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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • ご府外新古細工#07/開かれたマチ・閉じられたムラ

    豊臣秀吉は、"農"と"武"を分離した折、"農"は原則ムラ単位で自給自足とすべしとしている。「ムラ」とは「ムレ」である。群れは自己完結せよ。着るものも履くものも道具も食うものも全て「ムレ」単位で自産自消せよとした。 では。ここでいう「ムラ」とは如何ほどのサイズか? 大化改新では、この「ムラ」という単位を「里」と言っている。 里は50戸を単位とし、これが集まったものを郡としている。郡の集まりが国だ。 この50戸=1里は、後年さらに分解され5戸を一つとする隣保組織に替えられていく。納税は保単位で行われ、5戸の中で支払えない者が出れば、それを残りのものが補填すること、とされた。 荘園時代に

  • ご府外新古細工欄外/新しき檸檬を持って

    今日は檸檬を持って本屋に行った。丸善である。残念ながら京都のそれではない。 「日本橋、いくよ」と言ったら嫁さんが「あら、私も行こうかしら」というから、二人で行くことになった。これを僕はヒソカに"金魚のウンコ現象"と呼んでいる。 檸檬と金魚。なんとなく江戸前かな・・ ところで・・最近行きたい本屋が極端に少なくなってる。日販・東販のマワシモンみたいな本屋ばかりで、思想を感じる書店が激減してるからだ。本を買うならamazonで充分だ。検索かけて買うならそれでいい。それでも本屋に行くのは、書の"圧"を肌で感じたいからなんだよ。図書館にはない"圧"が書店にはあるからなんだ。 書の杜。 その杜をど

  • 甲州ワインの謎#04/甲州種葡萄2000年の感傷旅行

    畿内に統一王朝の原型が整い始めたのは紀元7世紀の半ばからでした。大宝律令完成は大宝元年AC701年。皇極天皇四年AC645年6月14日の乙巳の変から始まり半世紀かけた揺籃と策謀の大改革でした。大化の改新について書くと長くなるので此処では書かない。ただひとつだけ・・「日本」という呼び名がこの国の正式呼称になるのはこの時からだということにには触れたい。あとで日本という国名の成立話をするマクラだと思ってください。 爾来日本列島にある王朝は、何れもYAMATOだった。YAMATOは「古事記」では夜麻登/山跡と書く。「万葉集」では山常/也麻等/夜末等/夜万登/八間跡などと謡わる。「日本書紀」

  • 甲州ワインの謎#03/大陸からの入植者ラッシュ

    ヨーロッパ種の葡萄である「甲州種」をいつ誰が何処から此処へ持ち込んだのか?思い切り想像の翼を広げてみようとたくらんでいるのですが、その前にやはり「渡来人」について言及する必要がありますね。 「日本へ渡って来た人/渡来人」です。帰化人という新造語もありますが、ここは"渡来"という古い言葉を使いましょう。"帰化"という言葉の裏には、帰化した先の国は文化豊かだったというニュアンスがある。2000年前の日本を考えると、やはりこの"帰化"という言葉は相応しくないと思ってしまいます。 さて。日本にヒト類が棲むようになったのは第四氷河紀の更新世の終末から完新世初頭のようです。 1万6000年く

  • ご府外新古細工#06/世間胸算用#02

    そして、「カネとヒト」が地方での生産に集まるようになると・・当然のように商品の「差別化」が始まる。つまり、次々に「〇〇なら〇〇」という「売れる化」という経済原理が動いたのだ。山形の紅花や水戸の煙草などや、関東一円で盛んだった養蚕業。近畿地区の木綿や、近畿地方の種油。あるいは阿波の藍などなどである。こうした傾向は米の世界にもおよんだ。肥後米・尾州米・加州米などという銘品が生れたのである。こうした経済原理は、対応できる者と出来ない者の間に際立った格差をもたらす。農家の分解はさらに進んだ。富の偏析はさらに進んだ。 つまり単純化モデルとして捉えると、農家は「富める農家」と「貧しき農民」を分解し

  • ご府外新古細工#05/世間胸算用

    井原西鶴の「世間胸算用」に織田作之助がこんな現代語訳をつけている。 「町筋に中店を出して、商いにいとまなく、金は水のように流れ、白銀は雪のようだ。富士山のすがたもゆたかに、日本橋をわたる人の足音は滝の音のように開かれる。本船町の魚市は、毎朝の売上帳が大へんなもの、広い海とはいえ浦浦に魚の種がよくつきぬものだと取沙汰している。神田須田町の八百屋ものは、毎日の大根が黒馬に積まれて数万駄もつづくありさま、まるで畠が歩くようだ。半切に移しならべた唐辛子は、とんだ秋たけなわの竜田山を、武蔵野に見るおもいがする。瀬戸物町、麹町は黒雲を地に見る盛況、伝馬町に綿を積んだところはまるでみよしのの曙の山々

  • ご府外新古細工#04/歩成り(奴)武士が徘徊する町

    支配者(管理者)と農家等を分離させるというアイデアは秀吉のものだった。 領地主は領地権のみを持つ。その領地権は中央政府か論功行賞と石高によって査定され差配されるが、一定期間で移封されるとした。その際、領主が連れ出るのは家臣のみで農家などは全て滞まるとされた。 これによって家臣と非家臣が明確になり、領主が家臣(兵)として保持できる数の絶対数が決まり、中央からの管理がより容易になる。そのために刀狩りが行われ、領主が兵士として持てる頭数が定まった・・のである。 家康はこれを踏襲した。しかし現実には、大掛かりな配置転換が実行されたのは家康存命時だけで、そののちは半固定化され、移封は直参大名のみ

  • ご府外新古細工#03/新田の開拓が近郊農家の人構造を変えていった

    家康は、江戸入城にあたって、数万の武士と、先ずは小田原商人を引き連れていた。農民は、そのまま"原住民"を我がものとした。小田原商人に次いで、入ってきたのは伊勢商人だった。日比谷入り江が埋め立てられ、周辺の干拓と整備が進むと、京・堺の商人たちも家康の命令によって次々と新開地に入植してきた。彼らは何を商ったか。関東・東北の物産、材木/石目特産部/海産物/乾物などだ。そして多くは「下りもの」上方で作られた様々なものだった。江戸は彼らによって・・関東人ではなく異邦人によって見る間に埋め尽くされていった。入植したのは農民漁民はほとんどいない。大半が商人と職人、そして武家だった。もちろん例外はある

  • 甲州ワインの謎#02/東アジア系野生種ビティス・ダビィ

    甲州種について、最近の技術SNPs解析がより精度の高い分析結果をだしてます。 それによると「甲州種」はビニフェラ71.5%、東アジア系野生種28.5%のハイブリットだということです。 実は、そのSNPs解析と共に葉緑体のDNA配列も調べてみると、より正確に「甲州種」の出自を明らかにすることができます。SNPs解析によって確認できるのは、AのDNAとBのDNAが混合されていることです。しかしその片方のDNAが間違いなく東アジア系野生種ビティス・ダビィであるという確証には弱いのです。もしかしたらビティス・ダビィにちかい変性種との混合もあり得るからです。しかし葉緑体のDNA配列の場合、葉緑体

