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2020/12/27

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  • 簒奪の80年#03

    さて・・ここでは税収入だけで国家経営をするという視線で、事業として機能しうる国家構造を実験的に考えてみたい。数字のお遊びだ。 ①戦後ハイパーインフレ時に実行されたドッジ・ラインに近しい緊縮政策が実施される。 ②100兆円ある一般会計のうち、40兆円は支払いができなくなるので、自動的に切り捨てることになる。 ➂特別会計のうち独立行政法人はすべて解体。現在国有乃至行政所有である公共物(橋や道路など)はすべて民営化し、主たる国有資産は買える企業(中国など)に売却となる。 ④公務員にかかる経費は40%にする。給与を下げ尚且つ員数を少なくするしかない。 ⑤社会保障費は最低でも40%に落とす。医療

  • 簒奪の80年#02

    日経平均が過去最高値を記録したのは、1989年12月29日だった。38,957円44銭だった。翌年1月4日、30,165円52銭でマーケットは始まった。 この時から米国からの、円先物売り/株価先物売りが始まった。 日本マーケットも日本政府も「円先物売り/株価先物売り」なるものを全く知らなかった。これが最大の敗因になった。 1990年4月2日には28,002円まで蚕食された。一度は33,000円台まで回復させたのち、夏には再度蚕食開始・・以降ひたすら日本のお金は米国に吸い取られてきた。1990年から1992年で、日本は米国の「円先物売り/株価先物売り」で、ほぼ100兆円を失っている。こ

  • 簒奪の80年間

    米国からの(隠された)第二次対日戦争だった「円先物売り/株価先物売り」による徹底攻撃は、米国の完全勝利と判断され、93年に止まった。吸血ヒルが剥がれ落ちた日経平均は持ち直し、およそ4年間にわたって上昇基調をたどった。 しかし2007年に米国のサブプライムローンが噴出すると、米国株の暴落、円高ドル安が始まり、2007年7月に1万8,000円台だったマーケットは8月は1万5,000円台で落ち込んだ。 2008年9月、リーマンの経営破綻が銀行間の信用不和を表面化させ、その呷りをうけて10月28日に6,994円90銭まで落ち込んだ。その失速は納まらないまま2009年3月に7,000円を割る寸前

  • MMT印の甘いキャンディ

    MMT印の甘いキャンディの隠された目的は、世界一になっていた円でドルと米国債を買うことだった。明らかに「買え」という命令があって、日本の施政者はこれに唯々諾々と従った。 「ゼロ金利とマネー増発によってGDP2%になる」という幻夢に惑わされて、経済の成長は止まり(円はドル転し)国内企業への投資は激減し、工場は自己防衛のために海外移転した。そして非正規雇用(正社員の1/2程度の労働力)を全労働者の1/3(1500万人)まで増やし、人件費コストを徹底的に絞った。そのため購買力は激減した。現在、夫婦共稼ぎでの世帯所得の中央値は427万円である。 2 所得の分布状況|厚生労働省 2

  • ご府外新古細工#17/板橋宿のこと

    京都と江戸を結ぶ最短路であり、裏日本と江戸を結ぶ路でもあった中山道は板橋が江戸前の最終帰着だった。にもかかわらず四宿の中では最少だった。宿内人口と家数を見てみると、千住宿は9,556人/2,370軒。品川宿は7,000人/1,600軒。内藤新宿は2,377人/698軒余に対して板橋宿は2,448人/573軒だ。これは交易用に使われる頻度が他の宿より低かったためだろう。京からの最短距離ゆえに徳川幕府は必要以上の整備を実行しなかったからだ。中山道は他の街道に比して、江戸時代に入っても圧倒的に難所が多い道だったのだ。 したがって商いの道としては、中山道より、同じく板橋宿から始まる川越街道が

  • ジュネーブでsissiに逢った#03

    朝はLeChatBottéで済ませた。ピックアップまでは2時間くらいあるのでホテルの目の前にある桟橋へ出てみた。 昨日の取引先Nの話を思い出しながら散歩した。 「1898年9月9日は金曜日でした。午後1時半ごろでした。エリザベートはモントルーのグランドホテルへ戻るためホテルを出て桟橋を歩いていていました。1時40分発のジュネーブ号に乗るためです。同道していたのはイルマ・シュターレイ夫人Irma Sztárayでした。船に乗ろうとしたそのとき、いきなり飛びついてきたイタリア人テロリスト、ルイジ・ルケーニがエリザベートを刺したんです。ルケーニはその場ですぐに取り押さえられました。皇后は起き

  • ジュネーブでsissiに逢った#02

    おしゃべりな運転手に解放されてホテル・ボー・リヴァージュにインしたときはもう夕暮れだった。すぐ傍らにブランズウィク公の霊廟がある。当日予約だったので、湖が見える部屋は取れなかった。ところがチェックインしようとカウンターに向かったら横から声をかけられた。取引先の担当Nだった。彼が、僕のその夜泊まるはずのホテルにおいてあったバゲッジを運んでくれたのだ。なるほどな凄いなと思った。そして、何気なく「夕ご飯、ご一緒しませんか?」と言われた。まだ仕事の話をするつもりらしい。僕が笑って(内心はちがう・断れるわきゃないだろ)OKすると安心した様子だった。かなり気難しいと思われてるみたいだった。 「すぐ

  • ジュネーブでsissiに逢った#01

    レマン湖の北の畔にあるモントルーという町にひたすら憧れたのは、大学時代に溺れるほど浸った一枚のLPのせいだ。ビルエバンスの「ライブ・アット・モントルージャズフェスティバル」である。何十回どころか何百回聞いただろうか・・ビルエバンスとエディゴメスの名演奏だ。 モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのビル・エヴァンス+1(SHM-CD) www.amazon.co.jp 1,450円 (2022年04月27日 18:00時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する だから、一度は訪ねたいと思っていた。仕事でジュネ

  • あなたはその一翼を担えるか?

