチープな笑)竪穴式住居と方形周溝墓を書きたいけど・・ もし伊興遺跡の話をするなら・・新しく「足立新古細工」という稿も起こそう!ということにして、ここではもう少し近場の話をする。もし気になるようだったら伊興遺

  • 本所新古細工#08/米中関係を思わせる武蔵/下総の股肱の繋がり

    鉄剣が出土して一時とても話題になった稲荷山古墳だけど、あの鉄剣に「多加披次獲居」と云う文字が書かれている。これは宮内省内膳司を仕えていた同地の有力者・高橋氏のことだと言われている。 その高橋氏がまとめた家伝が「高橋氏文」だ。その中に磐鹿六鴈命と景行天皇/八坂媛の話が出てくるのだが、こいつがなかなか面白い。高橋氏の始祖である磐鹿六鴈命が景行天皇夫妻に蛤など山野河海の産物を調理し献上したという話だ。・・出てくるものは「つゆはしらあんこう(そりゃ金馬の居酒屋)」というわけではなく安房近海で獲れた鰹/葛飾の浦蛤/葛野の猪や鹿である。 これを江戸時代の碩学・伴信友が「高橋氏文考註」として詳細にま

  • 本所話欄外書き散らし/ゆうだちや たをみめぐりの かみならば

    先日の三輪鳥居からの連想で三囲神社を思い出した。それでゴソゴソと未明に起き出して書棚をかき回した。 「三囲の石碑」である。矢羽勝幸氏の佳作だ。三囲神社は、東京都墨田区向島にある。歌碑が幾つもある。 ちなみに三越の屋上にある(あった・・になるのかな?)神社も三囲神社。 向島の三囲神社は其角惜春が雨ごいで(半ば冗談で)詠んだ歌。ゆうだちや たをみめぐりの かみならばで、翌日大雨が降ったというンで有名になった神社だ。 「ゆ・た・か」の3字をアタマにのせてるのがいかにも其角らしい。江戸っ子は其角が好きだからねぇ。 「江戸名所図会」の中、三囲稲荷社の項には 小梅村田の中にあり。故に田中稲荷とも

  • 本所話欄外書き散らし/酔っ払いはどこにいく?

    前述のように、しばらく隅田区民として本所吾妻橋に住んでいた。ところがだね、実は酔っぱらって帰ってTAXIでまともに帰れたことがないのだ。これを「本所の七不思議」といってた。六本木か見附あたりで(接待で)しこたま飲んでTAXIに乗るんだが、降ろされたとこが本所吾妻橋じゃないことが間々あった。夜中の2時3時ごろである。僕は酔っぱらうと必ず嫁さんに電話する。東京の2時3時だからNYCのお昼ちょいの頃だ「ん~何処にいるんだか判らん」って。バス停のベンチあたりに座って電話する。「降りる前に確かめればいいじゃない!」と言われるが・・降りてみなきゃそこが何処だか見当つかないからなぁ~だから降りちまう

  • 本所新古細工#07/牛島神社

    さて、牛島神社である。隅田公園の中にある。 建立は円仁・慈覚大師。貞観年間(859-79)だと言われている。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人(最後の遣唐使)で最澄の弟子である。下野国の生まれだ。 その縁起を見ると 『貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになった』とある。 スサノオさん、えらい神さンで坊さん神主さん分け隔てなく夢枕に立ってくれる。 と

  • 本所話・欄外書き散らし/既視感deja vuと未視感jamais vu

    ボルドーという街は悠久の大河ジロンド川の広大な湿原地帯に作られた全くの人工都市だった。つくったのは、スペインとの戦争で狩りだされた非ローマ人たちである。彼らは一所・懸命で退役後。スペインの国境に土地と恩給を受けた。彼らはそこでブドウを育てワインを作った。 買ったのはローマの商人だった。彼らはそのワインをイベリア半島をぐるりと回って北のケルト人ブリテン人に売った。その専売に風穴を開けるべくピレネー峠を越えて、新しい交易地を/ケルト人との直接交易を目指して作られたのがボールド―という街である。 したがってボルドーは長い間治外法権であり、フリーポートだった。しかしカエサルのガリア戦争がきっか