  • ご府外新古細工#02/江戸は寒村ではなかった

    家康ご入城の頃を「落穂集」はこう書く。 「郷村の百姓共の儀は、目も当られぬ有様にて、其所の名主、長百姓たりとも、家内に床をはり、畳を敷たる家とては一軒も無之、男女共に身に布子ぬのこと申物を着し、縄帯を致し、わらにて髪をたばねたる者許ばかりの様に有之候由、其時代の老人の物語を我等承りたる事に候」 「落穂集」は江戸初期に、大道寺友山重祐によって書かれた書である。江戸が寒村だったと書く。 「石川正西聞見集」にも、こうある。 「其比は江戸は遠山居城にていかにも麁相、町屋なども茅葺の家百軒計もあるかなしの躰、城も計にて、城のやうにも無之、あさましきを奇特に秀吉公御見立被成候とて諸人かんじ申候」と

  • ご府外新古細工#01/旧き神を見つめて始める

    高校時代(1960年代後半)「新宿、遊びに行っつくらぁ」と母に言うと、母は真面目な顔で言った、 「およしよ!そんな遠いトこ行くのは、あスこは駅前で牛啼いてンだから」 生涯の大半を中央区/千代田区/江東区だけで過ごした母にとって、"世界"とはこの三区だけだった。(よくまあそれでアメリカ人と一緒になったもンだといつも感心してるンだが) そんな母の言ぃ草を、僕はいつも「啼いてねぇよ。いつの時代のこと言ってンだ。」と笑い飛ばしていた。 と・・言いつつも、僕自身も東京の北限は山手線上部までで、総武線をそれより上に行くことは殆どなかった。ましてや新宿・高田馬場・池袋から出ている私鉄に乗るなんて

  • ドラえもんがいなくなったのび太君はどうするのかなぁ#02

    https://www.jiji.com/jc/article?k=2022020800339&g=eco 日本国を支えてきた経常収支が赤に反転しました。これが黒に戻ることはないでしょう。 団塊の世代が「団塊老人の世代」になったいま・・3000万人に増えた年金受給者は平均で毎月4~5万円の預金を切り崩しています。そうしないと月間26万円という生活費が支えられないからです。早晩その「月間26万円」という生活費も失速します。・・これのどこが「短期的」とのび太は言い張るのか? ところで・・実は先日、某方とお話しした時、その方がこの構造不況の原因について何も実態を見ていないことに内心驚

  • ドラえもんがいなくなったのび太君はどうするのかなぁ#01

    官吏と政治家が触れたがらない事実があります。それは終戦後、1960年代から発行している国債を、過去ただ一度もそれを現金として日本政府は支払ったことはないということです。すべて・すべてです。すべて転換債として、国民から借りた金は"先送り"にして、借金を積み上げているのです。 このことはキチンと頭に入れておきましょう。でないとなぜこれほどの政府の借金(国債)が、ドカモリになっているかが、正しく理解できません。日本政府の借金(国債)が他国より数倍な理由はこれです。日本国政府は、なんと!!ただ一度も国民に"ありがとうございます"と返したことがないのです。 前回は、そうやってドカモリした借金をど

  • 新宿新古細工#20/おわり~新宿南口ドヤ町

    新宿駅には旧国鉄の広大な新宿貨物駅があった。僕が知っている南口はそんな仕事場でニコヨン仕事をしているオヤジたちの町だった。 駅をまたぐ陸橋の上から見る貨物は、ムカシ見た京浜東北と同じあずき色の車両ばかりで、不気味な音を立てる電気機関車が荷物を積んだ車両を如何にも重そうに牽引していた。線路には彼処にオヤジたちが動き回っていた。 そんなオヤジたちは、西口のションベン横丁ではなく南口の薄汚い呑み屋にタムロしていた。なぜか僕のマネージャーだった三舟さんはそんなオヤジたちと知己の間だった。三舟さんはいつもそんなオヤジたちのいる店に行くと店中の勘定を全部持った。僕はそれが不思議でならなかった。ある

  • 幸せは 小さくてよし 青い菊

    幸せは 小さくてよし 青い菊 Happiness is good for small, blue chrysanthemums 三年ほど前、いまグランブルーある所に物件を見つけました。青い9階建てで、銀座のはじっこ「柳通り」にポツリと有るビルでした。 木挽町は晴海通り歌舞伎座の裏から「松屋通り」「マロニエ通り」「柳通り」と続きます。「柳通り」は、昭和通りで銀座から分断され、横断歩道がなく陸橋なので、これを渡ってくる観光客は稀です。良くも悪くも喧騒から離れて、ある意味「裏銀座」とも云えるところです。この青いビルの一階が空いた時、櫻井も家内も僕も、店を出すなら此処しかないなと確信しました。

  • 今年の社員旅行はベニスにしたいなぁ

    ベニスが好きだ。何年かに一度は必ず行くことにしてる。先回は下の娘と三人で出かけた。ホテルはダニエリにした。なので、朝食はダニエリのルーフトップレストラン「テラッツァ・ダニエリRestaurant Terrazza Danieli」で毎日した。 ロケーションはほんとに抜群だけど、さすがに寒いから室内での食事になった。でも窓の傍テーブルだったからラグーンを行き交う船を眺めながらの食事だった。良かったよ。 ときおり大きなカモメが、ちょこんと窓辺に止まるのがかわいい。食事のクオリティもサーブも気配りが出来て、満足度は高い。きっとこれがダニエリの"魔力"なんだろうな。この魔力が

  • 甲州ワインの謎#01/酒の肴の歴史話

    店は閉めたままなのにもなぜかワインの在庫はドンドンとなくなってきます。ふしぎだなぁ。どうもワインセラーの底に穴が開いているらしい。困った困ったと云いながら夕食になってます。 夕食はたいていママの実験作を消化する時間で、続くときは同じ料理の改良版が10日くらいは普通に続くのです。まあ、大事だからね。最大ソリューションを求める道は遠いです。きょ~りょくいたします。 て、ことで・・珍しくついでに出るワインが今夜は国産ワインでした。 甲州種です。 甲州種はですね、とても謎に満ちた葡萄なんです。 ママの実験作を食しながら、甲州種のことを話し始めると、古代史の深い闇の中をさ迷うことになるのです。・

  • 新宿新古細工#19/じっくりと姿を変えていく新宿

    宿場町が消滅しても市場は残った。近在農家は生産物を売る場所まで放棄しなかった。しかし街道は寂れていった。 さて、内藤氏だが・・藩主としては内藤頼直(1840年11月20日)が最後である。彼は長州征伐には幕府側として参加しているが、戊辰戦争では明治新政府側として参戦している。版籍奉還の後は高遠藩知事になった。その内藤氏の屋敷だが、明治5年に明治政府(大蔵省)に極めて安価に買われた。内藤氏の上屋敷は今の神保町あたりに在ったが、こちらも無くなっている。 明治政府(大蔵省)はこのとき(翌年)南隣の千駄ヶ谷村の一部も買った。そしてこれらを合わせて農事修学所を設置した。しかし明治9年、早々に駒場野