    経済は30年で一新します。一新できなければ停滞します。 日本の場合。資産バブル崩壊の1990年以降の中核納税者の平均所得は、これ以前のものを越えられないできました。一新しうる経済の世代交代が行われていません。これほど無数に新技術と新技法、新素材が現れているのにも関わらずです。 いつものように、日本は外圧がない限り変われない。変わろうとするパワーは、列から弾き出してしまうからです。日本の場合、出る釘は叩かれない。出る釘は抜かれる。だから残るのは空疎な穴だけになる。 ‥変わるのか? 変わります。 通貨のリセットという最も劇的な動乱がそれを可能にします。通貨リセット/デジタル円の登場で、こ

  • 拡散希望 #高松建設

    拡散希望#高松建設 隣のビルの夜間工事のために当店の夜の演奏会、それどころか営業まで不可能になっています。しかし営業妨害ではないそうです。なぜ www.youtube.com 営業の危機に陥っています。 http://ginzabrasserie.com/ 隣のビルの夜間工事のために当店の夜の演奏会、それどころか営業まで不可能になっています。しかし営業妨害ではないそうです。なぜなら警察の道路使用許可を取っているから・・どうやら、当店の前の道路はすべて塞いでいるが、店への細い通路だけは確保してるから、轟音だろうが猛烈な振動だろうが、別に店は開けられるだろ?ということら

  • 甲州ワインの謎#11/渡来人秦氏について#05

    渡来人である秦氏に注目して話をすすめています。 ん~長い寄り道だなぁ。 前回は・・ ③東京開封府から朝鮮半島西海岸へ居を移した秦氏の地へ、百済の人々が入り込んでいった。 ④北にツングース系の脅威が台頭。秦氏はそろそろ頂点へ向かおうとしていた百済を去って10,000人ほどの大所帯で日本へ渡来した。 というところまで書きました。 渡来すると秦氏は中央への移住を避けます。豊前国へ入った。そして山背国、葛野郡(現・京都太秦)紀伊郡(現・京都伏見区深草あたり)河内国、讃良郡(現・大阪府太秦)摂津国豊嶋郡、針間国(現・兵庫県)阿波国、伊予国神野郡などに分散します。さらに後代は、率先して東山国へ広

  • 甲州ワインの謎#10/渡来人秦氏について#04

    渡来人である秦氏に注目して話をすすめています。 ん~長い寄り道だなぁ。 前回は・・ ①秦氏の始祖はシルクロードを超えて長安に辿り着き東京開封府に居を構えた。 ②そしてコンスタンティノポリスを中心に活躍していた総主教ネストリオスを宗主とするのネストリオス派/東方教会が入り込んでくる前に、その居を朝鮮半島東海岸に移した・・というところまで話しました。 もちろん一番最初に書いたとおり、いくつかの資料を横に並べて繋いだだけの妄想です。ほとんどポアロ探偵に近い推理です。確定した資料がないので、勝手に膨らませた推理だということをお忘れなく(笑) この東京開封府に居を構えていた秦氏の祖はおそらく

  • ご府外新古細工#16/板橋区の変遷#03

    明治の御代に向かって板橋地区も大きく揺らいだ。 この稿では、慶応2年(1866)6月に蜂起した武州"世直し"一揆だけ触れたい。武州一揆は、武蔵国秩父郡上名栗村(現、埼玉県飯能市)の農民紋次郎、豊五郎らが中心となり、秩父郡/多摩郡/高麗郡の農民に呼びかけ、広域にわたり同時多発的に蜂起した一揆である。この一揆は上野国にまで波及している。 武州"世直し"一揆は、かなり特異だった。中心になったのは秩父郡の農民、紋次郎/豊五郎。二人は一揆衆を組むと、土地の高利貸的地主や村役人に対して施金・施米や米の安売り、質物・質地の返還などを要求している。そして要求項目が受諾されると約束の実施は村にゆだねて次

  • ご府外新古細工#15/板橋区の変遷#02

    板橋は多摩丘陵の末端であり。台地面と荒川の沿岸が併存するところである。勾配も府内に比べればそこそこ稼げて灌漑の最大問題の用水の流れを確保できる地域でもある。それもあって板橋は農産物が早くから二分化した。前者台地部では畑地。後者沿岸部では水田となった。前述したが江戸初期の水田開発期でも、それほど精力的に新田は設けられなかった。それはこの地区が幕府直轄領(天領)であり、将軍様の遊び場でもあったからだ。無計画な新田開発は不可能だったのだ。そのため、開発の主点は台地部での畠地と、溜池や水路の整備による水田の安定化に置かれた。結果として、これが(現金収入)郷の農家を豊かにし、江戸近郊の野菜栽培農