  • 本所新古細工#06/関東文化圏

    結局のところ鎌倉公方と室町幕府の対立は、変転しながらも100年間続いた。いわゆる戦国時代は、関東から始まっているのである。 未成熟だった武人による支配構造は、揺籃の中で姿を整えていった。・・武力と管理構造である。この二つに秀でた武家が次第に台頭し戦国時代は収斂に向かう。 先ずは信長である。続いて秀吉。そして家康・・と、聞きなれた名前が1500年代後半から、日本国のキーパーソンとして確立していった。 関東は、相変わらず戦国の御代を引きずって里見氏と北条氏が対立していた。第一次国府台合戦は1538年。 両者の戦いは裏切りと阿りに満ちて、両者を著しく疲弊させていく。 さて・・・ 此処で一歩

  • 本所新古細工#05/吾妻鏡から里見八犬伝へ

    深川氏が開墾した辺りは一面水ったまりだったが、ヤマトタケルの后の櫛か上がった辺りには、充分ではないが地面っぱたは有ったのかもしれない。といっても海面数メートルくらいだったらしい。それでも頼朝が布陣(隅田宿)出来るほどの広さはあったんだろうなと思う。「吾妻鏡」のその辺のことは勇壮な話になっているので実態はよくわからない。同書では、隅田宿に集結した兵27,000とある。しかし「義経記」ではこれが一挙に89,000になってしまう。空間的な容量を考えても、おそらく「吾妻鏡」の数字の半分くらいと云うのが妥当な所だろうな。 http://adumakagami.web.fc2.com/aduma0

  • 本所話欄外書き込み/ナメクジと白石さんチ#03

    父はマリーンだった。 朝鮮半島での動きが風雲を告げるころ、勤務地が丸の内から横須賀に移った。母は僕を抱いて一緒に横須賀へ越した。 そして父が逝った。母は一人ぼっちになった。27歳である。 母は佃へ帰らなかった。しかし米軍の寡婦に対する支援にも頼らなかった。頼れば米国へ、逢ったこともない父の実家へ行かされる。。そう思ったらしい。母は、独りで生きる!と決心した。幸い父の部下が、陰に日向に母を助けてくれたようだ。しかし幼子(僕)を抱えて独りで生きるのは至難だ。僕は叔母(9番目)の処へ預けられた。叔母は大船にいた。松竹の人へ嫁いでいたのだ。 ・・その頃の僕の一番古い記憶は、満開の桜の木とその

  • 本所話欄外書き込み/ナメクジと白石さんチ#02

    なので「辰巳っぷり」と「江戸っ子気質」の違い。「侠・きゃん」と「任侠・やくざ」のちがい。「職人掘りと博徒彫り」の違いは、言葉を並べただけじゃ「目鼻のないアメンボーを並べたよう」な話になっちまうな・・と思った。 で。大川畔に生きた白石さんチの話を傍例として書いてみたいと思う。 思い出しながらダラダラ書いちゃうから、つまんねぇなと思ったら、この「本所話欄外書き込み」の項はスルーしてください。#^o^# 僕の母方「白石さんチ」は、碓氷郡安中の郷の人である。農家ではなく武家だったと聞く。明治の御代、一族の一人が青雲の意志をもって上京した。そして製本業を小石川あたりで営んだという。つまり東京に