  • 新宿新古細工#18/新政府の采配

    内藤宿を別にすれば、赤坂大木戸より西は農家と武家屋敷寺社の地だった。町屋は少ない。面積的にも農家が1/2を占めていた。その意味でも新宿は、その頃から町屋が大半を占める大川周辺とは全く違った「江戸」だったのだ。 維新の風が江戸の町を吹き殴ったときの影響も自ずと違った。売り掛け/買い掛けだけの上に成り立つ商人は、取りっ逸れればそれこそ命に係わる。しかし農家は違った。実物がある。たしかに売り掛け/買い掛けはあったが、それが致命症にはならない。ただ、売れなければ困る・・という程度のものだ。 江戸市中の武家が一斉に郷許に戻り、江戸の人口が半減したことで、商取引は麻痺した。しかし近在農家はそれほど

  • 新宿新古細工#17/内藤新宿#02

    内藤新宿は開設20年目に一度閉鎖されている。理由は"風紀の乱れ甚だしく"とされた。 こんな話が伝わっている。 旗本・内藤新五左衛門の弟に大八という者がいた。大八は内藤新宿の旅籠屋へ遊びに出かけて飯盛女と揉め、下男に袋叩きにされてしまった。これを知った兄は激怒、武士の恥とし弟に切腹を命じた。そしてその鳩首を大目付に届け、自らの知行を差し出すので武士を侮辱するような宿場は廃止してほしいと申し入れた・・という。 唐突な閉鎖の御触れでも内藤新宿は大混乱に陥った。旅籠・料理屋などは大半が閉鎖。糖屋ばかりがいくらか残る殺伐とした街道沿いの町へなってしまった。 再開は何回か道中奉行所に出されたが、叶

  • 新宿新古細工#16/内藤新宿

    内藤家は伊那・高遠藩の藩主である。伊那・高遠はいまの長野県南部に充たる処だ。元々は武田氏の地であったが、武田没落後"天正壬午の乱"を経て徳川家康の勢力下にはいっていた。しかし家康が関東へ移封されると豊臣家管理になってしまう。これが再度家康の手に戻った時、家康は山形の鳥居忠春を移封・領主とした。しかしこいつがとんでもないポチョムキン野郎で、中央幕府へ徹底的に阿ったため、領民は飢餓に陥った。結果、忠春は侍医・松谷寿覚によって殺されている。継いだ子の忠則も凡才な人物で、結局はわけわからない"高坂権兵衛事件"に巻き込まれて自害し、廃藩となり、その後は徳川直轄・天領となっていた。これを内藤家が元

  • 新宿新古細工#15/大久保長安と内藤清成

    中山道は下諏訪宿から軽井沢宿を通って高崎から板橋宿へ入る。そして江戸だ。 甲州街道は四谷大木戸門へ入った。江戸には大木戸門が二つあった、ひとつは四谷であり、もうひとつは品川(高輪)だ。四谷大木戸門からは、甲州街道とともに甲州裏街道として脇往還である青梅街道が北西へ向かって走っていた。 その甲州裏街道である青梅街道は当初成木街道と呼ばれていた。ここを整備したのは大久保石見守長安である。彼は甲斐武田氏の家臣だった人物で、幕閣として入閣したのち、加判・年寄衆・所務奉行・一里塚奉行・関東代官頭・その他代官・奉行を務めた。石見・佐渡・伊豆の金山奉行も務めている。 彼は江戸城築城に使用する壁材/石

  • 新宿新古細工#14/五宿制定の意味

    家康は開府の翌年に五街道を制定した。彼が陸路・五街道を極めて重要な国家経営的なツールとして考えていたか・・このことからも知れるだろう。五街道とは、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道である。ここでは甲州街道/中山道にスポットを当てる。 かつて東山道と呼ばれた中山道は古道だ。 律令は畿内の他を7道に分けた。五畿七道である。7道とは、東海道/東山道/北陸道/山陽道/山陰道/南海道/西海道。このうち東山道については「続日本紀‐宝亀二年十月己卯(771)」にこうある。 己夘。太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。〇供堪難。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。

  • 新宿新欄外描き散らかし/晴天のあいまに四谷散歩#02

    帰宅した。稲荷寿司を嫁さんと二人で食べた。9個入りを買ったンで、公平に6:3に分けて食べた。 「すごく普通ぽくていいわね。」 「ん。奇を衒わずいい。歌舞伎座の傍の〇〇なんて食えたもンじゃない。」 「そお?私は好きだけど。さやかも好きよ」と娘を味方に入れたがった。 「志乃多寿司は、浅草の志乃多寿司の暖簾わけだ。浅草もいいぞ。」 「ふうん。こんなかんじ?」 「ちょいと違う。暖簾わけったって、それぞれに工夫があって100年経っちまったからな、とても良い形で技術が熟成されてる。」 「あら。あなた、いつも老舗は何処も大抵不味いってなかった。味を守るしかないから結局時代に取り残されるって」 「ンん

  • 新宿新古欄外書散らし/晴天のあいまに四谷散歩

    天の底が抜けたような大雨が終わった。日が指してきた。ベランダへ出たら、佐保姫の息吹が頬を撫ぜた。 佐保姫は東大寺に近い佐保川の北、佐保山におわします女神だ。夫木和歌抄に「佐保姫の 織りかけさらす 薄機の 霞たちきる 春の野辺かな」とある。 菅原道真は「東風吹かば」と詠んでいるが、あれは春風のこと。春風は古今"東方"から吹くものなのですよ。 佐保姫の 息に頬染め 地蔵かな 「お~い、四谷いくぞ」とキッチンに怒鳴った。 「なにしに?」 「おいなりさん、買いに」 「おいなりさんって、稲荷寿司のこと?」 「そうだ。四谷にはお前なんか目ん玉飛び出るくらい」 「座りションベンしてバカんなっちゃう

  • 新宿新古細工#13/武田氏旧臣を重用した家康

    後北条との戦いに勝った家康は、褒賞という名目で240万石へ増高されるとともに転府を命じられた。相模/関東地方へ実施的な左遷処分をうけた。すでに自分に継ぐ実力者になっていた家康を秀吉は恐れたのだ。なので移封後の家康旧領地、三河/駿河/遠江/甲斐/信濃はすべて豊臣氏直轄とし、家康の西進を阻止する態勢を組んだ。家康はこれを黙って呑んだ。呑んだうえで江戸の大改造を行った。江戸を次代の首都にする決意だったのだ。 そして秀吉が逝く。秀吉の天下はいとも簡単に崩落。家康の御代となった。 家康はすぐさま旧領をオノレの手に戻した。そして子飼いの大名である浅野氏を紀州へ、甲斐には鳥居/平岩、諏訪には諏訪氏を