  • ご府外新古細工#14/板橋区の変遷#01

    江戸市中御朱引き外、とくに武蔵国に接している郡部の変遷をしゃべっている。今回は、練馬と板橋に分かれる前の原・板橋の話をしたい。 さて、この「板橋」という地名だが、初出は「源平盛衰記」とされている。ここに源頼朝が武蔵国に入った折に布陣した地が「松橋」とある。ここでいう「松橋」は滝野川(現・石神井川)の畔にあり、これは誤字であって「板橋」であるという。これが"板橋区説"である。しかし異論がある。北区は区史の中で「源平盛衰記」にある「松橋」北区内にある「松橋」だと主張しているのだ。どちらが正しいのかはここでは論じない。(笑) ただ、確かにこの滝野川の「松橋」だが、長門本『平家物語』では「た

  • ご府外新古細工・欄外/古道の成立#02

    前稿で「クニがありムラがあり、それを繋ぐ"道"があった」と書いた。ではその"道"なるものは遺構として発見されているのか? 長距離なものはない。しかしムラの中の"道"の発掘例はある。最古のものとしては鹿児島県指宿市水迫遺跡で発見された道路状遺構の名前を挙げられる。 水迫遺跡は指宿市の北西部にある標高401ⅿの清見岳から緩やかに北東へ伸びる山裾の東側の端部に在る。眼下に鹿児島湾を見下ろす標高約126ⅿの舌状に伸びる尾根の東南側の縁辺部に佇む。この遺跡の特徴は後期旧石器時代/縄文時代草創期/早期・前期/弥生時代中期/中世の遺跡が縦に地層順に重なっていることだ。この発見(平成5年)はセンセーシ

  • ご府外新古細工・欄外/古道の成立

    魏志の中に「土地山険多深林、道路如禽鹿径」とある。魏志の使者が、実際に邪馬台国を訪ねたかというと聊か疑念はあるが、少なくとも伝承口伝の類としては、魏の国に日本列島の様子は相当正しく伝わっていたことはあり得る。おそらく本邦を走る"道"は書かれているとおり"道路如禽鹿径"だったンたんだろうんな、そう思う。 道とは・・もちろん二つのあるいは複数のムラの間にできるものだ。あるいは屡々通る狩りの道/採集の道に自ずから出来上がるものだ。出来上がれば、それから先は必ず同じ道を通る。それが一番確実安全だからだ。そうやって道は"道"として出来上がる。 漢書の中にも「倭の五王」の話が出てくるが、南北に長

  • LAST FRIGHT OF SAIGON追加分/取り上げられた資産はどこへ消えたか?

    LAST FRIGHT OF SAIGONのなかで、南ベトナム政府が保持していた16tの金塊を手土産にして中央銀行総裁に納まった「南側の数少ないベトナム戦争勝ち組」の男。グエン・バン・ハオNguyen Van Haoの話を書いた。あの戦争ではコンサンの残虐性を恐れた殆どの指導者が敗戦直前に雪崩れるように海外逃亡を図ったが(しなかった者できなかった者は全て思想教育という名の強制収容所へ送られた)ハオは小器用に立ち回った男だった。 さて。日本の場合はどうだったろうか?1945年に戻ろう。たしかにあの戦争では兵糧攻めに遭った。しかしストックそのものが完全に枯渇していたわけではない。それなり

  • ご府外新古細工・欄外/日本列島の制覇者はどこから来たか

    近畿中央政府と関東/奥羽文明の間は断絶していなかったところから話から始めます。 関東/奥羽に有ったであろう古代文明については、残念ながら殆ど史料というべきものが残っていません。神代文字と言われるものがありますが偽書です。断言できるのは、これらの文字の大半が中世に確立した言語構造をそのまま踏襲し、構文形式がすべてアルタイ語形式であり、すべて対句になる和語が存在するからです。もし実際に関東/奥羽に有ったであろう古代文明で使用された言葉ならば、日本列島へ入ったルートから考えると、所謂神代文字は原カナン文字から発生した頭音書法Acrophonyによる子音文字の可能性が極めて高いと思と思われる。

  • ご府外新古細工#13/江戸周辺との生活格差

    江戸中期頃から江戸周辺農家の田畑は急速に、畑地が中心に替わった。その最大の原因は米に比べて換金化が簡単で努力がそのまま金額に反映されるからだった。新田開発の大半が米麦以外の野菜栽培になっていった。作られたのは、大根、ゴボウ、芋、ナス、大豆、くわぃ、ゴマ、瓜、菜種、蕎麦、草帚などだった。こうした即換金可能な生産物に替わると、はっきり村内に収入格差が生まれ、富む者と貧しき者へ分化した。そして貧しい者から多数の非正規農民/農間渡世業者が現れ始めた。 水田から畑地に趨勢が変わると、大きな問題が発生した。 それは関東地方の土地がローム層だということだ。地味が決して良くない。近在農家はそれを補う