  • 本所話欄外書き込み/ナメクジと白石さんチ#01

    志ん生の口述「びんぼう自慢」の中に"なめくじ長屋"というのが出てくる。 志ん生が暮らしていた業平あたりは、まだ湿地の風情そのままで、何しろ湿っぽいとこだった。なのでナメクジが多かった。同居者は無数のナメクジだったという。そして藪蚊が多かった。 同書を引用する。 『出るの出ねえのなんて、そんな生やさしいものじゃアありません。なにしろ、家ん中の壁なんてえものは、なめくじが這って歩いたあとが、銀色に光りかがやいている。今ならなんですよ、そっくりあの壁、切りとって、額ぶちへ入れて、美術の展覧会にでも出せば、それこそ一等当選まちがいなしてえことになるだろうと思うくらい、きれいでしたよ。 かかァが

  • 本所新古細工#04/隅田か墨田か

    家康の治水政策、江戸湊の干拓で出来上がった江戸に、荒川の支流が導かれた。しかし江戸時代を通して、その川総てを表す名称は定まらなかった。かみから云うと、荒川・千住川・浅草川・宮戸川・大川・隅田川・三又川と幾つも名前があった。その川下に棲む僕らは、吾妻橋から下流を「大川」と呼んでいたことは前述した。 上古から記されている「すみだ川」は、いまの隅田川ではない。 奈良時代に書かれた「太政官符」では"住田川"と表記されている。平安末期に書かれた「今昔物語」では角田川だ。鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」では「隅田川」と表記されている。しかしいずれも表記は違うが「訓読み」は"すみだ川"である。"すみだ

  • 本所新古細工#03/隅田公園

    僕の隅田区民時代のアパルトマンは隅田公園に隣接していたので、自宅でも仕事に厭きると昼夜関係なく園内を彷徨した。 公園のすぐそばにマイナーな地元っぽいコンビニが有ったから、深夜は此処で買い物した袋を下げて充てもなく公園を歩いた。歩くったって見るものは大してない。・・桜の季節は寧ろトンデモないことになるので避けた。あるのは牛島神社と「水戸徳川家小梅邸」跡の看板くらいなもン。そんなもん一度見りゃそれで充分だ。 それでも仕事に厭きれば・・外気を吸うだけのために歩いた。 隅田公園は「水戸徳川家小梅邸」の跡地だ。看板にそう書いてある。看板屋が嘘つきじゃないかぎり、その通りなんだろう。・・というか

  • 本所新古細工#02/吾嬬神社#02

    十三代景行天皇の皇子日本武尊東征の項。日本書紀と古事記とでは微妙に違うので、併載する。 日本書紀・景行天皇 亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。 古事記・・景行天皇 自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上

  • 本所新古細工#01/吾嬬神社#01

    前稿で書いたが、僕は一時「墨田区民」だった。隅田公園のすぐ近くに、ウチのスタッフが用意したアパルトマンに月に一度乃至ふた月に一度ペースで暮らした。存外肌に合う街で、最初、夜の食事は浅草ばかりだったが、そのうち吾妻橋を渡るのが億劫になって「本所」側で用足すようになった。そのとき、思ったのは市井の人の気質が大川を渡っただけで大きく違うことだった。本所の人は・・深川の人、月島の人に近い。近在の呑み屋で隣り合った人との話も、この町に古くから暮らす人の風合いが有った。旅人の町ではない。 微妙(いみじ)くも家内が言った「その辺のひとは、その辺で生まれてその辺で育って、実家の仕事を継いでその辺で結婚

  • 本年3月をもって量的緩和は停止する

    FRBは、6週ごとに連邦公開市場委員会(FOMC)を開きます。今回、その席で金融引き締めを発表した。 内容は、本年3月をもって量的緩和は停止する。しかし保有国債の放出はしないというものでした。ただし転換債はしない。 どこかの国の発行国債の半分を短期に替えて、すべて転換債に随時変えるという、漫画のような自転車操業とは抜本的に違う対応です。 FRBは、現在9兆ドル(含むMBS)ほど保有している。これを年で1.5兆ドル程度、転換債にしないまま処理していけば、FRBの中の民間銀行が持つ当座預金はかなり大型な縮小になる。おそらくこの手法を、欧州各国の中央銀行は踏襲するでしょう。 ・・政府ファイナ