  • 新宿新古細工#13/人は城、人は石垣、人は堀

    僕は東海大の相模原キャンパスへ通った。借りたアパートは学校のすぐ側、大根駅の近くだった。 大学は1.5万坪。学校の中に市バスが走っていた。キャンパスと周辺地とは一見曖昧で、校内にはどこからも入れた。一度大ホールで現代文明論の講義を受けているうちに、教室に野良犬が舞い込んできたことがあった。学生全員が大爆笑をした。その野良犬はキャンパス内に住み込んでいる奴で、みんなが色々餌をやってた大人しい赤犬だったんだけど、そいつの横腹には誰かが「松前のイヌ」と大書してあったんだ。 必須科目だった現代文明論の授業である。「おお!松前のイヌが、余計なことしゃべってないか見に来たぞ」とみんなで大笑いしたの

  • 新宿新古細工欄外/つげ義春と新宿気質

    つげ義春の「ねじ式」を読んだのは、高校三年の夏休みの頃だ。なぜ憶えているかというと、前述した銀座ウルワシのホステスさんだった娘のアパートに(牛込にあった)ウダウダとタムロしていた時期と重なるからである。そのウルワシの子が(といっても僕より10歳以上年上だったが)「ガロ」の読者だった。それでバックナンバーを小さな書棚にため込んでいた。午後遅くなると西日の差すアパートだった。その西日を避けて化粧を始める彼女の背中を横目で見ながら、僕は寝転んで「ガロ」を読んだ。「ねじ式」はその中の一冊に掲載されていた。2色刷で赤と黒のコントラストが鮮明だった。 つげ作品は同じくガロで「李さん」や「ゲンセンカ

  • 新宿新古細工#11/淀橋貯水場から玉川上水を偲ぶ#04

    鳶魚翁がおっしゃる通り、玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までは素掘りされた。全長約43km標高差92mである。四谷大木戸からは地下に石樋、木樋による配水管を布設。ここから四谷/麹町/赤坂/芝/京橋などに送られた。 ・・送られた?ところがこれが何処まで正常に機能したかについては殆ど記録がない。 時代が飛んで、昭和61年7月23日の読売新聞の記事を見てみよう。 「武蔵野の地を東へと走る玉川上水に、二十一年ぶりに清流を復活させようという計画がピンチに陥っている。来月二十七日に通水式を控えて、今月十五日から試験通水を行ってきたが、「清流」は、復活計画区間十八キロのうち、放水地点からわずか五

  • 新宿新古細工#10/淀橋貯水場から玉川上水を偲ぶ#03

    前述「上水記」第八巻に「玉川庄右衛門清右衛門の書付」というものがある。引用する。 「玉川上水の儀六十三年以前承応元 壬辰年まで御城内ならびに御城下御武家様方共上水道御座なく候につき、下々 にては御堀又は溜池などの水を樋にて仕掛け取用申候よしにて御不自由に御座候につき、上水道にまかりなるべ き水筋これあり候はば見立て願い上げ候よう町御奉行神尾備前守様かねて拙者共親両人へ仰付けられ候あいだ、 所々吟味っかまつり候処武州羽村と申すところより玉川上水を見立て、御当地まで道法拾三里ほどの所野山共に 日数水盛吟味つかまつり、御用水にまかりなり申すべき段委細絵図書付をおって御評定にて申上候」 「御評

  • 新宿新古細工#09/淀橋貯水場から玉川上水を偲ぶ#02

    豊臣秀吉の死が政権内部に政治抗争を起こしたのは、独裁者がしばしば起こす「あるある」だ。 毛沢東をみる。毛沢東は絶対的権力を握ると、功を求め大躍進政策(1957)を強行している。その市場原理を無視した机上の空論を否という者は周囲にいなかった。(いまのMMT話と同じ)結果的には産業/インフラ/環境を混乱破壊し、1,500万〜5,500万人の死亡者を出している。これが文化大革命へ繋がっていく。こうした毛沢東の老耄は、夫人江青をコアとした4人組の台頭を生んだが1976年10月6日に毛沢東が逝くと、一週間ほどで彼の築いた王朝は崩落してしまった。 秀吉の老耄は、我が子への妄執であり部下への好悪が剥

  • 新宿新古細工#08/淀橋貯水場から玉川上水を偲ぶ#01

    さて。真っ暗な、まるで東京の真ん中にゴソッと開いたような異空間・淀橋貯水場へ戻ろう。まだ新宿副都心ビルが乱食い歯のように建つ前の話だ。 ・・貯水場・十二社側はコニカの六桜社の工場があった。六桜社はコニカの写真用感光材製造会社である。西口再開発に伴い昭和38年(1963)に日野市へ移転している。その跡に作られたのが今の新宿中央公園だ。僕が見た時はまだ工事の途中だった。・・調べてみると1968年開園とある。十二社通りは、この公園に沿って走っている。「おくるみ女」が徘徊していたのは、此処じゃなくて今の北通りのほうね。 僕が知っている十二社は、まだ花街の匂いがプンプンと残っている町だった。土

  • 新宿新古細工#07/市井の巨人・大久保藤五郎#02

    およそ三か月ほどで、家康に見せられるほどの成果を出し、水道事業の目途をつけた大久保藤五郎だが、本格的な工事はここからだった。 井の頭池に湧き出る地下水は、善福寺池/妙正寺池の湧水と共に野方堀という開渠で落合村へ導水した。しかし、このあたりは未だ湿原が残っており海水域だった。藤五郎は目白台下に関口大洗堰を設けた。そして此処にいったん水を貯めた。海水が混ざらないようにするという機能と共に、自然落下しか水を誘導する方法が無かった当時は、水位をある程度稼ぐ必要があったのだ。これは大工事だった。藤五郎はこの堰を江戸城壁と同じ石材で、そして同じ製法で建造している。長さ約18m、幅12mという石を積

  • 新宿新古細工#05/市井の巨人・大久保藤五郎

    江戸=東京は、多摩丘陵から江戸湊へのなだらかな下りだ。江戸城から東は大半が埋め立て地である。普通どの地方でも飲料水は井戸を掘って地下水から手に入れる。しかし江戸=東京低地は、相当深く掘っても地下水には海水が混ざってしまう。飲めないわけではないが、酷い不味かった。 家康は江戸入城の直前に家臣の大久保藤五郎忠行へ治水上水を命じている。 その話をしたい。 大久保藤五郎忠行は三河譜代のころから徳川氏の家臣だった人だ。三河大久保党三十六騎の一人だった。しかし家康を守るために負傷。歩行ができなくなった。そのため前線を退いたが家康はこれを大いに惜しみ彼を「菓子司」とした。菓子司は家康に茶菓を献上す

  • 新宿新古細工#05/淀橋浄水場

    新宿西口の高層ビル街は、すべて地面より低いところから建ちあがっている。なぜかという、もともと淀橋浄水場があったところだからだ。浄水所の貯めていたプールの底に建てたからだ。こればかっシはホンモノの"有りしの淀橋浄水場"を見ていないと実感できないだろうな。なぜあんなに地下通りが無為に在るかというと、そのためなんです。西口広場もおんなじだ。 今となっては淀橋浄水場を偲ばせるものは殆どない。住友三角ビルのところに淀橋浄水場で使ってた蝶型弁がオブジェとして置いてあるのと、エルタワーとモード学園の間(西新宿1-6-1)の細い道のところに「淀橋浄水場趾の碑」があるくらいのものか・・・わざわざ見に行く