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#19/長いクロージングテロップ#02

    はじめはおずおずと。少しずつ羽を広げて。しまいには大胆に。僕は街を彷徨った。そして僕はニューヨークが大好きになった。 ニューヨークを「人種の坩堝」だという人がいる。嘘だ。坩堝ではない。絶対に溶け合ったりはししない。ニューヨークは「人種のサラダボール」だ。 人参は人参のまま。胡瓜は胡瓜のまま。パセリはパセリのまま。ある。決して溶け合うことはない。常に自己を持ち、その自己の超過多構造がニューヨークという街なのだ。 ニューヨークは、「世界」というもののミニチュアサイズ。そう考えると、この街の実態が見えて来る。通り一本を挟んで中国人とイタリア人が共存共栄し、ブラジル人がイタリア人が、スペイン人

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#19/長いクロージングテロップ

    バーガーインは、六本木を飯倉の方へ歩くと、細いT字路の角にある。そのT字路は少し坂で、すぐに崖になってしまう。バーガーインは朝までやってる。だから遅い時間はバンドマンの溜まり場になっていた。仕事帰りに此処によって食事をして、だんだん集まってくる仲間たちと仕事の情報を交換して、一日を終える。 僕も殆んど毎夜、此処にタムロしていた。別に仕事が欲しかったわけじゃない。還る場所が・・帰りたい場所がなかっただけだ。だから毎日、深夜近くなるとバーガーインへ顔を出して、バンドマン達の話を聞いていた。 学校には戻った。ウタパオの基地に有ったDECのPDPを使った思考実験の続きをやりたくて、大根の巨大

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#18/オペレーション・フリークエント・ウィンド#02~サイゴン、恐怖のおわりに

    オペレーション・フリークエント・ウィンドは4月30日で終わったが、オペレーション・ニューライフは、ベトナムの外でその日から再開した。タイへフィリピンへグアムへ避難した人々の難民化をどう防ぐか?彼らをどう何処へ運ぶか?これが大きなテーマになった。 最終的な受け入れ先の主幹はもちろんアメリカ国内だが、ほかの国にも可能な限りの負担をフォードは要請した。しかし事態は思わしくなかった。5万人の避難者をどう支えるか・・まず今日の一日をどう支えるか?その最初の一歩さえ大変な仕事だったというのに・・フィリピンに作られた避難キャンプも、グアムに作られたそれも、毎日増設と改善が繰り返された。 それはタ

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#17/オペレーション・フリークエント・ウィンド

    4月27日からサイゴン市内へのロケット弾攻撃が本格化した。無差別攻撃だった。この攻撃で5000人の無辜の人々が死んでいる。人々は逃げまどった。しかし四方は共産党軍に囲まれていたので陸路での避難は不可能だった。パニックに襲われた人々は、アメリカ大使館の周囲へ。タンソンニャット空軍基地へ集まった。また港は小さなゴムボートやカヤックで海へ逃げる者で溢れかえった。"解放者"を標榜し"民の味方"である共産党が振るう死の斧に、人々は震え上がったのだ。 28日午後、アメリカ軍機であるはずのA-37が空港上空へ飛来。管制塔からの誰何を無視したのち、タンソンニャット空軍基地へ爆撃弾を投擲した。空港は大混

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#16/オぺーレション・ベビーリフト#02

    4月3日、オベーレション・ベビーリフトの話をEMクラブのカウンターで聞いた。ベトナムの孤児を救うという話だ。僕は何とも舌触りの悪いものを感じた。アメリカ人らしい善意だ。この"らしさ”がどんな結果を生み出すのか?なんとも言えない印象を得た。 そして翌日の夕方、4時すぎだったろうか、第一便の空中爆発である。そのことはすぐさま基地中に知れ渡った。全員がラジオの前に釘付けになった。管制局からもすぐに詳細の報告が出た。 キャプテンはDennis "Bud" Traynor。機種はLockheed C-5A Galaxy/機体記号68-0218。乗客は幼児を含め311人。乗員は17名。 C-5A

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#15/U-TAPAO

    U-TAPAOの東に、充分徒歩圏内にWat Khlong Saiがあった。清楚な寺院だ。土地の以外は訪ねることはないところだった。特に上から下まで米軍管制の服を着た男が訪ねることは稀有だったと思う。言葉も通じない。しかし何回か近在を散策するときに寄っていたら、若い僧侶たちが僕のことを見知ってくれた。そして微笑みで迎えてくれるようになった。彼らは僕が注意される前に靴を脱いだことに驚いたようだ。きっと異邦人が祭壇の前で靴を脱ぐことは、今まで一度もなかったに違いない。そして出かけるたびに華やかな極彩色の祭壇の前にある灯篭に蝋燭を捧げた。そして逝ってしまった友の鎮魂を祈った。痛かったろう・苦し

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#14/オペレーションニューライフ

    オペレーション・ベビーリフトと共に実行されたのがオペレーションニューライフOperation NewLifeである。これは南ベトナムから避難を望む人々のための作戦だった。この作戦は大っぴらには言えなかった。南ベトナム政府は海外への避難を禁じていたからだ。 https://drive.google.com/file/d/101Qde8xsmxrSQdP3JYMIx9H6fCjXSwOa/view?fbclid=IwAR1EhN2pTY0Qir5nSolmvetGRh7ENVNMZqPrHvyYFRH6zk-ZZBDV8nWhGTw Operation New Life.pdf