  • バブルはそれが終わった時にしか、それがバブルだったとはわからない

    バブルはそれが終わった時にしか、それがバブルだったとはわからない・・クリンスパンの名言です。 2月に入って世界の平均株価が15%近く落ちています。4週にわたって落ち続けたのはコロナ危機(2020/03)以来です。 シラーP/Eは2月1日火曜日18:00ESTで37.56 +0.26(0.69%)極めて高い。平均値は16.91です。 株価時価総額は過去10年間の平均企業純益×シラーP/Eです。つまり16.91年分の利益を株価時価に見る。それが37.6です。倍以上ある。これは間違いなくバブルです。事態は平均値に向かって収斂します。 一方VIXは2月2日火曜日6:25ESTで21.24。1月

  • 大量投与で動脈硬化は治らない

    アベノミクスの致命的な読み間違えは、お金の総量が増えれば如何なる動脈硬化も堰を切って流れるだろうと決めつけたことです。インフレは起きるだろうと・・ しかしお金は使わなければインフレは起きません。 岸田政権の「企業の内部留保」の締め付けも、基本的にはこの理屈の上にある。笑止です。 何故お金が使われないのか?そのことについての抜本的な対症療法がなければ、動脈硬化を解決することはできません。MMT信者の寝言は病人を死に至らしめるだけです。 僕は倅の言う「歩け鍛えろ。鍛えれば身体は健康になる」という言葉を丸呑みして、年齢に相応しない過度の散歩が原因で骨粗鬆症を悪化させて車椅子生活になった夫人を

  • 深川新古細工#10/おわりに

    再度、芥川龍之介を引用しよう。 『僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。従つて何処を歩いてみても、日本橋や京橋しのやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。』と、龍之介は冷たく言い放す。しかしその冷たさの中に、僕は切りようのない地祇との臍帯を感じてしまう。 つづける。 『後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋かどこかにあつた或可也大き

  • 深川新古細工#09/振袖火事

    1657年3月2日(明暦3年旧暦1月18日)木枯らしの強い朝である。本郷/小石川/麹町の3か所からほぼ同時に火の手が上がったと言われている。今となっては確認のしようがない。火事は3月2日から4日まで3日間続き、まだ普請が終わりきっていない江戸市内の大半を焼き尽くした。江戸最初の大火。そして最大の大火・明暦の大火所謂振袖火事である。この火事で外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失した。死者数は3万から10万と云われている。 徳川幕府はすぐさま復興政策を取った。実は、江戸はこの大火を契機に大きく姿を変えたのだ。僕らが知っている江戸の町は、この大火事以降の江

  • 深川新古細工#10/おわりに

    再度、芥川龍之介を引用しよう。 『僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。従つて何処を歩いてみても、日本橋や京橋しのやうに大商店の並んだ往来などはなかつた。」と、龍之介は冷たく言い放す。 しかしその冷たさの中に、僕は切りようのない地祇との臍帯を感じてしまう。』 つづける。 『後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋かどこかにあつた或可也

  • 深川新古細工#09/振袖火事

    1657年3月2日(明暦3年旧暦1月18日)木枯らしの強い朝である。本郷/小石川/麹町の3か所からほぼ同時に火の手が上がったと言われている。今となっては確認のしようがない。火事は3月2日から4日まで3日間続き、まだ普請が終わりきっていない江戸市内の大半を焼き尽くした。江戸最初の大火。そして最大の大火・明暦の大火所謂振袖火事である。この火事で外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失した。死者数は3万から10万と云われている。 徳川幕府はすぐさま復興政策を取った。実は、江戸はこの大火を契機に大きく姿を変えたのだ。僕らが知っている江戸の町は、この大火事以降の