  • 新宿新古細工#04/ドブいた十二社角筈淀橋浄水場#02

    新宿駅から十二社の三舟さんのアパートまでは、歩くと遠い。淀橋浄水場跡の横を抜けていく。 黒い横たわるトドのような黒い塊の傍らを深夜トボトボと歩く。一度、後から帰ってきたターギが真っ青だったことがある。「どうした?」と聞いたら 「浄水場の横を歩いてたら女がいたんだ。おくるみで赤ん坊を抱いた女がいたんだ」 「こんな夜中にか?」僕が言うと、奴が何度も何度も頷いた。 「やだなと思ったけど、ひき返さなかったんだ。それで、傍までいったらその女が言ったんだ"うちのこ、死んじゃったのよぉ"って、オレ、ぞーっとした。そして"ほら見て。死んでるのよぉ"って見せるんだ。」 「なんだそりゃ!」 「そしたら犬の

  • 新宿新古細工#03/ドブいた十二社角筈淀橋浄水場#01

    十二社に三舟さんが借りているアパートがあった。わきた荘というボロアパートだった。三舟さんはここに6畳一間の部屋を二つ借りていた。十二社通りの西側側の奥。弁天池のあたりですぐ傍に、これまた崩れかかった階段坂があったな。わきた荘は玄関に共用の下駄箱があってここで靴を脱ぐ。そして広い廊下を挟んで横に長い二階建てのアパートだった。トイレは共同だった。なぜ三舟さんが、そんなとこを借りていたかというと、うらに比較的広い庭・・空き地があって、そこにバンが二台駐車出来たからだ。部屋も車内も楽器でいっぱいだった。ドサの仕事があると、そこで楽器を揃えて現地へ向かうという算段だった。 ま。それでも6畳の部

  • 新宿新古細工#02/ねじ式なマクラ#02

    新宿・月島間の都電11番線は、僕の高校時代まで走っていた。営団地下鉄も走っていた。だから銀座から新宿へいくのは地下鉄で行けた。月島(勝どき)から有楽町まで都電で出て、それから丸ノ内線に乗り替えるというコースだ。一度だけ、ほとんど始発の都電11番線を新宿で乗って勝どきまで帰宅したことがある。高校の頃だから、いま思うと同線廃線寸前の頃だったンだろうな。早朝の都電は猛烈に速くてビックリした憶えがある。小学校以来の全線走破だった事と、その速さが強い印象としていまだに残っている。・・高校生が朝帰り?はは♪経緯は聞かないでください。 西口地下広場が出来たのが1966年。淀橋浄水場が閉鎖されたのが

  • 新宿新古細工#01/ねじ式なマクラ

    新宿のことを書こうと思って唐突に浮かんだのは「つげ義春」だ。 つげは、僕と一緒で隅田川のこっち側で育った。年齢的には僕より一回りちょい上だ。 「川向こう」だからね。洗練さはない。土臭い。汐くさい。六方言葉に通じる東京のもう一つの顔だ。その「つげ義春」を僕は、僕の新宿に折り重ねてしまう。 ・・ガード下向こうの、みそ汁と丼飯だけ60円で済ます朝飯。南口木賃宿の中にある不気味な煮込み鍋を囲む赤チョーチン。のらイヌの肉だと噂が根強い屋台。雑居ビルの階下/階上にひっそりと佇む店。学生運動。ふーてん。闊歩するチンピラ。泥酔のサラリーマン。 僕は高校三年生だった。山下洋輔がバリケードの向こうでピア

  • 荒川新古細工#13/番外・東京大空襲戦災資料センター

    どうしても欲しい資料が有ったので東京大空襲戦災資料センターまで行ってきた。砂町である。 https://tokyo-sensai.net/ ここに来れば確実だからね。係りの方にお話ししたらすぐさま出てきた。で購入。家内が一緒だったので、2階の展示室にも寄った。 彼女は亀戸育ちだから3月10日については話としては知っていた。でもこうやって遺留品を見るのは初めてなので、かなりショックだったようだ。 焼夷弾のサンプルが有ったので、それがどのように投擲したかを少し詳しく話した。それと米軍が配った事前予告のビラのこと。つねに事前に警告用ビラが撒かれていたことにもびっくりしていた。 「東京だけじゃ

  • 荒川新古細工#12/東京都慰霊堂・おわりに

    急増する地方税を逃れるために、多くの人々が東京15府から周辺郡部へ越した。当然税バランスは大幅に狂って郡部はデフォルト寸前にまで追い込まれた。それを抜本的に解決するための東京府拡充案である。昭和7年、東京府は5郡82町を呑み込み、15区から20区へ拡大した。このとき荒川区が誕生した。 その前年、昭和6年9月、日本政府は満州事変を起こした。世界大恐慌1929年(昭和4年)は既に日本にも及び「昭和恐慌」のときである。その恐慌の中、1937年(昭和12年)日本政府は日中戦争へと駒を進めたのだ。 ・・となると軍需を支える生産体制が必須となる。金は大蔵省が限りなく刷った。市場にばら撒いた。 これ

  • 荒川新古細工#11/東京の工業化は南西~西部域に偏った

    明治革命政府は日本国の工業化が最大命題だった。欧州に吹き荒れていた内燃機関を利用した巨大機械を使用する生産法・・産業革命に、明治を紡いだ碩学は恐れ慄いたのだ。大航海時代より連綿と続いてた欧米の植民地主義ではない。日本でのアヘン戦争の勃発ではない。「機械の花嫁」が変えてしまう産業構造/富の構造を彼らは正鵠に見つめていたのである。富国強兵の向かうべき方向は立農の強化ではない。産業革命の成果を国内にもたらすことだと。 それが東京市近郊郡部・・それも南西~西部域に工場地帯を望んだ理由である。なぜ南西~西部域か?水利が豊富だったからだ。 明治5年(1872)に王子・滝野川に鹿島紡績所(毛綿紡績

  • 荒川新古細工#10/彰義隊御始末#02

    江戸っ子は判官びいきだ。権柄ずく奴らを極端に嫌う。舎熊をつけて殊更市内を闊歩する維新軍も嫌った。ちなみに舎熊は江戸城にあったもので、ヤクの長い毛を染めて作られていた。幕府では殆ど使用されていなかったが、これを見つけた維新軍は大喜びし、薩摩藩は黒、長州藩は白、土佐藩は赤と分け合って被ったのだ。そんな珍妙な格好で、異様な方言(江戸っ子からもみると)で声高にエラそうな命令する官軍を、江戸っ子は徹底的に嫌悪した。 彰義隊がたった一夜で壊滅し、その残党が市中に逃げた時、人々がこれを匿ったのは当たり前と言えば。当たり前だったのだ。 ・・しかし・・当時の勝海舟の日記を引用する。(慶応四年二月朔日の