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#13/オペレーション・ベイビーリフト

    フォードは機を見るに敏な男だ。彼が1975年4月3日、カリフォルニア州サンディエゴでの記者会見でオペレーション・ベイビーリフトOperation Babyliftの名前を出した。 73年より始まったアメリカ軍の撤収を受けて、ベトナムは共産軍によって急速に蚕食されていた。南ベトナム政府はそれを防げることができなかった。人々は難民化し、何万人も国外へ逃亡、無数の悲劇が起きていた。南ベトナム政府は、国外脱出を法律で厳しく禁じたが、止めることはできなかった。 そのうねりの中で、ベトナムでもカンボジアでも、多くの幼児/子供たちが亡くなっていった。戦争で死ぬのは先ず弱者からだ。そして一番の弱者

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#12/サイゴン陥落

    1974年8月9日、リチャード・ニクソンの大統領辞任を受けて、副大統領だったジェラルドRフォードが大統領に昇格した。ちなみにフォード大統領は76年の大統領選では敗れた。アメリカ史上ただ一人の選挙で選ばれないで大統領を務めた男だ。そのフォードが、ニクソンの後を継いでベトナム戦争を背負った。つまり前述の北の(ソ連の)ベトナムにおける覇権戦略を漫然と為すがままに黙認したのはニクソンではなくフォードだったこと。これはアタマに残しておこう。 そのフォードが4月23日。サイゴンの喉元であるスアンロクが陥落した直後、以下のような声明をだしている。 「アメリカ人にとっての戦争はすでに終わっている。も

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#11/迫りくる共産軍

    "防共"という綺麗事と、武器の"在庫整理"という我欲が絡まってのベトナム内乱への参与は、結果としてドルの兌換性を揺るがすまでの戦費の濫費へ、アメリカを追い込んでしまった。ニクソンはドルの金への交換を拒否。アメリカの経済を守った。だからと云って樽の底に開いた穴(ベトナム)を塞がなければ、早晩破綻に陥るのは目に見えていた。 そのオイエの事情をソ連/共産党側は正鵠に把握していた。 ベトナムからアメリカ軍の撤収が始まると、すぐさまソ連/VLP(ベトナム共産党)はチョンソン山脈東部に戦略道路設営を開始した。戦略道路なしでは南への侵攻はできない。アメリカはこの設営工事を黙認した。空爆を仕掛けなかっ

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#10/逃げる者・うまく立ち回る者・翻弄される者

    いま振り返って考えてみると・・やはり1972年3月30日の「イースター攻勢」が大きな曲がり角だったように思う。このときからベンハイBen Hai川は非武装ラインDMZとして機能しなくなったからだ。 省廣治クアンチは南シナ海沿岸ハンジャン川右岸に位置する古都だ。南へ降りると古都フエがある。アイラオ峠を通ってハノイとサイゴンをつなぐ街道だったため古くから宿として栄えた町だった。越南・阮王朝所縁の地でもある。「イースター攻勢」はその古都の攻防を巡ってほぼ半年間、南北ベトナム人の血を地で洗う激戦地となった。そしてこの時から、戦いの趨勢は北へ傾いた。 その拮抗する戦争のさなか、73年3月29日

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#09/銃後のソウル梨泰院

    1974年8月9日未明。僕は韓国・龍山にある米軍基地にいた。 龍山基地は元々日本軍の駐屯地だった。ソウルに隣接する広大な米軍基地である。その朝、僕はその下士官クラブEMにあるピアノの前に座っていた。仕事ではない。時間つぶしにピアノを弾いていたんだ。 このEMは、龍山基地に幾つかあったクラブの中でも一番広い施設だった。カウンターの上に、当時はまだ珍しかった大きなテレビが設置されている。まだ夜明け前だと云うのに三々五々、兵隊たちがこのテレビが目当てで集まり始めていた。 僕は所在なくポロポロとエリントンを弾いていた。気紛れな兵士からリクエストがあれば、カーペンターズとかエルトンジョン、ビリー

  • 黒海の記憶#11/混合民族国家の難しさ

    先日来よりウクライナでは、反露住民が青い布/親露住民は白い布をつけるようになりました。この話も日本のメディアから聞こえてこない。人種的な分けにくい/混血もあるところから立場をはっきりとするために自然発生的に出てきた方法ですね。加工されていない/意図的に選別されていない投稿動画ではそれが確認できる。放置されている死体にもです。 いつものように数字を追います。 ウクライナの人口は4,159万人(クリミアを除く)です。うちロシア系住民(ロシア正教徒)は833万人です。総人口の19.8%です。分布的には北部・西部はウクライナ(カトリック)系が多く、南部・東部はロシア系が多い。ちなみにキエフの