  • 深川新古細工#08/小名木川・塩の道

    如何な駿馬も老いれば駄馬と化す。 かくも「老いを識る」のは難しい。風姿花伝は稀有だ。 老いた秀吉は我が血に偏執した。それが妄執となって秀吉王朝は斃れていった。なぜ支配者は血族に拘るのか?その延長としての地縁に拘るのか?閥なるモノの構造と機能を見つめるとき、僕らは人の繋がりの根に何を置くべきか・・とても考えさせられるものがある。 と、まったくアサッテな所感から"深川話"を続けたい。 秀吉が刀狩令を府令したのは1588年8月29日(天正16年7月8日)である。これが深川氏の下総移住の原因だとすると(僕の妄想)家康より2年早く深川氏は江戸湊に着いていた計算になる。 居を構えたのは現・常磐町

  • 深川新古細工#07/深川氏による干拓#02

    深川八郎右衛門の居宅は、おそらく元町にあった。旧名・元町は今の江東区常盤一丁目あたりである。干拓当初、そこいら辺は全部水ったまりだったが、元町は丘の恰好をしていたらしい。その丘に地鎮である深川神明宮が在った。深川八郎右衛門はこれを整備し再建した。そして菩提寺である泉養寺もこの地に起こした。だから此処に深川一族は居宅を構えた、と言い切っても良いと僕は思う。此処を拠点として深川八郎右衛門は、小名木川北岸一帯の開拓を始めたに違いない。 いささか冗長になるが「泉養寺記」を引用する。うっとしかったら飛ばしてください。 『武州深川開祖二十七ヶ町名主深川八郎右衛門は摂津国産にて、慶長以前今の深川茅

  • 深川新古細工#06/深川氏による干拓

    武蔵国・西南端の江戸湊は(そんな言葉は当時無かった)香取の海の最西部に接している。 江戸湊を何処までが下総か、何処までが武蔵国かを分けるのは難しい。実にあやふやな境界線で、ふたつの世界は繋がっていたのである。徳川幕府が利根川の治水を為し、広大な江戸という埋め立て地の南に(今は隅田川と呼ばれている)水路を引いたとき、川の東側を下総とし西側を武蔵国・江戸と仕切ったのは、僕は遙か東の香取の海の文化圏と歴史(平将門)を見つめていたからではないか・・そんな気がしてならない。 たしかに、方角から「辰巳」と呼ばれた深川・本所の人々は、江戸の町民/職人そして武家ともちがう特有な気質を持っていた。いわ

  • 深川新古細工#05/湾内に広がる水溜まりだった江戸湊

    その武蔵国の南東端・江戸湊の中にポツリとあるのが太田道灌の千代田城である。家康はこれを「我が城」として選んだ。 千代田城がある丘陵は武蔵国の東のドン詰まりである。周囲は湿原と水たまりで覆われている。太田道灌は天然の要塞としてこの地を選んだが、家康のころ既にそんな城は時代遅れだった。それでも敢えて家康はこの城を選んだ。 なぜ香取の海を選ばなかったのか?豊かな北関東の穀物地帯へ水利で簡単に繋がり、なおかつ房総の海によって西とも足繁く交易がおこなわれていた地を選ばなかったのか? たしかに江戸湊には品川があった。品川は陸路による西との接点であり海路の要所だった。しかしそのサイズは香取の海に比

  • 深川新古細工#04/セピア色の風景・武蔵野

    家康が「我が領土」として選んだ武蔵野から江戸湊を俯瞰的に見てみると・・この地が南東へ緩やかに下る丘陵の地なことが判る。 地表は富士山の度重なる噴火で吐き出された所謂「関東ローム層」で覆われている。北東部は多摩山塊で険しい。緩やかに続く下りは、当時は雑木林が綿々と続く地だったに違いない。 1000年前、この地を父と共に旅した(まだ少女だった)菅原孝標女は日記(更級日記)のなかで武蔵野の地をこう書いている。 「今はむさしのくにになりぬ。ことにおかしき所 も見えず。 はまもすなごしろくなども なく、こひぢのやうにて、むらさきおふと きく野も、あしおぎのみたかくおいて、 むまにのりてゆみもた

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