  • 荒川新古細工#09/彰義隊御始末#01

    ヒトは義に酔う。血に酔う。 そして、そこに追い込まれていく過程は、いとも簡単に消えてしまう。 鳥羽伏見の戦いでみっともない姿を晒した徳川慶喜は、江戸に戻るとすぐに政権を放り出し、上野寛永寺へ引きこもってしまった。戦後処理/政権交代処理など何も考えずにすべてを投げ出したのである。事態は極限まで混乱した。それでも悲劇的な内乱まで落ち込まなかったのは、氷川清話など、革命政府と旧政権幕府側の間で、原則的な利権の引き渡しが速やかに話し合われ、それが既権者に対してたちどころに通達されたからである。壊滅的な内乱まで、日本国をもっていかないかった勝海舟らの敏腕さを、僕らはもっとも賞賛すべきである。 ・

  • 荒川新古細工#08/関東畑永定法について

    御府内周辺で奨励された干拓開墾は当然、水田の造成だった。しかし高低差が僅かしかない土地では灌漑設備の整備が至難だ。いろいろな工夫がされたが、それでも絶対量はそう簡単には増えなかった。つまり干拓はしてみたものの‥という奴である。そして困ったことに地味である。関東地方は富士山の噴火に晒されて赤茶色の土に覆われている。いくら掘っても火山灰の堆積は消えない。そのうえ、元々は湿原だった処へ、北から運んできた土砂を撒いたものである。地祇の恵みは希薄だ。 自然と水田は畑地と替っていった。金馬の居酒屋風に言うならば 「ありますものは、ネギ・かぼちゃ・ダイコン・コカブのようなもの。 ミョウガ・ショウガと

  • 荒川新古細工#07/御府内外堺筋之儀

    秀吉が家康に対し関東への移封を命じた。条件として家康の持ち物だった三河/遠江/駿河/信濃/甲斐の5カ国を取り上げた。与えたのは、後北条氏の旧領である武蔵/伊豆/相模/上野/上総/下総/下野/常陸の関東8カ国である。石高でみると150万石から250万石の増石になる。しかしそこに秘めれた意図には悪意が有った。云ってみれば中央からの所払いであり、家康の持ち物だった領地を臣下のものにすることで、事実上第二位の実力者になっていた家康との間に緩衝帯を設けた‥である。家康は黙ってこれを呑んだ。・・10年あればよい。既に老耄が始まっていた秀吉は遠からず逝く・・と、家康は考えたに違いない。 1590年、

  • 荒川新古細工/欄外書き散らし・都営荒川線散歩

    午後から荒川線に乗りに行くことにした。 食事しながら云うと「え~なんでそんな遠いトコ行くのよ?」と言われた。 「庚申塚駅にな、駅ん中に旨いお汁粉屋があるだ。そこ行くんだ」と思わず分け判らん言い訳をした。 まさか、隅田川上流の干拓開墾を偲んで、荒川を歩きたいとは言えなかったからだ。パリの消えちゃった川、ビエブール川の暗渠・要するにマンホールを追ってアッちコッち彷徨した時、あとでぼろクソに言われたことが深くトラウマに残ってたんです。はい。で、お汁粉屋。 「えーそんなに、わざわざ行くほどおいしいのぉ??」 「ん。すごいぞ、まあアレは東京三大お汁粉の一つだな」と嘘ついて(ごめんなさい。嘘じゃな

  • 荒川新古細工#06/武蔵国豊島郡を見つめて思う、なぜ?と気づき#03

    江戸湊の郷士だった豊嶋氏/江戸氏は、その圧倒的な支配者・武家になるために、源頼義・義家との繋がりを必要としたのではないか?そんな風に思えてしまう。 江戸氏は、隅田渡しを独占していた。そのことで莫大の利益を得ていた。「義経記」にも「江戸の太郎重長は八ヵ国の大福長者」とある、 江戸氏/豊嶋氏/葛西氏は同族である。彼らは隅田川を挟んだ下総/武蔵国両辺を支配していた。 それが治承四年(1180)源頼朝の挙兵に加担することで一変した。功労ありとして三氏は所領を受け、頼朝の御家人となり、武家としての立ち位置を得たのである。 そして、1221年承久の乱。武家/朝廷による全面戦争が武家側の圧勝で終わる

  • 荒川新古細工#05/武蔵国豊島郡を見つめて思う、なぜ?と気づき#02

    南千住にある石浜神社の「橋場神明社縁起」に「源頼義、義家奥州より凱陣の時、大祖経基王の武蔵の内なる明社一覧可有之、御立寄の時、豊嶋左衛門が家に御止宿を以、甚口饗にて御鎧を賜り別宮建て崇めり」とある。また、千住大橋近くの熊野神社の由来には、永承五年・義家が奥州の安倍貞任を征討するとき紀州熊野神社の御霊をここに納めて創建したとある。 このように隅田川左岸右岸とも、この辺りは源頼義・義家に関する由来話が多い。そして片っ端に紀州熊野系の話である。 当時、この辺りは豊嶋氏/江戸氏のものだった。彼らは所謂"武士"だったのか? 専業武士化していたか?というと・・これはいささか疑問だ。農武兼業の「郷士

  • 荒川新古細工#04/武蔵国豊島郡を見つめて思う、なぜ?と気づき#01

    今回の舞台である隅田川上流左岸、北千住の対岸は「武蔵国豊島郡」と呼ばれていた。 武蔵国「豊島郡」は聊か広い。現在の荒川区・千代田・中央・台東・文京・北・板橋・新宿・練馬・豊島の10区にあたりである。 下総との境である。隅田川を挟んで右岸が下総/左岸が武蔵国。繋いだのは渡津の石浜・橋場である。 何れも広大な湿原地帯である。 タカマガハラ近畿中央政府はその開発に渡来人を充てた。おそらく・・出雲系の人々だ。浅草/島周辺の干拓・開墾は檜前兄弟だった。彼らの出自は胡人とみて良い。向島の白髭神社は高麗神社が始まりである。祭神は高麗王若光である。 朝鮮からの渡米者を東国に配置するという記事は、天武天

  • 荒川新古細工#03/中央管理化になる武蔵国

    「武蔵」という名称の初出は「日本書紀」だ。「先代旧事本紀」国造本紀には「无射志」と「胸刺」いう言葉がある。「武蔵」は"无邪志/胸剌/知々夫"国造に別れていた、とある。漢表記「知々夫」音語CHICHIBUは別として、音語MUSASHIを"无邪志/胸剌"と別漢表記としているのは、同地区の支配者の出自を思わせて面白い。なお「无射志」と漢表記されている文献もある。 この无邪志/胸剌/无射志が「武蔵」へと統合されたという「先代旧事本紀」の話だが・・説明しやすくて俄かに信用できない・というのが僕の所感だ。 "武蔵"初出の「日本書紀」に対して、"无邪志/胸剌"初出「先代旧事本紀」は、前書よりほぼ10