  • 甲州ワインの謎#09/渡来人秦氏について#03

    渡来人である秦氏に注目して話をすすめています。 ん~長い寄り道だなぁ。 「日本へ朝鮮経由で渡来した秦氏の一部はユダヤ人だった。それも原始キリスト教だった。」という節・・この説を最初に唱えたのは明治時代の言語学者「景教博士」と云われた佐伯好郎でした。 彼は1908年の論文「太秦(禹豆麻佑)を論ず」の中で「秦氏=ユダヤ人景教徒」説を様々な例を挙げて説いています。 彼は3、4世紀当時の西アジア(アフガニスタン、キルギス)に存在した弓月国に注目し、ここが弓月君(秦氏)の出身地だと言ってます。そして秦氏が国内で関わった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習・・ユダヤ文化、新約聖書

  • 指導者は民を盾として戦ってはいけない

    プーチンのお家芸である非道に対して、ゼレンスキーはいま、成人男子の国外避難を禁止し、民兵として戦うことを強要している。そしてそのための武器の提供を強く西側に要請している。国民皆兵を当然なこととしている。僕は彼の言動に、沖縄/サイパンの悲劇を連想してしまう。 では、本質的にことを知りたい・・彼が言うロシアと戦うべき「ウクライナ国民」とは誰か?僕はそのことそのものを問いたい。人口の1/3がロシア系であるウクライナで、彼が当然としている二元論的対立が成立するのか?すでに民兵の間でも西側の報道には載らない衝突が起きている。兵士がウクライナ語で叫ぶ「こいつは殺していいのか!?」という音声まで既

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#08/ニクソンドクトリン

    和平交渉は続けても、戦争は終わらなかった。 明らかにアメリカ内部に戦争が終わらないことを望む勢力があったのだ。 戦争で儲ける人々は厳然として存在する。そしてそんな人々は政府決定機関に隠然としたチカラを持っているのも事実だ。いまウクライナ戦争を煽っている輩(TV新聞を含め)も、それで膨大な利益を得ていることを忘れてはならない。 1969年1月20日、僅差でリチャード・ニクソンが大統領に就任した。同年7月25日に「ニクソン・ドクトリン」を発表。ベトナム戦争の縮小と終結を模索するが、彼のチャーチル式の交渉術は却って戦線を拡大する方向へ向いてしまった。特に中共からの軍事支援ハブになっていたカ

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#07/最初の全面戦争

    "ベトナムの京都"フエに、北ベトナム軍とベトコンの混合部隊が突入したのは1968年1月31日未明。2月24日まで25日間、古都は血に塗れた。これが北と南の最初の全面戦争だった。このとき、南の兵士たちはフエ市内に在住していたアメリカ人/ドイツ人/親米ベトナム人そして地方官吏/豪商らを血祭りにあげた。その数は300と言われるが実数は分からない。ひとつの町にいた外国人がそんなに少ないわけがない。しかしこの事件はその後追及されることはなかった。翌月3月16日にクアンガイ・ソンミ村での米兵による500人虐殺が大事件になったからだ。 北からのテト攻勢はアメリカ軍の物量戦で打破された。しかしそれは

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#06/古くて新しいゲリラ戦法

    アメリカ軍は対地上用戦闘部隊を派兵する前に、お約束の爆撃機からの集中投擲を始めた。1965年2月7日からである。先の大戦中に成立したアメリカの戦争の仕方である。これは日本でもドイツでもイタリアでも極めて効果的だった。・・しかし・・しかしだね。ベトナムは国土の大半はジャングルである。空爆による打撃は都市部にしか加えられない。たしかに都市部は灰塵と化したが、ジャングルに水田に投擲しても驚くのはカエルと猿ばかりである。ホーチミンひきいるベトナム民主共和国は、すぐさまソビエト連邦/中華人民共和国から軍事顧問の受け入れを行い。戦線の方法を替えた。 毛沢東の著書に「遊撃戦論」というものがある。 h

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#05/胡志明Hồ Chí Minh

    アメリカは二つの共産国家に次いで新しい共産国(小国)が台頭することを嫌った。 越南は、その名の通り古くから中華圏だった。気質的にも文化的にも華人のそれに近いと言い切ってよいと思う。越南は/ベトナムは、東南アジアというより華国文化圏内の東アジアだ。だからこそ越南ベトナムに、アメリカは中国を覆ったような親共産主義になり得る資質を見たのかもしれない。 胡志明Hồ Chí Minhという男がいた。ベトナム中部ゲアン省ナムダン県である。儒学者だった父の教えで幼少の頃から漢籍に馴染んだ。22歳になった彼はフランスへ渡った。そして共産主義に染まった。国際レーニン学校で筋金入りのボルシェビキに仕立て

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#04/お定まりの民族の自由と尊厳を守る戦いについて

    小国の内紛は、いつもすべて本質は同じだ。 一つの土地(国)を巡って、二つの拮抗する勢力が互いに覇権を目指して争う。そして拮抗する武力に圧倒的な差をつけるために、どちらかが大国と取引をする。それを知った対抗勢力がすぐさま、相手側が手を結んだ大国に対立する大国と手を結ぶ・・だ。先の大戦以降、その利用される大国は、共産大国と非共産大国になった。東西の代理戦争になった。 過去にもあった代理戦争との決定的な違いは、共産勢が、その出自からくる血のせいで、本質的にプロパガンダが得意なことだ。世論誘導に長けている。共産勢は常に、誰でもわかりやすい戦いの正邪を演出する。 傍証する。共産党が婦女子を巻き

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#03/千切られるような別れについて

    基地廻りのバンド家業は屋根アゴつきどころかPXが使い放題だったから、いきおい着るものは官制のものばかりになった。シャツもスボンもベルトも靴も何もかもそれになった。デニムもリーバイはあったけど、大体はUNICOR製だった。これって連邦刑務所で服役囚がMILスペックで作ってるやつ。格段に安くて格段に丈夫だった。しかし、上から下まで官制で、その上ワンショルダーのバッグを肩にかけてると、ウチのオフクロが見まちがえるほど、ウチのオヤジそのものだったようだ。 横田へ還ってきたときは、大抵いつもそんな恰好だった。帰りはいつも必ずマネージャーの三舟さんがゲートの外に車を停めて待っていてくれた。深夜でも

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#02/変貌したyokota

    僕が知っている横田は、すでに爆撃航空団の基地ではなくなっていた。F-105Dサンダーチーフ戦闘爆撃機の姿を横田で見ることはなかった。 サンダーチーフが縦横に飛び回る横田を知っているのは、僕のマネージャだった三舟さんの世代だ。その三舟さんがトンキン湾事件のことを屡々口にした。よほど痛烈な印象だったに違いない。 1964年8月2日にトンキン湾でアメリカの駆逐艦マドックスUSS Maddoxが北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けた事件のことだ。 「4日にはマドックスと僚艦だったC.ターナー・ジョイも魚雷をくらったんだ。基地は蜂の巣を叩いたような大騒ぎだったぜ。何日か後、KB-50空中給油機が何機も横

  • LAST FRIGHT OF SAIGON#01/兵士の値段

    1973年1月27日、キッシンジャーは(アメリカ合衆国の代表として)パリに、(北)ベトナム民主共和国/南ベトナム共和臨時革命政(南べトナム解放民族戦線のこと)/(南)ベトナム共和国(南ベトナム)を集合させた。そしてこの四者による会談によってアメリカ軍のベトナムからの撤収が決定された。これによって1968年から始まってきた「ベトナム戦争の和平会議」は一応の終結を迎えることになった。 同年3月、北爆停止声明を出すと同時にアメリカ軍の一斉撤収が始まった。 僕はそのnewsをオガンロポ/イーストタポーの南にあった米兵専門のクラブ「G'lden Boi」で聞いた。 オガンロポはスービック海軍基地

  • 甲州ワインの謎#08/東京と呼ばれていたユダヤ人街・開封

    ここでひとつ、気になることがあります。 『列王記』に書かれた新バビロニアのネブカド・ネザルのことです。BC586年です。 https://www.amazon.co.jp/%E5.../dp/4895862194/ref=sr_1_5... その『列王記下24:10-14』にこう書かれている。 「そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げ

  • 甲州ワインの謎#07/渡来人としての原始キリスト教徒

    甲州に葡萄を持ち込んだのは渡来人であろう。それも祭事に必須である原始キリスト教徒=ユダヤ人であろうという仮説を立てて話を進めています。 甲州種が、ヨーロッパ種75%中国原産種25%のハイブリッドであることにも触れました。これは極めて重要な伝搬ルートを探るキーワードです。つまり甲州種は日本原産の葡萄には接ぎ木されなかった。そのままの形で本土から持ち込まれ、そのままの形で植えられた。これはこの葡萄が祭事に使用される「聖なる葡萄」だったからでしょう。原始キリスト教徒=ユダヤ人は、この葡萄の血統を大事に守っていたのです。 では。いつ。ヨーロッパ種75%中国原産種25%のハイブリッドになったの

  • 4月から宝塚東京公演のオマージュをテーマにしています

    4月から宝塚東京公演のオマージュをテーマにしています

  • 甲州ワインの謎番外/秦の始皇帝

    秦氏のことを書こうとすると、やはり始皇帝のことが思い浮かんでしまいます。始皇帝というのは、中国史の中でも何とも奇天烈な人物です。 彼は紀元前259年、趙国に人質と出されていた子楚(荘襄王)が趙姫に産ませた子供です。史書は趙姫を趙の出身・豪族の娘と書きますが、本当のところはわかりません。趙姫は「趙出身の女性」という程度の意味ですから、正式な名前ではない。正式な名前は伝わっていません。趙は、現在の山西省と河北省のあたりで、中国では北のほうです。司馬遷は、彼女を淫乱姦婦と一刀両断にしています。謀略がお好きな方だったようです。元カレだった秦の丞相になっていく呂不韋との密通や、偽宦官だった嫪毐な

  • 甲州ワインの謎#06/渡来人秦氏について#02

    秦氏は他の渡来人に比して中央政府に入り込むという意思が弱い集団でした。もちろん参与し強く協力はした。しかし彼らは、それ以上に地方へ拡がり、地方豪族となることを望んだのです。 この、中央に巣食うより自律自尊を好む・・秦氏の気質に、僕は「此処は我が地に有らず仮宿也」と見做す思いを感じてしまいます。シルクロードの遥か西からやってきた彼らにとって、アジアは永住の地ではなかったのかもしれません。 ではなぜ、彼らは東の果てまで来たのか?その話は、あとに回しましょう。 さて。この秦氏ですが。彼らの際立った特徴は工人集団だったことです。機織・土木・冶金などの技術を技術を携えていた。 僕は魏志に登