  • 荒川新古細工#01/まくらのスタバ

    ところで・・唐突なんですが、都内で唯一スタバが無い区って、どこだか知ってます? 荒川区なンです。・・ない。荒川の人はキムチはたべてもスタバのコーヒーは飲まないのか? 天下の鳥取県でさえ、スタバがでたというのに・・・こうなってくると、無いことがステータスですな。 昭和を色濃く残す町・荒川にスタバは似合わないんでしょうか? 荒川区の人口は217,475人。うち20年以上の居住者は19.42%、高齢者は23.5%。東京都 25.2%に比して低い。意外と若者の多い街なんですが・・人口密度でみると20,892人/km2で全国3位です。しかし面積でみると10.16平方キロメートルと、23区中ではブ

  • 荒川新古細工#01/まくら

    「新古細工」は、隅田川を少しずつ上がってって、月島築地/深川本所/浅草・千住と来た訳なんですが、〆に千住の対岸、南千住/町屋/尾久あたりの話を始めたいと思ってます。 旅のすえ また大川に めぐりあう です。 まあ、隅田川ったって・・もとは利根川でして、伊奈様が親子三代かけて江戸から利根川を東遷/荒川を西遷させたついで作ったのが今の"隅田川"ですから、云わば新参者の川です。もとは利根川を「すみだ川」と言ってた。 宮戸川 すみだをかたる おおたわけ 伊勢物語の「武蔵の国と下総の国とのなかにあるすみだ川」あれです。アレがすみだ川。当時、西国から関東へ渡るルートは、先ずは三浦半島から房総へ渡船

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#11~おわり

    さて。この東京大空襲の11日後の3月21日、時の首相・小磯国昭はラジオで「国難打開の途」なる放送を流した。引用する。 「敵は既に伊勢の神域を穢し、更に畏くも宮城の一隅に投弾し、わが民族信仰の中心にして神聖無二の地域に対し冒涜を敢えてしました。また相次いで各都市に暴虐なる空爆を繰返し、神社、学校、病院等を焼き払つたのみか、老人や女子や幼い子供に至るまで、無辜の国民を殺戮したのであります。何という不逞、何という暴虐でありましょう。誠に倶に天を戴かざる鬼畜の行為と申すより外はありませぬ。」 そしてこう続ける。 「この敵に対する報復の道はひとつしかないのです。即ちその野望を粉砕するまで戦って戦

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#10

    3月10日の石川手記を続ける。空襲明けた後を彼はこう書いている。・・正午少し前へ警視庁帰還した石川は、状況報告をしたのち、再度カメラを持って街へ出た。 「私は重い足をひきずるようにして菊川、森下町、人形町と歩き、見えない眼をひきあけてシャッターボタンを押した。 泥にまみれたライカを、ばんこくの怨みを呑んで死んでいった多くの死体に向けることは、眼に見えない霊から“こんなみじめな姿をとるな”と意されるような気がして、その手はふるえ,シヤッターを押す手はにぶった。然し与えられた使命を果たすためには、命のある限り撮り続けなければならないのだ。使命の前には非情にならざるを得なかった。写し終ると合

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#09

    Air Operations memorandum No. 90.pdf drive.google.com 暗号名「MeetingHouce」東京市焦土作戦は、地区を四つに分けていた。 第一目標/深川区(現江東区)、第二目標/本所区(現墨田区)、第三目標/浅草区(現台東区)、第四目標/日本橋区(現中央区)である。 作戦は予定通り第一目標/深川区(現江東区)を焼き払うことから始まった。投擲開始/着弾は0時7分頃から、空襲警報が出たのは0時15分だった。対戦体制もないまま、まったく寝耳に水の一方的な殺戮になった。 では、具体的にどのように作進行したか? 高々度か

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#08

    3月9日「MeetingHouse2」実行の前夜。出発直前の兵士に、壇上からカーチスルメイは訓辞を垂れた。 「諸君、酸素マスクは不要である。そんなものが必要なほど高空は飛ばずに爆撃せよ!」と・・そのルメイの言いぶりにパイロットたちが露骨に難色を示すと、ルメイは壇上から「うるさい!いちいち文句はいうな!命令に従えばいいんだ!」と怒鳴った。 通常の8000m上空からの投擲ではない。3000mである。ゼロ戦による迎撃も対高射砲の迎撃もまともに食らう高度だ。図体のデカいB29は格好の標的である。パイロットの間には、ルメイが幕僚から「低空で飛ぶことで僚友機が撃墜される確率が多くなるで、その作戦

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#07

    米軍が硫黄島に上陸したのは2月19日。2月25日の暗号名「MeetingHouce」東京市焦土作戦の時にはまだ陥落していなかった。なのでマリアナ三島を発ったB29編隊は硫黄島上空通過を避けた。 当日、B29編隊は硫黄島の遥か東方洋上を進み、北西に転針後、父島西方の西之島上空に集合した。そして体勢を整え日本列島へ向かった。日本軍のレーダー網に捉えないように、編隊は1500ftほどの超低空飛行で進んだ。しかし北緯29度/東経137度37分に達すると一斉に高度を25,000ftまで上げた。(同作戦報告書)そのまま北進。浜松湖上空に達する。そしてそのまま北東へ進む甲府爆撃チームと東京爆撃チーム

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#06

    3月3日。マニラは落ちていた。もちろん日本国民はなにも知らされていなかった。 米軍のマニラ攻撃は2月3日である。兵糧戦の末の攻防である。日本軍と日本人民間人は北へ敗走した。この敗走により日本は制空権制海権の大半を失った。壊滅状態にあった日本経済は、これによってほぼ完全に物理的戦争遂行能力を失ったのである。 石油備蓄も殆ど無くなった。この年の1月の段階で国内備蓄は49万バレルを切っていたのにもかかわらず、2月からは一滴たりとも輸入が出来なくなってしまったのだ。もちろんそんな話は、何も国民の耳には届いていなかった。 日本は周辺4海すべてを海上閉鎖され、往来する日本船舶は民間だろうが何だろう

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#05

    2月25日以降、B29は殆ど毎日毎夜東京の空を飛んだ。爆撃は続けられた。しかし相変わらず高々度からの投擲なので精度は供わなかった。同時に悪天候が続いたこともあって殺戮の成果はそれほど高くなかった。そのことでカーチスルメイは強く詰問されていた。彼は成果を出すために自国兵士にリスクを背負わせることを厭まなかった。図体のでかいB29の低空飛行は、安易に迎撃目標になる。それを知りながらカーチスルメイは、作戦の変更し、低空での空爆へ向けて訓練を始めていた。 一方、日本側の迎撃態勢はままならなかった。兵站の確保は、はっきりと滞り始めていた。となればお得意の「精神論」である。「不撓の心を持って米英