  • 甲州ワインの謎#05/渡来人秦氏について

    ここで論を進めるために、渡来人である一族のひとつ、秦氏に注目します。 日本書紀 巻第十 応神天皇紀にこうある。 十四年春二月、百濟王貢縫衣工女、曰眞毛津、是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰「臣、領己國之人夫百廿縣而歸化。然因新羅人之拒、皆留加羅國。」爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅。然、經三年而襲津彥不來焉。 十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於

  • ご府外新古細工#12/練馬区の変遷#02

    江戸時代は武蔵国新座郡に属していた現練間周辺は、明治時代、地方三新法実施時に東京府北豊島郡に編入された。これが明治23年4月1日に実施された町村制により、6ヵ村に整合されている。以降、昭和7年10月1日に板橋区が出来るまで6ヵ村時代は44年間に続いた。 幕末に1万人前後だった住民は明治の後半になっても2万人前後までしか増えなかった。長閑な穏やかな農村地帯のままだった。 それが震災によって一変した。震災そのものは土地の農家にそれほどの被害は出さなかったが、市中で焼け出された人々が新天地を求めて、周辺農村へ移住したのである。同時に焼け落ちた工場類も新しい土地を求めて進出を試みるようになった

  • ご府外新古細工#11/練馬区の変遷#01

    明治の御代に入ると徳川家直轄だった武蔵国のうち豊島郡の一部。具体的には上練馬/下練馬/上土支田/下土支田/上石神井/下石神井/谷原/田中/中/中新井/関および竹下新田の12ヵ村は品川県に編入された。そして廃藩置県によって、これらは東京府北豊島郡になった。明治4年12月5日である。もちろん中身は変わらない。税徴収のための区分けが変わっただけだ。 明治5年10月10日に実施された大小区制によって、12ヵ村は第8区に回され、上練馬/下練馬/谷原/田中/中/中新井は第7区へ。上石神井/下石神井/関/竹下新田/上土支田/下土支田は第8小区へ編入された。こうした組み換えは、東京周辺郡部では儘行われ

  • 来るべき未来

    10年以内に通貨はリセットされます。 為替市場は雲散します。なくなる。 通貨のリセットとともに終わるのが産業革命型社会です。 労働者という概念が大きく変わります。ヒトを家畜として管理し、一斉に同じ方向へ向かっ駆り立てることが、最も効率よい社会運営/国家運営ではなくなる。 おそらく「国家」という概念も変質します。王の所有物だった領土が、貨幣と技術の進化によって「国家」というモノに代わって200年経ちましたが、その基盤そのものが変わるからです。 ヒトとヒトの間に電脳が挟まることで、そしてそれが分かちがたく一体化することで、ヒトは「幼年期」を終えます。 もちろん、19世紀産業革命に代わる新し

  • ご府外新古細工#10/プレタポルテな地方自治体制#02

    昭和18年7月1日、戦争遂行のために、東京市は東京都制に替わった。これにより東京都は内務省の直接管理になった。都の首長も公選ではなく、内務省が任命する官吏に替わった。こうした抜本的改革後も35区はそのまま都の下部組織として存続した。。 そして8月15日終戦である。「人民の人民による人民のための政治」を標榜する"解放軍"が、すべての政治的決断、すべての思想上の判断に"是正"の斧を振った。 このGHQによる日本の民主化・分権化政策を国民がどのように受け止めていたか「文京区史」から引用したい。 「アメリカ第八軍の横浜上陸開始によって、アメリカ軍を主体とする連合軍の占領体制が完備され、マッカ

  • ご府外新古細工#09/プレタポルテな地方自治体制#01

    敗戦国日本を統治すべく上陸した聯合軍は、アメリカ軍/イギリス軍/ソ連軍/フィリピン軍/中国軍/オーストラリア軍/カナダ軍/フランス軍/オランダ軍/ニュージーランド軍/インド軍によって構成されていた。その数は43万人。しかし大多数はアメリカ軍とイギリス軍だった。統治はイギリス軍が中国・四国地方を統治し、残る都道府県はアメリカ占領軍が統治した。その聯合国最高司令官Supreme Commander for the Allied Powersを務めたのがダグラス・マッカーサー。彼の許で東京に、連合国最高司令官総司令部General Headquarters/the Supreme Comma

  • ご府外新古細工#08/東京の誕生

    幕末、全国を覆った不作と飢饉は少なからず江戸周辺郡部にも大きな影響を与えたが、水田地と他作物の植え付け面積の比率が圧倒的に後者へ偏っていたために、被害はさほど深刻な状況にならなかった。 たしかに、江戸市中/周辺都市で、町民たちによる「米よこせ」の暴動は幾つか発生したが、郡部農家はその騒乱にはほとんど巻き込まれなかった。それは周辺農家が作る作物の多くが2毛作/3毛作あるいは4毛作可能なものだったこと、すぐ傍に江戸という巨大なマーケットをもっていたこと、そして貨幣による蓄財が可能だったからであろう。 そして、薩長革命軍による侵攻が始まる。 いとも簡単に政権を放り出した徳川慶喜だったが、

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