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#04

    石川手記を続ける。2月25日の石川手記である。 「刑事部長と火の間隙をあちこちと求めて漸く空地まで辿りつくと,そこは避難してきた人々でいっぱいだ。 折角命がけで持ち出した夜具や風呂敷包みには雪がかかり,それが火熱でぐっしょりと濡れている. その傍らに佇む人々の顔は呆然自失していて,到底涙なくしては見られない.漸く遥か離れたところに自動車を見出した.秋山刑事部長は運転手に勝手に車の位置を動かしたと言ってひどく叱責していた.その気持ちも判るがそんなにまでどなる事はないと思った。運転手の話では私達の戻ってくるのをじっと待っていたのだが,眼の前まで火が迫り熱くて,このままおれば自動車まで燃して

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#03

    再度、石川手記に戻る。 2月25日の石川手記である。 「14時13分空襲警報が再び鳴り渡り、愈々B 29艦載機と合同にて帝都を襲い、猛吹雪の中随所に盲爆が展開されだした。東部軍情報部は,ラジオを通じてかん高い声で“敵は爆弾と焼夷弾を混用しつつあり軍官民の敢闘を望む”と叫んでいた。 14 時23分宮城前広場の高射砲陣地から発砲、14時29分警視庁上空に於て彼我猛烈に交戦中、宮城内に爆弾及焼夷弾が投下されたと,警視庁屋上の防空監視隊より報告がある。 畏れ多くも宮内省主馬寮、局寮に投弾された。 猶大宮御所守衛所,秩父宮殿下表町御殿にも投弾された。」 当日動員されたB29は229機。彼らが搭

  • 3月10日の記憶/欄外・1月27日銀座泰明小学校#02

    その日、東京を襲った56機のB29は、府中にある中島飛行機を爆撃するためにマリアナ島から飛び立った74機編隊の一部でした。 指揮をしていたのは、3月10日の真夜中、人々が自宅に戻って寝静まった頃を狙って、徹底的な焦土作戦を仕掛けた男、カーチスルメイでした。 彼らは曇天で攻撃目標の中島飛行場が視認できなかったために爆撃を諦めて引き返す所だった。その帰還途中、置き土産替わりに搭載していた250kg爆弾を東京の空でばら撒いていったのです。 少しすると再度、空襲警報が鳴り響きました。橋本先生はもう一度、曇天の空を見つめた。やはり機影は見えません。でも雲の間から、その霞を破るように黒いものが無

  • 3月10日の記憶/欄外・1月27日銀座泰明小学校#01

    昭和20年1月27日。冬の曇天の空に、見えないままの朝日が昇る頃、朝靄の中を先生たちが登校し始めます。子供たちが登校する前から、泰明小学校は少しずつ目覚め始めていく。外堀川を渡って登校する先生。尾張町の交差点からみゆき通りを上がってくる先生。色々ですが、途中で顔を合わせると、先生らは明るく「おはようございます」と声をかけながら、一緒に登校してきます。その日、早朝の気温は零度近く、寒い朝でした。 正面玄関から入って職員室へ入ると、窓の向こうに、未だ子供たちが登校する前の校庭が見えます。そこは子供たちが登校するまで、雀たちの遊び場です。雀たちは隣の数寄屋橋公園を塒にしている。丸々と膨れて、

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#02

    2月25日の石川手記である。 「2月25日日曜日吹雪 今月はまるっきり休みなく日夜敢闘の連続だったので、今日の日曜日は洵に申訳ないがゆっくり 朝寝させて貰おうと思っていると、午前7時半警戒警報発令。東部軍管区情報を聞くと、敵機動部 隊大挙本土空襲とのこと、とても寝ているどころじゃない、飛び起きて先ず病める3人の愛娘を防 空壕に運び入れ、食糧や食器類を運搬してから水槽にポンプで水を満水にしたり、急に忙しくなってきた。斎藤医師夫人が子供2人を連れて防空壕へ避難させて呉れと言って来られた。間もなく敵艦載機の爆音が無気味に聞えてきた。 空を仰いでも早朝から雪空で敵機影は判明しない、急いで朝食を

  • 3月10日の記憶/炎の雹塊、雪積む帝都に落つ#01

    2月22日から話は始めたい。 ガイドブックは警視庁専属カメラマン・石川光陽が残した私製の「帝都空襲記」である。 彼の手記にはこうある。 「2月22日 木曜日 吹雪 早朝から冷い風と共に猛烈な吹雪である。朝鮮にかける昔の軍隊当時を思い出した。寒風に粉雪が煙のように吹き捲いている。この猛吹雪の最中,午前11時30分突如警戒警報発令された。かかる悪天候の折盲爆されてはえらい事になるぞと思って待機していると、11 時 52 分解除となった.まず何事もなくてなによりであった。」 戦前、父と共に写真館を経営していた石川光陽は、徴兵退役後1927年(昭和2年)3月警視庁に入庁した。以後退官まで、

  • 千住新古細工#14/おわりに~南千住の東京球場

    千住の思い出はほとんどない。大川の出口にある"佃島"から千住はあまりにも遠い。浅草より向こうは、父の国アメリカなみに遠かった。それでも「千住」という名前を知っていたのは、元佃に有った我が家に同居していた叔母夫婦から聞いていたからだ。叔父が大毎オリオンズのファンだった。 叔父は巨人軍を毛嫌いしていた。「巨人・・軍?いまどき軍なんぞ名乗ってるなンざ、ケタくそ悪いだけだ」といつも言ってた。それで「オリオンズはなあ、高橋ユニオンズというのがあってなぁ」と始まったから、この二つの球団の名前だけは知っていた。叔母に聞くと「あのしト、横浜産だからね。でも大和軍だって軍なんだけどね、都合の悪いこた、き

  • 千住新古細工#13/増税回避行動が東京15区改正へ繋がった#02

    前述・野々山市議のいう「細民の市中に住居し難きより,続々立退者を生ずる」とは、まさに家賃のことだった。 これも前述したが、所得税は高額所得者だけにかけられていた。選挙権がこれに連動していた。実数で云うと東京市民(明治41年)26万人中所得税を払っていたのは11%に過ぎなかった。つまり他の人々は無税だったわけだ。それでも市内に「住居し難きより,続々立退者を生」じたのは、家賃の高騰のためだった。 少し細かく書く。 たしかに日露戦後の国税の増税は大きかった。しかしそれ以上に家屋税の増税が大きかった。家屋税は、地租や営業税と異なり地方税である。なぜそれほどまでに地方税が上がったか? 日露戦争

  • 千住新古細工#12/増税回避行動が東京15区改正へ繋がった

    明治政府が江戸を東京と改名し、旧ご府内を"東京府"とし周辺天領部を郡とし、併せて"東京市"としたとき、施政者のアタマの中にあったのは如何にして誰から税を得るか?ということだったろう。税は農から得るという体制はそのまま、徳川幕府から継承されていた・・ ちなみに明治政府は、その収入を徳川支配地から得ていた。廃藩置県が終わった後も、中央管理化の税収入システムが確立するまでは、もう少し時間を要した。 つまり「土地の私有=地券」が確立され、そこに税金が発生するようにしていくわけだが、地券の所有者の大半は郡部の農家である。商行為に課税するにはまだまだ時間を要した。 つまり明治政府が得る税収入の多く

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